昭和46年3月26日 最終日、何度も通った上目名、長万部へ
北海道での最後の日を迎えました。通用25日の北海道均一周遊券も期限切れが近づき、今晩に函館を出なければ、期限までに帰宅ができません。夜行鈍行に乗って早朝4時45分に倶知安に着いたあとは胆振線へ回って、二つ目のキュウロクを撮ったあと、今期5回目の上目名~目名となりました。最後をどこで撮るか、何度も行った撮影地で写したい思いが湧き、やはり足は151キロポスト付近へ。通い慣れた道のように線路上を歩いて、カーブの先の具合まで見通せるようになりました。天気はどんよりした空で、時折、降るのは、水分を含んだボタン雪で、雪が消えた道床は、さらに黒々として続いています。151キロ地点に着いて、高台に上がり、この場所を初めて訪れた3年前のことを思い出していました。
▲3年前など、今なら一瞬のことだが、ウラ若き20歳にとっては、3年の歳月は、ずいぶん昔のことだ。C62も顔ぶれが違うし、列車名も違う。その3年前を思い出して、ほぼ同じ構図で撮ることにした。例によって延々とドラフト音が続いてきて、顔を見せたのは、今日も2号だった。
投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
北のC62 全記録 〈22〉
昭和46年3月25日 定番の上目名、倶知安へ
大沼公園のユースに泊まった翌日、列車を乗り継いで、またまた上目名にやって来ました。この日は天気も良く、山々もよく見えます。ただ最終日近くになって、やる気も失せてしまい、明確に撮影地も決めないまま、呆然と歩いて、お馴染みの151キロ地点まで歩きました。151キロ地点から先、目名寄りは、大規模な築堤になっていて、東を望むと、なだらかな傾斜地が広がっていて、目名の集落が見えます。西を望むと、冠雪した後志の山々がよく見えます。急に“山バックのロクニ真横”構図を思いつき、築堤をどんどん下がっていきます。雪があるので、泳ぐようにして、滑り降りて行くことができます。編成全体は捨てて、135ミリの望遠でC62重連をやや俯瞰できるところまで来ました。太陽の反射で暑いぐらいで、汗びっしょりでした。背後の後志の山々も、しっかり見えます。それをさらに強調するため、Y2フィルタを装着して、「ニセコ1号」の通過を待ちました。
▲例によって、野太い汽笛二声が、目名の通過の頃に聞こえて来て、ブラスト音がどんどん近づいて来る。この日も2号を先頭にした「ニセコ1号」が眼前を通過して行った。真横から見ると、ランボードの白線がずいぶん強調されていることが分かる。
北のC62 全記録 〈21〉
昭和46年3月24日 C62単機区間で写す
1000キロ離れた地で、山科人間国宝さんとの奇跡的な出会いに興奮して、夜行列車で眠りにつき、まだ明けやらない大沼駅に降り立ちました。今までは、山線の重連区間でしたが、今期では初めてC62の単機の区間で写すことになります。C62の運用を見ても分かるように、朝の通勤列車、大沼発函館行きの126列車が、C62の間合い運用で唯一、普通列車を牽くC62となります。ただ連日の強行軍、夜行列車の連続で、やる気、元気も失せて来ました。4時33分、寝過ごさずに何とか列車から降りたものの、待合室でまた寝てしまい、ハッと起きると外はもう明るくなっています。あわてて外へ出てみると、五稜郭区から単機で回送されてきたC6215が、安全弁を吹き上げて、モクモクと煙を上げて、側線で待機していました。
▲大沼7時05分発の126列車、雪に覆われた駒ヶ岳をバックにして、C6215が発車して行く。点灯したヘッドライトが格好のアクセントとなった。
北のC62 全記録 〈20〉
昭和46年3月23日 奇跡の遭遇?
