京阪(旧)3000系を思う (3)

鴨の流れに沿って

3000系の走る風景を思い起こすと、それは人により、さまざまだろうが、私はやはり鴨川沿いのシーンを忘れることが出来ない。地下線が開通する昭和62年まで見られた、3000系特急が15分ヘッドで上下する全盛時代だった。

赤・黄の派手な3000系の塗色は、鴨川沿いの景観にホントによく似合っていた。車窓から見る鴨川の水は清く、堤の木々は、桜から新緑へ、紅葉へと変化し、雪の降る時もあった。京都らしく、季節の行事に3000が出会うこともあった。主要な通りとは平面で交差し、3000系がより身近に感じることが出来た。

そんな、鴨川と3000のコラボをいくつか綴ってみた。

IMG_0037鴨の流れを見て。 鴨川沿いに育った私から見ると、下水が未整備だった昔の鴨川は、友禅流しで川が赤く染まり、中州もそのまま、ホントに汚い川だった。昭和40年代ごろから急速にキレイに整備された。現在では、生態系の保持のため、中洲を残したまま整備しているが、この時代は、ブルドーザで徹底的に均して、川幅を広げる方式だった

IMG_0005四条通を渡る3000系と市電1600形。四条線が廃止となる昭和47年まで見られた平面クロス。京都第一の繁華な通りを、遮断装置もなく、係員の笛ひとつで電車を通していたとは、今となっては信じられないような保安方式だった

IMG_0045sw始発の三条駅に停車中の3000系。狭い2番ホームが特急用のホーム。6連と7連では停車位置が違う。左が7連でホーム端ギリギリ、右は6連のため、先頭は1両分後退した位置に停車している

IMG_0031四条通を横断する3000系。乙訓老人の“東華菜館”屋上から撮影の京阪特急は余りにも有名だが、私は、その向かいの“いずもや”へ、撮影を兼ねて食事に行った。背後の南座も、その後に改築される

IMG_0040祇園側から見た四条踏切、この頃は、市電が廃止後のため、遮断機も設けられた。向こうに、その東華菜館、阪急百貨店、高島屋が連なる

IMG_0042四条河原町の高島屋の屋上からも、四条踏切を行く3000系が望めた。新緑の頃には、東山が手に取るように近くに見える

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梅田貨物駅 138年の歴史終える

明日、16日はJRのダイヤ改正日、その前日となると、何かと心が騒ぎ出す。“葬式鉄”など絶対にしないと言い張っておきながら、その日となると、気もそぞろ、足はどこかへ向いてしまう。

関西圏では、183系電車の撤退が話題の中心だろうが、いよいよと言うか、やっとと言うか、梅田貨物駅の廃止も、地味ながらも大きな変更点だ。本日は梅田貨物駅の最後の記録に当てることにした。

130315_026梅田駅は17ヘクタールあり、ピーク時の貨物扱いは年間360万トンあったが、最近では114万トン/年まで減っているという。2年掛けて更地にされて売却されるというが、その利用法は百出されて、いまだ結論が出ていない

梅田の高層ビルから見下ろすと、そこだけ時間が止まったように、錆付いた梅田貨物駅の構内が広がっている。

その歴史は古い。明治7(1874)年、大阪駅の貨物取扱所として開設、昭和3(1928)年に、大阪駅から分離、貨物専用の梅田駅が誕生する。国鉄借金返済のため、国鉄分割民営化時に売却することが決まったものの、貨物拠点の移転先をめぐって紛糾し、なかなか進捗しなかったが、結局、吹田操車場跡地の吹田貨物ターミナル、百済貨物駅に分散移転することになり、明日16日から、この2駅での業務を開始することになった。梅田貨物駅そのものは、今月末まで営業するようだが、貨物列車の発着は本日が最終日となった。

130315_141「さようなら138年間ありがとう」の記念の看板が取り付けられた。138年とは、明治7年の大阪駅時代からの起算

130315_033ss入換はDE10の1500番代が担当、懐かしい突放の作業も見せてくれる

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成18年には、修繕施設などのあった東側部分が先に売却され、跡地には4棟の高層ビルが建ち、“グランフロント大阪”として来月、オープンする

