▲続いての撮影地は、京福電鉄叡山線(現・叡山電鉄)に移る。住まわれていた左京区内だけを走り、身近な鉄道へは以後もよく訪れることになる。最初に撮ったのが、京都市電1000型が叡山線を走るシーンだ。ご存じのように、宝ヶ池競輪場で開かれた競輪の開催日にあわせて、元田中駅にあった渡り線を通って、京都市電が山端(現・宝ヶ池)まで運転されていた。前年の昭和24年12月から運転を始め、羽村さんも、そのニュースを聞いて、行かれたのだろうか。ただ、低感度のフィルムのため、晴れていても走行中の車両を写し止めるのは難しい。そこで、羽村さんは、流し撮りで車両を止められている。偶然の所産なのかは分からないが(私も技量もないのに写したら流し撮りになっていたことがあった)、背後を空で抜いて、市電のポールが強調されている。撮影場所は、修学院の南方と思われる(昭和25年3月)。
投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
羽村さんが遺したアルバムから 〈2〉
羽村さんが遺したアルバムから 〈1〉
またまた投稿が開いてしまいました。腰を落ち着けて投稿することにします。デジ青では、米手さんによる、献身的な電子介護が続いています。見ることが叶わなかった会内外の貴重な記録が、本欄でよみがえり、改めて、そのご苦労に讃辞を送るものです。
私も、もう一人、天に召された会員のネガを預かっています。それは、昭和44年に、37歳の若さで亡くなられた、羽村 宏 さんです。羽村さんといえば、青信号初期号で、京都市電の全系統をカラーインクで色分けして、一枚ずつ手作業で系統図を作られた伝説の人です。私とは年代が違い、お会いしたことはありませんが、亡くなられた時、私は青信号22号の総指揮をしており、OBからの一報で、出来上がり直前の青信号を止めて、急遽、訃報を載せたことを覚えています。
羽村さんは、お住まいの左京区吉田にちなんで“吉田急行電鉄”と名付けられた、鉄道模型・レイアウトが主な趣味でしたが、写真も昭和25年から撮られています。これらの写真・ネガは、親しかった乙訓の老人宅で静かに眠っていました。ある時、老人の自宅へ遊びに行った時、「これ、おまえが保管せぇ」と渡されたのが、この青いネガアルバムでした。2004年のことで、以来、10年以上が経ちますが、預かった私も、一部は、出版に使わせてもらったものの、ネガのスキャンもせず、眠ったままでした。
このことを、老人に相談しますと、“すぐにでもデジ青に発表してくれぇ”と、強い口調で激励され、電子介護の一環として、発表することにしました。預かっているのは私であっても、羽村さんの遺された写真は、クローバー会共有で受け継いでいくべきものと思っており、ならば、“デジ青”での発表がもっとも相応しい媒体だと思うに至ったのです。▲羽村さんが遺された青いネガアルバムは二冊、B5ヨコ型で、1ページに8点のセミ判のネガが収められ、二冊で300点余りのネガがある。鉄道模型を写されたものもあって、実物の鉄道写真は200点程度だ。いまのデジカメなら、半日で撮ってしまいそうな点数だが、羽村さんは、約5年掛けてじっくり撮られた。決して寡作ではなく、この時代の撮影スタイルはこんなもので、一枚一枚、心を込めて撮られたのだ。
北海道の鉄道被害を憂う
久しぶりのデジ青投稿です。ここしばらくの日常生活の中で、いちばん驚いたのは、4日の台風21号の強風でしたね。ホントに生きた心地がしませんでした。本日の役員会後の飲み会でも、その話題で持ちきりでした。関西在住の皆さんのところは、いかがでしたでしょうか。
関西では、このところ天変地異の連発です。大阪府北部地震から始まって、40度近い猛暑、西日本豪雨、そして今回の台風による強風です。人間誰しも、天変地異には遭遇するとの思いは持っていても、その被害者にはならないという、変な安心感を持っているように思います。しかし今回は、私自身も、危うく関西空港での閉じ込めや、家の倒木を経験、はたまた信号機が90度曲がったままになっていて、危うく交通事故に巻き込まれそうになったことなど、身を持って災害の危機を感じました。
