【15066】ユースで巡った鉄道旅 -16-

昨日は、山科の人間国宝宅へお邪魔して、いろいろ話を伺ってきました。人間国宝は、8月、9月連続して行われた東北支援の鉄道写真展に、たいへん貴重な写真の数々を展示されましたが、「大槌の鉄橋の写真がいちばん思い出深いです」と述懐されていました。ご承知の方もおられると思いますが、山田線大槌~吉里吉里間の大槌川橋梁は、東日本大震災の大津波で流出し、橋脚だけが残った無残な姿となりました。人間国宝は昭和40年前後に、その橋梁上を行く列車を撮っておられ、図らずも津波前後の定点撮影となったのです。いっぽう、I原さんも、その大槌の街をバックに大カーブを行くC58の列車を高台から撮っておられることが判明、写真展会場で披露されました。
大槌は津波の被害が甚大で、街は壊滅状態ですが、まだ平和な時代にしっかり記録を残されていることに、感銘を覚えました。そんな思いで、自分のベタ焼きを繰っていると、なんと私も大槌で撮影していたことが判明しました。ただ、私の場合は、単に交換列車を撮っただけですが、今回は、ユースシリーズの最終として、岩手県下の鉄道を巡った一日を記してみます。

この日は、下り夜行「津軽1号」で横手まで行き、北上線始発で北上へ、東北本線で花巻へ、釜石線に乗り換え釜石へ。ここから山田線で宮古経由で盛岡へと向かう乗り鉄の一日だった。横手5時22分発の始発列車で、初めての北上線に乗車、県境近くまで来るとさすがに雪が深くなってきた。雪明りの北上線陸中川尻駅で列車交換のため停車、雪明りの構内に列車を待つ人々の影が伸びている。陸中川尻は、現在「ほっとゆだ」に改称されている。

釜石駅前、新日鉄の釜石製鉄所が駅の真ん前にドカンと広がる光景に思わずカメラを向けた。太い煙突からはモクモクと煙が上がる。釜石も海岸部は津波で甚大な被害だったが、駅はやや小高い場所にあり、津波の直撃は免れたが、地震の揺れによる被害が大きかったようだ。この写真は、tsurukameさんのブログ「蒸気機関車山路を行く」にも使っていただいた。

釜石から乗った列車は仙台発釜石・山田・花輪線経由秋田行き急行「陸中」、東北地方に多かった多層階急行で、各所で分割・併結を繰り返す列車だ。大槌駅で列車交換のため、数分停車する。この当時、東北、いや全国で見られた、ごく当たり前の駅ホームの風景だ。ここが、ちょうど40年後のほぼ同月、こんな被害に合うとは…。ホームには、律儀そうな助役と、若手駅員が待ち構え、ボストンバッグを持った家族連れが列車の到着を待っている。漁業の盛んな地らしく、冷蔵車も見える。交換する列車は普通列車のように見えるが、前のキハ52×3連は回送で、その後にキハ58系3連が付いた、急行「そとやま」だった。今では考えられない、急行同士の交換だった。

山のラインで同位置と分かる大槌駅の惨状(新潮社「日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録」より転載)


【15057】老人、伊香保温泉に遊ぶ

9月22日~26日間、お兄さん(老人のこと)の快気祝いを兼ねて秘湯巡りをするから出てらっしゃい、と義妹から誘いがかかった。連れ合いは即座に乗ったようで、「5日間休める?」と言った。「3日なら休めるが……」と声を濁した。同業者とのクルマの旅は楽しいが、車中女性3人と義弟(市川市民)の4人の喧噪にさらされるのは辛いなぁーと、一瞬思った。でも23~24日は付き合う、25日は伊香保電車の遺構が残っているようなら訪ねてみたい、これを条件に参加することにした。老人の連れ合いは22日に、老人は23日朝の出発で昼に白岡着。14時頃市川市民夫婦到着、そこで白岡町民夫婦(義妹とその旦那様)のBOXCARで15時に伊香保に向け出発となった。

