桜前線追っかけ2010年 Part3 南阿蘇鉄道

第4日目 2010年3月30日 

① 道の駅不知火6:00→9:50立野駅
② 立野11:45-(ゆうすげ3号)→12:42高森13:01-(14)→13:27立野
③ 立野13:29-(433D)→14:13宮地14:40-(438D)→15:17立野
④ 南阿蘇鉄道撮影→あそ望の郷くぎの(泊)
 

暖かかったのか、日の出時刻の6:00起床です。昨夜は、宇土半島道の駅不知火に泊りましたが、丸田氏が三角線の夕日に輝く列車も良いよよ言われていた事を思い出しました

続きを読む

佐竹保雄鉄道写真展開催 芦生トロッコ軌道

2010年大型連休は、晴天に恵まれました。皆様方は、どのようにお過ごしされましたでしょうか。私は、5月1日、2日と、沖中先輩と井原君の車に同乗させていただいて、佐竹先輩の写真展を見に芦生へ行って参りました。滝本先輩、弘津後輩も現地で一緒になりました。

芦生は、京大研究林があって、そこにはトロッコが走っていると、以前から知っていましたが、初めての訪問です。どんな所なのかと、ワクワクで参りました。

芦生への途中には、茅葺き民家が残る美山町北集落を通過しました。

渋滞を予想した京都縦貫道はガラガラで、27号線→府道12号線→162号線→府道38号線を走り、京都府南丹市美山町芦生に13:30到着しました。

写真展参加者は、1泊2日で参りました。クローバー会の方々の他、佐竹ご夫妻の友人知人の方多数が参加され、改めて佐竹先輩のキャパシティの大きさにびっくりしました。



トロッコの走る京大研究林の正式名は、『京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション 芦生研究林』で、1921年4月4日(大正10年)に大学側と土地所有者(代表:知井村長)との間で99年間の地上権設定契約が締結され、京都帝国大学芦生演習林として、誕生しました。

標高は、355~959mで、4,179.7haの広さを誇ります。貴重な動植物が生息していますが、我々が関心を寄せるのは、トロッコのみです。

1925年には出合から演習林事務所に至る車道が開設され、1927年には由良川に沿って、事務所から七瀬に至る森林軌道の軌道敷開削工事が開始1934年には事務所~赤崎間にレールが敷かれました。
1934年に開通した森林軌道の沿線を中心に、木炭用の雑木や枕木用の栗材が大量に伐採されたほか、ブナ材は飛行機のプロペラ用や梱包材として伐採された。中でも木炭の生産は年を追うことに増加し、販売されて貴重な収入源となりました。

戦争中は、林業資源確保のために、1943年には小野子谷方面へ森林軌道の延伸が行われましたが、この森林軌道は、1949年7月のへスター台風で記録的な大雨に見舞われ、全線流出・埋没するという大きな被害を受けました。1950年には森林軌道が野田谷まで延伸されたが、2010年現在は、

事務所~灰野間7.6kmのみ、不定期に走行しています。

5月2日8:30、トロッコ道に沿ってのハイキングが実施されました。案内人は、芦生を知り尽くしたジャーナリスト、写真家の鈴木元(すずき はじめ)氏です。そして、何と鉄ちゃんでもあります。私どものために特別に案内人を引き受けてくださりました。事務所を出ると、右に直角に曲がって、由良川橋梁を渡ります。由良川に沿った芦生杉林の中をカーブを描きながら、森林軌道は延びています。ゲージは、762mm、軽レール(10kg以下級?)が敷設されています。

川を渡ってしばらく行くと、事務所から最後の民家横を通ります。現在、ここから住居はありません。谷川を渡る橋が、何本もあります。鉄橋もあれば、木製橋もあります。
滝本さんと、この軌道に見学用のトロッコを走らせられたら素晴らしいと、ロマン話を続けながら一緒に歩きました。


離合できるレールのポイントがある所が灰野駅です。灰野は江戸時代には村があって、その後も定住する人達がいたそうですが、昭和30年代になり、電気が引かれない事が決定となり、住民引越しになったと、鈴木氏の説明がありました。トロッコが走るのは、ここまでです。

灰野を過ぎると、線路はレールが外れたり、橋梁が朽ち果てていたり、土砂崩れが起こったりして、廃線そのものです。

松崎西谷橋までゆっくりと、説明を聞きながら、1時間半をかけて、歩きました。線路は、U字形をした橋梁で谷を越えていますが、残念ながら、ここも潰れて落ちています。今回のハイキングはここまでで、早い昼食をとって戻りました。すると、・・・・・。

山の家にいると、井原君が倉庫内に入っていたトロッコが、出てくると呼びに来てくれました。


ご覧ください。これが、日本で唯一のまだ現役として残っているトロッコです。さわやかな春の風が静かに吹き抜ける中、晴天にも恵まれて、芦生トロッコ軌道散策ができました。こんな素晴らしい所で写真展を開催していただき、佐竹先輩ありがとうございました。機会があれば、また来て見たいと思いました。

奥出雲の旅

この連休中は好天との天気予報に気を良くして、急遽1泊旅行を計画し奥出雲に出かけることにした。早朝クルマで自宅を出発し 世羅、吉舎、三良坂を経て庄原へ。芸備線に沿って備後落合着8:15。芸備線のキハ120327を撮影後 木次線の次の駅 油木駅に向かう。途中 木次線備後落合行きキハ120206を撮影。
ィ??120206 備後落合・油木間

キハ120206 備後落合・油木間

無人駅の油木駅にクルマを置いて、今のキハ120206が戻って来るのを待つ。備後落合・木次間は極端に列車本数が少なく 列車でスイッチバックを通過するのは容易ではない。急に決めた旅のため 「奥出雲おろち号」の指定は取れないかと心配したが、前日に 最後の2席が取れたので、油木から出雲横田まで定期列車で向かい、おろち号で油木へ引き返してくるプランである。
油木駅 時刻表

