Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道③

2018年8月3日 空気の澄んだ日、京都タワーから撮ってみた

京都の夏は、最高に暑くて、地上が熱せられると上昇気流が起こり、“かげろう”ができて、どうしても見通しが利きません。ただ、時には、空気が澄んで、遠くまで見通しが利く時があります。こんな日を狙って、京都タワーの展望台に上りました。目的は、その時に進めていた鉄道誌の扉写真として、京都の街並みのなかに奈良線の103系を入れて写すことでした。まだ103系は何編成かが残っていて、難なく撮ることができました。せっかくの恵まれた条件で、所期の目的だけでは勿体ないと、夕方までネバって写しました。

陽が傾き始めた頃、西を見ると、新幹線の高架がずっと伸びている。さすがに、夏なので、金色に輝くことはないが、それでも、交換する上下の編成が、輝き始めた。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道②

1996年8月2日 本山支線で現役最古のクモハ42を撮る

クモハ42は、昭和9年、東海道本線の京阪神電化に際して投入された42系のなかの両運車で、20m、2扉、クロスシート車でした。宇部線に残っていましたが、クモハ123が投入されて旧型車は消えたましたが、クモハ42だけは両運が幸いし、雀田~長門本山の”本山支線”専用として生き残りました。最後のクモハ42001は、当時、JRで1両だけ残った営業用の旧型国電でした。終点、長門本山のクモハ42001 「ムーンライト」に乗って、朝の本数の多い時間帯から写し始めたが、朝から青空が広がっていた。 続きを読む

 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ①

長かった梅雨が明けて、久しぶりの青空tが広がっています。8月は、ほかの月に比べて格別の思いがありますね。ただ今年は、その高揚感がありません。“外へ出ない”が、新しい生活様式として定着し、計画のない真っ白な予定表があるだけです。こうなると、毎日の楽しみ、生きる支え(?)の“デジ青”は、どうあるべきか、最近のテーマとなりました。

冷房が入っているのも構わず、列車の窓を思い切り上げてみた。身体は冷えているのに、顔だけは生暖かい潮風が当たった。これぞ8月だった(五能線 2019年)。

 

新規ものもありません。モノクロも、大量の押しつけは嫌われます。そこで近年のカラーに眼が行きました。以前からカラ-も試行錯誤で投稿していますが、ネガ、ポジ、デジと年代によっては違い、とくにポジ・ネガは、モノクロの補助として散発的に撮っていたただけに、繋がりが少なく、体系的な発表を難しくしています。

 

一直線に続く線路を驀進する。湾の向こうを沈みゆく太陽が追いかけてきた(大湊線 2019年)

 

 

 

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉖

大分運転所(3) D60

つぎは久大本線で客貨列車を牽いていたD60です。D60と言うと、どうしても筑豊で石炭列車を牽く姿をイメージしますが、久大本線とD60の歴史は深く、後期の機では、昭和29年に、D50から改造後、すぐに大分区に配属され、一生を大分で終えた機もありました。穏やかで、やさしい風景が続く久大本線は大好きな路線のひとつですが、一ヵ月前の豪雨で、鉄橋が流出したり、土砂が流入したりして、いまも向之原~日田が運転見合わせです。

D60

余剰気味だったD50の従台車を二軸に改造して軸重を軽くし、乙線から丙線へも転用を可能にした。昭和26年から浜松工場などで78両がD50から改造された。久大本線でも、旅客の8620、貨物の9600を置き替えた。運転台の下の従台車が二軸になったため、乗り心地が向上し、乗務員から歓迎されたと言う。由布岳を望んで、水分峠への25‰勾配を上る、大分区D60の代表的なシーンだった。由布院の駅から、ひたすら歩いて、峠のトンネルの手前まで来て、大分発鳥栖行き638レを写した。由布院~野矢 昭和44年3月

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉕

大分運転所(2) C58

大分にはC58が5両配置されていました。働き場所は、豊肥本線の大分~豊後竹田の旅客牽引と、大分~宮地の貨物牽引でした。豊肥本線は早くから旅客はDC化されていましたが、朝夕のラッシユ時には、大分口、熊本口にそれぞれ蒸機牽引の客車列車が残っていて、大分区のC58は、大分~豊後竹田で、平日3往復を担当していました。

大分C58で写した唯一の駅間の走り、朝の列車を撮るため、豊肥本線の列車に乗ったが、どこで降りたらいいか分からない。奥まで行ってしまうと、交換してしまうため、なんのアテもなく、緒方で下車、適当な山に登ると、C58 350に牽かれた貨物が通過した。緒方~朝地 昭和46年12月

