エリトリア鉄道 2011年総集編 

エリトリア鉄道は、イタリアの植民地化により建設された鉄道です。
当初は、塩生産のために港湾都市マッサワに敷設された600mmゲージの鉄道が始まりでしたが、1888年に750mmに改軌されてSa’atiまで延伸されました。
ドイツのヘンシェル製(Henschel)の蒸気機関車7両が投入され、1926年まで在籍しました。

海抜約2,400mの現在の首都アスマラまでは、イタリアからの物資を輸送するために950mmに再改軌されて1911年に延伸されています。
左は、1930年の時刻表です。マッサワ~アスマラ間は、1往復の蒸気機関車牽引の列車が運行されています。マッサワを6時30分に発車して、アスマラには12時半に到着しています。120キロを6時間をかけて登っていますので、表定速度は20km/hでした。

▲ 当時の1等車と2等車の結構豪華な車内です。3等車は現在の板張りボックスシートだったようです。

1935年にフィアット社製のディゼル車「リットリナ」が投入されてからは、10時半~11時頃に着いたとの記事がありますので、約4時間強(表定速度は30km/h)にスピードアップされていました。

その後も延伸は続き、1922年にはケルンまで建設されました。1932年には263.7キロ先のビシアまでつながりました。最盛期には、一日30本もの運用が行われました。
最終的には狭軌のスーダン鉄道と結ぶ計画でしたが、1975年からの戦争により中断され、敷設されていたレールや鋼枕木は戦争用のフェンスとして使用されました。

駅は解体され、車両も損害を受けましたが、20年続いた独立戦争が終った1994年には改修プロジェクトが開始されて、2003年2月にはマッサワ~アスマラ間が復旧されました。しかしマッサワからアスマラへの物資や客輸送は日本等のODAで建設された道路に移行しており、エリトリア鉄道の現在は、戦前に残された貴重な950mmゲージの蒸気機関車や内燃車をチャーターして走らす鉄道ファンの撮影地となっております。

【配属蒸気機関車】
蒸気機関車は、前記のように750mm時代の7両と、950mm時代のマレー機56台を含み79台が投入されています。重連での運行もあったようで、多くの物資を積んだ貨車を牽引して、標高差約2,450mもの勾配を登っていく姿は想像するだけでもすばらしかったとろう思われます。

【現在残る車両】

▲ 79台あった蒸気機関車は、リビア等に売却されたり第2次世界大戦、独立戦争で破壊され9台が残りましたが、下記の訪問記でもお分かりのように走行できるのは約半数でした。
内燃車ツアーもあり、DLやDCがフォトランに参加していますので、走行できる車両もあります。世界でも最も貧しい国と評価されていますので、SLや内燃車の観光ツアーは外貨収入を得られる貴重な財源です。路盤のバラストも新しく、これからもツアー受け入れには積極的に対応されると思われます。

【エリトリア鉄道へのアプローチ】
エリトリアは社会主義国家で、ビザなし渡航は認められていません。ビザは、東京にあるエリトリア大使館に個人申請をする必要があります。また現地につきましても移動には許可が必要です。
そのため、今回のエリトリア鉄道SL撮影については、ドイツの旅行代理店”TANAGO”のツアーに参加しました。エリトリア鉄道以外に、中国鉄路、アフリカ等のSL撮影ツアーを企画されています。HPは下記のとおりです。ご覧ください。
http://www.tanago.de/erlebnisreisen/de/eisenbahnreisen.php

今回のエリトリア鉄道訪問記の詳細は、下記をクリックしてご覧ください。

Part  1  旅立ち
Part  2  フランクフルト中央駅
Part  3  フランクフルト交通博物館へ
Part  4  フランクフルト交通博物館
Part  5  路面電車に乗ってフランクフルト市内観光
Part  6  ICEに乗って、フランクフルトからミュンヘンへ
Part  7  ミュンヘンは、オクトーバーフェブト
Part  8  ミュンヘンの路面電車に乗って
Part  9  ミュンヘンからエリトリアへ
Part 10 希望へのエリトリア鉄道の今は その1
Part 11 歴史が息づき、文明が交差する街、アスマラ
Part 12 希望へのエリトリア鉄道の今は その3
Part 13 希望へのエリトリア鉄道の今は その4
Part 14 希望へのエリトリア鉄道の今は その5
Part 15 希望へのエリトリア鉄道の今は その6
Part 16 希望へのエリトリア鉄道の今は その7
Part 17 希望へのエリトリア鉄道の今は その8
Part 18 希望へのエリトリア鉄道の今は その9
Part 19 エリトリアからドイツへ
Part 20
帰路

