雪景色の中央東線

関東にも大雪です。そこで鳥沢~猿橋間の鉄橋へ出向きました。

ここを走る115系も、近々置き換わるだろうと思ったからです。

八王子駅でのポイント故障で、ダイヤは大幅に乱れました。

先ずは、426M。

次に、536M。

雪を舞い上げダイヤ回復に努める、58M/あずさ8号。

ほぼ定時通過の80レ、EH200-22。

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part5  国境の町、黑河(ヘイフー)のあじあ号展望車

第7日目 2月25

黒河20:40(K7036次)→ 7:08ハルピン

黑河へ来た目的は、国境の町の終着駅を見たかった以外に、是非とも会って見たい車両があったからです。ただ、情報は古く既に解体されているかとの不安がありましたが、行って確認する事にしました。

朝食後、ホテルに荷物を預けて駅に向かいました。まずは、10日後の切符購入です。昆明から成都までの切符は今日、駅での販売が開始されます。シーズンでは、団体客におさえられて中々入手困難ですが、この時期は大丈夫です。ネット残席情報でも大半が残っています。難なくゲットできました。

▲ ローカル駅だけあって、窓口は1ケ所だけですが、直ぐに買えました。
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「日本海」「きたぐに」を送る (4)

「きたぐに」 -4-
  ▲定期列車としては残りわずかとなった「きたぐに」(保内付近)
2年前、「きたぐに」の乗車ルポを書くようにとの依頼が出版社から入り、大阪から自由席に乗って新潟まで行ったことがある。一年を通じて流動の少ない冬のこと、車内はガラガラだったが、仔細に観察するとさまざまな発見があった。
  ▲大阪駅で発車を待つ。駅改良工事のため10番線からの発車
旅客の流れにも、単に関西と新潟を結ぶ夜行と結論づけられないものがある。定期券でも乗れるため、彦根・米原・長浜などへの最終電車的な役割がひとつ、北陸本線内では一番電車的な役割があり、例えば、直江津で北越急行乗り換えで上越新幹線で首都圏へ向かえば、8時44分に東京着が可能だ。また上りで見ると、「はるか」に乗り換えて早朝の関空便搭乗という手もある。料金においては、夜行列車は夜行バスに勝ち目はないが、大阪~新潟間で見ると、バス9450円(通常期)、きたぐに自由席9675円(往復割引適用)と、唯一拮抗している例であり、バスに比べて格別に車内が広い「きたぐに」に軍配が上がるはずだ。
  ▲金沢では、留置中の485系と顔を合わした

  ▲信濃川が見えてきた
末端区間の新津~新潟間では、下りが昭和63年3月から快速となっている。新潟着が8時29分で、多くの通勤客の乗車がある。その観察も今回の出版社からの要請であった。確かに、自由席車4両を目掛けて、各駅からの乗車がある。ただ、不可解だったのは、夜が明けて、長岡、見附、東三条あたりからも、一見して通勤客と判る乗車がある。しかし、ここはまだ急行区間だ、果たして急行料金の収受が正しく行われているのか疑問に思わざるを得ない。と言うのも、西日本区間では、乗車のある都度、過剰なくらいに車内改札を行っていた専務車掌が、東日本区間に入った途端、ぱったり車内改札を止めてしまった。もともと東日本では、無人駅区間でも、車内改札が全くないどころか、車内巡回すらないのは、前から気になっていた。まるで東日本に遠慮したかのように弱気になってしまったのが今でも気に掛かる。
新潟駅に到着して、続々と降車する客を見ていると、「きたぐに」は当分安泰で、北陸新幹線の開業時までは現状維持かと推測して、そのルポを締めたものの、フタを開けてみると、定期列車の廃止という、意外な終幕が巡ってきた。

 

 

 

 

快速区間の新津以降の自由席車内
  新潟に到着、ホームは下車客で賑わう

本日の草津1号

3月17日改正で上野駅朝7時20分発の草津1号が無くなるようです。(10時発が草津1号となります)
通常は朝7時過ぎに上野に着きますので、毎日「あけぼの」と「草津1号」を見に行くのが日課になっていましたので残念です。
「7時20分発の特急草津1号は16番線より発車します。ご乗車の方は16番線でお待ちください」という案内放送も聞こえなくなります。
昨年12月から本日2月27日までの写真をご覧ください。

