Stay Homeを楽しむ   ~風景印を集めてみた ③~

江若鉄道の切手に ゆかりの風景印

以前、当欄でも、「江若鉄道百周年」のフレーム切手が発売されることを案内しました。フレーム切手とは、地域限定の記念切手のようなもので、江若鉄道百周年の切手は、滋賀県下の郵便局で3月から発売されています。従来からも、切手に描かれた絵柄に縁のある郵便局で押印することを、“マッチング”と呼んで、風景印の収集法のひとつになっています。そこで、江若鉄道切手でも、江若鉄道の駅名と一致する郵便局で押印を計画しました。ただ弱ったのは、全国的に見て、京都、滋賀は、風景印のある郵便局がたいへん少ない地域で、写真の撮影地と一致させるのがなかなか困難でした。お隣の県ですので、本来なら訪問押印すべきですが、今回は、自宅からの郵頼としました。

(左)多くが三井寺下で撮られたものなので、三井寺の風景印があればベストだが、それは叶わず、まず始発の浜大津を押印。(右)湖西線沿いに北上して、つぎに風景印のあるのが堅田となった。

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 Stay Homeを楽しむ  ~風景印を集めてみた ②~

鉄道テーマ

居ながらにして集められる「風景印」、鉄道テーマのものを集めてみました。駅舎や車両を扱った風景印は各地にあります。とくに新幹線ものは、新幹線沿線の局で多く見られます。逆に、過去の廃止された鉄道もあって、地域に根ざした鉄道の奥深さを感じます。これには、ちゃんとネタ本があって、「テーマ別 風景印大百科 鉄道編」という本が発行されていて、項目別に、500局以上の絵柄が収録されています。

左から、旭川駅内 高架の駅舎と発車する特急(485系1500代「いしかり」?)、背後に大雪山を描く。これのみ旅行中に押印。青森今別 青函トンネルを出るED79の牽く寝台特急と、郷土の踊り。五所川原北 津軽鉄道のストーブ列車(ちゃんと煙が出ている)と岩木山。

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 Stay Homeを楽しむ   ~風景印を集めてみた ①~

ちょっと古い話題が続きましたので、目先を変えて、自粛期間中の活動を紹介します。ひとつ取り組んだのが「風景印」の収集でした。郵便局で押印できる絵入りの消印のことで、郵便局の総数およそ2万4000局のうち、風景印のある局が1万1000局程度あります。JR・民鉄の駅の総数が約9500と言われていますから、駅の数より、風景印のある郵便局のほうが多いことになります。本欄でも、西村さんから、OB会の宴会の景品のなかに、仙台市電テーマの古い風景印があったこと紹介されましたし、昨年の冬にも、釧路地方の風景印のなかに鉄道テーマの印があることの報告がありました。私は、たまたまその時、釧路に来ていて、釧路駅にある金券ショップで、同じ風景印が販売されているのを見つけて、思わず購入しました。以来、旅行先で郵便局があると、風景印の押印を頼むようになりました。

地元で集めた「風景印」。直径36ミリの円内に、周辺の名所・風景が描かれている。“鳶色”と言う赤茶色のインクを使用、円形が基本だが、変形印もある。公印であるため、官製はがき、または63円以上の切手の貼付が必要になる。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑪

行橋機関区(2) C50  C11

行橋機関区には、名物の蒸機C50がいました。九州では唯一の配置区でした。C50と言えば、8620の改良型として、154両が製造されました。C50と聞いてイメージするのは、東海道・山陽筋の駅で、煙室をトラ模様に塗って、懸命に入換に励む姿でした。関東なら、両毛線、水戸線で旅客列車ほ牽く姿も見られましたが、関西の人間にとっては、地味で目立たず、裏方に徹した蒸機という印象でした。ところが、さすがは九州、美しく整備され、ちゃんと表舞台も用意されていました。前掲のように、日豊本線の初電化は、昭和41年10月の新田原までの電化ですが、電化区間が短区間のため、通しの客貨列車は蒸機が牽いていました。そのなかで、門司港14時22分発の柳ヶ浦行き1529レを通しで牽いていたのが、行橋区のC50でした。門司港~柳ヶ浦80kmを単機で客車6両を牽き、C57、D51に伍して本線上を堂々と走ったのですから、入換機イメージのC50とは、全く違う姿を見せていました。架線の下を発車する門司港発柳ヶ浦行き1529レ、行橋区の名物、デフに飾りを入れたC50 58が牽引していた。行橋 昭和42年3月行橋にはC11もいて、田川・伊田線の旅客列車を牽いた。C11 300の牽く329レ  直方  昭和43年3月

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑩ 

行橋機関区(1) 9600

筑豊の蒸機機関区の最後として、行橋機関区に参ります。行橋は、日豊本線から田川線の分岐する駅で、初めて行った昭和42年3月当時、日豊本線は、新田原まで電化していて、旅客はほぼ421系電車化されていました。しかし、一部の客車列車は、電機の製造が追いつかず、蒸機牽引で残っていました。貨物も同様で、門司、柳ヶ浦区の蒸機が、架線の下を黒煙を上げながら走る光景が見られました。いっぽうの田川線は、ほかの筑豊に多く見られる支線ですが、日豊本線苅田から分岐する苅田港(貨物専用)からの石炭・石灰岩の船積み搬出ルートの一翼を担っていました。苅田港の設備は、ほかの若松などの積出し設備に比べて新しく、徐々に扱い量が増加し、田川線は重用されていました。田川線油須原からは、添田方面に出る短絡線の油須原新線も建設中で、将来が嘱望されていました。石炭がの末路が予測されている時代に新線建設とは、今から見れば不可思議なことですが、まだ一定量の輸送はあった時代でした。しかしその数年後、石炭産出はさらに激減し、新線建設も未成線のまま終わります。そんなエネルギー革命の波に翻弄されてきた田川線で、ほぼ独占して客貨を牽いていたのが、行橋区のキュウロクで、「行」の区名板に相応しく、懸命に我が道を進む姿を彷彿させたものです。化粧煙突、切取式デフを装備した、筑豊のキュウロクの典型59684 お世辞にもスタイル映えのしないキュウロクであっても、ロッドを下げた姿は、形式写真としての価値を高めていた。行橋 昭和43年3月行橋のキュウロクは昭和43年3月時点で11両いた。沿線の至るところで見ることができて、筑豊の人びとの生活の中に当たり前のように溶け込んでいた。79657 船尾 昭和49年8月

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑨

後藤寺機関区

後藤寺は、前稿で、おとりんさんが訪ねた日田彦山線の途中にあった駅で、ここから後藤寺線、糸田線が分岐していました。当時の鉄道路線図を見ても、密集した筑豊の路線網の中央部にあっただけに、石炭一色のような駅で、また近くの香春岳などから産出される石灰岩輸送の中継地でもありました。筑豊の“裏口”のような、ディープさの伝わる駅で、まさに「後」の持つ区名板がぴったりの雰囲気を持っていました。配置されていた蒸機は、言うまでもなくキュウロクで、あとは支線区で旅客列車を牽いていたC11が配属されていました。扇形庫もない、小規模な機関区でしたが、直方からは、蒸機が無くなったあとも存続し、行橋区とともに昭和49年まで蒸機の配置があり、筑豊最後の蒸機として、社会人になってからも何度か行くことが出来ました。

先般、たまたま後藤寺を40数年ぶりに訪ねる機会がありました。いまは「田川後藤寺」と市名を冠した駅名に改称され、JR日田彦山線、後藤寺線と、平成筑豊鉄道糸田線が分岐しています。もちろん機関区は、跡形も無くなって、当時は晴れていてもドス黒い煙に空が覆われていたのが、何とも青空のまぶしい駅前になっていました。