130315_083西側に新大阪と大阪環状線を結ぶ短絡線(東海道支線)がある。「はるか」「くろしお」の通り道。地下地下線化、新駅設置の計画がある

130315_276貨物駅を印象付ける二つのドーム屋根、二本の線路がさらに手前まで伸びていた

130315_300陽が暮れて、背後の梅田のビル街が輝きを増すとともに、貨物駅は深く沈み、最後の貨物の発着を迎える

 

 

京阪(旧)3000系を思う 〈2〉

IMG_0017昭和46年8月ダイヤ改正で、昼間時のダイヤパターンが20分ヘッドから15分ヘッドになった。特急も運用数が増加することから、新造されたのが3000系だ。当初は、従来の1900系特急との混結も可能な設計になっていた(大和田)。

IMG_0020昭和46年8月ダイヤ改正を前に、同年7月1日から写真の3501編成ほか6両編成2本の冷房つきの3000系特急の運転を開始したと、沖中忠順編著JTBパブリッシング「京阪特急」には書かれていた(中書島)

3000系特急で通勤の日々

(旧)3000系は、今でこそ趣味としての対象だが、初期の時代は、ユーザーとして乗客の立場だった。

昭和51年4月、大阪の職場に転勤になった私は、京阪三条から北浜まで3000系特急で通うことになった。学生・社会人を通じて、初めて“郊外電車”に定期券で乗れる。本格的なサラリーマンになった気分だった。当時、朝ラッシュ時、特急は20分ヘッドで、三条8時5分発特急に乗ると、同50分ごろに北浜着、歩いてすぐの会社に9時始業前に着く絶妙のダイヤだった。

もちろん、“七条を出ますと、つぎは大阪の京橋まで止まりません”の京都・大阪間無停車の時代で、途中駅で、通勤客を満載した急行・準急を退避させ、特急が悠々と通過して行くのを、ゆったりした座席から眺めるのは、ずいぶん偉い人間になったような優越感さえ感じた。着席するためには、その前の特急の発車直後に並ばなければならないが、当時、社会問題化していた通勤地獄とは無縁の別世界で、まさにエリート特急、ステータス電車だった。

ところが、その2年後、職場が堺筋本町へ移転してしまい、三条8時5分発では始業に間に合わず、その前の三条7時45分発に乗らないと間に合わなくなった。しかも、その頃、住まいは山科になっていたので、朝、道路渋滞に巻き込まれる京津線ダイヤも加味すると、毎朝6時前後の起床を強いられた。

帰宅が遅く、朝の弱い身にはさすがに堪える。朝の京阪特急は、恰好の寝不足解消の場となっていく。七条を過ぎ、車内アナウンスが流れる頃から、すっかり白河夜船、とくに、窓側に座って窓框にアタマを載せると、ちょうどいい枕代わりになり、約30分はぐっすり熟睡できた。

その後、昭和55年3月、守口市~萱島間複々線化によるダイヤ改正で、、ラッシュ時に、特急に抜かれない急行が出現した。急行だと、直前乗車でも座れるから、自宅を出る時刻を多少遅らせることができる。結局、朝の3000系通勤は、4年あまりで終わり、急行乗車に切り替えた。しかし、帰宅時の3000系特急の利用は、いまの阪急沿線に転居する昭和58年まで続くことになる。

帰宅時は、車内で寝ることもあったが、だいたい新聞か本を読んでいた。読み終わった新聞は、下車まで前の座席カバーの中に潜り込ませておくのがツウな3000系ユーザーの仕儀だった。

帰宅時の場合、北浜からの乗車でもまず座れた。テレビカーは混むので避けていたが、ただひとつ、タイガース戦の放映がある時は、歩いて始発の淀屋橋へ向かい、ひと電車遅らせて、テレビカーに乗り込み、小林繁が古巣巨人を相手に勝利するのに喝采を送ったものだ。

ところが、淀屋橋22時以降発になると、編成が分割されて、3両の一編成だけになってしまう。座席定員が一挙に半分になってしまうから、混むのは必至、運が悪いと、深夜の立ちっぱなし、という残酷な仕打ちが待ち受ける。さすがに、これは評判が良くなく、昭和62年に分割は中止されている。

また、昼間も仕事で大阪・京都間を3000系を利用することがあった。とくに、昼間12~14時台は、たいへん空いている。大阪から乗車する場合、最後部はとくに顕著で、一車両、10人以下だった。前の転換シートをひっくり返し、ワンボックスを占有して、ゆっくり午睡を楽しんだものだった。

