【18112】雪景色の中央東線

関東にも大雪です。そこで鳥沢~猿橋間の鉄橋へ出向きました。

ここを走る115系も、近々置き換わるだろうと思ったからです。

八王子駅でのポイント故障で、ダイヤは大幅に乱れました。

先ずは、426M。

 

次に、536M。

 

雪を舞い上げダイヤ回復に努める、58M/あずさ8号。

 

ほぼ定時通過の80レ、EH200-22。

 


【18018】2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part5  国境の町、黑河(ヘイフー)のあじあ号展望車

第7日目 2月25
黒河20:40(K7036次)→ 7:08ハルピン

黑河へ来た目的は、国境の町の終着駅を見たかった以外に、是非とも会って見たい車両があったからです。ただ、情報は古く既に解体されているかとの不安がありましたが、行って確認する事にしました。

朝食後、ホテルに荷物を預けて駅に向かいました。まずは、10日後の切符購入です。昆明から成都までの切符は今日、駅での販売が開始されます。シーズンでは、団体客におさえられて中々入手困難ですが、この時期は大丈夫です。ネット残席情報でも大半が残っています。難なくゲットできました。


▲ ローカル駅だけあって、窓口は1ケ所だけですが、直ぐに買えました。

▲ 見たい車両基地は、最先端でここで線路は終わっています。



▲ 客車区の隅っこに、おりました。恋人に会った気持ちがします。もう、お分かりでしょうが、満州の荒野を快走したあじあ号の展望車です。

富士で使用されたテンイネ2型は、少なくとも3両が確認され、復元保存されていますが、あじあ号の展望車だけはどこに行ったのか分らず、ここ国境の町の隅でボロボロの姿を発見されました。窓ガラスは全部割られて無残な姿ですが、二重窓だった痕跡は残っています。3軸台車は残念ながら履き替えられています。
公務車とされていましたので、最後は事業用車として使用されたようですが、どのような数奇な人生をおくってきたのか語る人はいません。是非とも当時の姿に復元して展示をしていただきたいと思うのは私だけではないと思います。


国境の町といっても、ロシア風の建築が残った町との印象以外はありませんでした。今回の訪問目的は遂げましたので、早め駅に行ってPCをいじくりながらの時間を過ごしました。
昼間ガラガラだった待合室も発車2時間前になると一杯になってきます。ロシア人も多く見かけられました。

K7036次は、黒河からハルピンまでの655キロを10時間28分で結びます。ホームに入ってびっくりしたのは、何と軟座寝台が5両も連結してあり、ロシア人も多く乗っています。今日の同室者はどなたかと思っていましたら、陽気なロシア人姉妹でした。
お姉さんは、4ケ月前にハルピンに来て、大学でロシア語の先生をしています。妹さんは、7日前に郷里のモスクワから遊びに来ているそうです。中国語と英語を交えて、会話を楽しみました。


【18087】「日本海」「きたぐに」を送る (4)

「きたぐに」 -4-
  ▲定期列車としては残りわずかとなった「きたぐに」(保内付近)
2年前、「きたぐに」の乗車ルポを書くようにとの依頼が出版社から入り、大阪から自由席に乗って新潟まで行ったことがある。一年を通じて流動の少ない冬のこと、車内はガラガラだったが、仔細に観察するとさまざまな発見があった。
  ▲大阪駅で発車を待つ。駅改良工事のため10番線からの発車
旅客の流れにも、単に関西と新潟を結ぶ夜行と結論づけられないものがある。定期券でも乗れるため、彦根・米原・長浜などへの最終電車的な役割がひとつ、北陸本線内では一番電車的な役割があり、例えば、直江津で北越急行乗り換えで上越新幹線で首都圏へ向かえば、8時44分に東京着が可能だ。また上りで見ると、「はるか」に乗り換えて早朝の関空便搭乗という手もある。料金においては、夜行列車は夜行バスに勝ち目はないが、大阪~新潟間で見ると、バス9450円(通常期)、きたぐに自由席9675円(往復割引適用)と、唯一拮抗している例であり、バスに比べて格別に車内が広い「きたぐに」に軍配が上がるはずだ。
  ▲金沢では、留置中の485系と顔を合わした

