ユースで巡った鉄道旅 -16-

昨日は、山科の人間国宝宅へお邪魔して、いろいろ話を伺ってきました。人間国宝は、8月、9月連続して行われた東北支援の鉄道写真展に、たいへん貴重な写真の数々を展示されましたが、「大槌の鉄橋の写真がいちばん思い出深いです」と述懐されていました。ご承知の方もおられると思いますが、山田線大槌~吉里吉里間の大槌川橋梁は、東日本大震災の大津波で流出し、橋脚だけが残った無残な姿となりました。人間国宝は昭和40年前後に、その橋梁上を行く列車を撮っておられ、図らずも津波前後の定点撮影となったのです。いっぽう、I原さんも、その大槌の街をバックに大カーブを行くC58の列車を高台から撮っておられることが判明、写真展会場で披露されました。
大槌は津波の被害が甚大で、街は壊滅状態ですが、まだ平和な時代にしっかり記録を残されていることに、感銘を覚えました。そんな思いで、自分のベタ焼きを繰っていると、なんと私も大槌で撮影していたことが判明しました。ただ、私の場合は、単に交換列車を撮っただけですが、今回は、ユースシリーズの最終として、岩手県下の鉄道を巡った一日を記してみます。

この日は、下り夜行「津軽1号」で横手まで行き、北上線始発で北上へ、東北本線で花巻へ、釜石線に乗り換え釜石へ。ここから山田線で宮古経由で盛岡へと向かう乗り鉄の一日だった。横手5時22分発の始発列車で、初めての北上線に乗車、県境近くまで来るとさすがに雪が深くなってきた。雪明りの北上線陸中川尻駅で列車交換のため停車、雪明りの構内に列車を待つ人々の影が伸びている。陸中川尻は、現在「ほっとゆだ」に改称されている。

釜石駅前、新日鉄の釜石製鉄所が駅の真ん前にドカンと広がる光景に思わずカメラを向けた。太い煙突からはモクモクと煙が上がる。釜石も海岸部は津波で甚大な被害だったが、駅はやや小高い場所にあり、津波の直撃は免れたが、地震の揺れによる被害が大きかったようだ。この写真は、tsurukameさんのブログ「蒸気機関車山路を行く」にも使っていただいた。

釜石から乗った列車は仙台発釜石・山田・花輪線経由秋田行き急行「陸中」、東北地方に多かった多層階急行で、各所で分割・併結を繰り返す列車だ。大槌駅で列車交換のため、数分停車する。この当時、東北、いや全国で見られた、ごく当たり前の駅ホームの風景だ。ここが、ちょうど40年後のほぼ同月、こんな被害に合うとは…。ホームには、律儀そうな助役と、若手駅員が待ち構え、ボストンバッグを持った家族連れが列車の到着を待っている。漁業の盛んな地らしく、冷蔵車も見える。交換する列車は普通列車のように見えるが、前のキハ52×3連は回送で、その後にキハ58系3連が付いた、急行「そとやま」だった。今では考えられない、急行同士の交換だった。

山のラインで同位置と分かる大槌駅の惨状(新潮社「日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録」より転載)

老人、伊香保温泉に遊ぶ

9月22日~26日間、お兄さん(老人のこと)の快気祝いを兼ねて秘湯巡りをするから出てらっしゃい、と義妹から誘いがかかった。連れ合いは即座に乗ったようで、「5日間休める?」と言った。「3日なら休めるが……」と声を濁した。同業者とのクルマの旅は楽しいが、車中女性3人と義弟(市川市民)の4人の喧噪にさらされるのは辛いなぁーと、一瞬思った。でも23~24日は付き合う、25日は伊香保電車の遺構が残っているようなら訪ねてみたい、これを条件に参加することにした。老人の連れ合いは22日に、老人は23日朝の出発で昼に白岡着。14時頃市川市民夫婦到着、そこで白岡町民夫婦(義妹とその旦那様)のBOXCARで15時に伊香保に向け出発となった。

経路は北関東自動車道で、地名ではJR両毛線や上毛電鉄のルートを走り、高崎から関越自動車道に入ったようだ。途中、田圃の真ん中のICで降りて宇宙船まがいの展望風呂で汗を流した。これでは秘湯とは言えんだろうなと大笑いになった。夕暮れの中、渋川ICから伊香保温泉へ向かう途中、右折するや右左折を繰り返し、義妹夫婦の借り別荘に到着。丘の斜面にコンクリート製の基礎を作り、その上にバス・トイレ付2DKを2層乗せた別荘である。義妹の旦那様の趣味は絵を画く事で、定年後は見晴らしの良いところで余生を送りたいと言っていた。今年10月末に契約解除するにあたり「お兄さんの快気祝いでご招待」となった次第。

24日、先ず秘湯巡りである。国道17号を分け入り三国峠直下で左へ細道を辿る”法師温泉”である。以前テレビで紹介され、一度は行ってみたい温泉であった。10:30~13:30間のみ1000円で日帰り入湯が可能である。入湯後11:45集合で伊香保温泉行かと思ったら、途中、月夜野温泉に寄ると言う。また入湯かいなと言ったら、「与謝野晶子記念館」見学だとのこと。運転手である旦那と老人の連れ合いが示し合わせたようだ。共に立命館大学二部文学部卒である。13:15いよいよ伊香保へ向けて出発かと思ったら、渋川郊外の水沢うどん街道で昼食だと言う。長いものには巻かれろ、伊香保温泉着は15:15になってしまった。

