ありがとう三江線 Part3 春爛漫の廃線前日

第2日目 3月30日

三江線廃線まで残された日は、今日を入れて2日間です。求めた桜は、京都が数日前に満開になりましたが、潮温泉辺りは寒くまだ満開には至ってはいない 5~7部咲きです。しかし昨日のような快晴、初夏のような陽気が続けば一気に咲いてくれる気配を感じます。2年前のクローバー会のイベント「見納めの”三江線”の桜を見に行こうツアー」の時も同じく一気に満開となって素晴らしいツアーになりました。廃線となる最終日には花道で送り出してやりたいものだと桜満開を祈りました。

今日の日の出時刻は5:58、
江津方向に移動するとまだ暗いので最初の撮影場所は潮温泉「大和荘」前にしました。最初に狙うは始発列車の浜原発三次行きの9421Dです。

▲ 6:08 大和荘の駐車場横からのカメラアングルとしましたが道路側の後方から、我々の姿がアングルに入るので遠慮して欲しいとの声があがりました。向こうの方が早くから来ておられます。撮影場所は先着優先が鉄ちゃんルールですので、仕方なく道路後方に移動しての撮影です。

撮影後は大和荘で朝食をとってから2年前にロケハンしましたが撮り逃がした沢谷に向かうことにしました。
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 いとしのDD51 -2-

完全電化直前の東北本線

試作機DD511の実績を活かして、第二次車として2~4号が昭和38年に製造され、車体形状はやや変わりました。1号機とともに盛岡区に配属され、東北本線の旅客・貨物を牽きました。初期故障はあったものの致命的な欠陥もなく、さらに第三次車5~19号、第四次車20~27と製造が続き、昭和41年には重連総括制御の500番台501~520が製造されるなど、DD51は、量産に次ぐ量産に入っていきます。
43-10改正直前の東北本線奥中山駅、すでに架線が張り巡らされ、電機の試運転も行なわれていたが、主役はDD51の重連だった。61レ DD51 565〔盛〕+DD51 518〔盛〕牽引、最後部にD51912〔尻〕が付いていた(昭和43年8月)。

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ありがとう三江線 Part2 潮温泉へ

今回の旅の相棒は、先日の台湾でもご一緒させていただいた関東から千住のヤスベイさん、不銹鋼號さん、NETさんの3名です。ヤスベイさんとNETさんは空路で広島空港に着かれてリムジンバスで三次に入られます。一方の不銹鋼號さんは青春18きっぷで東海道・山陽本線を乗り継がれて西条に寄られてEF67をご覧になられた後、翌日は三江線を往復乗車されてから潮温泉「大和荘」で合流されます。

第1日目 3月29日

① 自宅 14:18⇒14:57 赤松 15:12⇒17:10 大佐 17:18⇒18:08 七塚原

14:18 私は自宅をぶんしゅう7号に乗車して出発、3月18日に高槻JCTと川西JCTがつながり時間短縮された中国路を三次へと向かいました。しばらく長距離ドライブをしていません。疲れてきたので約62㌔走った赤坂PA早め1回目の休憩停車です。
約15分休めば身体は復活、約234㌔先の大佐SAまではノンストップで約2時間を快走しました。約10分休んで走行再開、三次IC手前の七塚原SAで今回第1回目の給油、31.9㍑が入りました。リッター当たりの走行距離は8.36㌔、いつもなら10㌔/ℓぐらいは走るのですがエコ運転ができなかったようです。軽油価格は129円/ℓと、安い京都は107円/ℓですので、20円/ℓ程度高くつきました。

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ありがとう三江線 Part1 新聞記事(山陰中央新報・日本海新聞・朝日新聞・読売新聞)

まだ前回の旅の紀行記を書き終えていませんが、昨日まで行ってきました三江線と、日本海沿いの鉄路の桜追っかけを先に投稿させていただきます。
まずは西村さんが投稿いただいた中国新聞記事に加えてご当地、島根県の山陰中央新報、鳥取県の日本海新聞、そして全国紙の朝日新聞読売新聞をご紹介させていただきます。
▲ 最も多くのスペースで紹介されていたのは山陰中央新報です。1面はすべて三江線ラストランで占められていました。廃線翌日の4月1日にコンビニや三次駅へ掲載紙を買いに参ったのですが何処も三江線記事を求めて買われた方が多く、早朝から売り切ればかりでした。こうなったら新聞社に連絡して郵送してもらうしか方法はないなあと諦めかけていましたが、松江自動車道に入る三次東I.C近くのコンビニで見つかりました。

