◆た~ちゃんの電車めぐり ⑮ 

青電スタイルで片側に扉が3ヵ所あった大型ボギー車、1000形も忘れられない電車です。昭和24年秋に登場した時、200人乗りと新聞で紹介されました。宝ヶ池競輪場へは元田中から叡電に乗り入れ直通運転をしました。チャンチャンの警鐘からパァーンの警笛に変わりました。動物園、植物園への遠足には子ども達を満載して走っていました。
汽車は貨物を運ぶために生まれましたが、電車は人を運ぶために生まれました。でも、それ以外の役割もしました。明治・大正期の都大路の大部分は未舗装で、乾燥した日は砂塵がもうもうと立ちこめます。そこで水撒き電車が造られ、堀川押小路では堀川、熊野神社下ル徳成橋畔では疏水から水を汲み上げていました。終戦直後まで夏場には水撒きする姿がありました。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑭ 

市電最盛期に連結市電登場

広島の駅頭に立っていますと、電車が次々と折り返して行きます。赤地に白字の1の円い系統板を付けた青電がやって参りますと、懐かしい思いに駆り立てられます。この系統は、昔、壬生車庫から千本今出川へ、百万遍、祇園を経て、一周していました。四条通へ向かう反対回りもありました。反物を風呂敷にくるんで小脇に抱えた人、背に負った人も乗っていました。

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散歩道で見つけました4

今回でお借りした写真はいったん終わります。先ほど藤田さんにアルバムをお返しに上がったときに、あの写真で会員諸氏から反響が返っていましたと言いましたところ、パソコンが無いから見られないと残念がっておられました。なんとかしてご覧に入れたいと考えております。

今回は阪急です。
取られた場所は例によって分かりません。皆様のご判断にゆだねます。

阪急100系P-6

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散歩道で見つけました3

藤田さんは呉線にも足を伸ばされています。
ただ、あまり歩き回る方では無いようで写真は駅周りで撮られた物が多いです。
これらは呉線広駅で撮った写真です。

当時の呉線は山陽線より旅客大型蒸機が多かった

西村さんの地元ですから解説はお任せしますが、通勤列車がC59、C62などが牽く贅沢な物でした。C59大好き!の準特急さんなど垂涎の的でしょうな。

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散歩道で見つけました2

さっそく菱屋・藤田光一さんの次の作品をご紹介します。
なお、写真にはデータが付いておりません。撮影時期や場所は皆様の知識にお任せしますのでおわかりの方は投稿してお知らせください。

今回は国電です。藤田さんによると「飯田線へ行ったときに撮った物」だそうです。時期は聞いておりませんので塗装や風景で判断してください。

プリントが退色しているがほとんど補正はしていない 湘南色

↑ これは河様のご解説にお任せしますが豊橋でしょうか?新城行きです。

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散歩道で見つけました

毎日散歩をしています。
その途中にいつも気になるお店があります。うっかりすると見過ごすようなお店ですが、島原の大門の前にある明治19年創業のおかきや「菱屋」さんです。
このお店には、かつて近くにあった旧丹波口駅で撮った列車の写真がいつも貼ってあります。そこでおかきを買うために入ってみました。さて、ここのおかき・”うすばね”は絶品です!いつも家内が他家へのお土産に買っているのですが、私が買うのは初めてです。

老舗・菱屋さんの外観 左端のガラス戸に写真が貼ってある

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呉線客車の謎

先般私が呉線忠海駅での古い写真に写っている客車は何だろうという記事を投稿したところ、「うずら」さんから適切な回答が寄せられ、正直大変驚いた次第です。うずらさんから教えて頂いた客車の形式図がたまたま手元にありましたのでご紹介したいと思います。まずは改めて元の写真の拡大から。

問題の客車

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客車の神様 教えて下さい

昨日呉線忠海方面に撮影に出かけたところ、いつもならC11が来ると思っていたところ珍しく1150型1155が来たので、1155を一生懸命撮ったところまでは良かったのですが、すぐに発車してしまい、後ろの客車を撮り逃がしました。特に1両目は3軸ボギー(TR71?)で丸屋根でトラス棒もあり、窓配置も不規則なような・・・。2両目はハニかハユのようですが、これはさすがに形式を判定しにくいですが、1両目の客車の形式は何でしょう?先日は気懸りだった郵便車をオユ10だと明快に回答を頂き、夜もぐっすり眠れると思っていたら、また気になるネタが発生しました。客車の神様 助けて下さい!

