エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part9  ミュンヘンからエリトリアへ

5月27日 第4日目 その2

① ミュンヘン中央駅集合 13:00(Sバーン)→13:38 ミュンヘン空港
② ミュンヘン 15:55(MS788)→19:40 カイロ
③ カイロ 23:16(MS833)→3:05 アスマラ→ホテル

ミュンヘン中央駅で全員集合後、地下鉄に乗車してミュンヘン空港に向かいました。市内から乗り換えなし、所要時間は約30分強と便利で近い空港です。地下鉄ホームから地上に出るとすぐに搭乗する第2ターミナルの入口です。
1995年に開港したミュンヘン空港は、市内から28キロに位置します。ドイツでは、フランクフルト空港に次いでの利用客でヨーロッパでは第7番目となっています。

早速搭乗手続きを済まして、出発待合ロビーでビールを飲みながら搭乗を待ちました。▲ 機内食、左はMS788、右はMS833です。同じエジプト航空ですがメニューは違っていました。ただどちらもアルコールの機内サービスはありません。カイロで乗り継ぎ時にビールを求めましたが、空港内売店でも売っていません。これにはビール好きのO氏共々参りました。ミュンヘン出発時にウイスキー等のアルコール調達は必要だったと、気づいたのは遅かったようです。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part8  ミュンヘンの路面電車に乗って

5月27日 第4日目 その1

① 路面電車撮影9:00→11:45ホテル
② ミュンヘン中央駅集合13:00(Sバーン)→13:38ミュンヘン空港
③ ミュンヘン15:55(MS788)→19:40カイロ
④ カイロ23:16(MS833)→3:05アスマラ→ホテル

今日も朝食はホテル代に含まれたバイキングです。ミュンヘンインターシティホテルはフランクフルトとメニューは同様に十分満足できます。明日には未開の地にいます。向うに行ったらどんなものが食べられるのか分かりませんので、しっかりと栄養補給しました。

▲ ドイツの伝統的な焼き菓子プレッツェルを中心に各種のパン、ヨーロッパらしく多種のジャム、チーズ、ヨーグルト、そして紅茶等々が並びます。ちょっと日本とは違ったメニューは楽しめましたが、新鮮野菜が欠如しているのはなぜでしょうか、生野菜を食べる習慣はないのですかね。

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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part7  ミュンヘンは、オクトーバーフェスト

9月26日 第3日目 その2

着いたミュンヘンは、世界最大のビール祭り「オクトーバーフェスト」の真っ最中でした。これを目当てにミュンヘンに来たわけではなく、エリトリア鉄道の乗車と撮影が目的でたまたま開催日と重なった訳です。着いたミュンヘン駅構内も民族衣装を着た参加者がたくさんおられました。
今日は、
エリトリア鉄道へ同行させていただくW大鉄研OBのO氏ご夫妻と、もう一人のN氏と16時30分に待ち合わせて、一緒にビール祭りに行くことになっています。まずは、腹ごしらいと路面電車撮影のロケハンに向かいました。


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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part6  ICEに乗って、フランクフルトからミュンヘンへ

9月27日 第3日目 その1

フランクフルト9:54(ICE529)→13:09ミュンヘン

平日朝の路面電車やフランクフルト中央駅の光景も見たいとICEの乗車時刻は遅めの9:54にしていました。
この切符はご覧のようにOnline-Ticketです。DB(ドイツ鉄道)のホームページから日本の自宅で事前に購入しましたが、初めてのOB切符購入です。何も分からずに購入挑戦を試みましたが英文で、さっぱり分かりません。英語の堪能な知人に聞きに行ったりして、インターネットでの購入方法を理解して手に出来るまでには1週間を要しました。

【初めてのOBの乗車券購入】
皆様ご存知のとおり、ドイツ国内のみを安く利用するには、 ジャーマンレイルパスがあります。通用日数は、4~10日間を選択でき、2人用のツインパスならさらにお得ですが、今回は行き帰りの各1回のみですので対象外です。

選択できる対象乗車券はには、①バーンカード②シュパープライス③ダウアー・シュベツアルの3種がありました。

①は、普通運賃が25%割引 と50%割引の2種類がありますが、2等ですと450ユーロ以上でないとモトがとれないため、また前もってバーンカードを購入しておかねばならず面倒ですので外しました。
②は、往復の乗車券で、特定列車に有効、週末限定等々制約がありましたので、これも外しました。
結局③しか選択肢は残りませんが、これも列車ごとに発売枚数が限定されています。変更や払い戻しは受けられませんが、今回は乗車日が確定しているので、これに決めてインターネットで獲得することにしました。

検索すると、同じICEでも列車ごとに違う料金が出ていました。日本なら乗車する「のぞみ」の時間帯によって異なる料金設定がされているようなものです。そして2人だとさらに割引料金が設定されています。日本でも季節や週末限定、ローカルから都会へ等々の格安切符が設定されていますが、さらに細かくの料金設定です。これはお得だと購入に進みましたが、最後にユーザー名とパスワード等を聞いてきました。あらかじめ名前・乗車・TEL・決済するクレジット番号等を登録してからログインに必要なカスタマー№を受け取らなければならなかったようです。また1からやり直しです。