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 いとしのDD51 -1-

DD51、という機関車、長かった活躍もそろそろ終わりそうで、歴史を閉じようとしています。蒸機世代にとっては、DD51は、嫌われ者、憎まれ者以外に、形容する言葉がありませんでした。蒸機牽引とばかり思っていたところに、凸型の赤い車体が姿を現し、それこそ石でも投げつけてやりたいことが、一度や二度ではありませんでした。以来50年、ついでに撮ることはあっても、DD51目的で撮ることはありませんでした。でも、DD51が鉄道近代化に果たした功績を思い、活躍が終わろうとする今ごろになって、急にDD51が愛おしくなってきたから不思議です。蒸機撮影の片手間に撮ったDD51も、かなりの数になりました。本シリーズでは、蒸機と共存しながら増備を続けていた、DD51の昭和40年代の活躍を採り上げてみました。DD51の全製造数は649両だから、1号機は、それなりの価値があるだろう。おもに秋田区を根城に、羽越本線、奥羽本線で客貨を牽いていた。1号機狙いで行ったことではないが、意外に出会うことがあった。写真は、酒田で憩うDD511、試作的な要素があり、そのスタイルは独自のものがある(昭和44年8月)。

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オハフ51 5002の事故

2017年12月7日【90965】で紹介したオハフ51 5002の事故について、少し調べたので補足する。
鉄道ピクトリアル675号1999年10月号p.72「7月のメモ帳」に「7月27日江差線で脱線事故」の記事があった。そこで図書館で『朝日新聞縮刷版』1999年7月を見ると、28日に下記のとおり記事があった。この記事の右横には、TBSの記者が調布市の民家に忍び込んで入浴中の女性をビデオカメラで撮影して逮捕されたという記事があった。それはともかく、台車が脱落した珍しい事故だったらしい。写真はオハフ51 5002の後位側である。車体裾にそれほど損傷がないのは、速度が速くなくて引き摺られた距離も短かったからではないか。事故現場は現在現車がある最寄り踏切より1つ函館寄りの踏切(41.696038, 140.454778)ではないかと推定する。

▼1999(平成11)年7月28日水曜日 朝日新聞朝刊31面

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三江線だより(16) 特大号

ついに88年の歴史に幕が降りる日がやってきました。最終日に立ち会った経験は中学生の時の柳ケ瀬線廃止日と昭和44年の江若鉄道廃止日だけですが、あの独特な寂寥感はあまり味わいたくなく、三江線は遠くから見送ることにしました。予想通り中国新聞は1面トップの扱いでした。

平成30年4月1日 中国新聞朝刊

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 三江線 廃止に寄せて ③

浜原、石見川本駅を訪ねる

最初に訪れた昭和46年9月、当時はまだ三江南線と三江北線に分かれていて、江津から三江北線の終点、浜原へ向かいました。前項の第一江川橋梁で一日一往復の貨物列車を写したあと、再び浜原へ行くと、江津へ戻る貨物列車の入換えが行われていました。今回は、終点・浜原、途中の石見川本、2つの駅の新旧を紹介し、三江線の締めくくりとしました。
三江北線の貨物列車を牽いていたのは、浜田区のC56で、98、106、110、127の4両が、三江北線のほか、浜田などの入換用として使われていた。

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 三江線 廃止に寄せて ②

第一江川橋梁 今昔

三江線最終日、先ほどのニュースでも、最終列車が到着し、営業を終えたことを伝えています。さて、今から約50年前、昭和46年に三江北線を訪問したときは、浜田のユースホステルに泊まり、C56の牽く貨物を撮るため、江津から、当時の終点の浜原へ向かいました。選んだ撮影地は、第一江川橋梁、浜原のひとつ手前、粕淵の近くにあります。河原から見上げた橋梁は、なかなかの迫力でした。しかし、この10ヵ月後、集中豪雨に見舞われた三江線では、この第一橋梁が流され、長期間の不通を余儀なくされます。

現在の第一江川橋梁、架け替えられてから、40年余りが経ち、錆も出てきた。左側には歩道橋が併設されており、撮影には好都合。 続きを読む