やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉒

宮崎機関区(2)

つぎは宮崎区のC57へ移ります。宮崎区のC57といえば、半年間だけ返り咲いた急行「日南3号」の牽引復活や、お召を三日間にわたって牽引したことなど、後年は、華やかな話題を提供しました。いずれも昭和48年のことで、私はもう社会人の頃で、どちらも行くことが叶いませんでした。今となっては行っておけばと思わないでもありませんが、当時は、“お召だけ”、“C57急行だけ”で宮崎まで行くと言う発想はありませんでした。それだけ、昭和42年から毎年訪れて、美しいC57とともに過ごした時間は悔いを残すことのない、充実した時間でした。

C57

C55を置き換えるため、大分区などから転入した。昭和42年には、C55が14両、C57が4両だったものが、同43年にはC55が8両、C57が10両と逆転し、翌44年には、C55を一掃し、C57は17両と増えて、その時点で日本一のC57配置区となった。以降も昭和46年までの3年間、顔ぶれに全く変化はなく、C57王国を築いた。ナンバーも、若番の4号から、ラストに近い199号まで揃い、とくにC59似の四次型(190号以降)が4両配置されていた。その後、東北からC61が転属し、C57は次第に減少、最後は昭和50年3月の「さよなら列車」で、日豊本線の蒸機に終止符を打ちました。

大淀川橋梁を行くC57、朝と夕方にさまざまな表情を見せた。川沿いにはユースホステルもあり、食事後にゲタを履いて撮りに行くこともあった。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉑

宮崎機関区(1)

また投稿が途絶えてしまいましたが、《区名板》めぐりを再開します。つぎは宮崎区へと行きます。宮崎にも砲金製の区名板を装備したC55・C57がいて、「宮」に相応しい高貴さを漂わせていました。私が初めて訪れたのは昭和42年、この時はC55が幅を利かせていて、臨時急行を牽く姿も見られました。この時は機関区で撮影するだけで、本格的に走行中を駅間で写したのは、その翌年、宮崎にこだわりを持つI原さんと現地で合流し、田野へ向かったものでした。まずは形式別にC55から見ていくことにします。

C55

昭和42年の宮崎区の配置は、C55が14両、C57は4両で、C55の配置区としては、いちばん多く、文字どおり“C55の牙城”でした。仕業は、南延岡~宮崎~鹿児島で、旅客だけでなく、貨物も牽引していました。

宮崎区のC55には、流線型改造機が多かった。その特徴は、キャブの出入り口(寒冷地ではないため扉は撤去していた)と、下の“ヒレ”と呼ばれる三角形の突起で、砲金製の区名板とあいまって、宮崎区のC55を印象づけていた。雨の田野~門石(信)、清武川橋梁を行くC55の牽く貨物列車(機号不明)。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑬

 “散歩鉄”で 電機を撮る(2)

青空に似合う電機は?となると迷わずEF510を上げたい。19.5mの長い大きな車体、胸の張った前面、ドイツで見た赤い電機101形、111形を思わせる電機で、東海道線で赤い交直機が見られるのも、この区間ならでは。正面勝ちに青空を大きく入れて、その魅力に迫ってみた。長岡京~山崎

雨がもう一週間以上降り続いています。九州の鉄道も大きな被害を受けましたが、地元、叡電鞍馬線の貴船口付近でも土砂崩れが発生し、復旧までには相当日数掛かる見込みです。叡電は2年前の台風でも大規模な倒木、土砂流入で長期間不通になりました。やっと復旧したと思ったら、その傷跡がまだ癒えないうちの災害で、鉄道事業者の落胆はいかばかりかと思います。ここしばらく“散歩鉄”も出かけられず、自粛期間以上に家で籠ることが多くなりました。青空のもとで、気ままに貨物列車を撮っていた、つい先週までの行動様式に早く戻りたいものと、今回は、良い天気の下で各種の電機が牽く貨物列車見てもらいます。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名版》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区(3) 8620 & 肥薩線川線をカラーで偲ぶ

