保存蒸機とその現役時代(7)

東京には現在3両のC57が保存されている。大森の入新井公園の66号機は[35453]「保存蒸機とその現役時代(3)」で、小金井公園の186号機は藤本哲男さんが[25967]「保存されているEB10」の中の周辺の保存車両で紹介されている。今回はもう1両57号機を取り上げてみた。

57号機は新製後の配置は不明であるが、戦後北海道で長く使用された。引退後はどういう縁があったのかよくわからないが東京で保存されている。保存場所の大蔵運動公園は小田急線祖師ヶ谷大蔵駅から南に徒歩15分くらいの所にある大きな公園である。57号機は雪国育ちのため、旋回窓やスノープローを装備しているが、デフの切り詰めがないので貴婦人を保っている。保存状態も良好に見えるが、前照灯とテンダーのライトには電球がなかった。また、現役時代のドームの後ろにある重油併燃装置は保存機では外されており、保存にはこれの方が望ましいと思う。

2013.5.28 世田谷区大蔵運動公園の保存機C5757↓

s-13.5.28大蔵C5757   C5757説明板↓

s-13.5.28大蔵C5757説明

1966年9月10日早朝5時33分網走からの急行「石北」518列車を岩見沢で降りる。5分停車の間に牽引機C6232を撮る。続いて5時44分に釧路からの急行「まりも」28列車が到着する。この牽引機がC5757[小樽築港]であった。雨の中での撮影で、C5757はこの時に出会ったのみでその後の再会は47年後であった。

s-66.9.10岩見沢C5757

以前、保存蒸機とその現役時代(2)で門鉄デフのD51272を取り上げたが、そのD51272が保存されている世田谷公園にはC5757の庭園列車があったので、併せて取り上げてみた。撮影は2012.11.28↓

s-12.11.28世田谷公園C5757模型

 

富士山麓電鉄モハ603→富士急行モハ3604

3606 50-3-23
車体更新でモハ3604に改番後で、正面に貫通扉が設置された。/富士吉田

セミボの次は富士山麓電鉄→富士急行が登場した。それにしても関 三平氏の電車好きは、筋金入りで、私等話題に付いていくのが精一杯で足元にも及ばない。
今回のモハ603は、関 三平氏が記述されておられる通り、経歴が複雑で、車体更新して改番後で解説する。
明治32年日本鉄道大宮工場製で客車として新製され、鉄道院に買収後の改造でナユニ5420となり、昭和16年青梅線の前身、青梅電気鉄道に払い下げられた。
青梅電気鉄道は、同時に払い下げられた2両の木製客車と共に木南車輌で半鋼製車体を新製して電車に生まれ変わった。全長18.8mの大型で広い窓と共に当時としては軽快な車両で、台枠、台車も新製されて、サハ700形サハ703となった。
(他の2両は鉄道省ホヤ6703→サハ701、ホハニ4053→サハ702)

車体、台車、台枠が新製されているので、車両新製が認可されないため、苦肉の策として、改造名義にしたものと思われる。
サハ701と702は社線時代に、サハ703は19年4月1日鉄道省に買収後運転台が設置され、クハ700形クハ701~703となった。
クハ703は20年1月事故により休車になり、戦後24年1月富士山麓電鉄に譲渡された。

富士山麓電鉄では譲受け後直ぐに汽車会社で電動車に改造して26年1月モハ22として再起した。その後の改番でモハ603(関氏のイラスト)、39年に日本車輌で車体更新時に、貫通扉の設置、車内の蛍光灯化、自動扉化が実施され、モハ3604に改番された。

後ろに連結されているロハ901は、書類上は昭和25年小糸車輌製となっているが、実態は昭和3年川崎造船所製の元青梅電気鉄道モハ100形モハ103で、鉄道省買収後モハ100形モハ103となり、車号は同一であった。
青梅電気鉄道の電動車は、機器配置が特殊であったこと等により、早い時期に制御車代用になり、この車両も23年には早くも休車になった。
24年にサハ状態で富士山麓電鉄が譲受け、半室を2等車に改造してロハ300となり、その後の改番でロハ901となった。
44年に流山電鉄に譲渡され、西武所沢工場で運転台を設置してクハ53となり56年まで使用された。
ロハ901、流山電鉄クハ53共に撮影していないため、撮影された方は是非発表していただきたい。
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加太紀行 〈下〉