  ▲信濃川が見えてきた
末端区間の新津~新潟間では、下りが昭和63年3月から快速となっている。新潟着が8時29分で、多くの通勤客の乗車がある。その観察も今回の出版社からの要請であった。確かに、自由席車4両を目掛けて、各駅からの乗車がある。ただ、不可解だったのは、夜が明けて、長岡、見附、東三条あたりからも、一見して通勤客と判る乗車がある。しかし、ここはまだ急行区間だ、果たして急行料金の収受が正しく行われているのか疑問に思わざるを得ない。と言うのも、西日本区間では、乗車のある都度、過剰なくらいに車内改札を行っていた専務車掌が、東日本区間に入った途端、ぱったり車内改札を止めてしまった。もともと東日本では、無人駅区間でも、車内改札が全くないどころか、車内巡回すらないのは、前から気になっていた。まるで東日本に遠慮したかのように弱気になってしまったのが今でも気に掛かる。
新潟駅に到着して、続々と降車する客を見ていると、「きたぐに」は当分安泰で、北陸新幹線の開業時までは現状維持かと推測して、そのルポを締めたものの、フタを開けてみると、定期列車の廃止という、意外な終幕が巡ってきた。

 

 

 

 

快速区間の新津以降の自由席車内
  新潟に到着、ホームは下車客で賑わう


【18055】本日の草津1号

3月17日改正で上野駅朝7時20分発の草津1号が無くなるようです。(10時発が草津1号となります)
通常は朝7時過ぎに上野に着きますので、毎日「あけぼの」と「草津1号」を見に行くのが日課になっていましたので残念です。
「7時20分発の特急草津1号は16番線より発車します。ご乗車の方は16番線でお待ちください」という案内放送も聞こえなくなります。
昨年12月から本日2月27日までの写真をご覧ください。

本日は曇っていましたので ふつうの写真です。鴬谷にて


1月24日です。前日雪が降りましたが当日は朝から良い天気で雪景色の草津1号となりました。
この冬は寒い日が多いです。


1月13日は後ろ7両が湘南色の編成(OM03)でした。上野駅16番線です。


その後鴬谷を通過する 湘南色の編成です。

1月6日 今年の初撮影です。冬のこのころだけいい位置に太陽が昇りますので太陽を入れた写真が撮れます。


昨年12月12日の湘南色の編成を前にした14連です。(あまり後ろは写っていませんが)後ろの7連は定期特急だった水上1号のなごりです。特急草津は今後すべて7連になるようですのでさびしくなります。3月3日の上州踊り子号と3日4日のあまぎ号は157系を模したあまぎ色の185系(OM08)が登場するそうです。今後185系は上野口 東京口ともに置き換えが予定されています。中途半端な特急車と言われた車両ですが国鉄の電車が無くなっていくのはさびしいものです。
犬伏


【18048】小田急デハ1600

何度も言いますが、私は電車、特に関東の私鉄についてはそこら辺の女子供にも劣る知識です。このシリーズを拝読するに付けても奥深いものと感心していますが、この記事に即反応してデータと知識を開陳してくれる会員の皆様にさらなる感銘を受けております。

今日の話題は小田急電鉄です。この記事の中で疑問がいくつかありますので教えて下さい。

①昭和2年から一気に作った76両がブサイクだった、と書かれているがどんな顔だったのか?

②“いっそ小田急で逃げましょうか・・”などという歌謡曲があったのか?

③廃車後は各地で活躍した、とありますがどこで活躍したのか?