油木駅 時刻表

時刻表のように日に4往復。おろち号は季節列車であり、またもう1往復は第二木曜日運休のため朝夕の2往復しかない日があることになる。風前の灯火のような路線であり、どこに存在意義があるのか不思議である。落合から戻ってきたキハ120206に乗り込んで いざ三井野原、出雲坂根へ。学生時代に夜行のちどりでこの区間を乗ったことはあるが、ようやく景色を楽しみながらの峠越えが実現した。時速20から30キロぐらいでくねくねと30パーミルを登る。並行する国道314号のクルマがどんどん追い越してゆく。広島県から島根県に入り、三井野原駅に着く。何と30人ほどの団体客が乗り込んでくる。整理券を取ったり モタモタと乗り込むのに時間がかかる。3分延発。団体客に聞いてみると 読売旅行のミステリーツアーとのことで次の出雲坂根で下車するらしい。団体客が乗ったせいか、若い運転士は国道の奥出雲おろちループが見渡せるポイントで最徐行し、案内のアナウンスもするサービスぶり。出雲坂根のスイッチバックに差しかかる。最初の折り返し線で停車。運転士はブレーキハンドルを持って 反対側の運転席へ 乗客をかきわけて移動。ツアー客が何だ何だと騒がしい。
逆行運転で出雲坂根駅に降りてゆく。
出雲坂根のスイッチバックを下る

出雲坂根のスイッチバックを下る

出雲坂根に入線

出雲坂根に入線

 出雲坂根駅に入線。ドヤドヤとツアー客が下車。ようやく静かになる。坂根駅には「延命水」という名水があり、一般乗客が水を汲みに行きたいと言い出す。運転士は 遅れているのでダメと言うかと思いきや、あっさりOK。出発信号は青になっているが、運転士は列車無線で「団体客のため延発します。出発信号を一旦赤にしてください」と連絡。信号が赤に変わる。なんとものんびりした路線である。水汲み客が戻り ようやく出発。動き出すときは「変」(変速)であったが すぐ「直」(直結)に切換え、あとは「中」 (中立)で軽やかに勾配を下ってゆく。八川を過ぎ、出雲横田に到着。下車して 下り 奥出雲おろち号の到着まで約40分ぐらいあるので 駅に併設された雲州そろばん伝統産業会館の展示を見る。

出雲横田に到着した奥出雲おろち号

出雲横田に到着した奥出雲おろち号

定刻11:06におろち号到着。先頭のスハフ13801に乗り込む。親子連れの子供だけが乗り込み、親はクルマで追いかける(先回りする)という人もある。今来た道を今度はゆっくりと引き返す。八川駅では地元の人たちがホームに出雲ソバ弁当を売りに来ている。弁当を予約している人もいるらしく、ホームから○○さーんとお客を捜す声もする。のどかな風景である。出雲坂根に向けて勾配を登る。坂根駅は延命水やスイッチバック駅ということもあって国道314号のマイカー族などでにぎわっている。定刻発車。のろのろとスイッチバックを登る。途中眼下に今登ってきた線路と坂根駅が見える地点で最徐行し、乗客たちは車窓から写真撮影。車掌が乗車記念の絵はがきを配って歩く。DE10に押されて登ってゆくが エンジン音もほとんど聞こえず、社内の騒々しさだけで 峠越えの実感がわかない。往きに乗ったキハ120の方がよっぽど楽しかった。これがC56やキハ52ならと思わずにはいられなかった。

 とういことで 3時間半かけて 油木駅に戻ってきた。降りたのはわが夫婦のみ。なんでこんな無人駅で降りるの?という視線を浴びる。
 
 午前中は木次線を楽しみ、午後と翌日は野鳥撮影と船通山(海抜1142m)登山で過ごしたGWでした。
ではまた 江若鉄道シリーズでお会いしましょう。

1955年3月福知山

1か月半ご無沙汰をしてしまい、常連諸氏もその間うつ状態?と見え、ぶんしゅう氏がほぼ一人で頑張って支えて下さった。乙訓ご老人も、総本家青信号特派員氏も何やらおとなしく、要は一定期間(かなりの個人差はあるが)以上休むと、従前いわば義務感(単なる惰性?)に近かった投稿意欲が急速に萎えてしまい、ついつい楽な読む側に廻ってしまうもののようである。

ところでこちらは相も変らぬ半世紀以上古い写真と、記憶の残滓を、あたかも老残の醜さのようにしつこく披露するのみ。古いことしか語れない老人の歎きは、何分にもご寛容の程を。


「いずも」ヘッドマークのC57128 重油タンクがドームの後ろにあって石炭と併燃

1955年3月小生は18歳で、高校を「辛うじて」卒業した。正確には「卒業できた」。単位と出席日数はまさしくギリギリで、これを6年後大学卒業の際にも性懲りなく繰り返す。高校最後の試験寸前に痔の手術で入院し、いくつかの科目が受験できなかったが、重大な発見をした。試験を受けると、その成績は通知書に5段階評価で2か1であっても、入院という「大義名分」があると、教師はその生徒の「真実?」が分からないから、中庸は徳の至れるものなりとしてか、単に無難あるいは面倒だからか、3を呉れるのである。半世紀前の老人は、この手術のおかげで、皆目歯すら立たなかった自然科学系―解析Ⅰ、生物、化学に3を頂戴し、卒業できた。受けていたらほぼ間違いなく単位不足で留年=卒業延期していたはずである。

その前から浪人は覚悟していたから、万全の対策?として、膨大な「発行日付の入っていない」国鉄学割証を貯めこみ、かつ学生証紛失を申し立てて再交付を受け、その日付も「修正」して備えていた。

で、前途=進路全く暗黒の中、ともかくはアルバイトで稼いだ僅かな金で、九州から東北まで、軽便と非電化私鉄探訪の旅に出たのであった。親は止めもしなかったが、小遣いも呉れなかった。

最初訪れたのは別府鉄道で、加古川線を北上し福知山へ。以下非電化私鉄のボロ車両は諸兄辟易気味と見て(それぐらいの自覚はある)、未発表の国鉄車両や私鉄電車だけをご笑覧に供する次第である。今回の撮影はいずれも1955年3月15日、福知山。こんな誰でも撮る国鉄車両なんぞにかまけておらず、まっしぐらに北丹鉄道福知山西に行くべきだったと、今更後悔しても始まらないが。