本日は曇っていましたので ふつうの写真です。鴬谷にて


1月24日です。前日雪が降りましたが当日は朝から良い天気で雪景色の草津1号となりました。
この冬は寒い日が多いです。


1月13日は後ろ7両が湘南色の編成(OM03)でした。上野駅16番線です。


その後鴬谷を通過する 湘南色の編成です。

1月6日 今年の初撮影です。冬のこのころだけいい位置に太陽が昇りますので太陽を入れた写真が撮れます。


昨年12月12日の湘南色の編成を前にした14連です。(あまり後ろは写っていませんが)後ろの7連は定期特急だった水上1号のなごりです。特急草津は今後すべて7連になるようですのでさびしくなります。3月3日の上州踊り子号と3日4日のあまぎ号は157系を模したあまぎ色の185系(OM08)が登場するそうです。今後185系は上野口 東京口ともに置き換えが予定されています。中途半端な特急車と言われた車両ですが国鉄の電車が無くなっていくのはさびしいものです。
犬伏

小田急デハ1600

何度も言いますが、私は電車、特に関東の私鉄についてはそこら辺の女子供にも劣る知識です。このシリーズを拝読するに付けても奥深いものと感心していますが、この記事に即反応してデータと知識を開陳してくれる会員の皆様にさらなる感銘を受けております。

今日の話題は小田急電鉄です。この記事の中で疑問がいくつかありますので教えて下さい。

①昭和2年から一気に作った76両がブサイクだった、と書かれているがどんな顔だったのか?

②“いっそ小田急で逃げましょうか・・”などという歌謡曲があったのか?

③廃車後は各地で活躍した、とありますがどこで活躍したのか?

よろしくお願い致します。

「日本海」「きたぐに」を送る (3)

  

583系電車になった「きたぐに」(山崎、平成4年)

「きたぐに」 -3-
14系客車の「きたぐに」は、昭和60年3月改正からは、向日町運転所の583系電車12両編成に置き換えられる。583系は、夜行特急の廃止、他形式への置き換えにより、主な働き場所であった山陽・九州地区からは、昭和59年2月改正で撤退しており、大量の余剰を抱えていた。一方の14系客車は、まだ車齢が若く、ほかへの転用が可能だった。「きたぐに」から捻出された14系客車は、20系の急行「銀河」を置き換えた。
「きたぐに」にはA寝台の固定的な需要があることから、ロネを連結することになり、3段寝台のサハネ581を2段式A寝台に改造したサロネ581が誕生した。特急形電車では、初の”格上げ車”である。また形式はそのままで、寝台機構をロックした座席専用車も誕生した。
ところで「きたぐに」のネーミングだが、昼行急行の愛称は、旧国名、観光地などの地名が原則であることと照らすと、「きたぐに」という抽象的な名詞は、その範疇からは外れるように思われた。ところが、本で由来を見ると、京から新潟へ向かう古道の北国街道が由来で、これを訓読みしたのが「きたぐに」だと言う。どうも眉唾ものだが、これなら固有名詞だから理にかなっているとは言える。しかし、それなら正しく「ほっこく」とすべきだろう。
 

当初は583系12両編成だった(山崎、昭和61年)。昭和61年11月改正から10両に減車された。
 

平成4年度からシュプール&リゾート色へ変更され、翌年には全車の変更が完了した(山崎、平成6年)
 

さらに平成9年度からはJR西日本の特急の標準色である、現在の塗色に改められた(山崎、平成20年)

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part4     国境の町、黑河(ヘイフー)へ 

第6日目 2月24日

チチハル 5:51(4083次)→16:50 黑河

▲ 新旧並んでいるチチハル駅です。古い方は満鉄時代ですが、中国でも一般的には、古い方を壊してから新しい駅舎を建てているので、何か意図的なものを感じます。古い方は重厚ですが、新しい方は、大きいだけで安ぶしんとの私の印象です、

【中盤の切符購入】
昨夜は、中国鉄路乗り鉄に精通している鄭州鉄道日記さんと連絡を取り、蒸気機関車の隠れ里探究の旅から乗り鉄への変更を伝え、切符購入の最新情報を教えていただきました。既に北京までは購入済みですが、北京以降の切符購入を自らしなければなりません。

目的地は、今回のクローバー会写真展に佐竹先輩が展示されておられる成都と昆明を結ぶ成昆鉄路です。以前から中国鉄路随一の車窓を誇るこの鉄路を乗車してみたいと思っていました。問題は、どの時間帯の列車に乗れば、一番良いのかということですが、何度も乗車しておら鄭州鉄道日記さんは、雲南寄りがお奨めです。朝に昆明を出るK114次に乗られたらいいでしょうと教えていただきました。

インターネットで残席情報を検索して残席を確認後、チチハル駅に行って、まずは北京から昆明までの切符を買い求めに参りました。
切符の発売方法が最近変ってきています。12日前にネットと電話予約受付、10日前に全国の駅で購入可能になりました。ただこれは基本で、実際は発売日や時間が必ずしも統一されていません。各駅の都合でマチマチです。購買時も寝台列車の下段が空いていても上段しか売ってくれなかったり、調べもしないで没有と返事をしたりで、オンライン化ができてもサービスの徹底はなされていませんので、厄介です。

