天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【3】

最終日の阪国(昭和50年5月)

“阪国(はんこく)”と総称された阪神電鉄併用軌道線、残っていた国道線(野田~上甲子園)、北大阪線(野田~天神橋筋六丁目)、甲子園線(上甲子園~浜甲子園)は、昭和50年5月5日を持って廃止されました。モータリゼーション化の渦に飲み込まれて、とくに国道線は、もはや路面電車としての体を成していなかったのが最大の理由です。しかし、甲子園線は、通勤・通学客、行楽客が終日あって、阪神本線からのフィーダー輸送として活用され、北大阪線も一定の利用者はありましたが、社会や会社のなかに、路面電車を残そうとする気持ちは、まだ芽生えていない、これもまた“昭和”の世代の考えでした。

阪国の最終日は、5月5日の“こどもの日”の祝日、全区間が乗車無料という大盤振る舞い、多くの人で終日賑わった(野田)。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【2】

国道2号線のど真ん中を走った路面電車(昭和50年5月)
“阪神国道電車”、縮めて“阪国(はんこく)”と呼ばれた路面電車も、廃止されてから45年が経ちました。大正期、大阪と神戸の間に、新たな国道を建設することになり、阪神電鉄は、道路の中央に路面電車を走らせることになりました。別会社の阪神国道電軌を設立し、昭和2年に野田~東神戸の国道線の全線26.0kmを一挙に開業します。さらに、大正時代に開業していた北大阪線(野田~天神橋筋六丁目4.3km)、甲子園線(上甲子園~浜甲子園~中津浜3.6km)と合わせて、阪神電鉄の軌道線を構成し、正式には、阪神電鉄併用軌道線となっていました。車両は阪神国道電軌が開業時に製造した1形と、“金魚鉢”と呼ばれる側窓の大きな71、201、91形があって、三線で共通運用されていました。
北大阪線の天神橋筋六丁目で発車を待つ“金魚鉢”の201形、左手背後は、当時、阪急天六ビルで、もとは新京阪鉄道が建設した7階建ての駅ビルで、ターミナルビルの先駆けだった。北大阪線の野田~天神橋筋六丁目は、阪神電鉄の子会社に当たる北大阪電気軌道が建設認可を受け、阪神電鉄と合併したあとは、阪神自らの手で道路を新設して路面に線路を敷いた。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【1】

米手さんにならい、令和になってからの新シリーズ始めます。今までは「昭和」の鉄道をセッセと投稿してきましたが、大部分がモノクロで、平成に至るまで、ずっと撮影のメインフィルムとして使用してきました。一方で、カラーもソコソコは撮っています。カラーポジは、モノクロと平行しながら、昭和40年代前半から使っており、カラーネガも、モノクロフィルムの代替として、平成時代からは多用するようになりました。ただ、いずれも国産のフィルムであり、現在では、褪色やカビの発症があり、修整しても、なかなか原色に近づけることはできません。
しかし、古いフィルムの劣化は当然のことで、それを受け容れて、気にせずにカラーもどんどん発表すべきと思うようになりました。カラーの持つ情報量は、モノクロの比ではありませんし、時代を知る手掛かりとしては、最適の手段です。ただ、カラーは、モノクロの補助として恣意的に撮っていただけに、連続性に乏しく、記録としての価値は弱いのです。それなら、逆手にとって、“埋め草”として、メイン記事の繋ぎ役として、年代も意識せず載せて行けばと思いました。ただ無秩序に載せるのではなく、撮影月と、デジ青の掲載月は一致させて、季節感だけは感じられるようにしました。
カラーは、ポジ、ネガとも一応は整理している。ただ最終形が、ポジはマウント、スリーブのまま、ネガはプリント、一部はネガのままと、さまざまな形があり、なかなか一体となった整理ができないし、モノクロとの連携も取れない。

