北のC62 全記録 〈15〉

年が明けても、いっこうに雪が降りませんね。今冬は雪を一度も見ることなく終わりそうです。せめて“デジ青”誌上で雪を楽しみたいと、「北のC62」を再開します。

いままで、2回訪れた北海道で、C62重連の列車を撮った記録を載せました。

〈1〉~〈8〉  昭和43年8・9月 C62「ていね」時代

〈9〉~〈14〉昭和44年8・9月 C62「ニセコ」時代

今回は、昭和46年3月、この年の10月改正で予定されているDL化を前にした、最後の雪の中の記録です。

“雪を咬んでる~”と四人で喝采した、初めての雪中撮影 蘭越~目名 上り「ニセコ1号」

つぎの改正で“消える消える”と噂されながら、何とか持ちこたえてきたC62重連も、いよいよ昭和46年10月改正でDD51に置き換えられることが決定的になり、昭和46年3月、三たびの渡道となりました。今までの夏ではなく、C62を雪中で撮る最初で最後のチャンス、雪煙に包まれて驀進するC62を想像するだけで胸の高まりを感じます。前2回は、適宜DRFCの仲間と途中で合流するスタイルでしたが、今回は、最初からT君との二人旅で、北海道に入ってからは、西村さんとMさんも加わった4人旅となりました。

続きを読む

 廃駅をめぐる  【3】

阪神高速尼崎料金所の真下にあった尼崎港駅、そのルーツは、馬車鉄道に行き着くという古い歴史を持っていたが、昭和56年4月に旅客営業を廃止し、路線も昭和59年2月限りで廃止となった(以下、昭和56年3月22日撮影)。

続いて同じ兵庫県下の廃駅、尼崎港駅です。福知山線の支線となる、通称「尼崎港線」塚口~尼崎港の終点にありました。尼崎港線は、一日2往復、朝夕のみ旅客運転の線として有名でした。旅客営業は昭和56年4月に終えて、その後も手小荷物・貨物の営業を続けていましたが、昭和59年2月に廃止となり、尼崎港線の歴史を閉じました。

続きを読む

 廃駅をめぐる  【2】

先の高砂線と同じ日に、三木線も訪れていましたので、続いて載せることにします。三木線も、同じ播州鉄道による開業で、大正5年に厄神~別所が開業、翌年には三木まで伸びて、厄神~三木6.8キロが全通しました。大正12年には播丹鉄道となり、昭和18年には、国鉄に買収されるという、高砂線と同じ出自をたどりました。当初は美嚢川の船運に代わる貨物輸送が目的と言われ、神戸へ向かう人の流れとは逆の方向のため、終始、乗降は望めなかったようです。その後、三木線は第一次特定地方交通線に指定され、昭和60年4月に、国鉄としては廃止となり、同日から第三セクターの三木鉄道に転換しました。地交線の転換の三セクのなかでは、最小の営業キロを、最初は2両のDCで回していましたが、その三木鉄道も平成20年4月に廃止されました。三木線の終点、三木駅の全景、側線はあったものの、草に埋もれていた。左手の貨物ホームも線路は撤去されて、トラツクが出入りしていた。

続きを読む

 廃駅をめぐる  【1】

高齢者が何を血迷ったかJR線乗りつぶしを目指すようになりましたが、外出する気力もめっきり減退し、生存中の達成もおぼつかなくなりました。今ごろになって、この思いに至ったのは、廃止された線区に乗らずじまいに終わったことが心の底に残っているからです。昭和の時代、国鉄の「いい旅チャレンジ20000キロ」のキャンペーンにも乗らず、また昭和58年から始まった特定地方交通線の廃止時は、仕事も家庭も忙しい時期で行けるような環境ではなく、廃線ブームに乗じることもできませんでした。ただ、それでも長い趣味活動の間には、特段、乗車目的で訪問したわけでもなく、結果的に廃止されてしまった“廃線”“廃駅”をいくつか記録しました。廃止駅となると、線区そのものが廃止のケースと、線路改良や乗降数減少などの理由で駅のみが廃止のケースがありますが、今シリーズは、その両方を、“廃駅”として見ていきます。

高砂駅の全景、大正3年に播州鉄道の駅として開業した。ホーム一面の駅で、数本の側線があった(以下、すべて昭和59年10月27日撮影)