そんな訳で英文の確認やらでPCのプリンターから切符を印刷できるまで、1週間もかかってしまいました。出発前に一苦労しました。 続きを読む

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part5    路面電車に乗ってフランクフルト市内観光

第2日目 9月25日その3

 

交通博物館視察後は、再び路面電車に乗ってフランクフルト市内観光と撮影をすることにしました。
Schwanheim Reinlandstrasse12:15(Line12)→13:19Hugo-Junkers-Strabe
③ Hugo-Junkers-Strab13:23(Line12)→13:34Eissporthalle/Festplatz


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阪神ジェット・カー、御影-石屋川間高架上

 前回に続き、5100系、5200系です。デジタル青信号の投稿ついでに、保存の阪神フォルダ内を見ていたら、新しい発見がありました。
 1962.3.25撮影、
御影駅西方、石屋川駅まで続いている留置線、施設完成前の高架上です。 また、このフィルムは、ビネガーシンドロームなど、全く影響がない正常な状態のFuji Neopan ss safty  です。たくさんのビネガーシンドローム被害のフィルムの中に、こんなのがあるから、いよいよもってビネガーシンドロームが解らなくなります。 1. 5100系、5101 、石屋川駅寄り

 関係者でもない私が、どのようにしてこの地点に行ったか覚えていません。昨今では撮影不可能な位置です。当時とは言え、まさかホーム端から歩いたとは思えず、高架下の昇降階段から昇ったのではないかと思われます。また、この場所も阪神大震災では大きな被害を受けました。

 

 

2.  52005214他、石屋川-御影駅の中間辺り

 3.  5200系5212他、御影駅近く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part4    フランクフルト交通博物館

第2日目 9月25日その2

中央駅前 10:18(トラム)→10:45 博物Schwanheim Reinlandstrasse

こじんまりした博物館と聞いてきましたがそのとおりでした。入館して早々に自動券販機の洗礼に会いましたが、すぐに係員が寄り添ってきて丁寧に取り扱い方法を教えていただきました。

入場券は3€(ユーロ)ですので、日本円で約300円ほど、リーナズブルです。


▲ 全盛期は36系統があったそうです。右は入館受付台です。
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房総半島横断の旅Ⅰ


 
上総中野駅での小湊鉄道といすみ鉄道の乗り継ぎ

 8月25日、所用で千葉県市原市に行った。葛飾区からはさほど遠くはないが、HPの表紙を飾っていた幕張車両センターの113系が撮影できるかもしれないと思い、早めに千葉駅に到着したが、来るのは元京浜東北線の209系ばかりであった。直ぐに撮影を切り上げて内房線の電車で木更津に行くと、久留里線のキハ3062+キハ381003の2連が到着したところで、大急ぎで撮影後、五井駅近くの用務先に向かった。

 所用は順調に捗り午前中に終わり、このまま帰るには早過ぎるので小湊鉄道といすみ鉄道を乗り継ぎ房総半島を横断して帰ろうと思った。駅で「房総半島横断切符」を購入する時「パワフル×スマイルちばフリーパス」のポスターが目に留まった。内容は千葉県内と鹿島線の鹿島サッカースタジアムまでのJRの普通列車、小湊鉄道、いすみ鉄道、銚子電鉄が乗り放題で、特急券を買えば特急にも乗車可能で値段は1800円というものであった。「横断切符」は1600円で途中下車自由であるが、200円プラスするだけで松戸まで乗れるので、早速購入して小湊鉄道のホームに行くと11時40分発の上総牛久行が発車するところであった。車両はキハ202(昭和36年日車製)で座席が半分位埋まる位の乗客であった。27分で到着すると駅前には大多喜行のバスが停車しており、5名の乗客が乗り換えた。また後続の上総中野行に乗り換える客が4名いた。

 ところで五井から上総中野まで行く列車は、平日は9時22分、12時21分、16時の3本しかない。一つ手前の養老渓谷行が5本、途中の上総牛久行が20本、里見行が1本、早朝の上総牛久発上総中野行が1本である。土曜日と休日は上総中野行が6本、養老渓谷行が3本となる。
一方、上総牛久~大多喜間にはバスは8往復(休日6往復)運行されている他に牛久~小湊、勝浦間の急行バス5往復も利用可能で、所要時間、運賃共にバスの方が断然有利である。(鉄道は最も接続の良いもので70分、運賃1250円、バスは普通便40分、急行は途中ノンストップで23分、運賃680円)