経路は北関東自動車道で、地名ではJR両毛線や上毛電鉄のルートを走り、高崎から関越自動車道に入ったようだ。途中、田圃の真ん中のICで降りて宇宙船まがいの展望風呂で汗を流した。これでは秘湯とは言えんだろうなと大笑いになった。夕暮れの中、渋川ICから伊香保温泉へ向かう途中、右折するや右左折を繰り返し、義妹夫婦の借り別荘に到着。丘の斜面にコンクリート製の基礎を作り、その上にバス・トイレ付2DKを2層乗せた別荘である。義妹の旦那様の趣味は絵を画く事で、定年後は見晴らしの良いところで余生を送りたいと言っていた。今年10月末に契約解除するにあたり「お兄さんの快気祝いでご招待」となった次第。

24日、先ず秘湯巡りである。国道17号を分け入り三国峠直下で左へ細道を辿る”法師温泉”である。以前テレビで紹介され、一度は行ってみたい温泉であった。10:30~13:30間のみ1000円で日帰り入湯が可能である。入湯後11:45集合で伊香保温泉行かと思ったら、途中、月夜野温泉に寄ると言う。また入湯かいなと言ったら、「与謝野晶子記念館」見学だとのこと。運転手である旦那と老人の連れ合いが示し合わせたようだ。共に立命館大学二部文学部卒である。13:15いよいよ伊香保へ向けて出発かと思ったら、渋川郊外の水沢うどん街道で昼食だと言う。長いものには巻かれろ、伊香保温泉着は15:15になってしまった。

とにかく情報を得ねばならない、ロープウェイの駅に観光案内所があるというので急いだ。案内所の女性は50過ぎの方。「電車が登って来ていた話は知っていますが、その遺跡めいたものは何も残っていないようです。駅跡など全く分りません。」と気の毒そうに言った。その後、案内コーナー外にいた年寄りに声をかけてくれた。「O×さん、貴方若い頃、東武さんに勤めていたのじゃないの。」「おう、そうだよ、何か……」「この方、京都から電車のことで訪ねて来たのよ、何か覚えていない?」「電車のことか、古い話だなぁ、昭和31年一杯で終わった。伊香保の駅と車庫跡は下のバス乗り場になってしまい、何も分らん。線路跡も道路と関係なしだから何処を走っていたか全く分らん。渋川市内は道路脇だったから、ここがそうだといえるが、その場へ行かないと無理だな。そうだ、平形(ひらかた)先生の庭に1台保存されているが、わしは先生と無縁だから、どうすれば見られるか分らん。」

お年寄りは電車と関係ない、現在伊香保温泉のボランティア案内人をしている元東武鉄道社員であった。こんな会話を隣で聞いていた義妹が言った。「お兄さん、平形眼科なら知ってるわ、これから買い物に行く食品スーパー隣、マルエドラック横に平形眼科の大きな看板があるわ!」

これで1件落着になる筈であった。温泉元湯に入り、温泉饅頭を賞味してから買い物に行こうと言い出した輩がいたが、義妹が17時閉店の土産物屋に行こうと言い、16:40に温泉を離れた。土産物屋に立ち寄り、平形眼科の大看板向かいの駐車場に着いたのは17:15、夕暮れは迫って来る。大きなお屋敷だ。国道17号を渡りお屋敷への右カーブとなった進入路を上り詰めると、立派な八脚門が構えていた。その脇の隙間から電車の屋根が見えた。「あった!よかった、来たかいがあった。」

旦那様が「兄貴よ、此処から庭に入れるよ、中に入って撮って来ようか。」老人は「ちょっと待て、こちらの門は閉まっており、診察時間のみ門は開きますとなっている。」義妹は「電話をかけて了解を貰ったら?」市川市民は電話番号を調べてくれた。0279(22)0073である。掛けて見るが応答がない。3度試み諦めた。裏口から入って撮るという旦那様を制止、「警備保障に加入していたらどうする。たかが昔の電車1台、されど1台だよ、通報されたら代表者の老人の身元を言わねばならない。電車に肖像権があるかどうかは知らないが、公道から見える場所にあるならよいが、私有地に置かれているものだけに持ち主の許可を得ることが第一、クラブの誰かが撮りに来てくれるよ、今日はこれまで。」

