そろり、ゆっくり、活動再開  【4】

夕景求めて 近くでチョイ撮り 京都編(2)

嵐電だけでなく、もうひとつの叡電も、最近、よく行っています。先日紹介の鞍馬線の不通区間の偵察のあとも、夕景の撮影に三宅八幡まで足を伸ばしました。同じところへ何度も行くものと、自分でも感心しますが、季節によって、日没の時刻・方角が異なります。時刻は違っても、電車はたくさん来ますから、ベストなタイミングをはずすことはありません。ただ、方角が違うと、太陽の位置によって、車両への陽の当たり方、シルエットの場合の抜けが違いますし、背後の空・雲の様子も異なります。地図である程度の予想は立てられるものの、やはり現地へ足を運んで、微妙な変化を感じ取ることが大事だと思っています。日没後のブルーモーメントの時間帯、最近のお気に入りは、鞍馬線の高野川鉄橋、三宅八幡方から河原まで降りて、日没後の時間帯にシルエットを狙ってみた。本数は多いが、ここは単行限定で、“抜く”ためには出町柳行きに限られるから、ベストタイミングは1本しかない。右手はホームセンターの敷地で雑然としているが、低く構えると建屋が隠れて、杉の木だけになる。

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 そろり、ゆっくり、活動再開  【3】

夕景求めて 近くでチョイ撮り 京都編(1)

「そろり、ゆっくり」投稿再開します。その後も魅力的な激安切符が各社から続々と発売され、食指が動かされます。ただ、なかなか遠出する気は起こらず、相変わらず、近隣の外出に留まっています。気に入った撮影地で、季節、時間帯を変えて撮り、その変化を感じ取りたい。これこそ鉄道写真の魅力と思うようになり、最近はもっぱら夕景狙いで出掛けています。前に見たようなネタばかりですが、最近の撮影を振り返ることにします。

京福嵐山線は、ほぼ東西に向いて線路があるから、夕景狙いにはちょうど良い。とくに、山ノ内付近の三条通の併用軌道は、真西に向かって走り、正面ギラリが期待できる。ただ、三条通はクルマの通行が多く、決まってジャマされる。そこで、経済活動も停止した、緊急事態宣言を千載一遇のとらえ出掛けてみたが‥‥。

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ぶんしゅうさんが出展されている写真展を見てきました

大阪天満橋OMMビル1F「リコーイメージングスクウェアー大阪」で開催中の第8回火車撮影家集団写真展「死んでも遺したい私のベストショット」を見てきました。会場に行くとぶんしゅうさんもおられていろいろお話をお聞きしました。毎回出展されているのですが、今回はコロナの影響で当初春に予定されていたものが、この時期に延期となったそうです。また、コロナの事もあるので皆さんにはお知らせしなかったとのことで、当会からの見学者は初めてだと言われていました。
ちょっと過激な題ですが50年前の蒸機の写真から最近のものまで、国内外のすばらしい写真が展示されています。会期は10月12日までです。(10:30~18:30/最終日16:00まで)
お近くに来られた折にでも寄ってみられればいかがでしょうか。

重文になった鉄道車両ー3

今回は233号機関車となります、製造初年は1903年初めて国産の量産に成功したようです。京都鉄道博物館に展示中とあります。大阪も京都も何度か行っていますが、つい馴染みのある車両に目がいってしまっていました。

下之一色線車庫界隈

保存蒸機D51777は保存機の中では良好な状態であり光線具合もまあまあであったがそれだけではだめで残念賞であった。同じ刈谷市の公園内の名古屋市電に話題が移ってしまった感がある。これはたまたまその保存市電名古屋市1600型と同型の下之一色線の姿を載せたところ京都市の伏見線と対比されたりして興味を持たれたこともあるようだ。私などは伏見線など沿線の歴史に興味ある路線も京阪の中書島に急カーブして出入りする姿を見ただけでその後総本家さんの秀作を見て「しもた!撮っといたらよかった」と悔やんでいる次第である。