南海加太線は、明治45年開業、北島~加太間の加太軽便鉄道をルーツとする。北島とは、現・和歌山市駅の裏を流れる紀ノ川の対岸(右岸)にあった始発駅(その後、廃止)で、翌年には紀ノ川を渡って、和歌山市に隣接する地点に始発駅を設けた。開業時は、コッペル製のB型機が3両用意されたと言う。

IMG_0001sy

「鉄道ピクトリアル」より転載

昭和5年に電化し、加太電気鉄道に社名を変更、昭和17年に南海に合併された。

その後、本線紀ノ川から東松江まで伸びていた、住友金属工業和歌山製鉄所に出入りする貨物線を電化して旅客線に転用することになり、昭和25年に営業を開始した。これが現在見られる線形となるわけだが、東松江~北島~和歌山市のルートも北島支線として存続していた。しかし、台風で紀ノ川橋梁が被害を受けたことなどにより、休止を経て、昭和41年に廃止となった。現在でも廃線跡が感じられる箇所が残っている。

なお、住友金属工業から出荷される鉄鋼製品は、加太線・国鉄経由で各地へ輸送していた。一日2往復の貨物列車は、昭和59年の国鉄貨物合理化まで続き、これが南海最期の貨物扱い駅となった。

2013_07_09_032sy▲二里ヶ浜。カーブ上に設置された対向式ホーム。2013_07_09_034sy▲二里ヶ浜駅は有人駅で、乗降人員は少ないながらも、駅舎はなかなかの規模。

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加太紀行 〈上〉

加太、と言っても関西本線の加太ではない。南海支線の終点にある加太である。

過日、回りまわってきた南海の優待乗車券を使って、南海和歌山市から加太線の乗車を行なった。

加太線は、南海本線和歌山市のひとつ手前の紀ノ川より分岐し、紀淡海峡に突き出た突端に位置する加太へと至る9.6キロの支線だ。電車はすべて、和歌山市の発着で運転されている。日中は30分ヘッドで2両編成がワンマン運転されている。

もとは明治末期に蒸気鉄道として開業した古い鉄道で、昨年、開業百周年を迎えた。単独で紀ノ川を渡った先に駅を設置した時代もあった。のちに南海本線の紀ノ川駅へ接続する形に変更するなど、歴史的に興味深い線である。

沿線の社寺などへの観光・信仰客輸送や、夏季は海水浴客輸送もあった。終点付近に、砲兵連隊の兵営もあり物資輸送もあった。のちに述べる、製鉄所からの貨物輸送で賑わった時期もあったが、すべてが無くなってしまった今、加太線には、静かな時間だけが流れている。

以下、電車の先頭から見た、加太線の車窓だ。

2013_07_09_007sy▲南海和歌山市駅に停車する、加太線の列車。当日は7195+7969の編成。3番線が加太線の専用ホームで、加太線百周年などの説明版がホーム支柱に貼ってある。

2013_07_09_009sy▲和歌山市を出る。右一線はJR和歌山方面に向かう紀勢本線、左二線は南海本線。右下にチラッと見える渡りは、JR線と南海線を接続している。かつて、南海から南紀方面への直通するDC・客車は、ここを通って国鉄に乗り入れた。現在でも、車両工場からの南海新造車の搬入は、このポイントが使われる。

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C57144写していました

準特急様

「保存蒸機とその現役時代」シリーズを毎回楽しみに拝見しています。今回のC57144の現役時代を撮影していました。昭和44年3月5日 室蘭本線沼ノ端ー植苗間です。

室蘭本線上り客レを牽くC57144

室蘭本線上り客レを牽くC57144

C57144は昭和15年10月 三菱重工神戸製で製番314、昭和51年3月1日 岩見沢一区で廃車となっています。沼ノ端は室蘭本線と千歳線の両方が狙える場所で、石炭満載で室蘭港に向かうセキ列車やヤマに戻る空セキ列車がD51牽引で頻繁に通過し、その合間にC57牽く客レが活躍していました。ただ 列車は頻繁に通るものの だだっ広い原野には高台というものがなく、撮影ポイントを探すのに苦労したことを思い出します。本シリーズの続編を楽しみにしております。

信貴電の不思議 じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川の橋脚が

  じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川橋梁の橋脚が~~~なんと・・・・。

IMG_3774

最初の「信貴電の不思議」で書いたように大和川橋梁の橋脚が開業当初のものかどうかわからなかったのです。社史に書かれていた橋桁数が現在の橋梁と異なっていたのでわかりませんでした。ところで、例の信貴電に関する奈良県公文書の中に大和川橋梁の図面がありました。これで開業当初の大和川橋梁がどんなものかわかりました。それを簡単に図にすると下のようになります。

