28年前のエドモントン その2

連日日中(緯度が高いから3時から夜10時ごろまで明るい)は調査に走り回り、夜は夜で延々と喧嘩腰の議論(皆過労と睡眠不足で気が立っている)が重なって雰囲気ギスギス・チームワーク良好ならず。これではいかん、休息も必要と、2交代で32時間ずつの息抜きを提案し、満場一致で可決。半数ずつ、日をずらし正午以降エドモントンを出発し、翌日20時までに帰って来て会議に参加せよ、という次第。

第1班5人は2台のレンタカーに分乗し、国道2号線を一路南へカルガリー目指す。特段に広い片側3車線のモーターウェイだが、中央の分離帯?の幅が100mぐらいあり、のんびり牛が草を食んでいる。カルガリーまで約250km、3時間程だが、一直線に半時間以上走っても、景色は殆ど変わらない。


速度は遅い貨物列車 機関車は総括制御で車掌も前頭機関車に乗っている

並行してカナダ国鉄の線路があるのに、タダでもらった50万1道路地図には記載がない。これは後年ヨーロッパでも同じ体験をした。幸いデイゼル機関車3重連の貨物列車とすれ違ったが、話には聞いていた列車の速度は遅い。貨車はタンカーばかりで、そう長くもなかったが、この時点ではまだコンテナーはまだ普及していなかった。現在なら長いコンテナー列車が走っていることだろう。

このときはかなり遅くバンフーに到着し、バンフー・スプリングスホテルに投宿。超有名だが、全木造の、ドラキュラかお化けが出ても不思議のない古い古い、ミシミシする大きな建物で、カナディアン・ロッキー観光客誘致のため、鉄道会社が開設したものである。扉も蹴破れそうな代物で、宿泊料だけが実に立派であった。

因みに予約は応援に来ていたシアトル駐在員が電話でしてくれたが、その際身分保障にクレジットカードの番号を要求され、唯一所持していた駐在員(彼は泊まらないが)の番号を申告してOK。この当時すでに米国圏では個人小切手からカードの時代になっていたわけで、日本は約20年遅れている。

バンフーの町で遅い夕食をとったが、同行者1名の「たっての希望」で日本人経営レストランへ。ところがメニュー記載価格が日本語と英語とでかなりの格差があるではないか。日本人は値段に頓着なく、涙を流して日本食を食うからだというが、経営者の根性が心底情けない。

時間を惜しみ、高い宿泊料は勿体無いが早朝から出立し、睡眠不足のままカナディアン・ロッキーの早駆けツアーに。ジャスパーを経て、何とか全走行350km以上、刻限までにエドモントンの安ホテルに戻った。生れて初めて氷河も実体験したが、現実はそう綺麗な「富士の白雪」でもなく、案外汚れているものと得心した。これははるか後年見た北欧でも同じだった。


巨大な職用車(だろう) こんなサイドキューポラーで何ほどの視野が確保できるのか

エドモントン駅構内


これも巨大で重い手荷物車 魚腹台枠で恐らく床にはコンクリートが敷いてあるはず

そのほか寸暇を盗んで、本来用事のないエドモントン駅も秘かにひと覗き。巨大な客車が僅かにいた。3軸台車が放り出してあり、ギヤボックスがついている。気動車の駆動軸(古い3軸ボギー客車にエンジンを搭載した例がある)にしてはやたら脆弱だと思ったが、これは車軸発電機だった。サンパチ豪雪の際、ベルト駆動の車軸発電機が凍結して充電できず、バッテリーが消耗して電気が消えた経験があるが、やはり豪雪地帯では、それなりの設備がなされていることを痛感する。


手前に伸びる軸は車軸発電機用

話は前後する(要は小生の興味の順である)が、エドモントン市ではEdomonton Transit と称する、2車体3台車の高床式トラムが一部開通したばかりで、メイン競技場へのアクセスであり、バス同様関係者はIDカードがあれば無料で乗れる。北国だから冷房はなく窓は嵌め殺し、上部のみ内側に少し開く。これを3編成つないで運行していたが、大会が終われば恐らく2両か4両になるのだろう。




2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part5  河南省建材廠を走るC2型 その4

撮影機材はNIKON300Sを使用しています。オプションのGPSを装着していますので、撮影場所をGoogleマップで見ることが出来ますが、今まで投稿原稿にリンクする方法が分かりませんでした。我が家のパソコン先生が帰宅しましたので頼み込んで教えてもらいました。今回よりリンクさせていただきますので、(場所地図はこちらをクリックしてください。ご覧いただけます。緑の矢印が撮影場所です。

第4日目 5月21日
今日は頼りになるゲストをお迎えします。地元で働いておられる鄭州鉄道日記さんです。彼とは昨年芭石鉄道の帰りの郑州から乗車した广州行きの夜行寝台列車で、同じコンパーメントで一緒になるという中々ない出会いで知り会って以降、中国鉄路についての現地情報を教えてもらっています。前もってご連絡を入れておきましたら、土日曜日なら仕事はお休みなので行きますとのお返事をいただきました。

来られるのは昼頃なので、まず列車が今日は走るのかの確認をするため車庫に向かいました。(場所地図はこちら

しかし、残念ながら車庫はシーンと静まりかえっていて、2台ともおいてありました。
仕方がないので近くの中国鉄路榮陽駅に行ってみる事にしました。車庫前の人民に聞きますと、真っ直ぐ行って線路手前を右に行くと分かるです。真っ直ぐ歩くと鉄路と立体交差していましたので、地上部分を進み撮影できる場所を捜しました。
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阪堺電車撮影会開催!

