澤村さん 見てください

湯口先輩からの迅速な情報提供を頂き、ホル7530は一応かたちになりました。今日は雨降りのため 塗装は後日としました。澤村氏から私の手元に来て 30年以上の眠りから覚め 一日でレールの上に乗りました。やっと出来たかと思っておられるでしょうネ。先のヌ100とあわせて 思い出の車両として当社で大切に保管することにします。

老人は幻を追い、夢を見たのか

先日の【14871】コメントで、阪急京都線1600系強力4連(170kW×8)が、新幹線の経路となるべし線路上を時速120km超で走ったことを投稿した。さっそく準特急氏から、1600系の主電動機はデイ100のものを使ったから150kWではないか、ピクトリアル私鉄巡りではいずれも170kWにはなっていないとの指摘を受けた。はて、与太ネタをコメントしたのか、気になって眠れなくなってしまった。話の発端は高校生(1954年・昭和29年)になった頃、O師匠から「特急用のデイ115~117の内、115と116号の主電動機は710形と同じ170kwだ」と聞かされた。デイが特急用から外れたのは1300形の登場による。1300形はご存知の如く軽量設計による京都線用高性能車両のはしりである。これの車体とデイの更新工事の際に、制御車化したデイから外ずした電装機器を組み合わせ仕立上げたのが1600系である。その中には特急専用車であった115、116号の170kw主電動機が含まれているとされ、1600系に強力編成ありと、評判になった。

老人が新幹線となる線路上をすべる様に疾走する1600系4連の急行に乗った話をT師匠にしたところ、「それが強力1600系だ!」と言われた。だが車号は思い出せない。

710系は711~715編成までが170kw主電動機で新造され、716、717編成は150kw編成であったとも聞いた。後に3扉改造の時に170kwに統一されたようだ。このあたりの説明がピクトリアル誌では山口益生さんの説明がある。失礼ながら奥歯に物が挟まったような言い回しでもあり、なにか事情があったのではないかと勘ぐっている。

強力デイのことは故羽村先輩との間でも話題となった。こんな話を持ち出せば故高橋正男先輩に「ええ加減にしてくれ!」と怒鳴られそうだ。老人がデイの特急に初めて乗ったのは同志社中学入学の年(1951年)、秋の彼岸に兄に連れられ大阪の電車見物に行った帰途、天六-大宮間であった。主電動機が何型かは知らなかったが、10m長の50㎏レールの乗り心地は決して良いものではなかった。故人となられたO、T師匠、羽村、高橋両先輩、老人は今こんなことで悩んでいるのですが……。

ホル7530

ホル7530のもっといい写真がありました。佐竹保雄先輩1955年12月2日、やはり隅田川用品庫での撮影で、江本氏とは反対サイド、台車もばっちりです。この一連の作業局型ボギー車は、ダブルルーフながら極めて浅いのが特徴です。この佐竹氏写真でもやっぱりナル7530とレタリングされていますが、ホルが正しいです。

台車はホイルベース7フィートのミッドランド製でしたが、写真からは明治44年式と思しきものに振替えられています。長軸のTR11と比べるとずっと軽そうですが、こんな台車の既製品はありますまいから、TR11でも仕方ないですね。

ついでにこの配給車改造に最も近い姿=ホニ5910形式を、昭和3年版形式図下巻から、コピーしてご覧に供します。同じ英国製台車でもホイルベースが5フィート6インチの車両もあった(右台車)ことが分ります。

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part22 京滬線高速化の歴史 その2

15日目 6月1

①  北京南2121D321次)→7:15上海虹橋
② 上海虹桥9:00(G7305次)→9:45杭州
③ 杭州13:00(G7314次)→13:45上海虹桥

今回の帰国便も上海浦東空港から関空へのフライト。時間が十分ありましたので、杭州への355km/h走行をまた味わいたいと往復です。
往路はCRH380Aで存分に高速走行に満足しましたが、復路は
京沪高速鉄路に使用されるCRH380BLが試運転を兼ねての運用でしたので、最高速度も300km/hに抑えられて晩点(延着)になりました。定期列車に試運転とはいかのも中国鉄路です。注目の商務車(ビジネスシートはシートカバーが付けられ前後の車両も立ち入り出来ませんでした。

