新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ①

新緑の保津峡で

“出口戦略”が示されたとは言え、まだ外出自粛は続きそうです。この時期、気が付けば新緑の真っ只中、撮影には一年を通じて最適の季節です。こんな時に限って、外は晴天が続き、カメラを持って飛び出したい衝動に駆られますが、グッとこらえて、家に籠もってスキャン三昧の毎日です。ならば、せめて新緑の頃に出掛けた、思い出のシーンを綴ってみようと思い立ちました。クローバー会の活動でも、昨年の天竜浜名湖鉄道、一昨年の明知鉄道と、快晴に恵まれた新緑の頃の撮影旅行ほど、心動かされる季節はありません。桜など“花もの”に比べて、十分な撮影期間があり、連休期間以外では、人出も少なく、とくに高齢者にとっては、自分好みの期間、場所が選べたもので、好んで各地へ出掛けたものでした。新緑まぶしい保津峡を渡って行く287系「きのさき」、ちょうど保津川下りの船と出会う(2015年5月、以下同じ)。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑳

中書島
いよいよ伏見線の終点の中書島へ。

京橋を渡って、しばらく走り、最後の専用軌道に入ります。大きく左へカーブして終点の「中書島」へ至っていました。京都市電では最南端に当たり、標高の最も低い停留場でした。すぐ隣は、京阪電鉄の中書島駅で、乗り換えは便利でした。

中書島まで延長されたのは大正3年で、京阪電鉄はすでに全通を果たしていました。今まで舟運に頼っていた、淀川左岸の大阪~京都の移動が、京阪電鉄の開業で、一気に近代化し、利便性が向上します。京電の中書島延長も、舟運連絡から、京阪電車との連絡連携を狙ったものですが、伏見線と京阪は、ほぼ並行するだけに、大阪~京都の直通客は京阪の利用となり、伏見線は打撃を受けることになります。北へ行けば中書島の歓楽街、市電はしばしの憩いを取り、乗客を乗せて再び元の道をたどって行きます。

京阪中書島駅と中書島商店街との間には踏切があって、複線から単線突っ込み式の「中書島」となっていた。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑲

京橋
京都電気鉄道は明治28年2月1日、当時の京都駅南側、東洞院通塩小路下ルから、今回紹介の「京橋」、当時の伏見町油掛通まで開業したのが始まりです。その油掛通にある和菓子店、伏見駿河屋の前には「電気鉄道事業発祥の地」の記念碑が立っています。まもなく鋼鉄製の京橋で宇治川派流を渡りますが、この付近が、かつての伏見港の中心地で、下流が昔の船溜まりで、大坂から淀川を上がってきた三十石船が発着し、付近は、米問屋、木材問屋、回船問屋などが並び活況を呈していました。旅人相手の旅籠も多く、維新の史跡として名高い寺田屋は唯一の遺構です。

 

鋼鉄製の親柱がある京橋を渡る。「京橋」停留場は、橋の北側にあったが、ここも、安全地帯のない白線で区切っただけのもの。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑱

大手筋

ふたたび京都市電伏見・稲荷線に戻ります。あと3停留場分が残っています。
肥後町で90度カーブして、再び南方向へ向かい、右手に見える「月桂冠」の工場を過ぎると「大手筋」に着きます。大手筋の地名由来は、ここから東へ行けば、伏見桃山城の大手門に繋がっているところから来ています。他都市では、その由来から大手筋、大手町と言えば、官庁街となる場合が多いものですが、伏見では商店街として発達しました。停留場から東へ行けば、伏見最大のショッピングゾーン、大手筋商店街へと至ります。巨大なショッピングセンターなど皆無の時代、市電でも、買い物籠をぶら下げた主婦の乗降も見られ、伏見一円から多くの買い物客で賑わっていました。
月桂冠の工場・社屋をバックに、大手筋に到着した伏見線の市電(Mさん撮影)。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑰

