京阪大津線の歴史を調べて(三井寺、坂本假停留場)その1

前項「大津電車軌道坂本延伸裏話」でも少し触れましたが、三井寺-坂本間が全通した後も両端の坂本、三井寺停留場は仮停留場のままでした。当初の計画は高規格の車両を使い、連結車も走らせるような考えで進んでいましたが、三井寺、坂本の両終端駅は駅部分の用地買収の遅れで開通を優先させて仮停留場で営業を開始しました。この年は大津電車軌道が太湖汽船と合併し、新たに琵琶湖鉄道汽船としてスタートを切った時でしたが、その後、乗客が思うように伸びず、当初の過大投資の為もあって工事は進まず、その内に経営状態が悪くなり、その後2年足らずで京阪電鉄と合併することとなりました。京阪電鉄は大正14年に京津電気鉄道と合併し、昭和4年4月11日に琵琶湖鉄道汽船の鉄道部門を合併して大津、琵琶湖への進出を果たしたわけですが、この合併した部分を今後どうしていくのか、方向性がまだきまらなかったため両駅の仮停留場の状態が続きました。 続きを読む

『通勤形電車』の変遷    河 昭一郎様ご寄稿 

河 昭一郎様より鉄道雑誌に掲載予定で編集された表題の論文をデジ青用にご寄稿頂きましたので掲載いたします。
ただ、頂いたのは出版用に割り付けられた完全原稿のため、そのままでは掲載できません。一旦ばらしてデジ青仕様に組み替えましたのでご了承下頂きます。内容・文章には手を付けておりません。併せて以前に投稿された藤本哲男さんの73系に関する記事もご覧下さい。

ロクサン形がルーツの通勤電車 クモハ73030 1962-1-4 京都

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再度、『かえだま』に関する考証を

河 昭一郎さんより、先の投稿に補追として写真と解説が送られてきました。
我々には事故による車輌運用の事件として面白おかしく伝えられてきた話題ですが、当事者には大変な、歴史的大事件だったことが先の河さんによるご投稿で明らかになりました。『かえだま』などと揶揄していた不見識を恥じるばかりです。
それでは送っていただいた当時の貴重な記録写真と解説をご覧頂きます。
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京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道坂本延伸裏話)その3

3. 全線開業までの運行形態
先に開通した三井寺-螢谷間はカーブの多い路線で大正末期には開業時に作られた大津電軌1型(京阪合併後の旧80型)とその後増備された大津電軌11型(京阪合併後の90型)という路面電車タイプの車両によって運行されていた。これに対し、三井寺-坂本間はカーブの少ない直線の線路を主体に、当時の高速高規格電車での運行が計画された。開業時に新製された琵琶湖鉄道汽船100型(京阪合併後の旧800型)は15m級ではあったが片側ロマンスシート、片側ロングシートの当時としては先端を行く車両であった。螢谷-坂本間で線路がつながったと言っても三井寺を境に坂本側は高規格の高床式、螢谷側は路面タイプの低床式と全く異なり乗客は三井寺で乗り換えを強いられ、この状態は昭和6年まで続いた。ところで部分開業の時はどのような運転形態であったのだろうか。開業時に作られた仮停留場の図面を見ると、三井寺停留場と兵営前停留場は路面タイプの低いプラットホームで、これに対して山上停留場、松ノ馬場停留場は高床用のプラットホームであった。

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京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道坂本延伸裏話)その2

2.5つの仮停留場

部分開業に伴って坂本、三井寺、兵営前、山上、松ノ馬場の5つの仮停留場の設置願いが出された。まず、先に紹介した昭和2年4月25日付「仮停留場設置御届」では兵営前、山上、松ノ馬場の3駅について仮停留場の設置願いが出された。兵営前、山上は前項で述べた陸軍との土地交換が遅れ、兵営前、山上間が完成しないため、三井寺-兵営前、山上-松ノ馬場の折り返し運転用に仮停留場を設置した。ところが同じ文書に書かれている松ノ馬場の理由書を見ると松ノ馬場停留場用地の一部及びその北側の用地で、当初住民の電車敷設反対があり、用地買収が遅れたためとある。

 