 開業時の大和川橋梁の図

      開業時の大和川橋梁をデハ100が王寺に向かって走っていくの図

ご覧のように王寺側の橋脚数が現在と違っています。また橋桁の高さと長さが王寺側の6連と信貴山下側の5連では違っていることがわかりました。現在の橋脚は王寺側が3本抜けているのもわかりました。そして、その橋脚が抜けたところに痕跡があるか調べに行きましたが、その痕跡はありませんでした。ところが、偶然にも他の重要なことが発見できたのです。

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保存蒸機とその現役時代(6)

神居古潭に続き、同じ日に訪問した岩見沢市のみなみ公園に保存されているD51である。デフレクターを短く詰めた晩年の北海道の機関車の姿である。どうして短くしたのか理由はよくわからないが、原形を損なっており個人的には好きになれない。

岩見沢みなみ公園は駅から東側およそ15分くらいの公園で当日は私と同年齢の老人がゲートボールを楽しんでいた。保存機はなめくじドームのD5147で屋根付きのためか保存状態は比較的良好とみた。2013.7.2 岩見沢みなみ公園のD5147↓

s-13.7.2岩見沢南公園D5147

 

同機の説明板によると前配属機関区は東鉄局高崎機関区とある。↓

s-13.7.2D5147説明板

 

鷲別区に憩うD5147[岩見沢]の現役時代。煙突にクルクルパーといわれた回転式火粉止をつけているが、デフレクターも短くされる前でこの方が好みのスタイルである。↓

s-66.9.4鷲別D5147

 

 

岩見沢みなみ公園にはもう1両のC57144が保存されている。同機もデフレクターが短くなっている。この機関車は現役時代撮影していない。↓

s-13.7.2岩見沢南公園C57144

 

C57144の説明板  同機は新製後高崎、富山を経て昭和37年頃に北海道に渡り室蘭本線等で活躍した。↓

s-C57144説明

 

人と鉄道と-乗り易い電車-

前回のサンテ・チェンヌ、中心街の停留所背後はバスターミナルで、電車とバスの結節点となっている。ふと気付いたのが連接トロリーバス。11乳母車の母親が車内の人に何か話している。やがて12白髪の紳士が身を乗り出し乳母車を受け取り、ヤレヤレとなった。子供を乗せたままの最近の乳母車、どこの国でもバスに乗せるには苦労している。ドイツに入国して季節運行のナウムブルグ市電を訪ねた。市電は駅前ではなく徒歩10分の公園前からの運行であった。路上から車内への乳母車搬入は電車でも大変である。この時は13運転手君が父親に協力していた。

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画11,12、13

画11,12、13

 

今回の探訪テーマはノンステップカーの品定めである、快適性トップはカールスルーエの3車体連接車、14形式はデユワグGT-70/Nである。快適としたのは、最後尾部が展望室構造になっていたからである。それとは関係ないが客室の床高が超低床車の中では少し高く、出入り口部に勾配が15生じる。電車の乗り場(安全地帯)とステップ先端と歩道面の段差が15㎝と大きく、乳母車に乗っている子供も16少し気にしているようだ。歩道がない道路面からだと3840㎝となる。同じメーカーであるボンの6xGe13ZR NTは、中間車の構造が異なり乗降部と道路での段差が30㎝、17,18これならご婦人でも気軽に乗り降りできる。

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信貴電の不思議 村田式台車を考察する。 その2

いよいよ問題のボギー台車の考察をしようと思う。このボギー台車は単台車と違って写真が残っている。しかし、この写真は信貴電のデハ100形のものでなく池上電気鉄道(以下池上電鉄と略称)のデハ3,4のものである。池上電鉄は現在の東急池上線で大正11年10月6日に鎌田・池上間が開通した。信貴電の開業が同じく大正11年であるが5月16日より営業開始をしているので、池上電鉄の方が信貴電より5ヶ月ほど後で開業している。池上電鉄も開業にあたり日本電機車輌に4両発注していたが開業までに完成しなかったようだ。ところが信貴電では池上電鉄が開業に間に合わなかった村田式台車をはいた同じタイプの電車が走っていたことになる。この池上電鉄の電車はしばらくして完成して納車された。この4両のうち2両は問題の村田式台車で、残りの2両はブリル27GE1であった。村田式台車はこのブリル27GE1を改造したものと言われている。この村田式台車をはいた池上電鉄の電車と台車の写真は村田式台車を考察するのにたいへん重要な資料となった。

