客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈4〉

妻”の魅力

と言っても、客車の端部の“妻面”のことですが、気動車・電車編成の後部には運転室があって、それなりの顔つきですが、客車の場合、本来、編成の中間に隠れるはずの妻面が、たまたま編成の最後になって、場違いな姿を見せている、と言った感じです。前回紹介の貫通路も含めて、客車独特の角度でもあり、何か旅愁、哀愁と言った雰囲気を漂わせているのが、客車の妻面でした。発車して行く荷物列車を見送る(柘植、昭和47年)。 続きを読む

 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈3〉

貫通路からの眺め
客車の貫通路、幌はあったものの、一部を除いて仕切扉はありませんでした。編成中間の場合は問題ないものの、編成端部になると、線路が直下に見えることになります。現在の安全基準から見れば、信じられないような構造ですが、編成端のデッキから見る光景は、遮るものがなく、移り行く景色を、十分に堪能できたものでした。
空はまだ明るさを残しているが、照明の少ない駅構内は、闇に包まれようとしている時間帯。発車を待つ列車後部の貫通路を通じて、客室の様子がよく見える。暖かそうな白熱灯が洩れる。貫通路の眺めは、内からも、外からも、客車を感じさせる角度だった(高森、昭和46年12月)。

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 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈2〉

五感で感じる客車
客車に乗ると、電車でも気動車でもない、客車独特の匂い(臭い?)を感じたものです。
優等客車にはなく、ハザ限定のものだったと思います。染み付いたタバコのヤニ臭、捨てられた食べ物や酒類の臭い、床を油引きしたときの薬品臭、はたまた開け放った窓から入ってくる煤や鉄粉、時には黄金水まで…、それらが入り交じって客車独特の匂いをつくっていたのでしょう。現在は、無臭の時代、鉄道車両も同様です。目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅ぐ、そして身体全体で感じたのは、客車の時代ならではでした。この客車で上記のような匂いを感じたかどうか記憶にないが、いかにも客車の時代らしい写真だと思っている。羽越本線の三瀬から余目まで乗った普通列車で、妻面には、オハ60 1105と書かれている。デッキを仕切る扉はすべて開け放たれて、ずっと客車が連なっているのも分かる。背ずりは直角の木製、車端はロングシートに改造している。車端を見ると、DISCOVER JAPANのポスターがある。昭和45年の大阪万博後の誘客キャンペーンとして始まった、伝説のキャンペーンだった。このようなイメージポスターが、ローカル線の列車までに貼られた。駅には記念スタンプが置かれ、私もスタンプ押しに熱中した。昭和51年まで続けられ、国鉄が初めて横文字を使った旅行キャンペーンでもあった。右の鉄道地図も懐かしい。まだ情報不足の時代、乗った列車は、どこを走っているのか、時折、地図を見に行ったこともあったが、正尺ではないため、何となく信頼の置けない地図に映った(昭和46年9月)。

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 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈1〉

先般の記事の「京阪鴨東線開業」で、大西顧問の思い出を書くときに、「青信号」のバックナンバーを見返していて、私が書いた記述を見つけました。ちょうどDRFC創立30周年に当たる57号で、それを祝う寄稿のなかの一文でした。
「鉄道同好会、この名を口にする時、懐かしさと安らぎを覚える。ちょうど、東北か北海道のローカル線、カマは何でもいい。とある山間の駅に停車して5分の交換待ち、オハ61かスハ32の窓をギシギシ開けると、ひんやりした空気とともに、カマの匂いと熱気を感じた時のような…」なんて書いていました。ウ~ン、自分でもなかなかの比喩だなと思いました。この記述には伏線があって、この号の発行年に、マイテを連結した「同志社号」が走り、みんなで旧型客車に乗って名古屋まで一周しました。この思い出が印象に残り、鉄道同好会と客車を重ね合わせて記述したものと思われます。

