【馬路温泉から魚梁瀬へ】
馬路温泉から約16キロの山道を森林鉄道遺産を見学しながら魚梁瀬に向かいました。
▲ 馬路村から魚梁瀬までもトンネル1箇所が林道として、橋も3箇所が拡幅され一般道路として利用されています。中にはトラス橋もありしっかりした橋が築かれていたことが分かります。途中、森林鉄道で使用されたレールと連結器が山積みにされて放置されていました。保守にでも使われるのでしょうね。森林鉄道遺産についての詳細は、魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアムに紹介されていますので、こちらをご覧ください。

▲ 森林鉄道を飲み込み廃止に追いやったダムですが、景観はコンクリート製と比べると、辺りの自然と上手くマッチしているように見えました。
じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part4 馬路村へ 魚梁瀬森林鉄道3の2
第2日目 5月5日
① 「道の駅 田野駅屋」 7:30→9:00馬路温泉
② 馬路温泉→郷土資料館→11:30魚梁瀬
③ 魚梁瀬12:40→13:25馬路温泉
▲ 土佐くろしお鉄道「田野駅」の駅の下が、道の駅「田野駅屋」となっています。朝7時になると近辺の農家のおばさん、おじさん達が軽トラックでやってきて、朝に畑で収穫した野菜を並べて販売準備を始めました。 続きを読む
乙訓のつぶやき
本来「乙訓の老人のつぶやき」なのかもしれないが、身近なことを少々。
このところ旧京阪、対岸からは5月28日のダイヤ改正の話が聞こえてくるだけである。上り列車も高架線になることで、待避線がどのように使用されるのか、これに関心を寄せている。こちら新京阪線、洛西口駅の高架線化は昨年12月9日に下り線も仮線に移行がなり、工事を一気に進めるべく目下準備が進められている。しかし上り線高架線の構築後、下り線に着手するようで工事完成は平成27年度となっている。完成は5年先とは先の長い話だ。でもこの工事で桂駅下手の山陰街道踏切、洛西口駅上手の物集女踏切での渋滞が解消され結構なことだ。
さて5月14日土日ダイヤ改正で以前報じられた「京とれいん」が走り出す。4月23日、クローバー会総会で乗らなかった方、上りは梅田発09:52、11:52、13:52、15:52の4列車です。河原町まで所要43分、快速急行なのに定期急行の2分後の後追いです。定期特急と比べると茨木市、高槻市、長岡天神が通過になっています。茨木市で普通(高槻市行)が特急待避で8分停車となっています。そして河原町は2番線に入線、折り返しにはたっぷり時間をとっています。河原町発11:01、13:01、15:01、16:42発です。終発を除けば河原町で26分休憩することになり、ご老体を労わる事になります。この列車、土日のみ運転で、ご老体がへたった時はオールロングシート車で代用されるからご容赦を!
続いて朗報。河原町~関西空港間が1300円で乗れるキップが発売されると発表があった。新快速攻勢でやられ放しの民鉄、JR西日本「はるか」と比べると2,000円ばかり安くなるという。お暇な方、計算してみて下さい。これも土日昼間に河原町~天下茶屋間に20分毎に準急を走らせるようになるからだ。新京阪沿線から大阪南へ暇人を引張り込む作戦に関空連絡準急を上乗せした形だが、堺筋の繁華街、日本橋~動物園前間に阪急沿線族がどれだけ関心を寄せているか疑問だ。となると、南海ラピードに連絡する列車は、座席間隔狭い飛行機の愛用者には好評となろうが、思うようにいかぬが世の習い。しばらく静観することにしよう。
じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part3 馬路村へ 魚梁瀬森林鉄道 3の1
第2日目 5月5日
① 「道の駅 田野駅屋」 7:30→9:00馬路温泉
② 馬路温泉→郷土資料館→11:30魚梁瀬
③ 魚梁瀬12:40→13:25馬路温泉
朝日が上がる早朝6時に、ぶんしゅう7号の寝台車内で目覚めました。ゆっくり起きだし、朝食準備をしていますと、ご老公は地元の朝散歩族の方々とコミュニケーションを楽しんでおられます。私も中に入って林鉄時代の話を聞き入りました。
今日は馬路村に復元されている森林鉄道を訪問します。ただ、運行されているのは日祝日だけです。電話で確認を入れましたら5月3日~5日は大丈夫と言う事でしたので、昨日約450kmもの道のりを走ってきました。馬路村には2箇所に走っていると聞きましたので、かつて森林鉄道が走った安田川沿いを馬路温泉に向けて上がっていくことにしました。
【馬路村との出会い】
学生時代は小さな蒸気機関車が走る森林鉄道(略;林鉄)など全く興味がありませんでした。身近にC57、C58やD51が走る山陰・草津・信楽・関西本線が蒸気全盛期を迎えていて、気が向けばいつでも撮りに行けました。小さな蒸気はせいぜい小海線を走るC56が大好きだったぐらいです。
馬路村を知ったのは昨年3月にTV番組「めざせ!駅弁日本一」を見た時でした。京王百貨店で1966年(昭和44年)から開催されている大会(正式名;元祖有名駅弁と全国うまいもの大会)に、今は廃線となってしまった路線から、懐かしい駅弁をご紹介する企画として、「馬路村の村おこし弁当」が特別参加されていました。
▲ 馬路温泉で注文した地元食材をふんだんに使って調理された村おこし弁当駅弁。見てのとおりボリュームはありませんが、素朴な山菜料理でヘルシーです。
じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part2 高松琴平電気鉄道
春の大型連休が終わりましたが、皆様どのようにお過ごしになられましたでしょうか。旅行・撮影にお出かけになられたり、鉄道模型製作に励まれたかと思っておりますが、私は乙訓の老人こと「ご老公」のお誘いを受けて一緒にぶんしゅう7号に乗り、5月4日から8日まで4泊5日の四国路の旅に出ました。
お互いに老朽化で車体・モーター・台車に多くの問題をかかえていましたが、幸いにして故障発生はなく無事帰還いたしております。今回は、天候にも恵まれてゆっくりと、新緑がまばゆい四国路を回ることができましたので紀行記をご披露させていただきます。
第1日目 5月4日
① 乙訓 6:00(名神・中国・山陽・瀬戸中央・高松自動車道)→11:30 琴電岡田
② 琴電岡田付近→滝宮駅→土器川鉄橋(旧型車両走行撮影)
③ 土器川鉄橋 13:55(高松・高知自動車道)→土佐くろしお鉄道田野駅(道の駅 田野駅屋)
連休中の高速渋滞を考慮して早朝6時に出発しましたが、予想に反して空いていました。快調に走行を続けましたが、岡山手前で突然に渋滞に遭遇、見れば車10数台の衝突事故でした。まだ警察・救急車も来ていなく発生したばかりです。本線上に止まる事故車を避けながら抜けきりましたが、道中での高速事故遭遇はその後2度もあって、その都度渋滞に巻き込まれました。連休中は普段、高速道路を使わない不慣れなドライバーが多く、こういった事故発生による渋滞が多発します。自分達も加害者にならないようにスピードは控えめに慎重運転に努めました。
今日は琴電の旧型車両4連が走行する日です。ご老公が若き日に自転車に乗って走り廻り、情熱を傾けられたお奨めの撮影地を目指しました。聞けばこの時期は「こいのぼり」が乱立しての一緒の撮影が出来たそうですので楽しみにしましたが、全くこいのぼりが見えません。どうしたことかと嘆くご老公ですが、若者の過疎化、また少子化という時代の流れは、5月の風物詩まで奪ったようです。
11:45、高松築港からの3221。23+500+200+120の旧型電車4連。岡田~羽間。
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米手作市氏の誘いに乗る
毎朝この掲示板を開けるのが日課だが、またもや米手作市氏からチョッカイが出たではないか。で、すぐさま乗せられ、いそいそとスキャンする羽目に。
この真四角鉄箱電車に関しては老人の出る幕はない。台車だけである。これは雨宮製作所1926年製で、元来下野電気鉄道デハ103が装着していたものである。独特の板台枠をアングル材で補強、軸バネはウイング。写真は株式会社雨宮製作所の『機関車・車輌案内』(カタログ)掲載で、側面がノッペラボーだが、現実には丸穴が5個開いている。軌間762mm用で、花巻と下野電気の50人乗りボギー電車=花巻は電動機30馬力×2、ギヤ比4.93だが、下野は25馬力×2、6.67。