北海道へ入って、ちょうど2週間が経ちました。均一周遊券の残りをフル活用して、C62重連に集中します。塩谷で撮った翌日は、上りを小沢、下りを二股で撮ることになりますが、忘れられない撮影、出会いを果たすことになります。倶知安ユースで泊まり、倶知安からひと駅乗って小沢へ向かいます。小沢は、夏に来たことはあるものの雪の時期は初めて、20‰勾配が続くものの、夏は、両側に山が迫って、引きのある撮影ができない線区ですが、雪があれば、自由に撮影地が選択できます。ただ、さすがにこの季節、豪雪地帯ながらも黒々とした道床が見えています。▲C62重連の魅力のひとつが、“人間に最も近い機械”を実感することだ。その機械を操るのが、二組の機関士・機関助士で、ナッパ服に帽子、ゴーグル、首に巻いた手ぬぐいと完全武装、まさに“男の世界”だった。その一端を表現したいと思い、少し前から編成全体だけでなく、キャブ周りも写すことにして、機関助士も、タブレットの授受でキャブ左に位置することが多く、二人のコンビネーションを公式側から狙うようにしてきた。あとはシチュエーションだが、幸い、雪が降り出し、135mmで狙ってみた。雪の斑点がボケて、にっこり笑ってくれた。“おい、頑張れよ”の励ましなのか、“こんな時に好きやなぁ~”の軽視なのか、それは分からない。とにかく、自分の存在に気が付いてくれたのは事実で、それがたいへん嬉しかった。 続きを読む
北のC62 全記録 〈19〉
昭和46年3月22日 初めての塩谷へ
「北のC62」、前回〈18〉では昭和46年3月20日のことを記しましたが、同時期に渡道した分が、あと5日残っています。昭和46年と言えば1971年で、あと一年でちょうど50年前の出来事になります。自分自身では、鉄道趣味人生で、最大の感動を味わったと今も思っているC62重連ですが、これだけ年月が経つと、その感動も薄れてきています。そのためにも、自分としては、最後の記録のつもりで記しておきたい思いがあります。しばらくご辛抱お願いします。
この日は初めて、塩谷に降り立ちました。塩谷と言えば、訪れる3、4年前のNHK朝ドラ「旅路」の舞台になり、小樽築港区の機関士だった主人公の家があったところとして描かれていました。現在、梅小路蒸気機関車館で保存中で、当時は小樽築港区で入換機だった9633が、ドラマの専用機のように出てきたものです。
塩谷は、小樽を出て、山線に入ってから最初の駅であり、背後には小樽の市街地が続いていて、自然のなかを行く重連は望めませんが、角度によっては海を入れることもできて、小樽から延々の20‰勾配が続き、煙はかなり期待ができます。
▲釧路から夜行鈍行に乗って小樽に着き、塩谷まで行って、撮影地に向かった。線路の山側は、家も無く、なだらかな傾斜地になっているので、自由にポジションを選ぶことができる。小樽を出てから、ずっと20‰、R300程度のカーブの連続で、煙の具合も良い。
市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑰
肥後町
丹波橋を出てからも、古びた伏見の街並みが車窓に続きました。まもなく、伏見桃山城の外堀跡でもある濠川を渡ります。周囲には朽ちた土蔵や酒蔵があったりして、伏見線のハイライト区間となリますが、廃止直前は前記のように、単線化の工事中で、雑然としていました。渡り終えると90度左へカーブ、竹田街道とは直角に交わり、肥後町まで線路は伏見線では唯一東西を向く区間で、寺院も幾つか見られます。再び90度のカーブで南へ。カーブの途上に肥後町の停留場がありました。肥後町の由来は、伏見に多い、大名屋敷跡を示す町名のひとつです。▲伏見線で唯一の東西区間から南に90度カーブする地点の途中にあった肥後町の停留場。現在でも道路は市電跡に沿ってカーブしている。なお、このカーブは半径36mで、棒鼻以南に大型の1000形が入線できない理由となっていた。同じ大型の500形、1000形では、ボギーセンター間は同じ6.7mだが、車体長が1000形のほうが20cm長く、すれ違い時に車体接触の可能性があった。
市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑯
丹波橋
棒鼻を出て、専用軌道を走る途中にあった、琵琶湖疏水の放水路を渡る鉄橋からは、伏見のシンボル、復元された伏見桃山城の天守閣がよく見えたものでした。疏水を渡り終えると、伏見の古くからある街並みが車窓に続き、そのなかに、招徳酒造の工場もありました。市電に乗っていても、酒の香りが車内を包み込み、伏見の街に入ってきたことを嗅覚からも感じたものです。まもなく丹波橋の停留場ですが、停留場とは名ばかりの、商家の軒先のわずかなスペースで多くの乗客が待っていました。