JR渋川駅で下車、西へ(市役所通り)、三国街道(国道17号)交差点を左折、南下すると前方に平形医院眼科の看板が見える。お屋敷南端の道路を右にとれば八脚門が見える。徒歩15~20分か?訪問は診察時間内が良いと思われる。

 

作讌・?の入口から見る

 


【15051】ユースで巡った鉄道旅 -15-

向山のグリーンユースで泊まった翌日は、前記のように、南部縦貫鉄道へ行くことにしました。清々しい雪晴れの朝で、足取りも軽く駅へ向かいます。思わず撮影意欲が沸々と湧いてきましたが、これが間違いのもとでした。南部縦貫へ行く前に、欲張って三沢で下車して十和田観光電鉄も撮る計画に急遽変更しました。
ところが何としたことか、時刻表を読み違え、十和田観光電鉄を撮って南部縦貫が接続する野辺地に着くと、南部縦貫のレールバスは10分前に出たあと、次に戻ってくるのは数時間後。色気を出したばかりに、本命を逃してしまい、結局、南部縦貫鉄道はその後も行く機会はなく、一枚も撮れないまま廃止されてしまいました。

三沢で発着する十和田観光電鉄(十鉄)を撮りに行く。巨大な温泉旅館の近くまで歩き、モハ3401+クハ4401を撮る。たいへん垢抜けした、いかにも電車らしい電車である。この塗装がまたいい。1955年帝国車輌製、東北地方初の全金製である。十鉄では1981年から東急のステンレス車の導入が始まり、十鉄電化以来の生え抜きモハ2400や定山渓から来たモハ1207が廃車になった。しかし、2002年に全車東急車の置き換えが完了したのちも、このモハ3401だけはオリジナル塗装のまま、もう一両のモハ3603とともにイベント用として残っている。
ただ、十鉄は存続の危機に立っている。昨年の年間利用者は45万人で、10年前から24万人減少した。少子化、沿線人口の減少に加え、東北新幹線の全通による客離れが大きなダメージとなった。近くの新幹線七戸十和田駅から十和田湖などの観光地へバス路線が整備され、同駅と連絡しない十鉄は、いっそう取り残される結果となった。沿線自治体に財政支援を求めているが、財政難の折、難色を示していると報道されている。

南部縦貫に振られた野辺地駅では、つぎの列車まで発着する列車を撮るしかない。やがてED75に牽かれた下り「ゆうづる」が通過する。「ゆうづる」は3往復あったが、2往復は583系、残り1往復のみが20系客車で、いわばC62「ゆうづる」の血統を受け継いだ伝統の列車だった。この時代、東北本線の牽引はすべてED75、ブルトレは20系、そしてヘッドマークは付いていない。あまり興味の湧かない時代であった。

訪れた昭和46年2月、札幌では冬季オリンピックが行われていた。これに合わせて、観客輸送のため、札幌~函館間、青森~上野間に臨時特急「オリンピア」が運転された。函館~札幌間は82系DCで、上野~青森間は写真の583系で、下りは常磐線経由の夜行、写真の上りは東北線経由の昼行だった。「オリンピア」と言えば、東京オリンピックの際に運転された151系が有名だが、札幌オリンピックでも、期間中の18日間だけ運転された。ただ、北海道への移動は航空機が常識になりつつあり、設定も急だったため告知が十分でなく、利用率は散々だったようだ。まぁ、この列車が撮れただけで、南部縦貫の代償にはなった。