高砂線は、第一次地方交通線に指定され、昭和59年12月に、加古川~高砂6.5キロが廃止になり、神姫バスに転換している。その歴史を探ると、播州鉄道が大正2年に高砂線の前身となる加古川~高砂口(のちの尾上)を開業、のちに延長された。播州鉄道は、播丹鉄道に譲渡され、昭和18年に国鉄に買収されて、高砂線となっている。
国鉄高砂工場が高砂の手前にあって、出入場には高砂線が使われていたので、高砂線は安泰かと思われていたが、工場そのものが廃止になり、高砂線もあっさり廃止になった。地元の高砂市でも、第三セクターとしての存続を模索するが、加古川市が難色を示し、結局、鉄道としての存続は叶わなかったとされる。

続きを読む

 思い出の 京都雪景色 【4】

山崎で撮る、雪を載せた列車

昨日は、会社時代の仲間と、愛宕山へ新春登山に行きましたが、雪はありません。例年なら、雪の少ない季節でも、頂上付近では積雪が見られましたが、全く見られないのは、改めて暖冬ぶりをひしひしと感じます。さて、つぎは、近くで写した国鉄・JRの列車です。阪急京都線と同様で、東海道本線も山崎に近づくと、積雪量は、京都市街地より、やや増えることが多く、近くでもあり、雪が降るたびに何度か撮影に行きました。普段なら、自転車で行くところですが、安全を期してバス、徒歩で出掛けました。
雪の山崎で見る列車のなかでも、やはり北陸方面から来る列車は雪の付着具合が違う。前面に雪をたっぷり、こびりつかせたEF81のコンテナ貨物が通り過ぎる(平成6年2月)。

続きを読む

 思い出の 京都雪景色 【3】

阪急電車編

つぎは、阪急へ参ります。京都線は、西山に沿って走りますから、京阪と比べると、雪が降ることが多かったように思います。家からすぐ駆けつけられることもあって、以前は毎年、写していた記憶がありますが、この数年は出動することもなく、これを見ても暖冬を感じます。通勤で利用していた時、大阪方面に乗ると、大山崎までは一面真っ白なのに、JRを潜って大山崎のホームを通過すると、とたんに雪は無く、晴天のなかを走ったことを何度か経験しています。やはり、天王山が気象の上でも分け目になっていることを感じたものでした。
その大山崎、この日ばかりは、もの凄い雪だった。ダイヤどおりなら、大山崎のホームでは見ることができない特急同士の交換シーンが実現した(以下、2008年2月9日)。

続きを読む

 思い出の 京都雪景色 【2】

京阪地上線 最後の雪
京阪は、京都市内の南部を縦断しているだけに、雪は降ることはあっても、積雪することは滅多にありません。それだけに、昭和62年3月のこの日ことは、よく覚えています。土曜日で仕事も休み、午前中は曇り空で、とくに何も無かったのに、午後になって、急に雪雲が広がり、雪が舞ってきました。止む気配もなく、たちまち家の周りも積雪しました。こうなると、行く先は決まっていました。あと二ヵ月後には、地下に潜ってしまって、永遠に雪景色など見られない、京阪の地上線でした。
前面を白く化粧して、鴨川沿いを行く三条行き特急。五条駅の仮ホームから撮影、五条の下りホームは、地下線工事中は五条通南方に仮ホームができて、その端部から、鴨川バックの撮影ができた(以下、昭和62年3月7日)。

続きを読む

 思い出の 京都雪景色 【1】

京都市電編

暖冬で明けた2020年、京都でも雪の降る気配は全くありません。四条大橋から見ると、北山の連山には少し雪が見えましたが、いつもは冠雪している愛宕山や比叡山にも雪はありません。京都市内では、叡電沿いならさすがに積雪も多かったものの、市街地では、積雪するのは年に一、二回でしたが、“寒波が到来、明日は朝から雪”と天気予報を聞くと、もうワクワクして、翌朝に起きると、果たして外は真っ白、勇んでカメラを持って外へ出掛けたものでした。それも今となっては懐かしい気持ちです。今回は、もう思い出になろうとしている(?)京都の市街地での積雪シーンを集めてみました。

京都に市電があった時代、まだ雪は多く降った。家庭裁判所前の葵橋を渡って行く、雪の日の河原町線。

続きを読む

 新春の阪堺線で 新発見ふたつ

正月三が日も過ぎましたが、まずは、“デジ青”読者の皆さま、本年もよろしくお願いいたします。正月は、恒例の阪堺線もうでに行って来ました。電車は大増発、カメラを持った人間も多く、馴染みのファンとの出会いも正月の阪堺線ならでは。たしかKAWANAKAさんも車内から見たような‥‥。毎年のように行っているため、住吉鳥居前での撮影はサクッと済ませて、一日乗車券で、各所で降りて路面電車の旅を楽しんできました。昨年も書いたことですが、老いも若きも、金持ちもそうでない人も、みんな平等に電車に乗っています。改めて、鉄道ってエエなぁと思ってしまいます。今年のレポートは、世の中では先刻承知のことですが、私としては、初見参の二件について載せます。

