やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑪

行橋機関区(2) C50  C11

行橋機関区には、名物の蒸機C50がいました。九州では唯一の配置区でした。C50と言えば、8620の改良型として、154両が製造されました。C50と聞いてイメージするのは、東海道・山陽筋の駅で、煙室をトラ模様に塗って、懸命に入換に励む姿でした。関東なら、両毛線、水戸線で旅客列車ほ牽く姿も見られましたが、関西の人間にとっては、地味で目立たず、裏方に徹した蒸機という印象でした。ところが、さすがは九州、美しく整備され、ちゃんと表舞台も用意されていました。前掲のように、日豊本線の初電化は、昭和41年10月の新田原までの電化ですが、電化区間が短区間のため、通しの客貨列車は蒸機が牽いていました。そのなかで、門司港14時22分発の柳ヶ浦行き1529レを通しで牽いていたのが、行橋区のC50でした。門司港~柳ヶ浦80kmを単機で客車6両を牽き、C57、D51に伍して本線上を堂々と走ったのですから、入換機イメージのC50とは、全く違う姿を見せていました。架線の下を発車する門司港発柳ヶ浦行き1529レ、行橋区の名物、デフに飾りを入れたC50 58が牽引していた。行橋 昭和42年3月行橋にはC11もいて、田川・伊田線の旅客列車を牽いた。C11 300の牽く329レ  直方  昭和43年3月

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑩ 

行橋機関区(1) 9600

筑豊の蒸機機関区の最後として、行橋機関区に参ります。行橋は、日豊本線から田川線の分岐する駅で、初めて行った昭和42年3月当時、日豊本線は、新田原まで電化していて、旅客はほぼ421系電車化されていました。しかし、一部の客車列車は、電機の製造が追いつかず、蒸機牽引で残っていました。貨物も同様で、門司、柳ヶ浦区の蒸機が、架線の下を黒煙を上げながら走る光景が見られました。いっぽうの田川線は、ほかの筑豊に多く見られる支線ですが、日豊本線苅田から分岐する苅田港(貨物専用)からの石炭・石灰岩の船積み搬出ルートの一翼を担っていました。苅田港の設備は、ほかの若松などの積出し設備に比べて新しく、徐々に扱い量が増加し、田川線は重用されていました。田川線油須原からは、添田方面に出る短絡線の油須原新線も建設中で、将来が嘱望されていました。石炭がの末路が予測されている時代に新線建設とは、今から見れば不可思議なことですが、まだ一定量の輸送はあった時代でした。しかしその数年後、石炭産出はさらに激減し、新線建設も未成線のまま終わります。そんなエネルギー革命の波に翻弄されてきた田川線で、ほぼ独占して客貨を牽いていたのが、行橋区のキュウロクで、「行」の区名板に相応しく、懸命に我が道を進む姿を彷彿させたものです。化粧煙突、切取式デフを装備した、筑豊のキュウロクの典型59684 お世辞にもスタイル映えのしないキュウロクであっても、ロッドを下げた姿は、形式写真としての価値を高めていた。行橋 昭和43年3月行橋のキュウロクは昭和43年3月時点で11両いた。沿線の至るところで見ることができて、筑豊の人びとの生活の中に当たり前のように溶け込んでいた。79657 船尾 昭和49年8月

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑨

後藤寺機関区

後藤寺は、前稿で、おとりんさんが訪ねた日田彦山線の途中にあった駅で、ここから後藤寺線、糸田線が分岐していました。当時の鉄道路線図を見ても、密集した筑豊の路線網の中央部にあっただけに、石炭一色のような駅で、また近くの香春岳などから産出される石灰岩輸送の中継地でもありました。筑豊の“裏口”のような、ディープさの伝わる駅で、まさに「後」の持つ区名板がぴったりの雰囲気を持っていました。配置されていた蒸機は、言うまでもなくキュウロクで、あとは支線区で旅客列車を牽いていたC11が配属されていました。扇形庫もない、小規模な機関区でしたが、直方からは、蒸機が無くなったあとも存続し、行橋区とともに昭和49年まで蒸機の配置があり、筑豊最後の蒸機として、社会人になってからも何度か行くことが出来ました。