資料3:兵営前仮停留場平面図(県政史料室歴史史料、大と1より作図)
折り返しの設備を持ち、路面電車タイプの低床のホームが作られた。

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京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道坂本延伸裏話)その1

大正3年に螢谷-浜大津間を開通させた大津電車軌道は坂本までの延長を計画しましたが、江若鉄道との競合の問題もあり、大正11年にまず三井寺まで延長、そこから先坂本までの開通は昭和2年まで待たなければなりませんでした。昭和2年5月15日に開通したのは三井寺―兵営前間、山上―松ノ馬場間で、続いて松ノ馬場―坂本間が同年8月13日に開通、残った中間部分の兵営前-山上間が全通したのは同年9月10日でした。なぜこのように変則的な開通になったのか、また、4か月を待たずに部分開通を繰り返したのか、そこには興味ある話がいくつかありました。そこで第2弾は大津電車軌道の坂本延伸の裏話と言ったものをご紹介しようと思います。
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京阪大津線の歴史を調べて(1-4漣駅)

4.漣駅
大正11年5月15日に三井寺までの延伸を果たした大津電車軌道はさらに北への延伸を画策し、昭和2年に太湖汽船、湖南鉄道と合併した琵琶湖汽船鉄道として昭和2年に三井寺-坂本間を高規格で開通させた。
この区間は開通後、駅の名前の変更、移転、休止など目まぐるしく変わったが、漣駅は旧大津電車軌道部分を合併した京阪電鉄が昭和4年10月10日開業し、昭和19年8月15日廃止された。
設置されたのは当時の錦織駅(現在の近江神宮前から南に約200mのところで、屁ノ尻川沿いに県道から駅に行く道が作られ、対面式のホームが作られた。県道から駅に行く道は現在もそのまま残っており、線路を横断する踏切は漣踏切となっていて駅があったことが偲ばれる。資料7:漣駅付近図、県道から駅への取付け道路が屁ノ尻川に沿って作られている。(県政史料室歴史史料、大と50より作図)

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『昭和の電車』突然終了!最終回 新京阪デイ100とC5343

関三平先生の渾身の長編力作『昭和の電車』シリーズが突然打ち切りになりました。
こんな電車があったのか!と毎回驚いた事ばかりでしたが、なにより見たこともない車輌をカラーで見せて頂ける幸福をかみしめて拝見しておりました。

今回、新聞社で何があったのかは分かりませんが、価値の分からない編集者が打ち切ったのだろうと思います。幸い、関先生は他で続けるとのことですからそれを楽しみに待ちましょう。

どうしても見せたかった、と言われる“名勝負”新京阪対省線の決定版です。

京阪大津線の歴史を調べて(1-2大橋堀駅)

2.大橋堀駅
大橋堀駅は現在のびわ湖浜大津駅の東隣にあった駅である。当初大津電車軌道が路線申請した時は、現在の浜通りを拡幅して、石場から旧東海道を走る併用軌道で予定していたが、拡張費用がかさむことから、馬場より西側は明治22年東海道線が全通して枝線となった鉄道院の大津支線を借用することとなった。この区間が大津電車軌道として開通したのは大正2年3月1日である。大橋堀駅も資料は少なく、開通と同時に駅ができたのかどうかは諸説あり、大津市歴史博物館の大津市制100周年記念企画展「大津の鉄道百科展」図録には駅の開業時期が記載されていない。資料3:大橋堀停留場附近平面図(滋賀県政史料室歴史史料「昭と大6」より作図)大橋堀を渡る鉄橋と坂本町、橋本町(いずれも旧町名)の境界線から場所が特定できる。

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京阪大津線の歴史を調べて(1-1)

京阪大津線は京津線の前身、京津電気軌道が大正元年に三条大橋~札ノ辻間が開通、石坂線の前身、大津電車軌道が大正2年に大津(現在のびわ湖浜大津)~膳所(現在の膳所本町)が開通し、その後延伸、路線の変更があって現在の形となりました。総本家青信号特派員さんからお誘いを受けて、旧東海道線の遺構を調べた後に、京阪大津線についてもその遺構を調べたくていろいろな書物、地図を見ましたが、本によって記載の異なるものが多く、また、不明な点もあったため、滋賀県県政史料室の歴史的資料を調べてこれらを解明したいと考えました。先にご報告したように、県政史料室の歴史的資料は項目ごとに分類されており、そのリストも公開されていて調べやすくなっています。この宝の山の中から、まず、石坂線で廃止された駅について順に報告したいと思います。 続きを読む