ところで「丹波橋」の由来ですが、東へ200mほどのところにある、伏見城の外堀に当たる壕川に架かる橋の名から来ていて、橋のそばに桑山丹波守の屋敷があったのが、橋の名前の由来とのこと。ところで、「丹波橋」は、いまでは京阪の駅名として定着しています。もとを正せば、京電、京阪とも同じ軌道法における民鉄であり、同一駅名がよく存続したものですが、京電が先輩格であり、あとから敷設された京阪こそ「京阪丹波橋」とするか、別の駅名を冠するべきだったでしょう。ほかにも「中書島」「稲荷」と、京阪と被る駅名があります(京阪は「伏見稲荷」だが、昭和14年まで稲荷を名乗っていた)。開業以来、頑として停留場名を変更しなかった京電に、日本最初の電気鉄道としての矜持を感じたものでした。▲商店の軒先が丹波橋の乗り場、春休みの朝、四条あたりへ行くのか、多くが18号系統を待っていた。
市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑮
たいへんな状況が続いています。われわれにとっては「外での活動こそ、日常生活を送るうえで必要欠くべからずの行動」と叫んでみても、もう通用しなくなりました。良識あるクローバー会会員にあっては、Stay Home、粛々の日々とは思います。こんな時こそ、唯一の活動の場となった“デジ青”こそ活発化して、元気の証明にしたいと思います。すでに事務局からの勧めもあって、多くの投稿、コメントが寄せられており、何よりです。私も参加して、“懐古もの”に焦点を当てて、私の元気を表現したいと思います。
棒鼻
“ぼうばな”という一風変わった停留場名の由来は、竹田街道沿いの宿場のはずれに、支配境を示す棒杭が立っていて、これを棒端(ぼうばな)と呼んだところから来たと言われています。江戸時代、棒鼻は伏見領と竹田村の境であり、交通、物資輸送の結節点でした。それを示すように、停留場の横には、竹田街道に敷かれていた車石が今でも保存されています。
ここまでは、国道24号と言われた竹田街道上を走っていた伏見線ですが、近鉄京都線を潜ると、国道24号は、この棒鼻で東に向いて分かれ、本来の竹田街道は細い街路となって南下し、伏見の街へと入って行きます。伏見線も、竹田街道の西100mほどを専用軌道となって、並行しながら、南下をしていきます。
今回も先輩のMさんの貴重な写真も貸していただいて掲載しました。厚く御礼申し上げます。
▲竹田街道の併用区間とは分かれて、専用軌道に入ったところに棒鼻の停留場があった。伏見線においても、棒鼻は結節点であり、渡りポイントもあってラッシュ時などは「臨」の棒鼻行きもあった。
こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑨
こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑧
桜の開花も始まった今日この頃、元気な“鉄活”続けています。昨日は、また阪堺線に行ってきました。目的は“桜”だったのですが、阪堺線沿線の桜は皆無に近いこと、現地へ行って初めて知りました。ならば、急遽、目的を変更、運良く走っていた旧型車に照準を合わて、各所を回りました。“堺トラム”こと低床、三車体連接の1000形は現在3編成が走っていますが、3月28日から、もう一編成の1101形が営業に就くとアナウンスされています。こうなると、現役最古のモ161形が営業に就く姿を見られるのも、いよいよではとの思いがありました。
▲この日の営業車は“青雲”の164号、またまた定番のハルカスバックを夕方の「姫松」で。
こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑦
富山の南北接続へは、現地へ前乗りして、まずはお隣の万葉線へ向かいました。万葉線は、好んで庄川や内川の鉄橋へ何度も行きましたが、行った日は曇りで、鉄橋上でのシルエットやギラリも期待できません。考えたら、高岡からは、すぐ万葉線に乗って奥のほうまで行ってしまうため、途中区間の観察ができていません。それなら、と氷見線に乗って、途中の「能町」で下車し、駅周囲の廃線跡を見てから、すぐ近くの万葉線「新能町」まで歩きました。近くのスーパーのイートインコーナーで遅めの昼食として、そこから北上して行きます。周りは工場地帯で、お世辞にも優れた風景ではありませんが、自分の足で歩いて発見に努めると、隣の富山の大賑わいに比べて、静かで穏やかな自分好みの風景を見い出した気持ちでした。
