投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
いよいよ開幕!
50年前の撮影地を行く -3- 余話その3
新幹線記事を切り抜く
新聞切抜きは、開業日を迎えた今回で終わる。
東海道新幹線は、オリンピックに間に合わせるため突貫工事で進められたと思われがちだが、新幹線の起工式が行なわれた昭和34年4月では、まだ東京オリンピックは決まっていなかった。逼迫した東海道線の救済目的であり、開業予定は昭和39年3月とされた。しかし、駅やルートは、すべては決まっていなかった。
翌年、昭和35年5月に東京オリンピック開催が正式決定される。オリンピックまでの開業は絶対条件となり、当初の完成予定からやや遅れたものの、オリンピックの10日前に開業を迎える。
着工からわずか5年で、時速200キロ以上で営業運転を行なう世界初の高速鉄道を完成させた。“この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された”と記された東京駅の新幹線記念碑が語るように、熱く燃えた昭和の時代だからこそ完成できた、東海道新幹線開業への道のりだった。
▲「京都に停車」の大見出しが躍る昭和39年8月19日の紙面。待望の超特急の京都停車が実現した。同時に、ダイヤや料金も発表された、開業の40日前。
50年前の撮影地を行く -3- 余話その2
新幹線記事を切り抜く
新幹線の開業が迫っていた時期の京都での話題は、やはり最速列車の超特急(まだ愛称は決まっていなかった)の京都停車問題だった。当初の最速列車の停車駅は名古屋だけで、京都は通過扱いだった。これは、京都に停車すると、路盤安定後の営業運転で、3時間ジャストを維持できないと言うのが表向きの理由だった。なかには、京都周辺の土地買収がなかなか進捗せず工期も遅れ気味だったため、協力しなかった京都府市への仕返しだとも囁かれた。しかし、“特急が停まるとは言え、特急は各駅停車ではないか”と、京都人のプライドがいたく傷つけられた。各所を巻き込んでの陳情合戦の末、ついに超特急の京都停車が実現するのは、開業のわずか1ヵ月半前のことだった。
どですかでん さん のリクエスト記事
新幹線を走った阪急電車
昨日のコメントで、どですかでんさんから頂いた「新幹線を走った阪急電車」の記事リクエスト、京都周辺の新幹線ニュースなら必須なのに、私のスクラップブック「新幹線の出来るまで」にはありませんでした。あわてて物置に駆け込み、探索しましたところ、ありました。新幹線の分類ではなく、一般の鉄道の分類をしていましたので、別のスクラップに貼っていました。
いずれも昭和38年4月24日夕刊の記事です。「一足お先に超特急」のタイトルが、当時の事情をよく物語っています。私も、切り替え直後に乗ったことがありましたが、とくに乗り心地で印象に残っていることはなく、新幹線気分を味わうことは出来ませんでした。ただ、今まで地上線だったところが、築堤に移設され、窓から見る風景が違っていたことは覚えています。
なお、私は写真を撮ってはいませんが、I原さんは撮影された写真があるはずです。
▲地上線だった阪急京都線大山崎~水無瀬~上牧は、平行して新幹線が築堤で建設されることになり、阪急も新幹線と同じ築堤で高架化することになった。阪急の工事期間中、すでに完成している新幹線の軌道を走ることになったもの。阪急が標準軌だったからこそ出来た芸当だった。
50年前の撮影地を歩く-3- 余話その1
新幹線記事を切り抜く(1)
-3-で扱った新幹線開業のことで少し横道へ。
大阪のデパートに「夢の超特急展」を見に行ったところ、当時のパンフ、新聞記事などの紙資料も多く展示されていた。さらに、ピクの最新号「東海道新幹線50年」を見ると、高名な鉄道研究家の名を採って△△コレクションとして、当時の新聞記事が載せられていた。なるほど、新聞記事の切り抜きでも、50年も経てば立派な資料として展示・掲載されるのか、と改めて思ったものだ。