雨宮カタログの台車 762mm軌間ながら車輪径は1067mm並みの864mm ホイルベースは1,498.6mm 現実には側板に丸穴が5個穿ってある 左上は雨宮製作所の社紋
ところで下野電気鉄道デハ103は、出力とギヤ比以外、盛岡電気工業→花巻温泉電気鉄道(鉄道線)デハ1~4と同じ図面で製造された。下野の写真が得られないので、花巻デハ2で代用しておく。

花巻電鉄デハ2 1960年3月18日湯口撮影 花巻 本来鉄道線用の車両だが オッソロしい急カーブがある狭い併用軌道の軌道線対応のため連結器が独特である 下野電気鉄道デハ103も外見は同一
下野電気鉄道は1929年1067mmに改軌(1943年6月30日東武鉄道に合併)されたから、この電車はたったの3年余しか走行しなかった。その後東武浅草工場で保管され、1939年台車だけ日本鉄道自動車が引き取って1067mm用に改造し、銚子電気鉄道デハボ101に装着して再起した次第である。なお台車は現在東武博物館と上毛電気鉄道で保管されている由。
銚子電鉄101
「和歌山鉄道クハ803など」他を拝読して
湯口先輩が4月19日に投稿された「【13023】和歌山鉄道クハ803」の米手作市様の質問に対する回答の中で「同型車が2両存在し、その内の1両が和歌山鉄道のクハ801となり、もう1両は小湊鉄道のジハ50からハフ50となり生涯を終えた」と解説されておられる。口之津鉄道のキャンセル品を手直しの上、新車として芸備鉄道に売り込んだ話は初めてお聞きして改めて「事実は小説より奇なり」と思った。
小湊鉄道時代の写真は「内燃動車発達史上巻」のP91に湯口先輩が撮影されたハフ50の鮮明な写真が掲載されているのでお持ちの方はご覧いただきたい。
現車は昭和37年3月に廃車されたが、昭和45年3月に訪れた時、車庫の中に昭和36年3月に廃車されたハフ10と共に残っていた。小湊鉄道は廃車しても直ぐには解体しないようで、平成9年3月に廃車となった元三信鉄道買収国電改造のキハ5800が残っている。佐久間レールパークの跡地を整備して、近江鉄道、岳南鉄道、遠州鉄道に残る飯田線所縁の電気機関車と共に保存できないものかと思う。
余談になるが滋賀交通のバスもかつては廃車後直ぐに解体せずに社有地に留置され、寺庄の元本社には戦前製のバスが長い間放置されていた。さすがに今は無いと思うが、最近まで残っていれば福山の「時計と自動車博物館」で復元されていたかもしれない。