昭和50年4月時点の列車本数は、上総中野行13本、養老渓谷行3本、上総牛久行平日5本、休日2本で、上総牛久を境に五井方面は乗客が著しく増加し、上総中野方面は全くその逆になったことが判る。
五井~上総牛久間には上総村上、海土有木、上総三又、上総山田、光風台、馬立と6駅あるが、上総三又以外全部交換可能で、上総三又も近々交換可能する工事が開始される。一方上総牛久以遠は、途中駅のポイントを全部鎖錠して、上総中野までを一閉塞としたため、この区間は1列車しか入線できなくなっている。行楽シーズンの増発もままならない状況のため、近々里見駅の交換を復活させる工事が開始される予定である。養老渓谷発五井行が10名程の乗客で到着したので、次に乗る上総中野行のこの程度の乗客数だろうと思っていたところ、ほぼ満席であった。この先は無人駅が続くが、春には桜が美しいところである。養老渓谷で10名程降りたが、いくら夏休み中とは言え、平日でこの状態とは驚きであった。養老渓谷を発車したところで車掌嬢が切符の回収にきたが、ほとんどが「パワフル×スマイルちばフリーパス」を持っており、「房総半島横断切符」の乗客もいた。暫くすると乗り継ぎのいすみ鉄道が到着したが、こちらもほぼ満員であった。いすみ鉄道は車両が小さいので写真を撮っていると座れないのではないかと思ったが、何とか座れた。いすみ鉄道のホームの横の線路が小湊鉄道と繋がっており、その気になれば直通運転は難しい話ではない。

 14時丁度にそれぞれ満員の乗客を乗せた双方の列車がタイフォンを軽く鳴らして発車した。大多喜駅では車庫からキハ52が顔を出しており、途中下車して撮影しようかと思ったが、夕方までに帰る必要があったので今回はパスして大原まで乗車した。千葉行の普通列車までの間、駅近くの踏切で撮影後帰宅した。

 
 「パワフル×スマイルちばフリーパス」のポスター/千葉県内のJR、小湊鉄道、いすみ鉄道、銚子電鉄が乗り放題で1800円は安い。また、特急券を買えば特急に乗車可能というのは「青春18」より使い勝手が良い。


 
C439編成クハ2092157/113系に替わって房総の普通列車の主力となった元京浜東北線の209系。ラッシュ時には京浜東北線時代と同じ10両編成が見られる。



キハ3062、下 キハ30100/木更津派出にキハ30の62、98、100の3両が配置され久留里線で使用されている。旧塗装に変更されておりファンには人気が高い。冷房は無いが夏でも日常的に使用されている。
小湊鉄道五井機関区/車両は昭和36年から52年にかけて6次に分けて製作されたキハ200形(201~214)に車種統一されている。209と210以外は冷房改造されている。209は休車中。


最初に乗車した五井駅11時40分上総牛久行のキハ202隣の無蓋車はバッファーの跡があり相当古い。

上総牛久駅で折り返すキハ202/昭和36年日本車両製の1次車で車齢は50年を超えているが手入れが良いため古さを感じない。 上総牛久駅

 手書きの高速バスの時刻表/五井~羽田空港間は頻繁に運行されている。上総牛久駅からは羽田空港経由横浜行が5往復運行されている。


 上総牛久駅 


 
五井~新宿間の高速バスのポスター


 上総中野行と交換の養老渓谷発五井行が10名程の乗客で到着/キハ214(昭和52年日本車両製)


 ほぼ満席で上総中野に到着したキハ212(昭和52年日本車両製)


 
上総中野駅/左の建物はトイレ

  
 間もなく上総中野駅に到着するいすみ鉄道キハ206


 キハ206/昭和63年3月国鉄木原線から転換時にキハ101~107として富士重工で新製。当初はセミクロスシートであったが、ロングシートに改造時にキハ201~207に改番。キハ204は余剰のため廃車になり、上総中川駅の近くの「ポッポの丘」で売店として使用されながら保存されている。左側の線路は小湊鉄道と繋がっている。


 
大多喜駅で交換したキハ205


 大原駅/JRの駅とは分離されている。


 特急「わかしお13号」/大原

房総半島横断の旅Ⅱ


 ポッポの丘の住人達


8月30日は夏休みであった。前回(8月25日)大多喜で見たキハ52125に是非乗ってみたいと思っていたので、再度房総半島を横断することにした。幸いこの日の午前中キハ52125が大多喜~大原間を臨時普通列車で運転されるので、大原から入り、撮影後に乗車して、上総中川駅近くの地元の卵や農産物の販売施設「ポッポの丘」で売店として使用されている車両を見学後、上総中野から小湊鉄道で五井に抜けるコースを考えた。ネックとなるのが小湊鉄道の運転本数で、上総中野発の列車は6時55分、10時45分、14時、17時15分の4本しかなく、14時発に照準を合わせて、沿線での撮影はパスして次回とした。