【15042】さよなら スカ色 113系

今年は、地元千葉の113系が最後の夏ということで、893-2さんもはるばる関西から足を運ばれましたが、先日、とうとうさよなら運転が実施されました。

その一部をご報告いたします。

定期列車から引退したあと、「ありがとう113系横須賀線の旅」ツアーがJR東日本横浜支社により企画され、9月18日(日)・19日(月)に幕張車両センター所属の113系116編成を使用した団体臨時列車が,東京→横須賀→大船→鎌倉車両センター→大船→横須賀→東京という行程で運転されました。

朝、早くから定番の田町駅東京寄りで待機し、撮影しました。

ちょっと物足りない長さですが、前面方向幕は、懐かしい横須賀線の表示で東海道線を南下していきました。

9月19日 田町駅にて

 

続いて、「THE FINAL!113!」ツアーがJR東日本千葉支社により企画され、9月23日(金)に幕張車両センター所属の113系116編成と217編成を使用した団体臨時列車が,両国→総武本線経由→銚子→成田線経由→両国という行程で運転されました。

定期運転最後に掲出されたものと同じマークをつけての運転でした。

当日は、ライフワークの鹿島貨物とともに撮影しましたが、成田線大戸~下総神崎の重田踏切には、お召し列車撮影のために集まったのでは!?と思うほどの5~60人の鉄が集まり、113系の最後の成田線運用を見送りました。

9月23日 成田線 大戸~下総神崎間 重田踏切

下総神崎での12分間の停車を利用して、車で先回りし、下総神崎~滑河間の松木作踏切でも撮影ができました。こちらは、25名ほどの方が別れを告げていました。

9月23日 成田線 下総神崎~滑河間 松木作踏切

 

一夜明けた9月24日(土)、再び「THE FINAL!113!」ツアーがJR東日本千葉支社により企画され、幕張車両センター所属の113系116編成が両国→外房線経由→館山→外房線経由→両国という行程で、217編成が両国→内房線経由→館山→内房線経由→両国という行程で運転されました。

当日は、早起きして、これまた定番の撮影地 下総中山駅で待機。両国への送り込みと本チャンの各2本が撮影できます。一番乗りでしたが、本チャンの頃には、相当な人数になっていました。

どうせ昨日と同じ定期運転最後に掲出されたものと同じマークをつけての運転だろうと思っていたところ、最初の外房線用の送り込みを見て、びっくり!なんと「快速 白い砂」のヘッドマークをつけていました。じゃあ、次の内房線の送り込みは、「快速 青い海」だったりしてと、同好の士と待つこと一時間。217編成が本当に「快速 青い海」のヘッドマークをつけて現れました。

9月24日 下総中山駅

これで、最後と思っていましたが、昨日、千葉支社のホームページを見たところ、八王子支社の201系の廃車回送をかねた旅行商品を真似たのかどうかわかりませんが、10月15日(土)に津田沼から長野総合車両センターへの回送に客を乗せ、運転するとのことです。これが本当のお別れになりそうです。


【15032】高崎駅周辺が騒がしい

KAWANAKAです。

久し振りに投稿します。高尚な記事を持ち合わせていませんが、現住所が大阪、税金は千葉県に納めている関係上、両方に少しづつジャブを入れています。

高崎辺りが騒がしいとコメントが出ていましたので参加します。

23日の用事を済ませて東下りしたのですが、家内が高崎にいる愚息夫婦+孫に会うので付き合えという。仕方がないので折角の休日、高崎(実際は新前橋)の愚息宅へお邪魔することになった。

家内を家に残し、愚息の車で折角来たのだからC58位見せろ!ということで孫を家に放ったらかしで出ました。愚息の運転でとにかく線路脇に行け、いうことで、まず1枚。詰まらん拙写でC58というのがわからん。

 

場所は残念ながら車で移動のため見当がつきません。記録を見ると11:49の時刻がありますので大体は分かります。名古屋からの同業者が1人だけ居て、ススキが伸びすぎているからとハサミでチョキチョキキ切ってごらんのようになりました。最近は脚立を持って大汗かいている御仁が増えているが、はさみはなるほどと感心した次第。