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉔

「大」と言っても、なかなか実名が出てこないでしょう。大分機関区、正確には大分運転所の蒸機でした。「大」を名乗る区名は、ほかにも大館、大宮、大垣が思い浮かびます。「キト」「オサ」など二文字であらわす駅の電略は、重複しないよう、命名に苦心の跡が見られますが、区名板は、遠隔地であれば、重複していても支障はないとしていたのでしょう。さて、同じ日豊本線の蒸機でも、宮崎と比べると、大分は印象の薄いものでした。しかし、昭和42年に大分区を訪問した時は、C57が21両もいて、ほかにもC58が5両、D60が12両、8620が3両と計41両在籍していて、その数は、鳥栖や直方などに匹敵するほど、九州有数の機関区でした。実際、その時には、九州へ入った途端、門司で大分区のC57を写せるほど、広範囲な活躍をしていました。日豊本線の電化が南下して、とくにC57の活路が急に狭められ、“SLブーム”の頃には、すっかり目立たない区になっていました(以下、特記以外昭和42年3月)。

大分運転所(1) C57

日豊本線は、昭和42年10月に幸崎までの電化が完成しているが、それまでの大分区のC57は、門司港~柳ヶ浦~大分~南宮崎~宮崎と、広い範囲で活躍していた。昭和42年の配置は21両で、4号の若番から199号のラスト近くまで、多様な番号が揃っていた。幸崎電化後は、多くが宮崎へ転属して、同区のC55を置き替えた。この年の幸崎電化を控えて、架線が張られた大分駅を発車した、大分発鹿児島行き2523レを牽くC57 196 右手には貨物駅があり8620が入換中、左手に機関区があった。大分駅周辺は、その後の再開発で、駅は4面8線の高架駅となり、車両区は移転してしまい、この頃の面影は全く残っていない。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉓

宮崎機関区(3) C61

昭和46年10月、奥羽本線の秋田~青森の電化が完成しました。およそ宮崎区の蒸機とは、何の因果もないはずと思われていたところ、余剰となった青森区のC61が6両とも宮崎区に転属することになりました。今までも、状態の悪い蒸機の代わりに、検査期限に余裕のある蒸機を長距離転属させる例は、多く見られましたが、異なる形式が全機転属という例は珍しいことでした。国鉄の財政状況が逼迫していて、見張り番の会計検査院からの勧告があったと言われています。C61は東北での実績から、勾配区間の宮崎~鹿児島に投入予定のところ、ストーカーが十分に発揮できずに断念、結局、平坦区間の南延岡~宮崎に変更されました。

青森から宮崎に移ったC61、補助灯を付けた東北スタイルのまま、南延岡~宮崎で客貨列車を牽き始めた。537レを牽くC61 24 宮崎神宮~宮崎(昭和46年12月、以下すべて)

C61

青森区から転属したのは、 2、18、19、20、24、28の6両、昭和47年3月改正で、南延岡~宮崎の客貨は、すべてC61牽引に置き換わり、C57は相当数が廃車・転属となった。なおC612は、宮崎区でしばらく働いてから、梅小路蒸気機関車館に移動され、動態保存されている。残りの5両も昭和48年には休廃車となり、実働期間は短かった。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉒

宮崎機関区(2)

つぎは宮崎区のC57へ移ります。宮崎区のC57といえば、半年間だけ返り咲いた急行「日南3号」の牽引復活や、お召を三日間にわたって牽引したことなど、後年は、華やかな話題を提供しました。いずれも昭和48年のことで、私はもう社会人の頃で、どちらも行くことが叶いませんでした。今となっては行っておけばと思わないでもありませんが、当時は、“お召だけ”、“C57急行だけ”で宮崎まで行くと言う発想はありませんでした。それだけ、昭和42年から毎年訪れて、美しいC57とともに過ごした時間は悔いを残すことのない、充実した時間でした。

C57

C55を置き換えるため、大分区などから転入した。昭和42年には、C55が14両、C57が4両だったものが、同43年にはC55が8両、C57が10両と逆転し、翌44年には、C55を一掃し、C57は17両と増えて、その時点で日本一のC57配置区となった。以降も昭和46年までの3年間、顔ぶれに全く変化はなく、C57王国を築いた。ナンバーも、若番の4号から、ラストに近い199号まで揃い、とくにC59似の四次型(190号以降)が4両配置されていた。その後、東北からC61が転属し、C57は次第に減少、最後は昭和50年3月の「さよなら列車」で、日豊本線の蒸機に終止符を打ちました。