6月12日DRFC-OB クローバー会では、阪堺電車(阪堺電気軌道株式会社)の撮影会を開催いたしました。
当初参加者は3名のみで少し寂しいかなと思っていましたが、当日になって3名が飛び入り参加され、また丁度「第13回電車祭り」も開催されていまして、賑やかな撮影会となりました。


鉄ちゃんよりも親子連れが多く、いかにも大阪下町の庶民に根付いた路面電車です。

雨が降り出しましたので、浜寺公園駅まで乗車、沿線3ヶ所で撮影を楽しんだ後は皆そろっての懇親会を開催しました。
次回は、利用客が減ってきている「北タンゴ鉄道を応援する」撮影会を開催いたします。時期は、紅葉の秋を考えておりますので、今回参加されなかった皆様方も振るってのご参加をよろしくお願い申し上げます。

後ほど、デジタル青信号の表紙を飾っていただいております893-2さんから、飛びきりのお写真をご披露していただけるそうですのでお楽しみに!

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part4 河南省建材廠を走るC2型 その3

総本家様、朝方まですごい雨でしたがあかってきて青空が見え出しました。絶好の撮影日和となるといいですね。皆様方も雨上がりの路面電車撮影に飛び込みご参加してはいかがですか。6月12日(日)13時、 阪堺線恵美須町駅に集合(地下鉄堺筋線恵美須町下車4番出口すぐ)にてお待ちしております。途中参加も歓迎します!

第3日目 5月20日
ホテルの近くに食堂はあっても朝食時は営業していません。仕方がないので3人とも1F売店でカップラーメンを毎朝用意してもらうことにしました。
昨夜の打ち合わせで撮影場所は各自で決めることにしました。朝食後はそれぞれの望む撮影地へ、F先生とO氏は車庫方面に向かわれました。一方私はレンガ橋で昨日撮りそこねた上り列車を撮ることです。
ところが始発列車が出発する8時以降に汽笛が何回か聞こえたのですが、その後待てどくらせどやってきません。どうなったのだろうと心配しますが、確かめようがなく、じっと待つしか方法はありませんでした。
やきもきしているとお2人が戻ってこられました。昨日の最終列車は私の視界から遠ざかった後にトロッコ1台が脱線したそうです。その日は切り離してそのままに、残った前方の編成を牽引して荷降ろし場に向かって運転終了。今日朝はこの残されたトロッコを線路上に戻す作業をして車庫へ回送していたので、手間取ったと聞かされました。この作業を見てみたかったです。

▲ 8:55、ようやく上り列車が来ましたが、期待していた煙はほんの少し、池もさざなみがたって水鏡になりません。夕方の上りに期待して先に積出場に向かわれたF先生の後を追いました。ロケハンと、昨日新幹線とナローゲージを一緒に撮ろうと約束した張ご夫妻とお会いするためでもありました。 続きを読む

お待たせしました!秋保電鉄

一ヶ月あまりパソコンが使えない環境へ出張していました。この間のシリーズを順次掲載します。

帰ってきて投稿欄を見たら長老様方が寂しそうに海外型の話などで無聊を紛らわせておられるのを見て思わず落とすひとしずく!

秋保電鉄に関しては、昔ピクトリアルに廃止した車両をトレーラーに乗せて運んでいる写真が出ていたのを覚えております。

それでは須磨の大老様、乙訓の長老様、よろしくお願いいたします。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part3  河南省建材廠を走るC2型 その2

第2日目 5月19日 続編
中国人老夫妻に呼び止められたおかげで、橋で来ない列車を待つという無駄な時間を過ごす事は回避できました。しかし車庫でC2型蒸気機関車を撮りだしますと、撮った画像を見てアングルが悪い、もっとこういう位置で撮りなさいとご自分のショットを見せながらの指導を受けました。

▲ ご指導を受けて撮りましたC2型の正面写真。207号機は前照灯が良いですね。芭石鉄道は今年からシールドビームに替わってしまいましたし、ここにあるもう1台のC2型機は2灯になっていますので、正面から撮るにはこちらです。
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旅は道連れ世はクルマ

 若い頃は一人旅がほとんどで、須磨の大人と淡路島に渡った事など稀有の事だった。社会人となり、DRFC仲間と「鉄旅行」をする機会があった。1977年1月に津軽鉄道、南部縦貫鉄道を訪ねた時は斜陽館に泊り、ストーブ列車運休の腹いせは芦野公園での雪合戦となった。こうした旅は「鉄」が欠けても後世に語り継がれるものとなっている。

今回の主役は「ぶんしゅう」氏で、老人は突然「先日の企画乗った」と言って、道連れにして欲しいと頼んだ。あつかましくも3ケ所に行きたいと注文をつけた。①琴電仏生山車庫の「松下さん」に一枚の写真を届けたい。②高架駅となった高知駅が見たい。③善通寺の姉夫婦と会いたい。いずれも1954年8月(高1)の一人旅に関係することであり、そして琴電、琴参、土電、伊予鉄の車庫めぐりが始まった。伊予鉄は先に須磨の大人の写真で車両説明をしたので、今後触れない。残る3線、琴参は富山勤務時代の1963(三八豪雪)年9月15日が最終日となった。その翌年秋に高知出張のおり早朝に善通寺で下車し車庫へ赴き、留置車1両毎に別れを告げた。この話は「関西の鉄道」で紹介したが、いずれ琴参の思い出話は書き残しておこうと思う。

さて今回の注文①だが、2005年秋に高知へ行った帰途に仏生山車庫に立ち寄った。検車庫(西側)内に120号車が整備を終え留置されていた。最初の四国行は京都21時発、夜行普通列車四国連絡宇野行きで早朝高松駅に到着した。仮駅であった高松桟橋駅で車庫の所在駅を聞き出し、ひとまず瓦町駅待合室で仮眠をしている。目覚めて構内で志度線、長尾線、留置線で車両撮影の後、仏生山車庫に行った。車庫長さんに車両のあらましを聞き、最初に撮ったのが120号。陽は西に回り足回りもバッチリで、老人お気に入りの1景である。この時の話を「松下さん」にしたところ、くしくも検車庫内にあった120号を庫外に、それも撮影した位置に異動してもらった。そのお礼に半世紀前の姿をプリントして持って来ると約束をした。2007年GWに行く筈が果せず、晩秋に体調不良となり一人旅にドクターストップがかかった。それが今回、ぶんしゅう氏に道連れとしていただき実現したのである。また松下さんから120号が動態保存対象車になっている事も伺っていた。

