九州の機関区巡り、鹿児島本線を南下してきましたが、これまで「鳥」「熊」「鹿」と意味ありげな札が続きました。これから鹿児島・宮崎を北上し、「吉」「人」「宮」と、また由緒正しき機関区を回っていくことになります。肥薩線にある吉松、吉都線も分岐する吉松は、街そのものは小さな街ですが、海岸周りの現在の鹿児島本線よりも先に肥薩線が開通し、九州の鉄道の要衝としての歴史を歩んできました。
“蒸機”という乗り物を意識した昭和30年代の後半に、いちばん憧れたのはC51でした。昭和39年の車両配置表を見ると、14両が残っていて、配置されていたのは、吉松をはじめ、新津、亀山、梅小路、米子、鳥栖と、蒸機とともに歩んできた、名だたる機関区ばかりでした。以後、吉松は憧れの地となりました。初めて訪れた昭和42年に、もうC51はいませんでしたが、C55、C56、D51が配置されていて、矢岳越えを終えた、人吉区の重装備のD51も休む区として有名でした。
▲明治時代に建設された、山越えルートの鹿児島本線(のちの肥薩線)をトレースして走る伝統の夜行鈍行1121レは、吉松で向きを変え、都城へ向けて最後のコースを走る。先頭に立ったのは、流線型改造のC55 26だった。 続きを読む
「老人の戯言」カテゴリーアーカイブ
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑯
鹿児島機関区(3) B20 8620 C12 C56 C57
鹿児島機関区の残りの形式をご紹介。もうひとつ鹿児島区のアイドルは、何と言ってもB2010でした。いまでは、京都鉄道博物館に保存されている同機ですが、当時は、小樽築港区のB201とともに、国鉄の現役蒸機としては最小で、15両が製造されたうち、2両だけが残っていました。用途は、機関区限定の入換機で、大きな給炭槽に、石炭をベルトコンベアで搬入するため、石炭を積んだ無蓋車・石炭車を、給炭槽の真下まで移動することでした(以下、特記以外昭和42年3月)。
▲区のアイドルにしては、無骨な産業用の機関車だった。扇形庫の横の定位置で止まったままだったが、ほかの撮影を終えて、戻って来ると、ほんの数メートルだけ移動していることが多かった。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑮
鹿児島機関区(2) C61
九州では唯一の配置となるC61でした。昭和24年に九州に配置されて以来、6両が揃って鹿児島本線全線電化まで働き続けました。C61は、戦後の旅客用蒸機の不足を補うため、戦時中の大量増備で余剰気味となった貨物用D51のボイラ、台枠をそのまま使って、下回りはC57と同じものを新製して組み合わせたもの。1号機が昭和22年に改造され、22両が昭和23年までに造られました。C60、C62も同様の改造で生まれていますが、数字の並びから、C60が最初の改造に思われがちですが、C61が戦後すぐの改造で、C60は、それから6年経過してからでした。
▲鹿児島機関区でハドソン2形式が顔を揃える。C61 33 C60 34 いずれもヘッドマークを取り付けるステーが見える。C61のナンバープレートの取付位置が高いため、正面からの印象は、C61のほうが腰高の印象がする(昭和42年3月)。 続きを読む
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑭
機関区めぐり、熊本の次は、南端の鹿児島機関区へと参ります。熊本と鹿児島の間には、出水にも機関区がありましたが、貨物用のD51のみの配置で面白味はありませんでした。鹿児島機関区には、C61、C60、C57、C56、C12、B20、8620と、7形式もの蒸機が配置されて、形式数においては、日本一の機関区でした。初めて訪れた昭和42年3月、初めてC61、C60、B20を一度に見ることができて、夢を見ているようでした。通常、機関区の撮影は1~2時間で済ませますが、この時は、11時頃から区で写し始めて、昼食も忘れて延々と居続け、17時ごろにようやく市内のユースホステルに引き揚げるほどで、たっぷり区に浸っていました。撮影点数も多いため、何回かに分けて、まずはC60からご覧いただきましょう。