私も鉄道関連の新聞切り抜きは、中学生、高校生時代には熱心にやっていた。鉄道の成長期だったから、新線開業や車両新造も多く、“△△で電車とダンプが衝突”と言った、当時は日常茶飯事の鉄道事故まで、こと細かに切り抜いていた。いま見返しても、鉄道雑誌には決して載らないローカルネタは貴重な記録で、不鮮明ながらも添えられた写真にも注目である。
その時代の鉄道の注目株は何と言っても新幹線だった。新聞にも、大きな扱いで記事が載り、私も“新幹線ができるまで”とタイトルを付けた特製のスクラップブックを作っていた。そのなかから、京都を中心とした新幹線関連の記事を時代順に抜粋してみた。▲初めて切り抜いた新幹線の記事。従来の狭軌のスピード記録175キロを、初めて広軌の新幹線が190キロを出して追い抜いた、と言うもの(昭和37年10月27日)。
50年前の撮影地を歩く -3-
50年前の今日、-2-と同じ高倉陸橋へまた行っている。昭和39年は、東京オリンピックとともに、日本史に残る東海道新幹線の開業年だったが、この8月25日は、私にとっての新幹線の初撮影となった。
新幹線には今も昔も、余り関心を示さないが、開業から半世紀も経ったかと思うと、ひとしおの感慨も沸いてくる。数日前も、大阪・高島屋へ「夢の超特急展」を見に行ったが、子どもも混じって大変な人気だった。書籍のほうでも、開業50年を謳った新幹線の関連本が続々と出版されている。
▲この日、8月25日は、東京~新大阪間を、初めて「ひかり」の営業運転と同じ4時間で運転する試運転初日だった。この模様はNHKテレビで、東京発車から新大阪到着まで、朝8時30分から4時間以上の生中継を行なった。こんなに長時間の生中継は、日本のテレビ史上初めてのことだった。そして、テレビを見届けたあと、戻りの試運転列車を撮るため、例の高倉陸橋へ自転車を走らせた。高倉陸橋は、在来線の撮影好適地だけでなく、京都駅発車直後の新幹線の撮影にも向いている。
日本の鉄道史を塗り替える新幹線の出現は、日本人の共通の関心ごとで、東京オリンピックとともに、いよいよそれが秒読みに入ってとあって、今までに経験したことのない、高揚感に日本全国が包まれていた。高倉陸橋も、いまの騒ぎに比べると、ささやかなものの、多くの市民が詰めかけていた。
湖西線 開業40周年 -3-
これもまたタイミングを逸してしまったが、湖西線開業40周年関連の続きを。
昭和49年7月20日の開業日当日は、以前に記したとおり、開業式や各駅の祝賀の様子を撮ったが、その翌日も、日曜日とあって、F本さんとともに、走りの様子を収めるため、志賀、近江高島、安曇川へと向かった。
▲志賀で降りて蓬莱方へ戻り、琵琶湖沿いの区間で撮影する。この場所、江若で言えば近江木戸に当たる。湖西線の駅は、江若時代と同一地点または接近して駅が設けられた場合は、ほぼ江若の駅名を継承したが、この近江木戸のみは字名のため、より広範な当時の町名である志賀を採用した。田んぼのなかだけに、築堤が続く以外は、江若時代と大きな変化はない。ただ、近くにあった天井川の木戸川トンネルは埋められ、湖西線は高架で一挙に天井川を越えている。新旧の写真を対比すると、左側に見える2本の松の形が同じで、ほぼ同一地点と判る。
佐竹さん 三陸鉄道運転再開に立ち会う
報告が遅れたが、佐竹保雄さんが、このたび発行の「レイル」91号に、今年4月に運転を再開した三陸鉄道南リアス線の開業レポートを、写真とともに載せられている。
▲佐竹さんは昭和50年12月の室蘭本線で、最後の蒸機客車列車を撮ってから、日本の鉄道の撮影をしていない。運転再開の撮影は、40年ぶりの日本の鉄道の撮影となった。雪の残る肌寒い吉浜駅で、大漁旗で迎えられた祝賀列車を撮影するため、奥さまらとともに、2時間も前から場所取りをされたと言う。