上海に戻ってからはまだ時間もありましたので、地铁に乗車して展示されていると聞いた建設型を見学に行きました。訪問記は、速報として投稿済みです。こちらをご覧ください。

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故澤村氏の模型

[14942]西村雅幸氏投稿、故澤村氏製作途上の客車ですが、ホル7500形式は7534がラストナンバーだったかと記憶します。で、久方ぶりに木製客車アルバムを引っ張り出し、埃を払って、繰ってみるとホル7530が窓配置上で該当しそうです。写真は江本広一氏1956年4月20日隅田川での撮影ですが、3月31日付で廃車処分されていました。現車には「ナル」とありますが、これは「ホル」の書き間違えかと思います。

経歴は新橋工場1901年製造、鉄道作業局フボ1→ホニ8800(形式8800)→ホニ5910(5910)→ホヤ6764(6760)→となり、荷物車として生れています。

澤村氏へのいい功徳になりますから、是非屋根、デッキ、台車をつけて完成させてください。出来たら是非この掲示板でのご披露もお願いします。デッキ、台車の詳細等が必要でしたら、お申し出下さい。同系車の写真あるいは図面を探しますから。

上信電鉄 デキ3+スハフ42 2173

昨日、9月18日土曜日に群馬県の上信電鉄で、デキ3がJR東日本のスハフ42 2173を牽引して、高崎~下仁田間を往復しました。

これは、JRが行っている群馬デスティネーションキャンペーンの一環として開催された「ぐんまの中小私鉄フェア2011」ものです。

JR東日本からは、7両ある旧型客車のうち、スハフ42 2173とオハ47 2266が上信電鉄に貸し出され、オハ47は、「ぐんまの中小私鉄フェア2011」の会場となった上信電鉄 高崎駅構内に留置され展示されました。一方、スハフ42はデキ3に導かれ、上州路を下仁田まで往復しました。当日は、SL「レトロ碓氷」も運転されていましたので、群馬県内で2本の旧型客車が走りました。

最初にこの情報を聞いたとき、今から十数年前の西武E851が引退に際して、12系を借り入れ運転したことを思い出しました。

デキが旧型客車を牽引するということで、是非撮影に向かうべく、準備を整え、朝5時に起きて、いざ高崎へ。上信電鉄に乗り換え、運が良いのか悪いのか冷房が故障して、窓が全開できる車両に乗り込み、9時18分発の電車で下仁田へ。窓から外を見ると、南高崎~根小屋の鉄橋付近には、既に何人かがデキを待っていました。10時22分下仁田着。途中のセブンイレブンで糧食を補給し、歩いて20分程度の千平~下仁田間の撮影場所に到着。まだ、列車通過2時間半前ということもあり、数名が待っている程度でしたが、13時10分過ぎの通過時刻には、4~50名くらいに膨れ上がっていました。

てっきり、デキが重連で客車2両くらい引くのかと思っていましたが、デキ1は故障しており。旧型客車は、一両が高崎駅構内で展示に使用するとのことで、デキ+旧型客車1両という模型のような編成となりました。

折返しは、1時間弱ですので、反対側に異動し、待機。すこしづつ山影や高圧鉄塔の影が伸びてきましたが、何とかクリアし撮影できました。

また、歩いて下仁田まで出て、下仁田発14時48分の電車に乗り込みましたが、途中で撮影帰りのファンが大量に乗り込み、超満員に。電車は約4分ほど遅れて高崎に到着しました。

高崎では、16時まで開催されていた「ぐんまの中小私鉄フェア2011」に何とか間に合い、デキ3とスハフ42。車庫の中のデキ1。ED31 6を撮影することができ、帰途につきました。

どなたか 教えて下さい

模型車両を整理していたところ、写真のような作りかけの客車が出てきました。これは澤村達也氏の遺作で 随分昔に私の手元に来たものであることを思い出しました。ホル7550と書かれていて 荷物車が配給車になった雑形客車だと思われます。澤村氏がどういうきっかけでこれを作ろうとされたか 今となってはわかりませんが、せっかくですから完成させたいと思います。ところがこのホル7550なる配給車の資料や写真が無いため 客車の大家諸兄にお教え頂きたいのです。写真なり、形式図なり 何かの雑誌の記事なり何でも良いのですが、これを完成させるために参考になる情報を教えてください。よろしくお願いします。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part21   京滬線高速化の歴史 その1