とにかく情報を得ねばならない、ロープウェイの駅に観光案内所があるというので急いだ。案内所の女性は50過ぎの方。「電車が登って来ていた話は知っていますが、その遺跡めいたものは何も残っていないようです。駅跡など全く分りません。」と気の毒そうに言った。その後、案内コーナー外にいた年寄りに声をかけてくれた。「O×さん、貴方若い頃、東武さんに勤めていたのじゃないの。」「おう、そうだよ、何か……」「この方、京都から電車のことで訪ねて来たのよ、何か覚えていない?」「電車のことか、古い話だなぁ、昭和31年一杯で終わった。伊香保の駅と車庫跡は下のバス乗り場になってしまい、何も分らん。線路跡も道路と関係なしだから何処を走っていたか全く分らん。渋川市内は道路脇だったから、ここがそうだといえるが、その場へ行かないと無理だな。そうだ、平形(ひらかた)先生の庭に1台保存されているが、わしは先生と無縁だから、どうすれば見られるか分らん。」

お年寄りは電車と関係ない、現在伊香保温泉のボランティア案内人をしている元東武鉄道社員であった。こんな会話を隣で聞いていた義妹が言った。「お兄さん、平形眼科なら知ってるわ、これから買い物に行く食品スーパー隣、マルエドラック横に平形眼科の大きな看板があるわ!」

これで1件落着になる筈であった。温泉元湯に入り、温泉饅頭を賞味してから買い物に行こうと言い出した輩がいたが、義妹が17時閉店の土産物屋に行こうと言い、16:40に温泉を離れた。土産物屋に立ち寄り、平形眼科の大看板向かいの駐車場に着いたのは17:15、夕暮れは迫って来る。大きなお屋敷だ。国道17号を渡りお屋敷への右カーブとなった進入路を上り詰めると、立派な八脚門が構えていた。その脇の隙間から電車の屋根が見えた。「あった!よかった、来たかいがあった。」

旦那様が「兄貴よ、此処から庭に入れるよ、中に入って撮って来ようか。」老人は「ちょっと待て、こちらの門は閉まっており、診察時間のみ門は開きますとなっている。」義妹は「電話をかけて了解を貰ったら?」市川市民は電話番号を調べてくれた。0279(22)0073である。掛けて見るが応答がない。3度試み諦めた。裏口から入って撮るという旦那様を制止、「警備保障に加入していたらどうする。たかが昔の電車1台、されど1台だよ、通報されたら代表者の老人の身元を言わねばならない。電車に肖像権があるかどうかは知らないが、公道から見える場所にあるならよいが、私有地に置かれているものだけに持ち主の許可を得ることが第一、クラブの誰かが撮りに来てくれるよ、今日はこれまで。」

JR渋川駅で下車、西へ(市役所通り)、三国街道(国道17号)交差点を左折、南下すると前方に平形医院眼科の看板が見える。お屋敷南端の道路を右にとれば八脚門が見える。徒歩15~20分か?訪問は診察時間内が良いと思われる。

 

作讌・?の入口から見る

 

ユースで巡った鉄道旅 -15-

向山のグリーンユースで泊まった翌日は、前記のように、南部縦貫鉄道へ行くことにしました。清々しい雪晴れの朝で、足取りも軽く駅へ向かいます。思わず撮影意欲が沸々と湧いてきましたが、これが間違いのもとでした。南部縦貫へ行く前に、欲張って三沢で下車して十和田観光電鉄も撮る計画に急遽変更しました。
ところが何としたことか、時刻表を読み違え、十和田観光電鉄を撮って南部縦貫が接続する野辺地に着くと、南部縦貫のレールバスは10分前に出たあと、次に戻ってくるのは数時間後。色気を出したばかりに、本命を逃してしまい、結局、南部縦貫鉄道はその後も行く機会はなく、一枚も撮れないまま廃止されてしまいました。

三沢で発着する十和田観光電鉄(十鉄)を撮りに行く。巨大な温泉旅館の近くまで歩き、モハ3401+クハ4401を撮る。たいへん垢抜けした、いかにも電車らしい電車である。この塗装がまたいい。1955年帝国車輌製、東北地方初の全金製である。十鉄では1981年から東急のステンレス車の導入が始まり、十鉄電化以来の生え抜きモハ2400や定山渓から来たモハ1207が廃車になった。しかし、2002年に全車東急車の置き換えが完了したのちも、このモハ3401だけはオリジナル塗装のまま、もう一両のモハ3603とともにイベント用として残っている。
ただ、十鉄は存続の危機に立っている。昨年の年間利用者は45万人で、10年前から24万人減少した。少子化、沿線人口の減少に加え、東北新幹線の全通による客離れが大きなダメージとなった。近くの新幹線七戸十和田駅から十和田湖などの観光地へバス路線が整備され、同駅と連絡しない十鉄は、いっそう取り残される結果となった。沿線自治体に財政支援を求めているが、財政難の折、難色を示していると報道されている。

南部縦貫に振られた野辺地駅では、つぎの列車まで発着する列車を撮るしかない。やがてED75に牽かれた下り「ゆうづる」が通過する。「ゆうづる」は3往復あったが、2往復は583系、残り1往復のみが20系客車で、いわばC62「ゆうづる」の血統を受け継いだ伝統の列車だった。この時代、東北本線の牽引はすべてED75、ブルトレは20系、そしてヘッドマークは付いていない。あまり興味の湧かない時代であった。

