廃駅をめぐる  【11】

臼ノ浦  (昭和46年12月廃止)

九州の炭鉱地帯と言えば筑豊や三池だけでなく、松浦半島にも小規模な産炭地がありました。その運炭を目的として、現・松浦鉄道の前身、松浦線から3つの支線が伸びていました。臼ノ浦線(佐々~臼ノ浦3.8km)、世知原線(肥前吉井~世知原6.7km)、柚木線(左石~柚木3.9km)で、行き止まりの短い盲腸線は、採掘された石炭の輸送、または積出港への輸送を目的に敷設されたものです。そのうち、私は臼ノ浦線だけ乗ることができました。同線は、佐世保北部の炭鉱から運炭輸送を目的に佐世保軽便鉄道によって昭和6年に建設された762mmの鉄道がルーツで、国有化、改軌ののち、戦後に臼ノ浦線となったものです。機関区のあった佐々から分岐して、臼ノ浦までの3.8kmで、中間に駅はありません(以下、昭和44年3月)。訪れた昭和44年、臼ノ浦線には、まだC11の牽く石炭列車が走っていた。セム、セキの混合、トラ、ワフも混じる興味深い編成だった。

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 廃駅をめぐる  【10】

香月  (昭和60年3月 廃止)

つぎは九州、筑豊などの炭鉱地帯には、かつて無数の支線が伸びていました。今ではすべて廃止されて、あれほど複雑だった時刻表の地図もすっきりしました。筑豊本線の中間から分岐していた香月線のそのひとつでした。沿線では、石炭の採掘が古来から行なわれていて、九州鉄道によって敷設免許を得て、工事が着工されます。九州鉄道は明治40年に国有化され、その後も工事が進められ、明治41年7月に、中間~香月の3.5キロの路線が開通し、途中には、新手、岩崎の駅が設けられました。水運に頼っていた石炭の輸送は、香月線の開通で飛躍的に増加、最盛期には、中間~新手は、九州初の3線区間(貨物用複線+旅客用単線)となり、わずか3.5キロの区間に、3列車以上の貨客列車が走っていたと言います。しかし、エネルギー革命によって昭和30年代後半から探鉱が次つぎ閉山し、訪問時には気動車のみの旅客列車で、貨物列車はもう見られませんでした。第一次特定地方交通線として、昭和60年3月限りで廃止されました。ちょうど、扇町から輸入炭を秩父鉄道三ヶ尻まで運んでいた、日本最後の石炭列車が無くなったニュースが入ったばかりでした。(以下、昭和46年12月)

香月駅で発車を待つ130D、キハ4520+キハ1010という当時の新鋭気動車と10系気動車の始祖が仲良く繋がっていた(以下、昭和46年12月)。

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 廃駅をめぐる  【9】

郷津  (昭和44年9月30日廃止)

今回の郷津は、以前の記事でも触れていて既出ですが、改めて“廃駅”として紹介します。郷津は、北陸本線の最東端に当たる駅で、地滑りが多く発生する災害多発地帯でもありました。昭和40年代に進められていた北陸本線の複線電化の改良工事に際しては、西隣にある谷浜と、東隣にある直江津を長大トンネルで直結することになり、その中間に当たる郷津には、代わりとなる駅も新設されず、昭和44年9月限りで廃止されることになりました。郷津は、明治44年に国鉄信越線の駅として開業し、のちに路線名が変わって北陸本線の駅となりました。昭和39年には、集中豪雨で地滑りが発生し、土砂で駅が埋まったこともあります。駅舎は山側の国道8号沿いにありましたが、周囲に人家はほとんどなく、訪れた時は、北陸本線の糸魚川~直江津の最後の非電化シーンを収めるため、能生、谷浜といくつかの駅に降り立ち、夕方になって、郷津に降り立ちました。郷津を通過する大阪発青森行き特急「白鳥」、堂々14両編成の82系特急が日本海沿いを行く姿は、“クイーン”の称号にふさわしいシーンだった(以下、昭和44年8月)

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 廃駅をめぐる  【8】

岩代川俣  (昭和47年5月14日廃止)