小湊鉄道ハフ50 五井(45-3-20)/廃車8年後も残っていた。

ハフ10 五井(45-3-20)/こちらは廃車9年後/昭和5年松井車輌製

【参考】キハ5801(隣がキハ5800)五井(45-3-20)/元三信電鉄デ302→国鉄クハ5801
4月27日に投稿された「【13096】奈良電クハボ601など」は、戦後の混乱期が収まった頃の貴重な画像で、C51100もさることながらオハ70の現役時代、片町線キハ41500等は、よく撮影されたものと思う次第である。撮影された車両の昭和40年代の画像を電車を中心に並べてみた。
3番目のスロハ32は、京都周辺では昭和39年10月のダイヤ改正まで山陰線の811レ(京都9時38分発門司行)に連結されていた。昭和39年から台枠流用でオハネ17の改造種車になるものが出現し、残りも昭和40年格下げでスハ50となった。

スロハ3247 京都 (39-7-26)/昭和40年8月30日付でオハネ172241に改造

スハ502104 仙台 (40-3-22)/元スロハ3252→昭和34年電暖取付スロハ322052→昭和40年3月20日格下)仙山線使用
4番目の近鉄伊賀線のモ5252は湯口先輩の解説の通り元信貴山急行電鉄の車両で昭和5年日本車両製である。同電鉄が戦時中不要不急路線として昭和19年に廃止され、当初南大阪線で使用されていたが昭和21年に伊賀線に転属した。3両新製されたが1両は事故で廃車となり2両が近鉄に引継がれた。湯口先輩が撮影された時点は原形のままであったが後に台車をTR10に取替えた。昭和49年4月8日に訪れた時は、モ5251は元伊勢電のモニ6202と、モ5252は元伊賀鉄道のモニ5184と編成を組んでいた。
これも全くの余談であるが昭和40年代に慶応鉄研さんが誠文堂新光社より発刊された「私鉄ガイドブックシリーズ」の「近鉄」編のモニ6201の解説で「ク5360以外と連結されない」と書かれているにもかかわらず、後ろに連結されているのがモニ6202と思われる車両で思わず苦笑した記憶がある。
9番目の電動貨車は、大正11年藤永田造船所製で5両作られ、後の改番でモト51~55となった。画像の951はモト51に改番され、後にクレーンが取り付けられた。全車昭和44年9月の昇圧まで在籍した。

【参考】モト71 新田辺 (42-10-21)/元奈良電デトボ361(昭和25年近畿車輛製)
10番目の600形4連の急行は、新生駒トンネルが開通するまでは奈良線の主力として、普通から急行まで幅広く活躍していた。800、820形で運行されていた特急の代走でも見たことがある。その後は舞台を京都線、橿原線に移し、1500V昇圧時も全車改造された。

モ625他4連奈良行臨時急行 布施 (39-5-12)/当時急行は鶴橋~石切間ノンストップで布施は通過したが、臨時急行は特急待避のため停車した。

モ608他4連 上鳥羽口~竹田 (44-7-19)/2両目は鋼体化改造車のサ300が連結されている。
次のデハポ1000形は奈良電を代表する車両で、昼間の普通は湯口先輩の画像のように単行で沿線の人から「カラ電」と呼ばれる程乗客が少なかった。昭和40年代になると沿線人口の増加によりラッシュ時に4連の急行が出現し、4基のパンタを上げて走る姿は壮観であった。1500V昇圧時に荷電に改造されたデハボ1016→モ445→モワ61(昭和46年の改番モワ87)以外は全車廃車となった。

モワ87 平端 (49-6-16)/車体にはあまり手が加えられなかったためよく原形を保っていた。
最後の片町線のキハ41500は、非電化区間の写真自体珍しく非常に貴重である。私が知っているのはキハ10、キハ20の頃で、当時(昭和45年頃)の片町線の昼間のダイヤ長尾行と四条畷行が各40分間隔、従って片町~四条畷間20分間隔。長尾行は1本おきに木津行に連絡して長尾~木津間は1時間20分間隔であった。長尾は大阪府、次の大住は京都府で、府境を越えての地域間交流は少なく閑散としていた。