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複々線上をいく上り特急。淀屋橋9時発の特急には伝統の「びわこ連絡」の副標が取り付けられ、15分ヘッドの特急の中でも、ひとつ格上の感があった(野江)

IMG_0011_edited-1こちらは「ミシガン」副標つき。3000系は昭和47年7月に14両(二次車)、48年6月には一気に32両(三次車)が加わり、9編成58両となり、完全に1900系を置き換え、すべての特急運用を賄った。8000系登場まで、3000系特急の時代が16年間続くことになる(四条)。   

下津井モハとクハ

先日玉野市営の写真をご紹介しましたが、昭和44年8月1日に下津井に行き、鷲羽山ユースホステルで1泊して翌日玉野を訪ねています。その際の東下津井駅での交換風景をご紹介します。下津井電鉄は票券閉塞式で 女性車掌が対向列車の運転士から票券を受け取っているひとコマです。この電車はモハ50型だと思いますが、車番不詳です。IMG

さてこの気動車改造電車の一統のなかで モハ50型より窓2つ分短いクハ6が良好な状態で保存されています。場所は岡山県瀬戸内市長船町です。名刀で知られる備前長船の 国道2号線沿いのドライブイン「おさふねサービスエリア」の裏手の山陽新幹線高架下です。ここにはクハ6の他ホハフ2とホワ10が保存されています。高架下とは言え雨ざらしなのですが 誰が手入れされているのか 外観も車内もきれいな状態です。昭和6年製のカハ6がクハ6となり、80年以上を経てこんな場所でこうして残っているのが不思議な気がします。IMG_6996-1

ここは新幹線に乗っていても当然見えませんし、国道2号を走っていてもドライブインの建物の裏手なので見えません。すぐ西側が吉井川の土手ですが 吉井川橋梁を通過する新幹線を写すにはこの土手が好適地のようで撮影者の姿をよく見かけます。赤穂線の香登駅が最寄ですが1Kmほどありクルマの方が便利な場所です。クルマで通るたびに立ち寄っては確認するようにしています(直近は2011年11月7日ですが)。笠岡の高架下の井笠ホジ9とともに要安否確認対象車両です。

鉄道展「東北を旅して」開催中

 

本日から、佐竹さん鉄道展「東北を旅して」が、ひと・まち交流館京都(京都市下京区河原町五条下ル)で開催されています。

設営時間は午前9時からの午前中のみ、時間内の作業完了が心配されましたが、そこは、応援に駆けつけたクローバー会の少数精鋭たち。開場の5分前には滞りなく終了し、午後から来場者を迎えることが出来ました。

東北の復興、鉄道の復旧を願った、この催し、多彩な展示の中で、とくに感慨深いのは、青森市で行った写真展が、そのまま展示できたこと、青森展にもお見えになった方が来場され「青森の時を思い出しましたよ」と言われたように、1000キロ離れた青森の地で味わった感動を再び味わうことができました。

明日11日は震災2周年、“祈念の集い”が行われます。会期は17日(日)まで。皆さんのお越し、お待ちしています。P1090252

開場後、さっそく多くの来場者、和やかな交歓が見られたP1090247

模型運転は、東北ゆかりの車輌が揃ったP1090237

“乙訓老人”の電車薀蓄を、ありがたく拝聴する会員たち

 

春3月 会員イベントふたつ

佐竹さん鉄道展「東北を旅して」(その5)

被災した東北地方の一日も早い復興と、鉄道の復旧を願って、佐竹保雄さんが、折々に開催されてきた「東北を旅して」展も、5回目を迎えました。今回は、とくに昨年秋に青森市で開催の写真展「青森を走った汽車・電車」の再展示を行います。遠隔地の開催のために写真展を観覧できなかった会員の皆さんには、またとないチャンスです。また、震災2周年の3月11日(月)には、祈りの集いもあります。お越しをお待ちしています。

◎会期 3月11(日)~17日(日)11~17時 10日のみ13時開場  

◎会場 ひと・まち交流館京都 展示コーナー     ※入場無料                                                        (京都市下京区河原町五条下る東側、市バス 「河原町正面」前)