肥後町
丹波橋を出てからも、古びた伏見の街並みが車窓に続きました。まもなく、伏見桃山城の外堀跡でもある濠川を渡ります。周囲には朽ちた土蔵や酒蔵があったりして、伏見線のハイライト区間となリますが、廃止直前は前記のように、単線化の工事中で、雑然としていました。渡り終えると90度左へカーブ、竹田街道とは直角に交わり、肥後町まで線路は伏見線では唯一東西を向く区間で、寺院も幾つか見られます。再び90度のカーブで南へ。カーブの途上に肥後町の停留場がありました。肥後町の由来は、伏見に多い、大名屋敷跡を示す町名のひとつです。伏見線で唯一の東西区間から南に90度カーブする地点の途中にあった肥後町の停留場。現在でも道路は市電跡に沿ってカーブしている。なお、このカーブは半径36mで、棒鼻以南に大型の1000形が入線できない理由となっていた。同じ大型の500形、1000形では、ボギーセンター間は同じ6.7mだが、車体長が1000形のほうが20cm長く、すれ違い時に車体接触の可能性があった。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑯

丹波橋
棒鼻を出て、専用軌道を走る途中にあった、琵琶湖疏水の放水路を渡る鉄橋からは、伏見のシンボル、復元された伏見桃山城の天守閣がよく見えたものでした。疏水を渡り終えると、伏見の古くからある街並みが車窓に続き、そのなかに、招徳酒造の工場もありました。市電に乗っていても、酒の香りが車内を包み込み、伏見の街に入ってきたことを嗅覚からも感じたものです。まもなく丹波橋の停留場ですが、停留場とは名ばかりの、商家の軒先のわずかなスペースで多くの乗客が待っていました。
ところで「丹波橋」の由来ですが、東へ200mほどのところにある、伏見城の外堀に当たる壕川に架かる橋の名から来ていて、橋のそばに桑山丹波守の屋敷があったのが、橋の名前の由来とのこと。ところで、「丹波橋」は、いまでは京阪の駅名として定着しています。もとを正せば、京電、京阪とも同じ軌道法における民鉄であり、同一駅名がよく存続したものですが、京電が先輩格であり、あとから敷設された京阪こそ「京阪丹波橋」とするか、別の駅名を冠するべきだったでしょう。ほかにも「中書島」「稲荷」と、京阪と被る駅名があります(京阪は「伏見稲荷」だが、昭和14年まで稲荷を名乗っていた)。開業以来、頑として停留場名を変更しなかった京電に、日本最初の電気鉄道としての矜持を感じたものでした。商店の軒先が丹波橋の乗り場、春休みの朝、四条あたりへ行くのか、多くが18号系統を待っていた。

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『図補』のミス券

【まえふり】
『図補』とは車内補充券のうち、紙に路線図が印刷してあるものです。
車掌さんが規則に従って「パチン、パチン」とパンチ穴を開けて発行してくれます。
一般の切符に比べ圧倒的に発行枚数が少なく、駅の新設や改名、新路線の開業などで券面の改変が激しく、乗車券収集家には人気があるものです。
でも最近では「ジ~コロ」とプリンタで『文字』を打ち出す方式が主流となりました。

図補の作成者も人間です。勘違いやウッカリも起こります。 (^^;)
でも収集者にとっては間違い探しも、楽しみの一つです。(趣味者として不謹慎だと言われそうですが、、、)

『駅名のミス』
どう言う訳か、八王子に係わるものが多いです。
図補の場合、発行している路線から離れた駅(その路線から行く人が少ない)の表示を省略したりします。つまり主要駅のみ表記する場合があります。
また駅名変更が起こっても、図補の作り置きが無くなるまでは旧券をそのまま使ったり、ゴム印を押して済ます場合もあります。これはミス券では、ありません。

『浜松車掌区』
高円寺、吉祥寺、八王寺!

高円寺、吉祥寺、八王寺!