三陸鉄道南リアス線の開業に立ち会うこととなった契機は、クローバー会も後援して、ことし3月に開かれた「東北を旅して その6」。奥さまらが被災地訪問を続けられているなかで、三陸鉄道の運転士と知り合いになり、このイベントでも、運転士撮影の優れた写真を多数展示し、来場客からも大きな反応があった。そして、以前にも本欄で紹介した、山田線大槌駅付近の写真が、大槌町長の目に止まり、奥さまが大槌町へ贈呈され、元気だった時代を偲ぶ大槌のシンボルにしたいと地元で大きな話題になった。
この二つが起因となって、佐竹さん自身が、三陸鉄道全線開業の日に、開業の立会いと、大槌町訪問の旅に出られることになった。夜行バスに初めて揺られるなど、過酷な7日間の旅だったが、佐竹さんは元気で旅を続けられた。この内容が、真摯な佐竹さんらしい文脈で綴られている。また第二章として、昭和43年に初めて佐竹さんが山田線を訪れて撮られた記録も写真ページで構成されている。
まだ鉄道への情熱を持ち続けられている佐竹さんの一端を知ることになった。また、同号には、伊香保電車27号の復元、顛末記も載せられている。伊香保電車27号と言えば、本欄で、乙訓老人や西村さんが紹介された渋川市の医院の庭に保存されていた車両で、このたびブリル製の単台車も付けて完全復元され、市内の公園に保存されている。
▲記事のなかには、鉄道復興のシンボルとして、大槌町役場に飾られたクローバー会会員の撮影した大槌駅付近の写真も載せられている。
湖西線 開業40周年 -2-
湖西線初乗りの日
西大津で発車式を撮ったあと、10時57分発の新快速3628Mに乗った。湖西線の新快速は、すべて堅田行きだが、シーズン中は近江今津まで延長運転されており、初日からさっそく実施されていた。ただ、新快速は153系6両の時代で、車内は満員、各列車とも次第に遅延してきた。比良で降りて、普通列車に乗り換え、北小松へ向かう。現在、新快速は近江舞子以北は各駅停車で、北小松にも停車するが、当時、新快速は北小松は通過していた。北小松にすべての新快速が停車するのは、平成8年の改正からだ。▲思い出の北小松に降り立つ。江若の北小松駅跡はまん前にあった。江若廃止後も駅舎などはしばらく残っていたが、いまは跡形もなく、道路の広場と化していた。5年前の同志社北小松学舎での宿泊合宿を思い出しながら、近江高島方面へ歩き、ヘッドマークつきの113系を待った。電車もさることながら、真新しい軌道が印象的だった。全線高架、踏切ゼロが謳い文句の湖西線だが、柵も何もなく、難なく線路端へ到達できた。
湖西線 開業40周年 -1-
湖西線初乗りの日
湖西線が開業して40周年を迎えた。江若鉄道が廃止されたのが昭和44年11月、その廃線跡も利用して工事が進み、その5年後の昭和49年7月に山科~近江塩津間74キロが開業するというスピード開業だった。
江若鉄道の廃止は確かに一昔も二昔も前の出来事、という認識が私にはあるが、その5年後の湖西線開業は、今から少し前の出来事という思いがある。それだけ、江若鉄道と湖西線は、同じ湖西地方の鉄道として語れないほど、全線高架・複線電化の超近代的な鉄道の出現だった。
▲その湖西線開業40周年を祝って、開業日の7月20日に「湖西線開通40周年記念号」が京都~近江今津間にDD51+サロンカー「なにわ」で運転され、さらに近江今津~敦賀間に、同編成で「高島市民号」が走った。私もホント久しぶりにイベント列車の撮影気分を味わった。
さて、話は40年前に戻る。湖西線開業の日、昭和49年7月20日は土曜日だった。私も社会人になって3年目、この年に勤務先ではようやく土曜日が休みになった。喜び勇んで、朝から湖西線の開業の模様を確かめに行った。
