阪急 251+201

251 39-5-3
桂/昭和39年5月3日

平成25年度の「昭和の電車」の幕開けは、新年にふさわしく阪急251であった。
我々の世代が現役の頃は、嵐山線専用車となっていたので桂駅で見られたり、実際に乗られた方も多いのではなかろうか。私自身小学生の頃、初めてこの電車を見た時、阪急には不思議な電車があるものだと思った。

前歴は焼失したP-5形のデロ25とフロ55の足周りを利用して昭和12年田中車輌で新製された。千里山線で使用されていたが、小型車2両固定編成のため輸送力が追い付かず嵐山線で使用された。昭和40年代になると嵐山線でも乗客の増加により朝のラッシュ時はP-6等の大型車が入り休んでいたように思う。

松尾駅の201+251/(39-1-25)
201 松尾 39-3-21

松尾駅の212+261+211/(39-1-25)
251+201と共に嵐山線専用車として使用されていた。前歴は新京阪から引継いだ電動貨車3000形の電装品、台車を流用して昭和31年ナニワ工機で新製された。当初は千里山線で使用されていたが、小型車3両固定編成のため使い勝手が悪く、38年頃から嵐山線専用となった。51年廃車となり212と211は広島電鉄宮島線で再起した。
212 松尾 39-3-21

桂駅を発車した251+201/(43-8-15)
251 43-8-15桂

桂駅停車中の131+1516/(43-8-15)
上と同じ日の撮影であるが、この日は212+261+211の代わりにP-6の2連が入っていた。
43-8-15 131+1516

今でも気になる江若鉄道(番外編)

56-1-18 栗原
栗原(昭和56年1月18日)/写真の子供達は今では35~40歳になられている筈である。このバスのことを覚えておられるであろうか。

昭和44年11月1日鉄道廃止後、江若鉄道は江若交通に社名を変更してバス専業となったことはご存知の通りである。私と江若との関係はこの時点で一旦途切れたが、数年後再度江若通いが復活した。

49年秋頃だったと思うが、職場の同僚から「鯖街道を車で走っていたらボンネットバスと擦れ違った」という話を聞いた。湖西線開業後、堅田、安曇川、近江今津の各駅には何度か乗り降りしているが、ボンネットバスなど見たことがなく俄かに信じ難かったが、やはり気になるので堅田まで出かけてみた。駅到着直前左手のバスの車庫を見ると確かにボンネットバスが停まっていた。夕方になると次々出庫して、和邇行、町内循環、細川行で発車して行った。

昭和55年1月には、「滋2い1073」「滋2い1074」「滋2い1081」「滋2い1082」の4両が健在で、葛川線、和邇・途中線、栗原線、堅田町内循環線(朝・夕のみ)、浜大津線の本堅田~和邇駅間(和邇・途中線と栗原線の入出庫運用)で使用されていたが、同年2月から中型リヤエンジン車と代替で廃車が始まり、57年2月には全車姿を消した。
現役時代を写真で振り返ってみた。

滋2い1073/ (51-11-21)
41年2月初年度登録 いすゞBXD30、車体は帝国自動車製(メーカーと車体は以下の3両も同じ)、昭和55年2月13日付で廃車になった。
部品取り車として、堅田営業所、後に整備工場の片隅に置かれていたが、福山自動車博物館でレストアされ、福島県の磐梯東都バスで再起した。「森のくまさん号」の愛称で観光シーズンに桧原湖周遊線で使用されている。
51-11-21 1073堅田

滋2い1074 (55-6-1)
41年6月初年度登録で、56年2月12日付で廃車になった。廃車後、堅田の「名鉄マリーナホテル」に売却、この後近江鉄道に売却され、現在も「彦根ご城下巡回バス」に使用されてる。
55-6-1 1074

滋2い1081 (57-2-11)
42年7月初年度登録で最後まで残り、57年2月16日付で廃車になった。最後の1両になった時、予備車として殆ど稼働しないのではないかと思ったが、ほぼ連日、葛川線の堅田~細川間を1往復走行した。会社主催の撮影会、趣味団体のお別れ乗車撮影会も開催され、最終営業日の2月15日には細川で折返しの間合い時間を利用して、葛川小学校の生徒を招待して葛川学校前~坊村間を往復した。廃車後は久多の小学校に寄贈されるという話を聞いたが、その後の消息は不明である。
57-1-15 1081

滋2い1082
42年7月、滋2い1081と同時に登録され、滋2い1074と一緒に56年2月12日付で廃車になった。方向幕はあり得ない行先を表示しているが、このようなコマも持っていた。
廃車後は濃飛乗合自動車に売却され、ボンネット部分を古いものに取換え、扉を前部に移設等の改造を加えられ観光路線で使用されている。
54-6-14 1082

【葛川線】(堅田~途中~細川)
昭和9年11月堅田~還来神社間を開業して、一足早く8年10月に個人営業の路線を譲受けて開業した和邇・途中線と還来神社でドッキングした。途中から先は花折峠前後の道路整備が遅れていたため、35年4月にやっと葛川中村まで開業して、安曇川~葛川中村間の路線と結ばれた。安曇川~葛川中村間は、8年2月安曇駅前~朽木岩瀬間、戦後の24年12月朽木栃生まで、28年2月葛川中村まで開業した。

堅田駅前に停車中細川行、隣のマイクロバスは町内循環線。(55-2-10)
55-2-10堅田駅

北在地/(57-1-17)
北在地

途中で発車待ちの和邇行 /(56-1-25)
56-1-25途中

花折峠を登る /(56-11-22)
56-11-22 花折峠

花折トンネル/(57-1-17)
57-1-17花折トンネル

平/鯖街道沿いの民家をバックに (57-1-17)
57-1-17平

足尾谷橋/ (55-2-10)
55-2-10足尾谷橋

坊村/雪の比良山にアタックする登山客 (54-3-3)
比良リフト、ロープウェイが廃止されたため、比良の最高峰武奈ケ岳へはここから登るのが最短距離となるため、現在でも多くの登山客が利用する。
54-3-3坊村

細川~貫井/(57-1-17)
57-1-17右淵

細川終点/(54-3-3)
小さな車庫があり、堅田発と安曇川発の最終バスと乗務員が宿泊した。
54-3-3細川

【和邇・途中線】(和邇~還来神社前~途中)
歴史は古く昭和8年10月に個人営業の路線を譲り受けて開業した。現在は、栗原道~還来神社前間が廃止されて、「和邇・途中線」の名称もなくなった。

比良病院前~栗原道/ (54-9-23)
54-9-23

栗原道~出口/ (56-1-25)
56-1-25栗原道~出口

出口~上龍華/ (55-3-23)
この時点での風景は戦前と変わらないような気がするが、現在はどのように変化しているだろうか。
55-3-23出口~下龍華

還来神社前/ (55-4-23)
戦時中は親族の無事帰還を願う多くの人々の参拝で賑わったそうであるが、今はひっそりしている。
57-2-17還来神社

【栗原線】(栗原道~栗原)
昭和44年7月「和邇・途中線」の支線のような形で栗原道~栗原間を開業して和邇駅から栗原までバスの運行が開始された。その後、栗原集落の先に宗教団体の施設が開設され信者さんの輸送のために51年1月栗原~妙道会聖地間が延長された。但しこの区間にボンネットバスが営業で走った実績はない。「和邇・途中線」が廃止されたため、現在は「和邇・栗原線」と名称が変わっている。

 栗原を発車して和邇に向かう/ (57-2-11)
廃車直前に1年振りにボンネットバスが栗原線を走り、栗原のバス停では地元の人が記念撮影する光景が見られた。
57-1-25栗原

栗原の大カーブ/ (56-1-18)
56-1-18栗原~栗原道

栗原道~栗原/ (55-3-23)
55-3-23 栗原道~栗原

栗原道~栗原/ (55-3-23)
雪の比良連山をバックに走る。
栗原道~栗原255-3-23

【堅田町内循環線】
堅田町内循環線の経歴は複雑で、元は浜大津線のバスが町内を経由して運行されていたが、38年1月のダイヤ改正で下り便の全便と上り便の堅田以北の便が町内を経由しなくなったためサービスダウンの救済策として設定された。
48年2月専用のマイクロバスが新製されたが、朝夕のラッシュ時には捌き切れないためボンネットバスや大型車(BA20)が使用された。

末広町/ (55-2-11)
55-2-11堅田町内

堅田本町~堅田出町/ (56-2-11)
56-2-11 堅田町内 1081

堅田出町~仰木道/ (55-2-11)
55-2-11堅田町内2

【さよなら運転】(昭和57年1月17日)
「滋2い1081」の廃車日を約1カ月後に控えた1月17日、お別れ乗車・撮影会が開催され当会からは私と特派員さんが参加した。参加者は35名位で全員が着席できないため補助席代わりのパイプ椅子を積んで出発した。運転士はお名前を忘れてしまったがよく知った方、車掌兼添乗員は本社総務課長の畠中氏自らが乗務された。コースは堅田から国道161号線を北上して安曇川営業所で昼食。県道23号線から朽木に出て朽木車庫で休憩。国道367号線(鯖街道)を南下して細川から堅田行のルートで堅田に戻るというもので、距離は約75㎞、下車して撮影した個所は22カ所に及び参加者一同大満足の1日であった。ボンネットバスが走ることがない場所で撮影できたことは良かった。また「滋2い1081」の最初の配置は安曇川営業所であり、その意味でも良かったと思っている。

琵琶湖をバックに
びわこを望む

白髭神社/右は鉄道の線路跡
57-1-17白髭神社

安曇川に沿って

57-1-17朽木渓谷

下市場の鉄橋
57-1-17下市場

朽木車庫
57-1-17朽木車庫2

桑野橋
桑野橋 57-1-17

当時バスの営業所に鉄道から異動された方がおられて、鉄道時代の思い出話をしながらバスについてお教えいただき、車両の動きがある度に連絡をいただいた。ボンネットバス運行最終日直前の2月11日と14日には運用変更をしていただき、和邇~途中線、栗原線を走行して地元の方に喜んでいただけたこともよき思い出である。

クハ79(Ⅱ)

79054 48-4-27編成
クハ79054+クモハ31004+クハ55035+モハ72668+クモハ73075/(48-4-27) 住道駅

明けましておめでとうございます。今年も「ちょっと古い話」と「地元の話題」で盛り上がりたいと思いますので、よろしくお願いします。

各学校のOBの方で、ご自身のHPをお持ちの方は多数おられるが、OB会のHPは少ないと思われる。当クローバー会が契機となり、各学校のOB会におかれてもHPを開設、運営されることにより、皆様の総合力と過去の思い出で新たな情報網の確立と知られざる歴史の発掘が可能ではないか思われるので是非ご検討いただきたい。

モハ63シリーズは、昨年12月21日の【27833】「モハ72」で終わったと思っていたところ、HPを常時見ておられる旧形国電ファンの方から「改造クハ79を忘れてはりまっせ」とのご指摘があり、「サハ78」と同様戦前形2扉車からの改造車についても触れてみたい。

(1)クハ85(001~026)→クハ79(031~056)
昭和18年戦時体制の強化による輸送力増強のため、関西地区の2扉車は3または4扉化が計画された。京都~明石間で使用されていた2扉のクハ58(001~025)は全車両4扉化してクハ85001~025となる予定であったが、施工されたのは、001、004~006、009、010、015、017、019、020、023~025の13両であった。クハ58は車号に拘らず全車偶数向きであったため、必然的に偶数向きであった。クハ85023は、戦災のため21年11月28日付で廃車になった。

扉間の窓配置は3-4-3と4-4-4の2種類あり、更に増設扉上にヘッダーの有無がある。そのあたりは写真でご確認いただきたい。

改造に先立ち、16年3月塚本駅付近での衝突事故で休車中のクロハ59022を18年3月吹田工場で試験的に4扉車として復旧して当初クハ55106と付番されたが、同年8月クハ85026に改番された。クロハ59は車号に拘らず全車奇数向きのため、クハ85026も偶数の車号ながら奇数向きであった。窓配置は4-3-4で増設扉は100㎝でヘッダーがあった。

24年6月、クハ85の「85」を湘南形の「サロ85」に使用するため、クハ79の30番代に改番され、下3桁に30プラスした車号に改番された。

クハ79031/(38-12-25)京都
昭和8年11月、日本車輌でクハ58001として新製。19年8月吹田工場で4扉化クハ85001に改番。26年6月クハ79031に改番。49年6月8日付高槻区で廃車。
79031 38-12-25京都

クハ79034/(49-5-27)大阪
昭和8年11月、日本車輌でクハ58004として新製。19年9月吹田工場で4扉化クハ85004に改番。26年6月クハ79034に改番。50年3月10日付高槻区で廃車。
79034 49-5-27大阪夜景

