tsurukameさん・奥山さんのC58239 「とれいん」に載る

先日発売された「とれいん」6月号のトップに、さきごろ釜石線「SL銀河」牽引用として、動態復元されたJR東日本のC58239の現役時代の写真が掲載されている。これら3点の写真は、ことし4月21日付けの当掲示板でも発表された、我らがクローバー会のtsurukameさん、奥山さんの撮影によるものである。詳しい内容は、その記事を見ていただくとして、Tsurukameさんの写真は、雪の山田線区界で貨物列車を牽く同機で、なんとカラー写真で撮られている。奥山さんの同機は、盛岡機関区で撮られたもので、独特の郡山工場式集煙装置の構造がよく分かる角度で撮られ、宮古機関区所属を示す「宮」の区名板も輝いている。いずれも昭和42年の撮影だが、両者は別の日に、それぞれが東北巡りの途中に撮影されたものである。

いかにして同誌に発表されたのか、その謎を解明すべく、私は大江戸線某駅より徒歩8分の編集部へ向かい、旧知の編集部Mさんから聞き取りを行なった。

IMGs誰も撮っていなかった現役時代のC58239の写真が掲載された。“写真発見!”と「!」つきでサブタイトルが付けられているように、その感激ぶりが伝わってくる。

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50年前の撮影地を歩く -2-

    “タカバシ”で撮った「替えだま」

IMG_0002syu高倉陸橋から眺めた上り「第2こだま」、新幹線開業数日前の光景(昭和39年9月)

今回の撮影地は、京都駅東側に架かる高倉陸橋、通称“タカバシ”だ。京都駅に発着する列車が眺められる陸橋は、昔から汽車見物の名所地で、多くの写真が残されている。私も小さい頃からよく行ったものだ。構内に梅小路機関区の支区があって、蒸機がいたのを覚えている。支区は、東海道線電化後もしばらくあったから、小学校の1年か2年に行ったことになる。新幹線建設前だから、陸橋上を走っていた伏見線は、廃止前とは違うルートで八条口方面へ向かっていた。

さまざまな列車を眺めるのが、無上の楽しみだった。貨物列車の両数を数えるのも楽しかった。乙訓の老人も同じことをしていたと言う。老人の時代は80両あったそうだが、私の時は45、6両だった。日によって貨物の量も違うだろうが、決まってこの両数だった。さて、50年前の“タカバシ”、ある列車の撮影を目的に自転車で訪れた。

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赤い「ラピート」参上

南海電鉄の特急「ラピート」50000系の一編成が、なんと赤一色に塗り替えられて4月26日より運行を開始しています。先刻ご承知とは思いますが、過日、大阪で時間があって一時間ほど立ち寄ってきました。

syoP1040121鮮烈な赤一色に塗り替えられ、関空線開業・ラピート運転20周年を飾る(新今宮)

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菜の花満載の桂川へ

桜もアッと言う間に散って、すっかり新緑になりました。陽も長くなり、五月晴れが続く、鉄道写真には格好の季節です。デジカメで「風景」モードにすると、青空、新緑がホントにキレイに写ります。私も重い腰を持ち上げて出掛けることになります。遠方へ行くのは困難なため、地元ばかり回り、ワンコインよりもさらに安い激安撮影です。

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▲阪急桂川鉄橋、毎日のように電車で通ると、河川敷は菜の花がいっぱいだ。車窓から見るだけでなく、ぜひ行ってみたい。桂川は、昨年の台風18号の豪雨で、嵐山が洪水になるなどの被害があったが、今も河川敷には、流木が残ったり、土砂がたまったりと、まだ荒れた状態がまだ残っているが、季節は間違いなくやってきた。

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窓から写した駅・列車 -5-

syIMG_0017因美線美作加茂駅、通過する列車は、大阪発米子行き急行「かいけ」の5両編成。昭和41年の高校2年生、所属していたカメラ部の旅行で、鳥取から倉敷へ向かう途中、買ったばかりの一眼レフで交換列車を写したもの。当時、因美線は、陰陽連絡線として、優等列車が3本運転されていた。「かいけ」のほか、宇野-鳥取間の「砂丘」、大阪-上井間の「みささ」で、「砂丘」は、走行中にタブレット授受を行なう最後の急行列車として、平成9年まで残存した。