▲C60のラストナンバー、C60 107の牽く東京発西鹿児島行き不定期急行「桜島」。熊本以南の非電化区間、優等列車はDL化されていたが、不定期・臨時列車は、まだ蒸機牽引で残っていた。上伊集院~薩摩松元 昭和44年3月
▲▲鹿児島機関区からは、桜島がよく見えた。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑬
つぎは熊本区の蒸機を見ていきます。この機関区へ行ったのは、鳥栖と同じ昭和42年3月で、一度切りのことでした。この時点で、鹿児島本線の電化は熊本まで到達、翌年には川尻まで延長されます。熊本が電化、非電化の中継地に当たるのですが、鹿児島本線の蒸機の使用状況は、鳥栖と似ていて、優等列車は全部EL・DL化されていて、不定期・臨時急行、普通列車で、熊本・鹿児島区のC60、C61が使用されていました。機関区は、ホームに隣接した西側にありましたが、狭いところで、ラウンドハウスもなく、木造の矩形庫のなかに、多くの蒸機が押し込められていました。行ったのも、夕方の薄暗い時期でした。そのうちに電化も南進して、ついに熊本機関区へ行くことはありませんでした。
▲熊本駅に到着するC60 37の牽く出水発熊本行き132レ、鹿児島本線の電化は熊本までで、鹿児島方面から来る列車は、優等列車を除いて蒸機牽引だった。ただ、駅の構内は、翌年の川尻までの電化に備えて架線が張られていた。狭い構内もあって、熊本駅、熊本機関区で写したのは、この一回切りだった(以下、昭和42年3月)。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑫
筑豊地区の機関区巡りを終えて、鹿児島本線を南下していくと、まず鳥栖に着きます。長崎本線を分岐するジャンクションであり、蒸機時代には、駅の南東側に鳥栖機関区がありました。とにかく規模の大きな機関区で、驚いたのは、転車台+ラウンドハウスが2組あり、ラウンドハウスも半周分はある規模の大きなものでした。ただ、初めて行った昭和42年には、鹿児島本線は熊本まで電化していて、長崎本線は非電化ながらも、少し前まで走っていたC60の牽く寝台特急「さくら」「あかつき」はDD51に置き換わっていて、定期の特急・急行はすべてDD51で、わずかに不定期・臨時列車に、C60の牽引の活路が残されているだけでした。ただ、普通列車は早岐区C57、貨物はD51、ほかにも、筑豊本線、久大本線から通しで蒸機が来るなど、以前のような幹線の大型蒸機の活躍は見られなかったものの、まだまだ活気のある風景が展開されていました(以下すべて昭和42年3月)。
▲鹿児島本線から長崎本線が分岐するY字形の間に、建築現場のプレハブ小屋があった。中を覗いても誰も居ず、勝手に外階段を上がって二階へ行くと、長崎本線がゆるくカーブして俯瞰できる。背景は家が建て込んでいるが、ちょうど順光で撮れる。まだC60で残っていた優等列車は、この時期、不定期・臨時急行だけで、ちょうど長崎行きの「第二玄海」がC60 38に牽かれて鳥栖を発車して行った。
Stay Homeを楽しむ ~風景印を集めてみた ⑤~
こだわりの風景印
鉄道テーマからは外れますが、ちょっとこだわりのある風景印を集めてみて、StayHomeの楽しみを閉めることにします。
前にも述べましたが、全国の郵便局は、JR・民鉄の駅より多い、2万4000局ほどあります。駅に東西南北の最端があるように、郵便局にも、最端の局があって風景印を常備しています。
▲(左)最北の宗谷岬局(稚内市) 宗谷岬のすぐそば、路線バスも走るところにある。絵柄は間宮林蔵の像、最北端の碑を描く。 (右)最東の珸瑤瑁局(根室市) 「ごようまい」とよむ難読名で、かつての根室拓殖鉄道の終点、歯舞のまだ先、納沙布岬の手前にある。珍しい、ベタ白ヌキ、白マドの印になっている。