よろしくお願い致します。


【18041】「日本海」「きたぐに」を送る (3)

  

583系電車になった「きたぐに」(山崎、平成4年)

「きたぐに」 -3-
14系客車の「きたぐに」は、昭和60年3月改正からは、向日町運転所の583系電車12両編成に置き換えられる。583系は、夜行特急の廃止、他形式への置き換えにより、主な働き場所であった山陽・九州地区からは、昭和59年2月改正で撤退しており、大量の余剰を抱えていた。一方の14系客車は、まだ車齢が若く、ほかへの転用が可能だった。「きたぐに」から捻出された14系客車は、20系の急行「銀河」を置き換えた。
「きたぐに」にはA寝台の固定的な需要があることから、ロネを連結することになり、3段寝台のサハネ581を2段式A寝台に改造したサロネ581が誕生した。特急形電車では、初の”格上げ車”である。また形式はそのままで、寝台機構をロックした座席専用車も誕生した。
ところで「きたぐに」のネーミングだが、昼行急行の愛称は、旧国名、観光地などの地名が原則であることと照らすと、「きたぐに」という抽象的な名詞は、その範疇からは外れるように思われた。ところが、本で由来を見ると、京から新潟へ向かう古道の北国街道が由来で、これを訓読みしたのが「きたぐに」だと言う。どうも眉唾ものだが、これなら固有名詞だから理にかなっているとは言える。しかし、それなら正しく「ほっこく」とすべきだろう。
 

当初は583系12両編成だった(山崎、昭和61年)。昭和61年11月改正から10両に減車された。
 

平成4年度からシュプール&リゾート色へ変更され、翌年には全車の変更が完了した(山崎、平成6年)
 

さらに平成9年度からはJR西日本の特急の標準色である、現在の塗色に改められた(山崎、平成20年)


【18024】2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part4     国境の町、黑河(ヘイフー)へ 

第6日目 2月24日

チチハル5:51(4083次)→16:50黑河

▲ 新旧並んでいるチチハル駅です。古い方は満鉄時代ですが、中国でも一般的には、古い方を壊してから新しい駅舎を建てているので、何か意図的なものを感じます。古い方は重厚ですが、新しい方は、大きいだけで安ぶしんとの私の印象です、

【中盤の切符購入】
昨夜は、中国鉄路乗り鉄に精通している鄭州鉄道日記さんと連絡を取り、蒸気機関車の隠れ里探究の旅から乗り鉄への変更を伝え、切符購入の最新情報を教えていただきました。既に北京までは購入済みですが、北京以降の切符購入を自らしなければなりません。

目的地は、今回のクローバー会写真展に佐竹先輩が展示されておられる成都と昆明を結ぶ成昆鉄路です。以前から中国鉄路随一の車窓を誇るこの鉄路を乗車してみたいと思っていました。問題は、どの時間帯の列車に乗れば、一番良いのかということですが、何度も乗車しておら鄭州鉄道日記さんは、雲南寄りがお奨めです。朝に昆明を出るK114次に乗られたらいいでしょうと教えていただきました。

インターネットで残席情報を検索して残席を確認後、チチハル駅に行って、まずは北京から昆明までの切符を買い求めに参りました。
切符の発売方法が最近変ってきています。12日前にネットと電話予約受付、10日前に全国の駅で購入可能になりました。ただこれは基本で、実際は発売日や時間が必ずしも統一されていません。各駅の都合でマチマチです。購買時も寝台列車の下段が空いていても上段しか売ってくれなかったり、調べもしないで没有と返事をしたりで、オンライン化ができてもサービスの徹底はなされていませんので、厄介です。

チチハル駅ではいかがなものかと試してみましたら、北京から昆明までの切符が普通に買えました。
”おお~、これは便利になった”と感激です。いつも切符の購入では、大変苦労しているのです。これで切符は、10日前には確保でき、予定を確定できる事が確認でlきました。以降は、まだ発売前なので、黑河に着いてからです。

【黑河への4083次の旅】

黒河へは沿線の車窓を楽しみたいと昼間走行する列車を選択しました。しかし、発車は夜明け前の5時51分です。4時過ぎに起きて支度をしました。4083次は、ロシアとの国境の町まで534キロを、約11時間で走行します。冬ですが車窓が楽しみです。

▲ 珍しい軟座切符です。そして指定車両は、「加1」となっています。これは増結車の意味です。この列車に軟座車を連結するのは不定期だと依頼した旅行社は言っていました。
切符には、パスポート番号だけで名前の印刷はありません。全国統一はやはりできていません。