“岩代川俣”と言っても、私にとっても記憶が繋がらない駅でした。線名である川俣線も、今となっては正確な場所を言い当てることはできないと思います。廃止されたのが昭和47年で、地方交通線の大規模な廃止よりもっと先に、ひっそりと消えています。開業は大正15年で、松川~岩代川俣の12.2kmが開通しています。本来は、常磐線の浪江までの敷設を目的としていましたが、建設は途中でストップ、盲腸線のまま終わりました。途中に岩代飯野、岩代大久保(戦前に廃止)を設置していました。川俣、浪江、と来て思い出すのは、福島第一原発事故による放射線量の高い帰還困難区域などの居住制限に指定されたことです。昭和43年に、国鉄がまとめた、鉄道より自動車が相応しい赤字83線区のひとつに挙げられて、昭和47年5月14日に廃止となりました。川俣線の始発は、東北本線の松川、われわれ世代にとっては、松川事件のあったところとして認知されている駅。

川俣線の終点の岩代川俣、到着した727Dは、キハ52141+キハ22328の2連、いずれも郡山区の所属で、キハ22328は、郡山に1両だけ配置されていたキハ22。寒冷地用のキハ22の本州での配置は、青森、八戸、山形などは知られているが、これはキハ22南限の1両に当たるだろう(昭和46年9月)。

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 廃駅をめぐる  【7】

神居古潭  (昭和44年9月30日廃止)

“廃駅”、関西を離れて、全国の廃止された駅をランダムに巡ります。北海道は旭川の近く、深川を出た列車は、やがて石狩川の渓谷沿いを走ります。そのなかに、今回の駅、神居古潭がありました。昭和44年10月の函館本線滝川~旭川の複線電化によって、石狩川沿いの区間は、5つのトンネルが掘られて、ショートカットする新線に切り換わり、納内~神居古潭~春志内(信)~伊納が廃止となりました。駅がなくなる直前の北海道旅行の途中、乗車した列車は、神居古潭で10数分停車して急行列車の通過待ち、その間を利用しての駅周辺の撮影となりました。

神居古潭に降りたのは、無くなる直前、深川から乗った321レが、上り列車と交換のため10数分の停車で、翌月に無くなることも知っていたので、すぐ飛び降りて撮影した(以下、昭和44年9月)。 続きを読む

 廃駅をめぐる  【6】

湊町

少しの間、“廃駅”に戻ります。前掲の片町駅と同じく、大阪市内の終着駅だった湊町が平成6年になくなっています。ただ“廃止”ではなく、その後も「JR難波」に駅名改称されて存続し、駅も地下に潜っていますが、名称も位置も変わっていますので、“準”廃駅と言えるでしょう。

湊町の歴史を遡ると、大阪鉄道が、明治22年5月に湊町~柏原を開通させたことに始まります。明治33年には、大阪鉄道は関西鉄道に継承され、明治40年6月に湊町~奈良~名古屋が全通、その直後に関西鉄道は国有化されました。関西鉄道では、湊町は大阪方のターミナルとして位置づけられますが、国有化後は、名古屋方面へは、東海道線がメインとなり、関西本線はローカル輸送に徹することになります。ただ、唯一、東京から急行「大和」が運転されていましたが、それも昭和43年には王寺止まりとなり、のちに廃止されます。古い大阪人にとっての湊町は、京都で言えば京都駅山陰線ホームのように、煙が充満していたところだったのでしょうが、私には思い出は全くなく、駅名改称の前に一日だけ撮りに行っただけでした。地上駅の湊町は2面4線の頭端式ホーム、出入りしていた関西本線の電車は、快速は221系、普通は103系だった(以下、平成6年7月)。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑤

大石橋

京都駅八条口を出た市電は、竹田街道を南下して行きます。京と伏見を結ぶ街道のひとつで、東洞院通を延長する形で、江戸時代に拓かれと言います。途中、竹田村を通るところからこの名があります。沿道には車石が敷かれ、牛車による物資の輸送が盛んに行われていました。車石を専門に研究されているグループがあって、私も何回かフィールドワークに参加して、いまも各所に残っている車石を見て回ったこともありました。

大石橋では、市電九条線と交差します。ここには、九条車庫方面へ向かう南北両方向のポイントがありましたが、営業用ではなく、九条車庫へ入出庫する回送用でしたが、時に「臨」系統として営業のまま、九条車庫へ向かう系統もありました。