訪れた昭和46年2月、札幌では冬季オリンピックが行われていた。これに合わせて、観客輸送のため、札幌~函館間、青森~上野間に臨時特急「オリンピア」が運転された。函館~札幌間は82系DCで、上野~青森間は写真の583系で、下りは常磐線経由の夜行、写真の上りは東北線経由の昼行だった。「オリンピア」と言えば、東京オリンピックの際に運転された151系が有名だが、札幌オリンピックでも、期間中の18日間だけ運転された。ただ、北海道への移動は航空機が常識になりつつあり、設定も急だったため告知が十分でなく、利用率は散々だったようだ。まぁ、この列車が撮れただけで、南部縦貫の代償にはなった。

さよなら スカ色 113系

今年は、地元千葉の113系が最後の夏ということで、893-2さんもはるばる関西から足を運ばれましたが、先日、とうとうさよなら運転が実施されました。

その一部をご報告いたします。

定期列車から引退したあと、「ありがとう113系横須賀線の旅」ツアーがJR東日本横浜支社により企画され、9月18日(日)・19日(月)に幕張車両センター所属の113系116編成を使用した団体臨時列車が,東京→横須賀→大船→鎌倉車両センター→大船→横須賀→東京という行程で運転されました。

朝、早くから定番の田町駅東京寄りで待機し、撮影しました。

ちょっと物足りない長さですが、前面方向幕は、懐かしい横須賀線の表示で東海道線を南下していきました。

9月19日 田町駅にて

 

続いて、「THE FINAL!113!」ツアーがJR東日本千葉支社により企画され、9月23日(金)に幕張車両センター所属の113系116編成と217編成を使用した団体臨時列車が,両国→総武本線経由→銚子→成田線経由→両国という行程で運転されました。

定期運転最後に掲出されたものと同じマークをつけての運転でした。

当日は、ライフワークの鹿島貨物とともに撮影しましたが、成田線大戸~下総神崎の重田踏切には、お召し列車撮影のために集まったのでは!?と思うほどの5~60人の鉄が集まり、113系の最後の成田線運用を見送りました。

9月23日 成田線 大戸~下総神崎間 重田踏切

下総神崎での12分間の停車を利用して、車で先回りし、下総神崎~滑河間の松木作踏切でも撮影ができました。こちらは、25名ほどの方が別れを告げていました。

9月23日 成田線 下総神崎~滑河間 松木作踏切

 

一夜明けた9月24日(土)、再び「THE FINAL!113!」ツアーがJR東日本千葉支社により企画され、幕張車両センター所属の113系116編成が両国→外房線経由→館山→外房線経由→両国という行程で、217編成が両国→内房線経由→館山→内房線経由→両国という行程で運転されました。

当日は、早起きして、これまた定番の撮影地 下総中山駅で待機。両国への送り込みと本チャンの各2本が撮影できます。一番乗りでしたが、本チャンの頃には、相当な人数になっていました。

どうせ昨日と同じ定期運転最後に掲出されたものと同じマークをつけての運転だろうと思っていたところ、最初の外房線用の送り込みを見て、びっくり!なんと「快速 白い砂」のヘッドマークをつけていました。じゃあ、次の内房線の送り込みは、「快速 青い海」だったりしてと、同好の士と待つこと一時間。217編成が本当に「快速 青い海」のヘッドマークをつけて現れました。

9月24日 下総中山駅

これで、最後と思っていましたが、昨日、千葉支社のホームページを見たところ、八王子支社の201系の廃車回送をかねた旅行商品を真似たのかどうかわかりませんが、10月15日(土)に津田沼から長野総合車両センターへの回送に客を乗せ、運転するとのことです。これが本当のお別れになりそうです。

高崎駅周辺が騒がしい

KAWANAKAです。

久し振りに投稿します。高尚な記事を持ち合わせていませんが、現住所が大阪、税金は千葉県に納めている関係上、両方に少しづつジャブを入れています。

高崎辺りが騒がしいとコメントが出ていましたので参加します。

23日の用事を済ませて東下りしたのですが、家内が高崎にいる愚息夫婦+孫に会うので付き合えという。仕方がないので折角の休日、高崎(実際は新前橋)の愚息宅へお邪魔することになった。

家内を家に残し、愚息の車で折角来たのだからC58位見せろ!ということで孫を家に放ったらかしで出ました。愚息の運転でとにかく線路脇に行け、いうことで、まず1枚。詰まらん拙写でC58というのがわからん。

 

場所は残念ながら車で移動のため見当がつきません。記録を見ると11:49の時刻がありますので大体は分かります。名古屋からの同業者が1人だけ居て、ススキが伸びすぎているからとハサミでチョキチョキキ切ってごらんのようになりました。最近は脚立を持って大汗かいている御仁が増えているが、はさみはなるほどと感心した次第。

水上では物凄い人。近寄ることもできず、駅の反対側に回って、今度は転車台で回るC58とD51を。ついでに秋の雰囲気と言うことでススキを入れた写真を。人が多くて小生の腕ではこの位しか撮れませんでしたが・・。

 

その後、新前橋の家に戻り、孫の相手をして飽きたころ、帰ってくるD51+C58を撮って終わりとしました。今度はC58というのが分かりますね。

ま、じいじの役は不完全かも知れんが果たして、煙のにおいも嗅げたし良かったと言うべきでしょう。そのほかの戦果もクローバー会のメンバーが補足しているので良いとしましょう。