ボギーになった村田式台車は

はじめて見た村田式台車の写真の印象は“なんとキャシャな台車やな~!”というものであった。走っているうちにバラバラになるのではないかと思ったぐらいである。その村田式台車の姿を図1に示す。

村田式ボギー台車

図1.村田式台車

図1は奈良県公文書の図面から主要部を中心に作成したものである。当時(大正時代)としては珍しい全てコイルバネを使用している。外観からの印象では戦後の高性能台車のようであるが実際はどのような台車であったのか。そして特許車台動揺防止装置は?公文書の図面と池上電鉄の台車の写真から村田式台車を考察してみようと思う。

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オーストリアのたび(その2)

インスブルックはご存知の通り2回の冬季オリンピックが開催された町で、アルプスの谷間にあって、人口は10万余りと小規模ですが、ウインタースポーツだけでなく年間を通して観光客が絶えない町です。町の交通機関はIVB(インスブルック交通局)が一手に引き受けていて、トラム、登山電車、ケーブルカー、バスと多彩な顔ぶれで市内から山まで交通網を広げています。到着した日は好天に恵まれ、まず町の北側にあり、一風変ったケーブルカーと2つのロープーウェイを乗り継いでいける、ハーフェレーカー山を目指しました。最初のケーブルカーは町の中心部に近いコングレス駅から出ていて、変った形の入り口の地下が乗り場です。途中には2つの駅があって地下のトンネルを出るとイン川を渡り、登りにかかったところで最初の駅に停まります。車両は枠に5つの客室がぶら下がるような形になっていてどんな傾斜でも客室は水平に保たれ、標高560mのコングレス駅からまずはこのケーブルカーで860mまで登ります。IMG_4259e

<コングレス駅のケーブルカー>

IMG_4206e

<終点駅は傾斜しているのでLEITNERの文字の横のピンを中心に客室が水平になっているのが分かる>

次に1つ目のロープーウェイで標高1905mまで一気に上ります。ロープーウェイの真下には九十九折の細い道があってマウンテンバイクでダウンヒルを楽しんでいる若者がいます。ケーブルカーも、ロープーウェイも自転車が持ち込みできるのがヨーロッパらしいところです。 続きを読む

駅を旅する 〈4〉

折尾

若松から筑豊本線で洞海湾沿いに走って20分ほどで折尾に到着する。筑豊本線は地上、鹿児島本線は築堤上にあり、十字に交差する。

明治24年、筑豊本線の前身である筑豊興業鉄道が開業、半年遅れで、鹿児島本線の前身である九州鉄道が開業した。当時は、現在地と違うところに、それぞれの折尾駅が設置されたが、明治28年に現在地に共同駅が設けられた。日本で最初の立体交差駅だと言われている。さきごろ解体された洋風駅舎は、大正5年建築の二代目だが、随所に煉瓦造りの連絡通路が残され、開業当時の面影が残されていた。

初めて九州に上陸した昭和42年、鹿児島本線の折尾駅に降りて、地上の筑豊本線ホームへ向かった。そこで眼に飛び込んだのが、先端の低いホームに待機するC55が朝陽に浮かぶ姿だった。C55は初めて見る形式だ。朝の柔らかな日差しのなか、ドレーンに包まれたスポーク動輪を通して向かいのホームが透けて見えるではないか-。その後、何度も筑豊へ向かわせた、原動力となった。

先述のように、いま折尾駅は、大規模な連続立体化の工事に入っている。現在駅の北側の高架上に、一体化した鹿児島本線、筑豊本線の同一ホームができる。乗り換えの利便性はウンと向上するが、私の九州への原体験でもある折尾駅は、まもなく姿を消そうとしている。

折尾IMG_0003sy

◀駅前道路から折尾駅を見通す。「荷物預所」「大衆食堂」と駅前の必須アイテムが連なる。人々の服装や道路から、なにやら終戦直後のように見えなくもないが、レッキとした昭和40年代後半の撮影。(昭和47年11月)折尾IMG_0002sy▲筑豊本線の下りホームに到着する、C5519〔若〕の牽く733レ。なお、鹿児島本線黒崎方から筑豊本線中間方へ向かう短絡線には駅がなく、同線を通る直通列車は、折尾は通過扱いだったが、昭和63年に、短絡線上にホームが設けられ、鷹見口と呼ばれている。(昭和45年9月)