後藤寺~起行の中元寺川鉄橋の前後には20‰勾配があり、手近な撮影地となっていた。船尾からで産出されるセメントの輸送もあって、多くの蒸機列車があった。ただ訪れたのは真夏のカンカン照りで、貨物量も少なく、スカスカの煙だった。機号不明(昭和49年8月)後藤寺機関区は、木造3線の矩形庫のコンパクトな構内で、模型を見るような雰囲気だった。給炭はクレーンを使っていた。29692は行橋区の所属。(以下、特記以外は昭和43年3月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機  ⑧

直方機関区(3) D51 D50 C11

直方と言えばD60の活躍がすぐ思い浮かびますが、その脇を固める蒸機もいました。それが、D51であり、D50、C11でした。他の線区では主役であるべき最大両数を誇るD51が脇役に過ぎないのも筑豊の凄さでした。昭和42年3月時点では、D60の11両に対して、D51は4両で、両者の勢力はその後もほとんど変わらず、DL化を迎えることになります。直方では少数派だったD51だが、その特徴は半流線型のナメクジが多かったこと。筑豊の“山科大カーブ”で旅客列車を牽く姿は、黒光りするボイラーを輝かせて、当時はどこでも見掛けたD51とはひと味違っていた。中間~筑前垣生 (以下、特記以外は昭和43年3月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑦

直方機関区(2)  D60

直方機関区で代表となる蒸機は、やはりD60でしょう。筑豊本線、支線の上山田線などで貨物列車の先頭に立ち、黒崎経由で、鹿児島本線の小倉、門司港へ向かう旅客列車などもD60が牽いていました。昭和43年3月現在、直方区には11両のD60が配置され、しばらく推移しますが、昭和46年には19両に増加します。これは、若松区のD50が廃車され、その代替として、久大本線の無煙化で大分からD60が筑豊本線に転属、若松の配置ではなく、直方区の配置になったことが要因です。「直」の区名イメージどおり、黙々と実直に働き続けたD60ですが、イヤッと言うほど撮影をしました。今回は、番号順に並べて見ていただきます。直方を発車するD60 27+D60 26の重連貨物。冷水峠を越える貨物列車は、直方からD60重連になることが多かった(特記以外、以下昭和43年3月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑥

直方機関区(1) 

筑豊の中枢の機関区、直方機関区に移ります。地図を見ても分かるように、筑豊のど真ん中に位置していました。昭和40年代、筑豊本線だけでなく、細かく枝分かれした支線が張り巡らされていました。昭和43年3月に配置されていたのは、9600が19両、C11が5両、D51が4両、D60が11両で、45両もの蒸機が配置され、九州では、門司機関区に次ぐ配置両数でした。減ったとは言え、石炭列車は輸送の中心で、一般の貨物列車、旅客列車、それに各駅、専用線の入換に日夜活躍していました。「直」の区名板にふさわしく、実直に、愚直に働いていたのが、直方の蒸機と言えるでしょう。

「直」の区名板を付けた79652 近隣の若松、後藤寺などのキュウロクとともに、筑豊の各線で活躍を続けた(以下特記以外、昭和43年3月)。

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【フェイクニュース】琴電にループ線!

2005年前後に使っていたHDD内のネタ、第二弾です。
取材は1999年11月のことなので、現況は変わっているかもしれません。ご容赦願います。そして誤謬や錯誤の、ご指摘など、宜しくお願い申し上げます。

スクープ 琴電にループ線!
高松琴平電鉄をたずねて
四国出張の途中でポコッと半日、時間が空いてしまいました。
高松市内のホテル(いわゆる商人宿です:苦笑)近くの本屋さんで琴電のロケハンをと地図帳を手に取ると、トンデモナイものを発見してしまいました。
そこで急遽レンタカーを手配し、現地取材へと旅立った訳です。(チト大げさな書き出し)