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 令和は、総仕上げの時代

令和に改元されてから10日が経過しました。令和元年という年は、私にとって会社をリタイアしてから10年が経過し、そして自身が70歳を迎える年でもあるのです。70歳と聞くと、“よくぞ生きて来た”の思いが交錯します。鉄道趣味人生も、最後のラストスパートのとき、過去を振り返りながらも、健康年齢の間にできる目標をしっかり掲げて、到達点を目指して、日々前向きに進んで行きたいと願っています。
ちょうど10年前、自由人になった頃、“デジ青”誌上で、これからの目標として、次の4点を掲げました(原文ママ)。
①以前に訪れた撮影地・駅を再訪問して、その変貌振りを確認したい。
②今では大きな価値も持たないが、JR全線乗車への努力を継続したい。
③車両だけでなく、鉄道遺産、バス、近代建築など個人的な興味にも時間を割きたい。
④この年齢、この時期だからこそ利用できる特典・割引は最大限に享受する。
以上の4点、どう実行できたか、この10年を検証しながら、令和の時代の趣味生活を見据えてみたいと思います。
10連休も終わったが、365日連休の私にとっては、“それが、なんやねん”という気持ちだ。ただ新幹線の混雑や、高速道路の渋滞を聞くと、何か取り残されたような疎外感を味わいながら、家に引き籠もっていた。唯一行ったのが、近くの阪急桂川鉄橋の夕景で、撮ってから、写真ソフトで“いじる”楽しさを覚えた。体力、気力が衰えた今、軽いカメラでサクッと撮って、すぐ引き揚げる。自分で“撮りたいもの”だけを撮る、この信念を貫きたい。

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 平成最後は115系ざんまい 〈下〉

北しなの線の撮影後は長野に宿泊し、翌日は軽井沢~篠ノ井のしなの鉄道線へ向かいました。風景の点では、浅間山麓の軽井沢~小諸の選択となりますが、今回は、より本数が稼げる小諸~上田~篠ノ井で、復刻色を中心とした編成本位の撮影としました。
1997年のしなの鉄道開業から活躍を続ける115系ですが、いよいよ新車両への置き換えがアナウンスされ、JR東日本のE129系と同t型車体の新車両「SR1系」52両を、2019年度から8年をかけて導入し、115系と置き換えることになりました。まず2020年7月、ライナー用の6両から順次運用を開始する予定で、来年度からは、いよいよ115系の撤退が始まることになります。

朝の7時台の長野駅ホームで発車を待っていたのは、塗装変更の最新バージョン、「台鉄自強号色」S9編成だった。強烈な塗装が、薄暗いホームで輝いていた(2019-4-25)。

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 平成最後は115系ざんまい 〈中〉

しなの鉄道北しなの線

信越本線鯨波で列車を撮影後、直江津まで乗車し、えちごトキめき鉄道に乗り換えて、終点の妙高高原から、しなの鉄道北しなの線に乗り換えました。えちごトキめき鉄道、しなの鉄道北しなの線ともに、もとは信越本線の一部で、2015年3月北陸新幹線長野~金沢の開業時に、並行在来線として経営分離された区間で、両線とも初乗車となりました。しなの鉄道は、すべてJR東日本から譲渡された115系で占められ、軽井沢~篠ノ井のしなの鉄道線とともに、両線で使用されています。外部塗装は、しなの鉄道発足時に制定された、ガンメタリック・グレーのオリジナル塗装ですが、「懐かしの車体カラー」と称した、国鉄・JR時代の復刻塗装など、多くのカラーバリエーションがあります。

黒姫~妙高高原を行く、湘南色に復刻塗装された、しなの鉄道のS3編成。同区間は、北しなの線では唯一の複線区間となっている(2019-4-24)。

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 平成最後は115系ざんまい 〈上〉

総数1921両を数えた115系電車も急速に数を減らしてきました。JR西日本では岡山電車区に少数残るだけ、JR東日本では、北関東の高崎・上越・両毛線で最近まで活躍が続きましたが211系などに置き換わりました。115系は、国鉄・JRに数多くあった“新性能電車”の一系列に過ぎませんが、私にとっては格別の思いがあります。まだ昭和の30年代、上野から日光まで乗ったのが、新製間もない115系でした。関西には、東京で使い古した車両しか来なかった時代だけに、ピッカピッカの車内に少年の心が躍りました。関西に久しぶりの新製電車である113系が投入されるのは、その翌年まで待たなければなりません。
格別の思いがある115系ですが、新潟車両センター、しなの鉄道には、まだ相当数の115系が活躍しています。しかし後継車両の増備が進んだり、置換え車両が発表されたりして、先が見えてきました。そんな思いを持って、平成最後の遠出として、新潟・長野を早回りしてきました。