「かいけ」は昭和37年10月改正で、三原-出雲市間の伯備線経由の準急「皆生」として誕生した。ただ、乗車率は良くなかったようで、昭和40年10月改正で、宇野-出雲市間に変更され、「たまつくり」と改称される。そして同改正で、大阪-米子間に、姫新・因美線で結ぶ準急として、かな表記の二代目「かいけ」が走り出す。大阪を朝に出て、米子には夕方に到着する、皆生温泉などの観光地へ向かうのには格好の列車となった。しかし、昭和43年10月改正で、列車名統合により、「かいけ」は、「みささ」とともに「伯耆」に統合され、「かいけ」の名は3年で消えた。

その後、因美線は、平成6年の智頭急行の開業で、激変した。唯でさえ過疎化が激しいなか、優等列車もすべて智頭急行経由になってしまったから、智頭-東津山間の凋落ぶりは、著しいものがあった。この写真を撮った当時は、優等列車も含めて13本あったが、今では7本、鳥取までの直通は1本だけだ。

sy数年前、青春18きっぷで因美線を通しで乗ったが、線路の保守が十分でない箇所が多く、徐行運転の繰り返しだった。その時に、美作加茂駅で撮った交換列車はキハ120の単行だ。駅舎は2003年に新しく新築された、待合室には、以前の因美線の写真が飾られていた。私の仕事時代に、懇意にしていた写真事務所の社長が、この美作加茂の出身で、小さい頃の思い出をよく聞かせてもらった。当時のこの写真を見せると、“写真を生業とする人間でも撮っていなかった”と言われた(昭和41年7月)。

 

50年前の撮影地を歩く -1-

の八瀬から

私が鉄道の写真を撮り始めたのは、公式資料(?)によると、昭和36年、小学校6年のことでした。N電が廃止されると聞いて撮りに行ったのが、我が鉄道写真の起源と言えます。ただ、その時は、父親と一緒に撮っただけで、独り立ちして自分の意思で写したのは、その少しあと、昭和39年のことでした。

今年でちょうど50年目、と言うことになります。昭和39年と言えば、東海道新幹線開業、東京オリンピック開催と、日本が沸き、高度成長の波に乗り始めた、記憶に残る年とも言えるでしょう。そこで、自分の写真で50年前を回顧、と企てたものの、なにせカメラは、当時、席捲していたハーフサイズカメラ、確かに撮影枚数は倍撮れるけれど、フィルムサイズが半分になっては、画質は目を覆いたくなるほどヒドイもの、とても、単独で見せるシロモノではありません。

そんなある日、偶然にも、50年前と同じ場所で撮影する機会がありました。なるほど、50年前と今昔対比なら行ける! と膝を打った次第です。遅ればせながら、まずは桜の話題となりました。

IMG_0004sy50年前の京福八瀬付近である。高野川を渡るのは、デナ1形3+4。デナ1形は大正14年製の木造車で、1~6の6両がいた。当時は、両運・非貫通を片運・片貫通化した2両固定編成となり、叡山線専用となっていた。しかし、阪神から小型車が大量に転入し、デナ1形はまもなく全廃となる。

IMG_0008この年、八瀬では、京都新聞社主催の「新世紀京都博」が開かれて、その見物に来て、横の橋から撮ったものだ。昭和30年代、各地でこのような博覧会がよく開かれていた。その総決算として、昭和45年の日本万国博覧会へ結実していくのだろう。今から見ると、チープな展示だが、娯楽の少ない時期、多くの見物客を集めていた。「新世紀京都博」の目玉展示のひとつは熱海軽便鉄道の7号機で、現在、熱海駅前に保存展示されている“へっつい”である。はるばる熱海から来た蒸機に人が群がっていた。

博覧会終了後の跡地利用として、八瀬遊園地が開業し、「かま風呂」だけで有名だった八瀬は、水族館や大型プールもできて、京都市内唯一の遊園地として、大勢の人を集めることになる。京福の駅名も、翌年に「八瀬遊園」と改称され、八瀬を本格的なリゾート・レジャー施設にしようとする会社の目論見が見えていた。(昭和39年4月)

