京都駅にまつわる小ネタ集 (1)

1900生さん思い出の山陰線機回し線の写真を発掘!

デジ青投稿に対して、多くのコメントをいただき、返答を心掛けていますが、いい返答材料が見つからず、保留のままのものもあります。いつもコメントを頂戴する1900生さんからも、何かの投稿で、京都駅山陰本線ホームの終端部にあった機回し線についてコメントがありました。少し前のことで、いま検索しても、どの記事だったのも定かではありませんが、付近の写真は撮っているものの、ホームで隠れたりして、公開するような写真がなく、気掛かりになったままでした。本日、クローバー会写真展の準備のために、乙訓老人さんから預かったネガをスキャンしていると、“これや!”と、飛び上がるような、スバリの写真を見つけました。1900生さん、これでしたね。
京都駅山陰本線11番ホームの終端部にあった機回し線、ホームもカーブしていて、長い編成の到着だと、カマがカーブ上に停車していた。すぐにカマだけ切り離されて機回し線を通って、編成の後部に連結、区や客車ヤードへ回送された。逆の角度から撮ったことは何度もあるが、終端部そのものを撮った写真は見たことが無い。しかも、牽引機が試作のDF411というのも貴重だ。さすがに、何でも撮っておられる乙訓老人さんだ。そして、つぎのコマをスキャンしてみると…。

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈12〉

続いての羽村さんアルバム、京都市内で見られた電車・バスの紹介に移ります。撮影年月は、前回の京都駅の一年前の昭和26年10月、まだ戦後の色濃い時代、遠出して撮影するなど思いも寄らない時代で、地元を丹念に記録するのは、当時の撮影スタイルでした。
京都市バスのワンマンカーである。アルバムのネームには「いすゞ」と書かれている。京都市交通局の年表を見ると、昭和26年10月1日、ワンマンカーが運転開始とある。羽村さんのアルバムからは、年月までしか分からないが、ワンマンカーの運転初日に撮られた可能性もある貴重な記録だ。京都市バスのワンマンカーは、大阪市に次いで、日本で二番目だそうだ。

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈11〉

建設途上の三代目京都駅を見届けた羽村さんは、東側にある高倉陸橋へ向かいました。通称“タカバシ”は、京都の鉄道少年にとって思い出の詰まった場所でしょう。私も、小学生のころ自転車に乗って陸橋まで行き、上下する列車を飽かずに見ていたことがあります。そして未電化時代には、陸橋の下に、蒸機の溜まり場があって、絶好のビューポイントになっていました。
高倉陸橋の下の設備は、“東駐泊所”と言われ、東海道線の未電化時代、梅小路機関区との往復の手間を省くため、転車台、給炭設備を置いて蒸機を駐泊させていた。本日、転車台に乗っているのは亀山機関区のC51100だ。草津線の客貨を牽いて、京都まで顔を出したのだろう。亀山のC51と言えば、晩年の225号機が有名だが、ひと足先に廃車になった100号機も、化粧煙突、形式入りのプレートと、完璧なC51だった。さらに前歴をたどれば、お召の牽引も多く、キリのいい番号といい、C51の代表でもあった (写真はすべて昭和27年3月1日撮影)。

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈10〉

趣味団体の会合で、いつも“デジ青”を愛読いただいている方から「最近、投稿が少ないでんなぁ」と言われました。私自身の投稿も途絶えていて、申し訳ない気持ちですが、何気に、右欄の月別の投稿数を見ますと、今月は10件しかありません。「ほぼ毎日更新!」を謳ってきた“デジ青”の看板に偽りありで、とくに外部から暖かく見守っていただいたデジ青ファンからソッポを向かれるのではと危惧しています。このまま推移すると、2001年に“デジ青”が誕生以来、月別最低の投稿数という不名誉な記録になりかねません。
私ひとりでは、どうすることもできませんが、挽回するためには投稿を重ねるしかありません。ネタは用意しているものの、どれも中途半端なままですが、投稿しやすいものから載せていくことにします。まずは羽村さんシリーズ、昭和25、26年は紹介しましたが、続いてスキャンした昭和27年以降分を紹介しましょう。
本シリーズの第一回は、二代目京都駅の写真からスタートしているが(NO.100199)、
昭和25年11月、二代目駅舎は早暁に炎上、焼失する。これを機に、懸案の高架化も検討されたが、一刻も早い再建が優先されて、地上駅のままで駅舎工事が急がれる。わずか1年4ヵ月の突貫工事で三代目駅舎が完成し、昭和27年5月に竣工式が行われた。この写真は、昭和27年3月に三代目駅舎を写したもので、高さ30m 8階建ての塔屋は、まだ足場が掛かって工事真っ最中のようだ。撮影場所は丸物百貨店の屋上からで、手前の建物は京都中央郵便局、現在、京都タワービルの建つ場所だ。京都駅の背後の八条口側には、高い建物はなく、煙を上げる工場が見える。手前に目を転じると、右に市電のループ線があって、3両の市電が停車中なのが見える。ループ線は三代目駅舎の完成に合わせて、駅前広場の再整備の際にターミナル式に改められるから、この点でも貴重な記録だ。