新潟地区の115系のなかで、注目は“初代新潟色”と言われる赤黄の塗装のN40編成だ。まだ70系の時代、とくに雪の季節の目立つように、当時としては派手な赤黄に塗られた。この編成の事前情報が乏しく不安のなかでの撮影だったが、真っ先にやって来たのが、この編成で実にラッキーだった(鯨波~青海川 2019-4-24)。

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 平成の桜を振り返る 【3】

 京津線蹴上の桜

平成の桜、阪急のつぎは京阪です。京阪の桜、と言えば、我々の世代では鴨川沿いの桜となりますが、これは、昭和の出来事、平成はすでに地下に潜っていますから、改めて時の流れの早さを感じます。平成時代の桜は、やはり京津線蹴上の桜でしょう。並行していた琵琶湖疏水のインクライン沿いに桜の並木が続いていました。この区間が廃止されて、市営地下鉄東西線に道を譲ったのが平成9年、もう20年以上前になります。この頃はカラーポジの全盛で、京津線と桜を絡めて、よく撮ったものです。ところが、私にとっては、もっと以前に廃止された鉄道にばかりに時間をとられ、京津線のことは、全く採り上げることはありませんでした。
京津線蹴上駅は、低床ホームが三条通にあり、電車の到着を待つ人びとの様子を、桜と重ねて狙ったものだ(以下すべて平成9年4月撮影)。

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈15〉

京阪特急への憧れ

阪急デイ100が大好きだった羽村さんですが、アルバム後半からは、京阪電車も多く見られるようになります。京都市内だけではなく、大阪まで足を伸ばして、走行中を撮っています。以下の写真は、昭和27年の撮影ですが、京阪の歴史を紐解くと、昭和25年に初めて「特急」が朝夕2往復走り出し、その翌年、昭和26年4月からは終日運転に拡大されます。この時、特急専用車として1700、1750形が計10両新造され、MT2両固定編成となり、初めて赤黄の特急色が採用されました。当時の国鉄、阪急にはない派手なカラーが、羽村さんの心を動かしたのでしょうか。
京橋を発車し、野田橋へ向けての併用軌道区間を行く鳩マークの天満橋行き特急。特急は、三条、天満橋とも7時始発、ラッシュ時30~40分ごと、10~17時1時間ごと、終発は20時で、三条~天満橋53分だった(昭和27年12月)。

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 羽村さんが遺したアルバムから 〈14〉

完成した三代目京都駅

平成の終わりが刻一刻と迫ってきていますが、デジ青投稿も積み残しのテーマが多くあって、焦りを感じています。羽村さんから預かった写真だけでも、大急ぎで載せていくことにします。今回は、昭和27年5月に完成した三代目京都駅です。この羽村さんシリーズでも京都駅は多く採り上げられており、〈1〉では二代目駅舎、〈10〉では、焼失した二代目に代わる、三代目駅舎の建築中の様子が紹介されています。今回は、その三代目駅舎が、焼失後わずか一年半で完成し、業務を開始したあとの姿です。
高さ30m、8階建て、真っ白な塔屋が青空に映える三代目京都駅。おそらく当時では、京都で一番高い建物だったのだろう。この塔屋には、以前にも記したが、フロアごとに飲食店が入り食堂街となった。