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 青森での写真をフルラインナップで展示

西村さん「昭和40年代の浜大津周辺模型」

これまた昨年秋、多くの来場者に共感を呼び起こした、西村雅幸さん制作の浜大津駅周辺のジオラマが、再び浜大津に帰ってきます。「大津百町大博覧会-博物館とまちなかで歴史探検!!」のテーマのもと、旧大津公会堂で開かれる展覧会に、“昭和40年代の浜大津周辺の復元模型”として再登場します。そのほかにも、浜大津周辺の写真・地図が出展されるとのことで、たいへん興味深そうな展覧会です。

◎会期 3月16日(土)~4月14日(日)9~17時  月曜・3月21日は休み

◎会場 旧大津公会堂3階(大津市浜大津1-4-1 京阪浜大津駅東)※入場無料121103 (24)

 ▲浜大津のかつての賑わいが再び見られる

瀬戸内だより

広島からニュースを2件お届けします。

「トワイライト 呉線を走る」 

去る2月19日に続き、本日もトワイライトエクスプレスの車両を使った団体臨時列車が岡山から呉線経由で広島まで走りました。「トワイライトエクスプレス車両で行く瀬戸内ランチクルーズ」と銘打った企画ツアーで、食堂車での食事がウリのようです。3月以降計6回走るようです。3月19日、28日、4月2日、9日、5月21日、6月4日に予定されています。呉線に電機や客車が走るのは久しぶりで、平日にもかかわらず、レンタカーで追いかける人たちも大勢いました。私の撮影場所は須波ー安芸幸崎間です。来月以降は宮島口まで延長運転されるそうです。この企画ツアーの帰路は新幹線利用なので トワイラはセノハチを越えて空車回送されるはずですが、この回送ダイヤが不明です。田舎町では「ダイヤ情報」が手に入らないので、どなたか教えてください。IMG_6572-1

「ドルトムント電車レストラン 3月末で閉店」

千田町の広電本社前で営業してきたレストランが残念ながら店じまいするそうです。KAWANAKAさま お急ぎください。

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広電1000型運行開始

新型超低床連接車1000型(1001、1002)が本日2月15日から営業運転に就きました。3連接と短い車長のため、従来連接車が入線していなかった江波線、白島線に投入され7号、8号、9号系統で運行されます。特に白島線(9号系統)は今まで全列車八丁堀-白島間の折り返し運転だったのが、始終発の回送車だけが使っていた八丁堀の渡り線を使って白島-江波の直通運転が始まり、乗り換えの煩わしさが軽減されます。この2両の運行ダイヤは広電のHPに載っています。気になるのは旧型車の廃車が進むことですが、1000型投入により京都1900型や大阪900型が次第に減ってゆくことでしょう。一方広電のお家騒動で突如社長の交代劇があり、広島駅前ターミナル構想が地下駅化から高架駅化に変更されるようでもあり、また運賃値上げや全線均一運賃化も白紙に戻される気配があったりで、いろいろな面で広電は要ウオッチです。本日の中国新聞朝刊を添付します。IMG

可部線電化延伸 正式決定

元旦のおめでたいニュースとして28185にて紹介しましたが、去る2月4日にJR西日本と広島市が可部線可部-河戸間の電化延伸を正式に発表しました。廃止された路線が一部とは言え復活するのは全国初の例となります。今年度中に着工し、2015年春の運行開始となります。中国新聞2月5日朝刊1面の記事を添付します。

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みどりの山手線

INUBUSEです。
西の方では 最近単色の電車は珍しくないようですが 最近山手線でこんな色の電車が走っています。
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103系電車誕生50周年の記念電車で2013年1月16日から12月28日までの約1年間とのことです。

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一編成のみで 遠くから正面を見るとよくわかりません。

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車両番号は旧国鉄時代の文字、車内もいろいろ展示されているそうで、しばらく我々を楽しませてくれそうです。
2013年1月24日 田町にて

こんなん ありますけど・・・

Doshisha Timesに掲載されたDRFC紹介記事に対する米手作市さんのコメントで、DRFCの会旗にある動輪とレールのデザインを平山氏が作られたということを初めて知りました。平山氏というお名前も名簿に出てこないので全く存じ上げないのですが、あのデザインは旗だけではなく 写真のような会員用のピンバッジにもなっておりました。皆さん覚えておられますでしょうか。米手作市さま、近々平山氏に会われるとのこと、酒の肴にでもしてください。なお現品は クローバー会博物館が完成のあかつきに寄贈すべく 我が家の金庫に厳重保管してあります。