 

 

東寺の五重塔をバックに、夕暮れの大石橋交差点を渡って行く伏見線の500形(以下、昭和45年3月)。

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 江若鉄道百周年 切手発売

連投、失礼します。江若鉄道は、昨年が廃止50年で、さまざまな展示も行なわれましたが、ことしは、江若鉄道が創立されて100周年に当たります。会社側からすると、“廃止”より“創立”に重きを置くのは当然で、ことしは、現・江若交通が行なう催事が予定されており、その第一弾として、郵便局からオリジナルフレーム切手「江若鉄道創立100周年記念」が2月25日(火)から発売されます。
日本郵便のホームページに載せられている、フレーム切手「江若鉄道創立100周年記念」の見本。実は、会社から依頼があって、私も写真を提供しているし、古い時代の写真についても、山科の人間国宝にも許諾をいただいたりして、写真提供を行なっている。「鉄道」とは言いながら、名物だったボンネットバスも入っているのがミソ。

 

 

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線④ 

大西さんの京電地図

今まで見てきた伏見・稲荷線は、私が実見できた昭和45年の廃止直前の状況ですが、そのルーツは、日本最初の電車営業路線、京都電気鉄道に行き着くことを思うと、源流にも思いを馳せることになります。京電は、そのあと京都市に買収されたため、残された史料が乏しいのですが、京電研究の第一人者として、名を馳せられたのが、DRFC顧問をされていた故 大西友三郎さんでした。私は何度も大西さんのフィールドワークに参加させてもらい、博識ぶりを感じました。

大西さんの代表著作が、毎日新聞京都版に連載されていた「チンチン電車物語」です。17回に渡って詳細に記されています。大西さんは、根っからの鉄道ファンだけに、単なる机上の歴史物語ではなく、資料発掘、現地調査や、車両研究にも言及された第一級の京電資料です。その一部は、鉄道ピクトリアル356号の「京都市電訣別特集」の「京都電気鉄道物語」のベースともなりました。私も当時は毎日新聞を愛読していて、その初出記事に出会い、大切に保存してきました。そして、もうひとつ大西さんが纏められた京電関係の手書き地図が手許にあります。これは、表紙のタイトルからすると、鉄道友の会の講演資料のようですが、帝国陸地測量部の官製地図では得られない、一本の線路まで描かれて、当時の様子が活き活きと伝わるような、資料性の高い地図です。今まで紹介した停留所に関する地図を以下に挙げました。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線③

京都駅八条口

高倉陸橋を渡った市電は、東海道・奈良線と新幹線に挟まれて西へ下り、すぐ90度曲がって、新幹線を潜って、竹田街道と合流し、「京都駅八条口」に到着します。このルートは、本欄でも米手さんから質問があったように、もともとは斜めに向かう線形でしたが、昭和39年開業の東海道新幹線の建設工事に伴い、道路とともに移設されて、現在でも見られるルートとなっています。

「京都駅八条口」には、東側に、元の京都電灯東九条発電所、京都市水道局、西側には、市バスの八条車庫がありました。車庫の一部には、市電乗務員の詰所、引込線も一本あって、乗務員の交代が行なわれ、車両も留置されていて、伏見・稲荷線の運輸上の要となっていたところでした。京都駅に八条口という名称が定着したのは、新幹線の開業後ですが、停留所名も、昭和39年に改称されています。以前は京都駅南口であり、開業時は、八条新道の名称でした。

“花電車”の700形が京都駅八条口に停車中、ここで乗務員の交代もあって、しばらく停車する。背後には京都タワーが見えて、京都駅に停車する0系新幹線の鼻もチラリと見える(以下、昭和45年3月)。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線②

塩小路高倉

京都駅前を発車した伏見・稲荷線は、河原町線と同じレールを走って、すぐ塩小路高倉で南へ分岐、高倉陸橋で東海道本線を越します。前記のように、京電開業時には、伏見線は(旧)京都駅の南側で止まっていて、このルートはありません。京電は、東海道線との平面交差の申請を出すものの認可が下りなかったため、伏見線の車両を検査などで車庫のある東洞院七条下ルまで運ぶ場合は、夜間、人力で押して東海道線の踏切を渡っていたと言います。のちに伏見線の車庫が京都駅八条口にできて解消するものの、乗客の利便性からも市内線との一体化は急務でした。そこで、自力で東海道線を乗り越すことにし、当時、塩小路通で止まっていた高倉通を南へ延長し、築堤と陸橋で東海道線を越して、南西側に下りていく高倉新道を造りました。これが明治34年のこと、塩小路高倉は、この時にできました。 京都タワーを背後にした伏見・稲荷線の500形(Mさん撮影、以下昭和45年3月)