チチハル駅ではいかがなものかと試してみましたら、北京から昆明までの切符が普通に買えました。
”おお~、これは便利になった”と感激です。いつも切符の購入では、大変苦労しているのです。これで切符は、10日前には確保でき、予定を確定できる事が確認でlきました。以降は、まだ発売前なので、黑河に着いてからです。 続きを読む

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part3  富拉尔基(フラジル)の蒸気機関車

—–第4・5日目 2月22・23

6時46分、地平線の彼方からあがる朝日を見ながら行動開始です。

フラジルは、チチハルにある工業都市です。3大工場と火力発電所の4ヶ所に蒸気機関車があるらしい。しかし、どこも工場内で使用されているために、一般の目に触れることはない。見たければ許可を必要としますが、生産現場となるとまず難しい。忍び込む以外に手はないのですが、見つかれば厳罰が待っていますので、これは避けなければなりません。それでも撮りたいものは、撮りたいとの二重三重苦に矛盾が重なり、考えれば考えるほど動きが取れません。

昨日ホテルにチェックイン後、その中でも発電所の蒸気機関車は石炭輸送のため、国鉄線への専用線があって工場外郊外約7キロを走るので、撮影には問題ない。また約60両、おおよそ5,000トンものセキを牽引をするからには爆炎も期待できるだろうと、確認のためにロケハンに出かけました。

ホテル前に止まっていたTaxiに乗り込み、発電所を伝えますと料金メーターを倒さず、まず15元(約190円)の料金提示です。流しを拾えば良かったのかと思いましたが、15元なら値切る事もないかとOKを出しました。この地のTaxi、すれ違う度に見ていますと、客が乗っているのにすべて空車マークです。こんなの中国内でも見るのは初めてです。

約20分ほどで発電所の正門に到着しましたが、線路は裏側です。裏へ回れとメモ用紙に地図を書いて申しますが、さっぱり理解してくれません。丁度夕日が真っ赤に染まっていますので、撮影チャンスですが、言葉が通じないとは困ったものです。
仕方なく車を降りて歩きましたが、専用線にたどり着くころには夕闇が迫り、ロケハンは失敗に終わりました。 続きを読む

昭和40年前後の浜大津界隈(3)

西村雅幸氏投稿の2月20日【17859】「浜大津ターミナル復元(その6)」で、京津線の発着番線に関するご質問が寄せられたところ、当日中に特派員さんが写真と共に回答されており、改めてクローバー会の連携と実力を実感した。

特派員さんの写真でご注目いただきたいのは、浜大津駅の看板で、昭和40年代の前半頃まで「京都、大阪、宇治、奈良方面行のりば」となっていたのが「奈良」が「私市」に変更されている点である。大津で「私市」は一般的でないため、「奈良」を外すのであれば「京都、大阪、枚方、宇治」の方がスッキリしたのではないかと思われる。

発着番線関連を含め、あと少し貼り付けたので参考になれば幸いである。

2番線を発車した普通/この時代三条方面の昼間のダイヤは三条~石山寺間急行、三条~浜大津間普通、三条~四宮間普通が各20分間隔で、三条~浜大津間の普通は急行退避がなかったため、三条~
浜大津間は実質1時間に6本運行されていた。(40-1-2)

浜大津東口を発車した石山寺行/303+304
(40-11-4)

浜大津東口を発車した石山寺行/263+264
(41-2-19)

88638との並び 
(43-9-28)

13+14/土産物屋は2件並んでいた。
(41-2-19)

 61
(42-5-13)

「日本海」「きたぐに」を送る (2)

「きたぐに」 -2-

12系化された「きたぐに」。ただし後部のハネ・ロネは10系のままだった(山科/昭和55年9月)

