【23979】宮崎交通チハ101~103

敗戦後1ドル360円の超円安レート設定による外貨絶対不足で、石油燃料輸入は厳しく制限され、産業復興のトラックや壊滅状態のバス等に限っての配給が長らく続き、電化あるいは石炭でしのげる鉄道には、配分がなかった時代の、それも最末期に出現した車両である。何度も記したが江若鉄道のみ、米軍の虎の威を借りて独自に燃料を確保し、1948年4月以降他鉄道より2~3年早いディーゼル化を成し遂げたが、常総筑波鉄道をはじめとする諸鉄道は指をくわえて見るだけで、その後も闇ルートで確保した燃料を、代燃と偽って使用するしかなかった。多くの鉄道がこの時期電化に走ったのは周知の通りだし、蓄電池バス、タクシーも少なくなかった。TAMAなる電池自動車も発売されていた。 

宮崎交通の鉄道線では、1950年3月蓄電池動車を3両作り上げた。それというのも、同社には既に電気自動車を扱い、バッテリーに関し技術経験を積んでいた宮崎電気自動車サービスという子会社があり、ノウハウを持っていたのである。国鉄のキハ40000を3両購入し、エンジン、トランスミッション、冷却装置、ガソリンタンク等を撤去。代りに150V50kW電動機を1個装着し、駆動システムは従前のものをそのまま使用=ギヤ比も4.056のままだが、逆転メカニズムは殺していた筈である。

宮崎交通チハ101 1958年3月13日南宮崎 湯口 徹撮影 

車体全長に渡って屋根上に逆L型アンテナ(歳が分るが)が張ってあり、走行中ずっとラジオが流され放しだったのは、当時として大サービスなのだが、勿論真空管式ラジオ受信機である

電池は湯浅80V(40個直列)、252Ahを2組床下に装着し、80V/160V切替及び抵抗制御で、電池直列/並列各4ノッチ、計8ノッチであった。車両の改造は広瀬車両、電気部分は中島製作所と神戸電機鳥羽工場。50kWとは67馬力だから、ガソリンカー時代のGMF13=100馬力に比せば2/3だが、幸いこの線の南宮崎―青島間はさしたる勾配がない。竣功図記載の自重は19.78トンで、キハ40000の18.09~18.35トンに比し、1.5~2トン重くなったのは、ひとえに鉛電池のためである。詳しくは田尻弘之『宮崎交通鉄道部』RM LIBRARY69を参照されたい。

電気車の科学1950年10、11月号、宮崎交通鉄道部長の「蓄電池車の採用について」によれば、車両1両の払下と改造、充電所が200万円、計800万円の予算でスタートしたが、地上設備も含め総額1,153万3,516円、内訳は車両払下3両が214万8,197円、電装とも改造費同216万円、蓄電池予備1組共216万円、充電所費252万4,319円、輸送費30万円とのことである。

走行1km当り消費電力1.48kWh、石炭に比せば動力経費が半減した由。しかし現実にはこの直後ディーゼル化が可能になり、蓄電池化は設備投資と人手が馬鹿にならず、結果論としてはもう少し待ってディーゼル化すればよかったことは間違いない。宮崎交通は追いかけて蓄電池機関車2両も増備し、それでいて蒸気動力も残存するという、二重投資を余儀なくされ、ディーゼル化することはなく、国鉄日南線に土地を譲って1962年7月1日廃止したのであった。

なお電池動力は米手作市氏ご指摘の通り、かつて国鉄にAB10なる蓄電池機関車があったのは、火薬工場での引火を恐れたためである。他には鉱山等の産業用に電池機関車はかなり存在し、敗戦後では本郷軌道が蓄電池動力を併用している。旅客運輸動力に蓄電池を採用したのは、範多商会が輸入したエジソン・ビーチ電車を、神戸電気鉄道(現在の神戸電鉄ではなく、神戸市電の前身)が、1906年に試用した例しかない。結局このエジソン・ビーチ電車はどこにも売れず、小樽の石炭埠頭で使用する計画もあったようだが、軌間が1435mmでもあり、実現せず。

現在に至って、新鋭電池によるテストは少なからず行われているが、さて、商業ペースでの実用となると話は別である。なおドイツではかなり古くから、電池動車が実用化されていたが、結局はディーゼルに敵わなかった。


【23961】60年前のエコ・カーバッテリーカー

宮崎交通のチハ101型、今はやりのバッテリーカーの走りです。そういえば昭和の初めに国鉄が非電化区間用に蓄電池機関車AB10型、後に電装されてEB10型になった事もありましたね。

