関三平先生から、先日の「昭和の電車・国鉄クハ79060」へのご質問に関してお手紙でご回答を頂きました。関先生も乙訓の長老も電子手紙はお嫌いなようで、“巻紙”とは言いませんが、お手紙に資料写真を添えてお送りくださいましたのでご紹介します。なお、資料写真は原版をコピー機で複写したものです。
初回の時に藤本さんの解説にあり、先日の投稿への河さんからのご指摘にあった『クハ79066には運行表示窓があったはず』についてのご回答です。
関三平先生から、先日の「昭和の電車・国鉄クハ79060」へのご質問に関してお手紙でご回答を頂きました。関先生も乙訓の長老も電子手紙はお嫌いなようで、“巻紙”とは言いませんが、お手紙に資料写真を添えてお送りくださいましたのでご紹介します。なお、資料写真は原版をコピー機で複写したものです。
初回の時に藤本さんの解説にあり、先日の投稿への河さんからのご指摘にあった『クハ79066には運行表示窓があったはず』についてのご回答です。
“乙訓の老人”とはご本人が決めたハンドルネームですが、ご本人に代わって代理投稿をするに当たり、尊敬するDRFC創設者のお一人を、たとえご本人が決めたハンドルネームといえども“老人”呼ばわりするのは気が引けました。ひとは私の事を「傍若無人」とか「ゴウマン且つ横暴」とか言いますが、この様に長幼の序をわきまえた常識人ですからここは今まで通り“乙訓の長老”と呼ばせていただきます。もちろん皆様それぞれのお考えで呼びかけてくださって結構です。
さて、長老は日頃から『ワシの鉄道の師匠は吉川文夫さんや。かわいがってもらった。そして写真もたくさんもらったが、好きに使っても良いと言ってくれた。』とその一部を持ち込んで来られたのです。それを今回は公開します。
この電車の写真を持っていないという人は若い人です。でも「古い人」?でもこの急電塗装の写真を持っている人はほとんどいないのでは?
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乙訓の老人は現在終わりのない病と闘っておられます。
同志社大学鉄道同好会を設立してここまで大きくして下さいました。クローバー会も創り我々に第二のクラブ活動の場を作って下さいました。
学生時代から電車に、特に京阪電車への思い入れは特段のものがありましたが、私鉄の電車は全国何処でも見に行って写真を撮り、データを集めました。数々の本も出版されました。
それが最近は気力が無くなりつつあります。それと共に頭に貯めてあったデータが消えていくように感じているそうです。
そこで今のうちに撮りためている写真をみんなに見てもらいたい、と考えて写真の整理を始められました。でも、鉄道ごとに整理できてもナニ鉄道かが分からない、いつ、どこで撮ったのかが分からないのです。
そこで、分からなくても良い、皆さんが教えてくれるので写真だけをまとめて下さいとお願いして持参していただく事になりました。こうして数ヶ月かかって鉄道ごとにまとめた写真だけが届きました。
メモはほとんどなく、データは皆無の状態です。
そこで皆様にお願いです。「ここどこ?わたダレ?」に習って皆様から場所などのデータを教えて下さい。皆様の思い出もお教え下されば乙訓の老人の頭のリハビリになります。ご自分はパソコンを扱う事もままなりませんが、頂いた書き込みは何らかの方法でご覧いただきます。
ただいま表示画面が乱れております。しばらくご辛抱下さい。
北関東の鉄道から南へ下がります。
7月7日の『阪急1301系』の投稿欄にマルーン氏から『水上勉の「停車場有情」という作品を読んだ。こんな作品があったのか、と感銘をうけた』と記されていた。
早速、図書館へ貸出を申し込んだが、古いという理由で時間がかかったものの府立図書館から取り寄せてくれた。
ページを開けてみたが独特の筆致に引き込まれ,一気に読破した。