ご同行させていただいたO氏より私が参加できなかった後半のツアーでの撮影写真をいただいております。
O氏のご好意により、ハイライト写真の1部を掲載させていただきます。

ご紹介させていただきました写真以外にも秀作の数々があります。フォトランではありますが、私ごときでは写せないすばらしいカットでした。O氏ご自身がお撮りになった40数年間に及ぶ鉄道写真をホームページに掲載される準備をされておられますので、完成されましたらご紹介させていただきます。

帰国後、初めてお会いした中国鉄路に残る蒸気機関車を一緒に撮りにいこうとの話が出ました。11月30日から14泊15日をかけて行って参りましたので、近日中に公開させていただきます。よろしくお願いします。

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part18  希望へのエリトリア鉄道の今は その9

第8日目 10月1

① アスマラ6:20(列車)→7:00 Shegereni8:00(列車)→10:33アスマラ
② アスマラ着後。機関区見学、アスマラ11:40(Bus)→13:00ギンダ
③ 
ギンダ(列車)→
マイ・アタル→17:20ギンダ(Bus)→アスマラ


今日は、エリトリア鉄道撮影前半ツアー最終日です。深夜にミュンヘンに戻ります。

朝は、いつものように夜明け前の出発でした。
アスマラ駅からツアー特別列車に乗車しました。今日の編成は、440式マレー機008号機+客車Ⅲクラス04号車+有蓋車+無蓋車の短編成です。
日の出を見ながら約40分をかけて、次の交換できるShegereniまでの海抜差約180mを逆行で下りました。この駅は、アスマラ到着第1日目に訪れましたループ線の途中にあります。
直通ブレーキがないため、客車側ではベテランの親父さんが手ブレーキを巧みに回して減速調整を行っていました。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part17  希望へのエリトリア鉄道の今は その8

第7日目 9月30日 その2

① マッサワ5:30(Bus)→6:15 アーチ橋7:15(列車)→9:20マイ・アタル
マイ・アタル(列車)10:44→13:02ダマス14:00→15:43バレサ
③ バレサ16:12(列車)→17:53ギンダ
(Bus)18:00→19:30アスマラ

10:44、貨車から客車に乗り換えてマイ・アタル駅を発車しました。客車は、木造車に外板を鉄板を貼り付けた車両で、車内はご覧のように木製ベンチのクロスシートです。窓はガラスはなく、木製のルーバーを引き上げてアフリカの強烈な日差しを遮断するようになっていました。乗車したのは3等車でしたが、かつては豪華な革張りシートの1・2等車もあったそうです。



▲ アテンダントさんが客車内でカーテンを付けて何やらしていると思っていましたら、昼食のバーガーが出てきました。イタリア語で言えば、”パニーノ”になるそうですが、パンがホテル同様に硬くて美味しくありません。「かんてき=七輪」は、パンにはさむ具材の卵とジャガイモを茹でるために積んでいたのですね。



▲ 13:02、マッサワからの最初の峠(海抜480m)を越えて、人家の集落があるダマス駅に到着しました。タンクローリー車が待っていて、給水が始まりました。撮影地点はこちらです。
ここでも直ぐに元気な子供たちが集まってきました。子供たちは「ペンが欲しい」と、要求してきますが、現地代理店の担当者からは、「けっして渡さないように。なぜかと言うと、全員に渡さないと争いが起こる。」と言います。確かに言われるとおりです。仕方がないので、O氏の奥さんと家内とで日本の歌を歌ってのスキンシップをとっていました。笑顔が可愛いい子供たちばかりでした。