次いで②、TMS38号を今も所持している方、池田さんの四国めぐりの稿をご一読いただきたい。四国山脈越えの土讃線では蒸気機関車のトンネル内煙害防止のため後押し運転しており、そのため先頭車となるオハフ61はタイフォンを装備している、との話が出てくる。老人はこれに興味をもち、善通寺から早朝1番列車で高知に向った。途中C58が後部に回ることなしで高知着となり、機関士に質問してみた。「前年、土佐山田→新改間でやっていたが、重油併焼装置をつけることで中止になった。」との答が返ってきた。何度も降り立った高知駅が高架化されると聞き、「土電(とでんではなくとさでんと発音する)の乗降場を引き入れエスカレーターでホームと直結する。」との情報がもたらされた。ホンマかいな?と思っていたら、憶測によるものだと土電の方に知らされた。でも2005年は未だ躯体工事中の真っ盛りで全体像が掴めなかった。それを今回、土電乗降場と天井の高いコンコースを見届けて高知駅見学は終わった。1954年8月の駅前には都電スタイルの205号(蛍橋行)が停車していた。後部に控えている7型は蛍橋行の後を追い桟橋行となる。

そして③、琴参54号は1927年製の路面電車スタイルだが、床高1,000粍の高床車である。扉を開けると3段ステップで客室床面となる。車輪径は858粍、50馬力×2、自重17.5屯。路面区間はシリーズ運転。郊外に出て専用軌道になるとパラレル運転となり、轟音と共に疾走していた。

今回ぶんしゅう氏は、おしゃべりを道連れにしてへきへきしていたに違いない。その昔、老人を道連れにした旦那は「何でも良いから喋ってくれ、横で居眠りされたら今畜生!となる。」と言っていた。世はクルマ時代、有料高速道路1,000円の恩恵に浴し、燃料費込みで5日間1人当たり11,281円の交通費となった。これではクルマ族は鉄道離れして、利用者が減少する筈だ。

①-1 これが老人お気に入りの1景なり

①-1 これが老人お気に入りの1景なり

①-2 3000型は台車以外に窓上R無し迚・?1000型と異なる
①-2 3000型は台車以外に窓上R無し等が1000型と異なる
①-3 角型5000型の貫通扉は扇風機代用になる片引扉
①-3 角型5000型の貫通扉は扇風機代用になる片引扉
①-4 閑散期の急行は500号1両
①-4 閑散期の急行は500号1両
②都電そっくりの土電が高知駅前に
②都電そっくりの土電が高知駅前に
③四国螯・?の南側の街路を走る50型
③四国学院の南側の街路を走る50型

28年前のエドモントン



Baldwin1919年製107号  1C1 元Oakdale & Gulf R.R.

先般クアラルンプール(マレーシア)の、それも37年も前の写真を並べ立て、多分に諸兄の顰蹙を買ったばかりだが、それに懲りずめげず、今度は28年前のエドモントンでの写真を無理やりご覧頂く。エドモントンと聞いてすぐ位置が分る人は少なかろう。カナダには10の州と3の準州があり、総人口は3,300万人程度。

ところがアルバータ州には108万人のカルガリー、104万人のエドモントンの2大都市がある。前者はカナディアン・ロッキー観光=バンフーへの入り口やスキー等で世界的に著名だが、州都はその約300km北のエドモントンで、日本領事館もある。後年ウエスト・エドモントンなる、世界最大のショッピング・モールが出現したが、観光地とはいえない。ただしカナダ北限の大都市ではある。

時は1983年6月、カナダでは最高の季節(のはず)だったが、少し寒い日もあり、若者が上半身裸で走り回ったり、日光浴の一方、結構ぶ厚い防寒衣の老人や、中には毛皮を着た婆さまもいた。広大な町を斜めにノース・サスカチワン河が蛇行しながら横切り、その部分は深い峡谷状を呈し、両岸は超高級住宅地で、日本領事公邸もそこにあった。

小生ともう1人が先遣隊で半月早く現地入りし、ホテルや車、日本人居住者のボランティア通訳を確保。後から来る本隊=2年後神戸で開催するユニバーシアード神戸大会のための、エドモントン大会調査団(事務局及び各競技団体役員)の受け入れと運営に当った。

その間ほぼ睡眠も3~5時間程度。若かったから何とか保ったが、安ホテルに1か月滞在しながら、町の見物をする暇すらなかった。それでも3時間ほど寸暇を盗み、当時開園間もないフォート・エドモントン・パークにだけは行くことができた。

ノース・サスカチワン河に面した広大な地に、1846、1885、1905、1920年の開拓砦や町並みを復元した、素朴で健全、結構見ごたえのあるテーマ・パークで、エンドレスの線路を敷き、本物の蒸気機関車や馬車が園内の交通を担っている。確か当時は週末だけだったかと記憶するが、現在は夏場が毎日、冬場は週末のみ開園のはず。売店の売り子に至るまで、ことごとくボランティアだと聞いたが、皆それなりの時代にふさわしい衣装であったのも印象深い。


入園するとすぐ蒸機列車に乗り園内に向かう 乗車は入園料に含まれる

キャブ略号はEdomonton Yukon & Pacific 蒸機に限らずすべてボランティアによる運営


右の代用客車は無蓋車の改造らしい


手前の建物代わりのカブースは旧カナダ国鉄

コンビネーションコーチは1913年 デイコーチは1914年製

園内交通の駅馬車や荷馬車も無料で乗れる

公園全体がまだまだ建設途上だったが、驚いたことにトラムラインが敷設中で、架線も一部張られていた。その後Edomonton Radial Ry. の路面電車が数両復元されて走行していると聞く。現在では公園外でも、ノース・サスカチワン河にかかる高い鉄橋を含めた線路に世界中から大量のトラムが集められて動態保存。阪堺電車も健在のはずで、このあたりは電車屋さんの解説が欲しい。