クハ79035/(40-12-22)京橋
昭和8年11月、川崎車輌でクハ58005として新製。19年3月吹田工場で4扉化クハ85005に改番。26年6月クハ79035に改番。50年9月26日付淀川区で廃車。
79035 40-12-22京橋

クハ79036/上(45-5-27)下(49-2-12)大阪
昭和8年11月、川崎車輌でクハ58006として新製。19年3月吹田工場で4扉化クハ85006に改番。26年6月クハ79036に改番。49年6月8日付高槻区で廃車。
この車は環状線101系化により35年11月津田沼区に転属して中央、総武線で使用。39年9月に明石区に戻ってきた。津田沼区時代は運転台側の貫通幌を撤去されていた。
79036  45-6-20大阪
79036 49-2-12大阪

クハ79039/上(47-12-10)住道、下(48-6-17)鴫野
昭和8年12月、川崎車輌でクハ58009として新製。19年8月吹田工場で4扉化クハ85009に改番。26年6月クハ79039に改番。49年8月1日付淀川区で廃車。
79039yoto.2i.72.12.10Suto
79039yoto.73.6.17Sumi.735-33

クハ79040/上(49-1-4)京都、下(50-8-16)大阪
昭和8年12月、川崎車輌でクハ58010として新製。19年11月吹田工場で4扉化クハ85010に改番。26年6月クハ79040に改番。51年2月20日付高槻区で廃車。
この車もクハ79036と同様、環状線101系化により35年11月津田沼区に転属して中央、総武線で使用。40年2月に明石区に戻ってきた。津田沼区時代は運転台側の貫通幌を撤去されていた。
79040 49-1-4京都
79040tatu.1i.75.8.16Osa

クハ79045/(47-12-10)住道、
昭和8年12月、田中車輌でクハ58015として新製。20年3月鷹取工場で4扉化クハ85015に改番。26年6月クハ79045に改番。50年10月24日付淀川区で廃車。
79045yoto.2i.72.12.10Suto

クハ79047/(48-3-21)住道、
昭和9年1月、田中車輌でクハ58017として新製。19年10月吹田工場で4扉化クハ85017に改番。26年6月クハ79047に改番。49年7月5日付淀川区で廃車。
79047yoto.2i.73.3.21Suto

クハ79049/(45-11-15)鴫野
昭和9年1月、田中車輌でクハ58019として新製。19年12月鷹取工場で4扉化クハ85019に改番。26年6月クハ79049に改番。49年8月1日付淀川区で廃車。
79049yoto.70.11.15Shigi.505-27b

クハ79052/上(48-3-21)下(48-7-1)住道

昭和9年1月、田中車輌でクハ58022として新製。20年2月鷹取工場で4扉化クハ85022に改番。26年6月クハ79052に改番。50年3月10日付淀川区で廃車。
79052yoto.2i.73.3.21Suto
79052yoto.73.7.1Sumi.739-24

クハ79054/(48-4-27)住道、
昭和10年5月、日本車輌でクハ58024として新製。20年2月鷹取工場で4扉化クハ85024に改番。26年6月クハ79054に改番。51年4月20日付淀川区で廃車。
79054 48-4-27住道

クハ79055/上(47-2-20)放出 下(48-3-21)住道
昭和11年3月、日本車輌でクハ58025として新製。クハ58形唯一の半流車であった。20年11月鷹取工場で4扉化クハ85025に改番。26年6月クハ79055に改番。51年11月20日付淀川区で廃車。
79055yoto.72.2.20Hanaten.589-26
79055yoto.1i.73.3.21Suto

クハ79056/上(47-12-31) 中・下(48-3-21)住道
昭和9年7月、日本車輌でサロハ46100として新製。11年4月サロハ46014に改番。12年吹田工場で運転台取付けでクロハ59022に改番。18年3月4扉改造でクハ55106に改番。同年8月クハ85026に改番。26年6月クハ79056に改番。51年10月7日付淀川区で廃車。
新製から実に6回改番されており、改番回数ナンバーワンであろう。
79056 47-12-31住道
79056yoto.2i.73.3.21Suto
79056yoto.syanai.73.3.21Suto

(2)クハ85030・036→クハ79060・066
2010年12月2日【10630】「クハ79066」で解説済であり、重複する部分もあるが簡単に述べておく。
横須賀線の付属編成用として、昭和5年日本車輌で10両新製されたクハ47形(001~010)は、戦時改造で全車4扉化され、クハ85027~036となる予定であったが、施工されたのは47004→85030、47010→036の2両のみであった。クハ47形は車号に拘らず全車両偶数向きであった。クハ58からの改造車同様、クハ79形に編入されることになり、昭和24年4月に改番が行われ、クハ85030→クハ79060、クハ85036→クハ79066となった。

クハ79060/上 (40-11-14)鴫野 下 (47-1-4) 放出
昭和6年2月、日本車輌でクハ47004として新製。20年3月大井工場で4扉化クハ85030に改番。24年6月クハ79060に改番。47年2月16日付淀川区で廃車。26年11月29日付で066と共に東京から(最後の配属は津田沼)から淀川区に転属して城東線等で使用、35年8月に高槻区に転属するも35年10月に淀川区に転属した。
79060 40-11-14鴫野
79060yoto.72.1.4Hana.577-31b

クハ79066/上 (40-12-22) 下 (45-11-15) 鴫野
昭和6年5月、日本車輌でクハ47010として新製。20年3月大井工場で4扉化クハ85036に改番。24年6月クハ79066に改番。47年3月11日付淀川区で廃車。26年11月29日付で東京から(最後の配属は津田沼)から淀川区に転属して城東線等で使用、33年7月に高槻区に転属するも、36年9月に森ノ宮区に転属、城東線101系化により1カ月後の10月に東京にカムバックして池袋区に、東京地区で何度か転属があり、昭和40年4月に津田沼区から淀川区に戻り、060と共に片町線で使用された。
この2両の特徴は、更新修繕Ⅰの実施時期の関係から、更新修繕Ⅱが実施されなかったため、ベンチレーターがグロベン化されずにガーランド形のままであった。
吹田工場で施工されていた正面窓と戸袋部窓のHゴム化は、060は正面窓のみ実施。それも一気ではなく、最初は運転台部分の1枚のみ、後日残り2枚も実施。066は全く実施されずに最後まで木枠のままであった。
79066 40-12-22鴫野
79066yoto.70.11.15Shigi.505-28

モハ72

 72001 51-2-14千葉
モハ72001/(51-2-22)千葉駅

モハ72のトップナンバーで、21年10月日本車輌でモハ63015として新製。27年1月東急車両で改造工事により現車号。40年1月浜松工場で近代化改造。61年11月20日津田沼区で廃車。

 63形シリーズの最終回はモハ72を解説する。
モハ63形の体質改善工事を実施する中で、80系湘南形で採用された中間電動車方式を取り入れることになり、昭和26年~28年にかけて運転台なしのモハ72形が288両誕生した。

前期(26年11月~27年5月)の168両は種車の向きを活かして上り向きは奇数、下り向きは偶数が付番されたが、後期(27年5月~28年12月)の120両は、種車の向きに拘らず奇数向きに揃えて改造され200番以降(201~319)に付番された。

その関係で前期改造車は001~181に付番されたが156~180の偶数番号は該当車がなく欠番になっている。後期改造車は201以降に付番されたため、182~200も欠番である。以下、代表的な車両を写真で紹介する。

モハ72034/ (48-4-30) 下馬・仙石線
21年10月川崎車両でモハ63078として新製。27年4月汽車会社で改造工事により現車号。54年8月15日陸前原ノ町区で廃車。
仙石線の72系は寒冷地のため、3段窓のアルミサッシ2段窓化とベンチレ―タの押込型への取り替え、扉の半自動化が行われた。
72034riha.73.4.30Geba

モハ72056/ (48-1-28) 広島・呉線
21年7月日本車輌でモハ63160として新製。27年2月東急車両で改造工事により現車号。51年11月5日広島区で廃車。
呉線(一部山陽本線小郡までの運用があった)の72系も3段窓のアルミサッシ2段窓化、扉の半自動化が行われた。
72056hiro.2i.73.1.28Hiro

モハ72103/ (48-3-21) 鳳
21年12月日本車両でモハ63289として新製。27年2月汽車会社で改造工事により現車号。51年12月5日鳳区で廃車。
72103oto.2i.73.3.21Oto

モハ72112/ (41-1-15) 京都
22年6月川崎車輌でモハ63582として新製。27年2月東急車両で改造工事により現車号。42年3月31日鷹取工場で運転台取付、近代化改造でクモハ73514に改造。55年2月18日中原区で廃車。
72112aka.66.1.15Kito[1]

モハ72113/ (49-4-29) 下馬・仙石線
22年5月日本車輌でモハ63381として新製。27年1月大井工場で改造工事により現車号。54年8月14日陸前原ノ町区で廃車。
72113riha.74.4.29Geba

モハ72123/ (48-4-30) 下馬・仙石線
22年7月日本車輌でモハ63403として新製。27年1月大井工場で改造工事により現車号。54年8月14日陸前原ノ町区で廃車。
72123riha.73.4.30Geba-2

モハ72145/ (49-2-17) 沼津・御殿場線
22年8月汽車会社でモハ63619として新製。27年3月大井工場で改造工事により現車号。55年4月22日沼津区で廃車。
72145 49-2-17 沼津

モハ72149/ (47-2-20) 大阪
22年8月汽車会社でモハ63627として新製。27年3月大井工場で改造工事により現車号。48年1月23日明石区で廃車。
72149aka1.72.2.20Osa.588-25[1]

モハ72150/ (49-3-23) 住道・片町線
21年8月川崎車輌でモハ63184として新製。27年4月日本車両で改造工事により現車号。50年10月24日淀川区で廃車。
72150yoto.74.3.23Sumi[1]

モハ72151/ (48-9-15) 京橋・片町線
22年7月汽車会社でモハ63607として新製。27年2月大井工場で改造工事により現車号。50年9月26日淀川区で廃車。
72151yoto1.73.9.15Kyoubashi.768-19[1]

モハ72202/ (49-3-20) 大阪
22年5月川崎車両でモハ63130として新製。27年8月大井工場で改造工事により現車号。50年9月26日高槻区で廃車。
72202 49-3-20

モハ72204/ (43-9-7) 東神奈川・横浜線
23年2月日本車両でモハ63766として新製。27年9月大井工場で改造工事により現車号。47年2月10日東神奈川区で廃車。
72204 43-9-7東神奈川

モハ72210/ (48-7-1) 住道・片町線
23年5月日本車両でモハ63758として新製。27年10月大井工場で改造工事により現車号。53年2月10日淀川区で廃車。
72210yoto.2i.73.3.21Suto
72210yoto1.73.7.1Sumi.739-28[1]

モハ72211/ (48-5-13) 沼津・御殿場線
22年10月川崎車両でモハ63602として新製。27年3月大井工場で改造工事により現車号。53年2月10日沼津区で廃車。
72218 48-5-13沼津

大井工場整備改造車
昭和35年に72263、72045、72108、72098の4両に対して整備改造が行われた。工事の内容は各車により差があり省略するが、外観上は3段窓のままで戸袋部がHゴム化された程度で大きな変化はない。4両共関東地区で使用されたが、72108のみ47年6月鳳区に転属した。
モハ72108/(48-5-20) 鳳
22年7月川崎車両でモハ63564として新製。27年3月豊川分工場で改造工事により現車号。35年6月大井工場で整備改造。51年6月15日鳳区で廃車。
72108 48-5-20

吹田工場整備改造車
昭和35年72024と72214の2両に対して行われた。大井工場施工車とは異なり、車体の全金属化が行われ、スタイルは大幅に変化した。
モハ72024/(48-6-11)京都
21年10月川崎車両でモハ63058として新製。27年2月大井工場で改造工事により現車号。35年12月吹田工場で整備改造。50年9月26日明石区で廃車。
窓はアルミサッシ化されているが、上窓に位置が元の3段窓の上段部分である。
72024 48-6-11京都

モハ72213/ (49-2-10) 大阪
22年5月汽車会社でモハ63237として新製。27年8月豊川分工場で改造工事により現車号。36年6月吹田工場で整備改造。50年2月1日高槻区で廃車。
72213tatu.1i.74.2.1Osa

近代化改造車
37年から40年にかけて44両に対して近代化改造が、大井、大船、浜松、吹田、幡生の各国鉄工場で実施された。内容は、車体の内外装の全金属化、窓の2段サッシ化等車体新製に近いもので、かつての63形の面影は一掃された。
モハ72014/(51-2-22)千葉
21年8月モハ63038として川崎車両で新製。27年2月大井工場で改造工事により現車号。40年4月浜松工場で近代化改造。51年6月15日津田沼区で廃車。
72014

モハ72017/(47-3-12)大阪
22年1月日本車両でモハ63055として新製。27年2月東急車両で改造工事により現車号。38年2月吹田工場で近代化改造。50年6月20日明石区で廃車。
72017aka2.72.3.12Osa.592-24[1]