▲ R1からは離れたダマスの街ですが、川沿いに畑も見られ、トラクターがあります。教会もありました。
列車が停車すると、子供たちが集まってきます。今度は機関士にペットボトルのおねだりです。機関士が空ボトルを投げると奪い合いが始まっていました。これがあるので、現地代理店の担当者が注意していたのですね。何に使うのか分かりませんが、廃棄物でも必要なくらい、多分何もないのでしょうね。


乾いた河川にかかるアーチ橋を渡るフォットラン用の特別列車。川底は最近、流れた跡がありましたので、たまに雨が降るようです。


▲ 蛇行する川に沿って走行を続け、15:43、マッサワから57.1キロ、海抜620mのバラサに到着しました。珍しく木々の茂ったオアシスのような駅です。かつての給水設備が無事なようで、タンクローリー車は不必要でした。撮影地点はこちらです。
子供が数人いるのですが、周りに耕作地はあっても人家はありません。どこから来たのか不思議でした。


▲ バラサを出発してしばらく行くと急停車しました。見ると、ラクダ6頭が線路上を歩いています。汽笛を鳴らしても線路上から離れません。困ったものです。放牧主が来て移動させましたが、ラクダの放牧が行われていました。ラクダといえば、砂漠を行くシーンを思い浮かべますが、ここでは荒野の丘です。鋭い針がある木の若芽を器用に食べていました。


▲ ゆっくりと渓谷を登っていきます。トンネルもあります。室内灯もなく真っ暗となりますが、ぱっと明るくなると、「キャー、ギャー」と大騒ぎです。しばらく使われていないトンネル内はコウモリの巣となっていました。明るくなると、10羽ほどのコウモリが車内に入っていました。

その後、渓谷でのフォトランがありましたが、川底で撮影を続けていましたら、現地代理店の担当者が血相を変えて、「早く岸に上がれ!上がれ!」と、川の上流を指差して叫んできます。急いで岸に上がると、上流から泥色の濁流が流れてきました。
どうやら上流で夕立があったようです。降った雨を山に溜めておく木々がない大地です。 乾いた河川が、突然の濁流となって襲ってきます。この時も深さ30~50cmはありましたので、まず歩行はできません。危ないところでした。


▲ これから先がエリトリア鉄道のハイライトですが、夕日が山へと沈みましたので、今日は撮影終了です。17:53、マッサワから69.4キロ、海抜902mのギンダ駅に到着後、バスに乗り換えて涼しいアスマラへと戻りました。左下は、途中で乗ってきた原住民家族、客扱いの正式運行はしていませんが、走る時は適当に?乗車許可させているようでした。
▲ 今夜の夕食は宿泊しているホテルのレストランでした。少しエリトリアにも慣れてきたので、ウェートレスさんからのお奨め料理を聞いて注文しました。左上はトマト入りサラダ、右上はベーコンとジャガイモのスープ、下はジィルジィル(牛肉のトマト煮)と主食のインジェラ(酸味のあるクレープ)です。メニューに記載されていても当日できないとか、それほどバリエーションがありません。グルメは今一の感がありましたが、冷たいアスマラビールを飲めましたので、十分満足しました。
 Part18  へ続く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part16  希望へのエリトリア鉄道の今は その7

第7日目 9月30日 その1

①  マッサワ5:30(Bus)→6:15 アーチ橋7:15(列車)→9:20
マイ・アタル
② 
マイ・アタル(列車)10:44→13:02ダマス14:00→15:43バレサ
③ バレサ16:12(列車)→17:53ギンダ
(Bus)18:00→19:30アスマラ

今日は、早朝5時のレストラン集合で、朝食後の5時30分過ぎにはバスに乗って、まだ真っ暗な夜明け前のマッサワを出発しました。

▲ ようやく明るくなった6:15、昨日夕方に最後の撮影をしたアーチ橋に到着しました。道路にはコンクリート橋が架けられて大型トラックも往来しますが、庶民の足は、ロバが牽く荷車です。
乾いた河川は住民の通行路でもあります。撮っている間にいくつもの往来がありました。