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part2  河南省建材廠を走るC2型 その1

第2日目 5月19日
昨夜はK179次の快適な乗り心地で熟睡できました。 北京から689キロ、所要時間8時間28分、表定速度81.4km/hで走り、7;06郑州駅に定時に到着しました。この区間をよく乗られる郑州鉄道日記さんによると、この区間は勾配やカーブが少なく路盤もよく整備されていているので、中国鉄路では最も乗り心地が良いそうです。
▲ 朝の郑州站1番ホームに到着。どっと乗客が降りますが、大きなズタ袋を持った出稼ぎ民工はいなく、落ち着いた光景でした。

郑州站に降り立つのは、2度目です。前回は、芭石鉄道へ行った帰りにでした。予約していたホテルの場所が分からずTaxiで向かう事にしましたが、並んでもTaxiが来ないので仕方なく白タクと交渉した苦い経験があります。今日はたくさんのTaxiが来ていますが、乗る前に白タク運転手に捕まりましたので、料金を聞くと200元の返答、交渉をすると140元まで下がりました。目的地まで30キロはあるとの事でしたので、そんなもんかとこれで手を打ちました。
走ること30分余りでO氏一行との合流場所の伊鴻賓館に着きました。Taxi運転手に伊鴻賓館の電話番号を伝えて向かいましたが迷うこともなく意外と近かったです。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part1 旅立ち

【旅立ちはいつも直前決定】
ご老公様との四国路の旅を終えて帰宅しますと、3月に芭石鉄道でお会いした早稲田大学鉄道研究会OBのO氏からお誘いメールが届いていました。以前から行って見たいと思っていたC2号機が走る樺南と榮陽市の河南省建材廠、そして上遊型が走る炭鉱専用鉄道の平庄と阜新へのSL撮影旅行でした。しかも写真家F先生との同行と聞いては・・・、絶好の写真上達のチャンスです。

O氏一行は既に新潟~哈尔滨の航空券を 購入済みで、出発も5月18日と確定しておられます。しかし、クローバー会の郵送物作成と郵送を完了しないと出発は許されません。どうしたらいいのかと迷っている内に時間が過ぎていきます。14日にOさんから樺南は運行に支障があって走行確認が取れないので諦め他の路線を回ろうと日程表が送られてきました。
取りあえず航空券確保が必要ですが、搭乗日や航路変更が出来ないガチガチ格安航空券は買えません。JALのマイレージの特典航空券を用意しようとしましたが、予約を入れられるのは搭乗の7日前です。15日に22日発の伊丹から成田圣由の北京行きを予約しました。後は作業完了出来次第にどこかで合流できればと全力投入です。最後は事務局のF君を自宅に招いて共同作業で16日に作業を終えました。

作業完了の目処が出来た時点で、搭乗予約済みの22日から18日への変更をJALに申し出ますが、あいにく18日は満席で予約待ちです。こんな時にグローバル会員の特権が生かせます。他の予約待ち客をゴボー抜きして予約1番に立ち、郵便局に出しに行く夕刻には「お席が用意できました。」との連絡を受けました。
すぐにO氏に連絡して参加を伝え、合流場所は18日榮陽市の河南省建材廠で宿泊予定の伊鴻賓館としました。田舎の民宿に毛の生えたようなホテルですので、勿論予約なしでの飛込みです。

翌日は、いつにも増しての旅準備です。前回は荷物が20㎏と重すぎて準特急先輩に多大なご迷惑をおかけしました。今回はビデオカメラ、三脚等の重量物は入れず、衣類も最小対応としました。結果、10㎏と軽量化に成功しました。

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建設型蒸気機関車、RZ24・RW24型客車 上海、中国鉄道発祥地に静態保存展示される!

5月18日から6月1日まで、14泊15日にて中国蒸気を訪ねて撮影旅行を楽しんできました、まだ旅行記を編集中ですので、その中で早くお伝えしたいホットなニュースをもう1つ投稿させていただきます。

このほど展示公開されます建設型蒸気機関車、RZ24・RW24型客車を先乗りで見て参りました。


▲ 江灣站を復元した構内に展示された建設型と旧車両2両。展示されてから間もないので、塗り立てでピカピカです。入口前には淞滬鉄路について何やら書いてありました。

第15日目 6月1日
この日は、最終日でした。地下鉄3号線江湾鎮駅近くに建設型が展示されていることを聞き、搭乗する前の帰りがけの駄賃に見に行ってみることにしました。下車後展示場所が不明でしたので、駅員に聞いてみましたが誰も知りません。駅前売店の店員に聞いても知りません。困ったなと思っていると、親切な店員は駅前に止まっている客待ちのバイクタクー運転手達を捕まえて聞いてくれています。そして、その中の一人が、地下鉄路線に平行して残っている廃線跡に沿って走って捜してみようと言ってくれました。
バイクにスーツケースとリックを積んで後部シートに乗って走り出しました。左右どちらに行くかカケでしたが、来る途中の3号線大柏樹駅近くで見つかりました。しかし、喜んで入場しようとすると、入口にいた3人の係員から制止させられました。外からは丸見えでも、まだ未公開だったのです。

引退したとはいえ現役中の仕事は広告代理店の営業マンです。仕事は断られてからが始まりで、この程度ではめげません。「私の趣味は鉄道写真を撮ることです。すばらしい蒸気機関車が展示されているのを聞き、日本から見に来ました。入場をさせてください。」と、手をあわせてにっこり笑顔で嘆願しますと、「わざわざ日本から来たのか!それなら仕方ない。」と許可が出ました。