140407_018sysy今年の桜シーズン、名古屋から都市交通研究家のHさんが入洛され、一緒に桜の撮影に向かった。嵐電を写したあと、八瀬比叡山口を訪れた。

八瀬遊園はその後、「スポーツバレー京都」、「森のゆうえんち」と名前を変えながら営業を続けてきたが、施設も狭小・老朽化して入園者は激減、平成13年に閉園となり、跡地には会員制のリゾートホテル「エクシブ京都八瀬離宮」が建った。駅名も、遊園地の閉鎖により、平成14年に「八瀬比叡山口」に改称されている。

たまたまホテル内に迷い込み(?)、50年前と同じ場所からの撮影ができた。バックは比叡山で、高野川に架かる鉄橋も全く変わっていない。ただ線路に沿った桜は、ほとんど無くなってしまった。八瀬比叡山口駅周辺はまだ桜はあるものの、全般に衰えが見え、花の勢いはなかった。家族連れで賑わった駅も、すっかり枯れた駅となっていた。

京都から 市バス・市電の話題ふたつ

地元ネタですが、今日は京都市電・市バスに関するイベント・展示場へ行ってきました。

syP1030339 syIMG京都市バスでは、本日、3月22日から新運転計画が実施されている。交通局では“大快革”と称し、三十数年ぶりの車両の大量増備を行ない、主要系統の増便、直行系統・急行系統の新設、夜間・深夜便の充実、均一運賃区間の拡大などを行なった。またサービス充実の一環として、“分かりやすさの向上”を挙げ、京都駅前を中心とした案内サインのデザイン一新、ラインカラーの導入を行なっている。余談ながら、上の写真の右端の6291号車は、1995年製。もう20年近く走り続けている、日本の公営バスの最古参車、今回の改正では車両増備があったものの、増発・増便がそれを上回り、結局、20世紀生まれのバスもまだ活躍することになった。

syP1030328本日、京都駅前では、京都駅前バスのりばリニューアル記念式典が行なわれた。舞妓はんの背後が、新しくなった総合案内モニター。挨拶した京都市長は、「全国で公営バスが衰退して行くなか、京都市バスだけは、より便利に積極的に打って出る」とブチ上げた。式典では、局の要職に就かれた会員のKさんと会って話す機会があった。Kさんは、駅前のサイン・デザインのリニューアルを担当されたそうだ。一晩で、京都の街の表情が変わってしまうほどの作業はさぞたいへんだったろう。

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窓から写した駅・列車 -4-

中国地方の交換駅

中国地方での窓から写した列車、続きます。なんせハーフサイズのネガを、さらに大幅トリミング拡大、その仕上がりにはご容赦を。

IMG_0014昭和39年に家族旅行で、山陰・山陽地方を旅行した時だ。6月の豪雨災害で、山陰本線は各所で寸断され、2ヵ月近く不通になり、ようやく開通したばかりだった。ダイヤはまだ混乱していて、乗車予定の宇野発博多行き準急「しんじ」も、途中の石見大田からの特発となった。準急「しんじ」は、宇野から伯備線・山陰本線・山口線経由の博多行き、という当時ならではの経由の準急だった。出雲市から石見大田まで普通列車を乗り継いで、ようやく「しんじ」に乗って山口線に入った。途中の日原駅で交換したのが、写真の小郡発石見益田行き527レを牽いていたD606〔津〕、独特の大型の集煙装置を着けていた。津和野区に配置されたD60は、山口線の客貨列車を牽いていた。本州で客車列車を牽くD60の活躍が見られたのは、山口線と磐越東線だった(昭和39年8月)。IMG_0005山陽本線は、最後の電化区間として、小郡~広島が昭和39年10月に電化が完成している。山口線で小郡に出て、広島まで普通列車に乗った。牽引は、EF60の500番台で、この区間の電化工事が完了していたが、貨物列車は、まだD52の天下だった。島田駅で長時間の停車、その間、上り特急「かもめ」が追い越して行く。普通列車に冷房など皆無の時代、窓を開け放っても、熱気は全く収まらない。うだるような暑さのなか、それをさらに暑くするように、D52372〔柳〕が、ワキを連ねた急行貨物を牽いて通過して行った。山陽本線の貨物を牽くD52の写真は、この一枚だけ残った(昭和39年8月)。