▲模型? いやいや現物の保存電車が、途中の「新吉久」のすぐ横に置かれていた。
こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑥
“コロナ”に負けない“古老”の活動報告、続けます。昨日21日(土)、富山へ行き、路面電車の南北接続の営業初日を見てきました。富山駅の北側の富山ライトレールと、南側の富山地鉄の富山軌道線を、富山駅の高架直下で接続し、一体化する市の事業です。新幹線開業後、壁のように聳えていた高架を挟んで、南と北でほんの数十メートルにまで接近していた両線ですが、在来線の高架工事も済んで、ついに結ばれた訳です。機会
を見て進捗状況を確認してきた私にとっても感慨深いものがあります。ましてや富山に縁の深い、どですかでんさんや、一時は富山におられた乙訓老人さんには、その思いも深いこととでしょう。当日は、
状況に鑑み、終日全線無料の太っ腹企画や集客イベントは中止されましたが、多くの市民が集まり、乗車を楽しみました。古~いネタも良いものですが、新しい鉄道ができて、みんなが笑顔になる、つくづく鉄道ってエエなぁと思った一日でした。 ▲市内の環状線を走って富山駅へ。岩瀬浜行きは渡り線を通るので、ポイントの表示を指差確認して入線していく。
市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑭
城南宮道
“道”と言っても、その城南宮へは停留場から1キロほど西にありました。停留場名には、施設名などにプラスして、「~前」「~口」「~通」「~道」と接尾語を付すことが多くあります。「前」「口」は、他都市でもよく見られますが、「通」「道」は、かなり京都的と言えます。「道」は、この城南宮道のように、「前」よりも少し歩く場合に適用されるようです。その違いを端的に理解できるのは、「金閣寺“前”」と「銀閣寺“道”」です。さて、高瀬川沿いを走っていた、古来の竹田街道は、この城南宮道で新しい竹田街道と合流しますが、その地点には「城南宮参詣道」の大きな石碑があります。そして、まもなく近鉄京都線をくぐります。近鉄線の前身は奈良電鉄、さらにさかのぼると、敷設当時は現在のJR奈良線のルーツとなる奈良鉄道でした。京電が敷設された当時は平面で交差しており、開業直後には、電車と奈良鉄道の機関車が衝突して多数の死傷者を出したと言います。▲砂塵を巻き上げ、少し車体を傾けながら、北上を続ける9号系統693号。市電の向こうに伏見信用金庫の広告塔が見えるが、それ以外に高い建築物は何もなかった。
市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑬
市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑫
市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑪
竹田久保町
かつての停留場名は「練兵場前」で、付近には、陸軍第16師団の京都練兵場がありました。陸軍の施設が密集し、軍都として伏見の街の別の側面を見せていました。近くの龍谷大学や京都府警察学校も、戦後に陸軍跡地にできました。市電時代にも付近には公共施設も多く、乗降の多い停留場でした。
【竹田久保町 定点対比】
竹田久保町の交差点から南方向を見る。東側(左)では、竹田街道の拡幅工事が進んでおり、伏見線の廃止後には、現在見られる、片側2車線、歩道付きの道路に生まれ変わる。右は現在の様子、街並みはすっかり変わってしまった。西へ行くと、地下鉄くいな橋駅があり、通行も多い。東側には龍谷大学のキャンパスがあり、学生相手のファストフード店が並んでいる。
市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑩
深草下川原町
では、また京都市電伏見・稲荷線に戻って、停留場ごとに50年前のシーンを巡っていきます。河さんにとってはホロ苦い思い出の残る、深草下川原町から始めます。前記の勧進橋から、棒鼻の手前まで約2キロは、ほぼ一直線の竹田街道を南下していきます。ただ明治の頃は、ここから少し西を流れていた高瀬川に沿った、曲がりくねった道で、京電も同様に走っていました。明治45年に、一直線の広い道に付け替えたもので、京電も同様に移設されています。今でも、竹田街道を歩くと、交差する小さい道とは、少し高低差があり、拡幅時期に、低い土地に盛り土をして、新しい竹田街道を通したことが伺えます。市電時代には、まだ田んぼも散見されますが、大部分は工場・民家が混在した車窓風景が続いていました。正直、なかなか絵にはなりにくい区間で、撮影もスルーすることが多く、今回も、Mさんの貴重な記録で助けてもらいました。