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線①

京都駅前

先のイベント案内でも触れましたが、京都市電の伏見・稲荷線が廃止されたのが昭和45(1970)年3月31日で、ことしは廃止から数えて50年に当たります。その前後の出来事で言うと、前年の昭和44年11月の江若鉄道に続く地元の鉄道の廃止で、当時、私は現役の2回生、いちばん脂が乗っていた時期だけに、廃止直前は、連日写しまくったものでした。

その発信については、昨年にも地元の大学のワークショップで講演したり、先般も伏見区役所で展示したりしましたが、本欄では、ほとんど掲載することなく経過していました。しかし、廃止50年と聞くと、回顧の念が沸々と湧いてきて、先日も伏見・稲荷線の全区間を歩いて回って、50年後の様子を確認してきました。先の伏見区役所でも、熱心に展示をご覧になる方がおられました。記録をした人間としては、これを機に、皆さんに見ていただくのも、意義のあることと思い、先の「トロバス編」に続いて「市電が走った街 京都を歩く」を掲載します。また、今回は、私の写真だけでなく、叡電沿いに庵を結んでおられる先輩のMさんにも写真の協力をいただくことになりました。では、停留場ごとに、京都駅前から伏見線の今昔を見て行きます。50年前の3月、春休みに入った日曜日午後、伏見・稲荷線のりばは賑わっていた。背後の市電のりばにも多くの市電が待機している。当時、京都駅前の市電のりばは、東西に5面あり、日本最大級の路面電車ターミナルとして、活気にあふれていた(以下、特記以外昭和45年3月)。

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 ことしは 伏見線廃止50年

間際になっての案内で恐縮ですが、明日2月16日(日)だけ、伏見区役所(伏見区総合庁舎)で、こんなイベントが開かれます。

 伏見 歴史Do!フェス2020
 2月16日(日)11:00~16:15
 伏見区総合庁舎 一階ホール(京阪丹波橋駅から西へ10分)

伏見の歴史に関係する、さまざまな団体が合同で資料展示・プレゼンを行なうものです。伏見線の歴史の掘り起こしに努めておられ、私もお世話になっている「伏見チンチン電車の会」さんも出展され、私も写真展示、映像解説のお手伝いをします。何分にも展示は一部であり、急なお知らせでもあります。強制はしませんよ。ヒマを持て余して困っておられる方だけに、そっとお知らせしておきます。
京都市電伏見線…、昭和45年3月限りの廃止だから、ことしちょうど50年を迎える。しかも日本最初の電車営業路線として京都電鉄伏見線が開業してからは125年だ。もう50年経つのか、ほんとに感慨深い。伏見線の思い出は、何と言ってもDRFCのヘッドマークの製作だ。その前年の江若鉄道廃止のヘッドマーク贈呈に味をしめて、伏見線でも‥‥と思い、例によって、あり合わせの材料で急ごしらえをして、3月30日午後、予約もなしで九条車庫へ乗り込み、局長に直談判した。江若は即OKだったが、そこはお役所のこと、その場では結論が出ず、預かりの形で、その日は終わった。果たして翌31日の最終日、朝早くから伏見線に駆けつけると、なんと廃車になる500形のトップナンバーで、装飾車の501に燦然と輝いているではないか!しかも、本来「急」マークを取り付けるステーにDRFCマークを取り付けたため、「急」はなんと腰板ライトの網に差し込むという心配りで、何とも賑やかな前面だ。急いで、分かる限りの会員に電話して吉報を伝えた。結局、この日一日、最終電車まで501はヘッドマークを付けたまま走り、多くの市民の目に焼き付いた。

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 京都で進む 駅リニューアル (2)