ほかにも“電池式自走客車”があったかもしれません。


【23775】八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part11 SOLO(ソロ市内線)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第7日目 8月10日 2の1

am; ソロ(スラカルタ)のIndah Palace Hotel 6:30→6:40 ソロ市内線(6:40~10:15)→
pm;
 →14:53 PC Tasikmadu(15:00~17:30) 17:28→ジョグジャBorobudurのManohana Hotel

▲ インドネシアのおかあさんたちは、笑顔一杯でたくましく見えました。Solo-Kota駅では、そんな光景に囲まれました。だから子供たちも元気に育っていくのでしょうね。

6:40、市内のホテルから約10分でPurwosari駅に到着しました。今日ぼ午前中は、この駅からの営業している支線を使ってのチャーター列車に乗車してのフォトランを楽しみます。


▲ 初めてのインドネシア鉄道の駅に入りました。古い駅舎ですが、ベンチを並べた広い待合室や食堂もあります。

切符販売窓口は2つで壁に時刻表と、運賃表が掲示されていました。上左は、Kutoarjo行きのローカル列車のようです。右は本線の長距離列車と思われますが、インドネシア語ですのでサッパリ分かりません。黒テープは”Batal”(キャンセル)としてありました。全体を見る限り列車本数は、少ないように思えました。
左は運賃表です。 Rpに値段に”00”を取った額が、おおよその日本円換算です。(例 Rp35,000→350円)かなり安いですね

事務所を見てみますと、左側に手動式と思われるポイント交換機がありました。日本の手動式交換機とは違った形状をしています。多分、オランダ植民地時代の年代物なのでしょうね。


▲ 我々が乗るチャーター列車に行きますと、なぜかおばあさんが幼児を抱えて乗っていました。待合室からはフリーで入れますので、チャーターと分かっていても遠慮なく乗り込むのですね。勿論、鉄道員も我々も何も言いません。OKです。

▲ 牽引機はC1218号機です。この駅のホームですが、5本あって全て線路を挟み込んでいます。乗降分離式ですが、さほど乗降が多いとは思えません。待合室からホームへは、跨線橋や地下道も設置されていません。線路を横断する昔からのバリアーフリー式です。これなら乗りやすいですね。

▲ 神谷隊長は、「駅発車後は一旦止まります。それぞれ好きな撮影ポイントに行ってください。」と言われましたので、先に行く方に付いていきますと、民家の中に踏切と腕木式信号機との組み合わせポイントに出ました。ここに決めて発車を待ちます。
7:00、発車を告げる汽笛が鳴って列車はやってきました。

記事の続きを読む


【23925】夏の思い出 総決算 -1-

気がつけば9月も下旬です。ここしばらくクローバー会会員とともに、鉄道誌への寄稿・校正作業に追われ、やっと終わったのが、一昨日の午前5時でした。

この間、ずっと家に籠ったままの生活が続き、外は暑いのに、撮影にはとんと熱くならないまま夏が終わってしまいました。

掲示板では役立たずの状態が続いていましたが、これまでの埋め合わせのため、少ない材料を駆使して、夏の報告、総ざらえです。

この夏、珍しく海外旅行が相次ぎました。と言っても、台湾ですが…。

ただ台湾は、本欄でも、準特急さん、ぶんしゅうさんはじめ、デカンショさん、ブキウギさんから、その良さを刷り込まれています。別の用務が発生し、急遽、台湾行きとなりましたが、用務の間に、しっかりカメラに収めてきました。

確かに今も、日本の国鉄時代の懐かしい光景が見られる台湾鉄路ですが、そのなかでも客車急行列車は、まさに国鉄時代の東北本線・山陽本線の再来を思わせる列車で、すっかり魅せられました。今回は、客車急行列車に絞って紹介しましょう。

台湾鉄路には4種類の運賃タイプがあり、日本で言えば、特急、急行、準急、普通列車に相当する。日本のような運賃+料金の概念はない。時刻表に莒光號Chu Kuang Haoと表示されているのが、この急行列車である。すべて客車編成で、電化区間はEL、非電化区間はDL牽引となる。客車は、冷房付き、リクライニング転換クロスシートで、日本で言えば14系客車に当たる。日車・日立で製造されたが、1970年以降の増備車は台湾製もあり、総数は400両を超える。客車の形式は、数字2桁(自重)+英文(種別)+数字5桁(形式区分)の表し方、種別のうち、FPは商務車(1等車)、SPは普通車(2等車)、Kは車掌室付きとなる。製作年代によって細部は異なる。