京都7時43分発の堅田行き113系8連の458Mに乗り、山科から湖西線で入る。まず通過する長等山トンネルは、トンネル内で下り旅客線と貨物線が合流する珍しい構造であることがよく紹介されていたから、車内から目を凝らして、しっかりと確認した。長等山トンネルを出ると、すぐ西大津。大津でも浜大津でもない、“西大津”という駅名がずいぶん新鮮に聞こえた。
▲つぎの唐崎までの間、カーブから乗車列車を写す。車窓からは琵琶湖がきれいに見える。高架からの琵琶湖は、江若では味わうことができなかった新鮮な眺めだった。ちょうど下に直線で走る道路は江若の廃線跡だ。湖西線の開業を見越して、宅地開発がずいぶん進んでいたことが分かる。
▲湖西線の普通列車はすべて113系電車となった。寒冷な湖北地方も走ることから、耐雪耐寒設備、ドア半自動化が必要となり、新たな仕様の113系700番代が全車冷房つきで新造された。当時、東海道線を走っていた0番代と比べると、前照灯がシールドビームになったのが、外観上の大きな違いで、おとなしい印象となった。当初は4両編成単位で使用、同番代はその後改番され5700、5750番代となっている。▲▲堅田から西大津に戻り、祝賀列車の発車式を待った。祝賀のヘッドマークは、すべての113系電車に取り付けられ、すべて4両2本の8連で運転されていた。
西大津9時42分発の464Mが祝賀列車となった。最初、祝賀列車が発着する下りホームで待っていたが、直前になって、関係者以外は立入禁止と職員から追い出された。やむを得ず上りホームから、発車式を写した。しかし、この写真を見ると、関係者以外も相当いるように思える。
窓から写した駅・列車 -11-
ラッシュ時のローカル駅
ローカル線の旅客輸送を、今と昔を対比すると、昼の時間帯は、それほど乗客数に変化はないように思う。いつの時代も車内は空いていた。近年は編成の短縮化が進んでいるから、実感としては最近の方が混んでいるようにも見える。比較して極端なのは朝夕のラッシュ時だ。ローカル線に限れば、現在、ラッシュ時の乗客は高校生だけと断言しても言い過ぎではない。あれほどいた通勤客が今はごっそり消えてしまった。みんな自動車通勤に転移してしまったのか。車窓から見た交換列車の光景も、それを象徴している。▲西鹿児島駅の夕方のラッシュ時、C61のラストナンバーC6133が牽く鹿児島発川内行き226列車が入線して来る。時刻は18時50分、ちょうど退け時とあって、ホームは通勤客であふれている。地方の県庁所在の駅であっても、現在ではまず見られない光景だ。この乗客のほとんどがクルマ通勤に切り替えたのだろうか。考えると、空恐ろしい気がする(昭和45年)。
窓から写した駅・列車 -10-
乗車列車を写す
車窓からの撮影は、駅風景や交換列車だけではない。乗車した列車の撮影もある。列車がカーブに差し掛かると、窓から身を乗り出して写す。編成全体が入るよう、編成の後部車両に陣取り、蒸機の場合は上り勾配も条件となる。
窓から撮った乗車列車で忘れられない写真がある。鉄道ピクトリアルの第8回写真コンクール特選の「朝を走る」という写真だ。朝の東北本線陸奥市川付近、朝陽を車体いっぱいに浴びて走り続ける急行「十和田」を車窓から写したもの。ただ、その撮られた撮影位置からすると、相当に身を乗り出さないことには撮れない、危険極まりない撮り方だ。あるいは、カメラを三脚に固定して窓から差し出したのか、それとも、地上から列車に接するようにして撮影したのか…。撮影方法は謎だったが、冬の朝の冷気までもが伝わる、印象的な写真だった。そんな窓から写した乗車列車の数々。▲大畑ループを上る1121列車。1121列車とは、門司港発、鹿児島本線、肥薩線、吉都線経由で都城へ向かう普通夜行列車で、九州の撮影旅行には必須の列車だった。当時は、八代以南が蒸機牽引で、独特の夜行鈍行の雰囲気をよく持っていて、まさに撮るによし、乗るによしの列車だった。なかでも、肥薩線人吉~吉松間のヤマ線区間でちょうど朝を迎える。最高の煙、最高の光線(この写真は曇りだが)で、ループ線を越えて行く。昨今はこの付近、草木が成長し、見通しが利かなくなったと言う(昭和44年)。