モハ72018/(49-1-21)京都
21年8月モハ63044として川崎車両で新製。27年2月汽車会社で改造工事によりモハ72034。モハ72018と車号振替。38年1月吹田工場で近代化改造。50年9月26日明石区で廃車。この車両は何故かシル、ヘッダー付きであった。
72018aka.74.1.21Kito

モハ72035/(49-5-5)住道
23年3月モハ63115として日本車両で新製。27年3月大井工場で改造工事により現車号。39年12月浜松工場で近代化改造。51年9月21日淀川区で廃車。一番前の扉は旧形のプレス製に取換えられている。
72035 49-5-5 住道

モハ72042/(47-2-20)大阪
22年2月モハ63114として川崎車両で新製。27年1月汽車会社で改造工事により現車号。38年1月吹田工場で近代化改造。50年9月26日明石区で廃車。
72042aka1.72.2.20Osa.588-26[1]

モハ72066/ (48-1-28) 広島・呉線
22年2月モハ63172として川崎車両で新製。27年2月東急車両で改造工事により現車号。38年11月浜松工場で近代化改造。51年7月28日広島区で廃車。
992-14.M72066hiro.2i.75.2.2Hiro

モハ72092/(48-7-1)住道
21年12月モハ63324として近畿車両で新製。27年2月大井工場で改造工事により現車号。39年12月浜松工場で近代化改造。51年11月27日淀川区で廃車。
72092yoto1.73.7.1Sumi.739-07b[1]

モハ72102/(42-3-26)武蔵中原
22年3月モハ63460として川崎車両で新製。26年11月大井工場で改造工事により現車号。37年11月大井工場で近代化改造。51年11月27日津田沼区で廃車。
72102naha.4i.67.3.26Nahaden

モハ72110/(43-7-7)大阪
22年7月モハ63576として川崎車両で新製。27年3月汽車会社で改造工事により現車号。37年9月吹田工場で近代化改造。50年9月10日高槻区で廃車。この車は戸袋窓の位置が通常と逆になっている特異車である。(通常はパンタから遠ざかるように扉が開くが、パンタ寄りに開く)
72110 43-7-7

モハ72157/ (48-9-1) 住道・片町線
21年8月日本車両でモハ63105として新製。27年3月豊川分工場で改造工事により現車号。39年11月浜松工場で近代化改造。51年7月20日淀川区で廃車。
72157yoto1.73.9.15Sumi.768-29[1]

モハ72249/(48-7-1)住道
22年5月モハ63368として川崎車両で新製。27年5月日本車両で改造工事により現車号。38年7月幡生工場で近代化改造。52年6月14日淀川区で廃車。
72249yoto1.73.7.1Sumi.740-19[1]

クモハ73500番代
中央線、山手線、京浜東北線等の幹線の新性能化により、73系は17m車、戦前形20m3扉車で運転されていた線区に従来の車両の置換え用として進出すると、運転台付き車両が不足したため、元63形のモハ72形に運転台取付と併せて近代化改造を実施したクモハ73形が20両誕生して501~520に付番された。全車東京地区に配置され、関西では見られなかった。
クモハ73505/(49-5-1) 拝島
23年1月モハ63743として汽車会社で新製。27年6月東急車両で改造工事によりモハ72285に。42年3月郡山工場で近代化改造及び運転台取付。55年9月25日東神奈川区で廃車。
73505 49-5-1

クモハ73507/(49-5-1) 稲城長沼
22年3月モハ63462として川崎車両で新製。27年6月東急車両で改造工事によりモハ72290に。42年3月郡山工場で近代化改造及び運転台取付。55年9月18日弁天橋区で廃車。
73507 49-5-1稲城長沼

クモハ73513/(49-5-1) 稲城長沼
23年2月モハ63668として川崎車両で新製。27年8月豊川分工場で改造工事によりモハ72215に。42年3月鷹取工場で近代化改造及び運転台取付。55年7月16日弁天橋区で廃車。
73513 49-5-1稲城長沼

クモハ73516/(50-3-23) 稲城長沼
23年3月モハ63782として日本車両で新製。27年9月大井工場で改造工事によりモハ72205に。42年3月鷹取工場で近代化改造及び運転台取付。53年9月16日中原区で廃車。
73516 50-3-23

クモハ73517/(50-3-23) 稲城長沼
22年8月モハ63689として汽車会社で新製。28年3月豊川分工場で改造工事によりモハ72231に。42年3月鷹取工場で近代化改造及び運転台取付。54年12月3日弁天橋区で廃車。
73517 50-3-23

クモハ73519/(50-3-23) 拝島
23年2月モハ63742として汽車会社で新製。27年6月東急車両で改造工事によりモハ72292に。42年3月鷹取工場で近代化改造及び運転台取付。54年9月14日弁天橋区で廃車。
73519 50-3-23拝島

5回に亘り、モハ63形一族の変遷と40年代後半を中心とした状況について書いてみたが、概略でもご理解いただければ幸いである。
27年以降に新製されたモハ72、クハ79も含めて、乗車経験のある方は、恐らく昭和50年代前半以前生まれの方で、東京、大阪地区で通勤、通学等で日常的に乗車されていた方は団塊世代以前の方ではなかろうか。
私自身は45年4月に大阪駅の直ぐ近くの会社に就職して、54年6月勤務場所が京阪大和田駅の近くに変わるまで京都~大阪間国鉄を利用した。出勤時はともかく、帰宅時は高槻で無味乾燥な113系から普通電車に乗り換えることが多かった。
大阪緩行の旧形車での最終運行日は52年2月26日と記録されているが、時節柄お別れ運転、ヘッドマークの取付け等一切なく無く、いささか淋しい幕切れであった。
国鉄→JR東日本、JR西日本の通勤形電車の原点はモハ63形であり、73系、101系、103系、201系、205系、209系と発展し、現在の通勤形へと進化していった。また、私鉄車両への影響も少なくなかったと思われる。

拙文により、乗車経験のある方は当時を思い起こしていただき、若い方は東京、大阪圏の通勤、通学輸送の主力であったことを知っていただければ幸いである。

機会があれば、モハ63形一族から他形式への改造車及び新車として作られたモハ72、クハ79についても触れてみたい。

 

一昔前の野蒜駅と仙石線


野蒜駅を発車したクハ68086他4連/ (50-5-2)

特派員さんより10月20日【25248】「被災地の鉄道はいま―1―」で仙石線野蒜駅の被災状況の報告があった。たまたま古いネガを見ていたところ、同駅の改築前の写真が見つかったのでご覧に入れたい。
前身の宮城電鉄時代が昭和3年4月18日、松島公園(現松島海岸)~陸前小野間の延伸開業時に建てられたものである。(50-5-2)

【同時期の仙石線風景】
(1)手樽~陸前富山~陸前大塚間
陸前富山~陸前大塚~東名間は海岸線ギリギリに線路が敷かれていた。陸前大塚~陸前小野間の津波による壊滅的被害は特派員さんの報告の通りである。

陸前富山駅/ (50-5-1) 電車はジュラルミン製のサハ78202(昭和21年川崎車輌製)の改造車クハ79902(29年大井工場で全金改造)。


陸前富山~手樽/(49-4-29) クモハ73319+サハ78+モハ70047+クハ79902

陸前富山~陸前大塚/ (49-4-29) クモハ73331+サハ78+モハ72132+クハ79926

陸前富山~陸前大塚/ (50-5-1) クモハ54004+サハ78+クモハ54105+クハ68062

陸前富山~陸前大塚/ (50-5-1) 103系と同様の車体に載せ替えたクハ79600番代とクハ72970番代の4連

陸前富山~手樽/(49-4-29) クハ68060+クモハ54107+サハ78226+クモハ54004

陸前富山~手樽/(50-5-1) クモハ73003他4連

(2)高城町~松島海岸間
特派員さんからの報告の通り、あおば通り~高城町間は復旧されているが、陸前小野までの区間は被害が甚大過ぎて復旧は2015年までかかると言われている。高城町~陸前大塚間は海沿いであるが松島湾の入り江になっているため津波被害はなく、護岸工事を実施した上で現ルートで復旧、陸前大塚~陸前小野間は山側に線路を移設して復旧の予定である。仙台~塩釜~石巻の都市間輸送の他、仙台への通勤、通学客、松島への観光客等多くの人に利用されている重要な路線であり早急な復旧をお願いしたい。

高城川の鉄橋を渡る クモハ73022他4連/ (50-5-1)

同 クハ79208他4連/ (50-5-1)

クハ79926他4連/ (50-5-1) 左側は東北本線

クハ79600番代とモハ72970番代の4連/ (50-5-1)

松島海岸駅に進入するクモハ54004他4連/ (50-5-1)

高城町駅で休車中のモハ70125/ (50-5-1)
モハ70は昭和46年1月から2月にかけて、明石から123~125、11月に新前橋から047が転入したが、朝のラッシュ時の収容力に難点があったため、車体新製のクハ79600番代、モハ72970番代と交代して、50年2~3月にかけて047、124、125の3両は松本区に転属した。125のみ仙石線に残ったが使用されることなく52年3月廃車になった。

松島海岸駅と東北本線松島駅を結んでいた宮城交通のバス(37年式日野RB10)/ (50-5-1)

 (3)単線時代の本塩釜付近
撮影時、複線区間は仙台~西塩釜間で、西塩釜~東塩釜間が複線化されたのは56年11月であった。この区間は塩竈市内の中心部を通り複線化が困難であったため線路が付け替えられ、本塩釜駅と東塩釜駅は移転した。
単線時代の本塩釜駅は棒線にも拘らず仙台方面への折返し電車が存在した。

単線時代の本塩釜~西塩釜間/ (50-5-2)

本塩釜駅前/ (50-5-2) 後ろにホームに電車が停車している。

駅の直ぐ横の踏切を渡る宮城交通のバス(46年式いすゞBU10P)/ (50-5-2)

本塩釜駅前の宮城交通のバス(38年式日野RB10)/ (50-5-2)

 同 (40年式日野RC300P)/ (50-5-2)
元貸切車でヘッドライトきはいすゞのものを付けている。

本塩釜駅前の仙台市営バス(46年式RE100)/ (50-5-2)
当時仙台市交通局も塩釜までの路線を持ち営業所もあった。距離が長く交通渋滞のため定時運行が困難になったため50年代に廃止された。

スカイツリーと鉄道


7022 (24-10-8) 荒川区役所前

今年5月22日スカイツリーが開業し、常磐線や「ゆりかもめ」の車窓から眺めながら通勤している。
しからば、スカイツリーを入れて写真撮影が出来ないものかと思うのが人情で、可能な場所を探してみた。
東武の浅草~とうきょうスカイツリー間、尾久駅構内、錦糸町駅構内は比較的有名であるため、それ以外の場所を紹介する。

京成電鉄押上線/四ツ木~立石間
葛飾区内に住んでいる関係上、所用で葛飾区役所に行くことがある。最寄駅は京成電鉄立石で、自宅からは京成バスで金町駅に出て、京成金町線で高砂まで行き、更に押上線に乗り換える。更に駅から区役所まで徒歩10分弱かかり、タイミングが悪ければ小1時間かかることがある。自転車で行けば少々遠いが、途中の待ち時間ゼロで約30分で到着する。
いつもカメラ持参で、帰宅時に立石駅周辺、高砂駅の開かずの踏切、柴又付近で撮影する。立石駅付近は家が建て込んでおりバックは良くない(現役時代に使っていた言葉で「クサイ」)が、柵が低いため編成写真の撮影は可能である。

ある日のこと、たまには別の場所でと思い、四ツ木寄りに行くとバックにスカイツリーを入れて撮影できる場所があった。
四ツ木駅の立石より一つ目の小さな踏切で、車が通らないので落ち着いて撮影できる。通行人のおばさんから「たまに撮影している人がいるよ」と声をかけられたので、隠れた名所かも知れない。
電車は京成、北総、京浜急行、都営地下鉄の各社の車両が入り乱れて昼間でも約5分間隔(上下合わせると2分30秒間隔)でバンバン来るので飽きることがない。立石駅を含む四ツ木~青砥間の高架工事が始まると撮影できなくなる可能性が高い。

都営5300形の北総鉄道直通車
京成電鉄からのリース車7260形もよく運用についている。

踏切の反対側から。千葉ニュータウン鉄道所属の9100形

   【参考1】踏切の高砂側

青い京浜急行

京成電鉄3600系/両端がTcのため京浜急行には乗り入れない。

  【参考2】立石駅の押上寄り踏切

バックの建物は電車で隠れる。葛飾区役所の最寄駅で乗降客は多いが各駅停車しか停まらない。

【参考3】高砂駅構内の踏切


  高砂駅の青砥寄りのホーム端はお手軽撮影地として有名であるが狭いのが難点である。成田寄り2つ目の踏切の遮断機の横からの撮影で、ゴチャゴチャ観が何とも言えない。リバイバル塗装車、スカイライナー、シティライナーの撮影も可能である。