長尾駅に進入するキハ20473 (42-12-10)/架線はホームの直ぐ先で切れている。

長尾駅に停車中の片町行/先頭はクモハ73149以下クモハ41×2+クモハ31+クハ79と続くオール運転台付4M1Tの5両編成。ホームは2面2線で駅舎側の1番線を電車、2番線を気動車が使用していた。四条畷~長尾間の電化は昭和25年12月25日と非常に覚え易い日で、今考えると「先見の明」があったと言えるかも知れないが、当時の輸送量を考慮すると、大物政治家か絡む「政治電化」であったらしい。
能勢電51号 最後の日々
米手作市先輩が、能勢電の記事を投稿されていましたので、触発され投稿します。


昭和56年12月19日、氷雨のような雨の降る日を最後に、能勢電 川西能勢口~川西国鉄前間が廃止されました。
私は、当時、高校三年生。受験シーズンの一ヶ月前でしたが、居ても立っても居られず、親の目を盗んで、51号に別れを告げにいきました。最終日とあって、車内は、ラッシュ時並の大混雑でした。
その二ヶ月前の昭和56年10月23日朝が少し寒く感じられる秋晴れの日の朝。黙々と働く51号を撮りにいきました。通勤時間帯でしたが、人影もまばらでした。今考えると、当時でさえ、何ゆえ残っていたのか不思議なくらいの区間でした。当時は、51号が主に使用されており、ごくたまに61号が走ることがあったようですが、私は、51号しか撮影していません。最終日も51号でした。運転は、朝夕だけ昼間は川西能勢口駅の西の端に留置され、昼寝していました。
51型の背景に写っている大きな農業倉庫とケヤキの大木、グランドは、今では、マンションと阪急百貨店となり、往時の偲ぶのは、線路敷き利用した道路ぐらいでしょうか?
並走(その2)
- 07.10近鉄大阪線今里-布施
がんばれ! ひたちなか海浜鉄道
5月1日に、ひたちなか海浜鉄道で、撮影会があり参加してきました。
ご存知かも知れませんが、ひたちなか海浜鉄道も東日本大震災で大きな被害を受け、全線で運転を見合わせており、7月開通を目指しての復旧工事が行われています。現在、代行バスによる輸送が行われています。
那珂湊駅の到着する代行バス 以前の茨城交通時代の鉄道車両同じ塗わけです。
今回は、被害が少なかった那珂湊駅構内を利用して、日ごろ営業運転しているときには、撮影できない7両の車両(現役の車両が8両いて、単行で使用したとしても、2両必要なので、車庫にいるのは、多くても6両となります。)集めての撮影会です。残念ながら、1両(キハ3710-01)は、阿字ヶ浦寄りで地震に遭遇し、那珂湊に回送できず参加できませんでしたが・・・
地震の被害が大きく自社線も不通という状況の中、このようなに催しを開催していただいた関係者の方のご英断に感謝します。
最初は、那珂湊駅一番線 阿字ヶ浦方 ミキ300-103+キハ3710-02+キハ37100-03 勝田方那珂湊駅三番線 阿字ヶ浦方 キハ205+キハ222+キハ2004+キハ2005と留置されていましたが、その後、入れ替えが行われ、6両並びが実現しました。
那珂湊の構内全線使用しての6両並びです。左からキハ3710-02 ミキ300-103 キハ2004 キハ2005 キハ205 キハ222
旧型気動車の並びです。準急色・急行色・一般色・旧一般色
那珂湊駅勝田方 左よりキハ2005 キハ2004 ミキ300-103 キハ37100-03
駅の裏の倉庫が崩れていたり、那珂湊の魚市場前の岸壁が一部海中に崩落していたり、傷跡は残っていますが、魚市場では、威勢のいい声も響いていますし、ちゃんと営業もしています。
那珂湊駅裏手の倉庫 中には山車が入っていました。元気な祭りが再開されることを祈ります。
魚市場で買い込んだ格安な海産物を土産に、一日も早いひたちなか海浜鉄道の復旧と茨城県の復興を祈りながら、帰途につきました。
がんばれ ひたちなか海浜鉄道!
じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part1 旅立ち前
第3回総会も無事終わり、連休明けにはどこかへ行こうと目的地を考えていましたところ、乙訓の老人(以下;ご老公)より「5月4日から8日まで時間が取れたので、前から連れて行ってもらいたいと言っていた四国へ行きたい。ぶんしゅう7号の都合は、どうだろうか。」との電話がありました。
四国へは昨年春に2度参りました。そして秋にも馬路村のトロッコ訪問を計画しましたが、【9712】とほほ…. 馬路村の魚梁瀬森林鉄道行けずにて投稿しましたように、出発直前に断念、リベンジを誓いました。
連休中で大渋滞も予想されますが、恐れおおくも電車の神様、ご老公様からのお話です。リベンジも含めて二つ返事で答えました。
ご老公は手術後まもなく、私も初老で持病持ちですので、無理なく動ける行程を組んでみましたので、訪問したい馬路トロッコへ確認電話を入れますと3~5日は運行するが、後は8日の日曜日だけです。それもお客があればとの返事でした。8日に乗車と撮影すれば、当日中の帰宅は強行軍となり無理です。
高松琴平電気鉄道(以下;琴電)も旧車両が5月連休中は、3、4日走行します。折角ですので撮りたいと思いましたが、当初予定では現地到着は走行後です。 現地事情に合わせての行程変更が必要でした。
4日 自宅→ 琴電岡田付近にて撮影→夕日の綺麗な土佐湾浜辺で野宿
5日 →馬路トロッコ訪問→朝日のあがる太平洋海岸で野宿
6日 →高知駅、土佐電気鉄道車庫訪問→夕焼けの見える瀬戸内で野宿
7日 →別子鉱山トロッコ訪問→善通寺ご老公姉貴宅訪問泊
8日 →琴電仏生山車庫訪問→帰路
結局こんな予定になりましたが、予定はあくまで予定です。どうなりますやら。
勿論、讃岐うどんや新鮮魚料理等の現地B級グルメと地酒試飲、ゆったり温泉につかっての垢すりは含んでおります。 Part 2 へ続く
江若鉄道三井寺下駅再現(その8)
クローバー会総会、懇親会での久方ぶりの鉄分補給のせいか、翌朝も早くから目が覚めて 午後の浜大津での打ち合わせまでの時間を有効に使おうと 朝食もそこそこに湖西線の電車に乗り込む。湖西線の景色を見るのは初めてである。山科からトンネルを出て大津市内を抜けてゆくが 高層ビルが立ち並ぶ風景に驚く。江若廃止から もう50年以上経っているのだから当然の変化なのでしょうが、50年間 時計が停まっていた身には軽いショックでした。高島市駅付近を散策後、近江今津まで足を伸ばし、往時を偲ぶ。また湖西の景色を楽しんで大津京まで引き返して下車。ここから線路跡を浜大津まで歩くことにする。皇子山総合運動公園と皇子山中学の間の道を進み 三井寺下駅跡に近づいてゆく。すると見覚えのある土蔵が目に飛び込んできた。廃車になった貨車などの留置線横にあった蔵に違いなく、興奮する。写真を撮っていると 通行人から不審の眼を向けられる。蔵は少し改修されてはいるものの くぐり戸のある塀も当時のままで よく50年も残っていてくれたと感激。このあとゆっくりと三井寺下跡、疏水の鉄橋など思い出を確かめながら浜大津に到着。浜大津ターミナルや湖岸の風景の変わり様に改めて過ぎし年月を感じる。沖中先輩、福田氏と合流し 秋の運転会の打ち合わせに臨む。「浜大津なつかしの写真展と鉄道模型走行会」は一応 10月29日から11月3日までの6日間の予定となった。いよいよ話が具体化し、後には引けない状況となり工事にもはずみがつく。三原に帰って やはりあの蔵のことが忘れられず、3連休を利用して再現してみました。
平成23年4月24日撮影
昭和43年5月17日撮影
平成23年5月2日復元
というようなわけでまた一つ三井寺下の再現がすすみましたが、三井寺下構内に隣接した民家群をこの調子で再現するのは容易ではなく(日本家屋は瓦屋根を含め、細工が面倒で大変)、今秋とは言わずゆっくりと気の向くままに再現してゆきます。秋の運転会に向けて クローバー会の皆様には何かとお世話になりますが、よろしくお願いします。
能勢電60型は京都市電514型の仲間?
同志社大学鉄道同好会OB会 DRFCクローバー会 第3回総会開催
2011年4月23日、京都タワーホテルにて「DRFCクローバー会 第3回総会」を開催いたしました。