人吉機関区の蒸機としてD51、C57を紹介しましたが、地味ながらも、もう一形式がありました。それは8620で、つねに2両が区に配置されていました。おもな運用は、湯前線の貨物牽引で、人吉~湯前を一日3往復していました。ほかには人吉駅での入換が仕事で、2両はデフ付き、パイプ煙突と、地味で目立たない8620でしたが、なんと、そのうちの一両が、現役復帰して「あそBOY」「SL人吉」などを牽くことになる58654なのです。そして、もう一両も来歴を調べていくと、今回と同じように球磨川の増水、土砂流入で土砂に埋まるという、今回と同じような災害に見舞われていたことも分かりました。夜の人吉機関区で憩うハチロク ちょっと不似合いな大型の切取り式デフ、パイプ煙突と、どちらかと言えば冴えないスタイルだが、なんとこのカマがJR九州の復活蒸機であり、「あそBOY」「SL人吉」を牽く58654の50年前の姿 昭和46年12月(以下同じ)

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑫

 “散歩鉄”で  電機を撮る (1)

5087レが近所を通過するのは14時前後、ちょうど昼食後の腹ごなしに格好の列車だ。しかも貴重なEF65が牽くとあって、昼前の天気予報と“貨物ちゃんねる”の牽引機チェックが日課となった。山崎~長岡京

少し前までの外出自粛の期間、日課となったひとつが“散歩”でした。最初は家の周囲を黙々と歩くだけでしたが、同じ歩くなら、趣味活動も兼ねた散歩にしたいと、近所の東海道本線まで行って、撮影もすることにしました。ターゲットは電気機関車です。この時期ですからイベント列車こそ走りませんが、通常の混載コンテナを牽く貨物は運休もなく走っており、専用コンテナ列車や、レール運搬、新車の輸送など、電機の牽く列車は多彩です。
さすがは天下の東海道本線、時間帯によっては、1時間もいれば、お腹いっぱいになるほど多くの電機を撮ることができて、散歩途中の撮影としては最適な対象です。基本的に歩いて写すか、入場券を買ってホームで撮るか、乗車しても最低運賃の範囲内で撮影するかのいずれかで、この一ヵ月前後の東海道線の電機の現況を綴っていきます。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区 (2)  C57

人吉には、もうひとつ注目すべきC57がいました。前記のように、肥薩線の人吉~八代、球磨川に沿った“川線”と通称される線区で、旅客、一部の貨物も牽いていました。“美しき南九州のパシフィック”などと賞賛されるC57です。その両数においても宮崎区のC57を指す言葉でしょうが、その影に隠れて、黙々と客貨を牽いていた人吉区のC57のほうに、愛着を感じていました。昭和45年時点で、7両いたC57ですが、砲金製の区名板、手入れの行き届いた機体、そして、番号ごとに個体差があって、“何番”と言うとすぐに姿が思い浮かぶのもC57の良さでした。八代~人吉は昭和48年3月改正でDL化が完了し、C57は撤退しています。

夜行鈍行1121レをC57 9が牽いて一勝地で交換列車を待つ。ひと桁ナンバーのC57は貴重で、特に憧れを持った。門司港区の時代は「かもめ」も牽いた。昭和44年3月

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑲

人吉機関区 (1)

《区名板》シリーズの象徴のような機関区です。「人」の文字から、「蒸機は、もっとも人間に近い機械」の常套句を思い出し、何とも暗示的です。しかも実際に区名板を見ると、通常は鉄板にペンキ書きに対して、人吉区のものは、大部分が砲金製の特注で、しかも、書体は、隅丸ゴシックの国鉄書体ではなく、楷書体であり、その品格が、より強く感じられます。この砲金製は、鹿児島工場へ入場の際に取付けられたもので、近隣の鹿児島、吉松、宮崎でも見られますが、「人」だけに、そのインパクトは他区の比ではありません。金文字の「人」を付けた蒸機の顔ぶれも、肥薩線という特徴ある線形に適した、手入れの行き届いた、独自の蒸機ばかりでした。