そして、ここへ来て、北海道胆振地方東部地震です。あのJR北海道も一時は全道すべてで運休でしたが、昨日あたりから徐々に動き始めました。各線の被害状況は不明でしたが、先ほど、JR北海道のホームページを開くと、全路線の運転計画があり、初めてその全容を知りました。私が真っ先に心配したのは、廃止が予定・計画されているローカル線の状況でした。案の定、HPでは、すべて「運転再開の目途が立っていない区間」に指定されていました。本州3社に比べて、著しく脆弱なJR北海道のこと、軽々しくは言えませんが、「被災→運休→廃止」の道を辿るのではと危惧しています。
▲今回の地震で震源に近かった日高本線の鵡川は、思い出の地だ。2010年、ぶんしゅうさんとクルマで北海道を回った時、鵡川の道の駅で、二人一緒にクルマの中で寝て、翌日、日高本線の撮影に向かった。朝は鵡川駅に向かい、列車の交換を撮影した。女子高校生の乗り降りもあって、アクセントを添えることができた。HPでは、日高本線で、災害不通が長く続き、もともと廃止予定の鵡川~様似は、「通常時からバスで運行中」とあり、まるで鉄道には触れていない。存続予定の苫小牧~鵡川は「運転再開の目途が立っていない区間」であり、日高本線全体が廃止に憂き目に会うのではと心配している。
北のC62 全記録 〈8〉
◆最終日の北海道は、3度目の上目名へ 昭和43(1968)年9月14日
北海道へ入って14日目の最終日、事前のプランではフリーにしていましたが、やはり足は上目名に向かいました。いつもより遅い目の時刻に上目名に着くと、澄んだ青空に秋の深まりを感じます。最初に上目名に来た時に比べると、駅に集まる人数もぐっと少なくなっています。撮影地を探して、一人でトボトボ線路上を歩いていると、突然、自分の名前を叫ぶ声が、頭の上のほうから聞こえてきます。
次いで“ここや!ここや!”の声、声の聞こえる方向を、よ~く見定めると、なんと数日前に別れたはずの鉄鈍爺さんが、90度近い絶壁の上に立っているではないか。たしかに、その付近だけ岩場になっていて、熊笹もなく、何とか上がれそうだ。上からの声に励まされて、何度も滑りそうになりながら、人一人がやっと立てそうな岩場の頂きに到達することができて、偶然の出会いに喜び合った。鉄鈍爺さんは、倶知安YHから私より早い目に着いて、撮影地を確保し、偶然、あとから歩いて来た私を見つけたそうだ。まもなく、例のジェット機音が聞こえてきた。
北のC62 全記録 〈7〉
◆大沼で単機「ていね」を撮る 昭和43(1968)年9月13日
初めての北のC62訪問も終盤を迎えます。釧路発函館行き422レに、札幌から乗車し、大沼まで向かいます。この列車は函館本線経由の夜行鈍行で、さすがに観光シーズンも外れたこの時期、車内は閑散としており、乗車したオハフ6036は、車内設備が嫌われたのか、とくに超ガラガラで、深夜の倶知安で二人が下車すると、残ったのは自分一人だけでした。連日の夜行続きでぐっすり眠り、気がつくと、「おおぬま」の駅名標が。あわてて荷物をかき集め、発車直前に飛び降りました。
列車の大沼到着は4時16分、さすがに暗く、涼しさを通り越して寒い。待合室で、寝袋にくるまって仮眠し、明るくなってから撮影地へ向かう。目的地は、国道と函館本線が並行する当たりに高台があり、そこから見下ろした線路の正面に駒ヶ岳がきれいに収まる。当時のキネマ旬報社の雑誌「蒸気機関車」に載った写真が忘れられず、同じ列車、同じ写真を撮ろうと魂胆していた。ちょうど日の出前後、季節によっても光線が微妙に変化する写真的には絶好の時間帯に、C62 44の牽く「たるまえ」が通過した。
北のC62 全記録 〈6〉
◆再び上目名へ。151km地点で撮る 昭和43(1968)9月11日
倶知安のニセコYHに3泊目のあと、普通列車に乗って、再び上目名を目指しました。想定外のブッシュの多さで撮影に難渋した前回の経験を生かして、前回よりさらに目名寄りの151キロ地点まで歩いて行きました。
▲上目名駅から約1時間歩いたところが151km地点、ここは周囲が急に開けて来て、右手にはちょっとした高台があって、ここだけブッシュもなく、難なく高台の上まで到達でき、目名方面へは高原が広がっているのが見える。開けているぶん、目名を通過するC62の汽笛あたりから聞こえてきて、それから数分間、ドラフト音がどんどん近づいてくるのが堪能できる。後志の山々を背景にして、カーブの向こうから、編成が顔を出した。