先般、たまたま後藤寺を40数年ぶりに訪ねる機会がありました。いまは「田川後藤寺」と市名を冠した駅名に改称され、JR日田彦山線、後藤寺線と、平成筑豊鉄道糸田線が分岐しています。もちろん機関区は、跡形も無くなって、当時は晴れていてもドス黒い煙に空が覆われていたのが、何とも青空のまぶしい駅前になっていました。

後藤寺~起行の中元寺川鉄橋の前後には20‰勾配があり、手近な撮影地となっていた。船尾からで産出されるセメントの輸送もあって、多くの蒸機列車があった。ただ訪れたのは真夏のカンカン照りで、貨物量も少なく、スカスカの煙だった。機号不明(昭和49年8月)後藤寺機関区は、木造3線の矩形庫のコンパクトな構内で、模型を見るような雰囲気だった。給炭はクレーンを使っていた。29692は行橋区の所属。(以下、特記以外は昭和43年3月)

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機  ⑧

直方機関区(3) D51 D50 C11

直方と言えばD60の活躍がすぐ思い浮かびますが、その脇を固める蒸機もいました。それが、D51であり、D50、C11でした。他の線区では主役であるべき最大両数を誇るD51が脇役に過ぎないのも筑豊の凄さでした。昭和42年3月時点では、D60の11両に対して、D51は4両で、両者の勢力はその後もほとんど変わらず、DL化を迎えることになります。直方では少数派だったD51だが、その特徴は半流線型のナメクジが多かったこと。筑豊の“山科大カーブ”で旅客列車を牽く姿は、黒光りするボイラーを輝かせて、当時はどこでも見掛けたD51とはひと味違っていた。中間~筑前垣生 (以下、特記以外は昭和43年3月)

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑦

直方機関区(2)  D60

直方機関区で代表となる蒸機は、やはりD60でしょう。筑豊本線、支線の上山田線などで貨物列車の先頭に立ち、黒崎経由で、鹿児島本線の小倉、門司港へ向かう旅客列車などもD60が牽いていました。昭和43年3月現在、直方区には11両のD60が配置され、しばらく推移しますが、昭和46年には19両に増加します。これは、若松区のD50が廃車され、その代替として、久大本線の無煙化で大分からD60が筑豊本線に転属、若松の配置ではなく、直方区の配置になったことが要因です。「直」の区名イメージどおり、黙々と実直に働き続けたD60ですが、イヤッと言うほど撮影をしました。今回は、番号順に並べて見ていただきます。直方を発車するD60 27+D60 26の重連貨物。冷水峠を越える貨物列車は、直方からD60重連になることが多かった(特記以外、以下昭和43年3月)

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑥

直方機関区(1) 

筑豊の中枢の機関区、直方機関区に移ります。地図を見ても分かるように、筑豊のど真ん中に位置していました。昭和40年代、筑豊本線だけでなく、細かく枝分かれした支線が張り巡らされていました。昭和43年3月に配置されていたのは、9600が19両、C11が5両、D51が4両、D60が11両で、45両もの蒸機が配置され、九州では、門司機関区に次ぐ配置両数でした。減ったとは言え、石炭列車は輸送の中心で、一般の貨物列車、旅客列車、それに各駅、専用線の入換に日夜活躍していました。「直」の区名板にふさわしく、実直に、愚直に働いていたのが、直方の蒸機と言えるでしょう。