米原区のEF58が牽く、14系化された「きたぐに」、よく整備された大窓機だった(神足~山崎/昭和58年11月)
大阪~青森間の客車急行となった「きたぐに」には、一度だけ全区間乗ったことがある。昭和47年2月のことだが、当時は途中下車して撮りたいところがヤマほどあって、全区間を乗り通すようなことはしなかった。その時は、途中下車は帰途にすることにして、一気に北海道まで行ってしまう算段をして、大阪22時13分発の「きたぐに」に乗り込んだ。5号車ナハ102012だった。大阪・京都でほぼ10割となったが、糸魚川、直江津、新潟で大量の下車があって、以降はガラガラだった。後年の新潟以北の廃止も納得できたものだった。同じボックスに座った一人旅の男も北海道行きで、話が弾んだことを覚えている。青森着は17時38分だった。
昭和47年10月、日本海縦貫線の全線の電化が完成し、牽引機はすべてELになった。その直後の11月6日、深夜の「きたぐに」に悲劇が起こる。北陸トンネルでのオシ17の火災だ。焼死者30人が出る惨事となった。会社の同僚で、敦賀出身のものがおり、たまたま当日は帰省していて、事故直後の様子を敦賀駅で目撃していた。会社で会うと、息せき切って生々しい様子を話してくれた。原因となったオシ17はその日から欠車となった。そして、昭和48年10月には、ハザは旧型客車から12系客車になった。
昭和57年11月の改正で、運転区間は大阪~新潟間に短縮された。編成も座席車・寝台車ともオール14系客車化された。
翌昭和58年4月には牽引機関車の運用が変更され、米原~田村間交直接続のDE10に代わってEF81〔富二〕が米原~新潟の牽引に就く。さらに翌昭和59年2月からは、大阪~米原間はEF58〔米〕に代わり、EF65〔宮〕がその任に就くものの、客車の時代は長くは続かなかった。

     安土駅を通過する「きたぐに」。湖西線開業後も「きたぐに」だけは米原経由だった(昭和58年9月)
 

 EF65PFに代わってからは時折ヘッドマークが掲げられた。これは正月の「頌春」(神足~山崎、昭和60年1月) 

 客車最終日となった大阪駅、「北国」のヘッドマークを付けたEF65PF(昭和60年3月10日)

雨の朝の211系

犬伏です。東海道線東京口の211系は田町に15両編成14本分が配置されていましたが 11月より233系の新車に置き換え中で現在10編成の新車が配置され211系は間もなく消えようとしています。長野、新潟へ転用とうわさされていますがサハやサロは廃車のようです。113系と231系の間であまり目立った車両ではありませんでしたが 登場時のその乗り心地は113系と比べて空気ばねの良さが目立っていました。いい顔つきで個人的には好みの車両です。本日朝の雨の中での写真をご覧ください。

雨の新子安駅を駆け抜けるN5編成ほかの15両編成です。

浜松町での出会いもあとわずかですね。

田町の233系です。小便小僧さんよろしくお願いします。

京浜急行デハ230型とトンボ電車クハ140型

米手作市様からのご指名ではないが、迷図作家さん関連の京浜急行230型の乙訓の老人様発表の続きとして失礼ながら続行させて頂く。また、同作家の昨年7月7日のトンボ電車について廃車後ではあるがその姿も発表する。とんぼ電車については京浜急行クハ140型が電動車デハ51型であった頃にポールをふりふりして軽快に駆けた姿からその様に言われたとのことで私はその記事をよく読まずお尋ねして恥をかいた次第である。

         1998.5.4 房前~塩屋 38+37

この撮影名所はその後の訪問では覆いができてしまい撮影を諦めたように思う。

 

           1998.5.4 房前~塩屋 27

京浜急行デハ230のサイドビューである。京浜急行は馬堀海岸、三浦海岸、大森海岸、津久井浜、汐入、浦賀等々海に因んだ駅名が多いがこれほど海に近づいて走行している場所はないと思う。この撮影地点の背後に琴電の旧型車が保存されている。

 

           1970.1.4 川崎大師付近 

品川からの初詣臨時急行でだるまのヘッドマーク付き。前から246・245・250・249の編成。

1965年の夏には海水浴の臨時特急が230型を含め吊り掛け車も総動員して運行されていた。アルバイトの帰りに新子安の京浜東北線のホームからその快走ぶりを見たことがある。乗ってみると窓が大きくて低く、シルにリベットがつき少しP-6を思い出したが、小錦と舞の海の重量差、軽快差を感じた。

 

        1966.11.1 久里浜工場 141

この電車がその昔ポールふりふりとんぼ電車と言われたようであるが、丁度廃車された頃に久里浜工場にいたので撮影した。デハ230と連結してクハとなったり中間に入っていたとのことであるが、現役の姿は見ていない。

 

 

「日本海」「きたぐに」を送る (1)

「きたぐに」 -1-

3月のJRダイヤ改正で消える列車・車両は多いが、なかでも「日本海」「きだぐに」の定期列車からの撤退が話題を集めているようだ。今日も阪急に乗っていると、例の名神クロスは「日本海」狙いの人間が多く見受けられた。先日のクローバー会の写真展打ち上げで、大津の86さんから聞いた話では、「日本海」の寝台券を求めて発売初日に最寄り駅へ行ったところ、午前10時にもう売り切れ、A寝台だけ残っていると言われ、少しの間逡巡していると、もうA寝台も売り切れと言われたそうな。
「日本海」「きたぐに」は、臨時では残るものの、一昨年臨時となった「能登」が、今春には設定がなくなったように、完全廃止は目に見えている。
関西では「日本海」「きたぐに」は馴染みの列車だけに、いくつかの記録を残してきた。「きたぐに」から、その足跡を辿ってみよう。