さて、どんな軟座車かなと楽しみにしていましたが、軟座寝台のコンパーメント(4人用)に6人を押し込めるという使用方法でした。5番席ですが、もともとそんな座席番号は存在しません。乗車後に列車乗務員が勝手に指示しました。私の席は、大学生らしい若い男女5名と同室です。発車すると、男性2人はちゃっかりと上段に上がって朝寝していました。

今日は、ゆっくりとしたいと、夜明けまで寝ていましたが、起きると待ってましたとばかりに女性の方から、話しかけられました。この国の女性は本当に積極的です。聞けば、同級生男女6人でチベット、雲南、杭州等を30日間かけて旅行してきたと言います。実家はチチハルで大学は黑河で3年生。学生寮に住んでいます。27日から授業が始まるので帰る途中ですと、同級生を紹介しました。6対1では会話が大変です。みなさん日本人と話すのは初めてと、興味深々でした。


▲ カメラ好きだと言って、男子学生がプレゼントしてた冬のチチハルの光景。鶴が飛来するので有名です。まだたくさんありますが、腕前は中々のものです。

さすが大学生だけあって、東日本地震の話から思想問題まで、質問はどんどん出てきました。私は中国語が堪能ではありません。そんなにたくさんの問いには対応できないと、申しますが、結局、車窓を楽しめたのは、質問に答えたわずかな間と昼食時だけで、終着駅に着いてしまいました。
▲ 9:45、朝日が立ち上った車窓です。サイロがありませんが、北海道と似ています。


▲ 沿線の駅は、東清鉄道時代に建てられたロシア風が多く見られました。

▲ 6:45、黑河近くで日没となりました。

▲ 16:52、定刻に終着駅黑河に着きました。硬座寝台+軟座寝台+硬座4両の6両編成でした

▲ ホテルは、ネットで商貿大酒店を予約しておきました。(298元=3,800円)駅からTaxiで10分(6元)で立地条件もいいと思っていましたが、付近にもホテル内にも食堂はありません。
侘しくカップラーメンをすすりました。


【17946】2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part3  富拉尔基(フラジル)の蒸気機関車

第4・5日目 2月22・23

6時46分、地平線の彼方からあがる朝日を見ながら行動開始です。

フラジルは、チチハルにある工業都市です。3大工場と火力発電所の4ヶ所に蒸気機関車があるらしい。しかし、どこも工場内で使用されているために、一般の目に触れることはない。見たければ許可を必要としますが、生産現場となるとまず難しい。忍び込む以外に手はないのですが、見つかれば厳罰が待っていますので、これは避けなければなりません。それでも撮りたいものは、撮りたいとの二重三重苦に矛盾が重なり、考えれば考えるほど動きが取れません。

昨日ホテルにチェックイン後、その中でも発電所の蒸気機関車は石炭輸送のため、国鉄線への専用線があって工場外郊外約7キロを走るので、撮影には問題ない。また約60両、おおよそ5,000トンものセキを牽引をするからには爆炎も期待できるだろうと、確認のためにロケハンに出かけました。

ホテル前に止まっていたTaxiに乗り込み、発電所を伝えますと料金メーターを倒さず、まず15元(約190円)の料金提示です。流しを拾えば良かったのかと思いましたが、15元なら値切る事もないかとOKを出しました。この地のTaxi、すれ違う度に見ていますと、客が乗っているのにすべて空車マークです。こんなの中国内でも見るのは初めてです。

約20分ほどで発電所の正門に到着しましたが、線路は裏側です。裏へ回れとメモ用紙に地図を書いて申しますが、さっぱり理解してくれません。丁度夕日が真っ赤に染まっていますので、撮影チャンスですが、言葉が通じないとは困ったものです。
仕方なく車を降りて歩きましたが、専用線にたどり着くころには夕闇が迫り、ロケハンは失敗に終わりました。

