投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
阪急「西山天王山」まもなく開業
ちょっと目先を変えて、地元ネタを。
来たる12月21日(土)、阪急京都線長岡天神~大山崎間に、新駅「西山天王山」が開業する。同時に京都線ではダイヤ改正、阪急4駅の駅名改称も行われる。新駅は長岡京市内にあり、市にとっては80年ぶりの駅新設だそうな。
長岡天神~大山崎間は、阪急のなかで駅間距離の長いところで、だいぶ以前から駅設置が要望されていた。昭和40年代前半に、新駅よりも少し南に多くの団地ができて、当初の構想では、この団地付近の大山崎町内となっていた。団地名を採って、仮称「円明寺駅」と呼ばれていた。その後、京都縦貫自動車道の具体化にともない、高速道路直下に駅を設置することになり、仮称「南長岡駅」として進展することになった。京都縦貫自動車道はかなり以前から計画されており、用地も取得済みで、駅も含めた建設工事は比較的、短期間で出来上がっていった。駅名も、昨年春に、最近流行の合成駅名の「西山天王山」とアナウンスされた。新駅は、準急・普通のみの停車で、日中10分ヘッド、一日の乗降客数7800人の予想とか。
▲昨日、運動がてら歩いて現地へ行ってみた。京都縦貫自動車道の直下にできた「西山天王山駅」。開業まであと4日、まだ仕上げの工事が続いていた。この場所には、かつて遊休地の活用策としてプールが営業していた。もう20数年前になくなってしまったが、私も子どもを連れて何回か行ったことがある。すべり台の上からは、すぐ横を行く阪急電車がよく見えたものだ。
駅を旅する 〈13〉
駅を旅する 〈12〉
他の記事掲載や自分の怠慢によって、ずいぶん間隔が空いてしまいましたが、再開します。九州の駅めぐり、まだ続けます。
佐世保
現在は、高架化された近代的な駅になっているそうな。佐世保へはもう40年以上も行っていない。私のなかの佐世保は、蒸機の煙で満ち溢れていた、狭い地上駅へとさかのぼる。
佐世保での興味は、早岐~佐世保間で運転される、蒸機の運用の多様さにあった。鳥栖・肥前山口方面から、佐世保へ向かう列車は、早岐で逆行となる。牽引機の機回しとなるところだが、早岐~佐世保間はわずか8.9キロ、また佐世保駅は狭くて、機回しの余裕もない。そのため、早岐に着いた列車は、後部に別の機関車を付け、佐世保へ向かう。佐世保発は逆の編成となった。
▲その代表がC11の牽くブルトレとして有名になった特急「さくら」だ。本務はもちろんDD51で、早岐~佐世保間のみC11がアタマに付く。以前にも記したが、通常はヘッドマークは付かなかった。次位は電源車マヤ20。右手に停車中は、呉発佐世保行き急行「出島」で、かつての軍港同士を結ぶ列車だった(昭和42年)。
EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -6-
今出川通に沿って
今出川線の市電は、烏丸線に遅れること2年、昭和51年3月に廃止された。南に京都御苑、北に同志社と、緑豊かで絵になるところだった。京都市電がよく似合っていた。37年後の今も、市電がいないだけで、その風景は変わっていない。
【19】西行きの「同志社前」電停に停車する15系統500形。「急行通過」の表示が見えるが、平日の朝、乗降数の少ない停留所をすべての市電が通過するもので、若干の速度向上に寄与した。(昭和40年 撮影/中林英信)
▲500形の元気な姿や、人々の服装や様子がよく伝わって来る、50年近く前の「同志社前」。それにも増して、カラーの保存状態もよく、当時がよく再現されている。
EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -5-
烏丸上立売
烏丸上立売にも電停があったことを現役会員に言うと、驚いていた。確かに、市電廃止後の代替バスにも烏丸上立売バス停はあったものの、地下鉄開業後はそれもなくなり、もう30年以上も「烏丸上立売」は存在しない。現在、烏丸今出川~烏丸車庫前(現・北大路駅前)は、市電外郭線内の廃止路線で唯一市バスの走らない区間である。京都バスは走っているものの、烏丸今出川のつぎは、烏丸中学前である。