北のC62 全記録 〈5〉
◆札幌、小樽築港、倶知安でC62を駅撮り 昭和43(1968)年9月10日
小樽築港機関区で撮ったあと、その日の午後は、千歳線で運転されたお召列車を鉄鈍爺さんと写し、その後も、開道百周年記念で道内各地で運転されたお召列車を写しながら、DRFCメンバーとともに、道北、道東を転戦、約10日後に再び夜行列車に乗って札幌に戻ってきました。
▲釧路発の夜行鈍行424レで札幌に到着し、約3時間ほど、発着する列車を写したことは、以前の「駅撮り一時間」で報告したとおりだが、その中に、急行「石北」を牽くC62 32の姿もあった。43・10以前のC62の運用は後述するが、夜間に札幌から旭川へ一往復「石北」を牽く運用があった(札幌22:00→旭川0:56 旭川3:36→札幌6:25)。北海道のC62の活躍ぶりは、函館や小樽といったところでは、現地へ行って理解できるようになったが、中央部の旭川までC62が足を伸ばしていたとは、それを実見した時にも、どうしても信じられなかった。
北のC62 全記録 〈4〉
◆最初で最後のC62 30を小樽築港区で撮る 昭和43年(1968)9月1日
上目名で撮って、倶知安YHでもう一泊した9月1日には、C62のネグラである小樽築港機関区へ撮影に行きました。小樽築港は、C62だけでなく、当時、非電化の札幌周辺の客貨を受け持ち、9600、C57、D51など全部で55両が配置され、昭和43年車両配置表では、青森区に次ぐ、日本第二の蒸機配置区でした。さすがに訪問者が多いようで、事務所でノートに記帳すると、黄色のヘルメットが渡されるという用意周到ぶりでした。
ラウンドハウスの中は、煙が渦巻いていた。通常、扇形庫で、カマは顔を見せるが、東北・北海道の機関区では、防寒のためか、尻を向けるところが多く、小樽築港も同様で、庫に入ってしまうと撮りにくい。C62 30は、一ヵ月後のヨンサントオ改正による、C62運用の削減で、廃車されてしまう。配置のC62のなかでは、調子が良くなかったせいか、結局、同機を写せたのは、これが最初で最後となった。
北のC62 全記録 〈3〉
◆上目名で上下の「ていね」を撮影 昭和43(1968)年8月31日
連投で失礼します。北海道へ渡って、真っ先に訪れたのが上目名でした。駅前には一件の民家すら見当たらない北海道の寒駅が、一躍“C62重連の聖地”として有名な撮影地になりますが、訪れた当時は、まだ撮影者も数人で、駅を降りると、駅員からお茶を出してもらい、一服してから撮影地に向かったものでした。上目名を有名にしたのは、「鉄道ファン」昭和41年7月号の北海道特集号のなかの黒岩保美さんのエッセイ「北の旅の魅力」でした。その文をノートに書き写して、イメージトレーニングを重ねて、上目名に降り立ちました。
▲前日、「ていね」に乗って倶知安に着き、YHで久しぶりにまともな食事・風呂が得られた。なにせ京都を出てから、夜行3泊&キャンプ2泊で、身体はヘロヘロだった。ゆっくりして、9時58分発の列車に乗って、上目名へ向かう。目指すは150キロ地点、黒岩さんも紹介された、上目名から1時間近く歩いたところ。たしかに連続20‰勾配で、右に左にカーブして、好適地に思えるが、一歩、線路から離れると、背丈以上の熊笹がびっしり繁茂し、完全にお手上げ状態、結局、犬走りからしか撮る余地がない。13時前、向こうのほうから、“ザワザワ”とした音が聞こえてくる。これが、あのC62重連のブラストなのだった。上り「ていね」C62 3+C62 44
北のC62 全記録 〈2〉
◆ “北のC62”に初対面&「ていね」乗車 昭和43(1968)年8月30日