▲ 展示場内には、いくつものモニュメントが設置されていました。

▲ 展示されている蒸気機関車は1988年大同機車廠製造の建設型8260号機。建設型は1957年から総数1558台が製造されましたが、この8260号機はその中でも一旦製造中止され、1980~1988年に改良されて423台製造された「建設B型」で、製造最終年の比較的新しい機関車です。
2両の客車は、1980年代に372両が輸入された東ドイツDWA社製。密閉式固定窓ですが、冷房電源は車軸ベルト式発電機から取っていて、停車中は冷房が効かなかったとか、真夏の長い停車はサウナだったでしょうね。

【中国で初めての鉄道】
中国で、初めて鉄路が開業されたのは、上海でした。上海~呉松間14.5キロ、762mmナローゲージ、1876年12月1日全線開通しましたが、西方列強による不当な建設だった為に、1877年10月清政府により、廃線させられました。

その後、この鉄路の旧路線3分の1を利用して、淞沪鉄路が、上海~炮台湾間16.09キロ、1898年8月5日に開業しました。この鉄路跡は、1997年4月に開通した上海地鉄明珠線(3号線)として今も利用されています。


▲ 左;呉淞鉄路、 右;淞沪鉄路

ユースで巡った鉄道旅 -10-

久しぶりの本シリーズ、九州を切り上げ、つぎは中国地方へ行くこととしましょう。
中国地方の中でも、山陰西部は、関西から近いものの、なかなか行きにくいところです。本掲示板でもこの地方の報告は見たことがありません。陰陽連絡線が恐ろしく不便になったことも原因なのでしょうか。
40年前は、山陽本線には夜行が多く走り、山陰へのアクセスも、どの線区からでも容易に入ることができました。いまや不便極まりない木次線にも、広島から夜行急行が走っていたとは、現状と照らすと信じられないことです。
ユースの立地条件から見ると著名な観光地が少なかった故か、ユース自体が少なく、泊まったと言えば、大社と浜田だけでした。今回の浜田ユースは、商人宿のような古びた建物を改装した典型的な民営ユースでした。浜田駅から歩いて数分、市内を流れる川に沿ったところにありました。9月の残暑厳しい時で、部屋に西日がガンガン入り込んだのだけをなぜか覚えています。今は閉鎖されたようで、検索しても、この名は出てきませんでした。

ユースへ向かう前に、浜田機関区に立ち寄る。夕陽を受けたC57の前面と、煉瓦庫が鈍く輝く。浜田機関区には、最後のC54がいたことで有名だった。私は京都駅でC54を目撃したことはあるが、写すことはできなかった。製造わずか17両、福知山から浜田へ流れ、山陰を根城にした目立たないカマだったが、独特のスタイルは好ましかった。C51の後継機にもかかわらず、C51よりも早く昭和38年に全廃されている。それは、遠方へ撮影に行ける環境の整った、わずか3、4年前のことで、今なら瞬きするような時間差だが、その当時は、取り返しのつかない遥か昔の出来事のように感じた。

浜田に泊まった目的は、三江北線のC56の牽く貨物を撮ること。当時、三江線として全通しておらず、三江北線は浜原までだった。貨物は早朝に浜原へ向かい、小憩ののち、浜田へ戻るダイヤ。一番列車で終点の浜原に着いたものの、転車台もなく、期待のC56はワフ1両とともに、尻を向けて、静かに息をしているだけだった。

終点の手前、浜原~粕淵間で、三江北線は江の川を渡る。河原へ降りて、その頃でも数の少ないDC列車を写す。キハ25+キハ25+キハユニ26という、当時のローカル線の典型的な編成だった。訪れた年の翌年、昭和47年に三江北線は集中豪雨に見舞われ、この橋脚も崩壊してしまい、以後2年余り不通のままの状態が続いた。

目を山陰本線の西部(米子以西)に転じると、特急列車は「まつかぜ」「やくも」、急行は東京からの「出雲」など、数多くの優等列車が運転され、今では死語のような”亜幹線”がピッタリする線区だった。キハ82は全国区の特急用車両であり、人によって思い出は様々だろうが、私にとってキハ82と言えば、まず「まつかぜ」だ。デビュー間もない時期に、家族で鳥取へ旅行した時に「まつかぜ」に乗ったことがある。暗く陰鬱な山陰に舞い降りた、それは華々しい特急だと子供心にも感じたものだ。

一方、普通列車は、大まかに言って、米子~浜田はC57、浜田以西はD51だった。C57は集煙装置付きが多く、見栄えの点ではもうひとつだが、時として、このように重連も設定されていた。米子~浜田は、海岸沿いを走る区間はあるものの、なかなか撮影に適したところが少なく、これは地上時代の出雲市駅での撮影。手前の架線は一畑電鉄のもの。米子付近の普通列車には、荷物車代用のワキが連結されていたのが、大きな特色だった。この写真でも、C57の次位にワキが見える。

いっぽう、浜田以西になると、旅客はD51牽引が多くなるものの、海沿いの撮影適地が多くなる。撮影地ガイトも無い時代、五万分の一地図を見ながら車内からロケハンしたものだ。これは、朝の三見~飯井間を行くD51の牽く貨物列車。この区間で朝から撮ろうと思っても、浜田のユース泊では時間が掛かる。そこで利用したのが、米子~博多間の夜行急行「さんべ」、北九州と山陰という、それほど需要がありそうにも無い区間にも夜行が設定されていた。山陰均一周遊券の場合、自由周遊地域への入り込みは、山陰本線幡生経由も認められていたから好都合だった。

中国版新幹線の最新情報

お読みになられた方も多いかと思いますが、今日朝の朝日新聞に「最速鉄道 中国ブレーキ」の掲載がありました。これはすでに4月21日にデジ青に掲載させていただいた中国版新幹線のスピードダウンとVIP個室(コンパーメントの誤り記事)取りやめについてですが、大朝日新聞がこれほど遅いニュースを取り上げたのか不思議でなりません。