4両残っている161形も大活躍、こうなったら製造100年目まで走り続けてほしい。

続きを読む

 「B」の時代 ⑤

私が夜間撮影を始めるきっかけになった鉄道雑誌の記事がありました。それが「鉄道ファン」1967年5月掲載の「夜も楽しく」の鉄道写真随想です。それまでにも鉄道の夜間撮影の手法はありましたが、撮影法が公開された指南書は、これが初めてでした。“よるたの”の言葉も生まれ、「夜は夜なりに、昼間は気にも留めなかったものが見えてきて、何か背中がゾクゾクするような興奮が呼び起こされます。冷たい水銀灯の光、黒天に消える白い蒸気、露で光る枕木、そして鈍く光る機関車」などの表現に、いたく感激し、さっそく京都市内へ出掛けて、祇園や東寺前で、市電をバルブ撮影したことがありました。ちょうど高校3年生の時でした。その著者が、なんとデジ青にコメントもいただくMさんで、改めてデジ青を取り巻く繋がりを感じました。

蒸機ばかりではと思い、つぎは、電機の夜間撮影も載せてみた。やはり、デッキつき旧型電機のほうが、夜間の光線に陰影ができて、近代的な電機よりも、ふさわしい。上越線で貨物を牽くEF1630、発車前のひと時を運転士のシルエットも入れて撮ってみた。新津機関区(昭和46年9月)。

 

 

続きを読む

 「B」の時代 ④

「利尻」を撮る

つぎは、機関区での止まり撮影ではなく、列車の「B(バルブ)」撮影例を、北海道の夜行で見てみました。優等列車と言えども、夜行列車は停車時間が長いものです。眠いのをガマンして、この停車時間を利用して、カメラと三脚を担いで、ホームに下りて、列車をよく写したものです。以下は、宗谷本線を走ったC55時代の「利尻」です(昭和44年9月)。
この日は、DRFCの仲間と、豊富で日曹炭砿の96を撮り、上り「利尻」に乗り込んだ。牽引はC55とあれば、そのまま寝付く訳にもいかず、駅に停車するたびにホームに飛び降りて「B」撮影を行なった。写真は、幌延に停車中の「利尻」、手帳を見ると、露出は定番の絞り8、30秒となっていた。

続きを読む

 嵯峨野トロッコの“ナメクジ” 解体へ

京都市の嵯峨野観光鉄道トロッコ嵯峨駅構内に保存展示されていたナメクジ、D5151が解体されることになり、最後の姿を見るため、年末恒例の“近所鉄”として行ってきました。2004年に京阪樟葉駅前くずはモールの保存展示場所から移ってきて、トロッコ嵯峨駅の19世紀ホール前で展示され、訪れる観光客に親しまれてきましたが、屋根なしの野外に展示されてから50年近く経ち、老朽化のため解体されることになりました。年内のトロッコ列車の運転日は、本日が最終日で、近くで見られるのは最後となり、年明け早々に解体に掛かると言うことです。

“保存車両”と言えば、永遠不滅と思いがちですが、種々の理由で存亡の危機に瀕する例は、最近よく耳にします。京都でも、加悦のSL広場の2020年春の閉園が決定し、貴重な車両27両の行く末が案じられています。トロッコ嵯峨も、加悦も、クローバー会のイベントで見学しただけに、消滅の危機に接すると、ひとしおの思いです。

嵯峨野観光鉄道トロッコ嵯峨駅構内の保存機のナメクジD5151。D51のうち初期機のナメクジは95両製造されたが、案外保存が多く、そのうち、約20両が保存されているが、形式と製造番号が同じ5151は、他形式でもあまり例が無いだけに貴重な存在だった。

続きを読む

 「B」の時代 ③

五稜郭の巨体

つぎの「B」も機関区での撮影、北海道は五稜郭機関区へと参ります。青函連絡船で函館に着くと、そのまま列車に乗り換えて、大沼やヤマ線へ行ってしまい、函館で時間を掛けて写すことはありませんでした。そこで、最後の訪問時の帰途、連絡船をひと便遅らせて五稜郭機関区へ行き、最後の函館を記録することにしました。この時代、すでにC62は見られませんでしたが、その改造機体となったD52は健在で、函館本線の貨物列車を牽いていて、その巨体を写すのには、格好の場所でした。(昭和47年3月)。蒸機を斜め後から低い位置で仰ぎ見る角度の迫力のあること、前回の宮崎区のC5789でも感じた。五稜郭機関区でも、D52ラストナンバーの468号機を同じような撮り方をしていることが分かった。太いボイラーに、不釣り合いな小さな動輪、これぞD52の魅力でもある。