金町から下り電車に乗り、次の松戸で「パワフル×スマイルちばフリーパス」を購入した。新松戸、海浜幕張、蘇我、上総一ノ宮の各駅で乗り換え、大原に10時33分に到着し、10時39分発いすみ鉄道上総中野行に乗り換えた。次の西大原で降りて、大多喜方面に1キロほど歩いたところでキハ52125を撮影したが、普通列車として運転されているためヘッドマークはない。駅に戻り大原で折り返してきたキハ52に乗車したところ、同社の鳥塚社長が車掌として乗務しておられた。次の上総東で交換待ちの時に「社長さん自ら車掌をされて恐縮しています」と声をかけたところ「結構楽しいですよ」と答えられた。扉の開閉、車内アナウンス、観光案内、車内補充券、記念乗車券の販売と大忙しであったが、社長自ら車掌をされている会社は、観光鉄道ではあるかもしれないが、通常の鉄道ではここだけであろう。
車内は大糸線時代と全く変わらないが、ポスターは更に古い国鉄時代のものに取り換えられており、それもきわめて貴重なものばかりで感激する。通常ポスター類は掲示期間が過ぎると廃棄されてしまうので、本当によく残ったものと思う。これらのポスターを見るだけでもキハ52に乗る価値はあると思った。
上総中川で降りる時に社長(兼車掌)にDRFCクローバー会会員であることと「デジタル青信号」のことを伝えたところ「是非また来てください」と言われ、「今度は仲間と来ます」と答えた。
駅前の道路を大原寄りに少し戻り、踏切を渡って約15分歩いた最初の信号の所で、丘の上に元北陸鉄道のモハ3752といすみ鉄道のキハ204が見えた。更に歩くこと10分で「ポッポの丘」に到着した。ここは「ファームリゾート鶏卵牧場」の販売施設として5月1日にオープンしたもので、庭先卵や地元農家の野菜等が保存車両の車内で販売されている。いすみ鉄道キハ204、北陸鉄道モハ3752、万葉線デ7052の3両が販売施設として利用され、元JR西日本の小型DLが動態保存されており、ポッポ=蒸気機関車はない。北陸の車両が房総にあるのも不思議な感じがしないでもないが、往復1時間弱かけても見学に行く価値は十分あり、今後大切に保存されることを切に願う次第である。
駅に戻り、ほぼ満席の上総中野行(キハ202)に乗り、上総中野で8分で接続の14時発五井行(キハ212)に乗り継いだ。こちらもほぼ満席で、途中駅からの乗車もあり立客も出る程であった。折角の機会であるので途中で降りて撮影したいが、景色の良い上総牛久までは列車本数が少なく帰りが遅くなってしまう。最初の交換駅は上総山田のため、手前の光風台で降りて上総山田~光風台間の養老川の鉄橋で撮影しようと思ったが、時間的に厳しいので更に一つ手前の馬立で降りて、撮影場所探しでウロウロしている間に列車が来てしまった。次の列車で五井に行き、乗車したキハ207、入替中のキハ206+キハ213を撮影した。
113系はネット上では内房線と外房線で走ることになっており、今朝は本千葉駅で待っていたのであるが、来たのは209系であった。もう一度千葉駅に行き、来なければ諦めようと思った。案内表示を見ると17時10分発成東行が3扉8両となっており、待つことにした。その間211系が2本発車したがカメラを向けている人は見なかった。こちらも間もなく千葉地区から転属の予定で、行き先は中央東線とも新潟地区とも言われており、まだ決定には至っていないようである。
到着ホームの先端にはすでに多くの人がいたが、皆さんヘッドマークが目当てなのであろう。私自身も半ば諦めていたので最後になって撮影できたのは本当にラッキーであった。

 2日間とも房総半島を駆け足で横断したが、来春は横断しなくても、菜の花、桜を入れてまったりと撮影をしたいと思っている。小湊に行かない小湊鉄道と木更津に行かない旧国鉄木原線(→いすみ鉄道)が上総中野でドッキングした時点でお互いに工事を止めてしまい、その後も名前だけが残ったというのが何ともユニークで、もし両線ともに予定通り完成していたら上総中野は房総半島の一大ターミナルになっていただろう等と想像を巡らせた。 


 「パワフル×スマイルちばフリーパス」の広告/蘇我


 キハ52125/西大原~上総東


 キハ207/上総東


 キハ52125/上総東




 車内のポスター


 ポッポの丘/上総中川駅から徒歩25分


 協三工業製のDL/動態保存で約50mの線路を走る
 
  いすみ鉄道キハ204(昭和63年富士重工)


 北陸鉄道モハ3752(昭和26年広瀬車両)/加南線のクロスシート車として新製、昭和39年石川総線に転属し、その時にロングシート化された。昭和58年に車体更新され現在のスタイルとなり、平成19年10月に廃車になった。


 万葉線(←加越能鉄道新湊線)デ7052(昭和36年日本車両)/窓配置が不自然なのは富山地鉄市内線のデ7000形の中扉の位置を後部に変更したためであるが、何故最初から前後扉車として作らなかったのか不思議である。


 キハ212(昭和50年日本車両)/上総中野
 満員のため冷房が効かなかったため窓が全て開いている。


 馬立駅


 キハ211(昭和50年日本車両)/馬立~上総牛久


 キハ207(昭和45年日本車両)/五井


 クハ113-2049他8連/千葉(千葉寄りの先頭車)
 
 クハ113-242/千葉(銚子寄りの先頭車)