翌日は帰る前に、今度はC61+D51というので、迂回のカシオペアをキャッチしたから帰阪した。C61は元祖青信号を飾っているので拙写は省略。また、お別れの113系も行きたかったのですが、佐倉にいた関係でゲップが出るほど下手な写真を撮ったので自分を慰めることとします(機会を見て、追悼の平常拙写を投稿します)

また、突然出没しますのでよろしく。

エリトリア 未開の大地への鉄道の旅 Part1 旅立ち

9月24日 第1日目

① 自宅 5:40→長岡天神 5:57(阪急)→南茨木(大阪モノレール)→大阪空港
② 伊丹 8:20(JL3002)→ 9:40 成田 12:15(JL407)→17:20 フランクフルト

芭石鉄道で知り会い”春から夏への中国鉄路の旅”でご一緒させていただいたW大鉄研OBのO氏から次回もご一緒しましょうとお誘いを受けていました。煙が見えてドラフトが聞こえれば、いつでもどこへでも参りますよと気軽に返事しておりましたら早速、9月にエリトリアへ行くことに決めましたが、ご都合はいかがですかと具体的なお誘いが参りました。

エリトリア”・・・??? 聞いたことがありません。一体どこにあるのかとネットで見て、初めて国境紛争や内戦が最近多いアフリカと知りました。場所は、外務省のHPはこちら
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久しぶりの関三平先生です。近鉄ラビットカー6800

関先生の絵を見ていて気がついたのですが、色が少し薄いように思いました。8月に佐竹先輩の写真展で乙訓の長老様とこの色の話になりましたが、この色合いを言葉で説明するのは難しい、と言うことが結論でした。また、先生の絵は後ろ姿が多いのにも気がつきました。写真を元にしておられるのかと思いますが珍しいのではないでしょうか。今回の「近鉄ラビットカー」も見送りです。ところで今回の絵の中で右遠方から接近してくる電車が気になりました。

ユースで巡った鉄道旅 -14-

気がつくと、すっかり涼しくなりました。当方、暑い期間は想定外の業務が飛び込み、掲示板では全く役立たずの状態が続いていました。ようやく落ち着きましたので、復帰することにします。
まずは、ユースシリーズから参りましょう。
前回からの東北の続きとして、今回は、向山駅近くのグリーンユースを紹介します。向山と言っても、ピンと来ない駅ですが、東北本線は、三沢のひとつ下り方にある小駅で、今では青い森鉄道の駅になっています。このユースは、当会のI原さんから”ぜひ泊まれ”と勧められたことが発端だったように思います。その勧めた真意はついぞ聞き漏らしましたが、駅からすぐ近くの牧場の横に建つユースは、冬期とあって宿泊客も少なく、居心地のいいユースだった印象が残っています。寝ている最中に強い地震があり、飛び起きたことも覚えています。付近に観光地もなく、その後は廃止されたと思っていたら、名前を改めて今でも営業中と分かりました。
このユースに泊まった目的は、八戸線の撮影と、南部縦貫鉄道の撮影でしたが…。

青森駅でステーションホテルをして、早朝の八戸に着いた。東北本線から八戸線を分岐するこの駅は、訪問の前年、昭和46年4月に尻内から八戸に改称されたばかりで、それまでは、現在の本八戸が八戸と称していた。尻内と言えば、東北本線蒸機時代、勾配区間の補助機関車の基地として名を馳せていた。〔尻〕の区名板が、その役割にうまくはまっていた。八戸改め本八戸まで行き、跨線橋を渡ると、ちょうどC58の牽く八戸線の貨物列車が発車したところだった。踏切が開くと、寒そうに白い息を吐いた人々が通り過ぎて行った。

八戸線では、C58の牽く客車列車が朝に1往復設定されていた。一戸発1627列車と野辺地発534列車が八戸で併結されて鮫まで行く列車で、鮫ですぐ折り返し、C58のバック運転で、八戸へ戻る運用だった。東北本線から乗り換えなしで本八戸、鮫への通勤・通学輸送を目的とした設定のようだが、東北本線が第三セクター化された後も、なぜか一戸発鮫行き列車がそのまま残っていた。IGR、青い森、JRと、3社にまたがる珍しい列車だった。本八戸で降りて、近くの馬淵川鉄橋で、この客レを迎える。晴れてはいるが、とにかく風邪がきつかったことだけは覚えている。

本八戸で撮影したのち、終点の久慈まで向かうと、途中から雪模様になった。乗った631Dは、キハ17270+キハ17253+キハ17250の3連、あの蛙の腹のようなビニールシートは冬にはこたえた。この頃のローカル線気動車は、多形式の混結が常であったが、八戸線は、一部にキハ22が使われていたものの、あとは見事なくらいにキハ17に統一されていた。これはこれで編成美があった。

種市での到着風景、乗り込む老婦人の見事なまでの同一ファッションには驚く。他の地域ではまず見られない、東北ならではの光景だ。この時代、旅行していると、生活、文化、経済すべてに渡って、東北は後進地域だと実感できるシーンがよく見られた。他ではもう見られなかった、板垣退助の百円札が堂々と通用していたのも東北だった(もっとも、東京でも上野駅だけは百円札が使われていたのには、さすがと思ったものだ)。

いっぽう貨物列車は、八戸区のC58でかなりの本数が設定されていた。陸奥湊で降りて、近くの新井田川鉄橋で待ち構える。河口に近い、この付近にも東日本大震災の際には、津波が押し寄せたが、橋梁流失までには至らなかった。ただ、種市以南は鉄橋流失などにより現在も不通で、再開は来年度以降とアナウンスされている。

