現役生が第19回同志社クローバー祭にレイアウトを出展いたします。
日時:11月4日(土) 12:30~18:30、5日(日) 9:00~16:30
場所:同志社大学京田辺キャンパスTC1-211(知新館1号館211教室)
https://cloverfes.com/2023/store/263
以前の現役生からの投稿です↓
現役生が第19回同志社クローバー祭にレイアウトを出展いたします。
日時:11月4日(土) 12:30~18:30、5日(日) 9:00~16:30
場所:同志社大学京田辺キャンパスTC1-211(知新館1号館211教室)
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▲「雄別鉄道開業100年」展ポスターのC111
いま北海道の釧路市立博物館で「雄別鉄道開業100年」展が行われています。1923(大正12)年、釧路~雄別炭山の開業から今年で100年を迎えました。また廃止の昭和45年まで所属していたC111が、このたび東武鉄道でC11123として動態保存され、「SL大
樹」が2022年から運転されていますが、更新部材を郷土資料として博物館が譲受し、C111の運転台部分が目玉として展示されています。ご承知のように、C111の元を正せば江若鉄道のC111「ひら」となり、私は知る術もありませんが、故・湯口徹さんが優れた写真を記録されていることは知られています。▲江若鉄道で水泳列車を牽くC111(1955年、湯口徹撮影)
このたび、博物館から依頼を受け、終点の雄別炭山で写した鉱員輸送列車を牽くC111を、催事広報のメインビジュアルとして使っていただくことになりました。たまたま撮った写真は、形式写真ではなく、あまり知られていない、作業を終えた鉱員を、3つ先の古潭駅前にある社宅へ送るための鉱員列車を牽いているところがミソです。さまざまなツールにも展開していただき、博物館様のご厚意には深く感謝する次第です。ところが、ある方から「C111もエエけど、それより後ろに繋がっている客車のほうが、もっとエエんちゃう」の声が。
なるほど、いわくありげな客車が繋がっていますね。当時、旅客はすべてDC化されていて、客車が使われるのは鉱員輸送の列車だけでした。C111を写したあと、1両ずつ客車を撮っていました。
2006年11月 初めて鹿島鉄道へ (1)
「あの日あの頃」も続けます。2006年に鹿島鉄道へ行っています。茨城県下には非電化の私鉄が多くありましたが、常総線や筑波線は、連れられて行ったことはあるものの、距離も短く、車両数も少ない鹿島鉄道は、訪問順位が低いものでした。鹿島鉄道がアテにしていた貨物輸送が無くなり、急に先が見え出した、この年の11月にやっと訪れることがてきました。これぞ“ニッポンの田舎”と言った、穏やかな風景、きれいに整備された車両と、すっかり魅入られました。
▲霞ケ浦の湖畔を走る。対岸も望めて、筑波山も霞んで見えている。玉造町~浜 キハ432 鹿島鉄道は石岡~鉾田27.2kmの非電化私鉄。1924年に鹿島参宮鉄道として石岡~常陸小川が開通し、1929年に石岡~鉾田が全線開通した。その後、1965年に取手~下館、土浦~岩瀬の常総筑波鉄道と合併し関東鉄道となり、石岡-鉾田は鉾田線、取手~下館は常総線、佐貫~竜ヶ崎は竜ヶ崎線、土浦~岩瀬は筑波線となった。常総線は都心に近く利用客が増加したが、鉾田線と筑波線は利用客が減少、同じ運賃では採算が合わなくなったことから、関東鉄道は鉾田線と筑波線を分社化させ、鉾田線は鹿島鉄道、筑波線は筑波鉄道に分社化された。
▲広島の街を40年以上走り続けている、もと京都市電の1900形、よく言われていることだが、京都時代よりも広島時代のほうが長くなって、すっかり広島に溶け込んでいる。歳のせいか、とみに1900が愛しく感じるようになった。
最近“デジ青”の低調さが気になりますね。私も、締め切りのある依頼が続いて、いつでもOKの“デジ青”は、つい後回しになってしまい、自省の念に駆られています。言い訳無用、とにかく、自分でできる範囲で頑張るしかありません。
この歳になると、活動は衰えても、頭のなかは、いろいろな思いが巡ります。ひとつは、鉄道趣味も本卦還りするのではという思いです。春にクローバー会で北九州・福岡を訪れた際、広島で路面電車を撮り、北九州・福岡市内でも路面電車の廃線跡を巡りました。生まれた時から市電に囲まれて育ち、その原体験が鉄道趣味へと繋がっていきました。廃止された各地の市電を思い、今も元気に走っている路面電車を見ると、この歳になって愛おしさを感じるようになりました。まさに“本卦還り”ですね。
デジ青では廃線の話題で溢れています。最近乗った妙見の森ケーブル線も今年中には「廃線」となるのは大変寂しい限りです。