ことほど左様に、“客車”という車両には、今さらながら、格別の愛着と懐古の念が湧いてきます。もちろん、この季節でも冷房など全くない、窓は最上段まで開けっぱなし、時折、黄金水がミスト状になって降りかかる、あの客車です。当会でも、山科人間国宝を頂点に、米手さん、井原さんからも、客車について熱く語られています。私は客車の来歴については、とくに詳しくありませんが、忘れそうになっていたフィルムの一片から、客車の持つ魅力を語ってみたいと思います。客車の魅力、そのひとつは、“客を乗せる車”だと思っている。乗客によって作り出された何気ないシーン、それは、季節や地域によっても違うが、今から見ると、なんとも素朴で、清々しい、幼い日を思い出すようなシーンが頭をよぎる。九州の12月、午前7時前でも真っ暗な高森線高森駅でも、一番列車に続々と高校生たちが乗り込む。C12の蒸気、客車の吐き出すスチーム、窓から洩れる室内灯で、影絵のようなシーンが表れた。セーラー服の女子高生が一人入っただけで、なんとも味わいのあるシーンが撮れたと思っている(昭和48年12月)。

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈10〉

地下鉄梅田駅の狭いホームを記録する
大阪市営地下鉄の梅田駅の近くに、幻のトンネルがあると昔からささやかれていました。御堂筋線の梅田駅に隣接して、谷町線が乗り入れて、もうひとつ梅田駅を造る計画があって、一部のトンネルがそのまま残っていると言うものでした。それが、御堂筋線梅田駅の混雑緩和のために活用されることになり、一面二線の幅の狭いホームから、現在見られるような、幅の広い一面二線ホームに改良され、平成元年11月から供用を開始しました。
従来の旧ホームを、南改札口の階段から眺める。大阪の地下鉄に初めて乗った時(かどうかは知らないけれど)、ここから見下ろした、ホームの混雑ぶりを見て、“さすが大都会、大阪”と感じたものだ。

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈9〉 

鴨東線の開業日に立ち会う

平成に入ってすぐ、京都では京阪電鉄鴨東線の三条~出町柳の開業がビッグニュースとなりました。鴨川左岸を出町柳へ至る新線計画は、大正時代からあり、三条までの地上線を、そのまま出町柳まで延伸するプランでしたが、昭和40年代後半になって、京阪、京福電鉄の共同出資によって鴨川電鉄が設立され、地下線で建設が進められ、平成元年10月5日、開業を迎えたのでした。
京阪は、同年の9月27日から鴨東線開業に対応したダイヤ改正を実施し、開業日当日は、慣例によって正午からの営業となった。まず開業一番電車を明るいところで撮影するために、東福寺の地下線出口付近に向かった。ちょうど、鉄道写真界の大御所のTさんや、知り合いの皆さんと一緒に、三洋化成前の踏切で待ち受けた。正午前は、三条行きのラストとなる急行、特急を撮って、出町柳12時01分発の一番電車を待ち受けた。車両は、もちろん鴨東線開業に備えて新造されたばかりの8000系第一編成だった。

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈7〉

嵐山行き臨急を撮る
阪急「円明寺上一番踏切」で撮りたいテーマが、もう一つありました。春秋の行楽シーズンに運転される梅田~嵐山の臨時急行です。後年、「嵯峨野エクスプレス」という愛称が付きますが、この当時はまだ愛称がなく、単に「嵐山行きの臨急」、社内では「梅嵐急行」と呼ばれていたようです。現在でも、嵐山へは、シーズンに、梅田、河原町から快速特急、天下茶屋、高速神戸、宝塚から直通特急が運転されていますが、平成の初期は、午前中嵐山行き10本、午後梅田行き11本が15分ヘッドで運転される高頻度で、運転期間も3月下旬から5月連休期間までの日・祝運転と、現在よりスケールの大きな運転でした。嵐山線内はホームの有効長で6連のため、車両には制約があり、いちばんの目玉は、ふだんは普通運用に就いている2300系の非表示幕車が、特製の「急行」マークを付けて疾走することでした。

2300系非表示幕車の晴れ舞台、「梅田 急 嵐山」の特製ヘッドマークを掲げて、円明寺上一番踏切を行く。春・秋の日曜日の午後、天気がいいと、よく自転車に乗って向かったものだ。