滋賀県県政資料室の歴史史料

昨年総本家青信号特派員さまからお誘いいただいて、「レイル」誌の「京都・大津の鉄道遺跡を訪ねる」の大津部分を担当させていただきました。以前から地元を歩いていろいろ調べてはいたのですが、所詮ネット頼みの調査で推測の部分も多く、今から思うと全く恥ずかしい内容となってしまいました。それと相前後していつもお世話になっている大津歴史博物館の学芸員の方から、滋賀県庁にある県政史料室には鉄道関係の資料もいっぱいあるよというお話を伺いました。ネットで調べてみると確かにいろんな資料がありました。ただ、閲覧には申請が必要で、一度にたくさんの資料は閲覧できないとのことでそのままになっていました。 続きを読む

関三平先生から会員諸氏へ

11月22日投稿の【102177】『近鉄ファンへのプレゼント!・伊勢電鉄モハニ231』に関して宮崎繁幹様から「モニ6231の前側部窓下のプレートは何か?」との質問がありました。私がハガキで先生にその旨をお尋ねしたところ、本日封書でご回答を頂きました。いつもの通り、達筆の長文ですので僭越ながら要約して掲載させていただきます。なお、INUBUSE氏から「近鉄社章と型式、定員、自重を刻印した鋳物のプレート」との回答を頂いております。
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高山ダムの工事用軌道

小生は社会科見学で工事用軌道のトンネルを見た記憶があります。しかし天ヶ瀬ダムではなく、何処だったのか思い出せず、悶々とした日を送っていました。
先日、KBS京都放送で南山城村の話題が放映され、正に覚えていた情景の写真に出逢いました。

高山ダムの工事用軌道(トンネルと右奥に吊橋が見える)

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈8〉

 京福電鉄叡山線

この時代の京福と言えば、木造車のデナ1が代表だろう。1925年、叡山線の開業時に日本車両で1~6の6両が製造された。全長12.3m、片開き2ドアの木造車で、写真で見ると、きれいな木目模様が出ている。前面はタマゴ形の3枚窓、ドイツ・マン製の板バネ台車とイギリス製電装品を搭載しているのが特徴だった。固定編成化される前の原形の時代で、車体もグリーン一色塗りで、その後、2色塗装に改められる〔山端(現・宝ヶ池)、昭和26年〕。

羽村さんの写真をきっかけにして、鉄道模型や京阪電車にと、拡散を見せています。
ひとつのテーマから、各方面の投稿が集まるのも、“デジ青”の真骨頂でしょう。今回は、羽村さんの地元、左京区を走る、“叡電”、当時の京福電鉄叡山線・鞍馬線です。考えたら叡電は、始発も終点もすべて左京区内にあります。ひとつの行政区のなかで完結してしまう鉄道というのも、ほかにはちょっと例がないのではと思います。

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈7〉

京阪電車

四条駅に颯爽とすべり込んで来た天満橋行きの1000系の特急3両編成。まだ鳩マークも無い時代で、赤白の円板の特急標識である。“京阪特急”は、撮影された前年の昭和25年9月、三条~天満橋に所要53分で走り始めた。朝夕2往復のみ、2両編成のささやかなスタートで、特別整備されたロマンスシートの1000、1100形が使用された。その後、中間に1600形が増結されて3両編成となり、まもなく写真のように、1500形に変更された(昭和26年4月)。

“羽村さんシリーズ”、また続けます。阪急、京都市電、バスと来て、つぎは京阪電車です。京都市左京区に住まわれていた羽村さんにとって、京阪電車は、いちばん近い郊外電車で、興味を持つようになるのも自然な成り行きだったのでしょう。撮影されたのは昭和26年、車両としては、赤と黄色の京阪特急色の1700系がデビューする前後で、私にとっても、記憶に残る以前の時代で、大変貴重な記録です。