人吉駅で発車を待つ589レ 牽くのは「人」のD51 545 人吉のD51は、重装備の蒸機の代表でもあった。昭和45年9月 

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑱

吉松機関区 (2)

吉松には、前回のC55以外にも、C56、D51が配置されていました。C56は、栗野から分岐する山野線の貨物を牽引、D51は吉都線の客貨の牽引でした。付近では、矢岳越えの重装備のD51が有名でしたが、これは人吉区のD51が担当しており、吉松のD51が矢岳越えをすることはありませんでした。

蒸機の時代が終わってから、何度か吉松を経由することがありましたが、列車の接続が良すぎて、ホームで1分接続で乗り換えるため、途中下車すらできずに、50年近くが経過しました。しかし、2年ほど前に、待望の乗り換え時間が発生し、やっと下車して、機関区跡や駅前をゆっくり歩くことができました。機関区の跡は、広大な空き地となり、煙と人が渦巻いていた駅前は、静かな山里に還っていました。駅前に保存展示してあったC55 52は、国鉄OBの手でキレイに整備されて展示されているのが、慰めになりました。

機関区は駅の横にあって、広くて、ゆったりした構内だった。ホームからも蒸機の動きがよく見えた。 続きを読む

 やっぱり蒸機が好き!  《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑰

吉松機関区

九州の機関区巡り、鹿児島本線を南下してきましたが、これまで「鳥」「熊」「鹿」と意味ありげな札が続きました。これから鹿児島・宮崎を北上し、「吉」「人」「宮」と、また由緒正しき機関区を回っていくことになります。肥薩線にある吉松、吉都線も分岐する吉松は、街そのものは小さな街ですが、海岸周りの現在の鹿児島本線よりも先に肥薩線が開通し、九州の鉄道の要衝としての歴史を歩んできました。
“蒸機”という乗り物を意識した昭和30年代の後半に、いちばん憧れたのはC51でした。昭和39年の車両配置表を見ると、14両が残っていて、配置されていたのは、吉松をはじめ、新津、亀山、梅小路、米子、鳥栖と、蒸機とともに歩んできた、名だたる機関区ばかりでした。以後、吉松は憧れの地となりました。初めて訪れた昭和42年に、もうC51はいませんでしたが、C55、C56、D51が配置されていて、矢岳越えを終えた、人吉区の重装備のD51も休む区として有名でした。明治時代に建設された、山越えルートの鹿児島本線(のちの肥薩線)をトレースして走る伝統の夜行鈍行1121レは、吉松で向きを変え、都城へ向けて最後のコースを走る。先頭に立ったのは、流線型改造のC55 26だった。 続きを読む

 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑪

京福嵐山線、夕方の「車折神社」、駅の赤い柵、神社の木々、背後の愛宕山、そんなシーナリーが好きで何度が定点撮影しているが、当たり前の風景のなかに、人が戻ってくると、鉄道はさらに活き活きとしてくる。
前稿でも記しましたが、この時期は、日没の方位が300度ほどあって、太陽が北側から射し込みます。と言うことは、通常は逆光の場合も、半逆光で陰影のある写真も期待できます。形式写真で高名な鉄道写真家は、各部に光が回るためには、時間帯だけでなく、季節も熟慮して、機関区で撮影を行なったと聞きます。ほぼ東西に走っている嵐電は、この時期にしか撮れない写真もあるはずと、以前の撮影地に“復習”に出掛けました。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑩

先週、自粛後に初めて梅田へ行って来た。ほかの府県へ行ったのは約二ヵ月ぶりだった。いつもと変わらない人出で、賑やかな街は、年寄りが行ってもやっぱりいいものだ。活動自粛のあとの初撮影は、今までの撮影の勘を取り戻すための“復習”として、梅田から十三大橋を歩いて渡り、淀川の右岸にやって来た。梅田のビル街をバックに、トワイライトタイムの阪急電車の撮影から復帰することにした。