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈6〉

阪急 前パン電車を撮る
今般の大雨被害では、とくに広島・岡山県下の鉄道は壊滅状態で、心を痛めています。私も、土日に予定していた遠隔地のイベント参加、それに続く旅行もすべて中止し、空いた時間を使って、“デジ青”投稿に勤しむことにしました。
平成の思い出シリーズを続けます。私は、昭和58年に初めて阪急沿線で生活することになり、それまでほとんど撮ったことのない阪急電車にも、自転車に乗って近くへ撮影に行くことになります。平成に入ってから、お気に入りの撮影地を見つけました。長岡天神~大山崎のほぼ中間にある「円明寺上一番踏切」です。この踏切の鉄柵のすき間のローアングルから、100ミリ程度の望遠で、大阪方面行きの電車を狙います。とくに、当時の阪急電車の特徴でもある、先頭車二丁パンタ装備車は、より凜々しく引き締まって見え、阪急電車の魅力一杯です。今回は、平成になった直後の阪急電車の“前パン”の定点記録です。
当時、特急は6300系の天下、中でも6330F編成は唯一の前パン。昭和59年の建造で、7300系の界磁チョッパなどの編成は新技術が投入され、電動車ユニットを両端に置いたため、大阪方先頭6330が前パンとなった。

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 ◆ “た~ちゃん”の電車めぐり ⑲

全盛時代の京都市電600形を撮る (2)

ちょっと留守にしている間にも、宮崎様や米手さんから、京都市電の貴重な写真がアップされ、楽しんでいます。これに乗じて、た~ちゃん撮影の昭和30年代の600形をもう一度載せました。
95両が製造された600形ですが、更新・改造が多く行われ、600形のまま残ったのは僅かでした。これも、ある意味600形の特徴とも言えるでしょう。一次車601~685は、終戦後の酷使や、軽量車体による車体歪みなどが発生し車体更新が行われます。先欄のコメントでも話題になった、側面中央部の垂れ下がりの有無が、更新前後の見分けポイントです。
そのあとは、未更新車のなかから、2600形ワンマンカーへの徹底した改造に移ることになります。昭和39年から18両が改造され、新製された2000形とともに、京都初の連結市電として活躍することになります。その後は、1600形ワンマンカーの簡易改造へと移り、昭和41年から63両が改造されました。結局、600形のまま残った一次車は4両のみでした。なお、戦後製の二次車686~695は、大きな改造を受けることなく、最後までツーマン車として使用されました。
600形を先頭に、烏丸車庫前でズラリと発車を待つ市電群、すべて形式が異なる、市電全盛時代のシーン。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑱

全盛時代の京都市電600形を撮る (1)

本欄で大人気の京都市電600形、以前の米手さん投稿には、コメント数が36にも達して、急遽、別のスレッドを立てるという事態となりました。その米手さんとともに、“た~ちゃん”の介護投稿の資格認定を受けた私も、多数の600形のフィルムを預かっていました。以前にも「また投稿します」と宣言しておきながら、自分の投稿で忙しく、実施できませんでした。山陰から戻り、すぐ海外事情の視察(?)に向かわれた米手さんの留守中を見計らって、ご披露することにしました。
600形大好きの“た~ちゃん”は多くの写真を収めていた。学内の写真展「同志社をめぐる市電」でも紹介した、小雪舞う烏丸今出川を行く600形は、その代表的な写真。写真の撮影時期は、昭和35年前後で、まだ改造を受けず、95両全車が揃った全盛時代。昭和40年代、多くが改造されて、原型の600形は数両しか知らない私などには、羨望の時代に映る。

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ⑥

東海道線の開業時巡りは、旧線に平行していた塩小路通を東へ、堀川通りを横断して京都駅近くに入って来ました。塩小路通は、平安京の八条坊門小路に当たる古道で、別名を、付近の史跡から三哲通とも呼ばれました。市バス車庫名にその名をとどめるものの、あまり聞かれなくなりました。開業時の東海道線は、塩小路通の南に平行して、単線の線路が敷かれていたことになります。塩小路通の道幅は、堀川以西は古道と同じ狭い幅であり、堀川以東のように拡幅されるのは、大正3年、東海道線が南に移設され用地が払い下げられた結果、現在見られるような道幅となりました。
京都駅周辺は、駅ビル新築時の前後に、周辺も大幅に再開発され、開業時を偲ぶ遺跡は何も残っていない。このオムロン本社の裏手の写真からも、何ら手掛かりもないように見える。しかし「ブラタモリ」の言葉ではないが、微妙な凹凸地形を観察すると、土地の歴史が浮かんで来るように、ここから140年前の東海道線の面影が見て取れる。