田村付近を行く初代「きたぐに」(昭和41年)。新潟行きの昼行気動車急行だった。「奥能登」を併結した12両編成
昭和36年10月改正で金沢~新潟間の気動車急行が誕生、「きたぐに」と命名された。今まで同じ日本海縦貫線上にありながら、石川県と新潟県を結ぶ急行はなかった。さらに、福井~金沢間の交流電化が完成した昭和38年4月改正で大阪まで延長され、「きたぐに」は、大阪~新潟間600kmを結ぶ幹線の急行へと成長する。編成も8両編成となり、輪島発の「奥能登」(下りは和倉着)と併結する大阪~金沢間では12両もの長大編成となり、幹線急行にふさわしい列車となった。

雪の米原~坂田間を行く「きたぐに」(昭和42年)。当時はもちろん湖西線は未開通(と言うか、江若がバンバン走っていた時代)、北陸へ向かうすべての列車は米原経由で、運転頻度はすこぶる高かった
 昭和43年10月改正では、日本海縦貫線に寝台特急が新設された。従来、大阪~青森間の客車急行であった「日本海」の愛称を、そのまま新設特急に召し上げた。玉突き式に客車急行を「きたぐに」501レ502レと改め、気動車急行は「越後」と改められた。
大阪~青森間の客車急行に生まれ変わった二代目「きたぐに」の編成は、ロネ、ハネの寝台車は夜行区間の大阪~新潟間に連結され、新潟以北はロザ、ハザ、シの編成となった。ちなみに牽引機は、大阪~米原EF58〔宮〕、米原~田村DD50・DE10〔米〕、田村~糸魚川EF70〔敦二〕、糸魚川~新潟DD51〔東新〕、新潟~秋田DD51〔秋〕、秋田~青森DD51〔秋〕であった。

矢立峠を越える二代目「きたぐに」(陣場~津軽湯の沢、昭和44年)。この区間では、座席車に食堂車の昼行急行の編成だった

唯一補機が付いたのが大館~弘前間で、矢立峠を越すために、上下とも後部にD51〔弘〕が付いた(陣場~津軽湯の沢、昭和44年)

笹川流れを行く「きたぐに」(昭和44年)。ロザ、ハネ、ハザ、シ、ユと、何でもありの典型的な急行列車だった。

浜大津と堅田 昭和55年4月合宿の帰り

昭和55年4月の早い日、大学2年に進級し新入生を待つ直前、初めての春休み合宿に参加して、和迩浜の安い宿に泊まった。
この時は電車で和迩まで行き、翌日の解散後は江若鉄道の本堅田駅の駅舎が残っているので周辺の遺構調査をしようと、先輩のホンダZに乗り込んで、堅田のバスターミナルになっている駅跡に向かった。

この頃は対向ホームも残り、鉄道営業時代と大きく雰囲気を変えていない。
堅田の構内には路線バスの検査設備を備えた車庫ができ、新旧のバスが待機していた。
ここを訪れた目的はもうひとつ、最後のボンネットバスを見るためである。

他にもまだ、鉄道時代を物語る建物がいくつか残されていた。

日通の堅田営業所。

貨物積み込みホームの跡と貨物倉庫であろうか。

小さな木造の小屋。ランプ小屋でないと思うが、ストラクチャーとしては好ましい。

その後は、360ccの車体に男4人が乗り、三井寺下に向かった。

江若鉄道のものと思われる橋桁台が見つかった。

三井寺下の車庫のあったあたりは、再開発目前であったが、何となく鉄道の雰囲気が残っていた。
この建物は本社屋だったのだろうか。「在りし日江若鉄道展」(平成18年、大津市歴史博物館編)より右屋の二階建て部が本社屋、手前の横に長いのが駅本屋と判明する。駅本屋は痛みが激しく解体寸前のようである。

この表札で元江若鉄道の建物と推察した。当時は江若バスの時代だが、労働組合は鉄道事業解散後もその名で続いていた。今では「?」の略字体が左翼を感じさせる。昭和の時代ならである。

このあたりで先輩はびわこローズタウンの家に戻るので、残った3人のうち二人は近くの駅に向かった。
私はいつものように単独で歩き出し、浜大津に向かった。
その頃の三井寺の門前風景。

多分桜が咲く目前であっただろう。若い頃は花に心が動かないものだが、旧い物にはやたらと頭が働いた。
琵琶湖疎水の導入口がこの付近にあり、石坂線の電車をカメラに収めんとアングルを考えていたら、突然春雨が降って来た。