やはり「いずも」だがC57152 重油タンクがある

休車中のC5415 制式機ではE10を除き最も短命に終わった不運な機関車

同じくC5411

C5118 矍鑠として活躍中 


ナユニ16420 鋼帯での補強が痛々しい

オハニ25764 大型木製車だがトラス棒がないのに注意 これは魚腹台枠だから

桜前線追っかけ2010年 Part2  くま川鉄道→西人吉

第3日目 3月29日 午前中
くま川鉄道撮影、以降は、西人吉付近、夕刻→道の駅-不知火温泉(泊)
▲ 5:00、ホカロンと湯たんぽで、寒さ対策はしていましたが、起きました。外の温度を測ると、1℃以下です。昨年10月の北海道でも経験しなかった最低温度です。

昨日、A・K氏西人吉の桜満開は、1週間前だったと、写真を見せてくれました。寒い日々が続いたので、今日まで満開状態が続いたとの言葉を実証する夜間の寒さです。

道の駅錦にあった周辺観光案内図を見ると、ここは、かつての湯前線、くま川鉄道の沿線近くにあります。SL人吉号撮影までは、充分な時間がありますので、この沿線にも桜があるだろうと、線路沿いをロケハンしながら、走りました。
最初に訪問したのは、瓦葺屋根のおかどめ幸福駅です。 続きを読む

桜前線追っかけ2010年 Part1 九州編 西人吉

3月19日、桜前線を追いかけて四国へ出発しましたが、開花宣言は、訪中した3週間以前に出たのに、寒い日々の連続で、全く咲いていません。琴電の旧車両運転を撮って、一旦帰宅しました。

毎日のように桜前線の進み具合を見て、スタンバイしていましたが、3月27日に天皇陛下ご夫妻が、我が町に初めて来られることになり、自宅近くを通られる事になりました。天皇陛下万歳で育った老いた母が、どうしても見たいと嘆願します。

日頃、好き勝手に鉄道写真を撮りに出かけていますので、ここで断っては、今後に支障が出るのは、確実です。新たな出発は、通過される日時以降と決めました。

最初の目的地は、芭石鉄道撮影で、出会った大牟田市におられるA・K氏が、薦めていただいた桜並木で有名な『西人吉駅』にしました。日本で初めて量産された8620型が修繕されて2009年4月から『SL人吉号』として、走っています。

8620型を撮ったのは、DRFC合宿で訪れたケ森が初めてでした。その後、何度か撮影をしましたが、大好きな蒸気機関車です。丁度、当日は、同じく芭石鉄道友人のM・O氏が、新幹線に乗って、犬山市から来られるそうです。再会が楽しみです。 続きを読む

早春の中国一人旅 Part11 鄭州→广州→深圳→香港→帰国

桜前線を九州から追いかけましたが、今年の天候は異常で、雨にもたたられ、中々思うとおりにはいきませんでした。富山から、一旦帰京して、これからどうするか考え中です。まずは、滞っていた、投稿を続けさせていただきます。今回が、最終編です。

第13~15日目 2010年3月14~16日

① 3月14日 郑州16:06-(T255)→3月15日9:48广州
② 3月15日 广州11:18-(D7039)→12:36深圳
③ 深圳14:00-(MTR)→15:00香港→3月16日帰国 
 
郑州では、料金とインターネットが使用できる事を優先してホテルを予約しました。ところがこのホテル、駅からかなり遠くて、楽山同様に不便です。
夜行列車に乗るので、充分余裕を持って、部屋を出ましたが、雨も降り出し、Taxiがつかまりません。ボーイに依頼していましたが、折角捕まえたTaxiも、横取りが日常的な現地人に取られてしまいました。約30分を経過してもダメです。

ボーイを引っ張って、雨降る道路に出ますが、空車が来ないのでどうしようもありません。その内、時間の余裕がなくなってきました。仕方ありません、超満員のバスに乗って、郑州駅を目指しました。
続きを読む

銚子電鉄デハ1001、1002の連結器

長老よりご質問の連結器の件をもう少し詳しく解説したい。

コメント欄でも書き込みした通り、デハ1001、1002は営団地下鉄時代からトムリンソン式密着連結器を装備しているが、ツアー客の増加等により、自連を装備しているデハ701、702(引退済)、801との連結に対応するため、密着連結器の頭にアダプターとして中間連結器を取り付けている。

 

上/デハ1001の外川向き、中/同車の銚子向き、下/連結器の拡大画像

 

上/デハ1002の外川向き、下/同車の銚子向き

画像でお判りいただけると思うがナックル部分が固定のため、自連とは連結できるが、中間連結器同志の連結はできない。 

実際の連結状態の画像は、銚子電鉄のものがないため、旧国鉄時代のもので代用する。少々古いが、クハ47とワ23814の連結状態である。(昭和41年3月10日、移転前の富士電車区で撮影)

 

銚子電鉄の2連は、昨年8月12日付けの書込み「銚子電鉄を訪ねて(1)」に画像を掲載した「デハ701+702」以外乗車したことがなく、旧形車が引退するまでにデハ1001、1002と701、801の新性能車+吊掛車の協調運転に乗車したいと思っている。諸般の事情で果たしてその機会があるかどうかは極めて疑問あるが、元近江鉄道モハ51のデハ701には是非乗車したいと思っている。

銚子電鉄近況

4月10日(土曜日)銚子電鉄を訪れたので近況等をお知らせする。事前に鉄子色のデハ1002が検査中で旧形が走っているとの情報を得ていたが、銚子駅にはそのデハ1002が停まっていた。運転士氏に尋ねたところ今日から復帰した。客が増えれば、デハ701を増結に使うかもしれないとのことであった。

今回は成田で113系の成田空港行を駅撮りするため成田線回りで行くことにして、最寄り駅6時59分発の電車で出発した。松戸、我孫子とタイミングよく乗換え、成田に8時10分に到着し、113系8連の8時13分発成田空港行の発車を撮影した。この電車も近々京浜東北線から来た209系に置換えられてしまうのであろう。8時18分発銚子行は113系4連であった。下総神崎で「あやめ4号」と交換したが乗客は疎らであった。そもそも鹿島神宮~東京間は10~20分間隔で高速バスが頻発しており勝負にならない。その高速バスでさえ、公共交通機関を無視した「高速道路1000円」の愚策の影響により乗客が減少していると言われている。銚子には9時48分に到着し、すぐ接続の9時50分発の外川行の電車(デハ1002)に乗車した。