北京南~上海虹橋間を結ぶ1,318キロの京滬高速鉄道についての最新情報は、

①開業日は、更迭なった劉鉄道大臣が昨年12月に発表した6月中旬予定が、南京南駅工事遅延のため未発表状態になっています。

②しかし、7月1日に時刻大改正があるため 中国鉄道局としては何としても6月末での開業に持ちこみたいようです。

③豪華で高額運賃(1500元=約18,750円)が予想されているVIP車はコンパーメントを外して、フルフラットシートはそのままに1+2列で配置され運用になるようです。既に現地情報があります。また実際に見てきました。

④運用される車両は、16両編成のCRH380AとCRH380BLの2種です。最高速度300km/hで、約5時間で結ばれる予定です。

最速350km/h高速鉄道について、北京南~天津間の京津城際鉄道と杭州~上海虹桥間の滬杭高速鉄道は、そのまま高速走行を継続する予定です。

▲ 6月1日、上海虹桥駅で発車を待つCRH380BL。既に滬杭高速鉄道で運用についています。但しVIPフルフラットシート車(商務車)は、カーテンを下ろしたままで乗客を乗せていません。左上は、運転席真後ろにある展望車。5席のみの鉄ちゃん専用席です。開業時は両方とも是非に乗車したいものです。

また6月1日より切符を購入する際は、飛行機と同様に人民は身分証明書、 外国人はパスポートが必要となりました。これにより外国人は切符自動販売機では購入できず、窓口に並ばなければならなくなっています。
これは、横行するダフ屋撲滅を目的にしておりますが、反政府分子の鉄路乗車移動を規制する目的にもなっているといわれています。

じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part6  馬路から別子へ 別子鉱山鉄道

Part5を投稿してより1ケ月近く経過してしまいました。Part6の下書きは用意していましたが、クローバー会の皆様へのお知らせ郵送があって、こちらに全力を向けました。
ようやく16日に作業が終わりましたので、3月に芭石鉄道で出会った早稲田大学鉄道研究会OBのO氏よりお誘いがあった中国地方線に現役で残るSL撮影旅行に出かけることにしました。
いつもでしたら中国からでも投稿していましたが、今回は愛用ノートパソコンが直前に物理的に壊されて持っていけません。(たまたま床に置いてあったのを掃除人に踏んづけられて、液晶画面がバリッと割れました。)
そんな訳で、こんなに遅れてしまいました。ご老公様、申しわけありません。続編を投稿させていただきます。

第3日目 5月6日 馬路→高知駅→善通寺
魚梁瀬森林鉄道は現地に来て、生い立ちから廃止への歴史を学びました。馬路からの帰路は、対岸に見た1・2号トンネルを真近に見るために途中から一般道を離れ、廃線跡を奈半利まで向かいました。今では狭いながらも農道に使用されています。


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CRH380Aに乗って、中国版新幹線の旅 募集!

上海~北京間の中国新幹線開業がもうすぐですが、期待された380km/h走行が300km/hに抑えられました。そこで、現在350km/hオーバーで走行しています上海~杭州間の新幹線乗車を体験するツアーを企画しました。

①予定日;6月13日~19日、または19日~22日の間、3泊4日予定です。
②訪問地;上海鉄道博物館、中国鉄路発祥路線に展示している建設型見学、上海~杭州・南京の乗車。上海の路面電車乗車。
③費用;旅行社のフリープランツアーを利用します。全費用は、約8万円前後の見込みですが、安く出来るように努力します。

既に参加者は、OB3名となっています。この機会に中国の新幹線に乗車体験を希望されます方は、コメントに応募してください。追って、ご連絡をさせていただきます。

KTM原寸大画像です。

米手作市様

湯口様のマレー鉄道レトロ版を拝見・感動し
頑張って原寸大画像探しに励みました。

37年前のマレーシア鉄道


ムーア風のクアラルンプール中央駅


改札口と言いたいがフリーパス 左のトルコ帽は駅員らしい

RG50氏のマレーシア便り。余命を勘定しだした老人も、最初の海外体験でマレーシアに出張したことがある。指折り数えると、37年前だった。老人がまだ30代後半の元気な時である。仕事はクアラルンプールで開催される見本市へのアテンドと、その2年後事務局の当番が回ってくるので、その会場の選択―具体的には開催地をクアラルンプールにするか、シンガポールにするかの見極めであった。

約1か月の出張だったが、その内往路に台北、バンコック、途中にシンガポール、帰路に香港と、各2泊づつしたので、クアラルンプールには25泊ぐらいした。それも2週間の入国許可しか得られなかったので、途中一旦シンガポールに出国し、マレーシアに再入国(そんなこともあろうかと、ダブルビザを取得していた)。その間ブキット・ビンタン通りのフェデラルホテルに連泊した。

本来の見本市は夕刻から夜遅くまで開催だから、昼間はかなり余裕があるのだが、京阪神と堺の4市グループでの参加(総合事務局はジェトロ)なので、そう勝手な行動もできない。それでもクアラルンプール駅には行った。ムーア風の建物が特色だが、列車は少なく、蒸機は勿論全廃。日本製のステンレス車体気動車が幅を利かしていた。


待合室には蒸機煙突利用の灰皿が

待合室に妙な灰皿が何本もあり、これが蒸機の煙突を再利用したものだった。

シンガポールからマレーシア、タイにつながる鉄道(ミャンマーもだが)はメーターゲージで、連結器はドロップフック式だが、ディーゼルカーは自連である。


ステンレス車体のディーゼルカー




これは客車である インド(行ったことはないが)と同様幕板が広いのは熱さ対策



貨物列車の本数は少ない バックはかつて錫を露天掘りしていた跡

保存蒸機 連結器は英国植民地に多いドロップフック式

それから何十年か。我が家の実力者(ヨメ様)と、キャメロンハイランドからの帰路、クアラルンプールに立ち寄ったことがある。話には聞いていており、シンガポールも然りだが、この都市の発展は凄いもので、超高層ビルやらタワーやら。新交通顔負けの高架トラムやら。老人が過ごした1974年との落差は凄い。ビンタン通りにフェデラルホテルを探したら、高層ホテルの谷間にあるにはあった。かつて屋上に回転レストランがあった―その付近でズバ抜けて高い建物だったのだが。