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年の始めは 住吉へ

年が明けてから半月が経過しました。皆さんはどのような正月を送られたのでしょうか。

正月から早くも活動全開という方もおられると思いますが、私の場合は、昨年末に周囲の状況が変わってしまい、活動の停滞を余儀なくされました。しかし、これもまた人生、気を取り直して、自分なりの趣味人生を貫きたいと思ったところです。

130102_153遠隔地への旅行など、叶わぬ夢になってしまった現在、手始めに正月に目指したのは、住吉詣ででした。思い出すのは、毎年の恒例行事とされた乙訓老人のことです。めっきり足腰が弱った老人が、住吉詣を止めてから数年が経ちます。その老人の思いを引き継ぐつもりで、今回は、住吉大社から天王寺駅前まで、久しぶりの歩きの撮影を楽しみました。

次から次へ来る電車、どっと乗り込む乗客、正月の住吉は、まさしく路面電車の最後の聖地でした。

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阪堺線住吉鳥居前は、正月三が日恒例の阪堺電車の大増発。つぎつぎに電車がやって来る。大勢の初詣客にも増して、カメラ人間が放列を敷いていた。

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現役最古参となったモ161も大車輪の活躍、10両のうち、8両が稼動していた。

130102_033sy住吉交差点に立つと、恵美須町、天王寺駅前、浜寺公園、住吉公園の四方向から電車がひっきりなしに顔を出す。警笛とクロッシング音が絶え間なく聞こえてくる。130102_059

阪堺線では今春に新車、低床車がデビューの予定で、モ161の大増発もこの正月が最後かも知れない。

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神ノ木で“ギラリ”を狙う。阪堺線は、大きくSカーブを描いて、南海高野線を越す。

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Wakuhiroさんも、本掲示板で、あべのハルカスと鉄道との組合せについて述べておられた。阪堺線も姫松付近からも遠望できるのは、さすが日本一高いビルだけはある。まだ照明がついていないので夕景も寂しいが、完成後の撮影が楽しみだ。130102_442

東天下茶屋も、私の好きな北天下茶屋に劣らず、いい雰囲気を持った駅だ。専用軌道上に対向式ホームがある。暮れていく中を発車したモ161形を流してみる。130102_420

暮れてからも電車の増発は止むことなく、専用軌道上を続々と上下の電車が行く。130102_448sy_edited-1asd

最後は天王寺駅前、あべのキューズモールの2階から流してみた。一帯はまだ再開発工事の途上だ。天王寺から難波まで、LRT新設の構想もあり、阪堺線はどう変わっていくのだろうか。ちょうど、都電カラーの502が、きらめきの中に映えた。

多摩川朝錬

立川から鳥沢へ撮りに行くのに立川始発の521Mをよく利用します。発車してすぐに多摩川橋梁を渡るのですが、寒い日などは川霧が立ち昇りとても綺麗でした。そこで本日、挑戦してみました。

ビデオ画像から切り出した画像なので車輌は流れています。黎明のこととて、ISO12,800、EV:+2.0と目一杯明るさの補正をしています。

最初は貨物83列車。通常は土日曜日運休なのですが、冬季には土日も運転される様です。

 

この地点から反対側を望むと多摩モノレールが見られます。太陽も顔を出し逆光気味の方が川霧がよく見えました。

 

 

The Doshisha Timesより

同志社タイムス社発行のThe Doshisha Timesに同志社大学鉄道同好会の記事が載っておりましたので、本掲示板に転載いたします。OBの名を鉄道雑誌や記事等で発見すると大変嬉しいものです。

余談ですが、1月10日(木)22:00~23:00にBSフジで放送された全国百線鉄道の旅(毎週木曜日放送)のテーマは湖西線でした。その後半部に江若鉄道の話題に触れられ、福田さんの撮影した写真が取り上げられていました。学生時代に撮られたという江若鉄道の写真が数十年を経た今、再び注目されています。私も諸先輩方に見習い、今の鉄道の姿を“記憶しておく”だけでなく“記録に残していこう”と思います。

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今でも気になる江若鉄道(番外編)に寄せて

藤本様 江若バスの貴重な写真の数々 ありがとうございます。マイカーならいざ知らず、アクセスが不便な鯖街道沿線での撮影はさぞ大変だったこととお察し致します。ところで滋2い 1073が福山自動車博物館にいたことも知らなかったのですが、それが磐梯東都バスで復活していたとは。と言うのも平成21年7月20日に裏磐梯を訪れた際に出会い、撮影していたからです。まさかあのバスが江若バスだったとは!いやはや驚きました。写真を2枚アップして 御礼に代えます。

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梅小路公園に市電広場!

