Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ⑬

1996年8月16日 北大阪急行を新御堂筋の歩道橋から撮る

桃山台~千里中央に、新御堂筋、北大阪急行を跨ぐ歩道橋があります。ここから、千里ニュータウンをバックにして、北大阪急行、地下鉄御堂筋線の電車を撮ることができます。写真は、20年以上前のサラリーマン時代で、よく仕事で千里中央へ行くこともありましたが、この写真を撮ってからは、一度も北大阪急行沿線へは行っていない気がします。それどころか、最近は、大阪市内へも行くことがなくなり、今年になってから自分の行動範囲がどんどん狭まって来ていることを感じます。北大阪急行は、“ポールスター”こと8000系7編成が走っていた。後継の9000系の増備で、今では、7編成のうち、3編成が残るのみ、この8005Fも2018年に廃車されている。古さを感じさせない、昭和の時代の製造で、洗練された車内外は、地下鉄用車両の中では、今でも最も豪華な造りだと思っている。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑫

2004年8月15日 大井川鐵道で関西私鉄の競演を楽しむ

大井川鐡道は、1994年のクローバー会の40周年記念旅行で初めて行き、今回が2回目でした。この時は、乙訓の老人さん、準特急さん、逗子のTさんと一緒で、何度も行って沿線を熟知されている乙訓老人に連れられ、各所で下車して撮影しました。いまは、すっかり電車も世代交代しましたが、当時は、京阪、近鉄、南海からやって来たばかりの電車が、きれいな姿で走っていました。この日は、乙訓老人が行きつけの新金谷の駅前旅館に一泊、大宴会をした楽しい思い出も残っています。大井川鐡道は、先の豪雨で被害があり、家山~千頭が当分の間不通でバス連絡とされていますが、早く大井川の渓谷を行く蒸機、電車の姿を見たいものです。最初に降り立ったのが抜里、茶畑に囲まれた静かな山里の駅で、好ましい雰囲気の中で、懐かしい電車と再会した。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉘

南延岡機関区

続いて日豊本線にあった南延岡機関区です。大分~宮崎のほぼ中間にあり、運輸上の要衝でした。おもに配属されていたのはD51で、昭和43年当時は15両が在籍し、大分~宮崎の貨物列車を牽引していました。ほかに、当時はまだ走っていた細島線(日向市~細島)の貨物用、南延岡などの入換用に8620、日ノ影線(延岡~日ノ影)の貨物用にC12が配属されていました。当時から南延岡では、延岡の代表企業である旭化成からの貨物の発着がありました。現在でも、鉄道の現業部門は無くなりましたが、旭化成の専用線は残って、日豊本線のコンテナ貨物も南延岡を始終発としています(以下、特記以外昭和43年3月)。

立派なコンクリート製の扇形庫があった南延岡機関区。その前の側線で休む宮崎区のC5747 南延岡は、旅客列車の行き先として多く、当時は運輸上の要衝だった。ラウントハウスに名称を大きく標示しているのは全国的に見られた。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉗

柳ヶ浦機関区

九州に戻って蒸機巡りを再開します。まず宮崎、大分以外で、日豊本線にあった、そのほかの機関区へ行きます。昭和42年10月まで、D50、D60の配置区として賑わいを見せていた柳ヶ浦機関区です。区は明治45年に設置され、煉瓦造りの矩形庫、給炭塔、給水塔がコンパクトに配置されていました。門司港~大分の中継地に当たり、給炭・給水、蒸機の付け替え、乗務員の交代などが行われていました。別府、大分方面、急勾配の立石峠を控え、柳ケ浦から後部補機が連結されました。区は昭和42年10月改正で日豊本線の新田原~幸崎の電化が完成、蒸機の運用を廃止。支区に格下げされたあと廃止されました(以下すべて昭和42年3月)。

煉瓦造りの矩形庫で休む、柳ヶ浦区のD50310  D50341 訪れた昭和42年3月当時、柳ヶ浦にはD50が12両、D60が2両在籍し、日豊本線の貨物、補機を担当していた。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑪

2004年8月11日 琴電の旧型電車を初めて撮影に行く

高松琴平電鉄を走っている旧型電車も次第に数を減らしてきました。いま残っているのは、23、500、120、300の4両で、2021年5月に旧型電車の運転を終了する旨の告知が会社からありました。旧型電車を使った定期的なイベントも、この春からは中止されていましたが、今月30日には再開され。展示会、撮影会が行われるようです。私が初めて琴電を訪れたこの年には、冷房のない旧型電車は、窓を開け放して、ごく当たり前に定期列車の中で活躍をしていました。讃岐の国には、七つの富士があると言われるほど、円錐形の山が多い。白山もその一つ、長尾線の車窓からよく見える。公文明~長尾を行く300+760

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑩

2007年8月12日 真夏の田園地帯で小田急ロマンスカーを満喫

最前部まで客室があり、展望のきく小田急ロマンスカーは、関西の人間にとっても憧れの列車でした。ただ、なかなか撮影の機会に恵まれません。この年、仕事でもお世話になった高名な鉄道ファンが亡くなられて葬儀に行くことになり、不謹慎ではありますが、その前に、小田原で途中下車して、葬儀までの2時間ほどを撮影に充てました。急なことで、撮影地も分からず、田園地帯が広がっていると言う情報だけを頼りに、「開成」で下車しました。全く日陰のない、カンカン照りの田圃のなかに2時間、喪服を着た暑さはハンパないものでした。この時期の小田急ロマンスカーは、3000形、3100形はもう無く、7000形、10000形、20000形。30000形が主力で、2年前に50000形がデビューしたところだった。一眼デジを買ってから2年ほどの頃で、何枚撮っても値段は変わらないことを最大限に利用し、連写流し撮りに挑戦してみた。と言っても、歩留まりを良くするために、確実な1/125Sに設定、10000形HiSeを連写してみた。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑨

1991年8月11日 小浜線へ海水浴列車を撮影に

盆に掛かろうとするこの時期は、そろそろ海水浴の臨時列車も終わりを迎えます。この日は、小浜線の臨時列車を写しに行っていました。京都から見れば、その径路は綾部、西舞鶴ルートしか考えられませんが、1990年に、JR西日本は行楽列車全般の改定に乗り出します。愛称を従来の「◎◎ビーチ」から「マリン◎◎」に変更、小浜線への径路も、大阪発の場合は、東海道・湖西・北陸線経由で敦賀から入る列車も新設、車種も、65系、181系DC、12系、14系客車など多様でした。ちょうど大阪湾の海水浴場が汚染が社会問題化した頃で、“水のきれいにな日本海へ”のキャッチで、若狭、但馬方面に向けて、毎年、需要に応じて変更・増発が続きました。快速「マリンたかはま」、大阪発小浜行きの列車で、これは綾部、西舞鶴経由の列車だった。リゾート塗装の14系客車をDE10が牽いた。加斗~勢浜

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑧

2016年8月9日 表紙撮影で ようやく思い通りの「しまかぜ」撮影

この年は、出版社から委託された『近鉄電車』の企画・編集・撮影に、春ごろから打ち込んでいて、撮影のラストとして、表紙の企画を立てました。対象は、いちばん新しい特急車両「しまかぜ」50000系で決まりですが、撮影地、構図は考えあぐねていました。候補としては、本数の稼げる山田線が通過時刻の頃の光線状態もよく、車上から観察、また候補地に何回か下車してテスト撮影もして、表紙に適した、タテ位置、アウトカーブ、順光で撮れる撮影地として、漕代~斎宮の漕代3号踏切を選びました。

この本のシリーズの表紙は、今まで正方形にデザインされていたが、少し前から体裁が変わり、全面タチキリになった。写真上部には題字が入るので、空を大きく入れたい、順光であるのは、もちろんだが、アウトカーブのやや低い位置から、「しまかぜ」のボリューム感を出したいのが、その理由だった。あとは、天気だ。幸い、「しまかぜ」3列車は、当地を11時30分過ぎから15分おきに雁行するから、どれかは“当たり”になるだろう。結果2列車目が最も満足のいく結果となり、何とか表紙を飾ることができた。

 