203系撮影奮闘記

 藤本哲男さんがデジタル元祖青信号に[14985]「カウントダウンとなった203系」9月23日を発表された。その衝撃的な題に煽られた訳ではないが、マト55(クハ203-5~クハ202-5)がお別れヘッドマーク(以下HMとする)付きで9月26日まで走るとのことでそいつをキャッチすることにした。私は203系に限らず絶滅が予想される車両は人がわんさと押しかける前に撮っておこうと日頃思っているが、お別れHMが付くとなるとそれはそれなりの記録となるので撮っておきたい気が起こり、今回も何度か挑戦することになった。今はいろいろな情報が簡単に入手できるので目的の車両が来るか来ないかはそう苦労しなくてもよいが、私は元来そういうことに無頓着でぶらっと出かけるのが常である。このため大勢撮影者が居る所に行って始めて何が来るか確認したことは何度もある。今回もまず9月17日(土)に松戸の陸橋に出かけてみた。陸橋の階段には既にそれらしき人が数人居て場所が占領された感があり、気の弱い私は橋の上から一人広角で狙う事にした。しかし、この日はHMなしのマト54の後追いで不完全燃焼に終わる。残暑厳しい日であった。次に22日(木)に再度同じ場所に行ってみた。今度は陸橋の階段から狙うため500ミリを持参した。市川から自転車で来た若者曰く「今日は203は来ませんよ!」。この言葉で悪い予感が当たる。そう言えば各駅のホームの端にはカメラ持った人が居なかった。今日は平日だから人が少ないのであろうと思っていたが、最近は平日でも居るので、それが居ないと言うことは来ないということである。折角の望遠レンズ持参なので特急列車や231系、531系、メトロ6000系等の撮影に切り替える。この日も暑さが身にしみる1日であった。その翌日23日は金曜日であるが祝日。今日は祝日なのでサービスで走るやろうと思い出発。各駅のホームの端にはそこそこ居る。金町でねばったが撮影者が徐々に減っていく。若者に今日来るのか聞いて見ても要領を得ない返事。諦めて飛鳥山の都電を撮ってとぼとぼ帰る。藤本さんはデジ青に追加の情報をコメントととして出してくれており、26日以降にも残る可能性を示唆されている。しかし、私の休みは来週は少ない。24日夜遅く「えい」とばかりに藤本さんにメールで聞いてみる。翌25日(日)は午前中は町内会の会館の清掃がある。近所付き合いは大切だが早めに切り上げて家に戻ると藤本さんから即返事の電話あり。「今日走る!」とのこと。目的のHM付きマト55の記録さえできればいいので一番近い代々木上原の到着、出発時間を聞く。常磐線が自分の庭である藤本さんは直ぐに正確な時間を教えてくれた。到着まで1時間しかないので現場に急ぐと大勢の人だかり。今日は間違いないと安心する。しかし、目的のマト55が到着する時に出発列車と重なってアウト。渋々次の入線に期待をかける。こちら側も大勢居たが罵声が飛び交う程でもなく無事に記録できた。ほっとして家路につく。藤本さんには今回大変御世話になりました。有り難うございます。今日の記録と丁度1年前に撮った203系をのっけます。

2011.9.25 代々木上原 JRクハ203-5、メトロ6011、小田急30053えのしま22号

2011.9.25 代々木上原 入線するマト55先頭クハ203-5我孫子行き

2010.9.22 北小金~南柏 マト51 我孫子行き後追いクハ202-1 

カウントダウンとなった203系


 マト55編成に付けられたヘッドマーク

8月8日の「【14562】いよいよ見納めJR東日本203系」で203系の現況をお伝えしたが、その後も海外譲渡が続き、マト54とマト55の2編成が残るのみとなった。一方代替となるE233系2000番台の増備も順調に進み、9月22日より17編成が運用に加わった。
9月1日よりマト55に「さよなら」のヘッドマークが取り付けられ引退は現実のものとなり、亀有駅に掲示されたポスターによると最終日は9月26日となっていた。つまり今日から3日後である。
一昨日22日は54、55ともに運用に入っていたが、55の一部車両のクーラーと照明が不調になった。台風でダイヤが大幅に乱れたが2編成とも松戸に入庫した。
台風の接近が帰宅時間と重なったため、関東在住の方は大変な目に遭われた方も多いと思われるが、私の場合は15時30分にお台場の勤務先を出たが「ゆりかもめ」は10分間隔の有人運転で「レインボーブリッジ」を徐行運転で走行。新橋で乗り換えた山手線は当初順調に走っていたが、秋葉原で東京駅で架線に障害物が付着したとのことで抑止。約40分後に運転開始の見通しが立たないとのアナウンス。日比谷線に行くとホーム混雑のため改札制限。つくばエキスプレスはすんなり乗れて北千住で下車。千代田線ホームに行くと常磐線直通運転中止で綾瀬止まり。駅高架下のバスターミナルは大混雑であったが、東武バスの葛飾車庫行の2台目にやっと乗れ、葛飾車庫から約30分歩いて自宅に辿り着いたのは19時30分であった。