ごうごうと吸い込まれる水音を聴いていたら、ほんの一年前の自分と、ほとんどクラブ活動に費やした一年後の自分のギャップが面白く、不思議な気分で雨に打たれていた。
雨は一足で駆け抜けて行った。
浜大津に出ると石坂線の駅と、京津線の駅が別々の所にあり、乗り換えをするのに歩いていかねばならない。
往年はこれに江若の駅もあったから、大湖汽船の船着き場と国鉄の貨物入線でさぞかしこのあたりは賑やかであったであろう。

電車は石山寺行きの準急、300型305。ちょうど京津線のクロッシングを越える地点である。
背景の土産物屋の看板等に京都の資本を感じるが、特派員氏の同じ方向からのアングルと相違は少ない。
後年中年になり、このあたりを思い出を片手に歩いてみた。
夕暮れになると判るのだが、大津の歓楽街は背景部分の裏手あたりである。この水のほとりに開けた侘びしい歓楽街に遊んだいにしえの遊子たちを思う術もなく今は大きなビルが建ち並び、湖岸は遠くなった。

この日写した写真のなかで一番気に入った一枚を最後に並べておく。
日通の浜大津倉庫と、今も現存する大津市公会堂を背景に、浜大津に膳所方面から進入する坂本行きの各停。
弓なりのイコライザを持つ台車を穿く351x2連。渋い風景である。
一番手前の使われていない線路は、国鉄の貨物列車が江若の線路と直通運転するために敷設した3フィート6インチゲージである。

持ち論この時もこの線路の存在に気づいていたが、3線区間もすでに撤去され、梅小路の8620が小貨物を牽いて「ポー」と通った日々も既に遠くなっていた。
遥か昔は東海道線の本線蒸機がここまできて、長浜に向かう旅人を送り出していたのであろう。
あれから30数年が経ったが、本当に明治も昭和も、遠くなったなと感じる昨今の変貌ぶりである。

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part2 1801次に乗って齐齐哈尔へ

第2・3日目  2月20・21日
① 北京北13:47(1801次)→13:10チチハル(齐齐哈尔)
② チチハル14:45(BUS)→15:40フラルジ(富拉尔基)


北京
からチチハルへは、最速のT47次に乗車すると15時間半で着くが、いわゆる本線を走行するので、未乗車区間裏街道を走る1801次を選びました。さすが普通列車だけあってのろいですが、本線とは違って山あり谷ありの山間を走りますので、車窓を楽しめます。




▲ 夕飯は、魚定食(45元)を選びました。チチハル局の列車食堂は初めてでしたが、ボリューム満点です。 魚は太刀魚でしたが、カラリとあがっていて小骨も気にならず美味でした。

春節も終わったので、今日の軟座寝台コンパートメントは独占かなと期待していましたら、同室者が一人いました。途中の赤峰まで帰るという品のよさそうな中年のおば様です。初めは、黙っていましたが時間の経過とともに、どちらからともなく会話が始まりました。

聞けば蒙族の方で、20歳になる娘さんがおられて鄭州の大学に在学中です。卒業後は日本に留学したいと望んでいます。自分は日本に行った事はないが、綺麗で、中国のような貧富の差もなく、自由で、何よりも安心できる国で尊敬しています。是非とも希望を叶えて学ばせてやりたいと、夫と共に一生懸命働いています。私も日本語を学んでいますと、途中途中で日本語を交えて話されます。

留学費用は中国では莫大な金額になるので大丈夫ですかと聞くと、職業は夫婦共医者だと言われます。でも給料は、一人4,000元(約6万円)だそうです。実際は、患者の心付けがあると思いますので、もっと多いでしょうが、日本とは桁が違います。
分らない言葉は筆談したり、辞書をひいたりしながらでしたが、瞬く間におば様が下車される真夜中の赤峰に着きました。久しぶりにいい話ができたな、こんな深夜に途中乗車する客はいないだろうと寝ようとしていましたら、 また同じような中年のおば様が部屋に入ってこられました。もう眠たいので寝ましたが、朝日が当たる頃からは、また中国語勉強タイムになりました。

▲ 地平線から上がった朝日が湖面に輝きます。凍える朝を迎えましたが、車内は26度と暑いくらい暖房が利いていました。 ▲ 朝の定食(20元)も2人分あろうかと思えるボリュームです。

天候も良く、チチハルには定刻着。極寒の地と思いきや北京と変わらぬ外温です。マイナス20度対策をしてきたので、汗も出てきて拍子抜けです。出口を出るとこれからの切符を依頼した旅行社のR氏が待ってくれていました。ご親切にも荷物を持っていただき、今回の最初の撮影地フラジルへのバスターミナルまで市内バスに乗って送っていただきました。