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ⑤ 

桂川駅から西大路駅近くまで、歩いて巡った東海道線開業時の面影巡り、ここから先の京都駅方面へは、2008年ごろの旧掲示板から新掲示板への移行時期に、「京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ」として本欄で紹介しました。ところが、見返してみると、旧掲示板は「おっと失礼」で、見ることができなくなっていました。ちょうど10年が経過していますので、その後の変化も含めて、改めて西大路~京都の開業時の遺跡を探索することにしました。

前回の「超低い恐怖のトンネル」がある御前通を過ぎると、まもなく京都鉄道博物館が見えてきます。米手さんご紹介の地図からも分かるように、ここまでの区間は、開業時の路線と、現在の上り線とが一致していますが、ここから開業時路線は、徐々に現在線の北側へ振るようになります。ご承知のように開業時の京都駅は、現在の駅前広場にあって、その延長線上に、開業時の東海道線があったことになります。ちょうど、京都鉄道博物館の梅小路機関庫・梅小路公園の芝生広場の直下に、開業時の路線があったことになります。
梅小路公園を走るN電、このすぐ南側を開業時の東海道線が走っていたことになる。

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ④

桂川橋梁の探索を終えて、線路沿いを東へ歩きます。葛野大路通を越して、西日本JRバスの京都支店・営業所の前まで来ると、西小路通を越すところに橋梁があります。架道橋のように見えますが、銘板を見ると「長池川橋りょう」とあり、かつて、ここに川が流れていたことを偲ばせます。西小路通りは、北側のGSユアサ工場の横で屈曲しており、道路としては不自然な曲がり方で、この道路の下にいまも暗渠として残っているのかもしれません。橋梁は約11mの長さ、上り線の橋脚は、基礎部は切石積み、上部は煉瓦積みになっていて、明治9年の開業時のものと言われ、切石積みなどは、後年に改修されたと思われます。
煉瓦積みの橋台が残る、長池川橋梁の上り線。下り電車に乗ると西大路駅を出てすぐの直下にあり、開業時の煉瓦積みが、ひっそり残っていた。

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都  ③

東海道本線開業時の面影巡り、続けます。桂川右岸の探索を終えて、左岸の西大路・京都方面に向かいます。ただ徒歩では川に阻まれて、桂橋まで3キロ近い迂回を強いられて、桂川橋梁の左岸側に到着しました。ここには、少し前の京都鉄道博物館で行われた企画展「鉄道遺産をたずねて」で、初めて知った周知の遺跡へまず向かいました。
桂川左岸の橋脚3基については開業時のものとも言われるが、これに疑問を呈する論文もあり、真相はよく分からない。ただ、上り線複線分の煉瓦橋脚は存在感が十分にある。下部にはアーチ状の切り欠きがあり、ここに興味深い刻印が・・

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ②

明治5年の東海道線の開業に際しては、煉瓦造りの構造物が多く設けられます。そのうちのいくつかが、煉瓦を斜めにねじった「ねじりまんぽ」でした。以前、乙訓老人からも、この区間に煉瓦の構造物が残っていると聞いており、その存在は把握していましたが、いろいろと調べて見ると、外から中は見えず、うっかりすると見落としそうな、小さな水路に架かるアーチのようで、桂川橋梁方面に進むうち、見落としのないよう、気を付けながらの歩き出しました。その物件へは、意味ありげな小さな祠が目印。東海道線の北側の道を歩いていると、たしかに、それはあった。横には、コンクリート製の小さな暗渠が見えて、背をかがめて、その中に潜ってみると・・・。

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 東海道線開業時の面影を巡る 桂川~西大路~京都 ①

連休期間中、近くの東海道線 桂川~西大路~京都の鉄道遺跡を見て回りました。日本の鉄道は、明治5年の新橋~横浜の開業が始まりですが、トンネル・橋梁などの鉄道技術の源流となったのは、その次に開業した京阪神の鉄道でした。東京では、開業時の遺跡が残っていないのに比べて、京阪神では、140年を経ても現役で使われている構造物もあって、今なお都市間輸送を支えています。今回紹介する区間にも、その面影を伝える構造物が残っています。
ずっと以前に、乙訓の老人から「桂川の西に開業時の煉瓦積みが残っとるでぇ」と聞いていたことが、ずっと気になっていたことと、最近、本欄で井原さんが茨木市の鉄道道標を公開されたことも刺激になり、連休の一日、駅開業10周年を迎え、乗降客で賑わいを見せる桂川駅に降り立ちました。
表面は補強されているが、上り線には、開業時の煉瓦積みの橋台が残っていた。どこでも見られる架道橋だが、さらに近寄って銘板を見てみると・・・。

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スロハ38、ありました!