 クハ210-3040他5連/千葉
211系は5両編成17本配置され、総武本線、成田線で使用されているが、間もなく209系に置き換えられ他線区に転属する。


 
クモハ211-3040/千葉
廃車になった201系のパンタを増設した車両が9編成存在する。

 
 ありがとう113系記念弁当

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅  Part3  フランクフルト交通博物館へ

9月25日 第2日目 その1

中央駅前10:18(トラム)→10:45
博物Schwanheim Reinlandstrasse

エリトリアへは、明後日にミュンヘンから向かいます。今日はゆっくりと、フランクフルト市内を見てまわることにしていましたので、乙訓の老人様(以下ご老公)に路面電車についてご教授をいただいておりました。宿泊先のインターシティホテルで、チェックインからチェックアウトまでの3日間を無料で乗車できる市内交通パスをいただきましたので、フランクフルト交通博物館へ行くことにしました。


▲ フランクフルトの市内交通には、Sバーン(近郊電車)、Uバーン(地下鉄)とトラム(路面電車)があります。路面電車だけの路線図がなかったので、全市内交通案内パンフをもとに作成しました。

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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part2    フランクフルト中央駅

9月24日 第1日目 その2

① 成田12:15(JL407)→17:20フランクフルト
② フランクフルト空港(Sバーン)→フランクフルト中央駅

シベリア上空を約12時間飛び到着したフランクフルトは、日本との時間差マイナス7時間。現地時間では17:20ですが、日本時間では翌日の0:20です。

機内食は搭乗2時間後の14:00と9時間半後の到着前の2回ありました。
エコノミークラスとしてはまずまずです。

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伊香保の電車について

乙訓の先輩へ

私が高崎で4年間の単身生活をしていた時、休日の楽しみはとにかくクルマであちこちを走り回り、現役車両はもとより、廃車体を探したりすることでした。そんな中で渋川街道は何度も走り、大きな医院の塀の中に電車があるのに気付き、 御断りを言って写真を撮らせてもらおうと ある日門内に入ったのですが 誰も出てこられず やむなく無断で撮影し 早々に立ち去りました。そのときの写真を添付します。下回りはなく、医院の待合室になっていました。戸を開けて車内に入りたかったのですが、さすがにためらわれてそそくさと退散しました。1999年5月23日の撮影です。

ユースで巡った鉄道旅 -17-

昭和46年2月の東北乗り鉄の旅は続きます。山田線では急行「陸中」を盛岡まで乗り通し、「たざわ2号」に乗り換え、初乗車となる田沢湖線経由で秋田へ。さらに「しらゆき」に乗り換えて深夜の青森に到着。乗り鉄に徹した、この日の乗車距離は、横手から始まって青森まで約630kmに達しました。この晩は、青森駅の連絡船待合室で一泊、ユースには結局世話になりませんでした。

大槌を出た「陸中」は、二つ目の停車駅、陸中山田で636Dと交換する。この636D、山田線・釜石両線を通しで運転する列車で、250kmを7時間掛けて運転されていた。今なら、何本の列車にも分割されてしまう距離である。先頭キハ22292ほかの6連。北海道向けの寒冷地仕様のキハ22は、一部東北にも配置されていたが、この盛岡区が南限のキハ22だった。この陸中山田駅も地震による被害がすごかった。駅は、津波で破壊されたあと、火災が起こり、全焼してしまったという。二重の打撃を受けたわけで、再開の糸口さえ見えないようだ。

震災後の陸中山田駅(新潮社「日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録」より転載)

田沢湖線経由で秋田に到着したのが、日も暮れた19時08分、ちょうど羽越線ホームに、直江津発秋田行き821レが遅れて到着したところだった。牽引機を見に行くと、C571であった。煙突には何も付けず、スノープロウを付けた雪国のC571であった。動態保存中の現在の同機とは違う、逞しさを感じた。

高校生から、社会人までの約10年、全国各地を旅行できたのも、ユースホステルという、安価で健全な宿泊設備が全国に張り巡らされていたからこそと思います。それだけに、環境が変わったとはいえ、ユースホステルの衰退は残念なことです。全部で115泊したユースには、ここでは書ききれなかった、さまざまな思い出が今も甦ってきます。(終)

ユースで巡った鉄道旅 -16-

昨日は、山科の人間国宝宅へお邪魔して、いろいろ話を伺ってきました。人間国宝は、8月、9月連続して行われた東北支援の鉄道写真展に、たいへん貴重な写真の数々を展示されましたが、「大槌の鉄橋の写真がいちばん思い出深いです」と述懐されていました。ご承知の方もおられると思いますが、山田線大槌~吉里吉里間の大槌川橋梁は、東日本大震災の大津波で流出し、橋脚だけが残った無残な姿となりました。人間国宝は昭和40年前後に、その橋梁上を行く列車を撮っておられ、図らずも津波前後の定点撮影となったのです。いっぽう、I原さんも、その大槌の街をバックに大カーブを行くC58の列車を高台から撮っておられることが判明、写真展会場で披露されました。
大槌は津波の被害が甚大で、街は壊滅状態ですが、まだ平和な時代にしっかり記録を残されていることに、感銘を覚えました。そんな思いで、自分のベタ焼きを繰っていると、なんと私も大槌で撮影していたことが判明しました。ただ、私の場合は、単に交換列車を撮っただけですが、今回は、ユースシリーズの最終として、岩手県下の鉄道を巡った一日を記してみます。