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑦

2012年8月9日 空いた時間 都電の夕景を楽しんでみた

この日は東京にいました。翌日、クローバー会の面々との撮影も予定されていて、前乗りして、書店巡り、ギャラリー巡りなどをしていました。用件は明るいうちに終了、出先で急に空いた時間は、“何をしようか”と楽しみになります。この時は、宿泊の予定でしたので、夜間まで可能です。手近で撮れる‥‥となれば、やはり都電です。ホテルに荷物を置いて、カメラ一台を持って、さっそく出掛けました。たそがれ時の「町屋駅前」、都電が踏切を通過すると、たくさんの人が横断する。通勤帰り、買い物客、子ども達と、庶民の乗り物、都電らしい雰囲気を取り入れてみた。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑥

1999年8月8日 敦賀港へC56のイベント列車を撮りに

敦賀港が開港して百年を迎えたこの年、「つるが・きらめき・みなと博21」が敦賀市内で開かれ、その一環のイベントとして、梅小路蒸気機関車館で動態保存中のC56160を使用した、イベント列車「SLきらめき号」が、8月8日、9日に敦賀~敦賀港2.7kmで各2往復が運転されました。敦賀港の歴史は古く、大阪・京都からのロシア航路連絡も目論んで、現在の北陸本線の最初の区間として明治15年に開業しました。当初は金ヶ崎の駅名で、賑わいを見せますが、現在の北陸本線のルートが開通すると、敦賀~敦賀港は貨物支線となりました。敦賀を発車、北陸本線と分かれて、左へカーブする、C56160+12系客車の「SLきらめき号」

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑤

2013年8月7日 いちばん海に近い廃止駅、池の浦シーサイドへ

参宮線に夏の海水浴シーズン限定の臨時駅「池の浦シーサイド」がありました。たしかにホームの横は海ですが、海水浴場までは徒歩で15分ほど掛かります。列車に乗って、炎天下を歩いて行くような真面目な(?)海水浴客など微々たる人数で、次第に、営業日・停車列車も限定され、訪れた頃には、営業日は真夏の土日の数日のみ、停車する列車も朝夕の数本だけになっていました。年間の乗降数は数十人、しかし、ほぼ全員が鉄道趣味者の記念乗降で、実際の海水浴客は、ほぼゼロという状態でした。結局、2016年から営業日ゼロの休止状態になり、ことし2020年の3月のダイヤ改正で正式に廃止となりました。すぐ横は鳥羽湾、いちばん海に近い駅だった。暑中見舞いの絵柄にピッタリの写真が撮れたが、肝心の海水浴客の下車はゼロに近く、ついにことし3月のダイヤ改正で廃止されてしまった。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道④

2007年8月4日   阪急十三駅のホームから淀川花火を撮ってみた。

夏の風物詩“花火”も、今年はほぼ中止のようです。私は暑いのと人出が苦手で、花火見物に行ったことがありませんでした。ただ一度だけ、阪急電車との組み合わせを求めて、淀川花火大会へ行ったことがありました。最初は川沿いへ行こうと思っていましたが、すごい人出に恐れをなして、十三の駅で撮ることにしました。淀川から見るよりは、距離もあって、邪魔も入りますが、ある時代の阪急電車としては、これはこれで記録になりました。この淀川花火大開も、今年は中止です。

十三のホームを歩き回って、神戸線の梅田行きホームの神戸方がいちばん撮りやすいことが分かった。珍しく三脚をセットして、停車中の電車と絡めて、バルブ撮影を始めた。 続きを読む

 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道③

2018年8月3日 空気の澄んだ日、京都タワーから撮ってみた

京都の夏は、最高に暑くて、地上が熱せられると上昇気流が起こり、“かげろう”ができて、どうしても見通しが利きません。ただ、時には、空気が澄んで、遠くまで見通しが利く時があります。こんな日を狙って、京都タワーの展望台に上りました。目的は、その時に進めていた鉄道誌の扉写真として、京都の街並みのなかに奈良線の103系を入れて写すことでした。まだ103系は何編成かが残っていて、難なく撮ることができました。せっかくの恵まれた条件で、所期の目的だけでは勿体ないと、夕方までネバって写しました。

陽が傾き始めた頃、西を見ると、新幹線の高架がずっと伸びている。さすがに、夏なので、金色に輝くことはないが、それでも、交換する上下の編成が、輝き始めた。

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 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道②