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 平成の桜を振り返る 【2】

阪急嵐山線

平成の桜、つぎは阪急嵐山線へ向かいます。終点の嵐山駅も、周囲は桜に囲まれていますが、途中の上桂、松尾の二駅にも、ホームに沿って桜が植えられて、とくに春秋のシーズンに運転される梅田~嵐山の臨時電車の運転の際には、よく訪れたものでした。現在もホームの桜は、変わらずに咲いていますが、車両はすっかり様変わりしました。

上桂駅には、両側のホームに桜が植えられていた。京都のほかの桜より、開花が2、3日早いようで、桜のシーズンは、まず上桂へ行って、その年の開花状況を占ったものだ(平成11年)。

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 桜井線を走った蒸機列車

先般のクローバー会“桜井線ツアー”、知られざる廃線跡、構造物を巡りながら、参加者と歓談し、収穫の多いツアーとなりました。このツアーで、櫟本駅を下車して、北側の楢町橋梁まで歩いて、ポリクロミーの橋台を見学したあと、周辺の踏切で、まもなく置き換えが始まる105系を写すことになりました。踏切に立ったとたん、初めて来た場所のつもりなのに、なにか以前に来たことがあるような既視感にとらわれました。その時は、よく分からず、帰ってから、かすかな記憶力を振り絞って思い出すと、30年以上前に、この場所で蒸機を撮ったことを思い出しました。
櫟本で下車して、桜井線によく見られるポリクロミーの橋台を見学して、みんなと105系の撮影をした。大半は西側にある菜の花で“前ピン撮影”に臨んだが、私は踏切近くに張り付いた。南北に築堤があって、田んぼの向こうに学校が見える、どこでも見られる、当たり前の風景、一瞬、以前にも訪れたような気がした。

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 平成の桜を振り返る 【1】

ことしの桜シーズンも京都周辺では終わりました。この歳になると“あと何度、桜が見られるだろう”のフレーズが、身を持って感じられます。ことしは、ぶんしゅうさんと連れ立って、各地の三セク鉄道へも行きました。時あたかも、あと二週間で平成も終わります。去りゆく元号を惜しんで、“平成の桜”を思い返してみたいと思います。平成時代の31年間、桜のシーズンになると、鉄道との組み合わせを求めて近郊へ出掛けたものです。撮影する場所は毎年同じでも、車両が代わり、桜の樹勢も変わっていきます。平成に巡り会った桜は、鉄道の移り変わりそのものでもあるのです。

 阪急西向日駅の桜

京都方面行きホームの背後には桜並木が続いていた。その後、ここは宅地開発されて、桜は全くなくなっている。旧スタイルの駅名標も懐かしい(平成7年)。

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 江若鉄道展 ちょっといい話 (4)総集編

「江若鉄道廃線50年 懐かしの写真展&鉄道模型運転会」、4日間の会期を終えて去る24日に幕を下ろしました。4日間の入場者は約300人、ピーク時には十数人が会場にあふれ、賑やかな思い出話に花が咲きました。駅前とは言え京都・大阪からは時間もカネも掛かる立地、ビルの都合で入り口には一切の案内表示なし(にも関わらずアンケートの来場理由の選択項目に「通りすがりに入った」とあったが、絶対にあり得ない話)、そして有料入場と、決して恵まれた条件ではありませんでした。どれほどの来場があるのか未知数でしたが、初日の開場早々からそれは杞憂に終わり、続々のご来場でスタッフは応対に嬉しい悲鳴を上げていました。

言うまでもなく、西村さんの江若鉄道の車両模型、滋賀鉄道模型愛好会の組立式レイアウトでの運転会、Sさんの湖西線写真展、ほか江若鉄道OBや主宰者の孫さんまで協力した多種多様な展示の賜物です。この種の展示会は、会場の賑やかさが成否のバロメーターだと私は思います。初対面の同士でも、写真をネタに会話が盛り上がれば大成功です。京都市電展と同じく、うるさいほどの会話が会場に充満していました。ご来場の皆さんは、やはり地元の大津市、高島市の方が圧倒的で、とくに江若鉄道のOBの皆さんは、同窓会状態が連日繰り返されていました。また鉄道雑誌の記事を見て関東方面からも数名がお見えでした。
最終日では、西村さん製作の歴代の江若鉄道模型を運転し、ラストランを飾った。湖西線の駅で待避する113系、485系「雷鳥」を、江若鉄道DCが追い抜く(!?)というシーンも見られた。