都電荒川線/荒川区役所前
三ノ輪橋終点からスカイツリーまで路線延長の要望が出ている。実現すれば経済効果は大きいと思われるが、三ノ輪橋付近の線路を付け替える必要があるため実現の可能性は少ない。
地平を走っているためスカイツリーの見える区間は少なく、都電と共に撮影できるのは荒川区役所前電停の早稲田寄りだけのため有名撮影地になっている。自宅から近いので気が向いた時に訪れているが同業者は見かけない。「写真館」に893-2さん撮影の夜景がある。

標準レンズではスカイツリーが小さくなってしまう。

反対側はこんな感じで、カーブの先は線路に沿って桜が植えられている。

以上2ヶ所紹介したが、他にも撮影可能な場所をご存知の方は是非ご紹介をお願いしたい。

京成電鉄では都内フリーの「下町日和きっぷ」を500円で発売しており、撮影には便利であるが日和らないよう有効に活用していただきたい。

近鉄モ6601系

                                 ク6692他5連の準急 (46-6-6) 河内松原~恵我ノ荘

「昭和の電車」は再度戦前派古豪に戻り近鉄南大阪線モ6601形が登場した。私にとっては現役時代INUBUSE氏とよく撮影に行った思い出深い車両であるが、スタイルと使用線区がパッとしなかったことで人気がなく、近鉄の名車=モ2200形という図式が出来上がっていたため注目度が低かった。
しかし、我が国初の20m車体の電車、昭和40年代まで大阪阿部野橋~吉野間の急行の主力として活躍したこと等により、もっと注目されてもよかったと思うが、前述の理由により南大阪地方区で終わったのは少々気の毒であった。

モ6601形とその一族について概略を述べると、南大阪線の前身大阪鉄道では昭和4年3月29日、古市~久米寺(現在の橿原神宮前に相当)間を開業して吉野鉄道に乗入れ、阿部野橋~吉野間の直通運転を開始した。これに備え昭和3年にデニ500形35両(501~535)、フイ600形15両(601~615)、4年にデホニ550形7両(551~557)、5年にデホユ560形3両(561~563)の60両を一挙に新製した。制御器はABFM、電動機はウェスチングハウス586-PJ-5形127kw×4、台車は川崎車輌製ボールドウィン形であった。

デニの「ニ」は、大阪鉄道では新製順に「イ」「ロ」「ハ」と付けており「ニ」は4番目、「ホ」は5番目の新製車の意味である。

デニ500は扉間に40人分のゆったりしたクロスシートを備え、つり革はバネ付、床は特殊アスファルト塗りと豪華な仕様であったが、14年ロングシート化された。関 三平氏も書いておられるが扉は戦後まで手動であった。
デニ502、520、529の3両は事故復旧時にTc化されフイ616~618となった。
新線の建設費と60両もの新車の建造費が経営を圧迫したが、14年6月阿部野橋駅が竣工、15年3月には紀元2600年記念事業として建設されていた橿原神宮総合駅が完成する等懸命の企業努力により立ち直りをみせたが、18年2月1日付で政府の要請により関西急行鉄道に合併した。関西急行鉄道は19年6月1日南海鉄道と合併して近畿日本鉄道になった。
近鉄合併後の改番でモ6601~6632、ク6671~6688、モニ6651~6657、モユ6671~6673となった。
26年から3扉化、31年にモニ6661形の荷物室、モユ6671形の郵便室が撤去され、モ6601形と同一になった。
45年頃から廃車が始まり50年までには全車姿を消したが、お別れ行事等はなくモ6601形一族らしいひっそりとした引退であった。
40年以上にわたり、吉野、飛鳥、橿原神宮への参拝客、行楽客の足として、沿線住民の大阪への通勤、通学の足として重要な役割を果たした功績は誠に大きなものであった。
形式別に写真と共に解説する。

モ6601形(6601~6613、6615、6618~6632)
デニ501~519は昭和3年田中車輌製、デニ520~535は同年川崎車輌製である。3扉化後、昭和28年から更新修繕が実施され、窓は下に100㎜拡大、ヘッダーの平鋼化、正面窓と戸袋窓のHゴム化が行われたが全車には及ばなかった。
モ6603、6616、6617の3両は電動機を取り外してTc化され、順にク6689、6691、6690となり、モ6614がモ6603に改番された。
モ6601~6608、6610~6613、6618、6631、6632の15両は吉野側の運転室を撤去して客室を拡張した。

 モ6601/ (42-10-14) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ501。車体更新と片運化が実施されている。

モ6606/ (46-6-6) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ507。車体更新と片運化が実施されている。

モ6607/ (42-10-14) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ533の事故復旧時に車体を新製したためスタイルが大幅に変化した。

モ6609/ (46-6-6) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ510。車体更新は実施されているが、両運のままである。

モ6613/ (43-12-24) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ514。車体更新は未実施であるが、片運化されている。

モ6620/ (46-6-6) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ522。車体更新は未実施で、両運のままである。

 モ6626/ (46-6-6) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ528。車体更新は実施されているが、両運のままである。

モ6627/ (46-6-6) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ529。車体更新は未実施で、両運のままである。

モ6629/ (49-1-4) 橿原神宮前
昭和3年川崎車輌製、元デニ531。車体更新は未実施で、両運のままである。

モ6651形(6651、6653~6657)
元デホ二560形で昭和4年川崎車輌製。デニ500形の大阪寄りに手荷物室(荷重2t)を設置し、運転室直ぐ後ろに両開きの荷物室扉があり、車内はオールロングシートであった。31年荷物室撤去後モ6601形と同じスタイルになった。
モ6652は電動機を取り外してTc化され、ク6692に改番された。

モ6653/(43-8-25) 二上山~二上神社口
元デホ二553で、車体更新と片運化が実施されている。

モ6656/ (43-8-20) 古市
元デホ二556で、車体更新、片運化は未実施である。

モ6661形(6661~6663)
元デホユ550形で昭和5年川崎車輌製。デニ500形の大阪寄りに郵便室(荷重2t)を設置し、運転室直ぐ後に窓1つおいて片開きの郵便室扉があり、車内はオールロングシートであった。31年郵便室撤去後はモ6601形と同じスタイルになった。

モ6663 (43-8-25) 二上山~二上神社口
元デホユ553で、車体更新は未実施である。モ6661形は全車車体更新、片運化は実施されなかった。

ク6671形(6671~6692)
デ二500形のTcとして昭和3年川崎車輛でフイ601~615の15両を新製した。吉野側に運転室のある片運車であった。
前述の通りデニ502、520、529の3両の事故復旧時にTc化してフイ616~618となり、近鉄合併の改番でク6671~6688となった。モ6601と同様に26年に3扉化された。
更にモ6603、6616、6617、6652の4両が電装解除されてク6689~6692となった。

ク6672/ (43-8-20) 古市
元フイ502で、車体更新が実施されている。

ク6675/ (49-1-4) 橿原神宮前
元フイ505で、車体更新は未実施である。

ク6678/ (42-10-14) 道明寺
元フイ508で、事故復旧時に車体を新製したためスタイルが変化した。

ク6682/ (46-6-6) 河内松原~恵我ノ荘
元フイ512で、車体更新は未実施である。

ク6686/ (46-6-6) 古市~道明寺
元デ二502→フイ516で車体更新は実施済である。

ク6692/ (46-6-6) 古市
モ6652の電装解除車で片運化されているが阿倍野橋寄りの乗務員室扉が残されている。

【参考】
関 三平氏は右上の円板表示について触れておられるが、昭和42年頃でも見られた。写真は道明寺線運用のモ5625+5626が車両交換で古市検車区に回送されるところである。/(42-10-14) 道明寺

江ノ島電鉄500系

米手作市様投稿の10月30日【25745】関 三平氏「昭和の電車」に「江ノ島電鉄500系」が登場した。
改造車といえ車体は新製で、流用されたのは主電動機、コンプレッサー、台車等ごく一部の部品にすぎない。
昭和31年に201の改造名義により東洋工機で501が、32年に115、117の改造名義により東急車両で502が作られた。スタイルは若干異なり502はヘッドライトの左右にタイフォーンがあり、より精悍な顔付きになった。ノーシル、ノーヘッダーの車体、両開き扉、曲面ガラスを使用した正面窓等、ヨーロッパ調のスタイルは時代の最先端を行くものであった。
車号は京阪びわこ号と同様、2車体で1両とみなし同一車号としたが、程なく鎌倉側の車両を551と552に改番した。
関 三平さんのイラストはポール時代であるが、39年頃Zパンタ化、更に46年頃パンタ化が実施された。

我々の年代ではポール時代の写真は無理であるが、幸いZパンタ、パンタ時代は辛うじて撮影していたので貼り付けた。

その後、59年から60年にかけての車体更新時に曲面ガラス部分を2分割の上、平面ガラス化、両開き扉の片開き化、ヘッドライトの窓下への移設が実施され、スタイルが変わってしまった。更に平成元年から2年にかけて台車交換によりカルダン駆動化、12年にブレーキのSMEから電空併用電気指令式化等、足回りの近代化が実施されたが、冷房化が困難なため14年1月501が、15年1月に502が運転を終了した。
車体更新以降の写真がないので、撮影された方は是非公開をお願いしたい。

Zパンタ時代の502+552/ (45-3-11) 極楽寺



パンタ化後の501+551/ (50-4-27) 江ノ島

パンタ化後の502+552/ (50-4-27) 江ノ島

新502+552/ (24-1-15) 七里ヶ浜
車体は旧500形をイメージして作られた新500形

保存されているEB10

米手作市様より、9月24日【23961】「60年前のエコカー・バッテリーカー」のタイトルで、関 三平様の「昭和の電車」シリーズ「宮崎交通チハ100形」を紹介されているが、その中で「そういえば昭和の初めに国鉄が非電化区間用に蓄電池機関車AB10型、後に電装されてEB10型になった事もありましたね。」と記されている。そのEB10の1号機が廃車後解体を免れ東京都内で保存されているので紹介したい。

(1)EB101
AB10形→EB10形は、蓄電池機関車として昭和2年2両新製され、車体と機械部分は汽車製造、電気部分は芝浦製作所が製作して非電化の須賀貨物線(王子~須賀、王子~下十条)で使用された。6年に電化されたため、芝浦製作所で電気機関車に改造され、46年3月廃止になるまで使用され47年2月廃車になったが、EB101のみ解体を免れ、東京都府中市の「郷土の森交通遊園」で保存されている。
車体は比較的良好な状態を保っているが、運転室の機器類は無残にも破壊されている。

【参考】現役時代のEB101/ (40-3-17) 田端


「汽車製造」の銘板

「芝浦製作所」の銘板

(2)その他の保存車両
EB101の他に、D51296、都電6191、京王バスが保存されているので紹介する。
①D51296
EB101と同じレールの上に保存されている。昭和14年川崎重工兵庫工場製で、秋田、坂町、直江津、長岡と日本海側で使用され、その後新鶴見に転属、最後は青森で47年3月27日付で廃車になった。EB101共々屋根の下で保存されているため、保存状態は比較的良好である。

②都電6191
昭和25年日本車輌製で、説明板によると当初南千住車庫に配置され、45年8月荒川車庫に転属、53年4月に廃車になり、54年7月から当地で保存されている。現在補修工事中であるが、こちらも比較的良好な状態である。



③京王バス
比較的新しい車両で、11年式KC‐JP250NTN、元の登録番号「練馬200か26」で、中野営業所に配置されていた。方向幕は当地で保存時に取り替えられている。
JP型バスは、平成4年10月西鉄北九州線砂津~黒崎駅前間廃止時の代替バスを新製する際に日産ディーゼル、西鉄、西日本車体工業の3社が共同開発した車両で、JM系中型車の車体を延伸して大型車並にしたものである。

「郷土の森交通遊園」の行き方は、京王電鉄府中駅または分倍河原駅から「郷土の森体育館行」の京王バスに乗り、終点で降りれば目の前である。(バスは昼間30分間隔)行った日は分倍河原駅をバスが発車した直後で、バス待ちをしていたおばさんから「歩いても25分位で次のバスを待つより早いよ」と言われて歩いたが30分以上かかった。
裏ワザは分倍河原駅からサントリービール工場の見学者送迎バス(無料)に乗り工場見学、プレミアムモルツの試飲後、歩いて行けば10分位で到着する。工場見学は予約者優先であるが、飛び込みでも空きがあれば可能である。事前に電話予約する方が確実で当日予約も可能である。工場休業日は見学が中止となり、バスも運行されないので注意が必要である。また、府中本町駅からは徒歩25分位で到着する。

