▲昭和46年8月ダイヤ改正で、昼間時のダイヤパターンが20分ヘッドから15分ヘッドになった。特急も運用数が増加することから、新造されたのが3000系だ。当初は、従来の1900系特急との混結も可能な設計になっていた(大和田)。
▲昭和46年8月ダイヤ改正を前に、同年7月1日から写真の3501編成ほか6両編成2本の冷房つきの3000系特急の運転を開始したと、沖中忠順編著JTBパブリッシング「京阪特急」には書かれていた(中書島)
3000系特急で通勤の日々
(旧)3000系は、今でこそ趣味としての対象だが、初期の時代は、ユーザーとして乗客の立場だった。
昭和51年4月、大阪の職場に転勤になった私は、京阪三条から北浜まで3000系特急で通うことになった。学生・社会人を通じて、初めて“郊外電車”に定期券で乗れる。本格的なサラリーマンになった気分だった。当時、朝ラッシュ時、特急は20分ヘッドで、三条8時5分発特急に乗ると、同50分ごろに北浜着、歩いてすぐの会社に9時始業前に着く絶妙のダイヤだった。
もちろん、“七条を出ますと、つぎは大阪の京橋まで止まりません”の京都・大阪間無停車の時代で、途中駅で、通勤客を満載した急行・準急を退避させ、特急が悠々と通過して行くのを、ゆったりした座席から眺めるのは、ずいぶん偉い人間になったような優越感さえ感じた。着席するためには、その前の特急の発車直後に並ばなければならないが、当時、社会問題化していた通勤地獄とは無縁の別世界で、まさにエリート特急、ステータス電車だった。
ところが、その2年後、職場が堺筋本町へ移転してしまい、三条8時5分発では始業に間に合わず、その前の三条7時45分発に乗らないと間に合わなくなった。しかも、その頃、住まいは山科になっていたので、朝、道路渋滞に巻き込まれる京津線ダイヤも加味すると、毎朝6時前後の起床を強いられた。
帰宅が遅く、朝の弱い身にはさすがに堪える。朝の京阪特急は、恰好の寝不足解消の場となっていく。七条を過ぎ、車内アナウンスが流れる頃から、すっかり白河夜船、とくに、窓側に座って窓框にアタマを載せると、ちょうどいい枕代わりになり、約30分はぐっすり熟睡できた。
その後、昭和55年3月、守口市~萱島間複々線化によるダイヤ改正で、、ラッシュ時に、特急に抜かれない急行が出現した。急行だと、直前乗車でも座れるから、自宅を出る時刻を多少遅らせることができる。結局、朝の3000系通勤は、4年あまりで終わり、急行乗車に切り替えた。しかし、帰宅時の3000系特急の利用は、いまの阪急沿線に転居する昭和58年まで続くことになる。
帰宅時は、車内で寝ることもあったが、だいたい新聞か本を読んでいた。読み終わった新聞は、下車まで前の座席カバーの中に潜り込ませておくのがツウな3000系ユーザーの仕儀だった。
帰宅時の場合、北浜からの乗車でもまず座れた。テレビカーは混むので避けていたが、ただひとつ、タイガース戦の放映がある時は、歩いて始発の淀屋橋へ向かい、ひと電車遅らせて、テレビカーに乗り込み、小林繁が古巣巨人を相手に勝利するのに喝采を送ったものだ。
ところが、淀屋橋22時以降発になると、編成が分割されて、3両の一編成だけになってしまう。座席定員が一挙に半分になってしまうから、混むのは必至、運が悪いと、深夜の立ちっぱなし、という残酷な仕打ちが待ち受ける。さすがに、これは評判が良くなく、昭和62年に分割は中止されている。
また、昼間も仕事で大阪・京都間を3000系を利用することがあった。とくに、昼間12~14時台は、たいへん空いている。大阪から乗車する場合、最後部はとくに顕著で、一車両、10人以下だった。前の転換シートをひっくり返し、ワンボックスを占有して、ゆっくり午睡を楽しんだものだった。
▲複々線上をいく上り特急。淀屋橋9時発の特急には伝統の「びわこ連絡」の副標が取り付けられ、15分ヘッドの特急の中でも、ひとつ格上の感があった(野江)
▲こちらは「ミシガン」副標つき。3000系は昭和47年7月に14両(二次車)、48年6月には一気に32両(三次車)が加わり、9編成58両となり、完全に1900系を置き換え、すべての特急運用を賄った。8000系登場まで、3000系特急の時代が16年間続くことになる(四条)。