やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ③

若松機関区(1)  C55

つぎは、筑豊本線の始発、若松機関区です。明治23年に筑豊興業鉄道の若松機関庫として開設され、門司鉄道管理局のなかでは最も古い歴史を持っています。それ以降、筑豊の各地から産出された石炭の積出港として若松が栄えるとともに、多くの蒸機が配置されていきました。しかし訪れた昭和40年代になると、石炭輸送も激減していきますが、それでも8620、9600、C55、D50合わせて26両の蒸機が配置されていました。なかでもC55は、蒸機の整地として名高い筑豊のなかでも、“女王”として、客車列車の先頭に立って筑豊本線、鹿児島本線で活躍を続けていました。「若」の区名板にふさわしいC55を、一両ごとに見ていきましょう。 明治期の駅舎が健在だった(以下、特記以外昭和43年3月)
C55の特徴は1750mmのスポーク動輪に尽きる。初めてC55と対面し、スポーク動輪を通して、向こう側の景色が透けて見えているのに感激した。華奢にも見えるスポーク動輪が、高速で回転しているのを見るのもいい。だから、私は、C55が急勾配に向かって奮闘している姿より、逆に下り勾配を、“カシャカシャ”とロッド・動輪を回転させて、軽快に下って行く姿のほうが好きだ。

「若」の区名板を付けたC55、軽快な切取式デフ(門鉄デフ)を多くのC55が装備し、しかも美しく整備されていたから、人気があった。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機  ②

門司機関区

九州の蒸機を始めようとすると、初回は「門司」しかないでしょう。昭和42(1967)年3月、17歳の高校2年生、関門トンネルを抜けて、初めての九州、門司への第一歩を印しました。青い空から陽光が降り注ぎ、本州とは違う空気感を感じた思いでした。門司機関区は、当時走っていた西鉄北九州市内線に沿って、延々と小倉方面に歩いたところにありました。付近には、機関区だけでなく、客貨車区、操車場が入り交じり、彼方まで線路で埋め尽くされ、煙が渦巻いていました。
昭和42(1967)年時点で配置量数は53両で、九州最大の蒸機配置区でしたが、9600、C11、D51と、当時では当たり前の形式ばかりでした。周辺の鹿児島・日豊本線は電化されていて、旅客列車はおもに421系電車になっていましたが、未電化の筑豊本線、日豊本線新田原以遠へ向かう旅客・貨物は、蒸機牽引のままで残っていて、そのため、他区からやって来る蒸機も多くが出入りしていました。九州の「門」に相当する、いわば「九州ゲートウェイ」のようなところで、「門」の区名板がズバリ似合っていました。

「門」の9600と門司駅舎(以下、特記以外は昭和42年3月)
付近は電化区間に囲まれていたが、非電化区間から乗り入れてくる他区の蒸機で賑わいを見せていた。D50231〔直〕D50129〔柳〕

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る 九州の蒸機   ①

一部で休業が解除され出口が見えてきたとは言え、現実の鉄道とは向き合えない日々が続いています。趣味活動は、活動の足跡をたどることしか今はできません。足跡の証しは人それぞれでしょうが、私の場合は、やはり蒸機の時代までスリップします。昭和40年代、DRFC現役時代を中心とした鉄道・蒸機については、今までも“デジ青”でセッセと載せてきました。しかし調べてみると、掲載できたのは僅かで、実際に写していたのはハンパない点数だったことを、改めて思い知りました。そのほとんどがネガ現像、ベタ焼きだけで終わっていて、プリント(紙焼き)、スキャン(データ化)は進展がありません。

趣味の世界でも、世代交代が進みました。雑誌・ネットでは、保存蒸機のイベント運転の記事は載っても、現役蒸機は、すっかり過去の遺産と化してしまいました。老舗の鉄道雑誌は、とうの昔に蒸機の記事はなくなり、“蒸機の世代に向けて”と標榜していた雑誌も、EL・DL特集に宗旨替えしてしまいました。現役蒸機では、商売ネタにもならないのでしょう。ネットでも、ベテランファンらしき“蒸機の思い出”なんてタイトルに釣られて中味を見ても、「やまぐち号」「北びわこ号」が得々と並んでいたりしています。現役蒸機の世代からの発信力、発言力が弱ってきて、自分としては“ついこの前”の世界が、どんどん遠ざかっていることを実感しています。