(3)周辺の保存車両
小金井公園に保存されているC57と隣接する江戸東京たてもの園の都電7514も同じ日に見学したので報告する。

①C57186+スハフ322146
柵の中にあり屋根は無いが状態は良い。柵の中に入って間近で見学できるのは3月から10月の日祝日の10時~16時までで、それ以外は柵外からの見学となる。
C57186の経歴は昭和21年9月三菱重工業三原工場で新製され新潟区に配置、日本海側で戦後の復興輸送に活躍して40年代に九州に転属、人吉、宮崎から49年6月旭川に転属して50年2月28日付で廃車になった。現役時代に九州、北海道で撮影された方もおられるのではなかろうか。

スハフ32146は昭和10年3月梅鉢鐵工所で新製。最終配置は飯田町客車区で49年10月12日で廃車になった。貫通路は雨水侵入防止のため閉鎖されている。車内には立ち入れないが損傷はなく状態は良い。



  「梅鉢鉄工場」の銘板が健在

②都電7514
昭和37年新潟鉄工所製。7500形は都電最盛期の最後の新車として20両新製された。7514は当初他の7500形と共に青山車庫に配置され、6(渋谷駅~六本木~新橋~汐留)、9(渋谷駅~赤坂見附~銀座4丁目~浜町中ノ橋)、10(渋谷駅~九段下~須田町)で使用。43年9月系統及び青山車庫廃止により江東区の柳島車庫に転属。57年11月、23(柳島~江東区役所前~月島通8丁目)、24(柳島~浅草~上野駅~須田町)及び柳島車庫廃止により荒川車庫に転属した。荒川線ワンマン化の際、7509と共に改造対象から外され53年4月27日付けで廃車となった。7514のみ解体されずに荒川車庫内に保存されていたが、平成11年に当地に移された。7500形の原形車として貴重な存在で車内立入りも可能である。



③ボンネットバス
昭和44年式いすゞTSD43、車体は北村製作所製のバスで全輪駆動車である。航空自衛隊境港気象観測班で使用され、廃車後福山自動車時計博物館で整備された。映画撮影のため昭和26年~34年までの都バスの塗装になっており、イベント時に園内で運転されている。

小金井公園と江戸東京たてもの園の行き方は、武蔵小金井駅または東小金井駅から小金井市のコミュニティバス(COCOバス)に乗り、「たてもの園入口」下車、徒歩10分である。
「江戸東京たてもの園」は現地保存が不可能な歴史的建造物を当地に移設し、復元、保存、展示を目的としており、その方面に興味のある方にとっては1日では見学しきれないと思われる。
写真右は丸二商店(荒物屋)、左は花市生花店で、いずれも昭和初期の建造物である。入園料400円(満65歳以上は200円)が必要である。

 

「都電荒川線の日」2012


10月21日(日曜日)荒川車庫で「都電荒川線の日」のイベントが実施された。今年は、昨年「7510」を改造して作られた「花100」にハロウィンの装飾をして展示された。
車庫内で展示されたのみで営業線での運転はなかった。

ハロウィン号
9月29日~10月31日の間、「9002」の車内にハロウィンの装飾をして「ハロウィン」号として運転された。

荒川車庫前 (24-10-21)  ハロウィンの小さな看板が取り付けられている。
      ハローウィン風に装飾された車内で子供には大人気とか。


車内の電光掲示板(電気式紙芝居とも言う)

荒川線の近況等について
7000形20両(7001~7003、7005、7007、7008、7010、7013、7015、7016、7018、7019、7022~7026、7029~7031)、8500形5両(8501~8505)、9000形2両(9001、9002)、8800形10両(8801~8810)、花100形1両(花101)の38両が在籍している。昼間の運転間隔は5~6分間隔で約20両が稼働している。土休日は特に乗客が多い大塚駅前~町屋駅前間を中心に増発されるので25~30両程度稼働する。ほぼ中間地点の飛鳥山、王子駅前で約1時間立っていると稼働車を全車撮影することが可能である。
ダイヤは7000形に合わせて引いてあり、8500、9000、8800形は性能を持て余している。信号待ちのロスが多いため、電車優先信号にすることにより全線で7~10分程度のスピードアップは可能と思われるので是非実行していただきたい。

荒川区役所前 (24-10-18)

町屋駅前~町屋2丁目 (24-10-8)

町屋駅前~町屋2丁目 (24-10-8)

町屋駅前 (24-10-8)

荒川営業所の横断幕

8800形のラッピング車
今年の4月頃から8800にラッピング車が登場した。現在8802、8803、8804、8806、8808の5両に実施されている。


クハ79


仙石線 陸前富山~陸前大塚 (49-4-29) クハ79230

関 三平さんの「昭和の電車」は、長く続いた「モハ63形シリーズ」が6月25日の京成電鉄モハ109号で終了となり、改造連接車も終わって、今回から戦前の古豪シリーズが始まり、第1回目として近鉄南大阪線のモ6601形が紹介された。一方小生の超鈍足「モハ63形シリーズ」は第4回目の「クハ79」を解説する。

(Ⅰ)鋼体化改造グループ
昭和9年から17年にかけて、17mの木製車の車体を新製の半鋼製車体に乗せ換える、いわゆる鋼体化改造が施行され、モハ50形(後のクモハ11形400番代)132両、クハ65形(後のクハ16形400番代)221両、サハ75形(サハ17形300番代)21両が誕生した。翌18年には身延線用の2扉セミクロスのモハ62形(後のクモハ14形100番代)、クハ77形(後のクハ18形0番代)が各3両作られた。
戦時中の輸送力の増強のため、鋼体化改造車を17m3扉車から20m4扉車とすることになり、昭和19年に25両計画(当初の計画では33両)されたが、終戦までに完成したのは2、4、5、9、12、16、24、25の8両に留まり以降の改造は中止となった。また、5と9は戦災で焼失したため戦後まで残った車両は6両であった。
時節柄、造作は大幅に簡略化され、2、4、9以外は天井板がなくタル木がむき出し、ラストナンバーの25は最低で座席は12名分しかなく、内張りは戸袋部以外窓から下は省略されていた。沢柳健一氏が撮影された写真がよく趣味誌に掲載されているのでご覧になられた方も多いのではなかろうか。
台枠は最初の2、4、9は木製車のものを延長して使用したが、それ以降は新製された。台車は木製車時代のTR10、TR11を流用したが、戦後24以外はTR23に履き替えた。
当初は東京地区で使用されたが、昭和39年9月、何を勘違いしたのか4、12、16、24、25の5両がなんと明石区に転属して本線緩行に使用された。当時ピク誌の「車両の動き」欄でこの驚愕の事実を知り「何考えてんねん」と思った。
以下、写真と共に解説する。

79002/ (46-9-16)  放出
大正9年天野工場製のクハ15006を昭和19年5月大宮工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、26年11月淀川区に転属、29年3月宮原、32年9月高槻、35年10月淀川区と転属して、36年11月環状線101系化で東京に戻り下十条へ、45年12月再度関西入りして淀川区で片町線に使用。一度だけ乗ったが、とにかくボロボロであった。オレンジ色に塗り替えられることなく47年1月24日付で廃車になった。

79004/ 上(43-4-20)  大阪 下(50-2-2)  広島/呉線使用時
大正9年天野工場製のクハ15009を昭和19年6月大宮工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、44年10月東京に戻り中原区から12月に青梅区へ、翌年の45年6月呉線電化時に幡生工場でトイレを設置して広島区へ、47年1月には窓の2段アルミサッシ化が実施された。呉線新性能化後可部線で使用され、59年10月3日付で廃車になった。

79012/ (39-10-24) 京都
大正10年日本車輌製のクハ15039を昭和20年1月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、48年9月18日付で廃車になった。

79016/ 画像なし
明治45年新橋工場製のクハ19043を昭和19年11月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、その後阪和線に転属して48年1月23日付で廃車になった。

 79024/ 上(42-1-6)  下(41-8-25) 京都
大正14年日本車輌製のサハ17019を昭和20年9月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、42年6月15日付で廃車になった。
この車のみ台車がTR11のままで、フワフワした感じの乗り心地であった。吹田工場で運転台窓のHゴム化、球形通風器の取付けが行われたが、グループでは最も早く廃車になった。

79025/ (44-5-30) 京都
大正3年大宮工場製のモユニ2003を昭和20年1月大井工場で鋼体化改造。国電史上接客設備が最悪の車両であったが当初横須賀線で使用された。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ。44年12月に東京に舞い戻り、武蔵中原から房総地区電化により津田沼に移動。50年4月14日付で廃車になった。
房総地区電化時、東京、関西から掻き集めた4扉車が使用され、乗客からヒンシュクを買ったが、113系に置換えられて面目を一新した。ところが近年113系老朽化により元京浜東北線の209系に置換えられ、また4扉車になった。唯、今回は両端がセミクロス車で編成中に必ずトイレ付車が連結されているので、73系の時よりいくらかマシである。

(2)63形グループ
モハ63形には、運転台機器はあるがモーターの無いクモハ63形(クハ代用)、運転台機器、モーターもなくサハ状態のサモハ63形(サハ代用)が存在したが、これらを整備の上、昭和27年から28年にかけて76両を正式にクハ79形として100~250(偶数のみ)を付番した。当然車両の向きはすべて偶数向きである。
両数が多いので代表的な車両のみ紹介する。

79100  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和19年8月川崎車輌でサモハ63002として新製。27年11月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して51年5月20日付で廃車。

79104  (48-7-1)  鳳
昭和19年11月川崎車輌でサモハ63006として新製。27年11月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、42年9月阪和線に転属して49年10月1日付で廃車。

79132  (47-1-9)  鳳
昭和21年10月汽車会社でサモハ63234として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、43年3月阪和線に転属して47年4月28日付で廃車。

79136  (49-5-27)  大阪
昭和21年4月近畿車両でサモハ63296として新製。28年3月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、46年1月高槻に転属して大阪緩行で使用後51年1月29日付で廃車。大阪緩行としては比較的遅くまで残った。(最終運行日は51年2月26日)

79152  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和21年6月近畿車輌でサモハ63314として新製。28年1月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して54年10月22日付で廃車。

79154  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和21年6月近畿車輌でサモハ63316として新製。27年8月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して55年11月15日付で廃車。

79160  (50-3-23)  南武線稲城長沼
昭和21年7月近畿車輌でサモハ63330として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は南武線中原区で53年1月17日付で廃車。

79166  (48-2-2)  青梅
昭和21年7月近畿車輌でサモハ63336として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用後、最後は青梅区で51年12月21日付で廃車。

79172  (51-2-25)  上越線群馬総社
昭和21年8月近畿車輌でサモハ63344として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、新前橋区に転属して高崎~水上間、高崎~桐生簡で使用後51年3月15日付で廃車。

79190  (43-9-7)  東神奈川
昭和21年9月川崎車輌でサモハ63378として新製。27年8月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は横浜線で52年11月30日付で廃車。

79202  (47-2-17)  鶴見線浅野
昭和21年10月川崎車輌でサモハ63438として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で51年1月29日付で廃車。

79204  (48-4-30) 仙石線下馬
昭和21年11月川崎車輌でサモハ63442として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して55年3月11日付で廃車。

79216  (50-1-6)  京都
昭和19年11月田中車輛でサモハ63009として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、40年2月明石に転属、44年12月高槻に転属して大阪緩行で使用後50年7月25日付で廃車。

79222  (48-7-14)  大阪
昭和21年8月日本車輛でサモハ63075として新製。28年5月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、41年4月明石に転属、45年1月高槻に転属して大阪緩行で使用後50年6月20日付で廃車。

79224  (47-2-17)  鶴見線浅野~新芝浦
昭和21年8月日本車輛でサモハ63071として新製。28年6月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で50年6月20日付で廃車。

79238  (47-2-20)  大阪
昭和21年8月日本車輛でサモハ63083として新製。28年7月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で50年3月22日付で廃車。
写真は関西地区から東京地区に転属する車両の受け取りに来た時のものである。撮影時の所属は南浦和区であった。

引続きモハ72形についても時期を見て解説する。

「イルカ」がいる

9月12日木曜日のこと、「ゆりかもめ」がレインボーブリッジ手前のループを通過中に、INUBUSE氏から「尾久にイルカがいる」とのメールをいただいた。引き返して見に行きたいのはヤマヤマだが、仕事の関係上諦めざるを得ない。翌日の夜「今日もいた」との電話をいただいたので、もしかすると明日もいるかも知れないと思い、14日土曜日の朝、尾久に出向いたところ、下りホームから2線隔てた留置線に「どうぞ撮って」と言わんばかりの位置に停まっていた。時折雲の切れ目から太陽が顔を出す変な光線状態であったが上野寄りの先頭車クハ481-1504から最後尾のクロハ481-1501まで順番に撮影した。

午前中時間が空いており、東十条の環七下で近く姿を消す211系でも撮影しようと思って行ったが、天気が怪しいのでパスして赤羽で185系「草津1号」撮影した。帰りに乗車した上野行が尾久に停車すると、パンタが上がっており慌てて降りて撮影後、都電荒川車庫前まで歩き、町屋経由で帰宅した。