水上では物凄い人。近寄ることもできず、駅の反対側に回って、今度は転車台で回るC58とD51を。ついでに秋の雰囲気と言うことでススキを入れた写真を。人が多くて小生の腕ではこの位しか撮れませんでしたが・・。

 

その後、新前橋の家に戻り、孫の相手をして飽きたころ、帰ってくるD51+C58を撮って終わりとしました。今度はC58というのが分かりますね。

ま、じいじの役は不完全かも知れんが果たして、煙のにおいも嗅げたし良かったと言うべきでしょう。そのほかの戦果もクローバー会のメンバーが補足しているので良いとしましょう。

翌日は帰る前に、今度はC61+D51というので、迂回のカシオペアをキャッチしたから帰阪した。C61は元祖青信号を飾っているので拙写は省略。また、お別れの113系も行きたかったのですが、佐倉にいた関係でゲップが出るほど下手な写真を撮ったので自分を慰めることとします(機会を見て、追悼の平常拙写を投稿します)

また、突然出没しますのでよろしく。


【15010】エリトリア 未開の大地への鉄道の旅 Part1 旅立ち

9月24日 第1日目
① 自宅5:40→長岡天神5:57(阪急)→南茨木(大阪モノレール)→大阪空港
② 伊丹8:20(JL3002)→ 9:40成田12:15(JL407)→17:20フランクフルト

芭石鉄道で知り会い”春から夏への中国鉄路の旅”でご一緒させていただいたW大鉄研OBのO氏から次回もご一緒しましょうとお誘いを受けていました。煙が見えてドラフトが聞こえれば、いつでもどこへでも参りますよと気軽に返事しておりましたら早速、9月にエリトリアへ行くことに決めましたが、ご都合はいかがですかと具体的なお誘いが参りました。

エリトリア”・・・??? 聞いたことがありません。一体どこにあるのかとネットで見て、初めて国境紛争や内戦が最近多いアフリカと知りました。場所は、外務省のHPはこちら

これは問題がある。慎重に検討しなければならない、ドイツからでるツアーで費用も中国鉄路にちょっと行く程度の数倍もかかるので即決はできませんでした。

春から夏への中国鉄路の旅から帰国後すぐに中国に連れてってと療養中だったT先輩からの要望も来ておりましたので、それからゆっくりと検討しようかと思っていました。S先輩も一緒に京濾高速鉄路開通直前の上海へとお招きしまし帰国後、O氏より危険な場所は避けての行動をしますので安全ですとの連絡が入りました。行くにあったっては、”人間いつかは死ぬんだ、運命は決まっている。”との悟りの世界に入りましての決断となりました。

そしてO氏がご夫婦で行かれますので、どうせなら生きるも死ぬも一緒だと、長年連れ添ったワイフも一緒に連れて行くことにしました。 今回は今までとは違っての旅になりましたが、ワイフはまだ勤めていますので勤務先からの許可を取るのに手間どいました。

日本からの参加者は、O氏のご友人N氏を入れての5名です。ドイツからのツアーが出る前日の9月26日にミュンヘンに現地集合することで決まりました。
出発は9月24日。伊丹から成由で乗り換えてフランクフルへと向かいました。 記事の続きを読む


【15021】久しぶりの関三平先生です。近鉄ラビットカー6800

関先生の絵を見ていて気がついたのですが、色が少し薄いように思いました。8月に佐竹先輩の写真展で乙訓の長老様とこの色の話になりましたが、この色合いを言葉で説明するのは難しい、と言うことが結論でした。また、先生の絵は後ろ姿が多いのにも気がつきました。写真を元にしておられるのかと思いますが珍しいのではないでしょうか。今回の「近鉄ラビットカー」も見送りです。ところで今回の絵の中で右遠方から接近してくる電車が気になりました。