続きを読む

 「B」の時代 ②

南九州、夜の機関区

B(バルブ)の時代、つぎは九州の機関区で見た夜景です。夜間撮影の場合、それが目的というより、夜行列車に乗るまでの時間つぶしに、機関区へ行くことが多かったのが実情と言えます。九州ですと、宮崎、鹿児島、人吉、吉松など、夜行列車が発着する駅の機関区へよく行ったものでした。駅で写すよりも、乗客に邪魔もされず、一人で落ち着いて気ままに写したものでした。
以前の本欄でも紹介した宮崎機関区。機関区は駅に隣接した、ラウンドハウスも無い狭くて細長い構内だった。ガントリークレーンのある大型の給炭設備も無く、ハンプ状の給炭線に石炭車で運び、ベルトコンベアに石炭を載せて、給炭していた。狭い分、光線もうまく回っていて、印象的に撮れた(昭和46年12月)。

続きを読む

 「B」の時代 ①

手ノ子の96

ことし、何度か写真展・展示会を行い、来場された方と鉄道写真について話をする機会がありました。そのなかで、撮影方法について聞かれることもありました。たとえば、つぎのような写真、11月に京阪七条駅近くのカフェギャラリーの「東北の鉄路 全盛時代を偲ぶ」に展示した写真ですが、長時間露光の夜間撮影についてです。今でも夜間撮影をすることはありますが、高感度デジカメで撮れるとあっては、いまや三脚なし、手持ち撮影が常識になりました。しかしフィルム時代、感度は低く、増感現像という手段はあったものの、粒子が荒れます。そこで三脚に据えて、30秒とか1分間露光をするバルブ(B)撮影が、夜間撮影のスタンダードでした。蒸機の場合、煙が流れたり、ライトが光跡になったり、長時間露光ならではの意外性がありました。いわばアナログならではの撮影方法が、デジタルの時代、かえって新鮮な表現に映るのかと思った次第です。このように、長時間露光で撮った写真のいくつかを紹介していきましょう。
米坂線の手ノ子駅に停車する、168レを牽く29622を撮ったもの。安全弁から噴き上げる蒸気が、長時間露光でまっすぐに上がっている。蒸機に当たる光線だけでは弱いので、周囲にある、信号や室内照明の光源をうまく入れるのがポイントだ。何点か撮っているが、手帳を見ると「ALL F.8 30S」と書いていて、絞り8、シャッター30秒で撮っていた(昭和47年2月10日)。

続きを読む

 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【29】 初冬編

立野を中心に、豊肥本線、高森線を撮る

今回は九州の中央部、豊肥本線・高森線(現・南阿蘇鉄道)の初冬の風景です。両線が交わる立野の前後には、大規模なスイッチバックがあったり、高い橋梁が存在します。昭和40年代、蒸機の牽く客貨列車も多くあって、よく訪れていました。ところが、両線とも2016年4月の熊本地震で、大きな被害がありました。その後に各地で発生した災害に隠れ勝ちですが、復旧作業が遅々としていて、現在でも不通が続いています。
今回のカラーは、昭和46年12月、同47年11月を合わせたものです。豊肥本線は、立野を出発すると、三段式のスイッチバックで、阿蘇の外輪山をよじ登って行く。スルーできない、文字通りのスイッチバック式だが、その赤水寄りにも、好適なカーブが続いている。列車は1794レで、立野で停車時間があるため、まず到着前を撮って、駅で停車中を押さえる。そして、外輪山の方向へ直登して、スイッチバック付近のカーブ地点に着き、朝陽を受けた96の勇姿をとらえた。