14日目 5月31

① 天津 1500C2044次)→15:30北京南

北京南2121D321次)→7:15上海虹橋

京滬高速鉄道の開業は開業は、6月中旬と昨年12月に発表した鉄道大臣は汚職で解任され、南京南站完成が遅れていたため、この時期まだ未発表状態が続いていました。開通によって、在来線の列車本数の激減は必死で、昼間の列車は壊滅、夜行もほぼなくなるとの情報を得ていましたので、開業前に何回も乗車した夜行電車寝台に最後に乗っておきたいと北京に戻って上海へと向かいました。

▲ この時間になりますと、高速列車専用駅の北京南駅からは上海方面に向けて5分ヘッドで夜行列車が発車していきます。D300番台の列車はすべて動車(電車)寝台で、ボンバルディア社からのCRH1と「はやて」CRH2の寝台車設計変更タイプEの2種類が運用されていました。
上海虹橋駅開業までは、上海駅まで乗り入れていましたが開業後は、すべて上海虹駅となりました。客車寝台も特快2本と普通が1本ありますが、こちらは北京発上海着と分けられていました。

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Re.高松琴平のとんでもクハ

 
 昭和28年廃車後も残っていた11000形 (44-3-19) 仏生山

高松琴平電鉄のワフ改造のクハの件は、須磨と乙訓の両長老から詳細な解説がされており、私ごときが出る幕ではないが、昭和44年3月に撮影した画像をお目にかけたい。
廃車後、物置として使用するには手頃なサイズであったためか長く残り、瓦町変電所で使用されていた車体は平成3年頃まで残っていたそうである。
画像を通り、この時点では線路の上に乗っており、ダルマにはなっていなかったが、車号は長年風雨にさらされた結果であろうかどこにも残っていなかった。
それにしても終戦直後の琴平線は「人が乗れさえすれば何でも良い」というほど車両不足に陥っていたことが伺える。乗り心地の悪さもさることながら、夏は車体の外板から直接熱が伝わる上に、窓が小さいので蒸し車内は風呂状態、冬は冷蔵庫状態であったと思われる。
鉄ピク誌の1989年3月臨時増刊号に吉川文夫氏が「電車になった貨車/高松琴平電気鉄道11000形」のタイトルで、亀井一男氏が昭和24年6月に撮影された写真と共に解説されているのでお持ちの方はご覧いただきたい。

 乙訓の長老の解説に出てくる「国電のお古2000形」についても触れると、仙石線の前身宮城電鉄の買収車で、大正15年日本車輌でサハ301~303として新製され、車体は木製であった。昭和18年運転台を取付けクハ301~303となった。昭和27年10月廃車後、翌28年3月に高松琴平電鉄入りして2000形(210、220、230)となり琴平線で使用されていた。
昭和32年に230が鋼体化改造され、Hゴム支持の2段窓(通称バス窓)を持つ近代的な車体になったが、台枠以下と屋根を流用したため、トラスバーが残るアンバランスなスタイルになった。昭和40年に220が鋼体化の上電動車化され67となった。窓、扉等を原形のサイズに合わせたため、窓の小さい古めかしいスタイルとなった。210は鋼体化改造をされることなく昭和44年に廃車となった。


 
230  (44-3-19)  仏生山


  
220を鋼体化の上電動車化した67  (44-3-19)  瓦町

11000形ほどではないが、もう少しで「とんでもクハ」になりかけた車両を紹介しよう。昭和39年に国鉄からオハ31の137と299を購入してデッキ部分を乗務員室にして側面の扉を2カ所開ける予定で工事を進めていたところ、車体の老朽化があまりにも激しかったためか、旧車体を廃棄して新たに車体を新製した。台枠以下は流用しているので、何となく元オハ31の面影が残っている。


  950(元オハ31137)
 (44-3-19)  瓦町


 
960(元オハ31299)  (44-3-19)  瓦町

【14829】のコメントで米手作市様が触れておられるキワ90について画像を貼っておく。
昭和35年ローカル線の効率化を目的として2両新製した「有蓋気動貨車」で、当時気動車用の標準機関であったDMH17C(180PS)を搭載した全長8mの2軸車であった。
宮崎機関区に配置され妻線で使用されていたが、牽引力不足等で実用化に至らず、昭和44年にキワ902が房総電化の際に事業用車(装柱車)キヤ901に改造、残るキワ901は引き続き宮崎機関区に留まったが昭和46年に廃車された。