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2013年 春の中国鉄路の旅 Part29 最終・総集編

第25日目 5月25日
① 興隆鎮15:45(K340次)→17:07哈尔滨19:16(T244次)→翌日7:10天津

② 天津站 翌日7:44(地鉄2号線)→8:08空港経済区(2→3→1号線)→9:30小白楼

01_切符長かった旅も終盤を迎えました。興隆鎮から乗車しましたのは、ジャムス(佳木斯)始発北京行きのK340次ですが目的地の天津を経由しませんので哈尔滨で降りて、天津を経由する哈尔滨始発の合肥行きに乗り換えます。

乗り換えまでの間は、美味しいスープ入りの哈尔滨水餃子を堪能して、北満に別れを告げました。

興隆鎮から哈尔滨までは97キロ、K340次の所要時間1時間22分、表定速度70.98km/h。
哈尔滨から天津まで1,235キロを走るT244次の所要時間は12時間54分、表定速度は95.74km/hです。
表定速度の大きな違いはK列車T列車の格付けの違いでもあります。日本でいえば準急と急行の違いですね。

00_地図1_2今回の旅の終わりは、かつて駐在した思い出深い天津で迎えることにしました。私の住んでいたころの天津は、地下鉄が北京に次いで開業した発展直轄都市でしたが、いつの間にか他の都市に追い抜かれ交通インフラはようやく最近になって出来上がってきています。
02_天津03_機内食到着後は地下鉄未乗車区間の空港経済区まで乗りました。新しくなった空港までは一区間を残すのみですが延伸はいつになるのやらまだ決まってはいません。2~3年はかかりそうです。

天津市内には高層ビルが立ち並び、疎開地の由緒ある建造物も修復されてすっかりと様相を変えています。
かつて町中にあった屋台街や青空市場はなくなりました。中国の急速な経済発展は町を変えて、思い出すらも消してしまっていました。

天津では消えた思い出を呼び覚まそうと旧友と飲み交わした後、第29日目5月29日名古屋へのフライトで帰国となりました。

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人と鉄道と-沿線の人々-

5回にわたる『人と鉄道と』は今回でお終い、沿線の人々が写っている風景です。

▼八十八夜の茶摘み、ここ静岡県榛原郡川根町・崎平地区の茶摘みは手摘みで始まり、その後機械摘みに移るそうです。気候温暖な川根茶の本場も、最近は天候の変動が大きく、殊に八十八夜前後に霜や、酷い時には氷も張る異変が多いそうです。一昨年は静岡県全体で大変な被害額に上りました。傍を走るかわね路号から、茶摘みの様子を見ることができます。
大井川鉄道、かわね路14号、崎平-青部間、2013.05.04305045

▼栃木県芳賀地区の八十八夜は田植えの季節です。機械植えではなく、一本一本手で植え付けて行きます。折から近所の益子では陶器祭りが開かれ、普段は一両編成のDCも2両編成の運行です。
真岡鉄道、2123レ、益子-北山間、2008.05.03
IMG_3011

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C57200,198,190-奥山さんの機関区巡りから(1)-

準特急さんの保存蒸機とその現役時代(5)に関連ある蒸機を、『奥山さんの機関区巡り』から選んでみました。同名のHPはC62,C61,C60,C59が済んで、次にD51,C57の順番でしたが、準特急さんの記事に合わせC57を先に編集を開始します。撮影者は1958年度生、奥山直秀さん、画像編集担当は鶴です。
▼C57200【築】 小樽築港機関区、1968.08.17
C5720001

C5720002

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保存蒸機とその現役時代(5)

函館本線神居古潭駅。そのロマンチックな名前に憧れて過去2回訪問している。神居古潭駅は1969年9月30日、函館本線滝川~旭川間の複線化、電化に伴う別ルート化により廃止された。石狩川とアイヌの伝説を秘めたこの景勝の地旧神居古潭駅付近に3両の蒸機が保存されている。真ん中の横綱がラストナンバーC57201で、露払いに29638、太刀持ちにD516を従えるように展示されている。C57201は小樽築港区時代に狩勝峠でも撮影しているが今回は保存場所と同じ神居古潭駅で撮影した旭川区時代のC57201の最晩年の姿である。ラストナンバー201号機はC57の4次形で1次~3次までのC57とはスタイルが異なり、C59戦後型を小さくした感じで人気があった。しかし、そのほとんどが九州と北海道に配置され本州では見る機会が少なかった。それでも、関西地方には190号機が和歌山から梅小路に転属され、また、198号機が亀山に配属されていたので我々関西系中高年のファンには比較的近くで目にすることができた。