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 江若鉄道展 ちょっといい話 (3)

本稿(1)で江若鉄道OBの皆さんが、写真に写っている仲間たちの名前当てに興じていることを伝えましたが、自分の姿が写っている写真に巡り会うOBは、なかなかありません。たしか最初のスカイプラザ浜大津の展示の際に、叡山駅を通過する列車のタブレット授受の写真のなかの駅長が、会場にお見えになり、“自分が写っています”となり、その写真を後日お渡し喜んでいただいたことがありました。本日、なんと二例目の方が来られて、びっくりしました。
この写真、昭和44年11月1日の「さよなら列車」の車内の様子、くだんの方は、この車両ではなく、なんと次位の車両で列車を運転されている方だった。お見えになった途端“これワシやで”となって、会場が一気に盛り上がった。ちゃんと、顔写真入りの動力車運転免許証を持参され、「50年前は若かったなぁ、いま79歳や」と述懐されながら、まだ記憶力の衰えを見せず、つきつぎと当時の思い出話が湧いて出た。

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 江若鉄道展 ちょっといい話 (2)

「江若鉄道廃線50年 懐かしの写真展&鉄道模型運転会」、三日目の土曜日は、今までの最高の入りを記録し、朝から会場は大賑わいでした。クローバー会の皆さんや趣味仲間に来ていただき、有り難いことでした。なかでも元江若鉄道のC111を動態保存に向けて補修中の東武鉄道のHさんがご来場いただき、びっくりしました。Hさんは、同機の移送に最初から取り組まれた功労者で、本日は、修復中の写真をお届けいただいたのでした。
「最後の二日間」では、さりげなくDRFCの告知もしている。営業最終日の前日の晩9時頃、「江若鉄道にDRFCのヘッドマークを付けたい!」と突然思い立った。この時間では材料も調達できない。家にある材料でやるしかない。そこで、妹の使っていた画用紙を使い、マジックインクで下手なレタリングをして「湖国を走り続けて半世紀 さようなら江若鉄道 同志社大学鉄道同好会」と書いて、色鉛筆で縁取りした。写真展に使った木製パネルに貼り付けたが、ちょっと華やかさに欠ける。一計を案じて、押し入れの中から、クリスマスツリーに使うモールを見つけ、周囲に取り付けた。これで材料費ゼロで、ヘッドマークが出来上がった。夜も白々と明けてきた。結局一睡もせず、京津線の一番電車で、浜大津へ向かった。午後から三井寺下機関区を訪れた際に区長に「付けてください!」と直談判した。即座にOKになり、もう少し難航するのかと思っていたのに拍子抜けしてしまった。あまり写真を大きくするのも嫌味なので、少し小さいサイズにしてDRFCへのリスペクトとした。

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 江若鉄道展 ちょっといい話 (1)

「江若鉄道廃線50年 懐かしの写真展&鉄道模型運転会」、二日目の本日、平日のため出足はゆっくりですが、その分、皆さんは時間を掛けて、写真・模型と対話されて、ご自身を50年前にワープされています。地元の無印不良品さん、Tさん、デジ青コメンテーターの紫の1863さんら関係者も来られ、また以前の江若鉄道展でお目にかかった方とも久しぶりの再会を果たし、旧交を暖めることができました。
会場で見つけた、“ちょっといい話”をいくつか拾ってみました。廃止前の江若鉄道では朝夕一往復「快速」が運転されていた。主要駅のみ停車で、晩年は総括制御の3両編成が運用に就いていた。通過する叡山駅では、駅員、助役の二人掛かりでタブレットの授受を行なっている。運転するほうも、機関士以外に、タブレットの授受だけに機関助士も乗務していた。もちろん車掌も乗っているし、ずいぶん人手が要った快速列車だった。通過速度もマチマチで、最徐行で進入することもあれば、遅延の時など制限速度いっぱいで通過することもあり、素手での授受は、時には危険な目に遭うこともあったと、会場に参集された江若鉄道OBが言っておられた。OBの眼は、さらに二人に注がれて、すぐ「○○さんや!」となった。受け手の駅員の「手の形が決まっとる」ともおっしゃった。なるほど、絵になるポーズだ。