この日は、下り夜行「津軽1号」で横手まで行き、北上線始発で北上へ、東北本線で花巻へ、釜石線に乗り換え釜石へ。ここから山田線で宮古経由で盛岡へと向かう乗り鉄の一日だった。横手5時22分発の始発列車で、初めての北上線に乗車、県境近くまで来るとさすがに雪が深くなってきた。雪明りの北上線陸中川尻駅で列車交換のため停車、雪明りの構内に列車を待つ人々の影が伸びている。陸中川尻は、現在「ほっとゆだ」に改称されている。

釜石駅前、新日鉄の釜石製鉄所が駅の真ん前にドカンと広がる光景に思わずカメラを向けた。太い煙突からはモクモクと煙が上がる。釜石も海岸部は津波で甚大な被害だったが、駅はやや小高い場所にあり、津波の直撃は免れたが、地震の揺れによる被害が大きかったようだ。この写真は、tsurukameさんのブログ「蒸気機関車山路を行く」にも使っていただいた。

釜石から乗った列車は仙台発釜石・山田・花輪線経由秋田行き急行「陸中」、東北地方に多かった多層階急行で、各所で分割・併結を繰り返す列車だ。大槌駅で列車交換のため、数分停車する。この当時、東北、いや全国で見られた、ごく当たり前の駅ホームの風景だ。ここが、ちょうど40年後のほぼ同月、こんな被害に合うとは…。ホームには、律儀そうな助役と、若手駅員が待ち構え、ボストンバッグを持った家族連れが列車の到着を待っている。漁業の盛んな地らしく、冷蔵車も見える。交換する列車は普通列車のように見えるが、前のキハ52×3連は回送で、その後にキハ58系3連が付いた、急行「そとやま」だった。今では考えられない、急行同士の交換だった。

山のラインで同位置と分かる大槌駅の惨状(新潮社「日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録」より転載)

ユースで巡った鉄道旅 -15-

向山のグリーンユースで泊まった翌日は、前記のように、南部縦貫鉄道へ行くことにしました。清々しい雪晴れの朝で、足取りも軽く駅へ向かいます。思わず撮影意欲が沸々と湧いてきましたが、これが間違いのもとでした。南部縦貫へ行く前に、欲張って三沢で下車して十和田観光電鉄も撮る計画に急遽変更しました。
ところが何としたことか、時刻表を読み違え、十和田観光電鉄を撮って南部縦貫が接続する野辺地に着くと、南部縦貫のレールバスは10分前に出たあと、次に戻ってくるのは数時間後。色気を出したばかりに、本命を逃してしまい、結局、南部縦貫鉄道はその後も行く機会はなく、一枚も撮れないまま廃止されてしまいました。

三沢で発着する十和田観光電鉄(十鉄)を撮りに行く。巨大な温泉旅館の近くまで歩き、モハ3401+クハ4401を撮る。たいへん垢抜けした、いかにも電車らしい電車である。この塗装がまたいい。1955年帝国車輌製、東北地方初の全金製である。十鉄では1981年から東急のステンレス車の導入が始まり、十鉄電化以来の生え抜きモハ2400や定山渓から来たモハ1207が廃車になった。しかし、2002年に全車東急車の置き換えが完了したのちも、このモハ3401だけはオリジナル塗装のまま、もう一両のモハ3603とともにイベント用として残っている。
ただ、十鉄は存続の危機に立っている。昨年の年間利用者は45万人で、10年前から24万人減少した。少子化、沿線人口の減少に加え、東北新幹線の全通による客離れが大きなダメージとなった。近くの新幹線七戸十和田駅から十和田湖などの観光地へバス路線が整備され、同駅と連絡しない十鉄は、いっそう取り残される結果となった。沿線自治体に財政支援を求めているが、財政難の折、難色を示していると報道されている。

南部縦貫に振られた野辺地駅では、つぎの列車まで発着する列車を撮るしかない。やがてED75に牽かれた下り「ゆうづる」が通過する。「ゆうづる」は3往復あったが、2往復は583系、残り1往復のみが20系客車で、いわばC62「ゆうづる」の血統を受け継いだ伝統の列車だった。この時代、東北本線の牽引はすべてED75、ブルトレは20系、そしてヘッドマークは付いていない。あまり興味の湧かない時代であった。

訪れた昭和46年2月、札幌では冬季オリンピックが行われていた。これに合わせて、観客輸送のため、札幌~函館間、青森~上野間に臨時特急「オリンピア」が運転された。函館~札幌間は82系DCで、上野~青森間は写真の583系で、下りは常磐線経由の夜行、写真の上りは東北線経由の昼行だった。「オリンピア」と言えば、東京オリンピックの際に運転された151系が有名だが、札幌オリンピックでも、期間中の18日間だけ運転された。ただ、北海道への移動は航空機が常識になりつつあり、設定も急だったため告知が十分でなく、利用率は散々だったようだ。まぁ、この列車が撮れただけで、南部縦貫の代償にはなった。