ふつ~の地図帳

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑤ 

若松機関区(3)  8620 9600 D50 D51

若松機関区、続けます。C55以外の「若」の蒸機となると、8620、9600,D50、その後の転属機としてD51となりました。華やかなC55と比べると、貨物、入換が中心の地味な働き場所でしたが、決して手は抜かず、美しく整備されていたのが、九州の蒸機でした。なかでもD50は、当時でも数を減らしていて、昭和40年代も後半に入るとD51に交代していきますが、私としては、米原の交直接続で、よく整備されたD50に接していて、大正生まれのD50に再会できて心が躍ったことを覚えています。化粧煙突を装備したD50 140  当時、若松区には数両のD50が配属されていたが、その中でも白眉の存在だった。直方へ転属していた時期もあったが、終始、筑豊本線で活躍。その後、まさかこの蒸機が京都へ来て、梅小路蒸気機関車館入りをするとは思わなかった(以下特記以外、昭和44年3月)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ④

若松機関区(2)  C55つづき

冷水峠に挑むC55 46 原田行き729レを牽く。冷水峠は筑前内野~筑前山家10.2kmにある峠で、サミットの冷水トンネルに向けて両側から25‰の上り勾配が続いた。ここまで来ると、さすがの筑豊本線も列車本数が減って、旅客列車は16往復だが、特急「いそかぜ」、急行「天草」も通っていた。うちC55の牽く普通列車は8往復、中間にトンネルがあるので、両側へ交互移動できず、どちらかの側に専念せざるを得なかった。まだ篠栗線が全通していなかったため、飯塚~博多の列車移動は、この冷水峠、原田経由しかなかった(以下特記以外、昭和43年3月)。若松機関区の全景 ここには扇形庫はなく、木造の矩形庫が二つあったほか、側線に蒸機が留置されていた。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ③

若松機関区(1)  C55

つぎは、筑豊本線の始発、若松機関区です。明治23年に筑豊興業鉄道の若松機関庫として開設され、門司鉄道管理局のなかでは最も古い歴史を持っています。それ以降、筑豊の各地から産出された石炭の積出港として若松が栄えるとともに、多くの蒸機が配置されていきました。しかし訪れた昭和40年代になると、石炭輸送も激減していきますが、それでも8620、9600、C55、D50合わせて26両の蒸機が配置されていました。なかでもC55は、蒸機の整地として名高い筑豊のなかでも、“女王”として、客車列車の先頭に立って筑豊本線、鹿児島本線で活躍を続けていました。「若」の区名板にふさわしいC55を、一両ごとに見ていきましょう。 明治期の駅舎が健在だった(以下、特記以外昭和43年3月)
C55の特徴は1750mmのスポーク動輪に尽きる。初めてC55と対面し、スポーク動輪を通して、向こう側の景色が透けて見えているのに感激した。華奢にも見えるスポーク動輪が、高速で回転しているのを見るのもいい。だから、私は、C55が急勾配に向かって奮闘している姿より、逆に下り勾配を、“カシャカシャ”とロッド・動輪を回転させて、軽快に下って行く姿のほうが好きだ。

「若」の区名板を付けたC55、軽快な切取式デフ(門鉄デフ)を多くのC55が装備し、しかも美しく整備されていたから、人気があった。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機  ②

門司機関区

九州の蒸機を始めようとすると、初回は「門司」しかないでしょう。昭和42(1967)年3月、17歳の高校2年生、関門トンネルを抜けて、初めての九州、門司への第一歩を印しました。青い空から陽光が降り注ぎ、本州とは違う空気感を感じた思いでした。門司機関区は、当時走っていた西鉄北九州市内線に沿って、延々と小倉方面に歩いたところにありました。付近には、機関区だけでなく、客貨車区、操車場が入り交じり、彼方まで線路で埋め尽くされ、煙が渦巻いていました。
昭和42(1967)年時点で配置量数は53両で、九州最大の蒸機配置区でしたが、9600、C11、D51と、当時では当たり前の形式ばかりでした。周辺の鹿児島・日豊本線は電化されていて、旅客列車はおもに421系電車になっていましたが、未電化の筑豊本線、日豊本線新田原以遠へ向かう旅客・貨物は、蒸機牽引のままで残っていて、そのため、他区からやって来る蒸機も多くが出入りしていました。九州の「門」に相当する、いわば「九州ゲートウェイ」のようなところで、「門」の区名板がズバリ似合っていました。