1996年8月2日 本山支線で現役最古のクモハ42を撮る

クモハ42は、昭和9年、東海道本線の京阪神電化に際して投入された42系のなかの両運車で、20m、2扉、クロスシート車でした。宇部線に残っていましたが、クモハ123が投入されて旧型車は消えたましたが、クモハ42だけは両運が幸いし、雀田~長門本山の”本山支線”専用として生き残りました。最後のクモハ42001は、当時、JRで1両だけ残った営業用の旧型国電でした。終点、長門本山のクモハ42001 「ムーンライト」に乗って、朝の本数の多い時間帯から写し始めたが、朝から青空が広がっていた。 続きを読む

 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ①

長かった梅雨が明けて、久しぶりの青空tが広がっています。8月は、ほかの月に比べて格別の思いがありますね。ただ今年は、その高揚感がありません。“外へ出ない”が、新しい生活様式として定着し、計画のない真っ白な予定表があるだけです。こうなると、毎日の楽しみ、生きる支え(?)の“デジ青”は、どうあるべきか、最近のテーマとなりました。

冷房が入っているのも構わず、列車の窓を思い切り上げてみた。身体は冷えているのに、顔だけは生暖かい潮風が当たった。これぞ8月だった(五能線 2019年)。

 

新規ものもありません。モノクロも、大量の押しつけは嫌われます。そこで近年のカラーに眼が行きました。以前からカラ-も試行錯誤で投稿していますが、ネガ、ポジ、デジと年代によっては違い、とくにポジ・ネガは、モノクロの補助として散発的に撮っていたただけに、繋がりが少なく、体系的な発表を難しくしています。

 

一直線に続く線路を驀進する。湾の向こうを沈みゆく太陽が追いかけてきた(大湊線 2019年)

 

 

 

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉖

大分運転所(3) D60

つぎは久大本線で客貨列車を牽いていたD60です。D60と言うと、どうしても筑豊で石炭列車を牽く姿をイメージしますが、久大本線とD60の歴史は深く、後期の機では、昭和29年に、D50から改造後、すぐに大分区に配属され、一生を大分で終えた機もありました。穏やかで、やさしい風景が続く久大本線は大好きな路線のひとつですが、一ヵ月前の豪雨で、鉄橋が流出したり、土砂が流入したりして、いまも向之原~日田が運転見合わせです。

D60

余剰気味だったD50の従台車を二軸に改造して軸重を軽くし、乙線から丙線へも転用を可能にした。昭和26年から浜松工場などで78両がD50から改造された。久大本線でも、旅客の8620、貨物の9600を置き替えた。運転台の下の従台車が二軸になったため、乗り心地が向上し、乗務員から歓迎されたと言う。由布岳を望んで、水分峠への25‰勾配を上る、大分区D60の代表的なシーンだった。由布院の駅から、ひたすら歩いて、峠のトンネルの手前まで来て、大分発鳥栖行き638レを写した。由布院~野矢 昭和44年3月

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉕

大分運転所(2) C58

大分にはC58が5両配置されていました。働き場所は、豊肥本線の大分~豊後竹田の旅客牽引と、大分~宮地の貨物牽引でした。豊肥本線は早くから旅客はDC化されていましたが、朝夕のラッシユ時には、大分口、熊本口にそれぞれ蒸機牽引の客車列車が残っていて、大分区のC58は、大分~豊後竹田で、平日3往復を担当していました。

大分C58で写した唯一の駅間の走り、朝の列車を撮るため、豊肥本線の列車に乗ったが、どこで降りたらいいか分からない。奥まで行ってしまうと、交換してしまうため、なんのアテもなく、緒方で下車、適当な山に登ると、C58 350に牽かれた貨物が通過した。緒方~朝地 昭和46年12月