1月5日の朝刊に、梅小路公園内に市電ひろばができて、保存されている京都市電が展示・運転されるとの記事が出ていた。いままでも旧N電が運転されているが、記事によると運転コースが現在の旧二条駅前から西へのルートを廃止して、山陰線高架より東側になるらしい。市電は山陰線の高架下に車庫を作って現在も保存されている。搬入時に見たのだが、900型、600型、700型、500型等だったように記憶している。市電ひろばは、旧国鉄の官舎跡で、昨年まで福島県からの疎開家族に提供されていたものである。場所は水族館の西隣で、木津屋橋通りの南側である。
問題はこの市電の運転方法である。記事で見る限りであるが、給電設備が必要だからという理由で、市電にバッテリーを積んで架線を使わずに「EV」化して走らせるとのことである。

これはとんでもない考えであると私は思う。子供の遊園地の遊具ではないのだ。運営主体はJR西日本と京都市と違えども、れっきとした鉄道博物館の付帯設備で、京都市の税金で建設される産業遺産展示物である。受電設備がないというが現在も600Vで架線給電して走っているではないか。市電廃止後30年以上も放置してきた保存車両を市民に公開して走らせるなら当時の姿を再現するのが行政の責任ではないか。何でもいいから走らせればいいだろうとは市民を馬鹿にするのも甚だしい。そんな形で走らせるなら静態保存の方がまだましだと思う。会員諸兄はいかがお考えであろうか。

できるなら現在の線と新設線をつないで頂き、公園の西の端から東の水族館までのピストン運転をして頂きたい。もちろん架線集電でである。30年も日の目を見ずに待っていた市電達に対するせめてものご褒美として。

市電ひろば_NEW

本日の「あけぼの82号」583系

みなさま あけましておめでとうございます。いかがお過ごしでしょうか?
本日4日 年始初出勤日で いつもの時間にEF64の牽く24系の「あけぼの」を見に上野駅13番線に行ったところ いつもは多くても10名程度しかいないのに 100名を超す人たちが列車の入ってくるのを出迎えていました。
そこに入ってきたのは583系秋田車6連のあけぼの82号 定刻より約1時間遅れの到着でした。年末12月29日上野発弘前行き、1月3日弘前発、4日上野6:05着の臨時夜行寝台でした。13番線ホームの終端部で待っていたのですが6連ということもありホーム中ほどで止まりましたので 走ってそこまで行きました。

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きれいな583系秋田車6連。雪に着いたヘッドマークの上部に「あけぼの」の文字が見えます。

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下回りに着いた雪。多くの人に出迎えられています。

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回送列車として 7:28に(定刻は6:20)秋田に向けて出発していきました。きれいな583系いつまでも元気に活躍してもらいたいものです。犬伏

 

可部線延伸について

クローバー会の皆様 明けましておめでとうございます。昨年同様本年もよろしくお願い致します。引き続き広島方面のニュースを掲示板に載せてゆきますので、コメント、ご意見をお願い致します。2013年冒頭はおめでたい話題をお届け致します。中国新聞1月1日朝刊からの引用です。可部線の可部、三段峡間は平成15年11月30日に廃線となり 9年が過ぎました。可部駅周辺は宅地化が進み、地元からは廃止区間の一部復活を望む声が日増しに高まっていました。ところが一旦廃止された線区を復活するとしても新線建設扱いとなり、新線建設では平面交差の踏切は基本的に認められず、高架化か地下化が原則らしく、この踏切問題で永年紛糾していました。この問題がどのような落としどころで決着したのか不明ですが、いずれにせよ可部からひと駅先の河戸駅までの電化、復活の見通しが立ったようです。2012年度中の着工で2015年度での運行開始ですからまだ先のこととは言え、一旦廃止された線区が復活するのは初めてのようで、新年早々うれしいニュースとなりました。

中国新聞 2013-1-1朝刊

中国新聞 2013-1-1朝刊

可部線延伸2

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