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑭

城南宮道

“道”と言っても、その城南宮へは停留場から1キロほど西にありました。停留場名には、施設名などにプラスして、「~前」「~口」「~通」「~道」と接尾語を付すことが多くあります。「前」「口」は、他都市でもよく見られますが、「通」「道」は、かなり京都的と言えます。「道」は、この城南宮道のように、「前」よりも少し歩く場合に適用されるようです。その違いを端的に理解できるのは、「金閣寺“前”」と「銀閣寺“道”」です。さて、高瀬川沿いを走っていた、古来の竹田街道は、この城南宮道で新しい竹田街道と合流しますが、その地点には「城南宮参詣道」の大きな石碑があります。そして、まもなく近鉄京都線をくぐります。近鉄線の前身は奈良電鉄、さらにさかのぼると、敷設当時は現在のJR奈良線のルーツとなる奈良鉄道でした。京電が敷設された当時は平面で交差しており、開業直後には、電車と奈良鉄道の機関車が衝突して多数の死傷者を出したと言います。砂塵を巻き上げ、少し車体を傾けながら、北上を続ける9号系統693号。市電の向こうに伏見信用金庫の広告塔が見えるが、それ以外に高い建築物は何もなかった。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑬

七瀬川町

七瀬川と言う小さな川が、停留場付近を流れていました。川は、深草の大岩山を水源として西へ流れて、高瀬川に合流していました。この名称は、川筋に七つの橋が架けられ,また大岩山から高瀬川と合流するまでの間に七瀬があったところから名付けられたと言われています。豊臣秀吉が伏見桃山城を築城する際には、総外堀の役目も担っていたそうです。現在では、潤いと安らぎのある水辺に改修され、親水河川となっています。

【七瀬川町 定点対比】

乗降客の平均年齢が相当高そうな七瀬川、右は現況と思われる箇所、街並みに特徴がなく、定点と決めるものが見つからなかった。

 

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑫

竹田出橋

この竹田出橋で名神高速道路の下をくぐりました。前記のように、もともとの竹田街道は少し西を流れる高瀬川に沿って通じていて、そこに架かっていた橋を井手橋と言い、それが転化して“出橋”となったと言われています。この付近から西が、古来の竹田の中心で、今でも歴史を感じさせる家並みが残っています。旧ルート時代の停留場名も竹田で、明治45年の移設時に竹田出橋となりました。

 

【竹田出橋 今昔対比①】

名神高速道路の南側にあった竹田出橋。右は現況。

 

 

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑪

竹田久保町

かつての停留場名は「練兵場前」で、付近には、陸軍第16師団の京都練兵場がありました。陸軍の施設が密集し、軍都として伏見の街の別の側面を見せていました。近くの龍谷大学や京都府警察学校も、戦後に陸軍跡地にできました。市電時代にも付近には公共施設も多く、乗降の多い停留場でした。

【竹田久保町 定点対比】 

竹田久保町の交差点から南方向を見る。東側(左)では、竹田街道の拡幅工事が進んでおり、伏見線の廃止後には、現在見られる、片側2車線、歩道付きの道路に生まれ変わる。右は現在の様子、街並みはすっかり変わってしまった。西へ行くと、地下鉄くいな橋駅があり、通行も多い。東側には龍谷大学のキャンパスがあり、学生相手のファストフード店が並んでいる。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑩

深草下川原町

では、また京都市電伏見・稲荷線に戻って、停留場ごとに50年前のシーンを巡っていきます。河さんにとってはホロ苦い思い出の残る、深草下川原町から始めます。前記の勧進橋から、棒鼻の手前まで約2キロは、ほぼ一直線の竹田街道を南下していきます。ただ明治の頃は、ここから少し西を流れていた高瀬川に沿った、曲がりくねった道で、京電も同様に走っていました。明治45年に、一直線の広い道に付け替えたもので、京電も同様に移設されています。今でも、竹田街道を歩くと、交差する小さい道とは、少し高低差があり、拡幅時期に、低い土地に盛り土をして、新しい竹田街道を通したことが伺えます。市電時代には、まだ田んぼも散見されますが、大部分は工場・民家が混在した車窓風景が続いていました。正直、なかなか絵にはなりにくい区間で、撮影もスルーすることが多く、今回も、Mさんの貴重な記録で助けてもらいました。