 

成田駅を発車する成田空港行1431M

 

成田~銚子間を乗車した2433M/下総神崎駅で特急「あやめ4号」と交換待ち 

外川駅の留置線にはグリーン塗装のデハ2001+クハ2501が停められており、パンタを上げれば直ぐにでも走りそうな雰囲気であった。また、奥の方には1月23日にさよなら運転を行ったデハ702がユ101と連結されて停められていた。デハ702は一時期ネットで売りに出されていたが、買い手はついたのだろうか。これらの車両を撮影後、次の電車で君ガ浜まで戻り、海鹿島との間で約1時間撮影して本銚子に移動した。観光協会のおばさんが乗車しており、沿線のガイドと共に「この電車は東京メトロさんから譲り受けました」と説明していた。「東京メトロとちゃいまっせ。営団地下鉄でっせ」と突っ込みを入れる客がいないか心配したが、そのようなことはなかった。その後、仲ノ町車庫、笠上黒生駅の交換風景を撮影後、211系5連のロングシート車で来た道を戻った。

 

外川に留置されているデハ702+ユ101 

新車について

デハ2001+クハ2501は外川駅に留置されているが、終電後に試運転を行っているようである。デハ2002+クハ2502も整備が完了し、パンタを上げて仲ノ町車庫に留置されていた。塗装はアイボリー一色で、東武熊谷線キハ2000形のような感じである。諸般の事情で営業運転の開始が遅れているが、4月28日に笠上黒生駅のホーム伸延工事が完成すると営業運転に入るのではないかと思われる。

 

外川駅に留置されているデハ2001+クハ2501

 

整備が完了して仲ノ町車庫で待機中のデハ2002+クハ2502

 

ホームの伸延工事が行われている笠上黒生駅、完成は4月28日の予定である。

旧形車について

デハ1001、1002、701、801の4両が稼働しており、通常はデハ1001、1002が使用され、ツアーの団体客等で客が多ければデハ701、801が増結される。1001、1002のいずれかが検査等に入った場合は801が使用されることが多いようである。10日から12日にかけて、20年に1度の「銚子大神幸祭」が開催され、11日の祭りのメイン会場が外川であったため、朝から夕方まで全列車2連(デハ701+デハ1001・デハ801+デハ1002)で運転された。ちなみに訪れた10日のメイン会場は、成田線の下総豊里駅と総武本線と成田線が分岐する松岸駅付近であった。事前に情報をキャッチしていれば、1日ずらして11日に訪れたのに残念であった。

デハ701と801は「ラストラン」のシールが貼られており、ゴールデンウィーク期間中に「ラストラン」が実施されるのではないかと思われる。デハ1001、1002は新車稼働後も引き続き使用されるが、夏季を中心に稼働日は減少すると思われる。しかし、団体客がない時は単行でも十分まかなえるため、冷房が必要でない時期を中心に使用されるものと思われる。

 

ラストランのシールがついたデハ701

 

デハ801のラストランシール

 

キャベツ畑を走るデハ1001/君ヶ浜~海鹿島間

 

犬吠埼灯台をバックに走るデハ1002/君ヶ浜~海鹿島間

 

本銚子~笠上黒生間の切り通しを走るデハ1001

ダイヤ改正について

3月13日のJRのダイヤ改正に合わせて当線でも実施された。それにより早朝、深夜を除き、銚子、外川発が毎時20分、50分に統一され、非常にわかりやすくなった。笠上黒生駅での列車交換は、従来通り外川行が先着する。

 

その他

デハ701は昭和53年に近江鉄道から入線以来32年間、デハ801は昭和61年に伊予鉄道から入線以来24年に亘り活躍を続けたが遂に引退の時期を迎えた。特にデハ701は近江鉄道縁の車両であり、近江鉄道時代に乗車、撮影された方もおられるのではないだろうか。

 

デハ701の近江鉄道時代/上 昭和40年1月6日彦根、 下昭和47年9月9日貴生川(モユニの代わりに郵便車として使用されている)

鉄道の車庫は基本的に部外者立入禁止で、見学は年1回の一般公開時以外は不可能であるが、有難いことに仲ノ町の車庫は入場券を購入すれば見学が可能である。

2月26日から27日にかけて583系が両国~銚子間を団体臨時列車で運転され、撮影に行かれた方もおられると思われるが、銚子電鉄でも記念入場券を発売中である。仲ノ町駅で購入すれば、車庫見学も可能である。

見学、撮影に行かれた時は、記念乗車券、家族へのお土産に濡れ煎餅、観音駅の鯛焼き等を購入して、わずかでも収入に貢献していただきたいと思う。

 

仲ノ町駅の入場券

 

時々デザインが変更されている一日乗車券

江若鉄道白鬚駅復元工事(その4)

ハフ3両

ハフ3両

ハフ8
ハフ8

白鬚駅工事の木工と粘土細工に少々飽きてきて いつでも窓抜きから始められるように書きためてあるペーパー車体の材料が気になって 浮気をして1両だけ ハフ8を作りました。昔からですが なぜか気動車のトレーラー(国鉄ではキサハ04とかキクユニ04とか)が好きで 江若でもすでにハフ2、ハフ3が完成しており その流れでハフ8となった次第。模型的にはありふれたペーパー車体で 2週間ほどで完成しました。トレーラーばかりが増えて 動力車が増えてないので運用に困りますネ。次はキハ5121-ハ5010-キハ5122の3連をやっつけるつもりですが、特にハ5010は窓抜きがうんざりしそうです。と言うようなことで白鬚駅の工事は足踏み状態です。いまだに松の木をどのように作ろうかと名案がないのも 工事が進まない理由かも。