やっと日常生活が戻って来ましたね。皆さんも活動を再開されたことと思いますが、私も先週あたりから、巣籠もり生活を終えて、そろりと活動を再開しました。“新しい生活様式”が求められていますが、私の場合は、以前と変わりません。公共交通と自分の足だけで撮影地に向かい、自分の求めるテーマだけを撮って、すぐ戻る、年齢に応じた活動ですが、やっぱり外はいいですね。本日から府県を越えた移動もできるようになりましたが、すぐに遠方とは行かず、もっぱら今までも行ったことのある近郊の撮影地へ“復習”に行っています。自粛後の“こんな時こそ”シリーズを二ヵ月半ぶりに再開することにしました。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑯

鹿児島機関区(3) B20 8620 C12 C56 C57

鹿児島機関区の残りの形式をご紹介。もうひとつ鹿児島区のアイドルは、何と言ってもB2010でした。いまでは、京都鉄道博物館に保存されている同機ですが、当時は、小樽築港区のB201とともに、国鉄の現役蒸機としては最小で、15両が製造されたうち、2両だけが残っていました。用途は、機関区限定の入換機で、大きな給炭槽に、石炭をベルトコンベアで搬入するため、石炭を積んだ無蓋車・石炭車を、給炭槽の真下まで移動することでした(以下、特記以外昭和42年3月)。区のアイドルにしては、無骨な産業用の機関車だった。扇形庫の横の定位置で止まったままだったが、ほかの撮影を終えて、戻って来ると、ほんの数メートルだけ移動していることが多かった。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑮

鹿児島機関区(2)  C61

九州では唯一の配置となるC61でした。昭和24年に九州に配置されて以来、6両が揃って鹿児島本線全線電化まで働き続けました。C61は、戦後の旅客用蒸機の不足を補うため、戦時中の大量増備で余剰気味となった貨物用D51のボイラ、台枠をそのまま使って、下回りはC57と同じものを新製して組み合わせたもの。1号機が昭和22年に改造され、22両が昭和23年までに造られました。C60、C62も同様の改造で生まれていますが、数字の並びから、C60が最初の改造に思われがちですが、C61が戦後すぐの改造で、C60は、それから6年経過してからでした。鹿児島機関区でハドソン2形式が顔を揃える。C61 33 C60 34 いずれもヘッドマークを取り付けるステーが見える。C61のナンバープレートの取付位置が高いため、正面からの印象は、C61のほうが腰高の印象がする(昭和42年3月)。 続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑭

鹿児島機関区

機関区めぐり、熊本の次は、南端の鹿児島機関区へと参ります。熊本と鹿児島の間には、出水にも機関区がありましたが、貨物用のD51のみの配置で面白味はありませんでした。鹿児島機関区には、C61、C60、C57、C56、C12、B20、8620と、7形式もの蒸機が配置されて、形式数においては、日本一の機関区でした。初めて訪れた昭和42年3月、初めてC61、C60、B20を一度に見ることができて、夢を見ているようでした。通常、機関区の撮影は1~2時間で済ませますが、この時は、11時頃から区で写し始めて、昼食も忘れて延々と居続け、17時ごろにようやく市内のユースホステルに引き揚げるほどで、たっぷり区に浸っていました。撮影点数も多いため、何回かに分けて、まずはC60からご覧いただきましょう。

C60のラストナンバー、C60 107の牽く東京発西鹿児島行き不定期急行「桜島」。熊本以南の非電化区間、優等列車はDL化されていたが、不定期・臨時列車は、まだ蒸機牽引で残っていた。上伊集院~薩摩松元 昭和44年3月

▲▲鹿児島機関区からは、桜島がよく見えた。

 