鉄道展〈東北を旅して〉その6 開催中

佐竹保雄さんの鉄道展〈東北を旅して〉その6「3・11東北を忘れない」が、いま開かれています。会場は前回と同じ「ひと・まち交流館 京都」、1階展示室には、テーマ別の関連する写真・資料・グッズがところ狭しと展示されています。

クローバー会では、「個人のイベントにも、協力を行う」ルールのもと、会員応募の写真展を行ったほか、設営、受付、撤収時には、有志が協力して会場に詰めています。syP1020456

震災当日の3月11日には、“祈念の集い”も開かれ、多くの参加者が黙祷のあと、ギター演奏、そして、参加者が、3年を迎えた東北への思いを語り合いました。終盤を迎えた展示は、つぎの16日(日)まで。皆さんのご来場、お待ちしています。

 

今年の展示は、圧倒的な写真展示が見もの。週末はぜひ「ひと・まち交流館 京都」へ。

syP1020479クローバー会では、個人イベントへの協力の一環として、「東北の鉄道いま・むかし」と題した写真展を開催し20点を出品。また、故・天野克正さんの遺作、珠玉のモノクロ写真約50点を一挙に掲載している。

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窓から写した駅・列車 -3- 

中国地方の交換駅

昭和40年代初頭の中国地方、山陽本線は昭和39年に全線電化したものの、電気機関車の不足から、一部では蒸機列車がまだ残っていましたが、この時期、C62などの大型蒸機の働き場所は、呉線へ移って行きます。初めて呉線を訪れたのは、昭和41年3月、高校2年の時でした。

 

syIMG_0016夜行鈍行に乗って、早朝の広島に着き、駅で出入りする列車を撮ったあと、広島8時24分発の呉線の客車列車で糸崎へ向かった。途中の忠海で停車、通過列車を待つ。やって来たのは東京発広島行き急行「安芸」、そして牽引機は待望のC59だった。C62はその前の広島でも撮ったが、C59は初めてだ。C62は、まだ電化後の山陽本線でも見られたし、北海道や常磐線でも見られた。しかし、このC59こそ、呉線でしか見られない、最後の3両だった。一瞬の通過だったが、C62とは対照的な優美な、日本の蒸気機関車の完成形を見るような優美なスタイルが、一瞬で見て取れた。

当会でも、準特急さんをはじめ、乙訓老人さん、米手作市さんと言った錚々たる方がたが、本欄で蒸機の中ではC59がいちばん好きと仰っている。とくに戦後型の船底テンダーがお気に入りのようだ。しかし、私がそれを理解するには、少しだけ年齢が若かった。写真ではよく分からないが、次位には三軸ボギーのカニ38を連結している。「安芸」に通常連結されていた、側面が総シャッターになった試作車だった(昭和41年3月)。

syIMG_0027呉線へはその後も年に一回は必ず行っていた。その多くは、九州旅行の行き掛けに寄った。この時も、尾道のユースに泊まったあと、呉線の安登で走行中を撮ってから九州へ向かう計画だった。風早、という風雅な名前の駅で、C62の牽く624列車と交換した。何気ない写真だが、ホームに立つ赤ん坊を背負った母親の着た“ねんねこ”も、もうすっかり見かけなくなった。背後の民家と柵も何もないような構造も、以前はよく見られたが、さすがに今は見られない(昭和43年3月)

 

窓から写した駅・列車 -2-

 中国地方の駅交換

「窓から写した」シリーズ、はじめます。まずは、中国地方の駅交換シーンから。時代は、昭和40年代初頭、高校生の頃で、家族旅行でも撮影旅行でも、行き易い中国地方へはよく行ったものでした。まずは宇野線から。今でこそ宇野線は盲腸線に成り下がってしまいましたが、当時は、四国連絡のすべて担っていた一大幹線でした。syIMG_0013終点、宇野駅。跨線橋の向こうには瀬戸内海が広がっていた。宇野発のゲタ電の窓から見ていると、宇野線のピカイチ、下り特急「うずしお」が入線してきた。「うずしお」は、大阪を始終発とする四国連絡特急で、昭和36年10月改正で登場した。当時、関西~宇野は準急(のち急行)の「鷲羽」が主力で、いきなりの151系特急の誕生だった。特急は500キロ以上運転が相場のなか、200キロ余りは異例の特急設定だった。