2010年 早春の中国一人旅 Part10 楽山→成都→西安→郑州 鄭西高速鉄道

ベトナムのハノイ~ホーチミン間を結ぶ高速鉄道は、日本の新幹線の採用が、閣議決定されたそうで、東南アジア好きの私としては、嬉しく思っております。

第11・12日目 2010年3月12・13日

① 3月12日 楽山ホテル13:00-(マイカー)→13:15楽山客運站
② 3月12日 楽山客運站14:00-(バス)→15:15成都石羊客運站
③ 3月12日 成都石羊客運站15:20-(Taxi)→16:45成都鉄路站
④ 3月12日 成都21:20-(K6)→12:15西安
⑤ 3月13日 西安14:50-(G
2008)→16:48郑州  

今日は、成都に戻って、夜行寝台列車で、西安に向かいます。昨夜から、インターネットニュースで、しばらく空白だった、世間の動きを見ていました。チェックアウト12:00まで、ずっと世間に合せるまでの準備時間です。
別に、何も知らなくとも生きていけるでしょうが、マスコミ報道に毒された現代人の悲しさを、感じます。在職中にマスメディアに携わった事が、良かったのか、悪かったのか、答えはありません。

ホテル前に出ましたが、結構広い道路なのに、昨日同様にタクシーが走っていません。ホテルの従業員も出てきて、停めようと協力してくれますが、空車が来ないので、どうしようもありません。最後は、支配人まで出てきてくれて、結局、マイカーで近くにあるバスターミナルまで、送って下さいました。今日も、感謝、感謝です。
しかし、ここから乗車したバスは、成都まで約50km手前の、空港近くの石羊客運站までしか行きませんでした。繁華街方面にある楽山肖埧站に行かなければ、来る時に乗車した成都旅游客運中心站行きバスには、乗れなかったのです。

仕方ありません。タクシーで、成都鉄路站まで向かう事にしましたが、高速道路は、事故で大渋滞、站手前も全く動けないほど渋滞で、たっぷりと時間がかかりました。バス代44元=約616円に、Taxi代116元=約1.624円が余計にかかりました。
続きを読む

調兵山再訪とパシナ

 4月8日から4日間、1年半振りに旧満州(中国東北部)の遼寧省瀋陽、撫順、調兵山、大連を訪問したので簡単に報告する。

 

<撫順炭鉱の電車は絶望的>

 前回訪問時は運よくジテが現れたが、今回はジテどころか2枚窓の通常見られる電車でさえ、朝出て夕方戻る1往復のみ。露天掘りの中をのぞくと運炭列車がまだ見られたが、市内電車は絶望的で、以前、ぶんしゅう氏が決死の撮影をされた留置線への立ち入りは中国人ガイドが飛び込みで交渉したが断られる。このガイド氏は中国人鉄ちゃんでノート型パソコンに収めた作品を自慢げに見せてくれる。彼が言うには運炭列車は撫順駅国鉄線に向かう列車が集約する東崗駅付近がかなりの本数を稼げる場所とのこと。実際彼の言う通り頻繁にやってきた。

2010.04.08 車庫駅に留置中の本日運行の電車

2008.04.08 車崗駅の電気機関車1522

 

<減っていた鉄媒集団の蒸機>

 調兵山は瀋陽から北へ車で約2時間の所にある。上遊型蒸機は1771のみ稼動。翌日、機務段(機関区)では1770が検査中で、午後から稼動したので2両を見たのみである。また、以前イベント等で稼動していた1943年アメリカのリマ社製KD6-487は香港の映画に出演するとかで動かすことはできないが、蒸気をあげた状態でいた。翌9日は朝から雪化粧で久し振りに蒸機牽引客車列車撮影を楽しんだ。調兵山近郊は炭鉱地帯でボタ山があり、複線もあり、線路配置が複雑であることは、かつての九州筑豊地方を思い出させてくれる。

2010.04.09 7:20 雪の複線区間三家子~調兵山を行く301列車大青行き

2010.04.09 暁南~橋南を行く203列車調兵山発暁南行き 

2010.04.09 15:15 三井~暁南 ボタ山をバックに築堤を登る105レ大明行き

2010.04.09 大青機務段 アメリカ製KD6-487 煙が上がっているが動かない

2010.04.10 調兵山 上遊型1771 10日朝快晴となり、形式写真撮影

 

<哀れなパシナを見る>

 大連では日本製の市電は健在である。低床式の欧州スタイル新型車よりずっと数多く見られた。今回はその写真は割愛する。さて、最後の11日は満鉄(南満州鉄道株式会社)大連の扇形庫に残るアジア号牽引機パシナ757を見学した。庫から顔を出した状態で、ほこりだらけで運転室はゴミだめのような感じ。2メートルの大動輪もグリスが固まってしまっており、全体撮影は到底無理。かつてアカシアの大連から奉天(瀋陽)、新京(長春)と満州の平原を表定速度82.5Km/h、最高速度130Km/hで駆け抜けた機関車にしては寂しいものを感じた。アジア号は後にハルビンまで延長された。黒龍江省出身のガイド氏によるとパシナはここの他に瀋陽と黒龍江省の黒河と言う所に残っているとのこと。瀋陽のパシナは98年に瀋陽郊外の蘇家屯の陳列館で撮影したことがあるのがそれで、屋外のため、風雨にさらされてこれも惨めな状態であったが、全体が見えるので参考にのせてみた。

2010.04.11 大連 パシナ757はこのような姿で保存されていた

1998.07.01 瀋陽郊外蘇家屯機関車陳列館 パシナ751

 <最後に>

 満鉄と言えば星名秦先生を思い出す。京都帝国大学を卒業後、満鉄の技術者となる。戦後、同志社大学工学部教授となり、学長になられた。星名先生が有名なのは京大時代から卓越したラグビーの選手であり、指導者であったことである。同志社に来られてからは同志社ラグビーを育てられ、岡仁詩元監督は教え子であった。関東の早慶明を相手に三連覇したのはもう遠い昔のことである。最近の同志社ラグビーの体たらくは岡仁詩先生とともに嘆いておられることと思う。その星名先生は小生の記憶では、同志社大学鉄道同好会の顧問か相談役になられていた。当時の青信号の会員名簿の最初にお名前を拝見したような記憶がある。このあたりの事情をDRFC生みの親(本人はそうでないと否定されるが)であり、、育ての親である元電車少年さんにご教示いただければ幸いである。