ユースで巡った鉄道旅 -14-

気がつくと、すっかり涼しくなりました。当方、暑い期間は想定外の業務が飛び込み、掲示板では全く役立たずの状態が続いていました。ようやく落ち着きましたので、復帰することにします。
まずは、ユースシリーズから参りましょう。
前回からの東北の続きとして、今回は、向山駅近くのグリーンユースを紹介します。向山と言っても、ピンと来ない駅ですが、東北本線は、三沢のひとつ下り方にある小駅で、今では青い森鉄道の駅になっています。このユースは、当会のI原さんから”ぜひ泊まれ”と勧められたことが発端だったように思います。その勧めた真意はついぞ聞き漏らしましたが、駅からすぐ近くの牧場の横に建つユースは、冬期とあって宿泊客も少なく、居心地のいいユースだった印象が残っています。寝ている最中に強い地震があり、飛び起きたことも覚えています。付近に観光地もなく、その後は廃止されたと思っていたら、名前を改めて今でも営業中と分かりました。
このユースに泊まった目的は、八戸線の撮影と、南部縦貫鉄道の撮影でしたが…。

青森駅でステーションホテルをして、早朝の八戸に着いた。東北本線から八戸線を分岐するこの駅は、訪問の前年、昭和46年4月に尻内から八戸に改称されたばかりで、それまでは、現在の本八戸が八戸と称していた。尻内と言えば、東北本線蒸機時代、勾配区間の補助機関車の基地として名を馳せていた。〔尻〕の区名板が、その役割にうまくはまっていた。八戸改め本八戸まで行き、跨線橋を渡ると、ちょうどC58の牽く八戸線の貨物列車が発車したところだった。踏切が開くと、寒そうに白い息を吐いた人々が通り過ぎて行った。

八戸線では、C58の牽く客車列車が朝に1往復設定されていた。一戸発1627列車と野辺地発534列車が八戸で併結されて鮫まで行く列車で、鮫ですぐ折り返し、C58のバック運転で、八戸へ戻る運用だった。東北本線から乗り換えなしで本八戸、鮫への通勤・通学輸送を目的とした設定のようだが、東北本線が第三セクター化された後も、なぜか一戸発鮫行き列車がそのまま残っていた。IGR、青い森、JRと、3社にまたがる珍しい列車だった。本八戸で降りて、近くの馬淵川鉄橋で、この客レを迎える。晴れてはいるが、とにかく風邪がきつかったことだけは覚えている。

本八戸で撮影したのち、終点の久慈まで向かうと、途中から雪模様になった。乗った631Dは、キハ17270+キハ17253+キハ17250の3連、あの蛙の腹のようなビニールシートは冬にはこたえた。この頃のローカル線気動車は、多形式の混結が常であったが、八戸線は、一部にキハ22が使われていたものの、あとは見事なくらいにキハ17に統一されていた。これはこれで編成美があった。

種市での到着風景、乗り込む老婦人の見事なまでの同一ファッションには驚く。他の地域ではまず見られない、東北ならではの光景だ。この時代、旅行していると、生活、文化、経済すべてに渡って、東北は後進地域だと実感できるシーンがよく見られた。他ではもう見られなかった、板垣退助の百円札が堂々と通用していたのも東北だった(もっとも、東京でも上野駅だけは百円札が使われていたのには、さすがと思ったものだ)。

いっぽう貨物列車は、八戸区のC58でかなりの本数が設定されていた。陸奥湊で降りて、近くの新井田川鉄橋で待ち構える。河口に近い、この付近にも東日本大震災の際には、津波が押し寄せたが、橋梁流失までには至らなかった。ただ、種市以南は鉄橋流失などにより現在も不通で、再開は来年度以降とアナウンスされている。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part23  河南省建材廠、平庄煤礦鉄路、阜新煤礦鉄路、天津路面電車、京滬線のまとめ

今回も中国に残された現役蒸気機関車を訪ねて、河南省建材廠平庄煤礦鉄路阜新煤礦鉄路と初めての地方鉄路を訪問しました。また天津にかつて走った路面電車を調べてみましたが、日本統治化後の路線図が入手できていません。心残りです。日本で見つけるのは困難なようですので、次回に天津に立ち寄った時に探して見ます。
地方鉄路訪問では撮影仲間に恵まれて、いずれも初回にしましてはまずまずの成果でしたが、中国の蒸気機関車は石炭の質が良いのか日本の蒸気機関車と違って黒煙と白煙のミックスがなく、白煙が多いようです。ということは、やはり冬場でないと迫力ある写真が撮れません。今年の冬にまた訪問しなければなりません。
次回は、三道連近くにまだ煙の上がる地方鉄道があると聞きましたので、白銀と合わせて行こうと計画しております。