▲ エリトリア鉄道のマッサワ側のハイライトは、石で組まれた頑丈な最長のアーチ橋です。木の名前が分からないのですが、この木の下には長い針を付けた”まきびし”が落ちていました。靴で踏むと、ぐさりと靴底を貫いて足裏を刺します。足元に気をつけて歩きました。
約一時間の撮影タイムが終わると、昨夕同様にまた貨車に乗り換えました。


▲ 貨車内には、お湯を沸かす「かんてき」、大量のミネラルウオータ、コーラと冷やす氷も積込まれています。そして、現地人の若い21歳と25歳のアテンダントさんも乗車されて、車内は華やかになりました。この氷は、火照った身体を冷やすのに役立ち、アテンダントさんに何度もお願いして、アイスピックで氷を砕いていただきました。


▲ 線路際に昨日とは違っての難民部落が出現しました。手をふったり、走ったりの大勢の元気な子供たちがいます。家と言うより小屋やテントの様子からかなり長期間の難民生活がうかがえました。


▲ 8:20、それまで並走していたR1号線とは分かれて、灼熱乾燥地獄の荒野に入っていきました。一旦停車して、1カットの撮影です。標高はまだ海抜66mです。

8:28、再び乗り込み荒野を行きます。途中、破壊された駅舎がありました。マッサワから19.6キロのドガリ駅跡です。


9:20、先で客車を連結すると言われていたマイ・アタル駅に到着しました。マッサワから29.4キロ、海抜181m、荒野の真ん中の駅で、周囲に人家は全くありません。交換駅だったのでしょうね。ここまで来ますとマッサワとは違って、べったりした不快な高温の塩風はなくなりましたが、気温はどんどん上がっていきます。
ここで貨車から搭載物の移動です。側線には、無数の貨車が放置されていました。撮影地点はこちらです。


▲ 機回しが行われました。オープンデッキの客車ですので最後尾を望みましたが、残念ながら機関車の次の連結でした。

▲ 次は、機関車への石炭補充です。ズタ袋に入れた石炭を貨車から機関車まで運んで積みます。水は、タンクローリー車が待機していて、ホースで給水します。独立戦争前は給水設備もあって困らなかったのですが、破壊されて給水車が必要になりました。給水と石炭運びは停車する度に行われましたが、とにかく多くの人手のいる作業を人力作戦で、行っていました。この列車を走らせるために、一体何人の現地の人々がたずさわっているのでしょうか。

約1時間20分の停車の後、ようやくアスマラ方向に向けて出発しました。
 Part17  へ続く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part15  希望へのエリトリア鉄道の今は その6

第6日目 9月29日 その2

アスマラ (Bus)→9:10マッサワ

昼食後は午前中に撮ったシーンが順光でなかったのでもう一度撮ろうと引換して、再度ホテルの屋上に上がっての撮影会です。ドイツ人鉄ちゃんのこだわりは続きました。

▲ ポートアイランドからタウルド島へと向かう列車です。右のバスが走っている後方が港の駅です。

この後は、列車に乗っていくか、そのままバスで移動するのかの選択を求められましたので、ためらうことなく列車にしましたが、ご覧のとおり客車はつないでいません。2軸の貨車に積込まれて、ガタンゴトンと、ゆっくりアスマラ方面に向かいました。ここであまりの暑さに、こだわりのドイツ人が一人脱落しました。貨車内でも熱中症でダウンするスタッフも出てきたりで、過酷な環境でした。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part14  希望へのエリトリア鉄道の今は その5

第6日目 9月29日 その1

アスマラ (Bus)→9:10マッサワ

今日は、エリトリア鉄道の紅海に面した始発駅マッサワにBusで向かうので早く起きてください、5:30に朝食ですと言われましたので、気合を入れて5時前には起床して荷物もまとめてホテル1階にあるレストランに行きましたが、開いていません。こんなに早くに朝食を準備するのは従業員にとっては、ありえないことなのでしょうね。