2010年 早春の中国一人旅 Part9 沙湾の沫江煤電

第10日目 2010年3月11日

① 安逸158連鎖酒店10:30-(Taxi)→11:10沫江煤電草埧站
② 草埧站13:00-(沫江煤電)→13:15老礦站
③ 老礦站13:20-(沫江煤電)→13:35草埧站
④ 草埧站17:10-(Taxi)→17:50楽山市内繁華街 
今日は、楽山の中心部から、約30キロの沙湾区にある、芭石鉄道と同様のナローゲージ石炭輸送鉄路、沫江煤電を訪ねます。蒸気は、走っていませんが、可愛い電気機関車がいるそうで楽しみです。  沫江煤電へは、先日に芭石鉄道の石渓站行く時に乗った、タクシーを一日貸切しておきましたので、ゆっくりと安心して撮影できます。

ノートにホテル名を書いて見せておいたので、大丈夫と思っていたのですが、参りました。ホテル前の道路には、代わりになるタクシーが走っていません。30分で着くと言う言葉を信じて待つことにしましたが、来たのは2時間近くしてからでした。
▲ 眠江沿いを走り右折、工場の門を越えて、急坂を登ると、沫江煤電草埧站です。駅名版は、立派な石製です。  

続きを読む

工房便り D50の制作(3)

前回の投稿からあっという間に一月経ってしまいました。前回までで足回りの目処が立ちましたので今回は上回り、主として給水加熱器回りの太いパイピングを中心に、それに関連する工作をご紹介します。苦労して叩き戻したサンドドームでしたが、どうやら高さも高すぎたようで、結局約1mm高さを低くしました。幸い、断面がほぼ同じ部分がありましたので水平にスライスし、再度ハンダ付けで接合しました。ただしこれも1度では決まらず、2回切り接ぎましたのでご覧の通り、継ぎ目が現れています。同時にロストワックス製の蓋と砂撒き管元栓をつけておきました。なお、当社では煙突、ドーム類などに限らず、可能なパーツは出来る限りねじ止めするように心がけています。手順によってはあとで取り外す必要がでてくるからです。

シリンダーブロックの側板にシリンダ排水弁をつけ、シリンダーブロックに仮留めしたところです。ご覧のようにロストワックス製のこの排水弁はとても良く出来てはいるのですが、強度不足でご覧のようにすぐに曲がってしまいます。スケールだけを重視した製品にありがちなこの問題は困ったもので、後日裏側に補強を添えることにします。

フロントデッキには給水加熱器がつきました。ネジの頭が見えていますが、パイピングで隠れてしまうでしょう。シリンダーブロックの真上、ランボード上に突き出しているものはD50特有のバイパス弁の一部です。通常のデフレクターなら省略しても隠れてしまうところですが、門鉄デフではそうはいきませんね。ただし、少々オーバースケールとなっています。

非公式側、給水加熱器へのパイピング中。蒸気管、給水管は布巻きを模した製品で、B6では極薄の帯を真鍮線に巻き付けましたが、ショップでこれを見つけ、今回使ってみました。缶廻りのパイピング が終わっていないので、ハンドレールはノブに差し込んであるだけです。そのため、管支えの位置もずれています。
煙突は実物同様少し延長してあります。7mmのパイプがジャストフィット。前照灯も250Wの大型を奢りました。
ボイラーサイドの給水用逆止弁は下側から入って横に出るタイプ。長い間パーツ箱を暖めていました。

公式側。逆転棒、缶梯子、冷却管、そして砂撒き管もつきました。

これで随分出来て来たように見えますが、まだまだ工作が 残っています。キャブ下の主台枠後部が最大の難関です。次回は従台車廻りと共にご紹介しましょう。(つづく)

2010年 早春の中国一人旅 Part8 芭石鉄道 菜子坥→楽山

第9日目 2010年3月10日

① 蜜蜂岩站6:32(第1次)→6:47蜜蜂岩站
② 菜子坥站10:20-(バイク)→10:25蜜蜂岩站
③ 蜜蜂岩站11:30-(第2次)→11:40躍進站
④ 三井バス停12:00-(バス)→12:35犍為バスターミナル
⑤ 犍為バスターミナル13:00-(白Taxi)→14:30楽山市
⑥ 楽山市14:30-(自転車Taxi)→14:50安逸158連鎖酒店

蜜蜂岩站で撮影すると言うご両人を残して、始発第1次に乗車して、菜子坥站で降りました。ロケハンでマークした3ケ所での撮影です。
今日は、楽山市のホテルに予約を入れていましたので、余裕を持って、菜子坥站11:28発の第2次下りの乗車する必要性があります。3ケ所を撮るには、貨物列車の運行が必要不可欠ですが、前もっての確認方法が分りません。

芭沟であれば、踏切番か、トンネル番を探せば、少なくとも当日の運行情報は、分るはずです。菜子坥もスイッチバック站ですので、駅員に聞けば、この日の運行ぐらいは、確認できなければおかしいと思いますが、聞いてもはっきりとした返事が、返ってこないのです。

私が中国語堪能でないから、正しく質問して、正しく聞けていないのかと言うと、そうでもありません。1月に来た時に旅行社の通訳が質問した時も、走ると聞いた観光列車が、実際は運休でした。どうすれば、分るのか、今回も課題として残りました。

▲ 7:45 気に入っていた菜子坥站~仙人脚站で、第1次下りを撮った後、登って来るであろう石炭列車を待ちましたが、推定通過時刻になっても汽笛すら聞こえません。蜜蜂岩站にいる、ご両人の通訳の鄧さんの携帯に電話しますと、今日は、登って来ていないとの返事です。

仕方がありません。お腹がへっていたので、菜子坥站近くの部落に入り、麺を美味しそうに食べていたおばちゃまに、同じものを作って欲しいと頼みましたら、『いいよ』と、気楽に引き受けてくれました。
一応、10元=約140円を支払いましたが、家庭料理で大変美味でした。