フラジルは、チチハルから南西約40キロに位置します。中国でも代表的な大型産業機器、軍事用に使用される特殊鋼、鉄道用には貨車製造の大工場があり、電力確保のための発電所があります。この工場群内の輸送に蒸気機関車が使われているというのです。、最新情報は昨年9月の中国鉄路の権威者である倉重様の訪問記です。6ケ月を経過した今、まだ生きているか分りませんが探究することにしました。

バスは中型バスで、満席になれば発車です。結構乗客は多く10分間隔で出ています。地平線が見える冬の荒野を一直線に走り約1時間弱で到着しました。

市内中心部に入ったところで、下車してホテル探しです。インターネットで探しましたが、紹介はあっても予約できるサイトがなかったので、グーグルアースから見て、鉄道駅近くで大きそうなホテルを数件リストアップしてきました。しかし、宇宙からみる光景と地上からの目線は別物です。歩いて探すのは大変ですので、最初に見つけたホテルに入って、部屋を見せてもらってから決めました。五百広場前で、インターネット可、バスタブもあります。市内を見渡せる9階の部屋で、朝食込の188元(約2,400円)でした。  Part 3 へ続く

快速観光電車 京急デハ230型

米手作市さん、ご指名に預り有難うございます。総本家さんから先日「琴電100年の歩み」の編集が終わったとの便りがありました。1年近く取組んでおられたCan Booksが、間もなく店頭に並ぶ事になりお慶び申し上げます。皆さんぜひ「立ち読み」お願いします。迷図作家さんがお取り上げ下さいました京浜急行電鉄デハ230型が、最後に活躍した電鉄線を紹介した書籍が同時期に刊行されるとは、なにか因縁めいたものがあるのでしょうか。

さて老人はデハ230型を始めての東京電車見物の時に乗っております。先日、横浜市電の展覧会で横浜に行く時も、都営地下鉄「泉岳寺」初発の快急、2100系先頭クロス(着席は限定4人)で59年前の京浜突進電車デハ230型のことを思い出しておりました。窓の高さ、これは関西で匹敵するものは奈良電クハボ600と南海1900号ぐらいのものと思います。運転席が独立せずに低い囲いで、自動扉の開閉を運転士がしていたこと、中間に連結していたのがモーター無しの「トンボ電車」であったこと、外部塗色が米手作市さんご指摘の強烈なものであったこと、東京の郊外電車は非貫通の両運が多いことを気付かせる電車であったこと、などなど。

先の東急3450型が50両であったことを知ったのは高校進学後で、京浜230型の55両も同時に知りました。その時、東急は4線に配置され目立ちませんでしたが、京浜の方は吉谷さん流に言えば「せんぐりせんぐりやってくる」電車の印象を持って帰京しました。

迷図作家さんご指摘の琴電志度線の海岸沿いの急カーブ、老人もお気に入りのポイントですが、昨年GWに「ぶんしゅう」さんを引張って行ったのですが、防波堤の上方に無粋な鉄板が追加され、さっぱりでした。16,7年前の盆休みに急カーブのところで撮影したのがあった筈と探しましたが出てきません。どなたかにプレゼントしたようです。代わりに10年ばかり前の工事中が出て参りました。ぶんしゅうさんは房前-原間の築堤沿いで撮影となりました。

屋島東方・31+32 貫通扉なし

屋島東方・31+32 貫通扉なし

房前ー琴電志度間を行く30+29、貫通扉あり
房前ー琴電志度間を行く30+29、貫通扉あり
塩屋ー房前間の海岸沿い急カーブは工事荳
塩屋ー房前間の海岸沿い急カーブは工事中