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉔

「大」と言っても、なかなか実名が出てこないでしょう。大分機関区、正確には大分運転所の蒸機でした。「大」を名乗る区名は、ほかにも大館、大宮、大垣が思い浮かびます。「キト」「オサ」など二文字であらわす駅の電略は、重複しないよう、命名に苦心の跡が見られますが、区名板は、遠隔地であれば、重複していても支障はないとしていたのでしょう。さて、同じ日豊本線の蒸機でも、宮崎と比べると、大分は印象の薄いものでした。しかし、昭和42年に大分区を訪問した時は、C57が21両もいて、ほかにもC58が5両、D60が12両、8620が3両と計41両在籍していて、その数は、鳥栖や直方などに匹敵するほど、九州有数の機関区でした。実際、その時には、九州へ入った途端、門司で大分区のC57を写せるほど、広範囲な活躍をしていました。日豊本線の電化が南下して、とくにC57の活路が急に狭められ、“SLブーム”の頃には、すっかり目立たない区になっていました(以下、特記以外昭和42年3月)。

大分運転所(1) C57

日豊本線は、昭和42年10月に幸崎までの電化が完成しているが、それまでの大分区のC57は、門司港~柳ヶ浦~大分~南宮崎~宮崎と、広い範囲で活躍していた。昭和42年の配置は21両で、4号の若番から199号のラスト近くまで、多様な番号が揃っていた。幸崎電化後は、多くが宮崎へ転属して、同区のC55を置き替えた。この年の幸崎電化を控えて、架線が張られた大分駅を発車した、大分発鹿児島行き2523レを牽くC57 196 右手には貨物駅があり8620が入換中、左手に機関区があった。大分駅周辺は、その後の再開発で、駅は4面8線の高架駅となり、車両区は移転してしまい、この頃の面影は全く残っていない。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉓

宮崎機関区(3) C61

昭和46年10月、奥羽本線の秋田~青森の電化が完成しました。およそ宮崎区の蒸機とは、何の因果もないはずと思われていたところ、余剰となった青森区のC61が6両とも宮崎区に転属することになりました。今までも、状態の悪い蒸機の代わりに、検査期限に余裕のある蒸機を長距離転属させる例は、多く見られましたが、異なる形式が全機転属という例は珍しいことでした。国鉄の財政状況が逼迫していて、見張り番の会計検査院からの勧告があったと言われています。C61は東北での実績から、勾配区間の宮崎~鹿児島に投入予定のところ、ストーカーが十分に発揮できずに断念、結局、平坦区間の南延岡~宮崎に変更されました。

青森から宮崎に移ったC61、補助灯を付けた東北スタイルのまま、南延岡~宮崎で客貨列車を牽き始めた。537レを牽くC61 24 宮崎神宮~宮崎(昭和46年12月、以下すべて)

C61

青森区から転属したのは、 2、18、19、20、24、28の6両、昭和47年3月改正で、南延岡~宮崎の客貨は、すべてC61牽引に置き換わり、C57は相当数が廃車・転属となった。なおC612は、宮崎区でしばらく働いてから、梅小路蒸気機関車館に移動され、動態保存されている。残りの5両も昭和48年には休廃車となり、実働期間は短かった。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉒

宮崎機関区(2)

つぎは宮崎区のC57へ移ります。宮崎区のC57といえば、半年間だけ返り咲いた急行「日南3号」の牽引復活や、お召を三日間にわたって牽引したことなど、後年は、華やかな話題を提供しました。いずれも昭和48年のことで、私はもう社会人の頃で、どちらも行くことが叶いませんでした。今となっては行っておけばと思わないでもありませんが、当時は、“お召だけ”、“C57急行だけ”で宮崎まで行くと言う発想はありませんでした。それだけ、昭和42年から毎年訪れて、美しいC57とともに過ごした時間は悔いを残すことのない、充実した時間でした。

C57

C55を置き換えるため、大分区などから転入した。昭和42年には、C55が14両、C57が4両だったものが、同43年にはC55が8両、C57が10両と逆転し、翌44年には、C55を一掃し、C57は17両と増えて、その時点で日本一のC57配置区となった。以降も昭和46年までの3年間、顔ぶれに全く変化はなく、C57王国を築いた。ナンバーも、若番の4号から、ラストに近い199号まで揃い、とくにC59似の四次型(190号以降)が4両配置されていた。その後、東北からC61が転属し、C57は次第に減少、最後は昭和50年3月の「さよなら列車」で、日豊本線の蒸機に終止符を打ちました。

大淀川橋梁を行くC57、朝と夕方にさまざまな表情を見せた。川沿いにはユースホステルもあり、食事後にゲタを履いて撮りに行くこともあった。

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