▲ 10:22、芭石鉄道での最後のカットを撮った後、民宿の主人に電話して、前回乗ったバイクでの迎えを要請しました。
快く要請を受けてくれたご主人のバイクにまたがり、約3.5キロを下りました。途中で、ご両人と通訳に会いましたが、すれ違いで言葉を交わす事ができなく、挨拶だけでした。歩けば、40分以上は、必要ですが、線路横の犬走りを走り、約15分で到着しました


余裕を持って11:30発の第2次に乗車できましたが、これからが、また大変でした。終点の石渓站からバスは遠いので、1つ手前の躍進站で下車しました。楽山に行くバスターミナルのある犍為まで、小型バスが走っています。
バスに乗って、犍為バスターミナルまでは、約30分強です。小型バスので、犍為に近づく度に、乗客が乗り込み、超満員になりました。

1月に宿泊した犍為は、田舎町かと思っていましたが、昼間見ると、通りには、食堂や商店、人も多く、活気のある大きな街です。聞けば、人口約60万人と、言っていました。
着いたバスターミナルは、引っ切り無しにバスが発着して、待合室は大混雑です。丁度、昼飯時なので、ターミナル前のリヤカーの屋台を覗いて見ました。熊笹に巻かれたお餅がありましたので、直ぐにゲットしました。初めて食べましたが、これが中々美味しいのです。追加をして、満腹になりました。

こんな所で、日本人が食しているのは、珍しいのでしょう。周りを取り囲むように、おばさん達がやってきて、いろいろと聞きますが、残念ながら、さっぱり分りません。

白タクの客引きも来て、楽山まで相乗りで、20元=約280円で、どうかと聞いてきます。来る時は、260元=約3,640円でしたので、これは、格安です。直ぐに、荷物を持たせて、車に行きました。車は、しばらくすると発車しましたがゆっくりと走り、相乗り客を探しますが、中々いません。

犍為郊外にある眠江の橋を渡って、運転手が諦めかけた時に、ようやく客が見つかりました。工事中で渋滞する楽山までの国道を走り、1時間半で楽山市内に入りましたが、運転手さんホテルが分りません。
どうするのかと思ったら、自転車タクシーを呼び止めて、乗換えです。約15分の乗車で、14:50に、ホテルに着きました。芭石鉄道も蜜蜂岩站から、約3時間20分の所要時間でした。

このホテルは、インターネットが無料で使用できます。まずは。久しぶりにシャワーで、身体を洗って、衣類の洗濯と、仕切りなおしをしました。

ただ、このホテル、楽山の市内から遠くにあって、周りには、酒屋があるだけで、食堂も商店も見当たりません。C級グルメを諦め、ホテル内のレストランで、夕食を済まし、明日の沙湾行きに備えて、石渓に行く時に乗ったタクシーへ、一日貸切の予約を入れました。 Part9 へ続く

2010年 早春の中国一人旅 Part7 芭石鉄道 芭沟~菜子埧

第8日目 2010年3月9日

① 蜜蜂岩站6:32-(第1次)→7:10芭沟站
② 芭沟站-(徒歩)→焦埧站-(徒歩)→仙人脚站-(徒歩)→菜子坥站
③ 菜子坥站16:10-(第3次)→16:25蜜蜂岩站

昨夜は、大牟田市から来られたA・Kと、犬山市から来られたM・O氏、そして、芭石鉄道を案内してもらうために、遠く寧夏回族自治区の銀川市から、ご両名が呼びよせた、鉄ちゃんでもあるツアーコンダクターの鄧有貴さんと一緒に、中国鉄路の撮影談義に盛り上がりました。

A・K氏は、1993年から中国鉄路に魅入られ、30回以上も訪中して、撮影を続けておられる猛者。M・O氏は、6回目ですが、熱意たるもの相当な方でした。

鄧氏とは、以前からインターネットで知り合い、今回も日本人2名を引率して来られる事を確認済みでした。しかし、お会いするのは、初めてでした。中国鉄路のSL撮影専門のツアーコンダクターで、今まで数多くの日本人を中国各地に、案内されておられ、経験豊富です。

従って、最新現地情報は、熟知しておられますので、もし訪中される方がいらっしゃいましたら、ご指名されると良いと思います。費用は、それなりに必要ですが、何処へでも飛んで来てくださいます。
▲ 馬氏は、英国人の案内人です。英語が堪能な方は彼を、日本語のみの方は、鄧さんをご指名してください。どちらも、甲乙付けがたい熱心な鉄ちゃんです。

ご両名は、上海で合流されて、成都までは、空路で入られ、1週間のご滞在です。お二人ともビール好きで、昼間から水のように飲んでおられました。私も好きですが、今回は、長く歩くので、年齢を考えて、撮影後の楽しみにしました。

▲ 7:22 第1次、芭沟站到着。7:38、折り返しの下り列車、第1トンネルを出る。右側の小屋は、列車が走行する際に、トンネルに人が入らぬように注意するトンネル番人です。踏切番と同様に、通過時には何処からか現れます。

今日も一緒に始発列車で出発、芭沟を目指しました。朝の天気は、いつもと同様の雨です。ご両名とは、芭沟站で別れ、私は、第1トンネルを抜けた場所で、折り返しの石渓行き列車を待ちました。

撮影後は、朝食を食べに、芭沟の青空市場に行きましたら、食堂で、またお会いしました。小さな町ですので、食べに行く所は、まあ決まっています。お粥とマントウで3元=約42円です。昨日の朝食より、雰囲気もよく、美味しく格安でした。
▲ 魚、肉、野菜等々の朝市が広場で開催されます。芭石鉄道沿線の人々は、ここで新鮮な食料品を調達します。

他に、ミシンを持参して、靴や衣類の製造や修理もやっていました。

ご両名が、定番の撮影地、溜池に先に向かわれた後、青空市場を散策していたら、突然にSLの汽笛が聞こえました。どうやら、不定期の貨物列車が、今日は運行されたようです。站へと急ぎ、売店で通過したのを確認後、第1トンネルに向かうと、どこからか、踏切番が現れて、踏切の遮断機が降ろされていました。