「直」の区名板を付けた79652 近隣の若松、後藤寺などのキュウロクとともに、筑豊の各線で活躍を続けた(以下特記以外、昭和43年3月)。

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑤ 

若松機関区(3)  8620 9600 D50 D51

若松機関区、続けます。C55以外の「若」の蒸機となると、8620、9600,D50、その後の転属機としてD51となりました。華やかなC55と比べると、貨物、入換が中心の地味な働き場所でしたが、決して手は抜かず、美しく整備されていたのが、九州の蒸機でした。なかでもD50は、当時でも数を減らしていて、昭和40年代も後半に入るとD51に交代していきますが、私としては、米原の交直接続で、よく整備されたD50に接していて、大正生まれのD50に再会できて心が躍ったことを覚えています。化粧煙突を装備したD50 140  当時、若松区には数両のD50が配属されていたが、その中でも白眉の存在だった。直方へ転属していた時期もあったが、終始、筑豊本線で活躍。その後、まさかこの蒸機が京都へ来て、梅小路蒸気機関車館入りをするとは思わなかった(以下特記以外、昭和44年3月)。

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ④

若松機関区(2)  C55つづき

冷水峠に挑むC55 46 原田行き729レを牽く。冷水峠は筑前内野~筑前山家10.2kmにある峠で、サミットの冷水トンネルに向けて両側から25‰の上り勾配が続いた。ここまで来ると、さすがの筑豊本線も列車本数が減って、旅客列車は16往復だが、特急「いそかぜ」、急行「天草」も通っていた。うちC55の牽く普通列車は8往復、中間にトンネルがあるので、両側へ交互移動できず、どちらかの側に専念せざるを得なかった。まだ篠栗線が全通していなかったため、飯塚~博多の列車移動は、この冷水峠、原田経由しかなかった(以下特記以外、昭和43年3月)。若松機関区の全景 ここには扇形庫はなく、木造の矩形庫が二つあったほか、側線に蒸機が留置されていた。

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ③

若松機関区(1)  C55

つぎは、筑豊本線の始発、若松機関区です。明治23年に筑豊興業鉄道の若松機関庫として開設され、門司鉄道管理局のなかでは最も古い歴史を持っています。それ以降、筑豊の各地から産出された石炭の積出港として若松が栄えるとともに、多くの蒸機が配置されていきました。しかし訪れた昭和40年代になると、石炭輸送も激減していきますが、それでも8620、9600、C55、D50合わせて26両の蒸機が配置されていました。なかでもC55は、蒸機の整地として名高い筑豊のなかでも、“女王”として、客車列車の先頭に立って筑豊本線、鹿児島本線で活躍を続けていました。「若」の区名板にふさわしいC55を、一両ごとに見ていきましょう。 明治期の駅舎が健在だった(以下、特記以外昭和43年3月)
C55の特徴は1750mmのスポーク動輪に尽きる。初めてC55と対面し、スポーク動輪を通して、向こう側の景色が透けて見えているのに感激した。華奢にも見えるスポーク動輪が、高速で回転しているのを見るのもいい。だから、私は、C55が急勾配に向かって奮闘している姿より、逆に下り勾配を、“カシャカシャ”とロッド・動輪を回転させて、軽快に下って行く姿のほうが好きだ。

「若」の区名板を付けたC55、軽快な切取式デフ(門鉄デフ)を多くのC55が装備し、しかも美しく整備されていたから、人気があった。

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機  ②

門司機関区

九州の蒸機を始めようとすると、初回は「門司」しかないでしょう。昭和42(1967)年3月、17歳の高校2年生、関門トンネルを抜けて、初めての九州、門司への第一歩を印しました。青い空から陽光が降り注ぎ、本州とは違う空気感を感じた思いでした。門司機関区は、当時走っていた西鉄北九州市内線に沿って、延々と小倉方面に歩いたところにありました。付近には、機関区だけでなく、客貨車区、操車場が入り交じり、彼方まで線路で埋め尽くされ、煙が渦巻いていました。
昭和42(1967)年時点で配置量数は53両で、九州最大の蒸機配置区でしたが、9600、C11、D51と、当時では当たり前の形式ばかりでした。周辺の鹿児島・日豊本線は電化されていて、旅客列車はおもに421系電車になっていましたが、未電化の筑豊本線、日豊本線新田原以遠へ向かう旅客・貨物は、蒸機牽引のままで残っていて、そのため、他区からやって来る蒸機も多くが出入りしていました。九州の「門」に相当する、いわば「九州ゲートウェイ」のようなところで、「門」の区名板がズバリ似合っていました。