この旅行は、同年8月23日から9月16日まで、北海道均一周遊券をフルに使った25日間の旅行でした。東北・北海道は全く初めての地で、さまざまなところへ行ったものです。当時の感覚では、C62以上に魅力的な対象がいくらでもありました。C62に費やしたのは、数日間にしか過ぎません。▲花輪線龍ケ森での2泊の狂化合宿を終えて、東北本線奥中山で最後のD51三重連をDRFCメンバーとともに撮ったあと、いったん解散し、一人で青函連絡船「羊蹄丸」で津軽海峡を渡り、函館に0時45分に着いた。待合室でひと寝入りを目論むが、椅子はすでに占領されていて、床に寝るが、さすがに寒さを感じて北海道へ来たことを肌で感じた。5時48分、始発の松前行きに乗り、つぎの五稜郭で下車する。まもなく、通過するのが上り急行「たるまえ」、C62 32の牽引だった。「たるまえ」は、その一ヵ月後のヨンサントオ改正で「すずらん」に改称される、札幌発室蘭本線経由の函館行き夜行急行で、長万部~函館がC62の牽引だった。
北のC62 全記録 〈1〉
“盆休み”のためか、本欄も開店休業の状態が続いていましたが、急に涼しくなってきましたので、私もこのあたりで復帰することにしました。先日は、ベテラン蒸機ファンの集まりに、準特急さんとともに参加する機会がありました。歳を重ねても、蒸機や鉄道写真に、ハンパないほどの情熱を持った方ばかりで、口角泡を飛ばして話が交わされます。話題は、実にさまざまですが、われわれの年代のこと、今や伝説と化したC62重連の話がよく出ます。
世のなか、エポックメイキングな社会事象の体験の有無で、世代を区分することがあります。たとえば前回の東京オリンピックであり、関西では大阪万博、阪神大震災と言ったところでしょうか。鉄道趣味においても同様で、C62重連は、まさに鉄道趣味史を時代区分する、歴史的な事象だと思います。私が経験したのはC62の末期に過ぎませんが、C62の時代を共有できた人間としては、復活蒸機しか知らない、若いファンや熟年復活組とは違う、ひそかな誇りを感じています。
▲私が初めて北海道に渡ったのが、ちょうど50年前の昭和43年8月のことだった。ほかの蒸機や私鉄も健在で、C62だけ目当ての渡道ではなかったが、初めての北海道で対面したC62との感動は忘れられない。当時は、通勤列車も牽いており、以前雑誌で見た同じ光景を撮りたいと、夜行列車で大沼へ来て、大沼を発車して函館へ向かう列車を、駒ヶ岳バックで撮った。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈11〉
窓の開く客車
客車の魅力は、いろいろありますが、「窓が開く」のも、そのひとつでしょう。窓ガラスで遮られることなく、ナマの車窓風景をたのしむことができます。この季節なら、走るにしたがって涼風が入って来て、生き返った気持ちになります。最近聞くのは、小海線へ行っても、窓の開かない冷房付きの気動車ばかりで、窓を開けて高原の自然の風を入れたいと聞きます。とくに猛暑の今年、テレビでは「ためらわずに冷房を」と叫んでいますが、暑いときには暑く、涼しいときには涼しく感じる客車こそ、自然の摂理に合った乗り物だと思います。
「窓の開く」のは、自然が感じられるだけではなく、車内外で人と人との交流ができるのも、また客車の魅力です。車内から手を振って、外の人と一時の邂逅を楽しんだ幼い日の思い出は誰にでもあると思います。
▲クローバー会メンバーとともに、現地で前泊して、甲斐駒ヶ岳をバックにした小海線小淵沢の大カーブの先端にやって来た。イベント用として、C56の牽く混合列車が運転されていた。これは、定期の貨物列車に客車1両を連結したもので、列車番号も183レだった(昭和47年8月)。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈10〉
客車時代の食事
最近、車内で駅弁を食べるシーンを、ほとんど見かけなくなりました。私は、駅弁に限らず、車内で食べるのは、周囲から目が気になって、どうも苦手です。その点、昔の客車では、人目をはばからず食事、駅弁を食べたりしたものです。かの有名な富士フィルムの「50000人の写真展・鉄道のある風景」に、昨年「窓」で入選された米手さんの写真も、客車で駅弁を頬張るDRFCメンバーを写したものでした。今のように、明るく開放的な車内では、食事をする雰囲気にはありません。ボックスシート、暗い車内ならではです。食べると言っても、コンビニも無かった時代、駅弁か駅ソバに限られて、たいへん貴重な食材でした。