紫の1863さんに教えていただいた津島軽便堂写真館というのを拝見したが、その当時高校生であった方が何とカラーで沿線を紹介されておられる。私も訪問した下之一色車庫あたりを改めて白黒で発表してみた。いずれも1968年11月8日の撮影である。同線は下之一色電車軌道として1912(大正元)年に設立され翌年尾頭橋ー下之一色間を開業。1937(昭和12)年名古屋市に買収された。廃止は1966(昭和44)年2月である。場所は名古屋市中川区にある。

 

全線6.5Kmの単線であり、途中この様に列車交換を行っている。▼

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昭和の電車 改訂版(114)ー東武クハユ299号ー

前回の投稿では、乙訓の長老様と村樫四郎様の会話で盛り上げていただきました。
お話に出ていた「配置表」は無事村樫様のお手許に着いたのでしょうか?遅ればせながら心配になりました。

 叡電鞍馬線 不通区間を歩いて見る

本欄でも、2年前の広島豪雨の爪痕が残る山陽本線を行く、観光列車「エトセトラ」のレポートが西村さんからありました。ことし7月にも豪雨があり、肥薩線、久大線などの沿線では、復旧半ばの様子が報道されています。実は、京都でも、この7月の豪雨で不通になったまま、開通の見込みすら立っていない叡電鞍馬線があります。7月8日の早朝、二ノ瀬~貴船口で土砂崩れが発生したもので、復旧作業にも着手できず、現在、鞍馬線は、市原で折返し運転、以降は京都バスによる振替輸送が行われています。現場の様子が気になっていましたが、先日、歩いて現地を訪れることができました。土砂崩れの現場、鞍馬線貴船口から二ノ瀬寄り約400mのところで発生した。(ネットニュースから転載)

このため鞍馬線は市原止まり、市原~二ノ瀬~貴船口~鞍馬は、京都バスによる振替輸送が行われている。市原に到着した電車は、「出町柳」を出して折り返すが、ダイヤに変更はない。 続きを読む

“etSETOra”と”SEA SPICA” 続報

観光列車「エトセトラ」とJRのクルーズ船「シースピカ」の運行初日の様子をご紹介しましたが、特に「エトセトラ」は運転日が増え、ルートも変わったことから、新たな撮影ポイントでの姿をカメラに収めようと、あれこれ思案中です。

令和2年10月4日 本郷・河内間 下畑橋にて 下り「エトセトラ」

10月3日に本郷・河内間で撮りましたが、翌日は更に沼田川(ぬたがわ)をさかのぼった地点で待ち受けました。この辺りは「船木峡」と呼ばれ、沼田川がV字谷を形成している場所です。2年前に広島県を襲った豪雨災害で、この本郷・河内間は何ヶ所も道床流失や土砂崩れが発生し、数ヶ月間不通になっていた区間です。山陰迂回貨物列車が走ったのもその時でした。この下畑橋は軽トラックがかろうじて通れるだけのきゃしゃな橋ですが、橋脚1基と橋桁2連が流され、2年以上が経った今も無残な姿をさらしています。中央の橋脚3基は船の舳先を上流側に向けたような断面をしており、この川が急流であることを示しています。発災日からかなりあとになって、流されてきた乗用車がこの橋脚にひっかっているのが見付かり、中から1人の遺体が発見された場所でもあります。同乗者の遺体は今も見つかっていません。濁流によって瀬戸内海まで流されたのではという話もあります。ここよりもう少し下流側に新しい橋が架けられており、いずれこの下畑橋は姿を消すことになるでしょう。「エトセトラ」の車窓からこの橋の存在に気付いた乗客は何人おられたでしょうか。