河 昭一郎様の秘蔵写真を掲載するに際して、自分が撮っていないことを残念に思っていましたが、そういえばどこかに正体不明のロハが写った写真があったことを思い出して探しました。
撮っていました!とは言えない「写っていました」写真が出てきました。
言い訳ではありませんが当時はまだ中学生、客車に興味はまだなく、線路端でシャッターを切ることだけに専念していた時期でした。特派員さんの言葉通り、記憶が記録となったいい例です。ご笑覧ください。

なお、特派員さんの投稿を利用してばかりでは申し訳ないので、たいした写真ではありませんがスレを立てます。

梅小路築堤

C51の牽く下り各停、オハニ61の次位がスロハ38と思われます。こんな写真しかなくて本当に残念です。場所は旧丹波口駅に進入する直前、今の鉄道博物館入り口に当たるところです。

 三江線 廃止に寄せて ①

式敷~口羽 開通式 (山科の人間国宝提供)

三江線も、いよいよ明日に最終日を迎えます。デジタル元祖青信号では、訪問記や新聞記事が掲載されて、私も関心を持って推移を見守ってきました。三江線最終日は、どこで迎えようかと、以前から思っていました。しかし、現地で立ち会うことは叶わず、静かに見守ることにしました。結局、私が三江線に行ったのは、三江北線時代の昭和46年と、昨年の9月の2回だけでした。一昨年春、当会の三江線ツアーにも参加できずで、今でも桜満開の潮駅で、江の川沿いを行く列車を、みんなで撮りたかった、と思っています。このように、三江線に対する思い出は乏しいのですが、その思い出を振り絞り、三江線に対する餞としたいと思います。
まずは、山科の人間国宝から貸してもらった写真の代理投稿。三江南線の式敷~口羽13.7kmが延長され、昭和38年6月20日に開通を迎えた。その当日、口羽で行われた開通式の様子だ。
実は、先の三江線ツアーがあった際に、人間国宝から、“参加の人たちに見せてあげてください”とネガを渡されました。それが昭和38年の式敷~口羽の開通式で、本来なら、私のほうで写真にして参加者に渡すべきでしたが、人間国宝のご厚意に応えられないまま、最後になっての寄稿をお許しください。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑰ 

ライトレール(LRT)とは

1997年12月、国連による地球温暖化防止会議が京都で開催され、路面電車見直しが取り上げられ、とても嬉しく思いました。街角で配布されたビラにロサンゼルス、パリ、ロンドンでも復活とありましたが、私の知る限りにおいて実情は異なります。三市の中央通り、京都での烏丸、四条通を路面電車が大手を振って走るものではありません。

昭和30年代の京都駅前、伏見線のりばは、大勢の初詣客で賑わう(故 羽村宏さんのカラーポジから)

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑯

市電の全廃
大村昆ちゃんのCM“ミゼット”が評判になったのは昭和30年代の後半の頃でした。政府の提唱する国民車構想が実を結んだのもその頃でした。日本はいよいよ自動車の時代に突入です。京都市電では、北野線を最初に、昭和45年、大阪万博の年に、日本最初の電車が走った伏見線を廃止にしました。以下、昭和47年四条・千本・大宮線、49年烏丸線、51年今出川・白川・丸太町線、52年河原町・七条線、最後まで残った外郭線は昭和53年9月いっぱいで廃止になりました。京電以来の83年7ヵ月の幕引きとなってしまったのです。昭和30年代の京都駅前、「いなり」の行き先幕の烏丸線市電が到着する。京都市電の全盛期のシーン(今回より、当会OBの故・羽村宏さん撮影のカラーを掲載します)

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