「門」の9600と門司駅舎(以下、特記以外は昭和42年3月)
付近は電化区間に囲まれていたが、非電化区間から乗り入れてくる他区の蒸機で賑わいを見せていた。D50231〔直〕D50129〔柳〕

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る 九州の蒸機   ①

一部で休業が解除され出口が見えてきたとは言え、現実の鉄道とは向き合えない日々が続いています。趣味活動は、活動の足跡をたどることしか今はできません。足跡の証しは人それぞれでしょうが、私の場合は、やはり蒸機の時代までスリップします。昭和40年代、DRFC現役時代を中心とした鉄道・蒸機については、今までも“デジ青”でセッセと載せてきました。しかし調べてみると、掲載できたのは僅かで、実際に写していたのはハンパない点数だったことを、改めて思い知りました。そのほとんどがネガ現像、ベタ焼きだけで終わっていて、プリント(紙焼き)、スキャン(データ化)は進展がありません。

趣味の世界でも、世代交代が進みました。雑誌・ネットでは、保存蒸機のイベント運転の記事は載っても、現役蒸機は、すっかり過去の遺産と化してしまいました。老舗の鉄道雑誌は、とうの昔に蒸機の記事はなくなり、“蒸機の世代に向けて”と標榜していた雑誌も、EL・DL特集に宗旨替えしてしまいました。現役蒸機では、商売ネタにもならないのでしょう。ネットでも、ベテランファンらしき“蒸機の思い出”なんてタイトルに釣られて中味を見ても、「やまぐち号」「北びわこ号」が得々と並んでいたりしています。現役蒸機の世代からの発信力、発言力が弱ってきて、自分としては“ついこの前”の世界が、どんどん遠ざかっていることを実感しています。

昭和40年代のネガはすべてベタ焼きは取って、アルバムに貼り付け、一部は撮影データも記入している。一部はプリントもしているが、デジタルになってからは紙焼きも中止、いっぽうネガスキャンのデータ化も、必要に駆られて行なっているものの、進捗率は極めて低く、ほとんどがネガ状態のまま50年間眠っていた。今回、一念発起、朝から深夜まで、近所の散歩を除いて、巣籠もりスキャンに励んだ。その結果、“こんな写真を撮っていたのか!”の連続で、自分でも改めて、その時の熱意に感心した。ネガの状態も、一部にビネガー状態の救済不能ネガはあるものの、大部分は50年経っても、キズもホコリもない完璧な状態だった。相手は黒い車体だけに、引伸し時代は、暗部の調子再現にずいぶん腐心したが、デジタル化では修整ソフトの「シャドウを明るく」のバーをいじるだけで、キレイに調子の整った画像になり、デジタル化の恩恵も感じた。ネガに対しては、“よくぞ50年間待っていてくれた”と愛おしい心境になったものだ。

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数値地図で見る西武鉄道、急カーブ図鑑

先日探し物をしていて、2005年前後に使っていたHDDが出てきました。
懐かしんで中を覗くと、当時HomePageを作り展示していたもののbackupでした。
その中からユニークなものを、ご紹介します。
但し10数年前に作った物なので、現況が変わってしまったものも有るかもしれません。ご容赦願います。そして誤謬や錯誤の、ご指摘など、宜しくお願い申し上げます。

【西武鉄道、急カーブ図鑑】
西武鉄道を利用して感じるのは、やたら直角に近く曲がる急カーブが多いことです。
国土地理院からWeb上での地図掲載の許諾(※)を得ましたので、こんなコンテンツを作ってみました。