今回は和歌山の駅名です。私は、あとは紀勢本線(紀伊勝浦~新宮間)と紀州鉄道に乗車すれば、和歌山の全線完乗となります。奈良交通の八木新宮線(←文句なしで日本一長い距離を走る路線バスです)にも以前より興味があり、近々制覇したいと考えております。
せっかくの機会ですので廃駅名も分かる範囲で記載いたしました。古き良き時代のお話、せひお聞かせください。

別府鉄道、片上鉄道
兵庫県下にも、山陽本線沿いには中小私鉄がいくつかありました。別府鉄道、片上鉄道へも大阪通信員さんは行かれていました。
▲山陽本線の土山から出ていた別府鉄道の土山線、別府港からの貨物輸送が中心で、DLが貨車と二軸客車を牽くと言う、なんとも浮世離れした編成が、昭和59年まで運転されていた。旅客数は極めて少なく、西日本の私鉄で最低の輸送人員だったが、ファンにとっては格好の乗車対象となり、私も何度か乗ったものだった。晩年は貨物量も減少し、写真のように、貨車なしのDL+二軸客車も見られ、手小荷物は、客車のデッキに積まれていた。DLはDD1351で、もとは江若鉄道で、廃止後に別府に来た。
朝夕のみ、能勢電の単行電車
大阪通信員さんの昭和の記録、続けます。おもに撮られた昭和40年代、蒸機に代表される国鉄だけでなく、中小私鉄にも、大阪通信員さんは強い興味を示されていました、関西を中心に、各地の車両を見ていただきます。今回は、先ごろ、鋼索線(妙見ケーブル)、索道線(妙見の森リフト)の廃止が発表された能勢電鉄、川西能勢口~川西国鉄前の国鉄前線です。昭和56年まで走っていて、比較的よく知られていましたが、なにせ、走っていたのは朝夕だけで、私もついぞ撮り損ねた路線でした。
▲地平時代の阪急川西能勢口前から、何度もカーブを描いて、家の裏手の専用軌道を国鉄川西池田駅までを結ぶ0.6キロの路線だった。開業当時、沿線の旅客輸送のみでは苦しく、国鉄からの貨物輸送も狙って敷設されたと言う。廃止前は51、61が専用車として、朝夕のみ運転されていた。川西国鉄前駅はホームだけの構造だった。
第7日目 9月6日
今日は南廻線に走った日本・インド製造の旧型客車による「普快車」がリニューアルされて9ケ月ぶりに「藍皮解憂号観光列車」として復活しました。運行される南廻線に乗ってかつての雰囲気を味あいます。列車は高雄側の坊寮を出発して南廻線を回って台東に着いた後、再び折り返して坊寮に戻るルートです。往路では歴史ある各駅の見学、復路には途中、台湾の原住民、プユマ族の村落のある金崙集落に1時間ほど見学、坊山駅では台湾海峡に沈む夕日を鑑賞するツアーになっています。両方に参加することも検討しましたが復路ツアーは次回にして今回は往路だけにすることにしました。「藍皮解憂号観光列車」の申し込みは出発前に日本で行いました。
▲ 太麻里に停車する「藍皮解憂号観光列車」、この日は、R135+R[22+40TPK32217+35TP32859+35SP32578+TPK32220の編成で運行されました。 続きを読む
第6日目 9月5日 その2
① 十四張 11:20⇒ 12:40 紅樹林
▲ 安坑トラムの乗り鉄・撮り鉄が終わりましたので次は以前に訪問した淡海トラムの延伸はされたようですのでこちらを訪問することにしました。
LRTの十四張からは環状線の大坪林へ向かい、ここで松山新店線に乗り乗り換え、中山紀念堂で淡水新店線に再度乗り換えてで紅樹林を目指します。
紅樹林からは淡水トラムに乗り換えてトラム延伸線を目指します。
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東北地方の話題として、今回は三陸鉄道 (sanrikutetsudou.com)リアス線(全長163.0 kmの日本一長い第三セクター路線)です。震災の困難を乗り越え、全線再開した路線であり、DRFC必見の路線でもあります。【2023/10/2修正】

第6日目 9月5日
昨夜は0時を回ってからのチェックインでしたがホステル『漫歩1948-北車』に入館するのに必要な入口ドアの暗証番号が受け取っていたメールに記載された番号とは合わず、入れません。デカンショまつり号さんが台北に着く前に決められた別の駅前のホステルに変更しようかと悩みましたが突然、ホステルに宿泊されていたお嬢さんが隣のコンビニに行かれるのか出て来られましたのでドアが開いた瞬間に入館することが出来ました。ラッキーでしたが初めて宿泊する宿には早くに着いておかないととんでもないことになります。以前にもヘルシンキで同じようなトラブルにあっていましたので凝りていませんでしたね。
昨夜就寝したのは1時近くでしたが6時過ぎには目覚めました。このホステルは4階建てなのですが1階はエレベーターホールだけでフロントがありません。どこかの階にはあるかなと各階を見て回りましたが4階に自炊スペースがあるだけでした。先客がおられましたので尋ねてみましたがこの方も良く分かっておられませんでした。