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わらくろや社長様 コの付く客車

先日、マルーン会長のお供をして明延1円電車乗車と坑道見学に行ってきました。
その時に随行してくれたのが山科で有名な旅行社・わらくろや旅行社社長です。各地の有名人とのコネがあるのか、行く先々で土産店や食堂で歓待されました。
その旅行の途中で「客車には記号があって“ナオスマカ”が付くのです」と会長や同行のJR西日本大株主・ましたしも氏にのたまうので、思わず「コホナオスマカが正しい記号で・・」と言いかけると、「コホの付く客車などありません。見たことがない」と言下に否定するのです。見たことのないものは信じないというのは心貧しき人々によくあること、でも客車となると見逃すことはできません。井原さんに叱られる!
で、帰って調べましたら一枚撮していました!
かなり古く、しかも濃い霧の中で撮ったものですから写りはもう一つ、でもそんなことは言ってられませんのでお許しください。

わらくろや社長、これが“コの付く客車”や!
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 羽村さんが遺したアルバムから 〈9〉

奈良電鉄
羽村さんシリーズ、阪急、京阪、叡電と京都周辺の私鉄が続いて、最後は奈良電です。と言っても撮られた写真は4点だけ、羽村さんにとって、奈良電は近くて遠い存在だったようです。私も、同じようなイメージで見ていました。奈良電時代は、沿線に行くような用事はなく、唯一、学校の遠足や町内の行楽で、大久保あたりの芋掘りに行った記憶しか残っていません。“芋掘りに行く時だけの電車”のイメージしかなく、現在の近鉄京都線と比べて、沿線人口も少なく、田舎電車そのものでした。
芋掘り以外にもうひとつ、行楽客を集めたのは木津川の水泳場だった。海のない京都では、川の中州を利用した水泳場が何ヵ所かあった。中でも奈良電木津川鉄橋付近の水泳場は、新聞社の後援もあったりして人を集めた。奈良電は、鉄橋の上に木組みの臨時ホームを設けて開催期間は乗降扱いをした。写真のように、1両まるごと広告電車も現われてPRにつとめた。この臨時ホームは、昭和43年のDRFC時代、車庫見学に行った時にも残っていた。電車は、昭和23年に登場したデハボ1100形で、運輸省の規格型、同年に登場した近鉄の規格型600形とほぼ同じである(奈良電京都、昭和26年)。

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 北海道の鉄道被害を憂う 〈続〉

北海道胆振東部地震から2週間以上が経ちました。JR北海道ホームページによると、不通区間のうち、最後の根室本線富良野~東鹿越も9月26日に開通することになりました。震源近くの日高本線苫小牧~鵡川でも、一部代行バスが残るものの列車運転が始まり、これで、地震前に営業していた区間は、すべて復旧・営業再開することになります。以前、本欄の私の投稿で、廃止が取り沙汰されている線区が不通になり、なし崩し的に廃止に追い込まれるのではと心配しましたが、それが杞憂に終わり、安堵しているところです。ただ、以前から災害で不通になったままの日高本線・根室本線の一部は、バス連絡が続いています。
ブラックアウトで停電が続いていた北海道のなかで、札幌の繁華街ススキノにも電気が復旧し、名物のニッカウヰスキーの電照広告に灯が点いた時は、人だかりの中から歓声が上がったと報じています。“札幌”“灯り”の新聞見出しで思い出したのが、たまたまC62のネガスキャンをしていた時に一緒にコマにあった、この札幌駅前の夜景だった。北海道を転々としていた身には、煌々と灯りが点るのは、久しぶりの大都会の光景で、都会から来た旅行者にとっては、逆に心が安らぐような光景だった。ススキノでニッカウヰスキーの電照広告を見た人たちも、同じような思いにとらわれたのだろう。