写真展アンケートから

▲集まったアンケート、貴重な意見が多く、今後の指針となる
開催して一週間が経過した写真展、先週末には会場近くで打ち上げも行われ、14名の会員が集合して賑やかに楽しく行われたのであった。
時間が経過すると”ボロ”も出てくる。写真の不備やキャプションの間違い、それにガラス張りの中で照明の光源で熱せられた写真は、どうしても変形が生じてしまう。
本日、その補修作業を進めていると、立会いのギャラリー運営者から「ごっつ来てまっせ」と言われて示されたのは、アンケートの束であった。なるほど用意したアンケート用紙はすべてなくなっている。
そこで今回は、回答の中から、今後の参考になりそうな事柄を選んで紹介してみよう。
「来場のきっかけは」
「たまたま通ったから」が約半数で第1位、これが不特定の人を集めることができる通路にあるギャラリーの長所でもある。「駅のポスターを見て」が第2位、今回は地下鉄烏丸線の全駅にA3ポスターを貼ってもらった。さすがは一日十数万人が利用する地下鉄駅だけの効果はある。次いで「知人の紹介で」、各会員から呼びかけをしてもらったお蔭である。意外と少なかったのが「鉄道雑誌の案内を見て」で、雑誌によってはページ左上と最上位の位置に掲出してもらうなど、かなりの期待値があったが、あまり動員には結びつかなかった。
「お気に入りの作品は」
これはさまざまで、個別のタイトルを挙げておられるケースも多かった。印象に残った言葉は、人間国宝の撮られた東北の古い写真に「素晴らしいのひと言」。他の会では、決して真似できない、当会の至宝だと改めて認識した。
「性別・年代は」
アンケートを記入してもらえるのは、どうしても高齢者が多い。今回も、「60歳代以上」が3分の2程度を占めたが、中には「20歳代女性」というケースも見られた。男女別では、3:2の比率であった。
「お気づきの点は」
さまざまな意見があったが、「テーマを絞ったほうがいい」が数件あった。これも悩ましいところで、テーマを絞れば、確かに写真展としての主張は明確になるものの、逆に応募の減少が懸念される。その折衷案として、今回のようなフリーテーマとテーマ展示の2本立てに落ち着かざるを得ないところだろうか。そのほか、キャプションの位置や、プリント用紙の光沢に言及される意見もあり、今後の大きな指針となった。

▲突如会場に現われた高齢者集団! 実は、過日の打ち上げ集合時の様子

▲打ち上げで、乙訓老人の講話をしんみり聞く会員

スカイレールをご存じですか

沖縄モノレールの藤本氏のコメントを受けて、広島にしかないローカルな乗り物をご紹介します。かつて西の箱根と呼ばれ D52やEF59が活躍した瀬野-八本松の あの瀬野駅から北側の住宅団地を結ぶモノレールとロープウエイの合体したような乗り物です。正式名称は「広島短距離交通瀬野線」ですが、スカイレールみどり坂線、あるいは単にスカイレールと呼ばれています。1998年にセキスイハウスと青木建設が瀬野駅北側の高台に住宅団地(スカイレールタウンみどり坂)を開発し、瀬野駅と団地間を結ぶ公共の乗り物として開業しました。1998年8月28日に開業、もと瀬野機関区があってEF59が並んでいた駅北側に建てられた駅が「みどり口」、中間駅が「みどり中街」、終点が「みどり中央」で 全長1.3kmの 軌道法に則ったれっきとした鉄道です。特徴は最大263パーミルの急勾配です。ロープウエイは風に弱く カーブができませんが、スカイレールは懸垂型モノレールのようなもので風には強く、ロープ牽引で急坂登坂、曲線走行ができます。駅構内はリニアモーター駆動です。座席8席、総定員25名の小さなゴンドラ2両が行ったり来たりしています。1999年には鉄道友の会ローレル賞も受賞していますが、あまりにローカルな乗り物のため知られていないと思います。私も開通直後に一度乗ったきりです。

定員25名。夜遅くなると狭い車内は個室のような感じになって 若い女性には不人気。今は団地内に小学校ができたので廃止されたが、以前は小学生通学専用便も運転されていた。下の写真は開通直後のため まだ家は少ししか建っていないが 今は景色も変わっているだろう。

主に軌道関係を神戸製鋼所が、車両を三菱重工三原製作所が製作した。下は開通を伝える社内報(三原通信 1998年10月号)です。

残念ながら後続の受注工事はなく、全国でここだけの乗り物になっています。広電の路面電車撮影などのついでに、瀬野まで足を延ばして 話のタネに乗ってみられるのも一興かも。当地へお越しの節は 是非ご連絡下さい。

浜大津駅、ありました。

西村さん
出てきましたよ、京阪浜大津駅。たまたま入線・出発シーンとも、撮っていました。下の写真2枚を見ますと、1番線に三条発の準急が入線し、2番線から三条行き準急が出発しています。つまり、1番線が石山寺行き、2番線が三条行きと考えられます。ただし、撮影年代は、昭和55年11月の浜大津駅再開発工事の最中で、浜大津駅が姿を消すと聞いて出掛けた時でした。江若廃止から10年以上経過していますが、運転ルールは変わっていないと思います。かすかな記憶をたどると、京都へ戻るとき、改札から櫛形ホームの端を通って電車に乗ったような気がします。
ついでに駅舎の入った写真も載せておきました。お役に立てれば幸いです。

▲(上)1番線に三条発が入線し、(下)2番線から三条行きが出発

▲この季節、駅舎の上の看板は、「ひらかた大菊人形」が定番だったようだ

▲ラッチ内から石坂線の電車を見る。1番ホームに接して本屋があった