【15013】ユースで巡った鉄道旅 -14-

気がつくと、すっかり涼しくなりました。当方、暑い期間は想定外の業務が飛び込み、掲示板では全く役立たずの状態が続いていました。ようやく落ち着きましたので、復帰することにします。
まずは、ユースシリーズから参りましょう。
前回からの東北の続きとして、今回は、向山駅近くのグリーンユースを紹介します。向山と言っても、ピンと来ない駅ですが、東北本線は、三沢のひとつ下り方にある小駅で、今では青い森鉄道の駅になっています。このユースは、当会のI原さんから”ぜひ泊まれ”と勧められたことが発端だったように思います。その勧めた真意はついぞ聞き漏らしましたが、駅からすぐ近くの牧場の横に建つユースは、冬期とあって宿泊客も少なく、居心地のいいユースだった印象が残っています。寝ている最中に強い地震があり、飛び起きたことも覚えています。付近に観光地もなく、その後は廃止されたと思っていたら、名前を改めて今でも営業中と分かりました。
このユースに泊まった目的は、八戸線の撮影と、南部縦貫鉄道の撮影でしたが…。

青森駅でステーションホテルをして、早朝の八戸に着いた。東北本線から八戸線を分岐するこの駅は、訪問の前年、昭和46年4月に尻内から八戸に改称されたばかりで、それまでは、現在の本八戸が八戸と称していた。尻内と言えば、東北本線蒸機時代、勾配区間の補助機関車の基地として名を馳せていた。〔尻〕の区名板が、その役割にうまくはまっていた。八戸改め本八戸まで行き、跨線橋を渡ると、ちょうどC58の牽く八戸線の貨物列車が発車したところだった。踏切が開くと、寒そうに白い息を吐いた人々が通り過ぎて行った。

八戸線では、C58の牽く客車列車が朝に1往復設定されていた。一戸発1627列車と野辺地発534列車が八戸で併結されて鮫まで行く列車で、鮫ですぐ折り返し、C58のバック運転で、八戸へ戻る運用だった。東北本線から乗り換えなしで本八戸、鮫への通勤・通学輸送を目的とした設定のようだが、東北本線が第三セクター化された後も、なぜか一戸発鮫行き列車がそのまま残っていた。IGR、青い森、JRと、3社にまたがる珍しい列車だった。本八戸で降りて、近くの馬淵川鉄橋で、この客レを迎える。晴れてはいるが、とにかく風邪がきつかったことだけは覚えている。

本八戸で撮影したのち、終点の久慈まで向かうと、途中から雪模様になった。乗った631Dは、キハ17270+キハ17253+キハ17250の3連、あの蛙の腹のようなビニールシートは冬にはこたえた。この頃のローカル線気動車は、多形式の混結が常であったが、八戸線は、一部にキハ22が使われていたものの、あとは見事なくらいにキハ17に統一されていた。これはこれで編成美があった。

種市での到着風景、乗り込む老婦人の見事なまでの同一ファッションには驚く。他の地域ではまず見られない、東北ならではの光景だ。この時代、旅行していると、生活、文化、経済すべてに渡って、東北は後進地域だと実感できるシーンがよく見られた。他ではもう見られなかった、板垣退助の百円札が堂々と通用していたのも東北だった(もっとも、東京でも上野駅だけは百円札が使われていたのには、さすがと思ったものだ)。

いっぽう貨物列車は、八戸区のC58でかなりの本数が設定されていた。陸奥湊で降りて、近くの新井田川鉄橋で待ち構える。河口に近い、この付近にも東日本大震災の際には、津波が押し寄せたが、橋梁流失までには至らなかった。ただ、種市以南は鉄橋流失などにより現在も不通で、再開は来年度以降とアナウンスされている。


