福島を取り巻いた電車

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先のデジ青【17434】では湯口会員から福島の電鉄線形成について経過が紹介された。図を参考にしてほしい。Aは今も残る飯坂西線、Bは廃線となった飯坂東線で、東線は1925年内に改軌と電化工事が竣工した福島電気鉄道である。梅鉢鉄工所製木造車は車体巾1676粍、車体妻外寸法9690粍、出入口巾610粍、窓寸法縦612×巾735粍、座席巾355粍、屋根高3327粍と、数字を羅列したのはどなたかペーパーモデルを制作してくれないか、との老人の呟きである。台車:梅鉢鉄工所、電動機:芝浦35HP×2、制御器:芝浦単式、制動機:梅鉢手動、空車時重量:7,950kg、最大運転速度:24km/hr、乗客定員42人となっていた。

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やっと目覚めた福島電鉄の思い出

デジ青【17434】2012年1月13付で須磨の大人から1971年4月12日に廃止となった軌道線について「出番でっせ!」と尻を叩かれた。目下幽閉の身であるので身動きできない、解放後に後塵を浴びさせてもらうとコメントを入れてから4年半近くなる。その間、身辺に……、言い訳が多い気ままな生活を送ってきたことで申し訳ない。そこで福島について思いを寄せてみた結果、、貨物列車が2ケ所から郊外に向けて運行していたことに思い当った。小学生の頃から京阪電車が天満橋~塩小路貨物駅間で貨物電車を走らせているのに興味を持っていたが、1955(昭和30)年6月25日に営業廃止となった。関西では近鉄、南海で残っていたが、両親の出生地、つまり田舎と現在の生活拠点の京都を結び種々雑多な物品が「小口便」と称するもので行きかいしていた。兄の結婚相手は近江八幡の人で、こちらは「飛脚便」で行き交いしていた。祖母は小口便を「チッキ便」と呼んでいたが、その違いはここでは触れない。

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【くまモン】は誕生前だった

 

今や熊本は【くまモン】で沸き返っている。それはさて置きデジ青【71074】では初めて熊本に足を踏み入れた時、熊本駅前から藤崎宮まで歩き当時の熊本市電を紹介した。その後も熊本には片手以上の回数で足を踏み入れている。瀬戸内海航路や航空便で九州に渡り別府や湯布院の温泉につかり、上達が見られないゴルフを諦めた後は熊本観光組となった。その頃に大阪市電900型導入を目撃した。またワンマンカーに乗り合わせた折に乗車券が区間制で、不思議な思いに駆られたことが思い出される。何故か博多経由の熊本入りは1989年までなかった。

1989年のGW5月2日、午前中に工事段取りを済ませ山陽新幹線で九州に向かった。門司港の街並み見物と夕食後、門司港初発夜行急行「かいもん」で鹿児島に向かった。小倉から転換クロスは満席、博多では釣り客で超満員となった。鳥栖を前にして転寝となり、発車衝動以外はぐっすりであった。終着鹿児島中央駅の降車客は座席定員の半分を割っていた。九州で夜行列車に乗ったのは1958年9月以来のことで、その時は松山→別府→鹿児島のコースだったのだが、台風襲来で行く先々で雨雲に追われる始末であった。今回の鹿児島は快晴だが午後になると薄曇り(桜島の灰)となり、特急で熊本に向かった。旅行業者に頼んだ宿は市電車庫の斜め向かい。これ幸いと夕食後に撮影許可を貰いに出向き、操車室で京都から来たといって歓談、ついでに手続きを済ませた。これで翌朝の動きが楽になる。

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レトロ列車出発 加悦鉄道まつり

いささか旧報になるが、5月4日朝日新聞京都版でタイトルの如きキューズ(旧ニュ-ス)が掲載された。加悦で何ごとぞと、読んでみたら次の通りであった。

「与謝野町滝の加悦SL広場で3日、初夏の加悦鉄道まつりが始まった。多くの親子連れなどが、風船プレゼントや再現列車乗車会といったイベントを楽しんだ。4日まで。

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お城とゲテモノ訪問前に市電を少しだけ

1957年夏の電車を求めての旅の一端はデジ青【3992】で紹介している。そこでは熊本城の雄姿を掲載した。熊本に行こうと思ったのは奥野師匠から熊本電鉄には63スタイルの木造車、それも戦争中の統制で出来た代物があるとの話を聞いたのが発端であった。そこで熊本を折り返し点とするコースを辿ることにした。また京都の城には天守閣がなく、日本一と言われる熊本城の天守を見ることも目的の一つにした。恐縮だがその姿を再掲させて頂く。