【深草下川原町 新旧対比】

この付近では、竹田街道の東側を市電が走っていた。もちろん安全地帯も無く、乗客は命がけで電車に乗り込んだ。右の現況と対比すると、右手のビルがそのまま。

 

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とあるニュースの見出し

Yahoo! の見出しに『地下駅の強風、何とかならない? 髪ぼさぼさ「分け目逆に」と不満、その原因は』なんてなのがありました。
最近は記事の購読数を稼ぐために刺激的な文言が見出しとして多用されており、思わずクリックすると、阪急の西院駅と大宮駅のことでした。


画像は下り特急から通過する西院駅を撮ったものです。

記事本体は、以下のURLです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200315-11004048-maidonans-life
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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑨

稲荷

勧進橋から分岐する稲荷線は、明治37年に開業しました。その距離はわずか0.7kmで、専用軌道で上り勾配を上って行きました。上り詰めると、師団街道の踏切を通り、京阪電鉄と平面交差します。市電はいったん停止し、信号を確認後、京阪の線路と平面交差して、琵琶湖疏水に架かる橋上の「稲荷」に至っていました。すぐ向こうは国鉄奈良線で、同線の稲荷駅も近い距離にあります。伏見稲荷大社への参拝客が多く訪れていて、とくに初詣や初午、例祭の時は乗降客であふれていました。

稲荷に関して最近のトピックは、何と言っても停留場付近からレールが“発掘”されたことでしょう。停留場のあった橋の改修によって、コンクリートで埋められていたレールが露出したものです。

行った時は発掘レールはブルーシートで覆われていたが、今後は現地で保存・展示されると言う。最終日の午後、停留場付近を柔らかい陽光が包み込んでいた。みんな思い思いに別れを告げていた。501号の下部付近から、上記のレールが発掘された。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑧

勧進橋

鴨川を渡ると、京都市の南区から伏見区に入り、伏見・稲荷線の本場に入ってきた感がします。右にカーブすると、すぐに勧進橋の停留場で、土蔵造りの荒れ放題の待合所が東側にありました。ここから明治37年にできた稲荷線が左へ分岐して行きます。「伏見稲荷大社」と大書きされた石碑と、稲荷参詣道(新道)の竣工を記念した石碑が緑地帯のなかにありました。稲荷方面~中書島方面は、直通電車もなかったため、相互乗り換えには、ここで乗換券が発行されていました。また今回も大部分の写真をMさんから提供いただきました。稲荷から来た稲荷線と合流する勧進橋、安全地帯の無い停留場からの乗り降りはたいへんだ。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑦

十条通

十条通の交差地点に停留場が設けられていました。十条通は、京都市南部の東西の所要道路で市電時代から自動車の通行が多くありました。民家、商店も次第に途切れて、近くの鴨川の水流を利用した染工場などが見えてきました。正直、なかなか絵になりにくいところで、私自身は、1、2点しか撮っておらず、今回もMさんの撮影で助けてもらいました。

【十条通 定点対比】

停留場前には、古い家並みが残っていた。市電時代は商店もあったが、右の現況では、さすがに看板も無く廃業しているものの、家そのものは改装されて残っていて、この西南の一角だけは、市電時代のままだった。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑥

札ノ辻

大石橋を出た市電は竹田街道を南下して行きます。古来からの竹田街道の街路をそのまま踏襲しているため、道は右に左に緩くカーブを続けます。商店、民家の連なる街並みを見ながら「札ノ辻」に到着です。いかにも旧街道らしい停留所名で、街道などに高札を立てた辻のことを言い、現在でも、地名や交差点名称として全国で見られます。この交差点は、東西の通りが、宇賀神社への参道に当たっていて、人通りも多かったようです。現在、この参道は、地図を見ると札ノ辻通とありました(今回の写真は、大部分Mさん提供の写真を掲載しています)。【札ノ辻 定点対比】いかにも街道筋らしい家々が連なっていた昭和の時代、停留場に到着する501号。左は、現在の札ノ辻交差点、中央の二階建てが、市電時代と変わっていないのが分かる。