(1)「イルカ」とは
勝田車両センターに配置されている485系の波動用車両のK60(6両編成)とK40(4両編成)2編成のことで、先頭車に「イルカ」のイラストが描かれているため「イルカ編成」とか単に「イルカ」と呼ばれている。

日常的な定期運用はなく、K60編成が行楽シーズンの土休日にいわき~鎌倉間で運転される「ぶらり鎌倉号」に使用される他は主に団臨に使用されている。この日はK60+K40の10両フル編成で、恐らく常磐線沿線の学校の修学旅行臨で上野に来て、帰りまで尾久で待機していたものと思われる。

車号は次の通りである。
K60編成、←上野クハ481-1504+モハ484-1013+モハ485-1013+モハ484-1011+モハ485-1011+クハ481-1505
K40編成、←上野クハ481-345+モハ484-1053+モハ485-1053+クロハ481-1501

(2)K60編成
クハ481-1504/上:尾久 下:勝田 (21-9-8)
函館本線の特急「いしかり」用として昭和49年4月日立製作所で新製された車両。北海道での使用が遅れたため、約1年間暫定的に青森区に配置され、特急「白鳥」に使用され大阪に顔を出していた。昭和55年新型特急車781系と置換えで再度青森区に転属、その後新潟区に転属後、平成11年車体更新時に窓を上方向に拡大した。

モハ484-1013+モハ485-1013
昭和51年4月日本車輌製で、奥羽本線秋田~羽前千歳間の電化対応用として寒冷地仕様で新製され、秋田区に配置された。その後新潟区に転属して平成11年車体更新時に窓を上方向に拡大した。

 モハ484-1011+モハ485-1011
昭和51年4月東急車輌製、前述のモハ484-1013+モハ485-1013とはメーカーが異なるだけで、あとは同じである。

 クハ481-1505/上:尾久 下:勝田 (21-9-8)
経歴等はクハ481-1504と同じ。

(3)K40編成
磐越西線郡山~会津若松間の特急「ビバあいづ」に運用していた車両で、平成14年12月7日運用終了後6両編成の内、中間のモハ484-1008+モハ485-1008を抜き、波動用として勝田区に転属した。
クハ481-345
昭和51年2月日立製作所製で当初の配置は青森区であった。

モハ484-1053+モハ485-1053
昭和53年8月日川崎重工製で当初の配置は秋田区であった。窓は原形のままである。

クロハ481-1501
経歴は極めて複雑で、昭和53年上越線特急「とき」用のサロ181-1101として日本車輌で新製、この時、既に上越新幹線の開業が迫っていたため481系への改造が考慮されていた。58年1月予定通り盛岡工場でサロ481-1501に改造。62年には「ひたち」号のクハ不足のため、運転台の取付けと普通車への改造が行われクハ481-1104となった。平成5年「ビバあいづ」用として車体前方部分をグリーン室(定員16名)に改造して現車号になった。



(4)その他
常磐線の特急は新型車両E657系への置換えが進行中であるが、現時点ではE651系、E653系も使用され、特に「フレッシュひたち」はE653系が多い。E657系に統一される日は未だ発表されていないが、刻一刻と近づいていることは事実である。E651、E653は共に7両編成と4両編成があり、乗客数に応じて7両、11両、14両(E653系のみ)編成で運転されているが、E657系は10両固定編成のため弾力性に欠ける。
「イルカ」も置換えの対象になっており、まもなく見納めになるだろう。運用のない時は勝田駅ホーム横の電留線に停車していることが多い。
目撃情報によると10月1日も尾久に停まっていたとのことである。

サハ78(Ⅱ)

5月14日【20382】関 三平さんの「ロクサン型」を受けて、5月21日【20523】「モハ63→クモハ73」、7月4日【21668】「サハ78」と進めてきたが、前回はサハ78300番代で終わったため、引き続き400、450番代と500番代に話を進めたい。

(1) サハ78400、450番代
昭和43年4月27日、御殿場線沼津~国府津間の電化時、線内の普通列車に首都圏で余剰になった旧形国電を転用することになり、クモハ60、クモハ73、モハ72、クハ79、サハ78が配置された。非電化時代の気動車、客車にトイレが設置されていたため、サハ78の一部にトイレを設置して4両基本編成中に必ず1両連結された。
戦前形4扉改造車は400番代(400、401)、63形グループ車は450番代450~457)が付番された。

呉線電化時にもサハ78とクハ79の一部にトイレが設置されたが、改番されたのはクハ79の1両のみであった。後日呉線から改番されていないトイレ付のサハ78111,113、119、120の4両が御殿場線に転入したため、改番された車両とされていない車両が混在する結果になった。

サハ78401/(52-2-11) 沼津
昭和6年4月田中車輌でサロ45003として新製。19年9月大井工場で4扉化(戦時改造)してサハ78024に改番。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年10月11日付で廃車。

 サハ78450/(49-4-2) 沼津
昭和21年6月近畿車輌でサハ78101として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年9月14日付で廃車。

サハ78451/(49-4-2) 沼津
昭和21年6月近畿車輌でサハ78103として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年9月15日付で廃車。

 サハ78453/(49-2-17) 沼津
昭和21年8月近畿車輌でサハ78110として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年11月9日付で廃車。

 サハ78454/(49-4-2) 沼津
昭和21年12月近畿車輌でサハ78128として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。55年10月13日付で廃車。

 サハ78455/(49-2-17) 沼津
昭和21年12月近畿車輌でサハ78129として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。55年4月22日付で廃車。

 サハ78456/(48-5-13) 沼津
昭和19年10月川崎車輌でサモハ63005として新製。26年12月大井工場でサハ78304に改造。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。52年2月18日付で廃車。元サモハ63→サハ78300番台のため、78450~78455とは戸袋の位置が異なる。

 サハ78457/(49-2-17) 沼津
昭和21年9月川崎車輌でサモハ63376として新製。27年2月大井工場でサハ78378に改造。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。51年10月18日付で廃車。

 画像の無いサハ78400とサハ78452の経歴は下記の通りである。
サハ78400
昭和6年6月川崎車輌でサロハ46010として新製。12年1月トイレを設置してサロハ66010に改番。20年3月大井工場で4扉化(戦時改造)してサハ78018に改番。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年10月11日付で廃車。

サハ78452
昭和21年7月近畿車輌でサハ78108として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年11月19日付で廃車。

(2) サハ78500番代(501~515)
昭和44年10月から45年3月にかけて元モハ63形改造のモハ72を大井工場で電装解除した車両で78501~78515の15両在籍した。鳳区に配置された78506以外は関東地区の配置で、50年代の前半に廃車されたため、撮影できたのは、502、506、509の3両のみである。
尚、トップナンバーのサハ78500は三河島事故で大破したモハ72549(28年11月東急車両製)を電装解除して復旧した車両で、モハ63形とは直接関係ない。

サハ78502/ (49-5-1) 拝島
昭和21年10月日本車輌でモハ63161として新製。27年3月日本車輌でモハ72051に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年12月21日付で廃車。

 サハ78506/(49-6-16) 天理
昭和21年6月日本車輌でモハ63023として新製。27年5月東急車両でモハ72163に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年2月1日付で廃車。
関西に配置された唯一の車両で、阪和線で活躍した。

 サハ78509/ (48-2-25) 拝島
昭和22年9月近畿車輌でモハ63518として新製。27年8月大井工場でモハ72201に改造。45年3月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年12月17日付で廃車。

 画像の無い車両の経歴は下記の通りである。
サハ78501
昭和21年9月日本車輌でモハ63111として新製。26年12月大井工場でモハ72033に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。46年12月8日付で廃車。

サハ78503
昭和21年9月近畿車輌でモハ63364として新製。26年12月大井工場でモハ72096に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年3月22日付で廃車。

サハ78504
昭和22年8月川崎車輌でモハ63194として新製。27年2月日立製作所でモハ72118に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月17日付で廃車。

サハ78505
昭和22年11月川崎車輌でモハ63637として新製。27年2月日立製作所でモハ72153に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年10月29日付で廃車。

サハ78507
昭和21年10月日本車輌でモハ63145として新製。27年5月汽車会社でモハ72167に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月10日付で廃車。

サハ78508
昭和21年11月日本車輌でモハ63257として新製。27年5月東急車両でモハ72171に改造。45年3月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年12月21日付で廃車。

サハ78510
昭和22年10月近畿車輌でモハ63522として新製。27年10月大井工場でモハ72212に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年10月24日付で廃車。

サハ78511
昭和23年2月日本車輌でモハ63772として新製。27年6月日本車両でモハ72252に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月17日付で廃車。

サハ78512
昭和23年8月汽車会社でモハ63685として新製。28年1月日本車両でモハ72265に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。53年5月8日付で廃車。

サハ78513
昭和23年1月汽車会社でモハ63749として新製。28年1月汽車会社でモハ72287に改造。44年12月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年1月23日付で廃車。

サハ78514
昭和23年1月汽車会社でモハ63747として新製。27年12月東急車両でモハ72306に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年2月5日付で廃車。

サハ78515
昭和22年12月汽車会社でモハ63731として新製。28年1月東急車両でモハ72309に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。53年9月16日付で廃車。

【参考】サハ78516、78517について
モハ72522と72523(いずれも昭和28年10月日立製作所製)を昭和45年6月と7月に浜松工場で電装解除した車両で63形とは直接関係ない。片町線で使用され、78516は52年3月16日付、78517は51年9月1日付で廃車になった、

取り外された電装品は、身延線の準急増発用として計画されたサハ87108、87111の電動車化に利用され、パンタ部分を低屋根化してモハ80850、80851となった。座席幅が狭く内装が木製のため、全金製のモハ80800番代と比較すると見劣りし、予備車となっていることが多かった。

サハ78516/ (47-2-20) 放出


 サハ78517/ (48-7-1) 住道

63形について、クモハ73、サハ78と話を進めてきたので、時期を見て残るクハ79、モハ72についてもまとめてみたい。

大垣の朝

9月8日【23326】でINUBUSE氏が養老線に転属した正統派ラビットカーの夜景等の投稿をされたが、1週間前の8月29日のこと、名古屋に行った時、昼前まで時間が空いたので、これ幸いと養老線を訪れた。

東京駅6時発「のぞみ1号」で出発、名古屋から東海道本線快速に乗継ぎ、大垣発8時43分桑名行に乗車して次の西大垣駅で撮影した。
乗車した桑名行は(←大垣)モ611+サ571+ク511で、旧車号はモ1801+サ6109+ク1901の元名古屋線と元南大阪線の混合編成であった。中間のサ571はク6109として新製され、後日運転台を撤去したため大垣寄りの妻面に丸味があり窓配置が変則になっている車両であるが、この車両に乗ったため撮影はできなかった。
以下、撮影順に紹介する。

西大垣9時発大垣行→9時16分発桑名行/モ612+ク512
旧車号はモ1802+ク1902で平成5年3月に転入している。モ1800形とク1900形は昭和41年に新製された名古屋線の通勤型車で各4両作られた。

9時29分大垣行→9時45分回送入庫/ク524+サ564+モ624
旧車号はク6114+モ6018+モ6017で平成5年6月に転入している。モ6000形は昭和38年に新製された南大阪線の通勤型車で新製時はラビット塗装であった。サ564はパンタが付いているため「M」に見えるが電装解除されている。

9時40分揖斐線運用車の回送入庫/モ602+サ552+ク502
旧車号はモ1657+サ6153+ク1752で平成5年3月に転入している。元名古屋線と元南大阪線の混合編成である。モ1650形は昭和38年(1651~1655)と41年(1656~1659)、ク1750形は40年に1751・1752がモ1600+ク1700形の増結用として作られた。モ1651~1654の4両は57年6月京都線急行新田辺~京都間5連化の時、新田辺区に転属して連結面に簡易運転台を取付け、京都寄りの先頭に連結されていたためご存知の方も多いと思う。
中間のサ552は養老鉄道唯一のトイレ付車両であるが、普段は施錠されており、団臨に使用時のみ使用される。サ6151形は、モ6000形のT車として43年にサ6151~6153の3両新製されている。

9時56分大垣行→10時14分桑名行/ク523+サ563+モ623
旧車号はク6108+モ6016+モ6015で平成5年12月に転入している。前歴等は前述のク524他3連と同じである。

10時27分発大垣行/ク521+サ561+モ621
旧車号はク6101+モ6012+モ6011で平成4年6月に転入している。そろそろ切り上げないと間に合わなくなるため、この電車で戻ったため、大垣駅で先頭のク521の撮影のみに終わった。(以前は全車両撮影できたが、線路際にホテルが建設されたため<大垣寄りの先頭車のみとなった)もう少し頑張ると、この電車と揖斐線の回送入庫が撮影できるが、そこは止むを得ないところである。