「門」の9600と門司駅舎(以下、特記以外は昭和42年3月)
付近は電化区間に囲まれていたが、非電化区間から乗り入れてくる他区の蒸機で賑わいを見せていた。D50231〔直〕D50129〔柳〕

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る 九州の蒸機   ①

一部で休業が解除され出口が見えてきたとは言え、現実の鉄道とは向き合えない日々が続いています。趣味活動は、活動の足跡をたどることしか今はできません。足跡の証しは人それぞれでしょうが、私の場合は、やはり蒸機の時代までスリップします。昭和40年代、DRFC現役時代を中心とした鉄道・蒸機については、今までも“デジ青”でセッセと載せてきました。しかし調べてみると、掲載できたのは僅かで、実際に写していたのはハンパない点数だったことを、改めて思い知りました。そのほとんどがネガ現像、ベタ焼きだけで終わっていて、プリント(紙焼き)、スキャン(データ化)は進展がありません。

趣味の世界でも、世代交代が進みました。雑誌・ネットでは、保存蒸機のイベント運転の記事は載っても、現役蒸機は、すっかり過去の遺産と化してしまいました。老舗の鉄道雑誌は、とうの昔に蒸機の記事はなくなり、“蒸機の世代に向けて”と標榜していた雑誌も、EL・DL特集に宗旨替えしてしまいました。現役蒸機では、商売ネタにもならないのでしょう。ネットでも、ベテランファンらしき“蒸機の思い出”なんてタイトルに釣られて中味を見ても、「やまぐち号」「北びわこ号」が得々と並んでいたりしています。現役蒸機の世代からの発信力、発言力が弱ってきて、自分としては“ついこの前”の世界が、どんどん遠ざかっていることを実感しています。

昭和40年代のネガはすべてベタ焼きは取って、アルバムに貼り付け、一部は撮影データも記入している。一部はプリントもしているが、デジタルになってからは紙焼きも中止、いっぽうネガスキャンのデータ化も、必要に駆られて行なっているものの、進捗率は極めて低く、ほとんどがネガ状態のまま50年間眠っていた。今回、一念発起、朝から深夜まで、近所の散歩を除いて、巣籠もりスキャンに励んだ。その結果、“こんな写真を撮っていたのか!”の連続で、自分でも改めて、その時の熱意に感心した。ネガの状態も、一部にビネガー状態の救済不能ネガはあるものの、大部分は50年経っても、キズもホコリもない完璧な状態だった。相手は黒い車体だけに、引伸し時代は、暗部の調子再現にずいぶん腐心したが、デジタル化では修整ソフトの「シャドウを明るく」のバーをいじるだけで、キレイに調子の整った画像になり、デジタル化の恩恵も感じた。ネガに対しては、“よくぞ50年間待っていてくれた”と愛おしい心境になったものだ。

続きを読む

 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ③

水鏡を求めて

この時期、新緑とともに、沿線で写材を提供してくれるのが“水鏡”ですね。先ほど、WAKUHIROさんからもコメントで、近鉄沿線では水鏡が見られることレポートしていただきました。水を張った水田などに車両が映り込み、条件が良ければ、シンメトリーな上下像ができます。ただ新緑に比べると期間限定で、どこでも見られるわけではなく、水鏡となる条件もあって、なかなか遭遇できません。私もまだ完璧な水鏡に出会ったことはありませんが、それだけに、この時期にぜひ撮りたいテーマのひとつです。
今まで、保存蒸機の動態運転についてぱ、自分の意志では行ったことがないものの、人に誘っていただいて何回か行ったことがある。この時もTさん親子とともに、クルマに乗せてもらい、「北びわこ」を撮りに行った日だった。まず運転当日に梅小路から回送されるC56を撮りに、東海道線安土~能登川の水田の横へ向かった。この日のC56160を牽引したのは「特別なトワイライトエクスプレス」運転用にトワイライト色に塗装変更されたばかりのEF65 1124だった(以下2016年5月)。