昨日22日は、54のみ01運用に入っていたが、この運用を最後に松戸入庫後幕を外していたとの情報もある。また、55については代替のE233系2000番台の18編成が未着のため修理されるとは思うが、こちらも微妙なところである。
以上のような状況により、26日までどころか最悪の場合、今日以降運用に入るかどうかも怪しくなってきた。(今日は運用に入っていない)唯、前述のように代替車が未着のため26日以降も運用される可能性もあり、こちらを期待したい。

 
 亀有駅のポスター

 〔マト55編成〕

 
 金町駅に進入

  松戸駅

 松戸駅から車庫に引き上げ

 北小金駅を発車


 南柏~北小金間走行中

 〔マト54編成〕


 金町駅に進入

 金町駅に進入する上り電車

 南柏~北小金間走行中

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part23  河南省建材廠、平庄煤礦鉄路、阜新煤礦鉄路、天津路面電車、京滬線のまとめ

今回も中国に残された現役蒸気機関車を訪ねて、河南省建材廠平庄煤礦鉄路阜新煤礦鉄路と初めての地方鉄路を訪問しました。また天津にかつて走った路面電車を調べてみましたが、日本統治化後の路線図が入手できていません。心残りです。日本で見つけるのは困難なようですので、次回に天津に立ち寄った時に探して見ます。
地方鉄路訪問では撮影仲間に恵まれて、いずれも初回にしましてはまずまずの成果でしたが、中国の蒸気機関車は石炭の質が良いのか日本の蒸気機関車と違って黒煙と白煙のミックスがなく、白煙が多いようです。ということは、やはり冬場でないと迫力ある写真が撮れません。今年の冬にまた訪問しなければなりません。
次回は、三道連近くにまだ煙の上がる地方鉄道があると聞きましたので、白銀と合わせて行こうと計画しております。

【紀行記の目次とリンク先】 下記をクリックしていただければ、各紀行記をご覧いただけます。
Part1  第1日目  旅立ち

Part2  第2日目  河南省建材廠を走るC2型 その1
Part3  第2日目  河南省建材廠を走るC2型 その2
Part4  第3日目  河南省建材廠を走るC2型 その3
Part5  第4日目  河南省建材廠を走るC2型 その4
Part6  第5日目  河南省建材廠を走るC2型 その5
Part7  第6日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その1
Part8  第6日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その2
Part9  第7日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その3
Part10  第8日目  平庄煤礦鉄路から阜新煤礦鉄路
Part11  第9日目  阜新煤礦鉄路 その1
Part12  第9日目  阜新煤礦鉄路 その2
Part13  第10日目   阜新煤礦鉄路 その3
Part14  第11日目   阜新煤礦鉄路 その4  時刻表、路線図
Part15  第11日目   阜新煤礦鉄路 その5
Part16    第11日目   阜新から北京へ 2106次乗車
Part17  第12日目   中国鉄道博物館正陽門館(正阳门馆)
Part18  第13日目   天津軽軌、地铁9号線 十一経路まで延伸
Part19  第14日目   天津の路面電車(疎開地時代)、天津博物館
Part20  第14日目   中国最初の鉄道 唐胥鉄路、天津博物館
Part21  第14日目   京滬線高速化の歴史 その1
Part22  第15日目 京滬線高速化の歴史 その2

建設型蒸気、RZ24・RW24型客車 上海に静態保存展示される!

次のぶんしゅう旅日記は初めてのアフリカです。『エリトリア 未開の大地への鉄道の旅』をご覧ください。よろしくお願い申し上げます。

澤村さん 見てください

湯口先輩からの迅速な情報提供を頂き、ホル7530は一応かたちになりました。今日は雨降りのため 塗装は後日としました。澤村氏から私の手元に来て 30年以上の眠りから覚め 一日でレールの上に乗りました。やっと出来たかと思っておられるでしょうネ。先のヌ100とあわせて 思い出の車両として当社で大切に保管することにします。

老人は幻を追い、夢を見たのか

先日の【14871】コメントで、阪急京都線1600系強力4連(170kW×8)が、新幹線の経路となるべし線路上を時速120km超で走ったことを投稿した。さっそく準特急氏から、1600系の主電動機はデイ100のものを使ったから150kWではないか、ピクトリアル私鉄巡りではいずれも170kWにはなっていないとの指摘を受けた。はて、与太ネタをコメントしたのか、気になって眠れなくなってしまった。話の発端は高校生(1954年・昭和29年)になった頃、O師匠から「特急用のデイ115~117の内、115と116号の主電動機は710形と同じ170kwだ」と聞かされた。デイが特急用から外れたのは1300形の登場による。1300形はご存知の如く軽量設計による京都線用高性能車両のはしりである。これの車体とデイの更新工事の際に、制御車化したデイから外ずした電装機器を組み合わせ仕立上げたのが1600系である。その中には特急専用車であった115、116号の170kw主電動機が含まれているとされ、1600系に強力編成ありと、評判になった。

老人が新幹線となる線路上をすべる様に疾走する1600系4連の急行に乗った話をT師匠にしたところ、「それが強力1600系だ!」と言われた。だが車号は思い出せない。

710系は711~715編成までが170kw主電動機で新造され、716、717編成は150kw編成であったとも聞いた。後に3扉改造の時に170kwに統一されたようだ。このあたりの説明がピクトリアル誌では山口益生さんの説明がある。失礼ながら奥歯に物が挟まったような言い回しでもあり、なにか事情があったのではないかと勘ぐっている。