列車は、折り返し新大阪行き「ゆうなぎ」となるため、ホームにはヘッドマークが用意されていた。左の客車編成は、「うずしお」より一足先に到着した東京発の急行「さぬき」(昭和40年3月)。 

syIMG_0014宇野から乗ったゲタ電が、岡山到着を前にした妹尾で10分余りの停車、なにせ宇野線は単線のところ、すべての四国連絡列車が通るから、列車交換が頻繁にある。やがて通過したのは東京発の急行「瀬戸」、この前の「さぬき」は寝台夜行列車だが、「瀬戸」は2等車(当時)が主体の夜行列車。その先頭に立つのは、新製まもない宮原区のEF61だった。パノラマウインドゥ、1個ライトの顔もなかなか魅力的だが、よく似たEF60と比べると、SGを積んでいるぶん1.6メートル車体が長い。側面の鎧戸・小窓が横長にまとめられているため、さらに長く見える。その特徴ある側面を見せながら旅客列車の先頭に立つ姿は、たいへん魅力的だった。妹尾駅は、地上駅のまま残り、駅舎は橋上化されている。

窓から写した駅・列車 -1-

まだ車両の窓が開く時代、クロスシート車に乗ると、私は決まって、進行右側窓側の席を確保しました。交換列車を写すためです。皆さんも同じような経験があると思います。単線の交換駅に着くと、交換する列車や、通過する列車を今か今かと待ったものです。窓から首を出して撮った写真も、長い間にずいぶんのカット数になりました。

車内から一歩も歩くことなく、窓から首を出すだけの、究極のズボラ撮影ですが、列車だけでなく、ホームや駅舎の様子、乗客の様子が、時代、社会を鋭敏に映し出しています。今年のシリーズは、列車交換時の写真を集めてみました。

IMG列車の窓からの撮影に魅かれた契機となった、今から50年前の山陰本線の鎧駅での交換シーン、家族旅行で、京都からずっと普通列車に乗り続けて、玉造温泉へ行く途中だった。真夏の太陽がガンガン照りつける。窓からは、ムッとした熱気のなかに、潮の香も混じってくる海辺の駅で、急行「白兎」の交換待ちだった。連続するトンネルのため、ライトを点灯したまま、タイフォン一声、通過する上り「白兎」をオリンパスPEN EESで写した。

「白兎」は、昭和31年、山陰本線京都口に初めて設定された準急で、C57の牽く松江行き客車列車だった。昭和36年10月改正で、キハ58系の急行になり、大阪始終着の編成も併結した。C57時代からヘッドマークに描かれた白うさぎが描かれた小粋なヘッドマークは、キハ58になってからもヘッドマークに引き継がれた。この時代、京都口の「丹後」「きのさき」などはまだ準急で、キハ58で統一された「白兎」は、際立った存在だった。(昭和39年)

 

三井芦別C58-2のプレート色

引き続き、以前の問い合わせに対しての回答です。

かつて三井芦別鉄道で走っていたC58-2は、現在、旭川近郊の旅館に保存されているそうですが、保存先の親戚の方からの問い合わせコメントが本掲示板にあり、C58-2のナンバープレートの色について、昔から気になって問い合わされていました。同機を購入・保存された方は、すでに他界されており、保存当時のことが分からず、真相は謎のままと記されていました。