福井鉄道
今回の“昭和の鉄道”、少し足を伸ばして、新幹線延伸で沸く福井市を走る、福井鉄道を見て行きます。いま福井駅西口では、高層ビルが建ち並ぶ駅前再開発が進行中ですが、その地区の南側、“電車通り”には、福井鉄道の通称“ヒゲ線”が発着していました。いまは福井駅前広場まで少し延びて、その名も「福井駅」となった終点ですが、少し前までは、「福井駅前」を名乗っていた終点から発車する電車です(以下、昭和41年8月撮影)。
▲背後が再開発工事中の街区に当たり、高さ120mの高層ビルが建ち、事務所やホテルが入居すると言う。福井駅前-田原町の札を下げた、モハ63が発車を待っているところ。後には、デビュー間もないモハ200形が待機する。雑多な電車が集まり、福井鉄道がいちばん面白かった時代。
大手私鉄というと長大路線ばかり注目しがちですが、最も短い路線の存在も忘れてはなりません。乗りつぶしを行う上で大変なのが支線巡りだと思いますが、その中でもとくに最短路線は盲腸線であることが多く、なかなか走破しにくいものです。皆様、この機会に最短路線巡りはいかがでしょうか。

管理人小西です。
今月9日頃より掲示板(WordPress)にて一部ファイルの破損が起こり、タイトル文字が白地になるなどの不具合が発生しました。デジ青利用者の方にはご迷惑をおかけしまして申し訳ありません。遅ればせながら本日までに以下の対応を行いました。
多数更新を行いましたので、記事やコメント投稿に何か問題があれば、コメントか管理者へメールをお願いします。
・安定動作とセキュリティー対策のために、Wordpressシステムの最新版バージョン6.3.1へアップグレードしました。
・破損したデザインテーマファイルの一部修正を行いました。(一部は修復中)
・安定性と動作速度の向上のために、PHPのバージョンを旧バージョンの5.4から最新版の8.Xにアップグレードしました。
・使用頻度の低い古いWordpress Pluginを削除しました。
・X(旧Twitter)の仕様変更によりXアカウントdrfc_obとの連携を解除しました。
・MySQLのバージョンは去年5.7にアップデート済にて様子観察としました。
加太を行く
少し間が開きました。大阪通信員さんが撮られた“昭和の鉄道”を続けます。前回は関西本線の電化区間でしたが、今回は、関西本線の撮影名所地として名高い加太付近です。大阪通信員さんの現役時代には、「小海線を愛する会」と「加太会」と、2つの派閥?があり、ある時は競って、ある時は友好的に活動されたと聞きます。DRFC指定旅館の村田屋とともに、その伝統は引き継がれ、われわれの時代も、加太詣ではまだ続くのです。
▲特急「あすか」(名古屋~東和歌山)もしっかり撮っておられた。昭和40年10月改正で走り始めたが、わずか2年で廃止されている。私も辛うじて加太で走行中を撮ったし、最終日は奈良駅で撮っているが、なにせ高校生の頃、とても人目に晒すような写真ではない。「あすか」は、空気を運んでいた「くろしお」回送を、無理やり客扱いに仕立てたもので、下りは名古屋19:00→東和歌山22:40、上りは東和歌山7:10→名古屋10:50と、わざわざ旅客の有効時間帯を避けて設定したような特急だった(以下、昭和41年撮影)。
私が初めて乗車した無人運転車は、ニュートラムでも、六甲ライナーでもポートライナーでもなく、遠く離れた「ゆりかもめ」でした。無人運転で、ループ線を経てレインボーブリッジを渡っていくあの車窓を今でも忘れることはできません。
ちなみに関西圏に住んでいながら、六甲ライナーとポートライナーは未乗です。
今回の調査で、山万、ニューシャトル、レオライナーが有人運転であることを認識しました。アストラムラインは有人運転だろうと読んでいたのですが、他は意外でした。

第5日目 9月4日
台風は今朝には高雄へと抜けたようです。部屋の窓から見える様子も台風が来る以前のように静かになっていました。今日は当初の予定でしたら台中港線の訪問撮影を済ませた後は新幹線で台北へ向かい解散、デカンショまつり号さんは松山空港から帰国、私は安抗トラムの試乗と撮影に向かう予定でしたが、列車の運休が続き、すべて取り消しです。
7:20 朝食後チェックアウトをして台東駅へと向かいました。
以前の投稿(第25回:「センター」を含む駅名)でコメント欄にお寄せいただいたことがある話題です。
今回は、とにかく「中央」を含んでいれば何でもOKといたしました。老舗駅名から最新駅名までどうぞたっぷりお楽しみくださいませ。
「いずみ中央」、「泉中央」、「和泉中央」がそれぞれどこにある駅名かご存知でしょうか。