▲ 総会前に、この春阪急電鉄に登場した「京とれいん」に梅田駅より嵐山まで乗車、トロッコ嵯峨駅にて全国では第2番目の規模を誇るジオラマ見学、梅小路蒸気機関車館見学組と嵯峨野トロッコ列車乗車組に分かれて各自楽しみました。
【DRFCクローバー会 第3回総会 内容】
16:00、東日本大震災で犠牲となった方々、および当会物故会員への黙祷に始まり、’68年度生福田静二の司会により総会が進行されました。議事内容および報告等につきましては下記の通りです。(敬称は省略します)
① 沖中会長よりご挨拶
DRFCクローバー会創設以来第1期、第2期と6年間にわたって会長を務めていましたが、このたび退任され後任としての新役員をご指名、参加会員全員から承認されました。

② 新役員のご紹介
会 長 ; ’64年度生 田野城 喬
副会長 ; ’65年度生 早川 昭文
副会長 ; ’66年度生 小林 純爾
事務局 ; ’67年度生 小西 啓文(広報およびHP管理)
事務局 ; ’68年度生 福田 静二(事業計画)
事務局 ; ’81年度生 原 克浩(庶務)
会 計 ; ’68年度生 井原 実
③ 東京支部設立について
東京地区に在住の会員が多いところから、新たに東京支部設立提案と東京支部長として早川副会長が推薦され、参加会員全員で承認されました。
④ 活動報告
第2期の活動報告が’81年度生 原 克浩よりありました。


⑤ 会計報告
第2期の会計報告が’68年度生 井原 実よりあり、参加会員全員で承認されました。会計報告書につきましては、不参加の方々には別途郵送いたします。
⑥ 会則改正提案並びに質疑応答
’66年度生 小林 純爾より会則改正提案があり質疑応答の結果、参加会員全員で承認されました。第3期以降の新会則につきましては、別途郵送いたします。
⑦ 新役員の挨拶
第3期より新役員となりました 会長;’64年度生 田野城 喬、事務局;’67年度生 小西 啓文(広報およびHP管理)より挨拶がありました。