私も三井芦別鉄道へ一度だけ行っており、確かカラーも撮っていたはずと、探しますと、確かにカラーが2枚だけありました。C58-2のナンバープレートは赤でした。

58-2-3_1[1]ネット先から拝借した現在のC58-2は、ご覧のようなもので、確かにナンバープレートの地色は、剥げ落ちて元の色が判然としない状態ですが、ハイフン入りのナンバープレートは貴重です。保存されているのは、温泉旅館の大広間という、異色の場所です。最近、元プロ野球選手が日本の全保存蒸機を写した本を出版していますが、それによると蒸機の保存総数は600両余りとか。旅館の大広間に鎮座する例は、おそらくここだけでしょう。C58-2を酒の肴に宴会もオツなものかもしれません。

syIMG_0013赤ナンバーの三井芦別C58-2、自社発注機のC58で、1、2の2両が在籍した。給水温め器がないのが最大の特徴。(頼城にて、昭和44年9月)

syIMG_0012DC列車もカラーで紹介。根室本線と平行しながら芦別を発車した頼城行きのキハ103+キハ101、キハ100形キハ101~103の3両あり、昭和33年製造の湘南タイプの気動車。鉄道廃止後、3両とも関東鉄道鉾田線に転じた。塗装は、かつて阪和線のスカ形に塗られた、国鉄色名で言う緑1号に酷似している。一般に言う青緑色で、この色はありそうで、なかなか無い色だった。

 

DD401、ありました

ことし初めての投稿です。正月以来、雑事に振り回されていましたが、ようやく冬眠から覚めて、掲示板に向かいます。

まずは、掲示板に寄せられた問い合わせについて、私なりの回答から。

以前、西村雅幸さんから、「DD40の目撃者、おられませんか」として、新三菱重工で製造された試作ディーゼル機関車、DD91について、配置された梅小路区・吹田区での現役の姿の問い合わせがありました。

同機は製造後、昭和31年5月、梅小路区へ入換用に配置、昭和35年5月から吹田一区で、吹田操車場、尼崎港線で使用され、昭和37年3月に新三菱重工へ返却されています。

昭和37年返却とあれば中学一年生の時、残念ながら私も写していませんが、“何かあったはず”と探しますと、ありました。以前にTさんからいただいた写真でした。ただ、モノクロのため、お望みの塗装は判然としませんが、古いピク誌を見ますと、“ブドウ色”と記されていましたので、茶に白線のような気がします。ただ、鉄道図書刊行会「日本の内燃車両」に掲載されている同機の写真と比べると、白線の太さ・回り方が違い、ある時期に塗装が変更されているようです。模型作りの参考になれば幸いです。

余談ですが、その後に、新三菱重工で試作されたDD91も、福知山区に配属され、山陰本線の京都~福知山で使用されました。返却は昭和40年ですので、私も京都駅で何回か撮っています。返却後、山陽本線すぐ横、三菱三原の工場側線にしばらく置かれていました。呉線へ行った時、電車から見るのが、楽しみのひとつでした。

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 梅小路機関区のDD401。昭和30年代、外国の技術と提携した試作ディーゼル機関車が国内の車両メーカーで製造された。その多くは、国鉄が借り入れて、旅客列車の牽引、入換に供され、ディーゼル機関車の有用性の検討と、無煙化の一助とした。1形式1両ばかりで、当初は40台の追番、のちに90台の形式が付けられた。

駅を旅する 〈20〉

西大山

最後は“日本最南端の駅”西大山。以前にも書いたが、正確には日本最南端は、沖縄ゆいレールだが、普通鉄道では、いまも最南端であることに変わりない。ただ碑の「日本最南端駅」はツッコミから逃れるため、今は「JR日本最南端駅」に変えられているらしい。

西大山IMG_0020sy西大山IMG_0018sy昭和42年、高校2年生の春、指宿のユースを朝に出発して西大山へ向かった。開聞岳のふもと、菜の花が咲き乱れる、南国ムードいっぱいのなかに駅はあった。乗降客は自分一人だけ、最南端駅訪問の感激の余り、三脚にカメラを載せて何枚も自分撮りをした。約40分の滞在のあと、枕崎発西鹿児島行き726D、キハ2050ほか3両編成の列車で、鹿児島機関区へと向かった。その後、指宿枕崎線に乗ったことはあるものの、西大山は二度と降りることはなかった。