▲正月明けの宇都宮駅、夜行列車を降りた身に、寒さと空腹がこたえる。向かいのホームからは、見るからに暖かそうな駅ソバの湯気が上がっていて、たくさんの客が群がっている。右手には、スハフ32 2362の狭窓が見え、その前を、寒そうな母娘が、白い息を吐きながら、通り過ぎた。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈9〉
混合列車の魅力
客車列車は数多く乗りましたが、「混合列車」となると、乗車機会はウンと少なくなります。それでも、思い出してみると、釧網線、根室本線、石北本線、五能線、日中線、大社線、木次線、高森線、肥薩線で、蒸機の牽く混合列車に乗った記憶があり、昭和40年代、まだこれだけの混合列車が残っていたことに改めて驚きました。どのローカル線でもあったわけではなく、客車列車のスジがあるものの、旅客数は少なく、貨物量も少しはある、このような客貨のバランスがあって、混合列車が設定されたようです。乗ってしまえば、客車列車と変わりはありませんが、発車時のショックで前に貨車が連結されていることを感じ、途中駅では、旅客ホームのないところでも平気で停車し、客扱いが終わっても、悠然と貨車の入換えに励むなど、混合列車ならではのシーンが見られました。
▲石北本線は、本線格で、客貨もほかの線区よりは多いから、混合列車もスケールが大きい。これはDRFCメンバーとともに、下り「大雪6号」に乗り、遠軽に着いて、始発の523レに乗り換えたもの。生田原で補機が付いて9600+D51の重連となり、貨車も長く、その編成にも興味が湧く。常紋に向けて、列車は力闘を始める(昭和44年9月)。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈8〉
夜の客車
今では死語に近くなりましたが、“夜汽車”という言葉があります。窓から洩れる室内灯、照らし出された乗客の姿、発車ベルが鳴り終わり、一瞬の静寂のあと、耳をつんざく汽笛、ゆっくりホームを離れていく列車…、これは、もう客車でしか演出し得ない、夜汽車のイメージではないでしょうか。
なにゆえ、夜の客車は、絵になるのでしょうか。やはり白熱灯の暖かい光があります。もちろん蛍光灯の客車もありましたが、客車は白熱灯に限ります。加えて一枚窓が連続して続く規則性、また、ブドウ2号の濃い塗装が、窓とのコントラストを出している。これらが相乗して、哀感さえ漂う夜汽車のムードを演出しているのではないでしょうか。
▲九州の名物夜行鈍行門司港~都城の1121レ、1122レ、早朝を走る1121に比べて、ずっと夜間の1122は、見どころは少ないが、時間調整もあって、とくに吉松~人吉の各駅では停車時間が長く、バルブ撮影に適している。ここ大畑は、周囲に一軒も家もなく、漆黒の世界がひろがるが、D51 1058の前照灯と客車から洩れる光だけが、“夜汽車”の雰囲気を演出していた(昭和45年9月)。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈7〉
西鹿児島の団体列車
前項で、客車にまつわる話題として、デカンショさん、1900生さんから、「エキスポこだま」が採り上げられました。この列車、昭和45年、夏休みに万博に押し寄せた入場者の輸送手段として生まれたものでした。夏休みになって、万博の終了も22時30分まで延長されますが、輸送の大動脈を担っていた新幹線は最終が出たあと。そこで、苦肉の策として生まれたのが「エキスポこだま」でした。全国から一般客車をカキ集め、7月3日から最終日の9月13日まで、上りのみ、全車指定での運転でした。時刻は、大阪22:58発、新大阪、京都に停車して、三島には6:53着、始発の新幹線「こだま」(全車自由席)に乗り換えて三島7:05発、東京8:10着でした。「エキスポこだま」自体は臨時急行ですので、途中の駅までの利用も可能でしたが、割引もあって、一部区間とは言え冷房の入った新幹線に乗って東京へ戻れるのは魅力でした。列車は三島に着くと、すぐ回送でトンボ帰りして、その日の晩の運転に備えていました。