⑧ 新年度における事業計画
第3期の事業計画につきまして、 ’67年度生福田静二より発表がありました。写真展は東京でも開催される予定です。会員皆様方のご応募をお願いします。詳しくは下記をクリックしてください。
総会につきましては、以上の通りです。
【懇親会】
総会後は全員で記念写真を撮り、引き続いて参加会員親睦を深めるための懇親会が開催され、久しぶりに参加となる、工藤、宮脇、大西、犬伏、西村、杉村、室山、名手、西尾より近況報告がありました。
【その他】
総会関係書類につきましては、DRFCクローバー会全員に後日郵送いたします。その中に会費未納の方々には、郵便振り替え用紙を同封いたしますので、速やかな手続きをお願いします。
また、DRFCクローバー会のホームページ「デジ青」への投稿促進を図るために未登録の方々にパスワード、IDの割当通知も同封いたします。会員方々、ふるっての投稿を願っております。
今年は、撮影会も計画しております。 詳細が決定しましたら、「デジ青」にて紹介いたしますので、こちらも参加ください。
ユースで巡った鉄道旅 -9-
しばらくシリーズを休んでいましたが、しつこく続けることにします。
新幹線全線開業で賑わう鹿児島、ここにも、ユースがありました。何軒かあったと記憶しますが、もっぱら利用したのは”鹿婦”の略称で呼ばれた鹿児島県婦人会館。婦人会館や青年会館がユースを併設する例は各地にありました。自治体の直営ユースではないため、民営のユースに区分され、設備・食事内容にはバラツキがあったように思います。
単なる寝場所としか考えていなかったのか、このユースには全く記憶が残っていません。ただ市電「交通局前」の近くにあったことだけ覚えています。交通局前へは、西鹿児島駅から市電に乗っても遠回りルートになるため、いつも駅から歩いて行ったものでした。
調べますと、館はあるものの、ユースは平成2年に閉鎖されていました。
▲西鹿児島駅前に停車する鹿児島市電300形304号。東京都電120形を昭和24年に購入した、鹿児島初のボギー車で、のちに半鋼製となったが、ワンマン化されず、訪れた昭和44年には、大阪から来た市電と代わりに廃車されている。行き先は、昭和60年廃止になった伊敷線の終点、伊敷町を指している。右側に西鹿児島駅がある。駅前の配線は何度も変更されており、この時代は、向こう側の郡元方面が一直線で見通せるが、昭和46年にクランク状カーブになり、平成16年には、新幹線の開業に伴い、さらに駅舎側に移設されている。

▲鹿児島を訪れる一番の目的は、やはり鹿児島機関区の訪問だった。小はB20から、大はC60・C61まで、昭和42年時点、配置両数は29両と中堅規模ながら、7形式もあり、バラエティに富んでいることでは随一だった。その小のB2010、北の小樽築港機関区のB201とともに、希少なB20である。区での仕事は、給炭用のセム車の入換ぐらいで、ほとんどラウンドハウス横の定位置で昼寝している。煙を吐いて活動する姿を数時間粘ってやっと捉えられた。

▲大のほうのC60・C61は、まだ非電化だった鹿児島本線の旅客牽引用だった。優等列車は、DD51化されていたが、それでも臨時急行はC60が牽いていた。給炭線で、顔を並べた両形式、出自の違いがよく理解できる。いま動態復元されて話題を集めるC61だが、この33号機は、ラストナンバーに当たる。

▲新幹線の終着・鹿児島中央となった西鹿児島。これはまだ鹿児島本線が電化前、新幹線など噂にすら上がらない時代の九州南端の夕方のホーム、多数の通勤客が待ち受ける中に、C60の牽く普通列車が入線する。当時の地方の中核駅からは、これほどの人が、長編成の列車に乗り込んでいた。

▲西鹿児島と鹿児島は、年々西鹿児島の比重が高くなり、新幹線の開業でその差は決定的になってしまったが、昭和40年代の前半でも、西鹿児島が当地の中心駅として機能していた。ただ、車両基地は鹿児島のため、西鹿児島~鹿児島間には、さまざまな組合せの回送列車が行き来した。これは、東京から到着したDF50+20系の「富士」、機回しをした後、アタマにC5765が連結され、回送で鹿児島へ向かう図である。