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駅を旅する 〈19〉

吉松

人吉から山線を越えると、吉松。ここも運転上の要衝駅である。人吉と違うのは、町の規模はうんと小さいが、その分、機関区は広々していて、背後は一面の田んぼが広がっていた。矢岳越えを控えて、重装備のD51が出入りしたかと思うと、吉都線C55・C57や山野線C56も姿を見せる、出入りの機関車は変化に富んでいた。

IMG_0001夏の終わりの午後、C55の熱気も加わり、ホームは暑そうに見えるが、ベンチの女性はいたって楽しそう。吉松まで来ると、さすがにローカル線ムードあふれる雰囲気だった(昭和45年)。

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駅を旅する 〈18〉

人吉

人吉は、肥薩線の川線・山線の中継地点であり、要衝の駅として賑わっており、駅裏には機関区もあった。鉄道写真の立場から言えば、矢岳越えの写真を撮るための前線基地でもあった。朝早くから、とくにいい時間帯に通過する夜行1121列車を大畑で撮ろうとすると、どうしても人吉に泊まり、一番列車で向かわなければならない。しかし、人吉にユースはないため、奮発して国民宿舎に泊まった(と言っても一回だけ)。朝早く、国民宿舎で作ってもらった握り飯を抱えながら、まだ暗いなかを駅に向かったものだ。

人よしIMG_0017syIMG_0002sy人吉駅の代表的なシーンは、矢岳越えに挑む列車。上は昭和42年の873レ、D51170〔人〕+オハフ61433+貨車+D51、下は昭和45年の4589レ、D51545〔人〕+スハフ3244+貨車+D511058〔人〕、どちらも客車1両に貨車多数の混合列車で、3年経過しても何ら変わっていなかった。下のスハフ32は、この頃珍しいダブルルーフ、トンネル区間に備えてベンチレータが撤去してある。

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駅を旅する 〈17〉

宮崎

昭和40年代の宮崎は、他の地域とは違う響きを持った、憧れの地だった。当時の新婚旅行のメッカだったかもしれないが、人それぞれの思い入れも宮崎にあるだろう。しかし撮影対象として見ると、機関区が駅ホームの真横あり、とにかく狭いところに機関区があったという印象が強い。正規の入り口から入って機関区で撮影していたところ、ホームから直接、機関区へ侵入したと勘違いしたホーム上の駅員から、思いっ切り怒られたことがある。なにしろホームの真横にあるから、駅員がすぐ見つけてしまう。国鉄時代の職員は、怒るとたいへん怖かった。

宮崎IMG_0073syホームで出発待ちのC57187〔宮〕の客車列車の横を、入換中のD5112〔延〕が通り過ぎる。宮崎以北では、旅客がC57、貨物がD51牽引だった(昭和44年)。

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駅を旅する 〈16〉

大分

大分は行くたびに工事をしている印象がある。初めて行った昭和42年は、新田原までだった日豊本線の電化が、幸崎に向けての延伸工事中で、構内は工事で錯綜していた。最近行った時も、今度は駅の高架工事中だった。

大分IMG_0007sy架線の張られた大分駅を発車する、大分発西鹿児島行き2523レ、C57196〔大〕+客車9両、以前の“デジ青”にも紹介されていたC57四次型の1両で、大分区には5両の四次型がいた。右は入換の8620(昭和42年)。

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駅を旅する 〈15〉

豊後森

かつて鉄道の町として賑わった駅も、今はすっかり寂れてしまった例は各地に多い。久大本線のほぼ中間にある豊後森もそんな駅だった。ここには機関区があり、宮原線を分岐していた。久大本線は140キロ余りあって、給水炭なしで全線は走破はできず、中間地点付近に機関区設備を設けたようだ。

訪れた昭和42年時点で、豊後森機関区の配置蒸機は、8620が7両、C11が1両で、8620は、久大本線の西部の客貨牽引に用いられていた。久大本線の客貨を通しで牽引する大分区のD60も、豊後森で一息入れた。

今は、残骸が残るものの、機関区としての機能はなくなり、宮原線もなくなり、すっかり省みられない駅となってしまった。

豊後森IMG_0044sy豊後森へ行かせた理由は、D60が架線のない、いい光線状態で形式写真が撮れること、そして当時は、全国でも豊後森だけとなってしまった機械式キハ07が配置されていたことだった(昭和42年)。

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