今日は昨日のリベンジに燃えていました。 まずは歩いてホテルから近い第一重機です。道路と交差していますのでここの専用線は分りましたが、DLが見えるのみで踏切番も蒸気機関車は走っていない。しかし工場内にはいるが、ここからの入場は許可できないと申されます。ごもっともです。グーグルアースで蒸気機関車がいるらしい位置は確認していますが、ここからは距離があります。忍び込むのは無理です。諦めて、優先順位一番の発電所専用線へとTaxiに乗りました。

昨日同様にメーターは倒さず6元 (約75円)です。昨夜の帰りは12元、途中で別の客を乗せて相乗りでした。この地では、これが当り前で、市内中心は6元で、市街は場所によって相場が決まっているようです。勿論相乗りはOKで、乗車途中でも客をひらいます。これって、大都会なら問題ですが、Taxiが少ない地方なら、常に客を乗せたい運転手と、空車まちでヤキモキする客にとっても都合がいい慣習?だと思われますが、皆様方いかがでしょうか。

着いた専用線踏切には、丁度国鉄線から発電所方向への真新しいDLが単機で走行中でした。ここは蒸気機関車ではなったのかと、期待は失望へと変わりました。Taxiを降りて彼方に過ぎ行くDLを見ながら、これが試運転かも知れない。ひょっとしたら次に来るのは蒸気機関車かもとの勝手な想像をして諦めきれない想いで発電所に向けて歩くことにしました。

▲ 発電所への途中で、最後尾が見えないくらいの54両ものセキを牽引してやってきたのは、残念ながらDLでした。


正午前に発電所裏手に到着。昨夜は闇で見えなかったのですが、遠くに煙が見えましたので辺りを見渡してから突入しました。幸いにして発見されることなく機関区に着くと、綺麗な建設型6545号機が有火状態で止まっていました。買い込んでおいた昼食を食べながら動くの待ちました。約2時間を経過しましたが、運転手も乗ってきませんので諦めました。


明日の齐齐哈尔までの切符を買いに駅に行ってきました。東清鉄道時代の1900年に建築されたロシア風の富拉尔基站。丁度、義和団の乱があった年である。

【富拉尔基 3日目】


▲ まだ旅は始まったばかりだ。ここで捕まってのとほほは避けたいと、また発電所の専用線を目指したが今日もDLでした。それではと、昨日と違って裏門からではあるが堂々と、機関区に向かった。昨日は見られなった建設型8123号機がいました。


▲  昨日撮った6546号機だが場所が違う。入替作用で動いたようです。


有火状態ではなかったが、上遊型1312号機もいました。

苦労を重ねた?3日間でしたが、期待した写真は取れずじまいとなりました。
初めての場所で、それも異国で、望む写真を初めから撮ろうなどとは偶然でもなければ、無理なのを分ってはいても懲りないことを恥じました。 そして、蒸気機関車は生きてはいても止まっている状態は、感動を感じないことを知りました。現存する中国の蒸気機関車を撮ろうと旅に出ましたが、感動を得られない以上続けるのは意味がありません。もう1つの目標であったのんびりした乗り鉄旅に変更することにしました。

▲ フラジルからチチハルへの帰路は、鉄ちゃんらしく途中乗車の4092次です。無座切符でしたが、運よく座れました。運賃はバスの半額で、所要時間も同じです。
もっと頻繁に区間列車があったら、利用は多いと思われますが、輸送能力が足らず、近距離輸送には対応していないのが中国鉄路の現状です。切符には、名前もパスポート番号も印刷されていません。徹底されていないようです。

チチハル到着後は、駅前の齐鉄賓館に飛び込みで宿をとりました。インターネットが出来る部屋でしたが、昨夜の4分の1という狭い部屋で、159元(約2,000円)でした。


【17993】昭和40年前後の浜大津界隈(3)

西村雅幸氏投稿の2月20日【17859】「浜大津ターミナル復元(その6)」で、京津線の発着番線に関するご質問が寄せられたところ、当日中に特派員さんが写真と共に回答されており、改めてクローバー会の連携と実力を実感した。