▲これは夜行列車「はやと」を待つ西鹿児島駅の待合室。盆・年末年始の長距離列車の始発駅では、客をホームに入れず、待合室で集合させて隊列を組んでホームに案内していたが、昭和45年8月末の西鹿児島駅でも、このような方法が採られていた。壁に掲げられた万博の誘致ポスター、「万博はあと12日」の幕があるように、万博閉幕が迫ったこの時でも、人気は絶大で、この日も、夕刻にDD51の牽く旧型客車を連ねた団体列車「さよなら万博」号が、大阪へ向かって行った。世の中、前へ前への時代、列車も満員の時代だった。
心を一つにして
何気なく見ていたテレビ番組、1年かかるであろうと言われていた東北新幹線の復旧が50日でなり、青森から鹿児島がつながったことが報じられていた。このためには全国から3000人の鉄道マンが集められ不眠不休の工事に当たったと言う。英国の鉄道関係者はこんなこと欧州では考えられないと、つぶやいたとか。心ないアナウンサーは「アメリカでは2年かかる」だろうと言った。これはさておき、日本の鉄道技術はこれで世界でまたもや一段と株が上がるであろう。別の番組では地震を感知する装置が東京・青森間で60か所近く設置されており、先震を感知するや全線にわたり非常ブレーキが作動するシステムになっていると報じていた。これで中越大震災の時の様な脱線事故が防げたと言う。そして、阪神淡路大震災の時は土木構築物の損傷が大きく、復旧に日数を要したと言う。日進月歩の例え通り、新幹線の復旧は早くできたが、その動力源となる【電気】の問題で常磐線の復旧工事に着手出来ないのは片腹痛い。常磐線沿線には日本の基幹産業の担い手である生産工場が多い。今わかったことは環境問題、地球規模での資源問題の事を考えても、鉄道の果たす役割が大きいことであろう。JR貨物の存在を忘れてはならない。そして「第3セクター鉄道」とJR線の関係だ。レイルがつながっているのは極わずかではないか。国土交通省にレイルの幅が一緒なら「いざ」と言う時のためつないでおけ係を設置したらどうだろうか。そして米手作市さんが言っていたDL、これも何らかの方法で保有が必要だ。日頃は遊覧線で運転してはどうだろうか。日本はとあるメーカーさんの「ジャスト イン タイム」に、政治を始め何もかも流されてしまった結果が、震災後の日本の姿を露呈しているようにも思える。いま日本国民に求められるのは「心を一つ」にして、震災復興に立ち向うことであろう。我々が愛する鉄道の役割は大きい。邪魔しないように心がけよう。
年金たいくつ男の戯言
今回の総会は雨にも負けず大盛況であった。新会長からは「学生時代の友人で今でも付き合いのあるのは1~2名だが、同好会のOBは別で、このような気の置けない仲間との交流は今後も続けていきたい」と、この様な趣旨のご挨拶があった。全く同感である。鉄道趣味は一人でもやっていけるし、また、そのようにやっている人も沢山おられると思うが、DRFC-OB会クローバー会に入って活動する方がより楽しいし、老後の人生に大変有意義であると感じているのは私だけではないと思う。今回は神奈川、千葉、静岡、愛知、富山、広島と遠方各地からも大勢参加され親しく歓談させていただいた。改めて当会の層の厚さを感じた次第である。東京から京都での会合は新幹線利用の日帰りで十分可能であるが、いつも日帰りでは勿体無く感じ、今回もその前後は好きな撮り鉄を楽しんだので報告させていただく。

2011.4.22 千代川~八木 5006M「きのさき6号」183-701と231M221系
総会前日は乙訓一派のK、F両氏と紀勢線からやってきた振り子電車の姿を求めて山陰線、福知山線を訪問した。昭和47年に廃線となった篠山線の線路跡を探しながら、篠山口到着の頃には豪雨となってしまった。幸いなことにK氏が車から撮影できるように気をつかってくれぐうたら撮影ができた。しかし、一向に雨の止む気配がないのでお孫さんの相手で多忙な乙訓の老人様をお呼びして中国料理による情報交換会を行った。私も当時の乙訓郡神足に凡そ2年住んでいたので準一派として参加させてもらった。

2011.4.23 梅小路蒸気機関車館のC612
総会当日は役員さんの粋なはからいで阪急6300系の「京とれいん」に乗車。嵯峨野のジオラマ見学(一部はトロッコ列車乗車)、梅小路蒸気機関車館見学を行った。梅小路は卒業以来始めての訪問である。当日の運転はハンサムボーイのC612で45年前の見にくい写真であるが併せてのせたみた。この日も終日雨で特に嵐山の渡月橋、丹波口駅→蒸気機関車館→京都タワーはまるで雨中の行軍であった。

2011.4.24 三田~道場 3006M 「こうのとり6号」183-705
総会終了時に若くて活動的なN・Nコンビから「明日中山寺7時に来いへんか」と声がかかる。えらい早い時間に何すんのやと躊躇したが、呼ばれるうちが華やなと思い行くことにした。目的はどうやら振り子電車の記録のようだ。総会翌日は雨こそ止んだが曇天で時折太陽が顔を出す程度。太陽がのぞいた時の183系を披露する。いずれにしても天気は今一であったが、楽しい総会および撮り鉄であった。皆さん御世話になり有り難うございました。報告が遅くなりお詫び申し上げます。
追伸:またも振り子電車と1965.9.3撮影の一ノ関~有壁のC612の144レの説明のところがうまくいかず見苦しくてこれまたお詫び致します。
奈良電クハボ601など
先日のDRFC総会時、小生投稿#12892(2011.4.7)の奈良電気鉄道クハボ601撮影日(1952年12月14日)は確かか、とのお尋ねを受けた。改造前の姿なので、番号ごとの改造時期を知るためだそうである。ネガは古いのが幸いし、フジでもビネガー・シンドローム発生のかなり前の製品だから、事なきを得ている。この日は山科-草津線-関西線-奈良線という、学割での一周で、撮影日に間違いないと確言しておく。
で、事のついでに当日のネガをスキャンする気になり、またまた諸兄のご高覧を強要する羽目に。各コマ全て、すさまじい傷やらスクラッチだが、これは当時写真屋で売っていた、35mm極安パトローネ入りフイルムだからである。太秦の映画会社のカメラマンが、撮影中中途半端に残ったフイルム(残尺という)をくすね、ボスカメラマンの管理下新米の助手が写真屋に売りに行き、酒盛りの原資とする。写真屋では、何度使いまわしたかも知れぬ古パトローネに詰め、小生のような、カネのない手合いが買って、ヒトコマずつ大事に撮影する、という連鎖である。
かなりはデジタル修正したが、遂に根が尽きた。一部は修正が至らないままの見苦しい写真だが、58年以上前の、まだ敗戦後の混乱を若干は引き摺っていた時代として、ご寛容ありたい。なお当時純正の富士35mmパトローネ入り(日中装填と称した)は340円で、FPとSPとの2種類があり、感度は32と64。コダックXXだと500円以上した。10円で国鉄が8kmまで乗れた時代―現在なら8kmは190円である。この非純正フイルムは150円だったかと記憶するが、高校生には大変な出費である。現像代はブローニーが30円、35mmが50円で、自分で現像しだしたのも、少しでも安く上げるためであった。