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 北海道の鉄道被害を憂う

久しぶりのデジ青投稿です。ここしばらくの日常生活の中で、いちばん驚いたのは、4日の台風21号の強風でしたね。ホントに生きた心地がしませんでした。本日の役員会後の飲み会でも、その話題で持ちきりでした。関西在住の皆さんのところは、いかがでしたでしょうか。
関西では、このところ天変地異の連発です。大阪府北部地震から始まって、40度近い猛暑、西日本豪雨、そして今回の台風による強風です。人間誰しも、天変地異には遭遇するとの思いは持っていても、その被害者にはならないという、変な安心感を持っているように思います。しかし今回は、私自身も、危うく関西空港での閉じ込めや、家の倒木を経験、はたまた信号機が90度曲がったままになっていて、危うく交通事故に巻き込まれそうになったことなど、身を持って災害の危機を感じました。
そして、ここへ来て、北海道胆振地方東部地震です。あのJR北海道も一時は全道すべてで運休でしたが、昨日あたりから徐々に動き始めました。各線の被害状況は不明でしたが、先ほど、JR北海道のホームページを開くと、全路線の運転計画があり、初めてその全容を知りました。私が真っ先に心配したのは、廃止が予定・計画されているローカル線の状況でした。案の定、HPでは、すべて「運転再開の目途が立っていない区間」に指定されていました。本州3社に比べて、著しく脆弱なJR北海道のこと、軽々しくは言えませんが、「被災→運休→廃止」の道を辿るのではと危惧しています。
今回の地震で震源に近かった日高本線の鵡川は、思い出の地だ。2010年、ぶんしゅうさんとクルマで北海道を回った時、鵡川の道の駅で、二人一緒にクルマの中で寝て、翌日、日高本線の撮影に向かった。朝は鵡川駅に向かい、列車の交換を撮影した。女子高校生の乗り降りもあって、アクセントを添えることができた。HPでは、日高本線で、災害不通が長く続き、もともと廃止予定の鵡川~様似は、「通常時からバスで運行中」とあり、まるで鉄道には触れていない。存続予定の苫小牧~鵡川は「運転再開の目途が立っていない区間」であり、日高本線全体が廃止に憂き目に会うのではと心配している。

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鉄道、つれづれ草 ーエイデン編ー

じっとしていても倒れそうになる7月の午後、乙訓の老人はアルバムを小脇に抱えて、四条大宮の木陰で、律儀に待っていてくださいました。
今回は京福電鉄です。この電車には、一時期、介護士もお世話になりましたが、福井地区と叡山・鞍馬地区と嵐山地区に分かれるため、京福電鉄へのなじみは叡山・鞍馬地区(線)に限定されます。
それなのに老人様は「写真はここから選んで!当時の記録は火事で焼けた(老人の丸投げ時の常套句)のでわからへん」と言いながら、昭和61年発行の「れいる17号」をテーブルに投げ出しながらコーヒーをすすられました。
これではリハビリにはなりませんがやむを得ません。引き受けました。

デナ1型 5+6 八瀬

さて、始めて見るとこれが大変です。「京福電鉄」は現在では分割されて、車輌もすでにないものや、新たに作られて昭和61年の本には載っていないものなど介護士の知識では説明できないものがたくさんあります。そのため、曖昧な説明になりますが、間違いがあればご指摘ください。訂正致します。記号、車番など現在と違う表記は、老人の時代のものとご理解ください。また、嵐電は、老人の好みに合わないとかで収録されていません。
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 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈11〉

窓の開く客車

客車の魅力は、いろいろありますが、「窓が開く」のも、そのひとつでしょう。窓ガラスで遮られることなく、ナマの車窓風景をたのしむことができます。この季節なら、走るにしたがって涼風が入って来て、生き返った気持ちになります。最近聞くのは、小海線へ行っても、窓の開かない冷房付きの気動車ばかりで、窓を開けて高原の自然の風を入れたいと聞きます。とくに猛暑の今年、テレビでは「ためらわずに冷房を」と叫んでいますが、暑いときには暑く、涼しいときには涼しく感じる客車こそ、自然の摂理に合った乗り物だと思います。
「窓の開く」のは、自然が感じられるだけではなく、車内外で人と人との交流ができるのも、また客車の魅力です。車内から手を振って、外の人と一時の邂逅を楽しんだ幼い日の思い出は誰にでもあると思います。
クローバー会メンバーとともに、現地で前泊して、甲斐駒ヶ岳をバックにした小海線小淵沢の大カーブの先端にやって来た。イベント用として、C56の牽く混合列車が運転されていた。これは、定期の貨物列車に客車1両を連結したもので、列車番号も183レだった(昭和47年8月)。

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 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈10〉