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈6〉

京都市営バスのトレーラーバス、進駐軍が持ち込んだ大型車両をヒントにつくられ、戦後混乱期の大量輸送に、京都でも活躍した。昭和22~24年の短い時期につくられたが、取り回しがよくないため昭和30年前後には姿を消した(昭和26年3月)。

羽村さんは、京都市電撮影の合い間には、バスも撮っていました。多くは、近くの銀閣寺前付近で撮られています。戦後5年が経過すると、京都見物に繰り出す余裕も出て来て、銀閣寺付近には、遊覧バスや貸切バスが集まって来ました。この時代、市電の撮影者は見られたものの、バスの撮影はたいへん少なく、貴重な記録です。そう言えば、乙訓老人も、地方私鉄へ行った際には、駅前でバスを写してから、カメラを仕舞ったと述懐されています。ちょうど、京都市バス事業は,昭和3年5月に出町柳から植物園を結ぶ2.5kmの路線で開業して以来、今年で90周年を迎え、今月にはさまざまなイベントが実施されます。

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈5〉

百万遍の停留場で多くの乗客を乗せる800形のトップナンバー車、ポール集電の800形は、この年に新製が始まったバリバリの新車だった(昭和25年1月)。

今回は、羽村さんにとって、いちばん身近だった京都市電です。京都大学の近くにお住まいだった羽村さんにとっては、京都市電は趣味活動の原点でもあったでしょう。例の細密な系統図を描かれた「青信号」の記事“京都市電雑感”にも、冒頭で「京都に生まれ京都に育った小生にとって、京都市電は何と云ってもなじみの深い電車である(原文ママ)」と述べられています。これらの写真を撮られたのは、昭和25、26年であり、全盛時代の到達までには、まだ少し時代をさかのぼる終戦直後の空気が残っていました。

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大阪電軌デボ1000

近鉄は、いろんな私鉄を糾合して出来た大鉄道です。
子供の頃に父親が『ダイキに乗って・・・』と言うのを聞いて、ダイキとはなんだろう?と思っていたが、後に『近鉄』のことだと知って驚いたおぼえがあります。

でも、こんな面白い出で立ちの電車だったら楽しかったでしょうね!

大軌デボ1000

 羽村さんが遺したアルバムから 〈4〉

今回のアルバム、羽村さんが最も好きだった阪急京都線を採り上げます。以前、tsurukameさんからの寄稿でも、羽村さん撮影の阪急京都線について、詳細されています(2017年11月27日90622号)。今回は、スキャンしていて新たに発掘できた写真です。
前稿で乙訓老人の思い出にも書かれていますが、羽村さんが好きだったのは“阪急京都線”であり、“阪急”ではありませんでした。京阪電鉄を分離し、新制・京阪神急行電鉄として創立してから、まだ1年しか経っていない昭和25年からの撮影で、京都線は、“新京阪”の面影を十二分に伝えていました。
最初の撮影は、西京極駅で撮られたデイ100形2両の京都行き普通電車をとらえている。周囲の光景は、郊外の様相だが、右手には、西京極野球場(現・わかさスタジアム京都)が見える。この球場は、昭和7年、昭和天皇の成婚を記念して建てられたもの。また電車左手には、現在でも見られる、未成線として残った貨物線の分岐部がわずかに見えている(昭和25年11月)。

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈3〉

続いての撮影地は、京福電鉄叡山線(現・叡山電鉄)に移る。住まわれていた左京区内だけを走り、身近な鉄道へは以後もよく訪れることになる。最初に撮ったのが、京都市電1000型が叡山線を走るシーンだ。ご存じのように、宝ヶ池競輪場で開かれた競輪の開催日にあわせて、元田中駅にあった渡り線を通って、京都市電が山端(現・宝ヶ池)まで運転されていた。前年の昭和24年12月から運転を始め、羽村さんも、そのニュースを聞いて、行かれたのだろうか。ただ、低感度のフィルムのため、晴れていても走行中の車両を写し止めるのは難しい。そこで、羽村さんは、流し撮りで車両を止められている。偶然の所産なのかは分からないが(私も技量もないのに写したら流し撮りになっていたことがあった)、背後を空で抜いて、市電のポールが強調されている。撮影場所は、修学院の南方と思われる(昭和25年3月)。

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