大淀川橋梁を行くC57、朝と夕方にさまざまな表情を見せた。川沿いにはユースホステルもあり、食事後にゲタを履いて撮りに行くこともあった。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉑

宮崎機関区(1)

また投稿が途絶えてしまいましたが、《区名板》めぐりを再開します。つぎは宮崎区へと行きます。宮崎にも砲金製の区名板を装備したC55・C57がいて、「宮」に相応しい高貴さを漂わせていました。私が初めて訪れたのは昭和42年、この時はC55が幅を利かせていて、臨時急行を牽く姿も見られました。この時は機関区で撮影するだけで、本格的に走行中を駅間で写したのは、その翌年、宮崎にこだわりを持つI原さんと現地で合流し、田野へ向かったものでした。まずは形式別にC55から見ていくことにします。

C55

昭和42年の宮崎区の配置は、C55が14両、C57は4両で、C55の配置区としては、いちばん多く、文字どおり“C55の牙城”でした。仕業は、南延岡~宮崎~鹿児島で、旅客だけでなく、貨物も牽引していました。

宮崎区のC55には、流線型改造機が多かった。その特徴は、キャブの出入り口(寒冷地ではないため扉は撤去していた)と、下の“ヒレ”と呼ばれる三角形の突起で、砲金製の区名板とあいまって、宮崎区のC55を印象づけていた。雨の田野~門石(信)、清武川橋梁を行くC55の牽く貨物列車(機号不明)。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑬

 “散歩鉄”で 電機を撮る(2)

青空に似合う電機は?となると迷わずEF510を上げたい。19.5mの長い大きな車体、胸の張った前面、ドイツで見た赤い電機101形、111形を思わせる電機で、東海道線で赤い交直機が見られるのも、この区間ならでは。正面勝ちに青空を大きく入れて、その魅力に迫ってみた。長岡京~山崎

雨がもう一週間以上降り続いています。九州の鉄道も大きな被害を受けましたが、地元、叡電鞍馬線の貴船口付近でも土砂崩れが発生し、復旧までには相当日数掛かる見込みです。叡電は2年前の台風でも大規模な倒木、土砂流入で長期間不通になりました。やっと復旧したと思ったら、その傷跡がまだ癒えないうちの災害で、鉄道事業者の落胆はいかばかりかと思います。ここしばらく“散歩鉄”も出かけられず、自粛期間以上に家で籠ることが多くなりました。青空のもとで、気ままに貨物列車を撮っていた、つい先週までの行動様式に早く戻りたいものと、今回は、良い天気の下で各種の電機が牽く貨物列車見てもらいます。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名版》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区(3) 8620 & 肥薩線川線をカラーで偲ぶ

人吉機関区の蒸機としてD51、C57を紹介しましたが、地味ながらも、もう一形式がありました。それは8620で、つねに2両が区に配置されていました。おもな運用は、湯前線の貨物牽引で、人吉~湯前を一日3往復していました。ほかには人吉駅での入換が仕事で、2両はデフ付き、パイプ煙突と、地味で目立たない8620でしたが、なんと、そのうちの一両が、現役復帰して「あそBOY」「SL人吉」などを牽くことになる58654なのです。そして、もう一両も来歴を調べていくと、今回と同じように球磨川の増水、土砂流入で土砂に埋まるという、今回と同じような災害に見舞われていたことも分かりました。夜の人吉機関区で憩うハチロク ちょっと不似合いな大型の切取り式デフ、パイプ煙突と、どちらかと言えば冴えないスタイルだが、なんとこのカマがJR九州の復活蒸機であり、「あそBOY」「SL人吉」を牽く58654の50年前の姿 昭和46年12月(以下同じ)

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑫

 “散歩鉄”で  電機を撮る (1)

5087レが近所を通過するのは14時前後、ちょうど昼食後の腹ごなしに格好の列車だ。しかも貴重なEF65が牽くとあって、昼前の天気予報と“貨物ちゃんねる”の牽引機チェックが日課となった。山崎~長岡京