特派員さんの写真でご注目いただきたいのは、浜大津駅の看板で、昭和40年代の前半頃まで「京都、大阪、宇治、奈良方面行のりば」となっていたのが「奈良」が「私市」に変更されている点である。大津で「私市」は一般的でないため、「奈良」を外すのであれば「京都、大阪、枚方、宇治」の方がスッキリしたのではないかと思われる。

発着番線関連を含め、あと少し貼り付けたので参考になれば幸いである。

2番線を発車した普通/この時代三条方面の昼間のダイヤは三条~石山寺間急行、三条~浜大津間普通、三条~四宮間普通が各20分間隔で、三条~浜大津間の普通は急行退避がなかったため、三条~
浜大津間は実質1時間に6本運行されていた。(40-1-2)

浜大津東口を発車した石山寺行/303+304
(40-11-4)

浜大津東口を発車した石山寺行/263+264
(41-2-19)

88638との並び 
(43-9-28)

13+14/土産物屋は2件並んでいた。
(41-2-19)

 61
(42-5-13)


【17977】「日本海」「きたぐに」を送る (2)

「きたぐに」 -2-

12系化された「きたぐに」。ただし後部のハネ・ロネは10系のままだった(山科/昭和55年9月)

米原区のEF58が牽く、14系化された「きたぐに」、よく整備された大窓機だった(神足~山崎/昭和58年11月)
大阪~青森間の客車急行となった「きたぐに」には、一度だけ全区間乗ったことがある。昭和47年2月のことだが、当時は途中下車して撮りたいところがヤマほどあって、全区間を乗り通すようなことはしなかった。その時は、途中下車は帰途にすることにして、一気に北海道まで行ってしまう算段をして、大阪22時13分発の「きたぐに」に乗り込んだ。5号車ナハ102012だった。大阪・京都でほぼ10割となったが、糸魚川、直江津、新潟で大量の下車があって、以降はガラガラだった。後年の新潟以北の廃止も納得できたものだった。同じボックスに座った一人旅の男も北海道行きで、話が弾んだことを覚えている。青森着は17時38分だった。
昭和47年10月、日本海縦貫線の全線の電化が完成し、牽引機はすべてELになった。その直後の11月6日、深夜の「きたぐに」に悲劇が起こる。北陸トンネルでのオシ17の火災だ。焼死者30人が出る惨事となった。会社の同僚で、敦賀出身のものがおり、たまたま当日は帰省していて、事故直後の様子を敦賀駅で目撃していた。会社で会うと、息せき切って生々しい様子を話してくれた。原因となったオシ17はその日から欠車となった。そして、昭和48年10月には、ハザは旧型客車から12系客車になった。
昭和57年11月の改正で、運転区間は大阪~新潟間に短縮された。編成も座席車・寝台車ともオール14系客車化された。
翌昭和58年4月には牽引機関車の運用が変更され、米原~田村間交直接続のDE10に代わってEF81〔富二〕が米原~新潟の牽引に就く。さらに翌昭和59年2月からは、大阪~米原間はEF58〔米〕に代わり、EF65〔宮〕がその任に就くものの、客車の時代は長くは続かなかった。

     安土駅を通過する「きたぐに」。湖西線開業後も「きたぐに」だけは米原経由だった(昭和58年9月)
 

 EF65PFに代わってからは時折ヘッドマークが掲げられた。これは正月の「頌春」(神足~山崎、昭和60年1月) 

 客車最終日となった大阪駅、「北国」のヘッドマークを付けたEF65PF(昭和60年3月10日)


【17969】雨の朝の211系

犬伏です。東海道線東京口の211系は田町に15両編成14本分が配置されていましたが 11月より233系の新車に置き換え中で現在10編成の新車が配置され211系は間もなく消えようとしています。長野、新潟へ転用とうわさされていますがサハやサロは廃車のようです。113系と231系の間であまり目立った車両ではありませんでしたが 登場時のその乗り心地は113系と比べて空気ばねの良さが目立っていました。いい顔つきで個人的には好みの車両です。本日朝の雨の中での写真をご覧ください。

雨の新子安駅を駆け抜けるN5編成ほかの15両編成です。

浜松町での出会いもあとわずかですね。

田町の233系です。小便小僧さんよろしくお願いします。