折り返しの列車は何時に来るのかを聞きましたが、直ぐに来るだけの返事です。トンネル上に登って、待ちました。

9:18、石炭列車、芭沟を通過。芭石鉄道の踏切遮断機は、全て手動式です。

次の撮影予定地は、上り列車が、第2トンネルを出た所です。少し長い第1トンネルを地元の人と一緒に抜けて、向かいました。ここでは、トンネルも日常の生活道路です。

▲ 10:58 第2トンネルを出る、上り第2次▲ 11:16、第1トンネルを出て、第2トンネルに向かう下り第2次。

今日は、足の痛みが、幾分消えました。しかし、無理は禁物です。ゆっくりと歩き、昨日、休憩した焦埧站に、11:40到着。中国語を教えていただいた雑貨店のおばさんは、近所の人3人で、何か分りませんが、中国版花札のような物で、遊んでいました。この辺りでは、2人寄れば、トランプ、3人寄れば花札、4人寄れば麻雀をする。成都に近づくと、麻雀の音がするというぐらいゲーム好きな人々が多いそうです。

焦埧站から約8分で、観光列車のみ停車する溜池の站に到着しました。
芭石鉄道一の大築堤がある撮影地の山を登ってみましたが、最高部まで行っても、背景に菜の花畑はありません。
そうなんです。菜の花は、種を秋に蒔かないと、咲きません。毎年、菜の花畑の位置は変わっています。残念ながら、今年この地区には、種が蒔かれなかったのです。

今日も撮れる列車は、後3本です。買っておいたソーセージ等で昼食をとりながら、ここで撮ろうか、どうしようかと思案しましたが、今回はパスしました。

再び、徒歩でのロケハンを続けました。気に入った撮影地は、第4トンネルを出た背景に菜の花畑が見える場所でしたが、約2時間半もあります。時間つぶしが必要です。仙人脚站まで歩き、焦埧站と同様に、駅構内の雑貨店前の椅子に腰掛けて、寒くなってきましたので、火鉢にあたりながら、おばさんとの中国語勉強を始めました。

▲ しばらくすると、どこからか、地元のイケメン高校生がやってきて、バトンタッチです。聞けば、今日は学校が休みで、犍為の寄宿舎から自宅に戻ってきていると言います。

芭石鉄道沿線には、小学校が菜子坥站近くにありますが、中学校以降は、石渓站からバスに乗って犍為の町まで行かないとありません。授業時間は、8:00~21:00までですので、自宅からの通学は無理です。学生は、寄宿舎で合同生活をします。

彼との会話は、自己紹介に始まり、何処から何をしに来たか、学校で勉強した日本を、いろいろと聞いてきます。分らない言葉は、電子辞書を開けて、ノートに筆談です。

丁度、撮影に良い時刻になった頃、彼の友達が呼びに来ました。再見と次回の再開を約束して、撮影場所に向かいました。

▲ 15:20 上り第3次の撮影が終わった後、次の撮影地の菜子埧站までの、約2キロ強を約40分余りかけて、ロケハンしながら歩きました。

菜子埧站到着の菜の花畑の下り第3次を撮影後、すぐにその列車に乗車して、蜜蜂岩站に戻りました。

▲ 16:18 蜜蜂岩站到着。この站でのの撮影を忘れていましたので、第4次も含めて、発着を撮りました。

まだ、ご両名は撮影に没頭されているようでしたので、1本3元=約42円ビールを飲みながら、待ちました。今夜も4名だけの宿泊客の民宿です。

もう少しは、芭石鉄道での撮影を続けたかったのですが、既に明日のホテルを予約しています。鉄路切符も購入していましたので、予定変更が出来ません。今回、撮れなかったシーンは、来年に残しておこうと、決めました。

民宿の主人に明日の出発を伝えて、宿賃を支払いましたが、4泊と1朝食4夕食の合計は、210元=2,940円でした。ここに来るには、大変な苦労が必要ですが、短期滞在だけでしたら、多少散財しても、福澤諭吉さん1枚でお釣がきます。

この夜は、撮影した画像を見せ合いながらの昨日にも増して、盛り上がった夕食兼宴会タイムでした。 Part8 へ続く

2010年 早春の中国一人旅 Part6 雨の芭石鉄道

帰国後、桜前線を求めて、九州、四国とぶんしゅう7号と旅にでました。その間、投稿ができずで、間が空きましたが、芭石鉄道の続編を掲載します。

第7日目 2010年3月8日

① 蜜蜂岩6:52-(第1次)→7:32黄村井
② 焦埧15:40-(第3次)→16:04蜜蜂岩

今日も早起きして、英国人親子&通訳と一緒に、6:32発(実際は、20分延着)黄村井行きの始発列車に乗車しました。彼らは、次の菜子埧站で下車しましたが、私は、終点まで向かいます。

▲ どの站も土日を実家で過ごし、寄宿舎へと向かう中高生が、始発の石渓行きを待っていました。左は、焦埧站、右は、芭沟站です。
続きを読む

教えましょう【7658】

彼の家の裏の線路際です。

但し、ストリートビューのない時代、1965年10月16日の撮影です。この次のコマが、蒸機が金色に輝いて見え、ピク191号D51特集に掲載された有名な写真です。4,5人が蒸機の接近に慌てて、彼の家の木戸を開け撮影に走ったのですが、できたのはこの撮影者のみ。自慢作の一コマ前がこれです。彼の家も写っているでしょう。
列車は小荷物2045レ、D51145【奈】+D51934【亀】

次にも彼の家が写っています。上の写真と共に、スキャナーの苦手な軟調写真です。ゴミ箱に入っていたのですが、ひょんなことから復活しました。この撮影日は精査中です。上の写真とは、2階や物干し台の様子が異なります。理由は判りません。D51145【亀】単機回送です。

これらの写真は24日に持参すべく考えていたのですが、【7658】との行き掛かり上、先んじて公開します。また、この他にカラー写真が1枚あります。数人の青年と共に、彼の家の屋号が写っています。肖像権(これとて50年の時効寸前で問題になるほどの代物ではありませんが)もあり、24日に持参とします。

教えて下さい!

検索サイトのストリートビューを覗いていましたら、こんなお家がありました。こんな田舎まで町並みを撮影しに行ってるのか?と思いましたが、だれが撮ったかは差し置いて何てお家なのでしょう。家のすぐ裏には線路があるようです。