昭和40年代のネガはすべてベタ焼きは取って、アルバムに貼り付け、一部は撮影データも記入している。一部はプリントもしているが、デジタルになってからは紙焼きも中止、いっぽうネガスキャンのデータ化も、必要に駆られて行なっているものの、進捗率は極めて低く、ほとんどがネガ状態のまま50年間眠っていた。今回、一念発起、朝から深夜まで、近所の散歩を除いて、巣籠もりスキャンに励んだ。その結果、“こんな写真を撮っていたのか!”の連続で、自分でも改めて、その時の熱意に感心した。ネガの状態も、一部にビネガー状態の救済不能ネガはあるものの、大部分は50年経っても、キズもホコリもない完璧な状態だった。相手は黒い車体だけに、引伸し時代は、暗部の調子再現にずいぶん腐心したが、デジタル化では修整ソフトの「シャドウを明るく」のバーをいじるだけで、キレイに調子の整った画像になり、デジタル化の恩恵も感じた。ネガに対しては、“よくぞ50年間待っていてくれた”と愛おしい心境になったものだ。

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数値地図で見る西武鉄道、急カーブ図鑑

先日探し物をしていて、2005年前後に使っていたHDDが出てきました。
懐かしんで中を覗くと、当時HomePageを作り展示していたもののbackupでした。
その中からユニークなものを、ご紹介します。
但し10数年前に作った物なので、現況が変わってしまったものも有るかもしれません。ご容赦願います。そして誤謬や錯誤の、ご指摘など、宜しくお願い申し上げます。

【西武鉄道、急カーブ図鑑】
西武鉄道を利用して感じるのは、やたら直角に近く曲がる急カーブが多いことです。
国土地理院からWeb上での地図掲載の許諾(※)を得ましたので、こんなコンテンツを作ってみました。

【新宿・拝島線】
1.高田馬場駅下り方のJRアンダークロス(158R)

高田馬場

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 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ③

水鏡を求めて

この時期、新緑とともに、沿線で写材を提供してくれるのが“水鏡”ですね。先ほど、WAKUHIROさんからもコメントで、近鉄沿線では水鏡が見られることレポートしていただきました。水を張った水田などに車両が映り込み、条件が良ければ、シンメトリーな上下像ができます。ただ新緑に比べると期間限定で、どこでも見られるわけではなく、水鏡となる条件もあって、なかなか遭遇できません。私もまだ完璧な水鏡に出会ったことはありませんが、それだけに、この時期にぜひ撮りたいテーマのひとつです。
今まで、保存蒸機の動態運転についてぱ、自分の意志では行ったことがないものの、人に誘っていただいて何回か行ったことがある。この時もTさん親子とともに、クルマに乗せてもらい、「北びわこ」を撮りに行った日だった。まず運転当日に梅小路から回送されるC56を撮りに、東海道線安土~能登川の水田の横へ向かった。この日のC56160を牽引したのは「特別なトワイライトエクスプレス」運転用にトワイライト色に塗装変更されたばかりのEF65 1124だった(以下2016年5月)。

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 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ②

近鉄特急を新緑のなかで撮る

“新緑めぐり”続けます。新緑の撮影は、デジカメならではと思います。フォトスタイルを「ヴィヴィッド」や「風景」にするだけで、あざやかな新緑になりますから、便利になったものです。近鉄大阪線については、WAKUHIROさんらから、季節感あふれるレポートを拝見しています。大阪線の勾配区間へは、依頼された単行本の撮影もあって、私もよく行きました。最初に行ったのも、季節も今ごろの暑いぐらいの日で、乙訓の老人さん、本を執筆中のTさん、東京から来られた準特急さん、4人で三本松駅に集合して、室生東小学校横の大築堤へ向かいました。三人とも、いずれ劣らぬ博識をお持ちの方ばかり、口角泡を飛ばしての電車談義の賑やかなこと、改めて調べるともう20年も前のことで、懐かしく思い出しました。その後も、また近鉄関係の本の編集・撮影することになり、集中的に三本松付近を訪れることになりました。“特急のイメージが大きく変わります”と会社のリリースが出て、汎用特急の新色が出始めた頃でした(以下2016年4月)。
当時はまだ当たり前だった、汎用特急の旧色も、新緑バックによく映えていた。