続きを読む

 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ②

近鉄特急を新緑のなかで撮る

“新緑めぐり”続けます。新緑の撮影は、デジカメならではと思います。フォトスタイルを「ヴィヴィッド」や「風景」にするだけで、あざやかな新緑になりますから、便利になったものです。近鉄大阪線については、WAKUHIROさんらから、季節感あふれるレポートを拝見しています。大阪線の勾配区間へは、依頼された単行本の撮影もあって、私もよく行きました。最初に行ったのも、季節も今ごろの暑いぐらいの日で、乙訓の老人さん、本を執筆中のTさん、東京から来られた準特急さん、4人で三本松駅に集合して、室生東小学校横の大築堤へ向かいました。三人とも、いずれ劣らぬ博識をお持ちの方ばかり、口角泡を飛ばしての電車談義の賑やかなこと、改めて調べるともう20年も前のことで、懐かしく思い出しました。その後も、また近鉄関係の本の編集・撮影することになり、集中的に三本松付近を訪れることになりました。“特急のイメージが大きく変わります”と会社のリリースが出て、汎用特急の新色が出始めた頃でした(以下2016年4月)。
当時はまだ当たり前だった、汎用特急の旧色も、新緑バックによく映えていた。

続きを読む

 マシ29の輪に 入れてください

準特急さんのマシ29 2を連結した「玄海」、惚れ惚れするような編成ですね。優等列車にWルーフ、三軸台車の客車が連結されていた例は、この昭和40年代では「玄海」だけだったのではと思います。しかも前後は10系客車というのも愉快です。私も一度だけですが、マシ29 2を撮っていました。高校2年生、初めての向日町運転所(当時)に恐る恐る入って行った時で、「玄海」の仕業を終えて、妻面を見せて休んでいました。冷房を備えているスシ37・47がマシ29に改称され、二重屋根車は0番台1~4となったが、昭和40年代に生き残っていたのは、向日町運転所のマシ29 2だけだった(昭和41年4月)。

続きを読む

 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ①

新緑の保津峡で

“出口戦略”が示されたとは言え、まだ外出自粛は続きそうです。この時期、気が付けば新緑の真っ只中、撮影には一年を通じて最適の季節です。こんな時に限って、外は晴天が続き、カメラを持って飛び出したい衝動に駆られますが、グッとこらえて、家に籠もってスキャン三昧の毎日です。ならば、せめて新緑の頃に出掛けた、思い出のシーンを綴ってみようと思い立ちました。クローバー会の活動でも、昨年の天竜浜名湖鉄道、一昨年の明知鉄道と、快晴に恵まれた新緑の頃の撮影旅行ほど、心動かされる季節はありません。桜など“花もの”に比べて、十分な撮影期間があり、連休期間以外では、人出も少なく、とくに高齢者にとっては、自分好みの期間、場所が選べたもので、好んで各地へ出掛けたものでした。新緑まぶしい保津峡を渡って行く287系「きのさき」、ちょうど保津川下りの船と出会う(2015年5月、以下同じ)。

続きを読む

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線㉑

伏見・稲荷線を送る 昭和45年3月31日

伏見・稲荷線は、前回の「中書島」で終わる予定でしたが、改めて、ネガを調べてみると、最終日の送別式の様子をかなり撮影していることが分かりました。式は京都市の主催で、京都市長、交通局長も出席した盛大なものでした。その後に行なわれる京都市電の廃止最終日は、世論も考慮して、ささやかなものとなり、その意味でも、記録に残しておくこともありかと思い、最後に紹介します。

中書島で最終電車を待っていると、DRFCのヘッドマークを掲げた501号が、待ち受ける市民の前に姿を見せた。

続きを読む

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑳

中書島
いよいよ伏見線の終点の中書島へ。

京橋を渡って、しばらく走り、最後の専用軌道に入ります。大きく左へカーブして終点の「中書島」へ至っていました。京都市電では最南端に当たり、標高の最も低い停留場でした。すぐ隣は、京阪電鉄の中書島駅で、乗り換えは便利でした。