【新宿・拝島線】
1.高田馬場駅下り方のJRアンダークロス(158R)

高田馬場

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 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ③

水鏡を求めて

この時期、新緑とともに、沿線で写材を提供してくれるのが“水鏡”ですね。先ほど、WAKUHIROさんからもコメントで、近鉄沿線では水鏡が見られることレポートしていただきました。水を張った水田などに車両が映り込み、条件が良ければ、シンメトリーな上下像ができます。ただ新緑に比べると期間限定で、どこでも見られるわけではなく、水鏡となる条件もあって、なかなか遭遇できません。私もまだ完璧な水鏡に出会ったことはありませんが、それだけに、この時期にぜひ撮りたいテーマのひとつです。
今まで、保存蒸機の動態運転についてぱ、自分の意志では行ったことがないものの、人に誘っていただいて何回か行ったことがある。この時もTさん親子とともに、クルマに乗せてもらい、「北びわこ」を撮りに行った日だった。まず運転当日に梅小路から回送されるC56を撮りに、東海道線安土~能登川の水田の横へ向かった。この日のC56160を牽引したのは「特別なトワイライトエクスプレス」運転用にトワイライト色に塗装変更されたばかりのEF65 1124だった(以下2016年5月)。

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 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ②

近鉄特急を新緑のなかで撮る

“新緑めぐり”続けます。新緑の撮影は、デジカメならではと思います。フォトスタイルを「ヴィヴィッド」や「風景」にするだけで、あざやかな新緑になりますから、便利になったものです。近鉄大阪線については、WAKUHIROさんらから、季節感あふれるレポートを拝見しています。大阪線の勾配区間へは、依頼された単行本の撮影もあって、私もよく行きました。最初に行ったのも、季節も今ごろの暑いぐらいの日で、乙訓の老人さん、本を執筆中のTさん、東京から来られた準特急さん、4人で三本松駅に集合して、室生東小学校横の大築堤へ向かいました。三人とも、いずれ劣らぬ博識をお持ちの方ばかり、口角泡を飛ばしての電車談義の賑やかなこと、改めて調べるともう20年も前のことで、懐かしく思い出しました。その後も、また近鉄関係の本の編集・撮影することになり、集中的に三本松付近を訪れることになりました。“特急のイメージが大きく変わります”と会社のリリースが出て、汎用特急の新色が出始めた頃でした(以下2016年4月)。
当時はまだ当たり前だった、汎用特急の旧色も、新緑バックによく映えていた。

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 マシ29の輪に 入れてください

準特急さんのマシ29 2を連結した「玄海」、惚れ惚れするような編成ですね。優等列車にWルーフ、三軸台車の客車が連結されていた例は、この昭和40年代では「玄海」だけだったのではと思います。しかも前後は10系客車というのも愉快です。私も一度だけですが、マシ29 2を撮っていました。高校2年生、初めての向日町運転所(当時)に恐る恐る入って行った時で、「玄海」の仕業を終えて、妻面を見せて休んでいました。冷房を備えているスシ37・47がマシ29に改称され、二重屋根車は0番台1~4となったが、昭和40年代に生き残っていたのは、向日町運転所のマシ29 2だけだった(昭和41年4月)。

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老いたるものに過ぎし日の思い出を・・

準特急さんと行った尾久機関区で撮ったEF57(宇)EF571を探したけれど見つからなかった

ありがたいことに客車の話で持ちきりとなっています。
過ぎ去ってしまった思い出に浸っておりましたが、血が騒ぎました!

古い写真をあさって、ここで話題になっている旧型客車を探し出しました。
酒の肴にしてさらに盛り上がれば、前立腺沿線の肥大前駅の団地にお住まいの方も参加してくださるでしょう。

解説は書きませんので皆様の思い出話を思う存分書き込んでください。

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