阪急 西院駅

続いて阪急西院駅の建て替えですが、こちらは、すでに完成して供用を開始しています。西院駅は、昭和3年に新京阪鉄道が地上駅を開業し、昭和6年に関西初の地下鉄道が京都(現・大宮)まで開通して、西院も地下駅となりました。その後、約90年間、姿を変えずに現在に至り、その価値が認められて、土木遺産「阪急大宮駅と大宮・西院の地下線路」にも認定されました。しかし、その構造のため抜本的な改良もできず、上下移動は階段だけと、バリアフリーには縁遠い駅となっていました。そこで、市の制定した「バリアフリー移動等円滑化構想」に基づき、阪急西院駅と、京福西院駅も含めて、2015年からバリアフリー化と乗継利便の向上を目的に、整備を進め、京福西院駅に直結する北改札口、南改札口が完成し、両駅の乗継が便利になったほか、エレベーターも設置されました。引き続き、その仕上げとして、阪急西院駅ビルの建替えに着手、駅機能の高度化やバリアフリー化を実現した新しい駅舎ができました。 西大路四条交差点に姿を見せた阪急西院駅。駅の機能はすべて地下に潜り、駅ビルそのものは、銀行や診療所が入る。前掲の投稿でも「駅はランドマーク」と書いたが、何の主張もない、無機質な4階建てとなった。

市電時代の西院駅は?と探したら、半分だけ写ったものが出てきた。一階は、阪急共栄ストアーが入っていた。何でもある小さなスーパーで、付近にまだコンビニなど無い時代、結構に賑わっていた記憶がある。

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 京都で進む 駅リニューアル (1)

嵐電 北野白梅町

地元・京都の西側で駅の改修が進んでいます。まずは嵐電の北野白梅町駅のリニューアル工事の進捗を見てきましたので報告します。嵐電の交通ネットワーク強化施策の一環として、3月の市バスダイヤ改正に合わせ、駅とバス乗り場の一体化を行うものです。三面二線だった駅を、従来の2番線を使った二面一線の突っ込み式に改め、1番線のスペースを市バス専用の発着場として、バスとのシームレスな乗り継ぎを可能にするものです。すでに発表された3月20日の市バスダイヤ改正によると、急行102号系統(錦林車庫前~北大路BT)の往路(金閣寺方面)がルート変更し、新発着場へ乗り入れを行います。従来、バスからは交差点を渡って駅に着いていたのに比べて、今出川通から嵐山方面へ、バスと嵐電が直結されることになります。白梅町交差点、イズミヤの右側で進む嵐電北野白梅町駅のリニューアル工事。市電がまだ走っていた約44年前の白梅町駅。イズミヤも建っていなかった。

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 廃駅をめぐる  【5】

片町駅

「廃駅」、兵庫から大阪へ移ります。平成9年3月のJR東西線京橋~尼崎の開業によって、片町線の片町駅が廃止されました。JR東西線の工事中、片町駅は仮駅舎となっていましたが、以下の写真は、仮駅舎になる前の片町駅です。

片町駅は、明治28年、浪速鉄道によって片町~四條畷9.8kmを開業したことに始まります。片町駅のあった場所は、寝屋川北岸に沿った、文字どおり片側にしか街がないような寂しいところで、なぜ浪速鉄道は大阪の始発駅としたのか、不思議な思いですが、川沿いにあったことを考えると納得がいきます。寝屋川を航行する船による物資輸送の代替、または船からの積替え輸送を担っていたのです。前掲の「廃駅」の尼崎港も同様ですが、明治期、蒸気鉄道の敷設は、旅客以上に、貨物輸送が大きな目的だったのです。