中書島まで延長されたのは大正3年で、京阪電鉄はすでに全通を果たしていました。今まで舟運に頼っていた、淀川左岸の大阪~京都の移動が、京阪電鉄の開業で、一気に近代化し、利便性が向上します。京電の中書島延長も、舟運連絡から、京阪電車との連絡連携を狙ったものですが、伏見線と京阪は、ほぼ並行するだけに、大阪~京都の直通客は京阪の利用となり、伏見線は打撃を受けることになります。北へ行けば中書島の歓楽街、市電はしばしの憩いを取り、乗客を乗せて再び元の道をたどって行きます。

京阪中書島駅と中書島商店街との間には踏切があって、複線から単線突っ込み式の「中書島」となっていた。

続きを読む

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑲

京橋
京都電気鉄道は明治28年2月1日、当時の京都駅南側、東洞院通塩小路下ルから、今回紹介の「京橋」、当時の伏見町油掛通まで開業したのが始まりです。その油掛通にある和菓子店、伏見駿河屋の前には「電気鉄道事業発祥の地」の記念碑が立っています。まもなく鋼鉄製の京橋で宇治川派流を渡りますが、この付近が、かつての伏見港の中心地で、下流が昔の船溜まりで、大坂から淀川を上がってきた三十石船が発着し、付近は、米問屋、木材問屋、回船問屋などが並び活況を呈していました。旅人相手の旅籠も多く、維新の史跡として名高い寺田屋は唯一の遺構です。

 

鋼鉄製の親柱がある京橋を渡る。「京橋」停留場は、橋の北側にあったが、ここも、安全地帯のない白線で区切っただけのもの。

続きを読む

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑱

大手筋

ふたたび京都市電伏見・稲荷線に戻ります。あと3停留場分が残っています。
肥後町で90度カーブして、再び南方向へ向かい、右手に見える「月桂冠」の工場を過ぎると「大手筋」に着きます。大手筋の地名由来は、ここから東へ行けば、伏見桃山城の大手門に繋がっているところから来ています。他都市では、その由来から大手筋、大手町と言えば、官庁街となる場合が多いものですが、伏見では商店街として発達しました。停留場から東へ行けば、伏見最大のショッピングゾーン、大手筋商店街へと至ります。巨大なショッピングセンターなど皆無の時代、市電でも、買い物籠をぶら下げた主婦の乗降も見られ、伏見一円から多くの買い物客で賑わっていました。
月桂冠の工場・社屋をバックに、大手筋に到着した伏見線の市電(Mさん撮影)。

続きを読む

 北のC62 全記録 〈23〉

昭和46年3月26日 最終日、何度も通った上目名、長万部へ
北海道での最後の日を迎えました。通用25日の北海道均一周遊券も期限切れが近づき、今晩に函館を出なければ、期限までに帰宅ができません。夜行鈍行に乗って早朝4時45分に倶知安に着いたあとは胆振線へ回って、二つ目のキュウロクを撮ったあと、今期5回目の上目名~目名となりました。最後をどこで撮るか、何度も行った撮影地で写したい思いが湧き、やはり足は151キロポスト付近へ。通い慣れた道のように線路上を歩いて、カーブの先の具合まで見通せるようになりました。天気はどんよりした空で、時折、降るのは、水分を含んだボタン雪で、雪が消えた道床は、さらに黒々として続いています。151キロ地点に着いて、高台に上がり、この場所を初めて訪れた3年前のことを思い出していました。
3年前など、今なら一瞬のことだが、ウラ若き20歳にとっては、3年の歳月は、ずいぶん昔のことだ。C62も顔ぶれが違うし、列車名も違う。その3年前を思い出して、ほぼ同じ構図で撮ることにした。例によって延々とドラフト音が続いてきて、顔を見せたのは、今日も2号だった。

続きを読む