さて翌10月5日は「エトセトラ」の平日ダイヤ初日でした。休日ダイヤより約40分あとに設定されています。先に投稿した記事の中で、平日ダイヤでは本郷で「エトセトラ」が中線に退避して普通列車の337Mに追い越されるのではと書いてしまいましたが、私の予想間違いでした。少し早めに本郷駅に着き、職員のいない時間帯なので改札口はフリーパスなのですが、真面目に入場券を買って入場し「エトセトラ」を待つことにしました。予想に反して14:48に勢い良く通過してゆきました。西条発が15:30と公表されていますが、西条の下り線ホームは1線しかなく追い越しはできないので、多分一つ手前の白市で運転停車し、後続の337Mに追い越されるのだろうと前言を訂正します。後日白市へ確認に行ってみようと思っています。

令和2年10月5日 本郷駅を通過する下り「エトセトラ」

次回は糸崎・尾道方面に出かけてみようと思っています。

 

そろそろ、ゆっくり、活動再開【鉄鈍爺の巻】

コロナ過で外出の機会もメッキリ減り、カメラさえ重く感じる始末です。
久しぶりに、ニーナ(EF66-27)が順調に運用を重ねていたので、撮影してきました。
丁度、レール輸送(8090レ)も見られ、日曜でウヤが多い中、満足感が得られました。

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”etSETOra”と”SEA SPICA”

「GO TOトラベル!」の掛け声のもと、コロナのことを忘れたかのように観光キャンペーンが花盛りの昨今です。広島県では「せとうち広島デスティネーションキャンペーン」の一環として、JR西が観光列車”etSETOra”(エトセトラ)と高速クルーザー”SEA SPICA”(シースピカ)を目玉にして、それぞれの運行を開始しました。我が三原市の広報紙10月号の記事をご紹介します。

令和2年10月1日発行 「広報みはら 10月号」より

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昭和の電車 改訂版(113)ー近鉄モ6301型ー

近鉄は“大私鉄”であることを思い知らされることがあります。
このシリーズで、大阪線や南大阪線・吉野線当たりまではコメントが来ますが、青山高原を東へ過ぎるととたんにコメントがなくなります。
今回は近鉄の“東西混成編成”です。
コメントや、いかに!

保存蒸機とその現役時代(43)

愛知県刈谷市の交通児童公園(駅から徒歩10分)に保存されているD51777。1944(昭和19)年9月大阪の汽車製造会社製造で製造番号は2260。履歴の概要は多治見→米原→多治見→名古屋→中津川とあり名古屋鉄道管理局管内で一生を終えた様である。廃車は1972年9月である。

屋根付きで綺麗に保存されていた。ナンバープレートは青の中津川色である。名古屋は赤ナンバーが有名であるが私の好みは緑である。撮影は2012年12月26日▼

 

続いてその現役末期の頃で1971年9月24日上松駅出発の下り貨物列車の姿である。この日はDRFCの諸氏と寝覚ノ床が見える旅館で1泊した覚えがある。▼

 

蒸機の保存地にはよく市電などが近くに保存されている。これは名古屋市交通局1603号で1951(昭和26)年11月日本車両製造であるが、詳しいことはわからない。▼

季節のご挨拶(Season’s Greeting)

あんなに暑かった夏も終わり、早、10月となりました。皆さん如何お過ごしでしょうか。私は熱中症やコロナで悩まされた後期高齢者、基礎疾患持ちですが、今度はインフルエンザの準備も必要です。さらに腰椎滑り症で1日8000歩歩けと言われ、それならと近場の線路際まで散歩しています。先日9月28日は富士山の初冠雪でしたが、その日に撮った京王ライナー2代目5000系です。後ろにかすかに見えるのが富士山です。

3Dプリントのススメ

若者もす3Dプリントを致すべく”Ender 3”なる機械をポチりけり。
(てな『変な調子』は止めます:苦笑)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㊱