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑬

熊本機関区

つぎは熊本区の蒸機を見ていきます。この機関区へ行ったのは、鳥栖と同じ昭和42年3月で、一度切りのことでした。この時点で、鹿児島本線の電化は熊本まで到達、翌年には川尻まで延長されます。熊本が電化、非電化の中継地に当たるのですが、鹿児島本線の蒸機の使用状況は、鳥栖と似ていて、優等列車は全部EL・DL化されていて、不定期・臨時急行、普通列車で、熊本・鹿児島区のC60、C61が使用されていました。機関区は、ホームに隣接した西側にありましたが、狭いところで、ラウンドハウスもなく、木造の矩形庫のなかに、多くの蒸機が押し込められていました。行ったのも、夕方の薄暗い時期でした。そのうちに電化も南進して、ついに熊本機関区へ行くことはありませんでした。熊本駅に到着するC60 37の牽く出水発熊本行き132レ、鹿児島本線の電化は熊本までで、鹿児島方面から来る列車は、優等列車を除いて蒸機牽引だった。ただ、駅の構内は、翌年の川尻までの電化に備えて架線が張られていた。狭い構内もあって、熊本駅、熊本機関区で写したのは、この一回切りだった(以下、昭和42年3月)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑫

鳥栖機関区

筑豊地区の機関区巡りを終えて、鹿児島本線を南下していくと、まず鳥栖に着きます。長崎本線を分岐するジャンクションであり、蒸機時代には、駅の南東側に鳥栖機関区がありました。とにかく規模の大きな機関区で、驚いたのは、転車台+ラウンドハウスが2組あり、ラウンドハウスも半周分はある規模の大きなものでした。ただ、初めて行った昭和42年には、鹿児島本線は熊本まで電化していて、長崎本線は非電化ながらも、少し前まで走っていたC60の牽く寝台特急「さくら」「あかつき」はDD51に置き換わっていて、定期の特急・急行はすべてDD51で、わずかに不定期・臨時列車に、C60の牽引の活路が残されているだけでした。ただ、普通列車は早岐区C57、貨物はD51、ほかにも、筑豊本線、久大本線から通しで蒸機が来るなど、以前のような幹線の大型蒸機の活躍は見られなかったものの、まだまだ活気のある風景が展開されていました(以下すべて昭和42年3月)。

鹿児島本線から長崎本線が分岐するY字形の間に、建築現場のプレハブ小屋があった。中を覗いても誰も居ず、勝手に外階段を上がって二階へ行くと、長崎本線がゆるくカーブして俯瞰できる。背景は家が建て込んでいるが、ちょうど順光で撮れる。まだC60で残っていた優等列車は、この時期、不定期・臨時急行だけで、ちょうど長崎行きの「第二玄海」がC60 38に牽かれて鳥栖を発車して行った。

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 Stay Homeを楽しむ  ~風景印を集めてみた ⑤~

こだわりの風景印

鉄道テーマからは外れますが、ちょっとこだわりのある風景印を集めてみて、StayHomeの楽しみを閉めることにします。

前にも述べましたが、全国の郵便局は、JR・民鉄の駅より多い、2万4000局ほどあります。駅に東西南北の最端があるように、郵便局にも、最端の局があって風景印を常備しています。

(左)最北の宗谷岬局(稚内市) 宗谷岬のすぐそば、路線バスも走るところにある。絵柄は間宮林蔵の像、最北端の碑を描く。 (右)最東の珸瑤瑁局(根室市) 「ごようまい」とよむ難読名で、かつての根室拓殖鉄道の終点、歯舞のまだ先、納沙布岬の手前にある。珍しい、ベタ白ヌキ、白マドの印になっている。

(左)最南端の波照間局(八重山町波照間島) (右)最西端の与那国局(八重山町与那国島) 与那国島は那覇から空便もあるが、波照間島へは石垣島から船便しかない離島、さすがに郵頼しても、戻って来るのに、一週間以上を要した。それでも片道84円で届くのだから、郵便制度の有り難さを改めて感じる。