かつてのクアラルンプール中央駅は放棄され、廃墟と化して、近くに新駅が出来ていた。中心街の広大な芝生広場はそのままだったが、地下がやはり広大な駐車場とレストランが。世の中は三日見ぬ間の桜かな。上海(も行ったことがないが)はもっとすごいんだろうな。

米手作市氏にしがみつく

5年前の今頃、姪の結婚式が成田であり、そのついでに銚子電鉄に47年ぶりに立ち寄り、濡れせんべいを乙訓へ送る手配をしたこと、投稿した。その折に銚電・笠上黒生駅上りホーム側線でデハ101号見つけたと記したように思う。その時の姿を今回紹介しよう。この101号についてはDRFC時代から関心を抱いていた。奧野利夫師匠に特異な構造した台車をつけている電車だ、と聞かされていた。同型台車が花巻電鉄にあることも奧野師匠に教えられた。その花巻電鉄を訪れたのは1959年9月20日と当時の手帳には記されてある。

この日、老人は盛岡から夜行で石越着、栗原電鉄・若柳町にある車庫へ出向き在籍車両調査をさせてもらった。その後、石越を12時20分発117レ青森行普通で花巻に14時49分着であった。到着するや線路をまたいで花巻電鉄の線路にまっしぐら、15時7分発鉛温泉行をとらえるためであった。馬面電車と思いきや、不細工な芋電車(鉄デハ2+サハ3)が出てきたのにはがっかりであった。でも台車は特異な構造のものであることが確認出来て満足であった。こうなれば乗りたい。

車庫で在籍車両など教えてもらい、次の16時発は馬面電車(軌デハ4)単行で、志度平温泉までとのことだったが、委細かまわず乗ることにした。車体幅1,600ミリは車内幅となると1400ミリ程度しかない。座席の奥行きは300ミリ程度だったが、それでも車掌はキップを売りに来た。乗り心地は押して知るべしゴツゴツしたものであった。なぜなら揺れ枕バネがない。これが特異な構造、揺れ枕ナシのボギー台車なのだ。だがその台車を丸裸では見たことがない。それが笠上黒生駅の側線にあるボロボロ姿の101号に装着されていたのだ。

木立の蔭に隠れるように留置されているデハ101号。時が時なら、国が国ならスクラップとなりその生涯を終えていたかもしれないが、この国では朝鮮事変後のように「テーツ、買いまっせぇー」と、自転車でリヤカー引いた鉢巻姿のオッサンは今では現れない。なんとしても台車枠内に首を突っ込んで揺れ枕の有無を、姿を、無いならその代わりになるものを確かめたい。だが諦めた。蜂の巣が台枠にあるのに気付いたからである。家蜂がいる。結婚式に顔を腫らしていくわけに行かない。仕方なく離れて撮るよりしかたが無い。そこで撮れたのが今回の1枚。以来、特異な構造のボギー台車、花巻で乗ることは出来たが肝心な箇所を見ることなく「お迎えの来る日」を待つばかりかと思いきや、哲男さんのお陰で写真で知ることが出来た。でも上からの撮影でないので今ひとつ良く分らない。東武鉄道の門を叩かねばならないのか、その時は哲男さんにエスコートしてもらおう。

さて、揚げ足取るつもりは無いが、花巻電鉄の始発駅は花巻市の都心に当る中央花巻駅で、元岩手軽便鉄道の始発駅でもあった。軽便が改軌するまでは「遠野物語」の出発点を共有したことになるが、軽便の方が先輩である。その後、観光で中央花巻駅跡の近くに行ったことがあるが、往時は花巻市の南西端に位置する場所のように見受けた。家並みの中を西に向かい、国鉄線を越えたところが西花巻。したがってここが創業時の中心で車庫も設けられていた。鉄道線として花巻温泉に向け西北方向に延長されるに従い国鉄駅西側に「花巻駅」が設置され、1931年の車庫火災をきっかけに「花巻」に車庫は移転されたと聞く。1965年7月、東北本線電化工事に合わせ西花巻~中央花巻間は廃止となった。

米手作市さんが身を「しばらく隠すぞよ。その間クローバー会のこと、しっかりたのむぞ!」と仰せられてから間もなく1週間となる。直ぐに乗られずであったが、電車に関係ない方面で2010年のことがまとめられ、デッキにしがみつく行為が可能になった。そして昨日買った鉄道ピクトリアル8月号、なんと我々の仲間になって頂いた「河 昭一郎さん」の玉稿のスタートだ! 内容は先ず手にしてのお楽しみ。売り切れぬうちに本屋へダッシュしよう。

床下を覗き込むも蜂の巣が……

床下を覗き込むも蜂の巣が……

 

やっと出合った特異な台車

しずしずお出ましの芋?電車

トレーラーは揺れ枕付のアーチバー型

 

 

米手作市氏の誘いに乗る(Ⅱ)

毎朝掲示板を開けるのが日課であることは湯口先輩と同じであるが、朝食後6時30分に家を出て、京成バス、JR→メトロ→JRと乗り継ぎ、4月中旬からは更に新橋で「ゆりかもめ」に乗り換えてレインボーブリッジを渡り「お台場」まで1時間30分かけての通勤している。今回は本業多忙により若干乗り遅れてしまった。

雨宮製作所製の台車の件は前回(5月10日【13285】)で湯口先輩が解説されておられるので、関連事項について触れてみたい。

台車の実物は、湯口先輩が記述されている通り、東武博物館と上毛電鉄大胡車庫にそれぞれ保存されており、興味のある方は是非見学いただきたい。東武博物館には雨宮製作所の銘板も展示されている。(上毛電鉄大胡車庫の見学はイベント時以外は事前予約制)

 


