投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
クローバー会写真展まで あと一週間!
本欄のトップページが写真展告知に変わってから、いよいよ開催が近づいて来たことを実感します。あちこちに首を突っ込みながら、加齢でめっきり弱った元気、やる気を奮い立たせて準備を進めています。ご協力いただいた皆さんには、厚く御礼申し上げます。さて、写真展の告知については、本欄以外でも、特製はがきの配布や、鉄道雑誌の記事掲載などを行って、会の内外から期待の声もいただいていますが、“見に行きたいが、いったい、どこでやるのか”など、遠来の方からの声も頂戴しています。そこで、近くの阪急河原町駅、京阪祇園四条駅から、写真展会場への行き方をご案内して、一週間前の区切りとしましょう。
▲たまたまお知り合いの方が、同じ会場で写真展をされることになり、昨日は会場へお邪魔して、作業の手伝いがてら、写真パネルの貼り付けテストなどを行った。
四条を通って祇園へ ~昭和の初詣風景~ 〈下〉
昭和の四条通、四条京阪前から、祇園へ向かうことにしました。四条通には昭和47年まで市電が走り、祇園まで行けば、外周線が昭和53年まで見られました。祇園の交差点に建つ八坂神社の西楼門石段から見る光景は、京都市電の格好の写材を提供していました。とくに、人で埋まる初詣のシーンを求めて、廃止前の数年は必ず訪れたものでした。▲石段から見下ろすと、外周線の市電と人出が、うまく俯瞰できた。交差する四条通は明治まで狭い道路幅だったが、明治末期に京都市は近代化の三大事業に着手し、そのひとつが四条通など主要道路の拡幅と市営電車の経営だった。四条通は市営電車の第一期線として明治45年に開業した。当初の停留場名は「祇園石段下」で、昭和20年ごろに「祇園」に改称されている。昭和47年に廃止された。
四条を通って祇園へ ~昭和の初詣風景~ 〈上〉
昨日は、四条通を歩いて、八坂神社へ初詣に出掛けました。昭和の時代、地上の京阪四条駅から、歩道にあふれそうな人並みが、祇園までずっと続いていたことを、ふと思い出しました。四条通りには、昭和47年まで市電が走っていましたし、祇園まで行けば、市電外周線の初詣風景は、昭和53年まで見られたものです。京阪も地下に潜ってから32年が経ち、いま見る当たり前の光景が、ずっと昔から続いているような錯覚に陥ります。京阪、市電が走っていた時代は、私の感覚からしても、はるか遠い過去の思い出になってしまいました。
ちょうど再来週から、四条通の「西利」で開催される、わがクローバー会の写真展でも、四条通の市電を特集して、会員の撮った懐かしい写真を展示することにしました。▲「京阪特急10分ごと」の横断幕が目に入る京阪四条駅の三条方面乗り場、つぎつぎ到着する電車から吐き出された乗客は、四条通りを埋めるようにして、祇園方面に向かっていった(昭和57年)。
正月は やっぱり“住吉詣で”
羽村さんが遺したアルバムから 〈カラー版〉〈13〉
正月の京都駅前の賑わい 昭和36年
平成最後の年が明けました。珍しく一日中テレビの番をしていると、平成時代を総括する特番が多くあり、見ていますと、“昭和か平成か、どちらが良かったか”との調査結果がありました。昭和を知らない若い世代が、平成を良かったと回答するのは当然としても、両方の時代を経験したはずの中高年では、すべての年代で“昭和”が圧倒的でした。われわれが昭和の鉄道の検証に熱心なのもよく分かります。で、平成最後の年も、羽村さんの昭和の正月風景から始めることにします。