草津線列車C51100 何やら25%方「お召し」仕様の様な そうでないような

フイルム自体は当然未使用だが、それを詰めたパトローネのテレンプが何回もの使用で劣化し、遮光にやっと耐えていたのと、詰めたのも写真屋の新米丁稚である。なお映画用のフイルムはパーフォレーションの形状が、我々が使うスチル写真用と若干違うことは遥か後年に知った。

関西線でのスロハ

伊賀上野での近鉄伊賀線 旧信貴山急行電鉄の電動車+吉野鉄道の制御車

オハ70 奈良

入換中の6847 型式6760


この日の撮影は草津線のC51100に始まり、伊賀上野で近鉄伊賀線の旧信貴山急行の電車、奈良では型式6760や、狭い窓ガラスがさらに左右に二分され、敗戦後の雰囲気をたっぷり残しているオハ70を。また近鉄奈良線と関西線との立体交差地点で、先般ご覧頂いた奈良電クハボ601やら、近鉄奈良線電車を。保線用無蓋電車の左に学生帽をかぶった高校生が写っているが、彼が一緒に東京まで行ったのに、上野駅で意気阻喪して帰ってしまった、上京中学時代の親友H君で、彼は鴨沂高校、小生は朱雀高校であった。佐竹先輩と小生に久しぶりに会うため、一度サカタニでの写真展打ち上げに顔を出してくれたことがある。

保線用の無蓋電動車951 保線に当るのもすべて正社員ばかり

近鉄奈良線631

これも懐かしい奈良電気鉄道1001

片町線のキハ41500形式
すべての写真の天部が詰まっており、パンタが切れたりしているのは、先回記したように、なまじファインダーにパララックス矯正装置があり、接写でそれを使った後、100%戻し忘れるためである。
「青信号」、ちょっといい話
「青信号」、と言ってもこの「デジタル元祖青信号」ではありません。
本家青信号たる、鉄道同好会創部以来、連綿と受け継がれている紙媒体の「青信号」、それも、特派員の現役時代、ガリ版と謄写版で格闘した手作りの青信号です。
もう何を書いたのか、当の本人ですら忘れてしまっている記事内容を、当会とは何の縁もない人が覚えていたことから話は始まります。
その人、某電鉄会社勤務のKさんは、当時の青信号に書かれた”おとぎ電車”の記事をはっきりと覚えていました。おとぎ電車とは、宇治川沿いをわずか10年の間だけ走った、発電所資材運搬用の軌道を使った遊覧用の鉄道です。
「青信号」に著したのは、いまは富山に幽閉されている、私の3年下のYさん、おとぎ電車の製造・運営に関わったYさんの伯父さんからの聞き書きを数ページに纏めたものでした。
EVE見学に来たKさんは、この記事が載った青信号を購入したものの、いつの間にやら行方不明。ただ、おとぎ電車の記事が載っていたことだけは、はっきりと覚えていたのです。
このたびKさんがおとぎ電車のことを季刊「レイル」に発表することになり、ぜひ青信号を参考にしたいと、出版社のMさんを通じて、私のところに依頼があったのです。
さっそくYさんに連絡し、転載の快諾をもらい、このたび発売された「レイル」78号に、記事の抜粋と地図が、青信号のクレジット入りで紹介されたのです。
改めて40年も前の青信号を見直すと、現在のものとは比べ物にならない、粗末な出来上がりですが、書かれた内容は埋もれてしまうどころか、ますますの輝きをもって、甦ってきたのです。Kさんが「初めて鉄道趣味紙に載った記念すべき記事」と称賛するように、とくに、おとぎ電車の場合、今まで発表された報告もほとんどなく、青信号の記事が端緒になったのです。
改めてこの記事を著したYさんに敬意を表するとともに、我々の著した紙・電子媒体の著作物が、広く鉄道趣味活動の向上に貢献していることを再認識した次第です。
▲いま発売の「レイル」78号と、貴重な参考文献となった「青信号」26号





