少し前までの外出自粛の期間、日課となったひとつが“散歩”でした。最初は家の周囲を黙々と歩くだけでしたが、同じ歩くなら、趣味活動も兼ねた散歩にしたいと、近所の東海道本線まで行って、撮影もすることにしました。ターゲットは電気機関車です。この時期ですからイベント列車こそ走りませんが、通常の混載コンテナを牽く貨物は運休もなく走っており、専用コンテナ列車や、レール運搬、新車の輸送など、電機の牽く列車は多彩です。
さすがは天下の東海道本線、時間帯によっては、1時間もいれば、お腹いっぱいになるほど多くの電機を撮ることができて、散歩途中の撮影としては最適な対象です。基本的に歩いて写すか、入場券を買ってホームで撮るか、乗車しても最低運賃の範囲内で撮影するかのいずれかで、この一ヵ月前後の東海道線の電機の現況を綴っていきます。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区 (2)  C57

人吉には、もうひとつ注目すべきC57がいました。前記のように、肥薩線の人吉~八代、球磨川に沿った“川線”と通称される線区で、旅客、一部の貨物も牽いていました。“美しき南九州のパシフィック”などと賞賛されるC57です。その両数においても宮崎区のC57を指す言葉でしょうが、その影に隠れて、黙々と客貨を牽いていた人吉区のC57のほうに、愛着を感じていました。昭和45年時点で、7両いたC57ですが、砲金製の区名板、手入れの行き届いた機体、そして、番号ごとに個体差があって、“何番”と言うとすぐに姿が思い浮かぶのもC57の良さでした。八代~人吉は昭和48年3月改正でDL化が完了し、C57は撤退しています。

夜行鈍行1121レをC57 9が牽いて一勝地で交換列車を待つ。ひと桁ナンバーのC57は貴重で、特に憧れを持った。門司港区の時代は「かもめ」も牽いた。昭和44年3月

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑲

人吉機関区 (1)

《区名板》シリーズの象徴のような機関区です。「人」の文字から、「蒸機は、もっとも人間に近い機械」の常套句を思い出し、何とも暗示的です。しかも実際に区名板を見ると、通常は鉄板にペンキ書きに対して、人吉区のものは、大部分が砲金製の特注で、しかも、書体は、隅丸ゴシックの国鉄書体ではなく、楷書体であり、その品格が、より強く感じられます。この砲金製は、鹿児島工場へ入場の際に取付けられたもので、近隣の鹿児島、吉松、宮崎でも見られますが、「人」だけに、そのインパクトは他区の比ではありません。金文字の「人」を付けた蒸機の顔ぶれも、肥薩線という特徴ある線形に適した、手入れの行き届いた、独自の蒸機ばかりでした。

人吉駅で発車を待つ589レ 牽くのは「人」のD51 545 人吉のD51は、重装備の蒸機の代表でもあった。昭和45年9月 

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑱

吉松機関区 (2)

吉松には、前回のC55以外にも、C56、D51が配置されていました。C56は、栗野から分岐する山野線の貨物を牽引、D51は吉都線の客貨の牽引でした。付近では、矢岳越えの重装備のD51が有名でしたが、これは人吉区のD51が担当しており、吉松のD51が矢岳越えをすることはありませんでした。

蒸機の時代が終わってから、何度か吉松を経由することがありましたが、列車の接続が良すぎて、ホームで1分接続で乗り換えるため、途中下車すらできずに、50年近くが経過しました。しかし、2年ほど前に、待望の乗り換え時間が発生し、やっと下車して、機関区跡や駅前をゆっくり歩くことができました。機関区の跡は、広大な空き地となり、煙と人が渦巻いていた駅前は、静かな山里に還っていました。駅前に保存展示してあったC55 52は、国鉄OBの手でキレイに整備されて展示されているのが、慰めになりました。