▲(左)最南端の波照間局(八重山町波照間島) (右)最西端の与那国局(八重山町与那国島) 与那国島は那覇から空便もあるが、波照間島へは石垣島から船便しかない離島、さすがに郵頼しても、戻って来るのに、一週間以上を要した。それでも片道84円で届くのだから、郵便制度の有り難さを改めて感じる。
Stay Homeを楽しむ ~風景印を集めてみた ④~
切手に押印する風景印を、“マッチング”と言って、関係の深いものにすることは、前回の江若鉄道百年の項でも述べたことですが、鉄道に関して、さまざまな組み合わせを、今回は見ていきます。
究極のマッチング? 廃駅の写真・入場券・駅スタンプ・下車印、風景印を一致
上記の5つを一致させることはできるのか? 写真・入場券・駅スタンプ・下車印が揃っている駅はいくつか見つかりました。ただ、駅名と同名の郵便局があって、しかも風景印のある局となると、さらに限られます。みごと5つとも揃ったのは、ひと駅だけ、北海道、羽幌線の鬼鹿でした。
▲「鬼鹿」と言う、驚しい駅名も、今となっては知る人も少なくなった。われわれの時代には、羽幌線は希少なD61の走る線区で、まだ石炭列車もあった。勾配区間の鬼鹿~力昼~古丹別は撮影地として知られていて、私も下車した。交換列車があるこ
とが分かり、小雨の中で、通過する石炭列車を待った。駅名標は隠れてしまったが、ナメクジのD51 62が牽く石炭列車だった。この蒸機は、北海道ではとくに珍しい長工式の切取式デフを付けている。デフの前のステーの位置を見ても分かるように、ご丁寧に、北海道特有の切り詰めデフに再改造されている(昭和44年9月)。
▲羽幌線は国鉄の第二次地方交通線で昭和62年3月に廃止になった。訪れた時の入場券、駅スタンプ、均一周遊券の下車印が、50年ぶりに陽の目を見ることになり、改めて、鬼鹿郵便局へ郵頼した。絵柄の建物は、近くの番屋、夏には海水浴場もあって、羽幌線の頃には、最北の海水浴の臨時列車も走った。
Stay Homeを楽しむ ~風景印を集めてみた ③~
江若鉄道の切手に ゆかりの風景印
以前、当欄でも、「江若鉄道百周年」のフレーム切手が発売されることを案内しました。フレーム切手とは、地域限定の記念切手のようなもので、江若鉄道百周年の切手は、滋賀県下の郵便局で3月から発売されています。従来からも、切手に描かれた絵柄に縁のある郵便局で押印することを、“マッチング”と呼んで、風景印の収集法のひとつになっています。そこで、江若鉄道切手でも、江若鉄道の駅名と一致する郵便局で押印を計画しました。ただ弱ったのは、全国的に見て、京都、滋賀は、風景印のある郵便局がたいへん少ない地域で、写真の撮影地と一致させるのがなかなか困難でした。お隣の県ですので、本来なら訪問押印すべきですが、今回は、自宅からの郵頼としました。
▲(左)多くが三井寺下で撮られたものなので、三井寺の風景印があればベストだが、それは叶わず、まず始発の浜大津を押印。(右)湖西線沿いに北上して、つぎに風景印のあるのが堅田となった。
Stay Homeを楽しむ ~風景印を集めてみた ②~
鉄道テーマ
居ながらにして集められる「風景印」、鉄道テーマのものを集めてみました。駅舎や車両を扱った風景印は各地にあります。とくに新幹線ものは、新幹線沿線の局で多く見られます。逆に、過去の廃止された鉄道もあって、地域に根ざした鉄道の奥深さを感じます。これには、ちゃんとネタ本があって、「テーマ別 風景印大百科 鉄道編」という本が発行されていて、項目別に、500局以上の絵柄が収録されています。
▲左から、旭川駅内 高架の駅舎と発車する特急(485系1500代「いしかり」?)、背後に大雪山を描く。これのみ旅行中に押印。青森今別 青函トンネルを出るED79の牽く寝台特急と、郷土の踊り。五所川原北 津軽鉄道のストーブ列車(ちゃんと煙が出ている)と岩木山。
Stay Homeを楽しむ ~風景印を集めてみた ①~