客車時代の食事
最近、車内で駅弁を食べるシーンを、ほとんど見かけなくなりました。私は、駅弁に限らず、車内で食べるのは、周囲から目が気になって、どうも苦手です。その点、昔の客車では、人目をはばからず食事、駅弁を食べたりしたものです。かの有名な富士フィルムの「50000人の写真展・鉄道のある風景」に、昨年「窓」で入選された米手さんの写真も、客車で駅弁を頬張るDRFCメンバーを写したものでした。今のように、明るく開放的な車内では、食事をする雰囲気にはありません。ボックスシート、暗い車内ならではです。食べると言っても、コンビニも無かった時代、駅弁か駅ソバに限られて、たいへん貴重な食材でした。
正月明けの宇都宮駅、夜行列車を降りた身に、寒さと空腹がこたえる。向かいのホームからは、見るからに暖かそうな駅ソバの湯気が上がっていて、たくさんの客が群がっている。右手には、スハフ32 2362の狭窓が見え、その前を、寒そうな母娘が、白い息を吐きながら、通り過ぎた。

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 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈9〉

混合列車の魅力

客車列車は数多く乗りましたが、「混合列車」となると、乗車機会はウンと少なくなります。それでも、思い出してみると、釧網線、根室本線、石北本線、五能線、日中線、大社線、木次線、高森線、肥薩線で、蒸機の牽く混合列車に乗った記憶があり、昭和40年代、まだこれだけの混合列車が残っていたことに改めて驚きました。どのローカル線でもあったわけではなく、客車列車のスジがあるものの、旅客数は少なく、貨物量も少しはある、このような客貨のバランスがあって、混合列車が設定されたようです。乗ってしまえば、客車列車と変わりはありませんが、発車時のショックで前に貨車が連結されていることを感じ、途中駅では、旅客ホームのないところでも平気で停車し、客扱いが終わっても、悠然と貨車の入換えに励むなど、混合列車ならではのシーンが見られました。
石北本線は、本線格で、客貨もほかの線区よりは多いから、混合列車もスケールが大きい。これはDRFCメンバーとともに、下り「大雪6号」に乗り、遠軽に着いて、始発の523レに乗り換えたもの。生田原で補機が付いて9600+D51の重連となり、貨車も長く、その編成にも興味が湧く。常紋に向けて、列車は力闘を始める(昭和44年9月)。

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 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈8〉

夜の客車

今では死語に近くなりましたが、“夜汽車”という言葉があります。窓から洩れる室内灯、照らし出された乗客の姿、発車ベルが鳴り終わり、一瞬の静寂のあと、耳をつんざく汽笛、ゆっくりホームを離れていく列車…、これは、もう客車でしか演出し得ない、夜汽車のイメージではないでしょうか。
なにゆえ、夜の客車は、絵になるのでしょうか。やはり白熱灯の暖かい光があります。もちろん蛍光灯の客車もありましたが、客車は白熱灯に限ります。加えて一枚窓が連続して続く規則性、また、ブドウ2号の濃い塗装が、窓とのコントラストを出している。これらが相乗して、哀感さえ漂う夜汽車のムードを演出しているのではないでしょうか。
九州の名物夜行鈍行門司港~都城の1121レ、1122レ、早朝を走る1121に比べて、ずっと夜間の1122は、見どころは少ないが、時間調整もあって、とくに吉松~人吉の各駅では停車時間が長く、バルブ撮影に適している。ここ大畑は、周囲に一軒も家もなく、漆黒の世界がひろがるが、D51 1058の前照灯と客車から洩れる光だけが、“夜汽車”の雰囲気を演出していた(昭和45年9月)。

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 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈7〉

西鹿児島の団体列車

前項で、客車にまつわる話題として、デカンショさん、1900生さんから、「エキスポこだま」が採り上げられました。この列車、昭和45年、夏休みに万博に押し寄せた入場者の輸送手段として生まれたものでした。夏休みになって、万博の終了も22時30分まで延長されますが、輸送の大動脈を担っていた新幹線は最終が出たあと。そこで、苦肉の策として生まれたのが「エキスポこだま」でした。全国から一般客車をカキ集め、7月3日から最終日の9月13日まで、上りのみ、全車指定での運転でした。時刻は、大阪22:58発、新大阪、京都に停車して、三島には6:53着、始発の新幹線「こだま」(全車自由席)に乗り換えて三島7:05発、東京8:10着でした。「エキスポこだま」自体は臨時急行ですので、途中の駅までの利用も可能でしたが、割引もあって、一部区間とは言え冷房の入った新幹線に乗って東京へ戻れるのは魅力でした。列車は三島に着くと、すぐ回送でトンボ帰りして、その日の晩の運転に備えていました。
日本が高度成長の頂点に達した昭和45年に開催された、国家的一大イベントの日本万国博覧会、総入場者は6400万人で、その大移動を担ったのが鉄道で、日本全国から、万博会場を目指す、列車が数多く運転されました。たまたま訪れていた九州でも、その大輸送の一部を垣間見ました。
昭和45年8月の終わり、西鹿児島駅のホームの時計は16時55分を指している。なにやら5番ホームから楽団の演奏も聞こえてきて賑やかだ。大勢の見送りを受けて、雑型客車ばかりの列車が出発して行く。時刻表を見ても該当する列車はなく、どうやら団体列車のようだ。