窓から写した駅・列車 -9-
現在、信号場の数は、JRで約100ヵ所、私鉄で約60ヵ所と言われている。その分布を見ると、東北、北海道が多いようだ。それだけ輸送量の多さに比して単線区間が多いこと、駅を造るだけの沿線人口が希薄ということだろうか。今回は、その東北、北海道で、窓から写した信号場。 ▲いくつかの信号場は、ホームを設けて旅客を扱うところもあった。北海道・東北地方に多かった。写真の羽越本線の女鹿信号場も、昭和37年の開設当時から旅客営業を行なっていたと言うが、時刻表の記載はなかった。北海道に多い、乗降場の類なのだろう。扉ひとつ分に対応した木造ホームも見えるが、信号場職員なのか、人影も見える。昭和62年、JR化に際して駅に昇格した(昭和46年)。
窓から写した駅・列車 -8-
信号場(1)
幹線の単線区間を旅していると、駅でもないところで、突然、列車の交換がある。信号場である。「もっぱら列車行き違い、または待ち合わせを行なうために使用する停車場」と定義されている。停車場は、駅、操車場、信号場に分類され、駅と同じ括りとなるが、駅を設置しても旅客が見込めない立地の場合、信号場の設置となる。人里離れたところに設置されることも多く、通常は乗り降りできないため、趣味的な興味は尽きない。
信号場の代表例は、単線区間における行き違いのためだが、複線区間で追い抜き専用の待避線を設けた信号場や、駅と駅の中間で線路が別方向へ分岐する地点、また単線から複線に変わる地点も信号場と呼ばれる(例外もあり)。運行形態の変化により、信号場の必要性がなくなり、改廃された例も多い。
▲日豊本線の南霧島信号場、霧島神宮~国分間に昭和41年に設置された。撮影当時は、まだ設置から間もないことが写真からも伺える。列車は、西鹿児島発門司港・広島行き「青島」、列車交換のためには構内は直線になっていることが望ましく、全体がカーブした信号場は珍しい。電化後の現在も活用されている(昭和45年)。
活躍する103系 〔2〕
スカイブルーの103系が活躍する阪和線・羽衣線では、一時と比べると数を減らしているとは言え、103系、最大の活躍の場となっている。
その配置所が、吹田総合車両所日根野支所だ。以前の日根野電車区である。平成24年6月にJR西日本の車両検修体制の見直しで、日根野電車区から検査部門のみを継承して、現在の区所名になった。電車区時代にあった運転部門は、鳳電車区に移管したが、同区には配置車両はなく、日根野支所が一括して阪和線、羽衣線の103系の検査・保守を行なっている。
平成26年3月改正後の日根野支所の103系は、6両編成10本、4両編成8本、3両編成2本、保留車1両を加えた99両である。阪和線の103系は、昭和43年10月改正で関西初の103系として鳳電車区に配置された。以来、50年近くに渡って途絶えることなく、走り続けてるの阪和線だけで、最大時、昭和59年の300両だったが、いまは三分の一に減ってしまった。ほとんどは他区所からの転属だが、配置以来、阪和線を離れたことのない車両もいる。すべてスカイブルー(青22号)に塗られている。
以前は阪和線の快速運用にも使用されていたが、今年3月の改正で、103系は普通電車のみの運用となった。6両編成、4両編成が、早朝、深夜を除いて、鳳、熊取、日根野、和泉砂川行きの普通電車に運用されている。103系が山越えをして、和歌山まで顔を見せることはなくなった。また3両編成は羽衣線専用のワンマン仕様となっている。最近では、大阪環状線から転属した車両も多く、先頭クハ103は、800番台の高運転台の体質改善車が多く占めるようになった。最近、転属して来た205系とは、共通運用となっているが、205系の4両編成の一部のみは別の限定運用となっている。