ちょっと古い話題が続きましたので、目先を変えて、自粛期間中の活動を紹介します。ひとつ取り組んだのが「風景印」の収集でした。郵便局で押印できる絵入りの消印のことで、郵便局の総数およそ2万4000局のうち、風景印のある局が1万1000局程度あります。JR・民鉄の駅の総数が約9500と言われていますから、駅の数より、風景印のある郵便局のほうが多いことになります。本欄でも、西村さんから、OB会の宴会の景品のなかに、仙台市電テーマの古い風景印があったこと紹介されましたし、昨年の冬にも、釧路地方の風景印のなかに鉄道テーマの印があることの報告がありました。私は、たまたまその時、釧路に来ていて、釧路駅にある金券ショップで、同じ風景印が販売されているのを見つけて、思わず購入しました。以来、旅行先で郵便局があると、風景印の押印を頼むようになりました。
▲地元で集めた「風景印」。直径36ミリの円内に、周辺の名所・風景が描かれている。“鳶色”と言う赤茶色のインクを使用、円形が基本だが、変形印もある。公印であるため、官製はがき、または63円以上の切手の貼付が必要になる。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑪
行橋機関区(2) C50 C11
行橋機関区には、名物の蒸機C50がいました。九州では唯一の配置区でした。C50と言えば、8620の改良型として、154両が製造されました。C50と聞いてイメージするのは、東海道・山陽筋の駅で、煙室をトラ模様に塗って、懸命に入換に励む姿でした。関東なら、両毛線、水戸線で旅客列車ほ牽く姿も見られましたが、関西の人間にとっては、地味で目立たず、裏方に徹した蒸機という印象でした。ところが、さすがは九州、美しく整備され、ちゃんと表舞台も用意されていました。前掲のように、日豊本線の初電化は、昭和41年10月の新田原までの電化ですが、電化区間が短区間のため、通しの客貨列車は蒸機が牽いていました。そのなかで、門司港14時22分発の柳ヶ浦行き1529レを通しで牽いていたのが、行橋区のC50でした。門司港~柳ヶ浦80kmを単機で客車6両を牽き、C57、D51に伍して本線上を堂々と走ったのですから、入換機イメージのC50とは、全く違う姿を見せていました。
▲架線の下を発車する門司港発柳ヶ浦行き1529レ、行橋区の名物、デフに飾りを入れたC50 58が牽引していた。行橋 昭和42年3月
▲行橋にはC11もいて、田川・伊田線の旅客列車を牽いた。C11 300の牽く329レ 直方 昭和43年3月
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑩
筑豊の蒸機機関区の最後として、行橋機関区に参ります。行橋は、日豊本線から田川線の分岐する駅で、初めて行った昭和42年3月当時、日豊本線は、新田原まで電化していて、旅客はほぼ421系電車化されていました。しかし、一部の客車列車は、電機の製造が追いつかず、蒸機牽引で残っていました。貨物も同様で、門司、柳ヶ浦区の蒸機が、架線の下を黒煙を上げながら走る光景が見られました。いっぽうの田川線は、ほかの筑豊に多く見られる支線ですが、日豊本線苅田から分岐する苅田港(貨物専用)からの石炭・石灰岩の船積み搬出ルートの一翼を担っていました。苅田港の設備は、ほかの若松などの積出し設備に比べて新しく、徐々に扱い量が増加し、田川線は重用されていました。田川線油須原からは、添田方面に出る短絡線の油須原新線も建設中で、将来が嘱望されていました。石炭がの末路が予測されている時代に新線建設とは、今から見れば不可思議なことですが、まだ一定量の輸送はあった時代でした。しかしその数年後、石炭産出はさらに激減し、新線建設も未成線のまま終わります。そんなエネルギー革命の波に翻弄されてきた田川線で、ほぼ独占して客貨を牽いていたのが、行橋区のキュウロクで、「行」の区名板に相応しく、懸命に我が道を進む姿を彷彿させたものです。