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 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈6〉

横サボを鑑賞する

客車らしさを演出する小道具として、車体に書かれた標記、取り付けられた表示板があります。なかでも車体の中央に下げられていた、引掛け式の行先方向板、通称“横サボ”は、その代表です。鉄道趣味のジャンルも構成していて、私はさほどの執拗さは持ち合わせていませんが、恰好の蒐集品対象にもなっているようです。以前の趣味誌に、“これによって旅客車に魂が入る”と書かれていましたが、まさにそのとおりで、サボが吊り下げられるだけで、生きた客車を感じて、サボの行き先を見ては、見知らぬ地への思いを馳せたものでした。なかでも、青地に白文字、琺瑯製のサボは、茶色に塗られた客車とは絶妙のバランスでした。
琺瑯製のサボのなかでも、毛筆体のものは、昭和30年代初頭まで製作されていたと言われ、昭和40年代後半でも、この写真のように、北海道や東北では見られた。達筆で書かれたサボは、昔の職人の技を感じたものだ。琺瑯は、金属の表面にガラス質の釉薬を焼き付けたもの、今でも、JR北海道の柱部の駅名表示に使われる。

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西日本豪雨の爪あとは深く

逆走する台風12号のおかげで西日本各地の鉄道は またしても運転見合わせとなっています。とは言えこれは一時的なストップで済みそうですが、問題は先の豪雨によって寸断されている鉄道の復旧です。

平成30年7月28日 中国新聞朝刊

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 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈5〉

長大編成と最短編成
客車編成を前にして、よくやったのが、編成調べでした。少し前のコメントでも1900生さんから、編成調べの話を聞かせてもらいました。当会でも編成調べの権威が多くおられました。私にとって衝撃的だったのは、入会した時にもらった「青信号19号」でした。前年に行われた九州の狂化合宿の旅行記を、一年上のTさんが記していました。12日間の旅行で、たとえ一駅でも乗車した列車を、端から端まで全列車全車両を記しておられ、その几帳面さには脱帽でした。編成調べの醍醐味は、思いもよらない珍車や、全く別の配置区の客車が混じったりすることですが、端まで調べ上げて、初めて“何両編成”と分かり、感慨に浸るのも目的のひとつでした。今回は、そんな客車の編成両数です。
私が撮影した中で、一番の長大編成は、西鹿児島発東京行き「高千穂」の16両編成だった。客車急行の全盛時代、東海道・山陽線の主要な急行列車は、荷物・郵便車、区間の増結車両を含めて15両だった。寝台特急の20系固定編成も15両編成で、このあたりが、ホーム有効長、牽引定数などから限界のようだ。この写真は、それを上回る両数だが、真夏なのに1両目だけ窓が開いておらず、回送扱いと思われる。それにしても、二列車の併結ではなく、単独でこの長さ、さすが、この時代である(昭和40年9月)。

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 呉線小屋浦への思い

西日本の豪雨災害は、鉄道の被害が甚大で、復旧までには相当日数を要しそうです。馴染みのある線名や駅名が出てきて、とくに心が痛みます。なかでも、「坂町小屋浦から中継です」などと聞くと、思わずテレビに見入ってしまいます。そう、小屋浦と言えば、呉線にC59・C62が走っていた時代には、よく訪れた場所で、本欄でも、西村さんから小屋浦で写した客車が報告されています。改めて、ネガをひっぱり出して、昔日の穏やかだった光景に思いを馳せていました。
この地域で土砂災害を大きくしたのは、花崗岩が風化した真砂土が原因だと言われています。花崗岩は、とくに中央構造線の北側に多く分布していて、緑の山に、ところどころに白っぽい巨岩が露頭しているのは、関西以西ではよく見る光景です。この光景が、小屋浦で撮った写真にもあって、災害の要因が鉄道写真にも映り込んでいたことに、さらに思いを深くしたのでした。
山と海に挟まれた呉線は、短いトンネルを何度もくぐり抜けていた。朝、広島へ向けて、客車12両の列車が何本も通った(小屋浦~坂、昭和43年3月)。

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