▲阪和線撮影の定番、大和川を渡る和泉砂川行き、クハ103-256先頭のHK609編成。十数年ぶりに訪れた浅香駅ホームは、今でも撮りやすい撮影地だった。
あと数日 赤いラピート
トップページで893-2さんからも報告されているが、南海電鉄の特急「ラピート」一編成が「赤い彗星の再来 特急ラピート ネオ・ジオンバージョン」で営業運転に就いてから2ヵ月、その人気まったく衰えずで、連日、難波駅などは大賑わいのようだ。
この仕様は、関西空港線開業・ラピート運転20周年を記念して、人気のアニメ「機動戦士ガンダム」のシリーズ作品「虹の彼方に」とタイアップして、50002F編成を赤一色に塗り替えたもの。4月26日(土)から期間限定で、難波~関西空港を一日数復、南海本線・空港線で営業運転している。6月30日(月)の終了予定まで、数日となった。終盤になってから、いくつかのイベントも行なわれた。
▲南海本線を走破して和歌山市へ みさき公園~孝子 6月22日には、普段は走らない南海本線泉佐野以南にも入線し、和歌山市へ向かう、一往復の特別列車が運転された。和歌山市へ営業運転のラピートが乗入れるのは13年ぶりだそうな。
南海本線南部を走るとなると、狙い目は箱作~淡輪の海岸沿いとなろうが、当日の天候もにらんで、近接撮影に切り替え、写友とともに山間区間で狙うことにした。通常は、人家の多い区間での運転だから、グリーン一色バックの赤いラピートもなかなかオツなものだ。付近はそこそこの人出、地元出身の方も来られていたが、間違いなく孝子駅開業以来のカメラとのことだ。和歌山市から戻りの上りは、紀ノ川鉄橋へ行くことも考えたが、結局、無難なこの地点で撮ることにした。幸い、天気も回復して来た。雑談しながら5時間待ち続けた。
しか~し、結果は最悪だった。なんと、下り列車としっかり被ってしまった。南海本線のなかではいちばん閑散区間で、事実、5時間待ちの間に、ただの一度も上下の被りは無かったのに…。臨時列車ゆえのスジの災難を悔やんだものだ。
活躍する103 〔1〕
“国鉄型”と言われる車両は、根強い人気があるようだ。とくに京都・大阪では、首都圏で消えてしまった車両も、国鉄色をまとって頑張っている姿が見られる。なかでも昭和37年度から20年余りに渡って3447両が製造され、国鉄電車の最大製造両数を誇る103系は、首都圏では、平成18年3月の常磐線快速線の運用終了で見られなくなったが、JR西日本ではまだ活躍が見られる。格別に電車に興味も示さなかった私も、業務もあって昨年来から103系の撮影を行なっていた。そのなかから、吹田総合車両所の奈良、鳳、森ノ宮支所の103系の活躍を見てみよう。
奈良支所の103系
奈良支所には6両編成が3本、4両編成が13本の計70両の103系が在籍し、カラーは「ウグイス色」と呼ばれる黄緑6号で、前面は、JRマークも加えた白帯を巻いている。ウグイス色は、103系で最初に使われた車体色だ。山間部の走行もあり、ウグイス色だけでは識別が困難という理由で、国鉄時代に黄帯が巻かれ、JR化後に白帯となった。6両編成は、201系と共通運用で、関西・おおさか東線で使用、4両編成は奈良線で使用され京都駅に顔を出す。また4両編成×2の8両編成は、関西・大阪環状線で使用されている。今回、紹介するのは、その8両編成で、平日の朝夕のみに大阪環状線を走るウグイス色の103系だ。
▲大川を渡る 桜ノ宮 運用は、奈良を7時06分に出る天王寺行き区間快速321Yから始まり、関西、大阪環状線外回りで天王寺へ向かう。天王寺からは、そのまま環状線内を外回りで周回し、都合3周半して京橋に終着、森ノ宮支所に入区するもの。昼間は、同支所に留置され、夕方に出区し、京橋16時46分発の内回りから始まり、大阪環状線を3周半してから関西本線に入り、区間快速2460Yで加茂に向かうもの。