▲化粧煙突、切取式デフを装備した、筑豊のキュウロクの典型59684 お世辞にもスタイル映えのしないキュウロクであっても、ロッドを下げた姿は、形式写真としての価値を高めていた。行橋 昭和43年3月
▲行橋のキュウロクは昭和43年3月時点で11両いた。沿線の至るところで見ることができて、筑豊の人びとの生活の中に当たり前のように溶け込んでいた。79657 船尾 昭和49年8月
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑨
後藤寺は、前稿で、おとりんさんが訪ねた日田彦山線の途中にあった駅で、ここから後藤寺線、糸田線が分岐していました。当時の鉄道路線図を見ても、密集した筑豊の路線網の中央部にあっただけに、石炭一色のような駅で、また近くの香春岳などから産出される石灰岩輸送の中継地でもありました。筑豊の“裏口”のような、ディープさの伝わる駅で、まさに「後」の持つ区名板がぴったりの雰囲気を持っていました。配置されていた蒸機は、言うまでもなくキュウロクで、あとは支線区で旅客列車を牽いていたC11が配属されていました。扇形庫もない、小規模な機関区でしたが、直方からは、蒸機が無くなったあとも存続し、行橋区とともに昭和49年まで蒸機の配置があり、筑豊最後の蒸機として、社会人になってからも何度か行くことが出来ました。
先般、たまたま後藤寺を40数年ぶりに訪ねる機会がありました。いまは「田川後藤寺」と市名を冠した駅名に改称され、JR日田彦山線、後藤寺線と、平成筑豊鉄道糸田線が分岐しています。もちろん機関区は、跡形も無くなって、当時は晴れていてもドス黒い煙に空が覆われていたのが、何とも青空のまぶしい駅前になっていました。
▲後藤寺~起行の中元寺川鉄橋の前後には20‰勾配があり、手近な撮影地となっていた。船尾からで産出されるセメントの輸送もあって、多くの蒸機列車があった。ただ訪れたのは真夏のカンカン照りで、貨物量も少なく、スカスカの煙だった。機号不明(昭和49年8月)
▲後藤寺機関区は、木造3線の矩形庫のコンパクトな構内で、模型を見るような雰囲気だった。給炭はクレーンを使っていた。29692は行橋区の所属。(以下、特記以外は昭和43年3月)
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑧
直方機関区(3) D51 D50 C11
直方と言えばD60の活躍がすぐ思い浮かびますが、その脇を固める蒸機もいました。それが、D51であり、D50、C11でした。他の線区では主役であるべき最大両数を誇るD51が脇役に過ぎないのも筑豊の凄さでした。昭和42年3月時点では、D60の11両に対して、D51は4両で、両者の勢力はその後もほとんど変わらず、DL化を迎えることになります。
▲直方では少数派だったD51だが、その特徴は半流線型のナメクジが多かったこと。筑豊の“山科大カーブ”で旅客列車を牽く姿は、黒光りするボイラーを輝かせて、当時はどこでも見掛けたD51とはひと味違っていた。中間~筑前垣生 (以下、特記以外は昭和43年3月)
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑦
直方機関区(2) D60
直方機関区で代表となる蒸機は、やはりD60でしょう。筑豊本線、支線の上山田線などで貨物列車の先頭に立ち、黒崎経由で、鹿児島本線の小倉、門司港へ向かう旅客列車などもD60が牽いていました。昭和43年3月現在、直方区には11両のD60が配置され、しばらく推移しますが、昭和46年には19両に増加します。これは、若松区のD50が廃車され、その代替として、久大本線の無煙化で大分からD60が筑豊本線に転属、若松の配置ではなく、直方区の配置になったことが要因です。「直」の区名イメージどおり、黙々と実直に働き続けたD60ですが、イヤッと言うほど撮影をしました。今回は、番号順に並べて見ていただきます。