呉線忠海駅にて 糸崎行き

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑬

人気者、青電600形
昭和10年前後に生まれた方、「青電」という電車が話題になりませんでしたか? 青電は、昭和12年に登場した600形という電車で、窓から上が濃いクリーム、下がグリーンに塗り分けられて、大きな窓と前部が5度傾斜した当時流行した流線型のスタイルでした。

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けったいな交通信号機

冠雪している景色を撮って投稿しようと思っていたら、いつまで経っても京都駅周辺に積雪はありません。

そこで鉄道ネタではございませんが、以前より不思議に思っていた事を述べます。

七条壬生(壬生川)交差点の、交通信号機の設置状況

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑫

市電、京電を買収

紆余曲折がありましたが、京都電鉄(京電)は、市に買収され市電の一員となりました。ここで問題が生じました。線路幅が違うのです。京電はJR並みの1067ミリ、市電は新幹線と同じ1435ミリです。ご年配の方なら覚えていらっしゃると思うのですが、四条堀川~四条西洞院のこと。レールが3本2組敷いてありました。京電の路線を引き継いだ北野線は外側の一本と内側の一本を使って走っていました。三線区間と言っていました。 四条西洞院で三線区間に入る北野線

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◆ た~ちゃんの電車めぐり  ⑪

平安京の都大路の幅は広く、朱雀大路は84mもあったとか、戦国時代や度重なる大火で、京の街路は幅が狭くなっていました。明治維新後、中心のひとつであった三条東洞院で東西の道幅を測ってみますと、6.5mぐらいです。京都電鉄(京電)が線路を敷く時に選んだルートが川筋を中心としたのは、そのためでありました。西洞院通は、川を暗渠化して道幅を確保しました。

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◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑩ 

梅小路公園のチンチン電車
平成6(1994)年、京都建都千二百年記念事業がいろいろありました。その一つに、梅小路公園建設がありました。西端部では復元されたチンチン電車が走り出し、大変な人気者となりました。

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◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑨

 京の七口を結んだ京電
京の七口に思いを巡らせてみました。平安京時代からある言葉なのだそうですが、太閤さんが京の町を守るために造らせた御土居によって、その位置が今もはっきりし、史跡として10ヵ所指定され地名となって残っているところもあります。京都電気鉄道(京電)が伏見へ向け走り出た地が竹田口、伸びて行った南禅寺橋近くに粟田口、その途中の木屋町松原は伏見口(五条大橋口)となります。

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◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧

最近、当欄では音信不通になっている“た~ちゃん”が、病院帰りに訪ねて来られました。体力・気力の衰えから、投稿・コメントが滞っている理由を聞かせてもらったあと、“これなんやけど”と差し出されたのが右の写真の資料でした。聞けば、数年前に京都の染色業界向けの機関誌から原稿依頼を受けて、連載をしたものでした。《路面電車から街づくりを考える》のシリーズタイトルどおり、京都市電の歴史から、欧米のLRTまで、路面電車の蘊蓄が詰まった好個の読み物になっています。
“これを、ぜひデジ青に載せてくれ~。ワシの思いが詰まっているんや”。なるほど京都で生ま育った、電車が大好きな“た~ちゃん”ならではの内容です。“介護投稿”の一環として、しばらく本シリーズを綴ることにしました。来年80歳を迎える“た~ちゃん”、これが決して遺言状ではなく、これから一層の活動を願ったエールとして綴っていきます。

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たーちゃんの電車めぐりに寄せて

たーちゃんの電車めぐりシリーズは思わぬビッグヒットになりそうですが、阪和線の項で河昭一郎様より「電車はないのか?」「ED38は?」とのご質問がありました。また、大阪駅の西の端にEF52が捨て子されていた、などの書き込みがありましたが私にも少々写真があります。でも毎度のことでひどい物です。どなたかいい写真を出展されるまでのツナギ、時間稼ぎとして見て頂けたら幸いです。

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