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 マシ29の輪に 入れてください

準特急さんのマシ29 2を連結した「玄海」、惚れ惚れするような編成ですね。優等列車にWルーフ、三軸台車の客車が連結されていた例は、この昭和40年代では「玄海」だけだったのではと思います。しかも前後は10系客車というのも愉快です。私も一度だけですが、マシ29 2を撮っていました。高校2年生、初めての向日町運転所(当時)に恐る恐る入って行った時で、「玄海」の仕業を終えて、妻面を見せて休んでいました。冷房を備えているスシ37・47がマシ29に改称され、二重屋根車は0番台1~4となったが、昭和40年代に生き残っていたのは、向日町運転所のマシ29 2だけだった(昭和41年4月)。

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老いたるものに過ぎし日の思い出を・・

準特急さんと行った尾久機関区で撮ったEF57(宇)EF571を探したけれど見つからなかった

ありがたいことに客車の話で持ちきりとなっています。
過ぎ去ってしまった思い出に浸っておりましたが、血が騒ぎました!

古い写真をあさって、ここで話題になっている旧型客車を探し出しました。
酒の肴にしてさらに盛り上がれば、前立腺沿線の肥大前駅の団地にお住まいの方も参加してくださるでしょう。

解説は書きませんので皆様の思い出話を思う存分書き込んでください。

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 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ①

新緑の保津峡で

“出口戦略”が示されたとは言え、まだ外出自粛は続きそうです。この時期、気が付けば新緑の真っ只中、撮影には一年を通じて最適の季節です。こんな時に限って、外は晴天が続き、カメラを持って飛び出したい衝動に駆られますが、グッとこらえて、家に籠もってスキャン三昧の毎日です。ならば、せめて新緑の頃に出掛けた、思い出のシーンを綴ってみようと思い立ちました。クローバー会の活動でも、昨年の天竜浜名湖鉄道、一昨年の明知鉄道と、快晴に恵まれた新緑の頃の撮影旅行ほど、心動かされる季節はありません。桜など“花もの”に比べて、十分な撮影期間があり、連休期間以外では、人出も少なく、とくに高齢者にとっては、自分好みの期間、場所が選べたもので、好んで各地へ出掛けたものでした。新緑まぶしい保津峡を渡って行く287系「きのさき」、ちょうど保津川下りの船と出会う(2015年5月、以下同じ)。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑳

中書島
いよいよ伏見線の終点の中書島へ。

京橋を渡って、しばらく走り、最後の専用軌道に入ります。大きく左へカーブして終点の「中書島」へ至っていました。京都市電では最南端に当たり、標高の最も低い停留場でした。すぐ隣は、京阪電鉄の中書島駅で、乗り換えは便利でした。

中書島まで延長されたのは大正3年で、京阪電鉄はすでに全通を果たしていました。今まで舟運に頼っていた、淀川左岸の大阪~京都の移動が、京阪電鉄の開業で、一気に近代化し、利便性が向上します。京電の中書島延長も、舟運連絡から、京阪電車との連絡連携を狙ったものですが、伏見線と京阪は、ほぼ並行するだけに、大阪~京都の直通客は京阪の利用となり、伏見線は打撃を受けることになります。北へ行けば中書島の歓楽街、市電はしばしの憩いを取り、乗客を乗せて再び元の道をたどって行きます。

京阪中書島駅と中書島商店街との間には踏切があって、複線から単線突っ込み式の「中書島」となっていた。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑲

京橋
京都電気鉄道は明治28年2月1日、当時の京都駅南側、東洞院通塩小路下ルから、今回紹介の「京橋」、当時の伏見町油掛通まで開業したのが始まりです。その油掛通にある和菓子店、伏見駿河屋の前には「電気鉄道事業発祥の地」の記念碑が立っています。まもなく鋼鉄製の京橋で宇治川派流を渡りますが、この付近が、かつての伏見港の中心地で、下流が昔の船溜まりで、大坂から淀川を上がってきた三十石船が発着し、付近は、米問屋、木材問屋、回船問屋などが並び活況を呈していました。旅人相手の旅籠も多く、維新の史跡として名高い寺田屋は唯一の遺構です。

 

鋼鉄製の親柱がある京橋を渡る。「京橋」停留場は、橋の北側にあったが、ここも、安全地帯のない白線で区切っただけのもの。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑱