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 Stay Homeを楽しむ  ~風景印を集めてみた ④~

切手に押印する風景印を、“マッチング”と言って、関係の深いものにすることは、前回の江若鉄道百年の項でも述べたことですが、鉄道に関して、さまざまな組み合わせを、今回は見ていきます。

究極のマッチング? 廃駅の写真・入場券・駅スタンプ・下車印、風景印を一致

上記の5つを一致させることはできるのか? 写真・入場券・駅スタンプ・下車印が揃っている駅はいくつか見つかりました。ただ、駅名と同名の郵便局があって、しかも風景印のある局となると、さらに限られます。みごと5つとも揃ったのは、ひと駅だけ、北海道、羽幌線の鬼鹿でした。「鬼鹿」と言う、驚しい駅名も、今となっては知る人も少なくなった。われわれの時代には、羽幌線は希少なD61の走る線区で、まだ石炭列車もあった。勾配区間の鬼鹿~力昼~古丹別は撮影地として知られていて、私も下車した。交換列車があることが分かり、小雨の中で、通過する石炭列車を待った。駅名標は隠れてしまったが、ナメクジのD51 62が牽く石炭列車だった。この蒸機は、北海道ではとくに珍しい長工式の切取式デフを付けている。デフの前のステーの位置を見ても分かるように、ご丁寧に、北海道特有の切り詰めデフに再改造されている(昭和44年9月)。

羽幌線は国鉄の第二次地方交通線で昭和62年3月に廃止になった。訪れた時の入場券、駅スタンプ、均一周遊券の下車印が、50年ぶりに陽の目を見ることになり、改めて、鬼鹿郵便局へ郵頼した。絵柄の建物は、近くの番屋、夏には海水浴場もあって、羽幌線の頃には、最北の海水浴の臨時列車も走った。

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 Stay Homeを楽しむ   ~風景印を集めてみた ③~

江若鉄道の切手に ゆかりの風景印

以前、当欄でも、「江若鉄道百周年」のフレーム切手が発売されることを案内しました。フレーム切手とは、地域限定の記念切手のようなもので、江若鉄道百周年の切手は、滋賀県下の郵便局で3月から発売されています。従来からも、切手に描かれた絵柄に縁のある郵便局で押印することを、“マッチング”と呼んで、風景印の収集法のひとつになっています。そこで、江若鉄道切手でも、江若鉄道の駅名と一致する郵便局で押印を計画しました。ただ弱ったのは、全国的に見て、京都、滋賀は、風景印のある郵便局がたいへん少ない地域で、写真の撮影地と一致させるのがなかなか困難でした。お隣の県ですので、本来なら訪問押印すべきですが、今回は、自宅からの郵頼としました。

(左)多くが三井寺下で撮られたものなので、三井寺の風景印があればベストだが、それは叶わず、まず始発の浜大津を押印。(右)湖西線沿いに北上して、つぎに風景印のあるのが堅田となった。

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 Stay Homeを楽しむ  ~風景印を集めてみた ②~

鉄道テーマ

居ながらにして集められる「風景印」、鉄道テーマのものを集めてみました。駅舎や車両を扱った風景印は各地にあります。とくに新幹線ものは、新幹線沿線の局で多く見られます。逆に、過去の廃止された鉄道もあって、地域に根ざした鉄道の奥深さを感じます。これには、ちゃんとネタ本があって、「テーマ別 風景印大百科 鉄道編」という本が発行されていて、項目別に、500局以上の絵柄が収録されています。

左から、旭川駅内 高架の駅舎と発車する特急(485系1500代「いしかり」?)、背後に大雪山を描く。これのみ旅行中に押印。青森今別 青函トンネルを出るED79の牽く寝台特急と、郷土の踊り。五所川原北 津軽鉄道のストーブ列車(ちゃんと煙が出ている)と岩木山。

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