続きを読む

 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【28】 初冬編

名勝、大畑へ

昭和46年初冬の南九州、つぎは大畑へ向かいました。大畑を含む吉松~人吉の矢岳越えは、それまでも列車で何度か通りましたが、下車しての撮影は、この時が初めてでした。日本三大車窓の絶景地であり、33‰勾配、スイッチバックとループ線、重装備のD51に混合列車と、魅力が大盛りの区間でした。いままでは、夜行鈍行の1121列車で大畑を通ることが多かったのですが、この1121レから撮るためには、現地泊しか手はなく、奮発して人吉の国民宿舎に一人で泊まりました。大畑では、食糧調達の術はなく、朝食、昼食用のおにぎりを宿舎で作ってもらい、薄暗い人吉の駅を出て、一番列車841レで大畑へ向かいました。大畑には7時14分着、841レの発車を見送ったあと、ループ線を見下ろす、撮影地へ向かった。朝露でズクズクになりながら着いた。天気さえ良ければ、霧島連山まで、キレイに見渡せる場所だ。まもなくループ線を一周して、1121レがやって来た。1121レは、門司港発鹿児島本線経由の都城行き夜行。九州へ行けば何度も愛用した列車で、客車6両と、大畑では唯一の本格的な客車編成だった。

続きを読む

 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【27】 初冬編

12月の南九州でC61を撮る

再び“天然色”シリーズに戻って、初冬編に参ります。昭和46年12月、この時期としては初めて九州へ向かいました。それまで長期間の旅行は、休みの多い春・夏限定でしたが、均一周遊券を使った初冬の旅行となりました。秋の旅行シーズンが終わり、年末年始のピークまでの空白期となる12月上・中旬は、列車も観光地も宿泊先もホントによく空いていることを実感しました。今なら、ライトアップなどの催事もありますが、当時はそんなチャラチャラしたイベントもありません。とくに有り難いのは、当時、常宿としていたユースホステルの予約でした。予約は、ハンドブックで宿泊先を選び、往復はがきで申し込みますが、到着までに一週間近く掛かります。満室だと、またプランを練り直し、再度、一週間後の結果待ちと、今から考えると、たいへん手間と時間の掛かる申し込みでしたが、予約なしで飛び込みもOKだったのが、この時期でした。夜行列車も空いていて、1BOXを一人で占拠して、ゆっくり熟睡したのでした。
お馴染み、朝の大淀川を渡るC57の牽く539レ。まだ川沿いのフェニックス並木も健在だった。原版は、すっかり褪色していたが、色温度を上げてやるだけで、簡単に朝のイメージにすることができた(1971年12月)。

続きを読む

 個人・グループでも頑張っています! 〈7〉

二日間だけの「上京区電車物語」終了

12月7日・8日に開催しました「上京区電車物語」も、滞りなく終了することができました。土日の区役所の4階の奥という、外部からは全く伺い知れない会場でしたが、両日あわせて約200名の方が来場され、クローバー会の皆さん、デジ青読者の皆さんにも多く来ていただきました。改めて御礼申し上げます。一緒に運営に当たった皆さんの協力のもと、わずか二日間だけでは、もったいない(?)ほどのテンコ盛りの展示ができ、皆さんには、ひととき楽しんでいただけたかなと思っています。上京区総合庁舎の4階で開かれた「上京区電車物語」。屋上庭園を望む明るい会場は、左手は歴史・写真コーナー、右手は模型走行・グッズ展示・工作教室、奥はトークショー会場となった。朝から多くの市民が来場され、あちこちで話の輪ができた。

続きを読む

 個人・グループでも頑張っています! 〈6〉

二日間限定の展示会

報告するのが会期前日になってしまいましたが、明日・明後日の二日間だけ、ことし最後の展示会を行ないます。

  京都市上京区まちづくり活動支援事業

  「上京区電車物語~最古の区を走った最初の電車~」

  12月7日(土)・8日(日)10~16時

  上京区総合庁舎(上京区役所)4階ホール

  地下鉄「今出川」下車西へ5分、または市バス「上京区総合庁舎前」下車

同志社大学も所在する京都市上京区は、ことし区ができてから140周年を迎えます。これを記念して、区では市民主体の文化活動を応援する制度をつくり、私が以前に住んでいた学区では、上京区と鉄道との関わりを研究テーマに選び、区から認定を受けました。学区の元会長をしていた私の知人から、相談を受け、同じ学区出身の勘秀峰さん、また“伏見チンチン電車の会”の皆さんとともに協力して、この二日間のイベントを立ち上げました。

告知のポスター、上京区内には、標準軌の市電だけでなく、昭和36年までは、狭軌の北野線も走っていた。さらに、あまり知られていない嵐電北野線が、いまの北野天満宮近くまで来ていた時代の貴重な写真など、多くの皆さんの協力で、展示が実現できた。ペーパークラフトの工作教室、8分の1のN電模型の走行、N電運転台の実物大モックアップなど、興味深いものがいっぱいです。

続きを読む