大手筋

ふたたび京都市電伏見・稲荷線に戻ります。あと3停留場分が残っています。
肥後町で90度カーブして、再び南方向へ向かい、右手に見える「月桂冠」の工場を過ぎると「大手筋」に着きます。大手筋の地名由来は、ここから東へ行けば、伏見桃山城の大手門に繋がっているところから来ています。他都市では、その由来から大手筋、大手町と言えば、官庁街となる場合が多いものですが、伏見では商店街として発達しました。停留場から東へ行けば、伏見最大のショッピングゾーン、大手筋商店街へと至ります。巨大なショッピングセンターなど皆無の時代、市電でも、買い物籠をぶら下げた主婦の乗降も見られ、伏見一円から多くの買い物客で賑わっていました。
月桂冠の工場・社屋をバックに、大手筋に到着した伏見線の市電(Mさん撮影)。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑰

肥後町
丹波橋を出てからも、古びた伏見の街並みが車窓に続きました。まもなく、伏見桃山城の外堀跡でもある濠川を渡ります。周囲には朽ちた土蔵や酒蔵があったりして、伏見線のハイライト区間となリますが、廃止直前は前記のように、単線化の工事中で、雑然としていました。渡り終えると90度左へカーブ、竹田街道とは直角に交わり、肥後町まで線路は伏見線では唯一東西を向く区間で、寺院も幾つか見られます。再び90度のカーブで南へ。カーブの途上に肥後町の停留場がありました。肥後町の由来は、伏見に多い、大名屋敷跡を示す町名のひとつです。伏見線で唯一の東西区間から南に90度カーブする地点の途中にあった肥後町の停留場。現在でも道路は市電跡に沿ってカーブしている。なお、このカーブは半径36mで、棒鼻以南に大型の1000形が入線できない理由となっていた。同じ大型の500形、1000形では、ボギーセンター間は同じ6.7mだが、車体長が1000形のほうが20cm長く、すれ違い時に車体接触の可能性があった。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑯

丹波橋
棒鼻を出て、専用軌道を走る途中にあった、琵琶湖疏水の放水路を渡る鉄橋からは、伏見のシンボル、復元された伏見桃山城の天守閣がよく見えたものでした。疏水を渡り終えると、伏見の古くからある街並みが車窓に続き、そのなかに、招徳酒造の工場もありました。市電に乗っていても、酒の香りが車内を包み込み、伏見の街に入ってきたことを嗅覚からも感じたものです。まもなく丹波橋の停留場ですが、停留場とは名ばかりの、商家の軒先のわずかなスペースで多くの乗客が待っていました。
ところで「丹波橋」の由来ですが、東へ200mほどのところにある、伏見城の外堀に当たる壕川に架かる橋の名から来ていて、橋のそばに桑山丹波守の屋敷があったのが、橋の名前の由来とのこと。ところで、「丹波橋」は、いまでは京阪の駅名として定着しています。もとを正せば、京電、京阪とも同じ軌道法における民鉄であり、同一駅名がよく存続したものですが、京電が先輩格であり、あとから敷設された京阪こそ「京阪丹波橋」とするか、別の駅名を冠するべきだったでしょう。ほかにも「中書島」「稲荷」と、京阪と被る駅名があります(京阪は「伏見稲荷」だが、昭和14年まで稲荷を名乗っていた)。開業以来、頑として停留場名を変更しなかった京電に、日本最初の電気鉄道としての矜持を感じたものでした。商店の軒先が丹波橋の乗り場、春休みの朝、四条あたりへ行くのか、多くが18号系統を待っていた。

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『図補』のミス券

【まえふり】
『図補』とは車内補充券のうち、紙に路線図が印刷してあるものです。
車掌さんが規則に従って「パチン、パチン」とパンチ穴を開けて発行してくれます。
一般の切符に比べ圧倒的に発行枚数が少なく、駅の新設や改名、新路線の開業などで券面の改変が激しく、乗車券収集家には人気があるものです。
でも最近では「ジ~コロ」とプリンタで『文字』を打ち出す方式が主流となりました。

図補の作成者も人間です。勘違いやウッカリも起こります。 (^^;)
でも収集者にとっては間違い探しも、楽しみの一つです。(趣味者として不謹慎だと言われそうですが、、、)

『駅名のミス』
どう言う訳か、八王子に係わるものが多いです。
図補の場合、発行している路線から離れた駅(その路線から行く人が少ない)の表示を省略したりします。つまり主要駅のみ表記する場合があります。
また駅名変更が起こっても、図補の作り置きが無くなるまでは旧券をそのまま使ったり、ゴム印を押して済ます場合もあります。これはミス券では、ありません。

『浜松車掌区』
高円寺、吉祥寺、八王寺!

高円寺、吉祥寺、八王寺!