悪びれもなく起きてきた従業員が準備をやりだしましたが、パンと牛乳、コーヒーをかけ込んでの夜明け前の出発でした。

▲ 高原に昇る朝日を見ながら、Busは、いろは坂連続の下り坂を走り続けました。途中いくつかの集落を見ましたが、砂漠地帯に入ると人家はありません。
出発する前は18℃程度だった気温はぐんぐん上がって30℃を超え熱帯の暑さがやってきました。車内冷房が欲しいところですが、原住人は慣れっこなのか、設備はあっても入れてはくれません。窓を開けて温風で凌ぐしかありませんでした。暑さに弱い私は、既に青信号点滅状態です。


▲ 9:10、所要時間約3時間、標高差約2,350mを下って、港湾都市マッサワに到着しました。気温は35度を超えて、塩っけたっぷりの浜風も混じっての、うだるような暑さで、もうタマリマセン。
昨日、山を下りて行った422式54号機がフォトランの準備を整えて、待っていました。撮影場所はオールド駅といわれるこちらです。


▲ エリトリア鉄道マッサワ側の始点は、マッサワ市内から海の道を渡ったタウルド島から、まだ先のポートアイランドにありました。ここで船から降ろされた荷物を積載して遠くアスマラへと運ぶのが、エリトリア鉄道の使命でした。

▲ ウウルド島のオールド駅の他にポートアイランドにも現在はバス停で使用されているホーム屋根のある簡易駅が残っていました。撮影地点はこちらです。ここから先は船着場ヤードです。



▲ 何回もこれでもかと、かつての最盛期の走行を再現できるのがフォトランのウリです。
停泊しているフェリーに入っての撮影や海べりのホテル屋上からの撮影も地元旅行代理店の根回しができているので全てOKでした。

ここマッサワから最盛期には、何と1日30往復もの列車が運行されていました。
しかし、30年間にわたる独立戦争では、マッサワは軍事拠点であったため、戦闘によって街の大半が破壊され、鉄道も運行を停止させられました。

左の写真、背景にある破壊された建物は、旧イタリア銀行です。四面をバルコニーに囲まれ細部の装飾にも贅を尽くされた建築でした。
これから全室スイートの高級ホテルとして復元されるらしいです。


▲ こちらも破壊された旧皇帝宮殿です。かつてエチオピアの皇帝が、海軍士官学校の卒業式のために毎年マッサワを訪れた際に使用したそうです。マッサワのうだるような暑さをしのぐため、建物は、通気をよくする広々としたアーチやドームがつけられています。建物はエリトリア政府の所有で、廃墟のまま保存されていました


▲ 一旦宿泊するホテルにチェックインしました。リゾート風に建てられた部屋は、クーラーがよく効いていてホッとしました。しばし、体力回復タイムです。
天井から蚊帳が取り付けられていました。昔、幼少期には蚊の多い京都の夏には欠かせないものでした。おしゃれな蚊帳に家内も大喜びでしたが、蚊は好きではありません。持ってきた携帯用電子蚊とりをセットしました。
昼食は、別のホテルのレストランでしたが、やはりクーラーはありません。料理は、またスパゲティですが、 ピラフもありました。久しぶりのご飯です。少し落ち着きました。   Part15  へ続く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part13  希望へのエリトリア鉄道の今は その4

第5日目 9月28日 その4
① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

【ディーゼルカーとディーゼル機関車】
ディーゼルカーは、小型1両と大型2両がいました。このツアーは蒸気機関車撮影が主でした。構内撮影が許可されていた9月28日と、10月1日の空き時間を利用して撮りましたので、両日撮影分をまとめて紹介させていただきます。

しかし、私ごとき博学ない者には、説明ができかねます。幸いにして、クローバー会には、内燃機関車の第一人者であられます 「須磨の大老」さまがいらっしゃいます。ここでは写真にとどめて、説明はお任せいたしたいと思っております。お手数をおかけしますが、よろしくお願い申しあげます。





▲ ディーゼルカー№2。車内にはカウンターが設置されていましたので、簡単な飲食が提供されていたのでしょうか。車両ドアが外開きの観音ドアだったのにはびっくりしました。




▲ 工場兼車庫を入っていきますと、ディーゼルカー№7ディーゼル機関車25Dがいました。№7の車内は、№2とは違って、一方方向にシートが並んでいました。ドアは開きませんでしたので、よじ登っての撮影です。転換クロスなのか分かりません。25Dには、「FRIED.KRUPP 1957」の銘板がありました。