機関区は駅の横にあって、広くて、ゆったりした構内だった。ホームからも蒸機の動きがよく見えた。 続きを読む

 やっぱり蒸機が好き!  《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑰

吉松機関区

九州の機関区巡り、鹿児島本線を南下してきましたが、これまで「鳥」「熊」「鹿」と意味ありげな札が続きました。これから鹿児島・宮崎を北上し、「吉」「人」「宮」と、また由緒正しき機関区を回っていくことになります。肥薩線にある吉松、吉都線も分岐する吉松は、街そのものは小さな街ですが、海岸周りの現在の鹿児島本線よりも先に肥薩線が開通し、九州の鉄道の要衝としての歴史を歩んできました。
“蒸機”という乗り物を意識した昭和30年代の後半に、いちばん憧れたのはC51でした。昭和39年の車両配置表を見ると、14両が残っていて、配置されていたのは、吉松をはじめ、新津、亀山、梅小路、米子、鳥栖と、蒸機とともに歩んできた、名だたる機関区ばかりでした。以後、吉松は憧れの地となりました。初めて訪れた昭和42年に、もうC51はいませんでしたが、C55、C56、D51が配置されていて、矢岳越えを終えた、人吉区の重装備のD51も休む区として有名でした。明治時代に建設された、山越えルートの鹿児島本線(のちの肥薩線)をトレースして走る伝統の夜行鈍行1121レは、吉松で向きを変え、都城へ向けて最後のコースを走る。先頭に立ったのは、流線型改造のC55 26だった。 続きを読む

 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑪

京福嵐山線、夕方の「車折神社」、駅の赤い柵、神社の木々、背後の愛宕山、そんなシーナリーが好きで何度が定点撮影しているが、当たり前の風景のなかに、人が戻ってくると、鉄道はさらに活き活きとしてくる。
前稿でも記しましたが、この時期は、日没の方位が300度ほどあって、太陽が北側から射し込みます。と言うことは、通常は逆光の場合も、半逆光で陰影のある写真も期待できます。形式写真で高名な鉄道写真家は、各部に光が回るためには、時間帯だけでなく、季節も熟慮して、機関区で撮影を行なったと聞きます。ほぼ東西に走っている嵐電は、この時期にしか撮れない写真もあるはずと、以前の撮影地に“復習”に出掛けました。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑩

先週、自粛後に初めて梅田へ行って来た。ほかの府県へ行ったのは約二ヵ月ぶりだった。いつもと変わらない人出で、賑やかな街は、年寄りが行ってもやっぱりいいものだ。活動自粛のあとの初撮影は、今までの撮影の勘を取り戻すための“復習”として、梅田から十三大橋を歩いて渡り、淀川の右岸にやって来た。梅田のビル街をバックに、トワイライトタイムの阪急電車の撮影から復帰することにした。

やっと日常生活が戻って来ましたね。皆さんも活動を再開されたことと思いますが、私も先週あたりから、巣籠もり生活を終えて、そろりと活動を再開しました。“新しい生活様式”が求められていますが、私の場合は、以前と変わりません。公共交通と自分の足だけで撮影地に向かい、自分の求めるテーマだけを撮って、すぐ戻る、年齢に応じた活動ですが、やっぱり外はいいですね。本日から府県を越えた移動もできるようになりましたが、すぐに遠方とは行かず、もっぱら今までも行ったことのある近郊の撮影地へ“復習”に行っています。自粛後の“こんな時こそ”シリーズを二ヵ月半ぶりに再開することにしました。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑯

鹿児島機関区(3) B20 8620 C12 C56 C57

鹿児島機関区の残りの形式をご紹介。もうひとつ鹿児島区のアイドルは、何と言ってもB2010でした。いまでは、京都鉄道博物館に保存されている同機ですが、当時は、小樽築港区のB201とともに、国鉄の現役蒸機としては最小で、15両が製造されたうち、2両だけが残っていました。用途は、機関区限定の入換機で、大きな給炭槽に、石炭をベルトコンベアで搬入するため、石炭を積んだ無蓋車・石炭車を、給炭槽の真下まで移動することでした(以下、特記以外昭和42年3月)。区のアイドルにしては、無骨な産業用の機関車だった。扇形庫の横の定位置で止まったままだったが、ほかの撮影を終えて、戻って来ると、ほんの数メートルだけ移動していることが多かった。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑮

鹿児島機関区(2)  C61

九州では唯一の配置となるC61でした。昭和24年に九州に配置されて以来、6両が揃って鹿児島本線全線電化まで働き続けました。C61は、戦後の旅客用蒸機の不足を補うため、戦時中の大量増備で余剰気味となった貨物用D51のボイラ、台枠をそのまま使って、下回りはC57と同じものを新製して組み合わせたもの。1号機が昭和22年に改造され、22両が昭和23年までに造られました。C60、C62も同様の改造で生まれていますが、数字の並びから、C60が最初の改造に思われがちですが、C61が戦後すぐの改造で、C60は、それから6年経過してからでした。鹿児島機関区でハドソン2形式が顔を揃える。C61 33 C60 34 いずれもヘッドマークを取り付けるステーが見える。C61のナンバープレートの取付位置が高いため、正面からの印象は、C61のほうが腰高の印象がする(昭和42年3月)。 続きを読む