留置車/モ604+ク504
旧車号はモ1659+ク1952で平成6年7月に転入している。モ1659は昭和61年、ク1952は62年製で異系列同志の連結である。桑名寄りのク504のみ撮影可能であった。

INUBUSE氏が撮影された元正統派ラビットカーモ6858+モ6857のク506+モ606はあいにく車庫の中で、出庫は18時30分とのことで、帰りにリベンジしようとも思ったが、かなり暗くなるので今回はパスした。

養老線を初めて訪れたのは、現役時代昭和42年7月23日のことで、改造されていたとはいえ旧養老鉄道や伊勢電の車両を見て、近鉄にもこんな車両があったのかと驚いたものである。その後何回となく訪れ、そのたびに車両のバリエーションが増え、志摩線改軌で不要になった元三重交通の車両も転入した。その後元名古屋線のモ6301系列、モ6441形にほぼ統一されたが、新性能化、冷房化が推進され現在の車両になった。

現在の車両も昭和40年代に作られており、車齢を考えるといつ廃車になってもおかしくない。加えて近鉄では少子高齢化による乗客減により運転本数が減少傾向にあるため、今後南大阪線、名古屋線の比較的新しい車両に置き換えられる可能性もあり、引き続き注目していきたいと思っている。

ちなみに42年7月23日は、ロギング太郎さんと行動を共にし、養老線の後、岐阜の行くと市内線の単車の最終日、午後は名鉄金山橋で流電モ3400形、名古屋駅でキハ90を撮影した。

キハ44000→キハユニ15

「昭和の電車」シリーズの次回の予想を立てるが最近は全く当たらない。国鉄モハ63形から始まった「63シリーズ」が長く続き、次は「改造連接車シリーズ」が始まったが僅か2回で終わった。次は大阪市電の改造連結車、終戦直後の南海と続いたので「終戦直後シリーズ」が始まるのかと思いきや、予想に反して今回はキハ44000形が登場した。

兵庫ふるさと通信員様よりキハ44005→キハユニ156をカラーでUPしていただきましたので、気動車に詳しい諸先輩方を差し置いて解説を試みた。

キハ44000形は、昭和27年から28年にかけて新製された電気式気動車で、DMH17Aエンジンに直結した300Ⅴ100KWの直流発電機を駆動し、発生した電力で後部台車に架装した45KW×2の主電動機を駆動した。
27年8月44000、44001が日本車輌(支店)で44002、44003が汽車会社で作られ千葉気動車区木更津支区に配置された。翌28年3月44004~44007が日本車輌、44008~44011が新潟鐵工所で、44012~44014が東急車両で作られ、44004~44008が木更津支区、44009~44014が大原区に配置された。木更津支区は主に房総西線(現内房線)、大原区は主に房総東線(現外房線)で使用されたが、土気~大網間の勾配区間でのパワー不足のため、程なく成田区に転属した。27年製と28年製では側面のスタイルが異なり、27年製はクハ86の初期車を3扉にしたようなスタイルに対し、28年製は窓が2段化され、上窓はHゴム支持(通称バス窓)になった。関 三平さんのイラストは先頭車が27年製、2両目は28年製で描かれている。

昭和32年4月の称号改正でキハ09形(1~15)となったが、同年度中に液体式とキハユニ15形(1~15)に改造され、全車千葉を離れて北海道を除く全国に分散した。

昭和50年3月末の配置表では、それ以前に廃車になった5、7、15以外の12両が健在で、山形区に4、水戸区に8、10、13、加古川区に3、6、9、浜田区に14、岡山区に1、11、徳島区に12、人吉区に2が配置されていた。

キハユニ151
キハ44000→キハ091、昭和33年3月大宮工場で改造されキハユニ151となった。当初鳥取区に配置されたが37年に岡山に転属して55年8月廃車になるまで在籍した。47年頃正面に貫通扉を設置した。/上:岡山駅 (44-10-19) 下:正面貫通化改造後/岡山駅 (49-11-23)

キハユニ153
キハ44002→キハ093、昭和32年12月大宮工場で改造されキハユニ153となった。当初鳥取区に配置されたが37年に岡山区に転属、更に48年9月に加古川区に転属して55年7月廃車になるまで在籍した。フロントガラスを小さなものに交換したため不細工な顔になった。/加古川区 (49-5-12)

 キハユニ154
キハ44003→キハ094、昭和32年12月小倉工場で改造されてキハユニ154となった。改造後から52年7月廃車になるまで一貫して山形区に在籍した。47年頃正面に貫通扉を設置した。/余目駅 (41-9-5)

 キハユニ156
キハ44005→キハ096、昭和33年3月大宮工場で改造されてキハユニ156となった。改造後から56年5月廃車になるまで一貫して加古川区に在籍した。/加古川駅 (49-5-12)

 キハユニ1514(連結面)
キハ44013→キハ0914、昭和32年12月大宮工場で改造されてキハユニ1514となった。当初加古川区に配置されたが、49年9月岡山区に転属、更に50年3月浜田区に転属して54年11月廃車になった。/加古川区 (41-3-6)

 【参考】
キハ44500→キハ15→キハユニ15
キハ44003~44014の新製と同時期、液体式気動車の試作車としてキハ44500~44503の4両が日本車輌で新製された。キハ44003~44014と同一スタイルで大宮区に配置され川越線で試用された。

昭和32年4月の称号改正でキハ15形(1~4)となり、34年度中にキハユニ15形(16~19)に改造された。改造後16、18は豊岡区、17、19は小郡区に配置され、昭和50年度廃車になるまで転属することなく在籍した。

キハユニ1517
キハ44501→キハ152、昭和35年3月大宮工場で改造されてキハユニ1517となった。50年11月廃車になった。/広島駅 (40-3-27)

 【その他】
キハユニ154と同じ日に撮影した「行先板」と「愛称板」を紹介する。
盛岡~秋田間を花輪線経由で結んでいた急行「よねしろ」の行先板で、夏の期間中は船川(昭和43年4月男鹿に改称)まで延長運転されていた。追分から直接船川に行かず、一旦秋田まで行き、船川線の定期の普通列車に併結され船川まで運転された。

 急行「月山2号」の愛称板。「月山」は上り2本、下り1本という不思議な列車で、上りの「月山1号」は酒田~山形間、「月山2号」は酒田・鶴岡~山形~仙台間の運転であった。
下りは、仙台~山形~鶴岡・酒田間1本のみの運転で、愛称は「月山」であった。従って「月山2号」の愛称板を表示する列車は上りのみであるが、専用の愛称板が存在した。

日本鐵樂者写真展/「炭鉱(やま)の機関車」

都電荒川線、鬼子母神前電停、メトロ副都心線、雑司ヶ谷駅近く都内豊島区鬼子母神参道の直ぐ近くにある「三愚舎ギャラリー」で「炭鉱(やま)の機関車」をテーマにした写真展が開催されている。

主催者は「日本鐵樂者撮影家集団」金澤 忠、蔵重信隆、杉 行夫、野口信夫の各氏で、メインは昭和40年代に撮影された台湾の瑞三炭鉱、インドのティポン炭鉱で、デジ青でぶんしゅう氏が発表された中国のグース、昭和50年の夕張線、52年の釧路太平洋炭鉱の電機の生き生きした姿が展示されている。台湾国鉄のオハフ33を18m級に短くした客車を牽くDL等も見逃せない。

会期は9月2日(日曜日)まで、時間は12時~18時30分(最終日は17時まで)、木曜日のみ休廊となっている。土曜、日曜は開廊されているので関東地区の方で興味のある方は是非見に行っていただきたい。私が行った日には時々コメントをいただいている村樫四郎氏が観覧に来ておられた。

少し前の天理駅他


天理駅を発車するモ802-ク711-サ701-モ801の京都行急行/(50-8-6)

モ800系は昭和30年奈良線特急用として新製された車両で、奈良線の車両限界拡大後は、京都線、橿原線、天理線で使用された。

8月9日【22285】で、どですかでんさんが天理駅の画像を貼られたが、昭和50年に撮影した写真が出てきたので紹介する。

近鉄天理線は橿原線の支線のように見えるが、橿原線の西大寺~平端間の開業が大正11年4月(平端~橿原神宮前間の開業は大正12年3月)に対し、天理線は「どですかでんさん」が書いておられる通り、大正4年2月7日天理軽便鉄道として新法隆寺~天理間を軌間762mm、蒸気動力で開業している。大正10年1月大阪電気軌道に買収、大正11年4月平端~天理間を標準軌に改軌の上、架線電圧600Vで電化。762mmで残った法隆寺~平端間は、戦時中の昭和20年2月11日営業休止を経て27年4月1日廃止された。
平端~天理間は44年9月2日架線電圧を1500Vに昇圧。63年6月27日全線複線化。48年9月20日建築限界拡大工事が完成して大型車が入線可能になり、天理教大祭時等には標準軌区間各所から団体臨時、臨時特急等が直通するようになった。

モ8068他4連/(50-8-6)

モ822-ク722-ク714-モ807/(50-8-6)
820系と800系の混結編成。820系は昭和36年奈良線特急増発用としてM-T8編成が新製された。奈良線の車両限界拡大後は800系と同様であるが、2両固定編成で小回りが効くため、生駒線、田原本線、京阪電鉄乗入れ等にも使用された。昭和59年から南大阪線6800系の足回りを組み合わせて伊賀線に転属した。後2両は800系である。


【参考】天理発京都行急行/(41-2-16) 丹波橋

国鉄天理駅留置線(49年6月16日撮影)
天理教の大祭時には、全国各地から団体臨時列車が運転され、奈良線でもD51の牽く客車列車が見られた。国鉄天理駅には団臨用の留置線があり、一時期阪和線新性能化により役目を終えた旧形国電が留置されていた。その中で珍しいと思われる車両を紹介する。

クモハ61002/昭和7年10月日本車輌でモハ40002として誕生、27年主電動機を128Kwに取替え、28年6月の改番でモハ61002となった。49年8月廃車。
正面窓は、非パンタ側は運行窓を含めてHゴム化されたが、パンタ側は最後まで木枠であった。
下は現役時代/(48-9-15) 堺市

クハ55151/昭和12年7月日本車輌でクロハ69006として新製。昭和18年戦時改造で2等室廃止ロングシート化でクハ55104に。28年6月2等室復活でクロハ69010。昭和36年5月2等室廃止ロングシート化でクハ55104(2代目)。昭和37年12月改番でクハ55151に。昭和45年2月明石から鳳に転属。49年10月廃車。
下は現役時代/(48-3-21) 鳳

サハ57056/昭和8年12月大宮工場でサロハ56009として新製、京浜東北線等で使用。昭和18年3月大井工場で戦時改造2等室廃止でサハ57056に。東京地区で使用後、42年5月津田沼から鳳に転属。49年10月廃車。

奈良交通のボンネットバス
どですかでんさんが法隆寺駅前で撮影された結崎行を貼っておられるが、狭隘区間が存在するため比較的遅くまでボンネットバスによるツーマン運行であった。
奈あ1917/(50-1-12) 法隆寺駅

奈2あ1916/(50-1-15) 法隆寺駅

奈あ1915/(50-8-6) 高田営業所
方向幕の「三輪明神前」は撮影時に「幕回し」で出したもの。横の幕は「平端駅~高田市駅」を表示している。車両はいずれも41年式BXD30・帝国車体である。

十津川・新宮特急について
十津川・新宮特急は国道168号線の改良に伴い、昭和38年3月1日より運行され、奈良側の起点は奈良大仏前であったが、59年に八木駅に変更されている。
当初は奈良交通が新宮駅~奈良大仏前間2往復、国鉄バスが新宮駅~五条駅間1往復、熊野交通が新宮駅~橋本駅間2往復運行され、新宮~五条間に限ると5往復運行されていた。
どですかでんさんが貼られているのは2代目の車両で、現在の使用車両は5代目である。
奈2あ1750/ (50-1-15) 法隆寺前
38年式いすゞBA743P(車体は川崎航空機製)で、初代の十津川・新宮特急用車両。「奈良交通50年史」(多分)に同形の近い登録番号の車両の走行中の写真が掲載されている。写真は最晩年で法隆寺駅周辺のローカル運用に使用されていた頃である。

奈22あ 179/(50-8-6) 五条バスセンター
50年式いすゞBU04P(車体は川崎重工製)で、十津川・新宮特急、湯ノ峰急行用として新製された車両である。写真は奈良大仏前9時20分発湯ノ峰温泉行急行で、湯ノ峰温泉には16時4分に到着した。湯ノ峰温泉行急行はあと1本、奈良大仏前発11時25分→湯ノ峰温泉着17時39分があった。

奈22あ 180/(54-4-27) 奈良営業所

奈22あ 181/(54-1-15) 奈良営業所
湯ノ峰温泉行きは川湯温泉まで延長されたが、現在では新宮行特急が湯ノ峰温泉、川湯温泉を経由するルートに変更され廃止された。