水上勉が福井県の人だと言うことは知っていたが、あのモノトーンの何とも言えない押し殺したような作風から、北の、それも能登に近い鉛色の海をいただく越前地方の出身だと勝手に思い込んでいた。しかし今回、小浜線の若狭本郷の出だと知った。大正8年に生まれて、9才の時京都の寺に修行に出たが、預けられたのが我が家に近い八条坊城であったのには驚き、しかし、親しみを感じた。
初めて京都の地を踏んだのが旧丹波口駅。そこから歩いて大宮通を下がり、大宮陸橋の下をくぐって八条坊城へ向かったとある。いずれも私の生活圏なので、時代が違えば顔を合わせたかもしれないと思った。
書かれている駅の数は28駅、ほとんどが北陸本線、小浜線、山陰本線だが中には満鉄もある。大正年代から湖西線の駅まで出ているからかなりの年月をかけた記録である。面白いのは駅周辺を描写した箇所と音の描写であった。さすが文豪である。行間に閉じ込められたその時代の空気感まで呼び覚まされる。鉄道ファンでなければ記憶しないことまでさらりと書いてあった。
蒸気機関車の旅が当たり前であった頃をよく知っているものにはなつかしい作品である。
この電車は、というより私にとって南海電鉄は最も遠い鉄道でした。
写真は一枚もありませんし知識もありません。
今回は「お召し列車」です。
この中でDF50の引くお召し列車は到着が二条駅で、昔懐かしい二条駅が出てきます。この日は私も同じ場所で撮していました。
関三平先生からお便りをいただきましたのでご紹介致します。
《週一ぐらいで覗かせてもらっています。大阪地下鉄のレスポンスの多さには喜んでいます。実は「昭和の電車300回」に予定していたのが、「新京阪100型、大阪地下鉄100型、阪和電鉄100型を乗り継いで、淡路→梅田→天王寺→美章園の小一時間の旅」と言うテーマで、構図自体も大体決めてあったのでした。また、そのうちお手紙なども書かせてもらおうと思っています。》
関先生、ぜひとも幻の「ナニワの三冠王」をここで見せてください!
さて、今回は阪急1301型。この1301型の思い出は、モダンな電車というのが第一印象でした。
木目プリントの室内、奥行きの深いふかふかシート、ベンチレーターがなくスマートな屋上。大好きな男前の阪急電車でした。
今回は「新幹線」と「客車」です。
今回もよろしくお願い致します。
続いては、気動車とディーゼル機関車です。
電気機関車はF型に入ります。
産経新聞に連載されていた、関三平先生の『昭和の電車』が新聞社の都合で打ち切られてしまいました。永年、記事をデジ青に転載させていただいていたご縁で、関先生と数回飲み会を開いて懇親を深めてきたこともあって、先月、関先生の慰労会を長岡京駅前の高級料亭を借り切って開催しました。
その時、参加者から『全ては見ていない』『もう一度見たい』との声が出ました。
実を言うと全回分を掲載していませんでした。それは最初の数回は見てるだけで掲載するつもりはなかったのです。でも、4~5ヶ月してから、これはみんなに見てもらったら面白いかも、と思いつき掲載を始めたのです。この当時は月に二回のペースでしたから8回ほどの記事が未掲載になっていました。その後も私の見落としやファイル忘れなどで何回かは未掲載となりました。あるときから、掲載忘れを関先生からご指摘があり、作者の先生にご覧頂いていたことを初めて知りました。
この度の飲み会で改めて全回分を再掲載してはどうか?と言うことになって、欠落分の補充をする事にして保存していたファイルを確認したところ、十数回の欠落と画質不良が分かりました。これらの原稿は関先生がお送りくださり、画質不良分はスキャンのやり直しで高画質化して準備が完了しました。
ところが、代理投稿のご依頼が重複して入って来たため、ずらしていましたが「中村進一作品」が峠を越えたのと、次の「乙訓老人再生プロジェクト」の着手が予定されているので投稿者名が重なるのをお許し頂いて掲載していくことに致しました。
関先生は皆様からの辛口のツッコミを楽しみにご覧になっておられます。ぜひとも皆様の思い出と批評などを遠慮なく書き込んでください。