強力デイのことは故羽村先輩との間でも話題となった。こんな話を持ち出せば故高橋正男先輩に「ええ加減にしてくれ!」と怒鳴られそうだ。老人がデイの特急に初めて乗ったのは同志社中学入学の年(1951年)、秋の彼岸に兄に連れられ大阪の電車見物に行った帰途、天六-大宮間であった。主電動機が何型かは知らなかったが、10m長の50㎏レールの乗り心地は決して良いものではなかった。故人となられたO、T師匠、羽村、高橋両先輩、老人は今こんなことで悩んでいるのですが……。

ホル7530

ホル7530のもっといい写真がありました。佐竹保雄先輩1955年12月2日、やはり隅田川用品庫での撮影で、江本氏とは反対サイド、台車もばっちりです。この一連の作業局型ボギー車は、ダブルルーフながら極めて浅いのが特徴です。この佐竹氏写真でもやっぱりナル7530とレタリングされていますが、ホルが正しいです。

台車はホイルベース7フィートのミッドランド製でしたが、写真からは明治44年式と思しきものに振替えられています。長軸のTR11と比べるとずっと軽そうですが、こんな台車の既製品はありますまいから、TR11でも仕方ないですね。

ついでにこの配給車改造に最も近い姿=ホニ5910形式を、昭和3年版形式図下巻から、コピーしてご覧に供します。同じ英国製台車でもホイルベースが5フィート6インチの車両もあった(右台車)ことが分ります。

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part22 京滬線高速化の歴史 その2

15日目 6月1

①  北京南2121D321次)→7:15上海虹橋
② 上海虹桥9:00(G7305次)→9:45杭州
③ 杭州13:00(G7314次)→13:45上海虹桥

今回の帰国便も上海浦東空港から関空へのフライト。時間が十分ありましたので、杭州への355km/h走行をまた味わいたいと往復です。
往路はCRH380Aで存分に高速走行に満足しましたが、復路は
京沪高速鉄路に使用されるCRH380BLが試運転を兼ねての運用でしたので、最高速度も300km/hに抑えられて晩点(延着)になりました。定期列車に試運転とはいかのも中国鉄路です。注目の商務車(ビジネスシートはシートカバーが付けられ前後の車両も立ち入り出来ませんでした。

上海に戻ってからはまだ時間もありましたので、地铁に乗車して展示されていると聞いた建設型を見学に行きました。訪問記は、速報として投稿済みです。こちらをご覧ください。

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故澤村氏の模型

[14942]西村雅幸氏投稿、故澤村氏製作途上の客車ですが、ホル7500形式は7534がラストナンバーだったかと記憶します。で、久方ぶりに木製客車アルバムを引っ張り出し、埃を払って、繰ってみるとホル7530が窓配置上で該当しそうです。写真は江本広一氏1956年4月20日隅田川での撮影ですが、3月31日付で廃車処分されていました。現車には「ナル」とありますが、これは「ホル」の書き間違えかと思います。

経歴は新橋工場1901年製造、鉄道作業局フボ1→ホニ8800(形式8800)→ホニ5910(5910)→ホヤ6764(6760)→となり、荷物車として生れています。

澤村氏へのいい功徳になりますから、是非屋根、デッキ、台車をつけて完成させてください。出来たら是非この掲示板でのご披露もお願いします。デッキ、台車の詳細等が必要でしたら、お申し出下さい。同系車の写真あるいは図面を探しますから。

上信電鉄 デキ3+スハフ42 2173

昨日、9月18日土曜日に群馬県の上信電鉄で、デキ3がJR東日本のスハフ42 2173を牽引して、高崎~下仁田間を往復しました。

これは、JRが行っている群馬デスティネーションキャンペーンの一環として開催された「ぐんまの中小私鉄フェア2011」ものです。

JR東日本からは、7両ある旧型客車のうち、スハフ42 2173とオハ47 2266が上信電鉄に貸し出され、オハ47は、「ぐんまの中小私鉄フェア2011」の会場となった上信電鉄 高崎駅構内に留置され展示されました。一方、スハフ42はデキ3に導かれ、上州路を下仁田まで往復しました。当日は、SL「レトロ碓氷」も運転されていましたので、群馬県内で2本の旧型客車が走りました。

最初にこの情報を聞いたとき、今から十数年前の西武E851が引退に際して、12系を借り入れ運転したことを思い出しました。

デキが旧型客車を牽引するということで、是非撮影に向かうべく、準備を整え、朝5時に起きて、いざ高崎へ。上信電鉄に乗り換え、運が良いのか悪いのか冷房が故障して、窓が全開できる車両に乗り込み、9時18分発の電車で下仁田へ。窓から外を見ると、南高崎~根小屋の鉄橋付近には、既に何人かがデキを待っていました。10時22分下仁田着。途中のセブンイレブンで糧食を補給し、歩いて20分程度の千平~下仁田間の撮影場所に到着。まだ、列車通過2時間半前ということもあり、数名が待っている程度でしたが、13時10分過ぎの通過時刻には、4~50名くらいに膨れ上がっていました。

てっきり、デキが重連で客車2両くらい引くのかと思っていましたが、デキ1は故障しており。旧型客車は、一両が高崎駅構内で展示に使用するとのことで、デキ+旧型客車1両という模型のような編成となりました。

折返しは、1時間弱ですので、反対側に異動し、待機。すこしづつ山影や高圧鉄塔の影が伸びてきましたが、何とかクリアし撮影できました。

また、歩いて下仁田まで出て、下仁田発14時48分の電車に乗り込みましたが、途中で撮影帰りのファンが大量に乗り込み、超満員に。電車は約4分ほど遅れて高崎に到着しました。