奈22あ 423/(54-4-27) 奈良営業所
52年式いすゞBU04P(車体は川崎重工製)で、北山峡経由新宮行特急用として新製車両である。奈良大仏前から八木駅、大和上市駅、杉の湯(川上村)、池原(下北山村)、熊野市を経由して新宮まで2往復運行されていた。開業は十津川・新宮特急より1日早く昭和38年2月28日である。初代の車両はボンネットバスで、後の車両も座席こそよかったものの通常の路線バスと同じ2段窓であった。

十津川・新宮線と比較すると沿線に観光資源が乏しく、生活路線的な性格が強かったため、マイカーの普及と沿線の過疎化の進行により、下桑原以遠が廃止され、自治体のバスに代替されてしまった。現在は八木駅~池原間1往復、下桑原間1往復、いずれも途中の杉の湯乗り換えで運行されている。
下桑原以遠は自治体バスにより一応路線は繋がっているものの接続が悪く1日で熊野市まで到着することが不可能であったが、最近下北山村営バスが路線延長により終点の桃﨑大橋で、熊野市営バスと接続するようになったため4本乗り継ぎで辛うじて熊野市まで到達できるようになった。
新宮駅まで行く場合は更に1本乗り継ぐ必要がある。下北山村営バスは土日祝日、年末年始は運休のため注意が必要である。また八木から行く場合、下北山村営バスが桃﨑大橋に到着5分前に熊野市営バスが発車してしまい、次のバスまで2時間待ち時間がある。
逆方向の場合は熊野市駅12時22分発に乗れば、乗り継ぎがスムーズで17時54分に八木駅に到着する。
リタイヤ後、行きは十津川・新宮特急、帰りはこちらで新宮まで往復したいと思っている。

外回り鉄の南海電車


初めて撮影した「ラビート」。奇抜なデザインはどこにもパクられていない

7月の初め、外回り鉄で南海電鉄を訪れた。いつもは京都で途中下車して103、113、117系を撮影するが、たまには変わったところと思い、南海電車に行くことにした。阪堺線は京都にいた頃からしばしば訪れているが、南海本線は40年近く撮影したことがない。

大阪駅から関空快速に乗り、新今宮で下車。取りあえず堺までの切符を買い、改札を通ると目に前に高野線の各駅停車金剛行が来たので乗車して次の「萩の茶屋」で下車。駅の周辺は風流の駅名とは裏腹であるが、通過する南海本線の電車が綺麗に撮影できる。
ラビートを初めて撮影したが、よくこんなスタイルを考えたものだと思う。
40年前の新車7000系が、座席指定車と併結で和歌山市行特急「サザン」で快走しており感激する。座席指定車は気の毒なほどガラガラで、自由席車は立ち客がチラホラ程度の乗車率である。
40分程撮影後、場所を天下茶屋駅に移して高野線の電車を撮影していると、6000形のトップナンバーが来てまた感激した。
30分程撮影後、特急サザン(勿論自由席)に堺まで乗車。7000系はロングシートでもゆったりしているし、昼間は指定席料金を300円位にしないと乗ってくれないと思う。
堺駅から阪堺線の大小路まで歩き、ド派手なパチンコ屋の広告電車に住吉鳥居前まで乗車。東京都であれば許可されないであろう。次の住吉の交差点と合わせて40分程撮影したが、都電カラーの502、筋肉マン電車の505を撮影した。
上町線で天王寺か阪堺線で南霞町に出て地下鉄で梅田に行く予定であったが、時間切れのため、南海本線住吉大社から難波に出て地下鉄に乗った。

モハ7033他8連の特急「サザン」/7000系は昭和38年から43年にかけて新製された。新製時から今日まで特急から普通まで幅広く使用されているが、近年廃車が出ている。

モハ7173他4連の普通/7100系は7000系のモデルチェンジ車として昭和44年から48年にかけて新製された。

モハ10909他8連の特急「サザン」

モハ2152他4連の普通和歌山市行/高野線の山岳区間直通用車両であったが、線路改良により橋本まで20m車が入るようになり余剰となったため本線に転属した。主に難波~和歌山市間と難波~関空間の普通に使用されている。

モハ6001他8連/昭和37年製で半世紀以上使用されている。7000系や7100系は廃車が出ているが、全車両健在で「良いものは長持ちする」見本のような電車である。

 クハ6521他6連/昭和50年1編成のみ新製された電機子チョッパ制御の試作車で当初は8000系と呼ばれていた。平成3年機器を交換して6200系に編入された。

 泉北高速鉄道5506他8連/平成2年に新製されたVVVFインバータ制御車。

 モハ706/パチンコ屋のラッピング車であるが、東京では間違いなくボツになるだろう。

都電カラーのモハ502

モハ504

キン肉マン電車のモハ505

昭和47年3月26日の外回り鉄
この日は、七道と泉北ニュータウン光明池近くの用務先に行った。
新今宮から南海本線に乗らずに阪堺線南霞町から綾ノ町まで乗車。
用件終了後七道から乗車して、時間調整のため堺で途中下車、再度乗車して羽衣で下車。
高師浜線と羽衣支線を撮影後、鳳まで乗車。ここから光明池行のバスで次の用務先に向かった。

モハ11021他6連特急「四国号」/堺

 モハ1560他5連の特急「南紀号」/堺

「南紀号」のラスト「サハ4801」/堺


モハ7025他6連の急行
/堺

 モハ7116他4連の普通/堺

 クハ7852他6連の急行/堺

高師浜線のモハ1560/羽衣

 鳳~東羽衣間のクハ79306他3連/東羽衣~鳳

広島電鉄の改造連接車

「昭和の電車」に広電宮島線の改造連接車が登場した。イラストは西広島行の電車が広電廿日市~宮内間の宮内トンネルに進入するところを後追いで描かれていると思われる。
ラッシュ時や多客時を中心に活躍したが、昭和55年12月に廃車になった。

1041+1042/(52-1-2) 荒手車庫

広電にはもう1形式改造連接車が2編成在籍した。大阪市電1600形改造の2511+2512と2513+2514で、旧車号は順に1617、1630、1636、1640である。昭和41年3月大阪車輌で改造され、車体内外ともに大阪市電時代の面影をよく残していた。市内線から宮島線の直通運用に使用されたが、2511+2512は55年12月、2513+2514は54年12月に廃車になった。

2511+2512/(52-1-2) 荒手車庫

2513+2514/(44-3-24) 広島駅前~猿猴橋町

富山地方鉄道クハ91と一昔前の万葉線

乙訓の長老より【21767】「富山の63スタイル2台で2題」で富山地鉄のクハ145、146の紹介と写真の公開があった。長老の解説の通り、昭和19年新潟鐵工所製でノーシル、ノーヘッダーの軽快な車体は外観からは戦時形には見えないが、昭和21年入線時の車内は、天井内張り無し、無座席、無燈で戦時形そのものである。
もう1題のクハ91と92は稲荷町で撮影した筈と思い、ネガ探しをしたところ、46年3月21日にクハ91を撮影していた。

【クハ91】
昭和37年富士重工で新製、台車は近鉄名古屋線改軌時に発生したD16を履いていた。富山地鉄で3扉両開の完全な通勤型スタイルの車両は、後にも先にもこの2両のみであった。42年から44年にかけて名鉄からモ3800-ク2800→モ14710-クハ10が7編成入線すると余剰になり、46年僅か9年の在籍で廃車になった。

 【万葉線】
INUBUSE氏より【21511】「万葉線紀行 連節車と除雪車」で同線の近況をレポートしていただいたが、昭和40年代の様子をご覧に入れたい。万葉線の歴史は少々複雑で、昭和23年4月富山地方鉄道高伏線として地鉄高岡(現高岡駅前)~米島口~伏木港間を開業。26年4月米島口~新湊(現六渡寺)間を開業して新富山~新湊間の射水線と結ばれ、地鉄高岡~新湊~新富山~富山市内線西町間の直通運転を開始した。

北陸本線と比較すると大きく迂回するため富山~高岡間を直通する乗客は少なかったが、新湊市と富山、高岡を結ぶ都市間連絡路線としての役割を果たしていた。後述の堀岡~越ノ潟間分断後、射水線が廃止されてしまったのは都市間連絡機能を失ったことが原因と考えられる。

余談であるが、富山~高岡間は昭和60年代までバスが昼間10分間隔で運行されていたが、JRの本数の増加、交通量の増加により定時性の喪失による乗客減で昼間1時間間隔にまで減便されている。

昭和34年4月地鉄高岡~米島口~伏木港、米島口~新湊間を加越能鉄道に譲渡して、地鉄高岡は新高岡に改称された。射水線は大正13年10月、越中電気軌道として富山北口~四方間を開業、部分開業を繰り返し8年12月新富山~新湊間を開業、昭和18年1月富山地方鉄道に合併され、同社の射水線となった。

41年4月、富山新港建設のため、堀岡~越ノ潟間が廃止となり、高岡側の越ノ潟~新湊間が加越能鉄道に譲渡され同社の新湊港線となった。
46年9月米島口~伏木港間が廃止され、現在の路線になった。

 平成13年加越能鉄道が乗客減により廃止を表明したため、高岡市と新湊市が中心となり「第3セクター」で「万葉線株式会社」を設立し、14年4月1日より新会社として営業を開始した。
現在は新車の導入、運賃値下げ、中新湊~越ノ潟間の増発、イベント開催による集客等により、乗客減が止まり増加傾向にあるとのことで喜ばしい限りである。

 デ5021/25年日立製作所製。最終的にデ5021~5026の6両が加越能鉄道の所属であった。(46-3-20 米島口)


デ5022
/25年日立製作所製。
(46-3-20 米島口)
現在も機器扱いで除雪車として残っているが、今年新製車と交代する。詳細はINUBUSE氏の21511】「万葉線紀行 連節車と除雪車」をお読みいただきたい。このまま動態保存できないものだろうか。

  デ5025/25年日立製作所製。(42-3-21 新高岡)

 デ5039/26年愛知富士産業製。(42-3-21 新高岡)
この時期は7021~7030、7037~7040の14両が加越能鉄道所属であった。写真の7039は富山地鉄笹津線に転属した。横のボンネットバスは白川郷西赤尾発のバスである。
デ5000形については、長老のご友人服部重敬様著「RM LIBRARY107/富山地鉄笹津・射水線 デ5000系物語」に詳しく書かれているのでお読みいただきたい。

 デ7051/昭和36年日本車輌製。(42-3-21 新高岡)
富山地鉄デ7000形を前後扉にしたスタイルで、設計図を流用して中扉のみ移設したためこのような奇妙なスタイルになった。7051~7053の3両が新製され、新高岡~伏木港間に投入しところ、明るい蛍光灯の輝く軽快な車体は、従来のデ5010形との格差が大きく、新湊方面の乗客から苦情がきたとのことである。

 デ7053/昭和36年日本車輌製。(46-3-20 米島口)
この時代の全面広告車は比較的珍しい。まだラッピング技術は開発されていなかったため、車体に直接ペイントされていた。

 デ7075/昭和42年日本車輌製。(46-3-20 米島口)
デ7071~7076の6両新製され、現在も健在である。

デ7076/昭和42年日本車輌製。(45-10-10 新高岡)


ボ1/大正13年大阪鐵工所製。(46-3-20 米島口)
富山ライトレール←国鉄富山港線の前身、富岩鉄道ボ1として新製された木製車で、僚車ボ2と2両新製された。正面はタマゴ形5枚窓、客室窓上に半月形の優雅な飾り窓があり、鉄道車両もここまでくると芸術作品である。
富岩鉄道は大正12年3月設立、翌年7月富山口~岩瀬浜間7.3㎞を開業、昭和2年12月富山口~富山間0.7㎞を開業した。12年12月富山地方鉄道の母体となった富山電気鉄道の傘下に入り昭和16年12月に合併されたが、昭和18年6月国家要請により鉄道省に買収された。
昭和23年4月廃車後、25年12月に富山地鉄に譲渡、ボ1は高岡軌道線、ボ2は笹津線で使用された。ボ1は41年射水線分断時に加越能鉄道所属となり、46年4月に廃車になった。

 
【参考】
ボ2(52-9-24 南富山)
富山地鉄に残ったボ2は車体改装により正面は3窓に、更に車体が鋼板張りとなり客窓上の半月形飾り窓もなくなった。50年10月射水線に転属後、55年4月廃車になった。

 セミボ21(43-4-6 岳南江尾)
富岩鉄道には、セミボ20と21の2両の半鋼製車が在籍し、セミボ20は昭和2年大阪鐵工所、21は3年日本車輌で新製された。両車とも買収後の26年8月クハに改造、28年3月廃車になった。廃車後、20は昭和30年静岡鉄道に譲渡されクハ7に、21は28年岳南鉄道に譲渡されクハ21として再起した。いずれも近隣私鉄でなく静岡県下の私鉄に譲渡されたことは興味深く、この時期は大手、中小を問わず車両不足であったことが伺える。