① デハヨ型26号、撮影地は琴参琴平駅。高橋さんが東山中学5年秋(1949年と思われる)、修学旅行で四国へ行れた時のもので、夜行で高松に上陸、屋島と栗林公園に行き琴平で1泊、琴平神宮参拝後に撮影したとの説明があった。フィルムは映画用をライカ1型のパトローネに詰め込んだもので粒子が粗く、大きい写真は掲載に向かないから気をつけるように言われた。
② 和歌山鉄道モハ50号、於:東和歌山駅、1952年2月24日撮影。「琴参の2軸車改造とは思えない車体ですが、台車も改造か?」との高橋さんのコメント入りである。この50号は琴参のトップバッター、開業した1922年10月22日の祝賀電車となったものである。1939年10月に和歌山鉄道に売却されたデハヨ型は4両、11~13、15号の4両であった。燃料事情から水力発電が豊富な和歌山では、アメリカから原油を差し止められるやいなや、一早く鉄道電化に着手した。ノンステップ化、連結器取り付けなどの改造後50~53号と付番され、1941年12月末の電化工事の完成を待って1942年正月から使用開始となった。私は松電、長電、東京の電車見物を終えた後、国電モハ52が阪和線で特急運転している奧野さんに教わり、天王寺を朝9時過ぎ発で乗りに行っている。その時、この50号が東和歌山構内で貨車入換作業をしているのを見ていた。50号は旧11号の旧番号持つ。つまり1号車なのである。26号と11号は正面の横樋が曲線と直線の相違以外に、出入口が3ステップと2ステップの違いもあり、開業時の5両のうち4両はいち早く売却の憂き目にあった。
③ デハ56号、撮影場所と時は26号同じ。琴参は昭和期に入り乗客数が急上昇している。琴平急行電鉄開業もあり「金毘羅参り」が頂点に到達した頃、車両増備が図られた。結果は南海鉄道軌道線の余剰車両、元阪堺電鉄1型(1911年製)5両(15、17、29、37、39号車)の導入であった。1935年9月に購入され1936年2月に使用認可を得ている。南海側では50~54号と付番して出荷したと伝えられているが、すでに琴参には50形51~54号が存在しており、60形55~59号に改番された。導入後の写真では阪堺時代同様オープンデッキであったが、後に折畳扉を取り付けた。この5両は戦後鋼体化されているが、撮影された1949年の56号は鋼体化工事前である。