▲いつもはモノクロの羽村さんシリーズだが、少数だがカラーポジも遺されていた。昭和36年の正月に、京都駅前で京都市電を撮られたものだ。写真は、河原町線、伏見・稲荷線が発着していた東乗り場の光景、「いなり行き市電のりば」の看板の下には、きっぷ売り場まで出る賑わいだ。これだけ見ると、昭和30年代の当たり前の正月風景に見えるが、よく見ると、行き先幕は「白梅町」、緑地の「臨」系統板、そう、この市電は、これから手前の東西連絡線を渡って、西乗り場へ行き、スイッチバックして、烏丸線を北上するのである。通常は、営業車両が通らない東西連絡線を、正月の臨時電車が乗客を乗せて行く貴重なカラー写真だ。
京都駅にまつわる小ネタ集 〈4〉
山陰本線ホーム先端で出会ったC51たち
当時の京都駅では、本線1番ホームの延長部に、島式ホームの山陰1番、山陰2番ホームが、ずっと西まで延びていました。架線も無く、一挙にローカルムードあふれた雰囲気になりました。その先端部に行くと、乗客に邪魔されることもなく、屋根も途切れて順光下で、発車待ちする山陰線の列車、また東海道本線を上下する列車もとらえることが出来ました。鉄道少年だった昭和40年前後、よく通ったところでした。梅小路機関区にはC51が健在で、これを目当てに、よく終端部を訪れたものです。ことし最後の小ネタ集は、ここで出会った列車の思い出としました。
▲山陰本線ホームを発車するC51 271の牽く胡麻行き2323レ、昭和40年当時、C51は、全国で5両しか残っていなかった。そのうち、124、271の2両が梅小路機関区に残り、山陰本線で最後の活躍をしていた(昭和40年4月3日)。
北のC62 全記録 〈12〉
C62ゴールデンコンビの牽く「ニセコ1号」に乗る 昭和44年9月10日
いえいえ、私は店仕舞いしませんよ。まだ続けます。
上目名151km地点で撮ったあとは、北海道各地を転戦し、“現地闘争”と称した撮影会を抜海、常紋で行いました。当時のメモ帳を見ると、12人のDRFCメンバーが記されていました。均一周遊券を握りしめて、夜行列車を何日間も乗り継いで、やって来たのです。こんな時代に、12人もの仲間が集まったこと、当時の連帯感を感じました。
私は、ほかの撮影地にも寄って、10日ぶりに札幌に戻って来ました。後半は、C62重連に集中することにしました。まず撮影地の下見も兼ねて、札幌から長万部まで「ニセコ1号」に乗車することにします。窓を開けての撮影に適した座席を確保するために、早めに並びますが、難なく、右手進行方向の席をゲット。札幌からのヤマ線経由の乗車客は少ないことを改めて知りました。
▲札幌10時05分発、つぎは小樽に停車で、電機はここまで、C62に交代する。いそいそと先頭へ行き、近づいて来た牽引機を確認すると、「2」と「3」のプレートが。
クローバー会写真展まで 一ヵ月足らず!
第8回クローバー会写真展の開催まで、あと一ヵ月足らずとなりました。
クローバー会 第8回写真展「鉄路輝く」
2019年1月23日(水)~29日(火)
京都・祇園「ぎゃらりぃ西利」(京阪祇園四条駅下車東へ5分)
会員の皆さんからからは、続々と写真が寄せられています。早い人は、まだ暑いうちから応募があったほか、いまも滑り込みの応募が続いています。ご協力いただいた皆さんには、改めて御礼申し上げます。皆さんの熱心さに押されて、のんびり構えていた担当者もやっと本格的に動き出しました。明日には、第一回のプリントが出来上がる予定で、どんな写真が出来上ってくるかワクワクしています。
写真展の告知も計画的に進めています。本欄でも鉄鈍爺さんから、鉄道雑誌社のWEB版告知を案内してもらっています。21日発売の主要鉄道雑誌にも、すべて写真入りで案内が掲載されていますので、ご確認ください。会員の皆さんには、お願いごとや、期間中のイベントなどのご案内を追って差し上げますので、よろしくお願いします。期間中は無休、出入り自由、冷やかし歓迎、そして入場無料。また祇園でお会いしましょう。 鉄道雑誌の案内