写真は、台湾高鉄(新幹線)台中駅との乗換駅、新烏日NewWurihiに到着する莒光號655次、台湾高鉄開業に伴い、相互乗換駅として新設された。655次は、台東発高雄行きの夜行列車で、台湾一周路線のうち、10分の9を走破する台湾鉄路最長距離の列車、オール座席車なので台湾版「八甲田」「桜島・高千穂」と言ったところ。

今回は電化区間しか行けなかったので、先頭に立っていたのは電気機関車のE200型である。1976年GE社製で、ほかにも同系としてE300・E400がある。高運転台で、オレンジ部に腹掛けラインが入って、いかにも米国製らしい無骨なスタイルだ。

写真は、平渓線との分岐駅、三貂嶺Sandiaolingを通過する莒光號。付近は、まるで国鉄時代の保津峡か武田尾の趣きだ。

集集線に少し前から動態保存運転されているDT688(D51)を撮影後、乗換駅の二水Ershueiへ。ビンロウ(檳椰子)の樹がいかにも、南国へ来たことを感じさせてくれる。1両目の青色車は、行李車(荷物車)の45WBK80009、2両目も同型車の45WBK80001である。このように1~2両の荷物車の連結が常で、これも国鉄時代である。時刻表には記載がないが、一日数本の荷物専用列車も走っている。

莒光號を駅撮りではなく、駅間で撮りたくなった。台北から2時間程度で行けるお立ち台として、宜蘭線の大里Dali を選んだ。駅から10分も歩けば、太平洋の大海原が見える。沖にはカメの姿に似た亀山島が見える。ポジションも並行する道路から簡単に収まる。おまけに、東部幹線の一部だけあって列車本数も多い。まさに、新幹線開業前の山陽本線須磨下車徒歩10分の気分だった。


【23879】DRFCなにわ船場鉄道フェスティバルに再登場!

先に「大津の86」特派員から速報された来る10月12~14日に、【船場まつり】で再び「まつり」の盛り上げ役としてDRFCは活躍する。次回は関西大学、大阪市立大の鉄研との合同参加で、今回好評を呼んだNゲージ京阪電車オンパレードに加え、新機軸が計画されている。【船場まつり】は大阪・中央大通の階下の船場センタービル中心に北は本町通、南は南宝寺商店街、東は堺筋、西は御堂筋を中心に広い範囲で開催される。開催は10時から16時まで、衣服をはじめ掘り出しもの雑貨などの「のみ市」がうりであるお買い得の祭りである。親父一人で訪れるのはもったいない。家族お揃いで、友達誘い合わせ、財布を緩めるつもりででご参加ください。DRFOは御堂筋の西、10号館1階で展開します。

尚、老頭児特派員は13日午後、「船場鉄道フェスティバル」コーナー周辺をウロウロしようと思っています。三条京阪では折りたたみ椅子があり、90分間休息させて頂きました。そこへ会長さんのみならず多くの方と言葉を交わすことが出来ました。15時30分、片づけに入った時、京阪電鉄鉄道企画部の方が挨拶に来られ、来年以降も今回の企画を継続させるので協力要請がありました。「こちらこそよろしく、ご要望あれば現役にお話し下さい、OB会としてバックアップさせていただきます。」との返事をさせていただきました。


【23857】サークルステーションIN三条

 本日京阪三条駅にて行われた「サークルステーションIN三条」に行ってまいりました。会場でお会いした米手作市様より、デジ青に様子をアップするようにとのご依頼で報告させていただきます。

 

地下コンコースの一角にグリークラブ等が順に発表するステージがあり、その奥のスペースに9mmゲージのレイアウトが置かれています。京阪の車両が走行し、コントローラーも解放され、子どもたちも運転を楽しみ、ステージの発表に負けず劣らず人が集まっていました。一角ではビデオが上映され、先日受賞された「学生支援センター所長 地域貢献賞」の盾も置かれていました。

  この受賞もあって今回のイベント出展依頼が来たそうです。また、10月12~14日には船場祭り2012にも出展するそうで、これからますます鉄道趣味を通しての地域への貢献という活躍が期待されます。乙訓の老人様もお見えになり、同じく10月14日に南草津で行われる佐竹先輩の講演会の案内を渡され、現役会員とOBとのコラボもあった今日のイベントでした。