早岐機関区(3)  C57

36回続けてきた九州の蒸機、いよいよ最終回は、いちばん紹介したかった「早」のC57となりました。多くの蒸機形式のなかで、軽快でスマートな印象のC57、そのキャブに輝く「早」は、蒸機と区名板のイメージを見事に体現した組み合わせと言えるでしょう。

早岐区のC57は、初めて訪問の昭和42年時点で、13両がいました。働き場所は、長崎本線、佐世保線、大村線の旅客の牽引でした。この時、優等列車の牽引は、前掲のC11は特例としても、ほとんどDD51に替わっていましたが、一部の定期、臨時列車は、鳥栖区のC60、早岐区のC57を牽くことがあり、まさに「早」に相応しい舞台が残されていました。

 

初めて訪れた昭和42年の春休み、鳥栖の外れで写していると、長崎行きは鳥栖区のC60、佐世保行きは早岐区のC57に牽かれて通過して行く。写真は、早岐区のC57 158の牽く京都発佐世保行き「平戸」。特急列車は、長崎、佐世保行きは併結されていたが、急行は別立てでの運転で、旺盛な旅客需要があった(昭和42年3月 以下特記以外同じ)。

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昭和の電車 改訂版(112)ー京阪500型ー

この500型に関しては西村さんのレポートが出ておりました。

京阪500型の思い出

重文になった鉄道車両-2

重文になった鉄道車両-2は123号機関車です。最後は「加悦SL広場」でも展示されていたようです。

昭和の電車 改訂版(111)ー国鉄モハ43型ー

モハ43型の晩年の活躍を、例によって藤本哲男さんの寄稿でご覧下さい。

急電用モハ43形

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉟

早岐機関区(2)  C11

早岐機関区に配置されていたC11は、昭和42年当時、6両あり、運用は、松浦線の旅客の牽引、これは佐々区のC11と分担していました。そして、前稿でも紹介した佐世保~早岐の小運転でした。小回りが利くタンク機に相応しい運用と言えるでしょう。その代表が、何と言っても、特急「さくら」佐世保編成の牽引でしょう。今までも本欄で紹介しましたが、DD51が本務牽引ですが、早岐で逆向になるため、本務機を機回しすることなく、C11が前部に付いて同区間を牽引する訳です。佐世保の構内は狭くて留置線もなく、編成はすぐ早岐に戻るため、客扱い前後の回送も含めると、2往復のC11「さくら」が見られました。地上駅時代の佐世保で発車を待つ C11 194牽引の東京行き「さくら」。昭和40年10月改正から、昭和43年10月改正までの3年間見られた。右は到着した呉発佐世保行き「出島」。(昭和42年3月)

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保存蒸機とその現役時代(42)

今回は何れも後ろ姿である。保存機は地元で保存会を結成したり定期的に清掃やメンテを行っているものもあるが、その多くはいたずらや部品の盗難にあっているようである。このⅮ51245は正面と炭水車後部照明が盗難にあってなくなっている。よく見ると給水温め器のカバーもない。そのため後ろ側から撮った結果、炭水車がバカでかくなってしまった。場所は元の信越本線、現在のしなの鉄道の坂城とテクノ坂城の中間で坂城町文化センターの武道館裏のわんぱく広場である。撮影は2018年7月22日の暑い日であった。しかし、ここは坂を下りていくと近くを走るしなの鉄道を併せて撮影することができる。それにしてもわんぱく広場という名前は保存地にふさわしくない。なお、坂城駅横に169系電車が保存されているのでそれも追加添付した。169系は国鉄急行電車165系の派生型で横軽対策された信越線ゆかりの車両であるがこの保存車輛はしなの鉄道にも譲渡されて活躍していた。

 

D51245は1939(昭和14)年9月、国鉄浜松工場で製造され製造番号は36。新製後、浜松、金沢、敦賀、福井等北陸本線沿いで活躍、1962年に上諏訪に転属、その後稲沢を経て1966年に中津川所属となり中央本線で活躍した。1973年7月に廃車されている。▼

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