【深草下川原町 新旧対比】
この付近では、竹田街道の東側を市電が走っていた。もちろん安全地帯も無く、乗客は命がけで電車に乗り込んだ。右の現況と対比すると、右手のビルがそのまま。
こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑤
ローカルネタ、しかもバス関連で失礼します。元気な趣味活動の報告とご理解ください。全国的には14日(土)が春の改正でしたが、京都では、市バスが20日(金)から新ダイヤとなります。旺盛な観光需要などに対応した増便・延伸など、利便性の向上が中心ですが、いっぽうでは径路が重複する三つの系統が廃止されることになりました。京都市バスは、分かりやすい「多便少系統」が叫ばれる時勢に逆行するかのように、改正のたびに、どんどん系統を増やしてきましたが、久しぶりに系統が縮小されることになりました。なかでも、中心部を回る「循環1号系統」、通称“100円バス”は、土休日のみ運転のため、本日が最終日となりました。自分なりに京都の交通の変化は記録しておきたく、京都の街に繰り出しました。
▲京都の“100円バス”は、2000年4月から四条→河原町→御池→烏丸のルートで運転を開始し、土日のみ42回/日運転されていた。乗客数は一日780人程度だったが、他系統でも代替できるところから廃止されることになった。バス代の高い京都では、100円はデビュー当時は衝撃的だったが、慣れてしまうと価値を感じなくなったし、それに一周しても4キロ足らずでは、歩いた方がずっと早く、利用価値は低かった。
こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ④
明後日あたりに寒波が到来と報じていますが、ことしは記録的な暖冬で終わりそうです。でも富士山に関しては、例年どおりの冠雪があったようです。いつの時代も富士山は憧れです。とくに、日常的に見ることができる首都圏の在住者より、めったに見られない関西人のほうが、潜在的な憧れを抱いているような気もします。ことし1月、東のほうで用事を済ませて、翌朝、のんびり帰ろうかと思って普通列車に乗り込むと、窓に飛び込んできたのが、雪を抱いた富士山でした。急遽、予定変更、結局は陽が暮れるまで、定番撮影地3ヵ所を歩き回り、その姿を拝んだ一日となりました。
▲最初に行ったのは、伊豆箱根鉄道駿豆線の三島二日町から南へ歩いた地点、ここは以前来たものの、全く富士山が見えず、悔しさのあまり何も撮らずに戻って来たところだ。それだけに冠雪した富士山を見て感激、しかも、最初に通過したのが、今回の改正でも生き延びることになった185系「踊り子109号」。
こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥ ③
“阪堺線”と言えば、初詣で活躍する旧型車は有名ですが、そのほかの時期にも通うことが多くなりました。以前は恵美須町から出ている阪堺線の寂れた雰囲気が好きで、北天下茶屋などへよく行ったものですが、いかんせん乗客減で本数も減ってきて、日中は24分ヘッド、もはや路面電車とは言えない間隔になりました。いっぽう、天王寺駅前から出る上町線は、阿倍野・天王寺の再開発事業も終わって商業施設への乗客も増えて、改正のたびに増発されて、日中は6分ヘッドの運転となりました。自分好みの撮影地も多いのですが、なかでもハマっているのが、あべのハルカスとのコラボです。本欄でもWAKUHIROさんらが発表された写真が刺激になったのがきっかけです。東京に勝てるものが何もない大阪ですが、今のところ高さ日本一を誇っているのが、あべのハルカス、まもなく、その座も東京に奪われるようで、今のうちに日本一高いビルと現役最古の電車が走る阪堺線を、との思いで通っています。
▲高いだけあって、ハルカスは遠くからでも望むことができるが、できるだけ膝元で大きく取り入れたい。そこで選んだのが「松虫」、ここは、あべの筋の併用軌道から専用軌道に入るところにあり、クルマにも邪魔されることも少なく、その全容を収めることができる。午後の遅い時間帯から、夕景、夜景を楽しんだ。