日本が高度成長の頂点に達した昭和45年に開催された、国家的一大イベントの日本万国博覧会、総入場者は6400万人で、その大移動を担ったのが鉄道で、日本全国から、万博会場を目指す、列車が数多く運転されました。たまたま訪れていた九州でも、その大輸送の一部を垣間見ました。
▲昭和45年8月の終わり、西鹿児島駅のホームの時計は16時55分を指している。なにやら5番ホームから楽団の演奏も聞こえてきて賑やかだ。大勢の見送りを受けて、雑型客車ばかりの列車が出発して行く。時刻表を見ても該当する列車はなく、どうやら団体列車のようだ。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈6〉
横サボを鑑賞する
客車らしさを演出する小道具として、車体に書かれた標記、取り付けられた表示板があります。なかでも車体の中央に下げられていた、引掛け式の行先方向板、通称“横サボ”は、その代表です。鉄道趣味のジャンルも構成していて、私はさほどの執拗さは持ち合わせていませんが、恰好の蒐集品対象にもなっているようです。以前の趣味誌に、“これによって旅客車に魂が入る”と書かれていましたが、まさにそのとおりで、サボが吊り下げられるだけで、生きた客車を感じて、サボの行き先を見ては、見知らぬ地への思いを馳せたものでした。なかでも、青地に白文字、琺瑯製のサボは、茶色に塗られた客車とは絶妙のバランスでした。
▲琺瑯製のサボのなかでも、毛筆体のものは、昭和30年代初頭まで製作されていたと言われ、昭和40年代後半でも、この写真のように、北海道や東北では見られた。達筆で書かれたサボは、昔の職人の技を感じたものだ。琺瑯は、金属の表面にガラス質の釉薬を焼き付けたもの、今でも、JR北海道の柱部の駅名表示に使われる。
客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈5〉
長大編成と最短編成
客車編成を前にして、よくやったのが、編成調べでした。少し前のコメントでも1900生さんから、編成調べの話を聞かせてもらいました。当会でも編成調べの権威が多くおられました。私にとって衝撃的だったのは、入会した時にもらった「青信号19号」でした。前年に行われた九州の狂化合宿の旅行記を、一年上のTさんが記していました。12日間の旅行で、たとえ一駅でも乗車した列車を、端から端まで全列車全車両を記しておられ、その几帳面さには脱帽でした。編成調べの醍醐味は、思いもよらない珍車や、全く別の配置区の客車が混じったりすることですが、端まで調べ上げて、初めて“何両編成”と分かり、感慨に浸るのも目的のひとつでした。今回は、そんな客車の編成両数です。
▲私が撮影した中で、一番の長大編成は、西鹿児島発東京行き「高千穂」の16両編成だった。客車急行の全盛時代、東海道・山陽線の主要な急行列車は、荷物・郵便車、区間の増結車両を含めて15両だった。寝台特急の20系固定編成も15両編成で、このあたりが、ホーム有効長、牽引定数などから限界のようだ。この写真は、それを上回る両数だが、真夏なのに1両目だけ窓が開いておらず、回送扱いと思われる。それにしても、二列車の併結ではなく、単独でこの長さ、さすが、この時代である(昭和40年9月)。
呉線小屋浦への思い
西日本の豪雨災害は、鉄道の被害が甚大で、復旧までには相当日数を要しそうです。馴染みのある線名や駅名が出てきて、とくに心が痛みます。なかでも、「坂町小屋浦から中継です」などと聞くと、思わずテレビに見入ってしまいます。そう、小屋浦と言えば、呉線にC59・C62が走っていた時代には、よく訪れた場所で、本欄でも、西村さんから小屋浦で写した客車が報告されています。改めて、ネガをひっぱり出して、昔日の穏やかだった光景に思いを馳せていました。
この地域で土砂災害を大きくしたのは、花崗岩が風化した真砂土が原因だと言われています。花崗岩は、とくに中央構造線の北側に多く分布していて、緑の山に、ところどころに白っぽい巨岩が露頭しているのは、関西以西ではよく見る光景です。この光景が、小屋浦で撮った写真にもあって、災害の要因が鉄道写真にも映り込んでいたことに、さらに思いを深くしたのでした。
▲山と海に挟まれた呉線は、短いトンネルを何度もくぐり抜けていた。朝、広島へ向けて、客車12両の列車が何本も通った(小屋浦~坂、昭和43年3月)。