【15005】203系撮影奮闘記

 藤本哲男さんがデジタル元祖青信号に[14985]「カウントダウンとなった203系」9月23日を発表された。その衝撃的な題に煽られた訳ではないが、マト55(クハ203-5~クハ202-5)がお別れヘッドマーク(以下HMとする)付きで9月26日まで走るとのことでそいつをキャッチすることにした。私は203系に限らず絶滅が予想される車両は人がわんさと押しかける前に撮っておこうと日頃思っているが、お別れHMが付くとなるとそれはそれなりの記録となるので撮っておきたい気が起こり、今回も何度か挑戦することになった。今はいろいろな情報が簡単に入手できるので目的の車両が来るか来ないかはそう苦労しなくてもよいが、私は元来そういうことに無頓着でぶらっと出かけるのが常である。このため大勢撮影者が居る所に行って始めて何が来るか確認したことは何度もある。今回もまず9月17日(土)に松戸の陸橋に出かけてみた。陸橋の階段には既にそれらしき人が数人居て場所が占領された感があり、気の弱い私は橋の上から一人広角で狙う事にした。しかし、この日はHMなしのマト54の後追いで不完全燃焼に終わる。残暑厳しい日であった。次に22日(木)に再度同じ場所に行ってみた。今度は陸橋の階段から狙うため500ミリを持参した。市川から自転車で来た若者曰く「今日は203は来ませんよ!」。この言葉で悪い予感が当たる。そう言えば各駅のホームの端にはカメラ持った人が居なかった。今日は平日だから人が少ないのであろうと思っていたが、最近は平日でも居るので、それが居ないと言うことは来ないということである。折角の望遠レンズ持参なので特急列車や231系、531系、メトロ6000系等の撮影に切り替える。この日も暑さが身にしみる1日であった。その翌日23日は金曜日であるが祝日。今日は祝日なのでサービスで走るやろうと思い出発。各駅のホームの端にはそこそこ居る。金町でねばったが撮影者が徐々に減っていく。若者に今日来るのか聞いて見ても要領を得ない返事。諦めて飛鳥山の都電を撮ってとぼとぼ帰る。藤本さんはデジ青に追加の情報をコメントととして出してくれており、26日以降にも残る可能性を示唆されている。しかし、私の休みは来週は少ない。24日夜遅く「えい」とばかりに藤本さんにメールで聞いてみる。翌25日(日)は午前中は町内会の会館の清掃がある。近所付き合いは大切だが早めに切り上げて家に戻ると藤本さんから即返事の電話あり。「今日走る!」とのこと。目的のHM付きマト55の記録さえできればいいので一番近い代々木上原の到着、出発時間を聞く。常磐線が自分の庭である藤本さんは直ぐに正確な時間を教えてくれた。到着まで1時間しかないので現場に急ぐと大勢の人だかり。今日は間違いないと安心する。しかし、目的のマト55が到着する時に出発列車と重なってアウト。渋々次の入線に期待をかける。こちら側も大勢居たが罵声が飛び交う程でもなく無事に記録できた。ほっとして家路につく。藤本さんには今回大変御世話になりました。有り難うございます。今日の記録と丁度1年前に撮った203系をのっけます。

2011.9.25 代々木上原 JRクハ203-5、メトロ6011、小田急30053えのしま22号

2011.9.25 代々木上原 入線するマト55先頭クハ203-5我孫子行き

2010.9.22 北小金~南柏 マト51 我孫子行き後追いクハ202-1 


【14985】カウントダウンとなった203系


 マト55編成に付けられたヘッドマーク

8月8日の「【14562】いよいよ見納めJR東日本203系」で203系の現況をお伝えしたが、その後も海外譲渡が続き、マト54とマト55の2編成が残るのみとなった。一方代替となるE233系2000番台の増備も順調に進み、9月22日より17編成が運用に加わった。
9月1日よりマト55に「さよなら」のヘッドマークが取り付けられ引退は現実のものとなり、亀有駅に掲示されたポスターによると最終日は9月26日となっていた。つまり今日から3日後である。
一昨日22日は54、55ともに運用に入っていたが、55の一部車両のクーラーと照明が不調になった。台風でダイヤが大幅に乱れたが2編成とも松戸に入庫した。
台風の接近が帰宅時間と重なったため、関東在住の方は大変な目に遭われた方も多いと思われるが、私の場合は15時30分にお台場の勤務先を出たが「ゆりかもめ」は10分間隔の有人運転で「レインボーブリッジ」を徐行運転で走行。新橋で乗り換えた山手線は当初順調に走っていたが、秋葉原で東京駅で架線に障害物が付着したとのことで抑止。約40分後に運転開始の見通しが立たないとのアナウンス。日比谷線に行くとホーム混雑のため改札制限。つくばエキスプレスはすんなり乗れて北千住で下車。千代田線ホームに行くと常磐線直通運転中止で綾瀬止まり。駅高架下のバスターミナルは大混雑であったが、東武バスの葛飾車庫行の2台目にやっと乗れ、葛飾車庫から約30分歩いて自宅に辿り着いたのは19時30分であった。