大阪環状線をメインとする森ノ宮支所の103系は、すべてオレンジ色、体質改善40N工事の高運転台車であり、奈良支所の103系は、全盛時代の103系を彷彿とさせ、大阪環状線で異彩を放っている。
窓から写した駅・列車 -7-
高山線の交換列車
関西からは近くも遠くもない高山線、しかし、撮影には行きづらい線区だった。蒸機の時代、旅客はC58、貨物は高山を境にして、南部はD51、北部は9600、富山口の区間旅客はC11も牽いていた。いずれも、特段の魅力を感じない機種だったことも起因しているのだろうか。
今でこそ、国鉄色に塗られたキハ40系が飛騨川沿いを行く写真などが発表されているが、当時は、発表された写真はあまり見かけなかった。そんな時、私がDRFCに入会した直後のB0Xのアルバムには、高山線の写真がベタベタ貼られていた。しかも、もっとも行きにくい猪谷付近の神通川沿いを行く列車で、よくぞ行ったものだと感心した。何でも、前年の新入生歓迎旅行が富山・猪谷方面だったとかで、DRFCの奥深さを、とくと感じたものだ。
私は、高校3年生の時、所属していたクラブの旅行で高山まで行き、初乗車している。しかし高山~猪谷は、ずっと未乗車区間として残っていたが、一昨年、青春18きっぷで同区間も乗車し、やっと全線乗車が果たせた。その高山線、全線が開業してから、今年が80周年で、いろいろなイベントが行なわれるそうだ。
▲高山線 岐阜発富山行き831レ C58116〔山〕 渚 昭和42年7月 高山での撮影会を終え、急行「たかやま」に乗って京都へ帰る途中、海とは縁のない山のなかの渚駅で、C58の牽く旅客列車と交換した。起点から終点までを忠実に結ぶ、全線を走り通す列車。灼熱の窓の外なのに、風がないせいか、黒煙がまっすぐに上がっている。この撮影時点で、高山線にはDD51が投入されており、一部の旅客、貨物の牽引に当たっていた。 ▲45年後の青春18きっぷの旅、同じ渚駅で「ワイドビューひだ」と交換する。
窓から写した駅・列車 -6-
東海道線電車急行
今年は東海道新幹線開業から50年、と言っても、開業当時は、めったなことでは乗れなかった。料金だけでなく、世紀の新幹線に乗るような“ハレ”の場もなかった。しかも、東海道線には、特急こそ走らなくなったものの、電車急行が、新幹線開業後も残っていた。現在のように、新幹線が開業すると、在来線の全優等列車を廃止するようなことはしなかった。当時の旅行の主流である、均一周遊券なら、自由席にそのまま乗れる。じっさい、私が初めて東海道新幹線に乗ったのは、昭和45年のことで、開業後6年が経っていた。それまでは、全くの在来線ユーザーだった。
▲ 急行「六甲」 浜松 昭和40年8月 東京~大阪の昼行急行電車は、新幹線開業後も「なにわ」「六甲」「いこま」「よど」が残り、とくに「なにわ」2往復は、昭和43年10月改正まで残った。上り「なにわ1号」を例にとると、大阪8時30分、京都9時10分、東京16時30分着と、最適な時間帯を走っていた。ただ、考えるのは誰でも同じで、結構混んでいた。とくに京都からの乗車では座席の保障がない。そこで奥の手を使うことになる。
確かに東京~大阪の昼行急行は限定されていたが、まだ東京~中京圏を結ぶ「東海」が昼行で4往復も残っていた。そのうち2本は大垣発だから、京都~大垣は普通列車で移動し、始発の「東海」にゆっくり座っていくと言う算段だった。直行の急行より多少時間は掛かるものの、この時代は準急だから料金も安く抑えられる。
前置きが長くなったが、その「東海2号」に乗って、浜松に着いたとき、ちょうど大阪へ向かう「六甲」と交換した。「六甲」は、撮影後すぐの昭和40年10月改正で廃止されている。どう言うこともない写真だが、積み上げられた手小荷物、台車、跨線橋、地上駅と、当時の幹線の主要駅の雰囲気が感じられる情景だと思っている。