高崎では、16時まで開催されていた「ぐんまの中小私鉄フェア2011」に何とか間に合い、デキ3とスハフ42。車庫の中のデキ1。ED31 6を撮影することができ、帰途につきました。

どなたか 教えて下さい

模型車両を整理していたところ、写真のような作りかけの客車が出てきました。これは澤村達也氏の遺作で 随分昔に私の手元に来たものであることを思い出しました。ホル7550と書かれていて 荷物車が配給車になった雑形客車だと思われます。澤村氏がどういうきっかけでこれを作ろうとされたか 今となってはわかりませんが、せっかくですから完成させたいと思います。ところがこのホル7550なる配給車の資料や写真が無いため 客車の大家諸兄にお教え頂きたいのです。写真なり、形式図なり 何かの雑誌の記事なり何でも良いのですが、これを完成させるために参考になる情報を教えてください。よろしくお願いします。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part21   京滬線高速化の歴史 その1

14日目 5月31

① 天津 1500C2044次)→15:30北京南

北京南2121D321次)→7:15上海虹橋

京滬高速鉄道の開業は開業は、6月中旬と昨年12月に発表した鉄道大臣は汚職で解任され、南京南站完成が遅れていたため、この時期まだ未発表状態が続いていました。開通によって、在来線の列車本数の激減は必死で、昼間の列車は壊滅、夜行もほぼなくなるとの情報を得ていましたので、開業前に何回も乗車した夜行電車寝台に最後に乗っておきたいと北京に戻って上海へと向かいました。

▲ この時間になりますと、高速列車専用駅の北京南駅からは上海方面に向けて5分ヘッドで夜行列車が発車していきます。D300番台の列車はすべて動車(電車)寝台で、ボンバルディア社からのCRH1と「はやて」CRH2の寝台車設計変更タイプEの2種類が運用されていました。
上海虹橋駅開業までは、上海駅まで乗り入れていましたが開業後は、すべて上海虹駅となりました。客車寝台も特快2本と普通が1本ありますが、こちらは北京発上海着と分けられていました。

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Re.高松琴平のとんでもクハ

 
 昭和28年廃車後も残っていた11000形 (44-3-19) 仏生山

高松琴平電鉄のワフ改造のクハの件は、須磨と乙訓の両長老から詳細な解説がされており、私ごときが出る幕ではないが、昭和44年3月に撮影した画像をお目にかけたい。
廃車後、物置として使用するには手頃なサイズであったためか長く残り、瓦町変電所で使用されていた車体は平成3年頃まで残っていたそうである。
画像を通り、この時点では線路の上に乗っており、ダルマにはなっていなかったが、車号は長年風雨にさらされた結果であろうかどこにも残っていなかった。
それにしても終戦直後の琴平線は「人が乗れさえすれば何でも良い」というほど車両不足に陥っていたことが伺える。乗り心地の悪さもさることながら、夏は車体の外板から直接熱が伝わる上に、窓が小さいので蒸し車内は風呂状態、冬は冷蔵庫状態であったと思われる。
鉄ピク誌の1989年3月臨時増刊号に吉川文夫氏が「電車になった貨車/高松琴平電気鉄道11000形」のタイトルで、亀井一男氏が昭和24年6月に撮影された写真と共に解説されているのでお持ちの方はご覧いただきたい。

 乙訓の長老の解説に出てくる「国電のお古2000形」についても触れると、仙石線の前身宮城電鉄の買収車で、大正15年日本車輌でサハ301~303として新製され、車体は木製であった。昭和18年運転台を取付けクハ301~303となった。昭和27年10月廃車後、翌28年3月に高松琴平電鉄入りして2000形(210、220、230)となり琴平線で使用されていた。
昭和32年に230が鋼体化改造され、Hゴム支持の2段窓(通称バス窓)を持つ近代的な車体になったが、台枠以下と屋根を流用したため、トラスバーが残るアンバランスなスタイルになった。昭和40年に220が鋼体化の上電動車化され67となった。窓、扉等を原形のサイズに合わせたため、窓の小さい古めかしいスタイルとなった。210は鋼体化改造をされることなく昭和44年に廃車となった。


 
230  (44-3-19)  仏生山


  
220を鋼体化の上電動車化した67  (44-3-19)  瓦町

11000形ほどではないが、もう少しで「とんでもクハ」になりかけた車両を紹介しよう。昭和39年に国鉄からオハ31の137と299を購入してデッキ部分を乗務員室にして側面の扉を2カ所開ける予定で工事を進めていたところ、車体の老朽化があまりにも激しかったためか、旧車体を廃棄して新たに車体を新製した。台枠以下は流用しているので、何となく元オハ31の面影が残っている。


  950(元オハ31137)
 (44-3-19)  瓦町


 
960(元オハ31299)  (44-3-19)  瓦町

【14829】のコメントで米手作市様が触れておられるキワ90について画像を貼っておく。
昭和35年ローカル線の効率化を目的として2両新製した「有蓋気動貨車」で、当時気動車用の標準機関であったDMH17C(180PS)を搭載した全長8mの2軸車であった。
宮崎機関区に配置され妻線で使用されていたが、牽引力不足等で実用化に至らず、昭和44年にキワ902が房総電化の際に事業用車(装柱車)キヤ901に改造、残るキワ901は引き続き宮崎機関区に留まったが昭和46年に廃車された。


 
キワ901  (44-3-26) 宮崎機関区