▲ 車庫に入ってすぐに会った、なぜか愛らしい小型ディーゼルカー№2、多分作業用に使用されたのでしょうね。


▲ 大型ディーゼル機関車27D、これもクリップ製ですね。1957年製造のようですので、1番新しい機関車なのでしょうか。

以上が、軌道や車庫にあった内燃車両です。ホテルに帰るのでバスに乗るよう指示がありましたので戻ると駐車場端にトラックに乗せられたDLが2台ありました。少し待ってもらって撮りに走りました。

▲ 銘版を見ますと、1937年とあります。構内用に使用されたものと思われます。これから修理にでも出すのか、それともどこかに持っていくのか分かりませんでした。

今夜の夕食は何だろうと思っていましたら、ホテルから歩いて近くのイタリアンレストランに行きました。席に座ると、メニュー表を渡されて好きなものを注文してくださいとの事です。
日本のツアーと違って、既に注文されている食事を食べるのではなく各自の好みに任されていました。と、言ってもメニューはパスタかピザぐらいしかありません。適当に別々のピザを注文して、皆で回して食べました。
途中で外に出てみますと、街中を散歩する人がたくさんおられます。イタリアでは夕食後に街をそぞろ歩く習慣があるそうですが、アスマラでも同じような習慣が継承されていて、住民たちから「アスマリーノ」と呼ばれているそうです。

植民地として支配されていた国の文化が受け入れられたのは、搾取や争いが起こったイギリスやエチオピアと違って、イタリアは道路整備や都市計画などの街づくりや職業訓練を行い、産業を残したからと考えられています。また歴史的にも古来から様々な文化が交差する土地でもありました。それぞれの文化を柔軟に取り入れる国民性は、現在にも受け継がれてきているのでした。

貨車と客車につきましては、 乗車もいたしましたので、その中でご紹介させていただきます。   Part14  へ続く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part12  希望へのエリトリア鉄道の今は その3

第5日目 9月28日 その3
① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

アスマラ駅に着くと、ツアーの皆さんも市内観光でストレス気味だったのでしょうか、飛ぶように機関区に向かわれていました。


▲ アスマラ駅の航空写真です。ご覧のように蒸気機関車の車庫・修理等を行う工場と、ディーゼル車と機関車の車庫・工場とは駅の左右に分けて設置されていました。

エリトリア鉄道は、かつてアスマラが終点ではなく、この先まで遠く延伸され、隣国の鉄道と結ぶ計画まであったそうです。上空からアスマラ以降の路線跡を探してみましたが、独立戦争等で破壊され痕跡が見つかりません。市内を移動している時に線路跡を1部見ましたが、街中を走るマレー機の姿を見てみたかったですね。
ただ、アスマラから延伸された104km地点のケレン駅は、典型的なイタリア建築物として、大切に保存されているそうで、駅は現在、バスステーションとして使用されているようです。こちらに案内があります。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part10  希望へのエリトリア鉄道の今は その1

第5日目 9月28日 その1

① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

アフリカの東部『アフリカの角』 と呼ばれる部分に位置するエリトリアは、日本の企業がはじめてアフリカに進出した国(当時はエチオピア領)でもあります。1960年代に、銅鉱生産のために鉱山会社が進出しました。
( ※ 地図は、財団法人 愛知県国際協会で発行された ”世界の国を知る・世界の国から学ぶ わたしたちの地球と未来 -エリトリア-” からの転載です 。)

1890年にエリトリアは、公式にイタリアの植民地となりましたが、それ以前にイタリアが一方的に植民地宣言してより、紅海に面した港湾都市マッサワからの鉄道建設が1887年に始まり、1991年首都アスマラまでが開業になりました。東アフリカでは最も早く建設された鉄道でした。

マッサワからアスマラまでの直線距離ではわずか約60キロですが、アスマラは海抜約2,350mもあり、鉄道建設工事は難業を極めました。30のトンネル、65もの橋梁が必要で、建設資材や車両は1869年に開通したスエズ運河を通って運ばれました。赤線がエリトリア鉄道の路線です。
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