上毛電鉄大胡車庫に保存されている台車(平成22年1月3日)

 


東武博物館に保存されている台車と説明板(平成22年5月20日)

花巻電鉄の車両について触れておられるが、この件について若干補足する。
花巻電鉄は西花巻~花巻~花巻温泉間の鉄道線と西花巻~西鉛温泉間の軌道線が存在した。実際の運行は花巻が起点で、軌道線が西花巻~花巻間に乗入れる形を取り、鉄道線の一部列車は西花巻発着で運行されていた。

雨宮製の板枠台車を履いていた車両は、鉄道線デハ1~4と軌道線デハ1、3~5である。鉄道線のデハ1~3は大正14年、デハ4は大正15年に作られたが、3と4が昭和6年8月火災で焼失し、台車を流用して半鋼製車体を新製した。木製のまま残った1と2は昭和34と35年に鋼体化が行われ、全金製の新製車体に乗せ替えてデハ21、22となり軌道線用となった。その際台車が補強されたため形が変化した。

車体幅が極端に狭い軌道線のデハ1、3~5の経歴は複雑で、デハ1、3、4は昭和6年8月火災焼失車の台車を流用して作られた半鋼製車、デハ5は大正15年製の木製車であった。晩年は鉄道線のデハ3、4も軌道線で使用され、本来の軌道線のデハ3、4と車号が重複した。

 
鉄道線用として製作されたデハ4(昭和41年9月3日)

 


湯口先輩が撮影されたデハ2を鋼体化したデハ22(昭和41年9月3日)

 
軌道線デハ5(昭和41年9月3日)/デハ4、5の2両作られたがデハ4は火災焼失のため半鋼製車体を新製した。

 
軌道線デハ1(昭和43年9月3日)/昭和6年焼失車の補充として新製し、消失により欠番となった1を付番

 
軌道線デハ3(昭和40年3月23日)/製作の経緯はデハ1と同じ。花巻駅近くの公園で保存されている。

 
軌道線デハ4(昭和41年9月3日)/デハ5と同時に新製したデハ4の焼失補充として新製。
前述の鉄道線デハ4も軌道線で使用されていたため、スタイルの異なる2両のデハ4が走行していた。

湯口先輩の記述の通り下野電気鉄道は改軌後、昭和14年に日本鉄道自動車が台車のみ引取り、木製車体と組み合わせて銚子電鉄ボデハ101として再起した。唯、昭和14年に木製車体を新製するというのは不自然で、窓配置を見ると1D2332D1と扉間の窓が分割されており、どこかの車体乗せ換えにより不要となった車体を化粧直しして売り込んだ可能性があると思っている。14年後の昭和28年に早くも半鋼製の新製車体に乗せ換えているが、車体が小さいため一貫して予備車的存在であった。写真は2009年8月11日「【4039】銚子電鉄を訪ねて(Ⅱ)」に掲載されているのでご覧いただきたい。
日本鉄道自動車が雨宮製台車を引取ったのは、自社ブランドの台車を製作するためにサンプル目的もあったのではないかと推測している。

昭和17年に納入した草軽電鉄のモハ101~105は、雨宮製類似の自社製の台車を履いている。昭和22年から順次栃尾鉄道(→越後交通栃尾線)に譲渡され、最終的に5両全車が譲渡された。

 
越後交通栃尾線サハ301(昭和48年4月29日)/元草軽モハ103→モハ208
(S25.4)→サハ301(S41.8)

 
サハ303(昭和48年4月29日)/元草軽モハ102→102
(S36.11)→ホハ29(S39.4) →サハ303(S41.12)

 
サハ306(昭和48年4月29日)/元草軽モハ105→モハ200
(S22.6)→サハ306(S41.12)

戦後では平成19年3月末に廃止された「くりはら田園鉄道」の前身、栗原鉄道が電化(昭和25年9月21日直流750V)に際して新製されたモハ2401、2402の2両の台車に使用された。但し、翌年増備されたモハ2403は通常のものになった。同鉄道は、昭和30年9月27日1067㎜に改軌され、ED20形電機は台車枠を広げて引き続き使用されたが、電車は僅か4~5年で失職して下津井電鉄で再起した。下津井電鉄では他車と共通運用するには制御器の交換等大幅な改造が必要なため電装解除してサハとして使用した。

 
サハ1(昭和44年3月18日)/元栗原モハ2401(電装解除されたのみで、車体はほぼ原形のまま使用されていた)

 
サハ2(昭和40年8月18日)/元栗原モハ2402(モハ104+サハ2+クハ25の3両固定編成化の際、車体に大幅に手を加えられた。昭和47年3月末、茶屋町~児島間廃止時にモハ102+サハ3+クハ22の中間に連結されていたサハ3と交代し、平成元年最後の新製車メリーベル号と交代するまで健在であった。

 
サハ2の台車(昭和44年3月18日)

 
【参考】サハ3(昭和44年3月18日)/元栗原モハ2403(モハ102+サハ3+クハ22の3両固定編成化の際、貫通幌の取り付け等が実施された)

DRFC-OBクローバー会の会員へのお知らせ

昨日、DRFC-OBクローバー会の皆様に下記の書類を郵送させていただきました。一両日中にはお手元に届くと思いますので届きましたら、開封していただき内容物をご確認ください。
なお、会員の方で届かない場合は、新役員または管理者までメール、または電話にてご連絡ください。

内容は、下記のとおりです。
1 全体連絡
2 総会の概要
3 会長挨拶
4 会則
5 会計報告
6 パスワード(一部会員)
7 振替用紙(一部会員)

会費未納入の会員の方には、郵便振替用紙を同封しておりますので、6月末日までにお手続き方の程、よろしくお願い申し上げます。
既に第3期会費を納入済みで投稿未登録の会員の方には、「デジタル青信号」への積極的な投稿を願い、ユーザー名・パスワードを割り当てましたご連絡書類を同封しております。近況等、身近なことでもご投稿願えれば幸いです。