【紀行記の目次とリンク先】 下記をクリックしていただければ、各紀行記をご覧いただけます。
Part1  第1日目  旅立ち

Part2  第2日目  河南省建材廠を走るC2型 その1
Part3  第2日目  河南省建材廠を走るC2型 その2
Part4  第3日目  河南省建材廠を走るC2型 その3
Part5  第4日目  河南省建材廠を走るC2型 その4
Part6  第5日目  河南省建材廠を走るC2型 その5
Part7  第6日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その1
Part8  第6日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その2
Part9  第7日目  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その3
Part10  第8日目  平庄煤礦鉄路から阜新煤礦鉄路
Part11  第9日目  阜新煤礦鉄路 その1
Part12  第9日目  阜新煤礦鉄路 その2
Part13  第10日目   阜新煤礦鉄路 その3
Part14  第11日目   阜新煤礦鉄路 その4  時刻表、路線図
Part15  第11日目   阜新煤礦鉄路 その5
Part16    第11日目   阜新から北京へ 2106次乗車
Part17  第12日目   中国鉄道博物館正陽門館(正阳门馆)
Part18  第13日目   天津軽軌、地铁9号線 十一経路まで延伸
Part19  第14日目   天津の路面電車(疎開地時代)、天津博物館
Part20  第14日目   中国最初の鉄道 唐胥鉄路、天津博物館
Part21  第14日目   京滬線高速化の歴史 その1
Part22  第15日目 京滬線高速化の歴史 その2

建設型蒸気、RZ24・RW24型客車 上海に静態保存展示される!

次のぶんしゅう旅日記は初めてのアフリカです。『エリトリア 未開の大地への鉄道の旅』をご覧ください。よろしくお願い申し上げます。

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part22 京滬線高速化の歴史 その2

15日目 6月1

①  北京南2121D321次)→7:15上海虹橋
② 上海虹桥9:00(G7305次)→9:45杭州
③ 杭州13:00(G7314次)→13:45上海虹桥

今回の帰国便も上海浦東空港から関空へのフライト。時間が十分ありましたので、杭州への355km/h走行をまた味わいたいと往復です。
往路はCRH380Aで存分に高速走行に満足しましたが、復路は
京沪高速鉄路に使用されるCRH380BLが試運転を兼ねての運用でしたので、最高速度も300km/hに抑えられて晩点(延着)になりました。定期列車に試運転とはいかのも中国鉄路です。注目の商務車(ビジネスシートはシートカバーが付けられ前後の車両も立ち入り出来ませんでした。

上海に戻ってからはまだ時間もありましたので、地铁に乗車して展示されていると聞いた建設型を見学に行きました。訪問記は、速報として投稿済みです。こちらをご覧ください。

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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part21   京滬線高速化の歴史 その1

14日目 5月31

① 天津 1500C2044次)→15:30北京南

北京南2121D321次)→7:15上海虹橋

京滬高速鉄道の開業は開業は、6月中旬と昨年12月に発表した鉄道大臣は汚職で解任され、南京南站完成が遅れていたため、この時期まだ未発表状態が続いていました。開通によって、在来線の列車本数の激減は必死で、昼間の列車は壊滅、夜行もほぼなくなるとの情報を得ていましたので、開業前に何回も乗車した夜行電車寝台に最後に乗っておきたいと北京に戻って上海へと向かいました。

▲ この時間になりますと、高速列車専用駅の北京南駅からは上海方面に向けて5分ヘッドで夜行列車が発車していきます。D300番台の列車はすべて動車(電車)寝台で、ボンバルディア社からのCRH1と「はやて」CRH2の寝台車設計変更タイプEの2種類が運用されていました。
上海虹橋駅開業までは、上海駅まで乗り入れていましたが開業後は、すべて上海虹駅となりました。客車寝台も特快2本と普通が1本ありますが、こちらは北京発上海着と分けられていました。

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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part20   中国最初の鉄道 唐胥鉄路、天津博物館

天津路面電車については、コメントに追加しましたように路線図が疎開地時代であり、その後に延伸等があったことが未調査でした。漏れがありまして、大変失礼をしました。まだ何か出てきそうですので、再度中国語サイトでの歴史を調べなおしておりますが、真偽性を確認出来るのに手間取っております。もう少し時間をいただきたくよろしくお願いします。

第14日目 5月31日

中国鉄路の歴史は、Part18の中国鉄道博物館正陽門館また2009年の上海鉄路博物館訪問記で、ご紹介させていただきましたが、最初の路線の天津にはもっと詳しい資料展示があるのではないかと期待して天津博物館を訪問しました。

まず目に入ったのは、中国最初の鉄道として河北省に開業した唐胥鉄路を走ったと表示されています、その名もロバート・スチーブンスが設計したロケット号にちなんで名づけられた、「ROKET of CHINA」号(中文では中国火箭号)の展示用の複製です。

この蒸気機関車は動輪数が当時の写真と違っているように見えますが、・・・・。最高速度は、32km/hです。

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