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 本日から「江若廃止50年 写真展&鉄道模型運転会」

江若鉄道が昭和44(1969)年に廃止されてから、今年でちょうど50年を迎えることになります。そして、来年は江若鉄道が創立されて百周年となります。それを記念して、またまた江若鉄道の写真展・模型運転会を行なうことになりました。

 「江若鉄道廃線50年 懐かしの写真展&鉄道模型運転会」
3月21日(木・祝)~24日(日) 4日間 10:00~17:00(最終日16:00まで)
江若交通ビル5階会議室(JR湖西線堅田駅下車左手すぐ)
入場料 おとな500円

西村さん製作の模型・ジオラマに、私の写真も加えた江若鉄道展は、これまでスカイプラザ浜大津で2回、大津市歴史博物館でも2回、びわ湖大津館、旧大津公会堂、伊香立香の里史料館、琵琶湖グランドホテル、藤樹の里文化芸術会館(高島市)と、江若鉄道ゆかりの地で、形を変えて、写真、模型・ジオラマを展示してきました。“江若をおかずに、何杯メシ食うのゃ”と言われそうですが、江若は何度食べても忘れられない味なのです。ただ、従来と異なるのは、いままでは公立、またそれに準じた公的施設での展示でした。今回は、展示企画に賛同した同好団体、個人が手弁当で集合、実行している点です。いちばん大きな問題だった会場も、江若鉄道の後継となる、江若交通さんのご理解をいただき、ゆかりの堅田で行なうことができました。中心になって奔走いただいた滋賀鉄道模型愛好会の事務局様には、感謝申し上げる次第です。

会場はJR湖西線の堅田駅の真ん前、ホームからもよく見える江若交通本社ビルの5階です。ただ、一階の入り口が奥まっていて戸惑います。コンビニの右側の奥に5階へ通じる江若交通本社ビルの入り口があります。

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 存廃に揺れる北海道の駅を巡る (4)

釧路・根室付近 50年前といま ①
根室本線の釧路・根室付近へは、50年前に均一周遊券を握りしめて行った時は、京都・大阪から、急行を乗り継ぎ夜行2連泊して、釧路には午後、根室には夕方にやっと着いたものです。半日で行くことができる現在から見ると、まさに最果ての地の思いがありました。しかも、夜行のあと、駅で降りて、10キロも20キロも歩いて、駅間で写したものでした。今から考えるとよくぞ行ったものだと思います。
そこで、釧路・根室付近の駅で写した“50年前”と“いま”を対比してみました。
釧路から西へ30分の白糠、昭和58年まで北進に向けて白糠線が分岐していて、釧路以西の中枢駅だったが、いまは静かさだけが支配する駅になっていた。

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 存廃に揺れる北海道の駅を巡る (3)

もう一昨日実施のダイヤ改正で廃止されましたが、根室本線の廃止3駅のうち、残る初田牛へも、直別・尺別を訪問した翌朝に行きました。初田牛があるのは、“花咲線”の愛称のある釧路~根室であり、同じ根室本線ながらも、釧路以西とは、別の運転体系になっています。輸送密度は帯広~釧路が約2300人に対し、釧路~根室は約450人と格段に少なく、「JR北海道単独では維持が困難な路線」の一つに数えられています。できれば初田牛に下車したいところですが、一日6往復、中間の茶内で上下が交換するネットダイヤになっていて、次の列車とは2~3時間の空きがあり、どう考えてもロスが大きく、釧路~根室を往復して、車中からの撮影にとどめました。3月16日に廃止された根室本線初田牛駅、駅名標とプレハブ造りの駅舎があるだけの棒線駅。 続きを読む