昨日22日は、54のみ01運用に入っていたが、この運用を最後に松戸入庫後幕を外していたとの情報もある。また、55については代替のE233系2000番台の18編成が未着のため修理されるとは思うが、こちらも微妙なところである。
以上のような状況により、26日までどころか最悪の場合、今日以降運用に入るかどうかも怪しくなってきた。(今日は運用に入っていない)唯、前述のように代替車が未着のため26日以降も運用される可能性もあり、こちらを期待したい。

 
 亀有駅のポスター

 〔マト55編成〕

 
 金町駅に進入

  松戸駅

 松戸駅から車庫に引き上げ

 北小金駅を発車


 南柏~北小金間走行中

 〔マト54編成〕


 金町駅に進入

 金町駅に進入する上り電車

 南柏~北小金間走行中


【14971】2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part23  河南省建材廠、平庄煤礦鉄路、阜新煤礦鉄路、天津路面電車、京滬線のまとめ

今回も中国に残された現役蒸気機関車を訪ねて、河南省建材廠平庄煤礦鉄路阜新煤礦鉄路と初めての地方鉄路を訪問しました。また天津にかつて走った路面電車を調べてみましたが、日本統治化後の路線図が入手できていません。心残りです。日本で見つけるのは困難なようですので、次回に天津に立ち寄った時に探して見ます。
地方鉄路訪問では撮影仲間に恵まれて、いずれも初回にしましてはまずまずの成果でしたが、中国の蒸気機関車は石炭の質が良いのか日本の蒸気機関車と違って黒煙と白煙のミックスがなく、白煙が多いようです。ということは、やはり冬場でないと迫力ある写真が撮れません。今年の冬にまた訪問しなければなりません。
次回は、三道連近くにまだ煙の上がる地方鉄道があると聞きましたので、白銀と合わせて行こうと計画しております。

【紀行記の目次とリンク先】 下記をクリックしていただければ、各紀行記をご覧いただけます。
Part1  第1日目  旅立ち

Part2  第2日目  河南省建材廠を走るC2型 その1
Part3  第2日目  河南省建材廠を走るC2型 その2
Part4  第3日目  河南省建材廠を走るC2型 その3
Part5  第4日目  河南省建材廠を走るC2型 その4
Part6  第5日目  河南省建材廠を走るC2型 その5
Part7  第6日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その1
Part8  第6日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その2
Part9  第7日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その3
Part10 第8日目  平庄煤礦鉄路から阜新煤礦鉄路
Part11 第9日目  阜新煤礦鉄路 その1
Part12 第9日目  阜新煤礦鉄路 その2
Part13 第10日目 阜新煤礦鉄路 その3
Part14 第11日目 阜新煤礦鉄路 その4  時刻表、路線図
Part15 第11日目 阜新煤礦鉄路 その5
Part16 第11日目 阜新から北京へ 2106次乗車
Part17 第12日目 中国鉄道博物館正陽門館(正阳门馆)
Part18 第13日目 天津軽軌、地铁9号線 十一経路まで延伸
Part19 第14日目 天津の路面電車(疎開地時代)、天津博物館
Part20 第14日目 中国最初の鉄道 唐胥鉄路、天津博物館
Part21 第14日目 京滬線高速化の歴史 その1
Part22 第15日目 京滬線高速化の歴史 その2

建設型蒸気、RZ24・RW24型客車 上海に静態保存展示される!