関センセの遠州鉄道二俣線木製モハ1型が出た。この線に関しては乙訓ご老人が、古くは1960年の急電101号に「遠州鉄道二俣線」、その38年後の1998年には「ちょっと電車を見に行こう―元気印の遠鉄二俣電車線」として、鉄道ピクトリアル657号に書いて御座るから、須磨老人の出る幕などない。しかしそれでも1958年に何枚か撮っていることを想い出し、5コマだけ諸賢のご笑覧に供することにする。撮影はいずれも1958年8月3日。
関センセもお書きの通り、この線は大日本軌道浜松支社、軌間2呎6吋の蒸気軌道であった。1919年遠州軌道に譲渡後、遠州電気鉄道として1923年4月1日3呎6吋に改軌・電化されたが、その日で一旦軌道を廃止し、同日地方鉄道として開業という手続きを踏んでいる。1943年遠州鉄道に。
浜松鉄道(戦後合併し遠州鉄道奥山線)とは板屋町で接続し、極度に狭い市街のため国鉄浜松駅には達し得ず、かなり手前の遠州浜松を始点としていた。遠州馬込まで0.7kmを1924年2月1日延長し、2呎6吋、軌道のままの仲ノ町線と接続した。しかし浜松駅とはかなり離れているため、遠州馬込-旭町(浜松駅前だが国鉄駅とは接続なし)間を3呎6吋に改軌しなお馬込は国鉄浜松駅のヤード東端北側で、貨物受け渡しはここでやっていた。
旭町の本格ターミナル化は1927年9月で、晴れて電車が浜松駅前発着になったが、それも一旦東進して馬込でスイッチバックし、改めて西北に向かい、遠州浜松から北東にという運行は戦後も長らく続いた。この区間は30分毎だが、仲ノ町線の単端式ガソリンカーが実に15分ヘッドのため、電車の合間にその0.7kmのみ、日車製双頭スタイル(両方にボンネットを突き出してはいるが機関は1個、当然逆転機あり)30人乗りガソリンカーレカ1が終日ピストン往復していたのである。旭町の新浜松への改称は1953年8月1日で、その後周知のように新浜松は高架化され、馬込での折返しもショートカットで消滅している。
