▲皆さんから送られてきたデータやネガなど、中央は特製はがき。なかには歴史の感じられる、酢酸臭プンプンのネガもあって、担当者は酔いしれています。
京都駅にまつわる小ネタ集 (3)
平面クロスを渡って1番ホームに到着した特急列車
いつもコメントをいただく1900生さんから、京都駅にあった平面クロスについての思い出コメントがありました。私も、その豪快な通過音をよく覚えています。昭和40年代前半まで、京都~向日町の複々線は、南側2線が旅客線、北側2線が貨物線でした。このため、1番ホームに入線する上り旅客列車は、貨物線を横断しなければならず、下り貨物線、上り貨物線の2線分を平面クロスして、1番ホームに入線する珍しい構内配線になっていました。これは、何としても、京都駅の顔である本屋側の1番ホームに、特急などの優等列車を入線させたいとの思いがあったのでしょう。
昭和47年に構内配線が改良されて、下り貨物は、本線と奈良線の間の12番線(当時)に変更され、複々線の列車種別も変更されて、平面クロスは解消されました。現在でも、0番ホームに入線する列車は、当時の面影を残した入線シーンを見せていますが、あくまで分岐ポイントであり、豪快な平面クロスを聞くことはできなくなりました。▲貨物線と平面クロスして京都駅1番ホームに入る「白鳥」。まだ上野・青森行きの
分割編成時代だったが、親不知付近だったと思うが、大規模な土砂崩れで北陸本線が不通となり、富山行きに変更されていた(昭和40年9月)。
岡崎公園で 一人クリスマス?
▲まるで京都のどこかの停留場で、信号待ちしているような雰囲気に浸れる。
日ごろのデジ青投稿の疲れ(?)を癒やすため、昨日、久しぶりに撮影に出掛けました。同じ撮るなら、この時期しか撮れないものと思い、歩いて京都は岡崎公園に向かいました。交番の裏の公園に、「岡崎・市電コンシェルジェ」として京都市電1860号が置かれています。前にも紹介しましたが、大宮交通公園に置かれていた同号を、整備のうえ、岡崎公園に移設、訪れる市民や観光客の案内所として使われています。“この時期”というのは、夕景を撮るためです。車内は白熱灯風の照明で、灯ともし頃となると、なかなかの風情となります。18時までの営業ですので、このシーンを撮るには秋冬しかありません。
京都駅にまつわる小ネタ集 (2)
三代目京都駅の塔屋にあった食堂街
もうひとつ、コメントに対するご返答を‥。河さん、米手さんから、三代目京都駅の塔屋にあった、食堂街についての思い出や解説がありました。私にも思い出があります。京都タワーもポルタも何も無かった時代の京都駅前、家族でマシに食事すると言えば、京都駅塔屋の食堂街か、丸物百貨店の食堂しか無かったと思います。京都の北部に住んでいた私ですので、旅行以外で、京都駅前に行くことはほとんどありませんでしたが、これらの食堂は数少ないハレの場でした。お知り合いの方から、この食堂街を運営していた京都駅観光デパートの年史・新聞記事を見せていただきましたので、この中から、少し様子を探って見ました。
▲京都新聞に載った京都駅観光デパート開業(昭和27年10月)の全面広告、右下に食堂街の店舗が紹介されており、3階から上へ、輿太呂、ハマムラ、江戸川、若狭屋、丸物食堂が入っていた。2階には、都ホテル直営のレストランがあったと思う。2階の売り場の店舗名も懐かしい(京都駅観光デパート20年史より転載)。
京都駅にまつわる小ネタ集 (1)
1900生さん思い出の山陰線機回し線の写真を発掘!