▲直方を発車するD60 27+D60 26の重連貨物。冷水峠を越える貨物列車は、直方からD60重連になることが多かった(特記以外、以下昭和43年3月)
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑥
筑豊の中枢の機関区、直方機関区に移ります。地図を見ても分かるように、筑豊のど真ん中に位置していました。昭和40年代、筑豊本線だけでなく、細かく枝分かれした支線が張り巡らされていました。昭和43年3月に配置されていたのは、9600が19両、C11が5両、D51が4両、D60が11両で、45両もの蒸機が配置され、九州では、門司機関区に次ぐ配置両数でした。減ったとは言え、石炭列車は輸送の中心で、一般の貨物列車、旅客列車、それに各駅、専用線の入換に日夜活躍していました。「直」の区名板にふさわしく、実直に、愚直に働いていたのが、直方の蒸機と言えるでしょう。
▲「直」の区名板を付けた79652 近隣の若松、後藤寺などのキュウロクとともに、筑豊の各線で活躍を続けた(以下特記以外、昭和43年3月)。
【フェイクニュース】琴電にループ線!
2005年前後に使っていたHDD内のネタ、第二弾です。
取材は1999年11月のことなので、現況は変わっているかもしれません。ご容赦願います。そして誤謬や錯誤の、ご指摘など、宜しくお願い申し上げます。
:
【 スクープ 】 琴電にループ線!
高松琴平電鉄をたずねて
四国出張の途中でポコッと半日、時間が空いてしまいました。
高松市内のホテル(いわゆる商人宿です:苦笑)近くの本屋さんで琴電のロケハンをと地図帳を手に取ると、トンデモナイものを発見してしまいました。
そこで急遽レンタカーを手配し、現地取材へと旅立った訳です。(チト大げさな書き出し)
:
ふつ~の地図帳

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やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑤
若松機関区(3) 8620 9600 D50 D51
若松機関区、続けます。C55以外の「若」の蒸機となると、8620、9600,D50、その後の転属機としてD51となりました。華やかなC55と比べると、貨物、入換が中心の地味な働き場所でしたが、決して手は抜かず、美しく整備されていたのが、九州の蒸機でした。なかでもD50は、当時でも数を減らしていて、昭和40年代も後半に入るとD51に交代していきますが、私としては、米原の交直接続で、よく整備されたD50に接していて、大正生まれのD50に再会できて心が躍ったことを覚えています。
▲化粧煙突を装備したD50 140 当時、若松区には数両のD50が配属されていたが、その中でも白眉の存在だった。直方へ転属していた時期もあったが、終始、筑豊本線で活躍。その後、まさかこの蒸機が京都へ来て、梅小路蒸気機関車館入りをするとは思わなかった(以下特記以外、昭和44年3月)。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ④
若松機関区(2) C55つづき
▲冷水峠に挑むC55 46 原田行き729レを牽く。冷水峠は筑前内野~筑前山家10.2kmにある峠で、サミットの冷水トンネルに向けて両側から25‰の上り勾配が続いた。ここまで来ると、さすがの筑豊本線も列車本数が減って、旅客列車は16往復だが、特急「いそかぜ」、急行「天草」も通っていた。うちC55の牽く普通列車は8往復、中間にトンネルがあるので、両側へ交互移動できず、どちらかの側に専念せざるを得なかった。まだ篠栗線が全通していなかったため、飯塚~博多の列車移動は、この冷水峠、原田経由しかなかった(以下特記以外、昭和43年3月)。
▲若松機関区の全景 ここには扇形庫はなく、木造の矩形庫が二つあったほか、側線に蒸機が留置されていた。




