当時の片町駅の外観、昭和7年に片町線が電化され、関西に初めて国電が走った際に建てられた。真四角の何の愛想もない、無骨な造りだった(以下、昭和51年3月)。

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 廃駅をめぐる  【4】

鍛冶屋駅

鍛冶屋線は、加古川線の野村(現・西脇市)から分岐して、鍛冶屋へ向かう13.2kmの路線で、途中には、西脇、市原、羽安、曽我井、中村町の各駅がありました。その前身も、前回で紹介の三木線・高砂線と同様の播州鉄道で、西脇~鍛冶屋の全通が大正12年5月のことでした。播州鉄道は、現在の加古川線加古川~谷川のほか、北条線(現・北条鉄道)も開業しており、加古川を中心にした地域ネットワークを形成していました。その後、播州鉄道は播丹鉄道に譲渡され、さらに昭和18年に国有化されて鍛冶屋線となりました。鍛冶屋線の輸送密度は、2000人を切っていて、第三次特定地方交通線に指定されましたが、野村~西脇のラッシュ時の輸送量が多く、この区間だけでも存続を希望する意見が多かったものの、部分存続は認められず、JRに移行後の平成2年3月限りで野村~鍛冶屋13.2kmが廃止となりました。なお第三次特定地方交通線に指定されたのは、JR西日本では大社線(廃止)、宮津線(転換)、能登線(転換)がありました。JRになった平成の時代に、第三次特定地方交通線として廃止された鍛冶屋駅、一面一線の終端タイプの駅で側線が何本かあった(以下、平成2年3月17日)。

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 北のC62 全記録 〈18〉

昭和46年3月20日 一人で再び目名へ

前掲の上目名での撮影を終えて、馴染みの倶知安ユースに泊まり、翌日、今度は目名へ向かいました。ずっと同行していたT君は、どうしも室蘭本線礼文でD52を撮りたいと一時的に離れて、本日は久しぶりの一人での目名行きとなりました。前回の目名下車は、蘭越寄りに歩きましたが、今回は上目名寄りに歩きます。上目名に向かっては、連続20‰勾配が続いています。
目名から上目名寄りに1キロほど歩いたところ、撮影地として特に知られていないところで、周囲には誰もいない。右手はなだらかな斜面で、目名の集落が眼下に広がっている。いつもどおり10分前ぐらいから、例のドラフト音が風に乗って聞こえてくる。カーブの向こうから、爆煙を吐いた巨体が見えた。フィルムを巻き上げ続けて、連続シャッターを切る。“つぎが本番!”と思った瞬間‥‥。

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 北のC62 全記録 〈17〉

昭和46年3月19日 一年半ぶりに上目名へ

しばらく投稿が空きましたが、北のC62、続けます。渡道第一日目に、目名、長万部でC62重連を撮影したあとは、道北・道東を一週間掛けて転戦しました。稚内から「利尻」に乗って札幌に着いたのは、その8日後でした。この間、北海道を回っていたDRFCメンバーは、一緒に行った四人組だけかと思っていたのですが、逗子のTさんも北海道を回られて、C62も撮影されていたことを、先日、直接お目に掛かった際に聞きました。同行のT君とともに、まずは小樽築港機関区を表敬訪問、糸崎区から転属したC6216と、呉線で会って以来の再会を果たしました。小樽の街は、道路も地肌が見えている状態、線路端の雪は灰色で、もうすっかり春が到来した印象でした。

下り「ニセコ1号」は一年半ぶりの上目名151キロポストへ。今日もツバメの2号機が先頭だった。

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 北のC62 全記録 〈16〉

昭和46年3月11日 初めて目名で下車 雪のC62を撮る

では、昭和46年3月訪問の撮影記、第一日目から始めます。前記のように、四人で、当時はまだあった胆振線に乗り、北湯沢駅すぐ近くのユースホステルに泊まり、朝、マイナス15度のなか、胆振線のDC列車に乗車。倶知安へ出て、10時16分発の524Dで、目名へ行きました。今まで上目名は、よく下車したものの、その手前にある目名の下車は初めてで、駅前には集落もあって、人間の生活感が感じられます。すぐ近くに、国道5号が走っていて、完全に除雪された道を、蘭越寄りに2キロほど歩いた函館本線をオーバークロスする地点へ向かいました。いまグーグル地図で見ると「逆川跨線橋」と書かれていましたが、ここは、あの廣田尚敬さんお気に入りの場所で、陸橋から、超望遠でとらえた、重連を圧縮した写真をよく見ました。待つこと、約1時間、背後に連なる後志の山々の麓から、あの懐かしい爆音がかすかに入ってきました。
カーブの向こうから現れた「ニセコ1号」、第一日目からして、前補機がC622とは幸先が良い。空も青空が広がってきた。さすがに、今までと違って、煙の具合は寒い時期ならでは。驀進、爆音はさすがC62!

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