デジ青投稿に対して、多くのコメントをいただき、返答を心掛けていますが、いい返答材料が見つからず、保留のままのものもあります。いつもコメントを頂戴する1900生さんからも、何かの投稿で、京都駅山陰本線ホームの終端部にあった機回し線についてコメントがありました。少し前のことで、いま検索しても、どの記事だったのも定かではありませんが、付近の写真は撮っているものの、ホームで隠れたりして、公開するような写真がなく、気掛かりになったままでした。本日、クローバー会写真展の準備のために、乙訓老人さんから預かったネガをスキャンしていると、“これや!”と、飛び上がるような、スバリの写真を見つけました。1900生さん、これでしたね。
▲京都駅山陰本線11番ホームの終端部にあった機回し線、ホームもカーブしていて、長い編成の到着だと、カマがカーブ上に停車していた。すぐにカマだけ切り離されて機回し線を通って、編成の後部に連結、区や客車ヤードへ回送された。逆の角度から撮ったことは何度もあるが、終端部そのものを撮った写真は見たことが無い。しかも、牽引機が試作のDF411というのも貴重だ。さすがに、何でも撮っておられる乙訓老人さんだ。そして、つぎのコマをスキャンしてみると…。
北のC62 全記録 〈11〉
大沼のYHで久しぶりにぐっすり寝て、生気を取り戻し、普通列車に乗り続けて、一年ぶりに上目名に下車しました。一年を経てもC62の聖地は、まだ穏やかなもので、ほんの数人が降り立った程度です。今回、写真を見返して分かりましたが、この日は、ぶんしゅうさん、1900生さんとご一緒でした。そして、向かった先は、歩いて約一時間の151kmポスト付近。昨年も一度来たところで、周囲が急に開けて、右手にはちょっとした高台があって、ここだけブッシュもなく、難なく上まで到達できます。
▲上目名~目名151km地点の上り「ニセコ3号」。高台からでも写せるが、C62の迫力を出したかったので、レールよりやや低い位置から狙ってみた。去年と違うのは、この爆煙だ。サービスなのかどうかは知らないが、去年のスカのような煙とは、大きな違い、あまりの煙で、編成が隠れてしまった。
北のC62 全記録 〈10〉
大沼で上下の「ニセコ」を撮る 昭和44年8月28日
五稜郭で上り「すずらん6号」を写したあとは、大沼へ向かいました。昨年も行ったことがある、駒ヶ岳・小沼を展望する、線路と国道に挟まれた小高い丘に登り、眼下を行く列車を撮りました。函館が北海道の玄関口の時代、続々と列車が走り抜けます。交通の便もよく、大沼はホントに恵まれた撮影地でした。
▲14時45分ごろに通過する、「ていね」改め「ニセコ3号」を、湖畔に沿ってカーブに掛かるのをとらえる。牽引するのはC6244〔築〕。時刻は「ていね」時代とほぼ変わらないが、大沼は通過、つぎの大沼公園には停車する。「ていね」時代と比べると、食堂車がなくなり、優等車両はグリーン車1両のみで、急行列車としての格が落ちた感じがする。昭和44年5月から、称号が二等車からグリーン車に変更されている。
北のC62 全記録 〈9〉
ひとつ前の投稿で、羽村さんが撮られたC621の原型写真を見て、つくづくC62は力強さにあふれた魅力的な機関車だと再認識しました。私も自分で撮ったC62を急に公開したくなり、「北のC62」シリーズを再開することにしました。
前回は、初めて北海道を訪れた昭和43年8、9月のC62の記録でした。今回は、その翌年、昭和44(1969)年8月28日から北海道入りして、各地を転戦しながら、C62を追った記録です。
▲この年の北海道行きは、前年と同じ花輪線竜ヶ森で夏の狂化合宿が行われたあとに訪問したもの。前回以上の会員が渡道し、各地で“現地闘争”と称した撮影会を行なった。私は竜ヶ森のあと、奥羽本線矢立峠でC61を撮ってから、深夜の連絡船で函館に到着。前回と同じ列車でまず五稜郭へ行き、「たるまえ」改め「すずらん6号」を待った。牽引はC6244である以外、前年と全く同じ構図の写真が、第一号の写真となった。