 
キワ901  (44-3-26) 宮崎機関区

台車の話

 闘病中のTさんから懐かしく、また、楽しかったあの頃の台車の話が届きました。メールで1~2回やり取りをした後の文章です。本人ご了解のもとに原文を紹介します。

「阪急2800はミンデンドイツばかりだったので、2804ができるまでは、わざわざ1300急行のエコノミックトラックで帰宅したことがあります。京阪1900はシンドラKS70が大半ですが、アルストーム1906は最高。小田急のアルストームもよかった。名鉄も。阪急814のゲルリッツはダイナミック。阪急660のブリルは最高!そう、610は中型として、いい車両でしたね。山陽電鉄のOK型はズシンズシン。近車のシュリーレンも力作。ああ、いい時代だった。ありがとう。思い出したよ。」

 私見です。乗り心地と言う観点から見ますと台車の要素は大きいと思いますが、路盤・線路状態、電動車か付随車か、MT比率、ブレーキ方式・出力等車両性能、車両構造、乗客数、列車速度、運転の仕方等々様々な状況によっても微妙に違うのでしょうね。国鉄客車オハ61の乗り心地がいいと言う人がいますが、うなずける点もあると思います。技術的なことはよくわかりませんが、京阪の1900が京都市電と平面クロスする所でもスムーズな乗り心地を感じましたし、阪急京都線は路盤が悪く10メートルレールが存在したとも聞いておりますがスピード満点でそれが乗り心地の悪さをカバーした様な気がします。小田急は狭軌ですが、昔から路盤がよかったのか直線区間が多いのか、空気バネでない2400でも乗り心地は悪くなかったです。1960年代後半ですが、あの時代は昭和初期の吊り掛け車に混じって各社競って製作した高性能車が多く見られ、その台車にも空気バネ等試行錯誤のあとが見られ、見ていて興味をそそられました。Tさんはベッドの上で打ち込んで送信されたものと推察しますが、凄い記憶力と気力に感銘を受けました。

都電荒川線100周年記念イベント

 
 9002、9001、7023の3両並び

 8月7日【14525】でお知らせした通り、東京都交通局は8月1日に創業100周年を迎えたが、都電荒川線は前身の王子電気軌道により明治44年8月20日飛鳥山上(現在の飛鳥山)~大塚間を開業以来100年を迎えた。これを記念して8月20日に荒川車庫でイベントが実施され、9001と9002号車に簡単な装飾とヘッドマークが取り付けられた。荒川線にとっては「交通局100周年」よりこちらの方が意義深いと思われる。

当日、たまたま午前中時間が空いていたので、イベント前にスカイツリーを入れて撮影をしようと思い早めに家を出たが、金町駅に着くと203系マト55編成が我孫子行で来たので思わず乗ってしまった。我孫子駅の入線を撮影しようと思い、松戸で降りて快速に乗り換えた。我孫子駅の入線を撮影後、再度快速で松戸に引き返し入線を撮影後、マト55編成に乗り町屋で下車した。

都電のりばに行くと、展示予定の9001が団体客を乗せて到着、直ぐに客を乗せたまま折り返した。荒川車庫に到着すると9002が装飾して停められており、隣に先程の9001が並べられた。その後7023に「都営交通100周年」のヘッドマークを取り付けて並べられた。イベント終了後は、9001は飛鳥山まで改装後大塚駅前行で、9002は「がんばろう日本」のヘッドマークを付けて三ノ輪橋行で営業運転に入った。
    
 イベント
前に貸切運用に入った9001

 
 
展示準備中の9002


 
9001と9002の並び


 9002と9001のヘッドマークが取替えられた。


 「がんばろう日本」のヘッドマークを付けた9002
 

・車両の動き
7000形の7004が3月31日付で廃車になり7000形は21両となった。それでも最大勢力で誇っている。


 在りし日の7004 
(20-6-16  飛鳥山
)

現在の在籍車両は下記の通りである。
7000形(21両)7001~7003  7005  7007  7009  7010  7013  7015  7016 7018 7019 7023 7024~7027 7029~7031
8500形(5両)8501~8505
9000形(2両)9001  9002
8800形(10両)8801~8810 
花100形(1両)花101