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑭

城南宮道

“道”と言っても、その城南宮へは停留場から1キロほど西にありました。停留場名には、施設名などにプラスして、「~前」「~口」「~通」「~道」と接尾語を付すことが多くあります。「前」「口」は、他都市でもよく見られますが、「通」「道」は、かなり京都的と言えます。「道」は、この城南宮道のように、「前」よりも少し歩く場合に適用されるようです。その違いを端的に理解できるのは、「金閣寺“前”」と「銀閣寺“道”」です。さて、高瀬川沿いを走っていた、古来の竹田街道は、この城南宮道で新しい竹田街道と合流しますが、その地点には「城南宮参詣道」の大きな石碑があります。そして、まもなく近鉄京都線をくぐります。近鉄線の前身は奈良電鉄、さらにさかのぼると、敷設当時は現在のJR奈良線のルーツとなる奈良鉄道でした。京電が敷設された当時は平面で交差しており、開業直後には、電車と奈良鉄道の機関車が衝突して多数の死傷者を出したと言います。砂塵を巻き上げ、少し車体を傾けながら、北上を続ける9号系統693号。市電の向こうに伏見信用金庫の広告塔が見えるが、それ以外に高い建築物は何もなかった。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑬

七瀬川町

七瀬川と言う小さな川が、停留場付近を流れていました。川は、深草の大岩山を水源として西へ流れて、高瀬川に合流していました。この名称は、川筋に七つの橋が架けられ,また大岩山から高瀬川と合流するまでの間に七瀬があったところから名付けられたと言われています。豊臣秀吉が伏見桃山城を築城する際には、総外堀の役目も担っていたそうです。現在では、潤いと安らぎのある水辺に改修され、親水河川となっています。

【七瀬川町 定点対比】

乗降客の平均年齢が相当高そうな七瀬川、右は現況と思われる箇所、街並みに特徴がなく、定点と決めるものが見つからなかった。

 

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑫

竹田出橋

この竹田出橋で名神高速道路の下をくぐりました。前記のように、もともとの竹田街道は少し西を流れる高瀬川に沿って通じていて、そこに架かっていた橋を井手橋と言い、それが転化して“出橋”となったと言われています。この付近から西が、古来の竹田の中心で、今でも歴史を感じさせる家並みが残っています。旧ルート時代の停留場名も竹田で、明治45年の移設時に竹田出橋となりました。

 

【竹田出橋 今昔対比①】

名神高速道路の南側にあった竹田出橋。右は現況。

 

 

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑪

竹田久保町

かつての停留場名は「練兵場前」で、付近には、陸軍第16師団の京都練兵場がありました。陸軍の施設が密集し、軍都として伏見の街の別の側面を見せていました。近くの龍谷大学や京都府警察学校も、戦後に陸軍跡地にできました。市電時代にも付近には公共施設も多く、乗降の多い停留場でした。

【竹田久保町 定点対比】 

竹田久保町の交差点から南方向を見る。東側(左)では、竹田街道の拡幅工事が進んでおり、伏見線の廃止後には、現在見られる、片側2車線、歩道付きの道路に生まれ変わる。右は現在の様子、街並みはすっかり変わってしまった。西へ行くと、地下鉄くいな橋駅があり、通行も多い。東側には龍谷大学のキャンパスがあり、学生相手のファストフード店が並んでいる。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑩

深草下川原町

では、また京都市電伏見・稲荷線に戻って、停留場ごとに50年前のシーンを巡っていきます。河さんにとってはホロ苦い思い出の残る、深草下川原町から始めます。前記の勧進橋から、棒鼻の手前まで約2キロは、ほぼ一直線の竹田街道を南下していきます。ただ明治の頃は、ここから少し西を流れていた高瀬川に沿った、曲がりくねった道で、京電も同様に走っていました。明治45年に、一直線の広い道に付け替えたもので、京電も同様に移設されています。今でも、竹田街道を歩くと、交差する小さい道とは、少し高低差があり、拡幅時期に、低い土地に盛り土をして、新しい竹田街道を通したことが伺えます。市電時代には、まだ田んぼも散見されますが、大部分は工場・民家が混在した車窓風景が続いていました。正直、なかなか絵にはなりにくい区間で、撮影もスルーすることが多く、今回も、Mさんの貴重な記録で助けてもらいました。

【深草下川原町 新旧対比】

この付近では、竹田街道の東側を市電が走っていた。もちろん安全地帯も無く、乗客は命がけで電車に乗り込んだ。右の現況と対比すると、右手のビルがそのまま。

 

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