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2度目の栗原電鉄を訪ねて

老人は向日町に転居後20年ばかり各地の電車めぐりを凍結した。その間、各地の小私鉄が廃止に追い込まれ寂しい思いに浸っていた。それを復活させたのは吉谷さんの一言であった。「電車の好きな君らしくない。ストレス解消には新しい電車仲間を作ることだ」と言って海外鉄道研究会と路面電車同好会への入会を勧められた。氏は1985年に亡くなったが翌年6月に海外鉄研に入会、再び電車にも目配りするようになった。

復活後、海外の電車見学に行くことが出来たが、日本のローカル線めぐりは遅々として進まなかった。その頃に野上電鉄と栗原電鉄が危ないことを知った。共に国や地方自治体の助成金で存続していたのが1993年には失効になり廃止されると報じられた。野上電鉄の調査をと思ったが、内情を知り中止とし「青信号63号:1994-10-1」に投稿、それで栗原電鉄訪問とした。出発は1994年8月12日、帰着は同月16日、実に35年ぶりであった。

35年前の電動車は健在であったが、当時の塗色は覚えていない

35年前の電動車は健在であったが、当時の塗色は覚えていない

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十和田の次は栗駒電鉄の筈が……

早朝訪問が功となり、栗原電鉄に一路突っ走るつもりが「次は花巻」のアナウンスに引かれて下車してしまった。周遊券が良いのはここにありと言ったところで、車庫事務所での竣工図拝見も即座に実現したのは東京の学生さんの訪問も多いらしく、準備万端と言ったところであった。花巻温泉の割引券があるというので購入したら木札で5円であった。その札使用は後の楽しみとして、最初の離合駅で折り返し温泉に入りたいと言ったら、あの電車に乗ると良いと言われ発車目前の馬ずら電車に急いだ。車内は高校生で満員、これで土産話が出来たと思った。写真などは須磨の大人が投稿したデジ青【13832】【13885】【50155】をご覧ください。

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日の目を見た写真、十和田観光電鉄

2002年春だったと思うが吉川文夫さんから電話を貰った。用件は「1959年夏に東北の電車を巡っておられるが、その時の十和田観光電鉄の写真一式を岸 由一郎さんに提供してほしいのですが・・・」とのことであった。岸さんと言えばピクトリアル611、613号で京都電燈福井支社関係の貨物輸送(九頭竜川水力発電)について発表されたことが頭にあり、その内容が緻密であり学生さんにしては・・・との記憶が残っていた。ポン友の依頼となれば「承知しました!」と、なったのであった。幸いなことに十和田電鉄撮影のフィルムは自家現像にしては調子よく仕上がっており、フィルムその物を送った。

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遠州鉄道は日本一の中小民鉄!

老人は1986年6月まで冬眠生活を19年間していたが、吉谷先輩の遺言で元に戻った。先の大井川鐡道に拘ったのは、頑張る中小電鉄の一例として白井さんの情熱に惚れたのであった。その行きかえりを利して浜松に途中下車、「行き帰りの駄賃は遠州」としたのは車窓から眺めていた車両や施設の大変貌によるものであった。社会人となってからは舘山寺温泉での業界出張で、合い間を縫って赤い電車に乗っただけであった。車庫は西鹿島に移動、貨物扱いはなく都市近郊型に全てが変貌していた。車庫で若い社員の方と話す機会があったが、「車両や線路の近代化に目途がついたので続いて信号を始めとする通信関係です。無人電車が走りだすかもしれませんよ?」と、2人で大笑いとなった一幕もあった。それから20年あまり経つが、開業以来の中古客車は107号のみ、依然として良き伝統を守っている日本最優秀電鉄である、と思っている。

夏休みの宿題はすべて遠鉄で一色になっているはず

夏休みの宿題はすべて遠鉄で一色になっているはず

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68190の続編は遠州鉄道の規格型

太平洋戦争は日本の全面的な降伏で終わった。鉄道の復興で被害の大きかったものに車両も上げられた。当時の所管機関であった運輸省は、車両新造には独自の標準設計を決め許可制とした。これに基づいた車両の建造は少なかったが、制約を受けた割には鉄道会社の独自性に負うものがほとんどであった。復興資材が取り合いにならぬように国が認めた新造車の資材については責任を持って優先的に割り当てるということであったが、鉄道会社はそれぞれに動いた節もあるようだが、それには触れない。

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(続)生き残った田園鉄道、弘南鉄道

現在も健闘している弘南鉄道は旅客運輸で経営を存続しているが、訪問した半世紀前は貨物運輸も事業の一端として大きなウエイトを占めていた。在籍車両調査を終え、車庫事務所を出る時に是非写真を撮ってほしいと言われたものがある。それは組成した貨物列車であった。「これから仕業に出るが、その姿を撮ってほしい。なかでも林檎輸送は好調で、ことしは国鉄ワム90000の新車を10両購入した。これから新車を使って初めて10両編成を仕立て集荷に行く」と、課長は意気込んだ。そこで編成を組んでくれたが、中線は旅客列車の行き違いで使えず、外線で牽引機はED202となった。

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