 

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 廃駅をめぐる  【6】

湊町

少しの間、“廃駅”に戻ります。前掲の片町駅と同じく、大阪市内の終着駅だった湊町が平成6年になくなっています。ただ“廃止”ではなく、その後も「JR難波」に駅名改称されて存続し、駅も地下に潜っていますが、名称も位置も変わっていますので、“準”廃駅と言えるでしょう。

湊町の歴史を遡ると、大阪鉄道が、明治22年5月に湊町~柏原を開通させたことに始まります。明治33年には、大阪鉄道は関西鉄道に継承され、明治40年6月に湊町~奈良~名古屋が全通、その直後に関西鉄道は国有化されました。関西鉄道では、湊町は大阪方のターミナルとして位置づけられますが、国有化後は、名古屋方面へは、東海道線がメインとなり、関西本線はローカル輸送に徹することになります。ただ、唯一、東京から急行「大和」が運転されていましたが、それも昭和43年には王寺止まりとなり、のちに廃止されます。古い大阪人にとっての湊町は、京都で言えば京都駅山陰線ホームのように、煙が充満していたところだったのでしょうが、私には思い出は全くなく、駅名改称の前に一日だけ撮りに行っただけでした。地上駅の湊町は2面4線の頭端式ホーム、出入りしていた関西本線の電車は、快速は221系、普通は103系だった(以下、平成6年7月)。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑤

大石橋

京都駅八条口を出た市電は、竹田街道を南下して行きます。京と伏見を結ぶ街道のひとつで、東洞院通を延長する形で、江戸時代に拓かれと言います。途中、竹田村を通るところからこの名があります。沿道には車石が敷かれ、牛車による物資の輸送が盛んに行われていました。車石を専門に研究されているグループがあって、私も何回かフィールドワークに参加して、いまも各所に残っている車石を見て回ったこともありました。

大石橋では、市電九条線と交差します。ここには、九条車庫方面へ向かう南北両方向のポイントがありましたが、営業用ではなく、九条車庫へ入出庫する回送用でしたが、時に「臨」系統として営業のまま、九条車庫へ向かう系統もありました。

 

 

東寺の五重塔をバックに、夕暮れの大石橋交差点を渡って行く伏見線の500形(以下、昭和45年3月)。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線④ 

大西さんの京電地図

今まで見てきた伏見・稲荷線は、私が実見できた昭和45年の廃止直前の状況ですが、そのルーツは、日本最初の電車営業路線、京都電気鉄道に行き着くことを思うと、源流にも思いを馳せることになります。京電は、そのあと京都市に買収されたため、残された史料が乏しいのですが、京電研究の第一人者として、名を馳せられたのが、DRFC顧問をされていた故 大西友三郎さんでした。私は何度も大西さんのフィールドワークに参加させてもらい、博識ぶりを感じました。

大西さんの代表著作が、毎日新聞京都版に連載されていた「チンチン電車物語」です。17回に渡って詳細に記されています。大西さんは、根っからの鉄道ファンだけに、単なる机上の歴史物語ではなく、資料発掘、現地調査や、車両研究にも言及された第一級の京電資料です。その一部は、鉄道ピクトリアル356号の「京都市電訣別特集」の「京都電気鉄道物語」のベースともなりました。私も当時は毎日新聞を愛読していて、その初出記事に出会い、大切に保存してきました。そして、もうひとつ大西さんが纏められた京電関係の手書き地図が手許にあります。これは、表紙のタイトルからすると、鉄道友の会の講演資料のようですが、帝国陸地測量部の官製地図では得られない、一本の線路まで描かれて、当時の様子が活き活きと伝わるような、資料性の高い地図です。今まで紹介した停留所に関する地図を以下に挙げました。

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