2013.7.2 神居古潭旧駅付近に保存のC57201 昭和22年三菱製↓

s-13.7.2神居古潭C57201

1969.3.17神居古潭駅に進入する322列車稚内発小樽行きC57201[旭川]↓

s-69.3.17神居古潭322レC57201

名寄区で廃車された29638 大正7年小倉工場製 当機の現役写真なし↓

s-13.7.2神居古潭29638

北見区で廃車されたD516 昭和11年川崎製 当機の現役写真なし↓

s-13.7.2神居古潭D516

現役時代の神居古潭駅のC57201の写っている位置はホームが左へカーブしており、現在のホームは直線相対式で残されているので当時の札幌よりのカーブしたホーム部分はカットされたものと思われる。3両の保存機を撮影したあたりがカットされたホーム先端部分と推察したが如何であろうか。↓

s-13.7.2神居古潭3両保存機

神居古潭へは旭川駅前から沿岸バス、道北バスで25分程で到着できる。バス停から石狩川にかかる吊り橋を渡ったところが現地で徒歩10分。

 

駅を旅する 〈3〉

若松

栄枯盛衰のある北九州の駅のなかでも、若松は劇的ですらあった。石炭とともに栄え、石炭とともに凋落していった。

明治期の鉄道建設期、筑豊興業鉄道の計画では、始発駅は、当時の地域の中心だった芦屋に置く計画だったとか。それが、地元の反対で若松に変更になり、明治24年に若松駅が開業した。

以来、石炭の需要の高まりとともに、若松駅は発展し、石炭の積出港として、日本一の貨物量を誇るまでになる。昭和30年代前半に石炭の最盛期を迎えるが、スクラップ・アンド・ビルド政策の推進で、以降は、斜陽化の一途となる。しかも、港への積み出しも、油須原新線を経由する、苅田港ルートもできて、私が訪れた昭和40年代の初頭、若松駅の石炭扱い量は激減していた。しかし、石炭の最盛期など知る由もない私にとっては、広いヤード、おびただしい石炭車の群れには、石炭がまだこの国の重要なエネルギー源だと強く思ったものだ。

現在でも、若松は、筑豊本線の始発駅に変わりはないが、現実は、黒崎~折尾~直方~桂川~博多が電化され、愛称「福北ゆたか線」に一体化されて直通列車が数多く運転されている。取り残された、若松~折尾と、桂川~原田は、それぞれ非電化のまま、若松線、原田線の愛称となり、完全な別線扱いのローカル線になっている。現在ではDC2連が若松~折尾を折り返している。

昭和59年に行われた再開発で、、機関区は廃止、駅設備もウンと縮小され、一面二線の頭端式の旅客駅になった。石炭で賑わった時代を偲ぶものは、駅前広場に保存展示されている、蒸機キューロクと石炭車だけである。若松IMG_0001sy▲高搭山をバックに若松駅を発車した香月行き425レ、逆行の58694〔若〕牽引。(昭和42年3月)

若松IMG_0008sy▲石炭の繁栄を語り継いできた、大正8年建築の旧駅舎。(昭和50年6月)

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2013年 春の中国鉄路の旅 Part29 新緑の興隆森林鉄道 その4 レールバスの乗り鉄旅・後半

第27日目 5月27日
① 林鉄兴隆6:30(レールバス)→9:08東興
② 東興9:36→10:38二合10:52→11:54東興
③ 東興12:52→15:28林鉄興隆15:32(Taxi)→15:37国鉄興隆鎮
④ 興隆鎮15:45(K340次)→17:07哈尔滨19:16(T244次)→翌日7:10天津

13_東興813_東興9東興で乗り換えるはずだった小型のレールバスですが、いつに興隆から来ていたのでしょうか。追い抜かされたことはありませんので、昨日深夜か今日の早朝と思われます。
一般に知られていない運用もあるようです。

車両故障の修理部品が届かず運行不能となってどうするのかと案じましたが、急遽デルタ線で機回しの終わっていた大型レールバスを代役にバック運転で向かうことになりました。

9:36、東興を発車して奥地へと向かいます。我々に迷惑をかけないようにとの早い決断でした。
14_東興~新民3▲ 9:49、森林地帯に入りました。過ぎると右側に1971年に建設された香磨山ダム湖が見えだしました。この路線では珍しい光景です。ダム湖周りには耕作地が広がっていました。
14_東興~新民4

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