【17】烏丸線には「烏丸上立売」の電停もあった。右の建物は、当時の学生会館(大学側は大学会館と呼んでいた)で、現在の寒梅館の建つ位置である。 (昭和49年 撮影/福田静二)
▲当時の学生会館は学生のための厚生施設で、食堂や書店があったが、学友会本部もあり、大学闘争の拠点ともなっていた。学友会本部は、落書きだらけ、ゴミ屋敷同然の鬼気迫るところで、近づき難かった。現在は寒梅館が建って、すっかりしゃれた雰囲気に変わったが、手前の店2軒が、外観もほぼそのままで今も健在なのが面白い。
EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -4-
EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -3-
EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -2-
(投稿がなぜか消えてしまいましたので復元して再掲載しました。ただし、コメントは復元していませんので、ご了解お願いいたします。)
烏丸今出川をめぐる
烏丸今出川交差点の四隅からは、さすがに多くの写真が撮られている。さまざまな角度から見ていこう。(黒字は展示キャプション、青字は補足)
【3】雪の烏丸今出川を曲がる臨系統の500形。右側に見える小さな瓦屋根の建物は、もと交番。大学紛争時代には何度も焼き討ちにあった。現在の地下鉄への出入り口に当たる。(昭和44年 撮影/小西啓文)
▲最古参の500形が両方向の交通を遮断して、ゆっくり左折するのは、“古豪のお通り”と言う感じで堂々としていた。カラーは、烏丸今出川南東角から見た現況で、交差点を囲んでいた大学の土塀も、新しいものになっている。交番の跡に、地下鉄への出入り口が造られた。
EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」-2-
烏丸今出川をめぐる
烏丸今出川交差点の四隅からは、さすがに多くの写真が撮られている。さまざまな角度から見ていこう。(黒字は展示キャプション、青字は補足)
【3】雪の烏丸今出川を曲がる臨系統の500形。右側に見える小さな瓦屋根の建物は、もと交番。大学紛争時代には何度も焼き討ちにあった。現在の地下鉄への出入り口に当たる。(昭和44年 撮影/小西啓文)
▲最古参の500形が両方向の交通を遮断して、ゆっくり左折するのは、“古豪のお通り”と言う感じで堂々としていた。カラーは、烏丸今出川南東角から見た現況で、交差点を囲んでいた大学の土塀も、新しいものになっている。交番の跡に、地下鉄への出入り口が造られた。
EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」-1-
では予告どおり、EVE展示の「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」の展示内容を振り返って見ましょう。
考えたら、同志社前の京都市電は、クローバー会全員の共通項であり、ある意味、会活動の原点とも言えると思います。そのまま展示するのも能がないので、昨日、定点撮影した現況も添えました。
1950年代の烏丸今出川
【1】烏丸今出川を直進する6系統600形。元文堂書店、パチンコ屋と懐かしい建物が続く。元文堂の前の塔屋は、市電のポイント操作塔で、交差点を曲がる市電のポイントの切り替えを行っていた。交差点のど真ん中にある、警官の乗る交通指示台とともに、昭和30年代の光景である。
(昭和34年 撮影/沖中忠順)
▲現在の烏丸今出川交差点。背後の建物はすべて姿を消して、新しい業態の店舗になっている。並びにあった名物の“わびすけ”も一昨年に消えた。市電が消えた交差点は、意外に広く見える。
【2】烏丸通を行く21系統1000形と、4系統900形。自動車にも時代が感じられる。ちょうど良心館の前あたりで、右手の建物は、中学校の校舎で、取り壊された立志館の北隣にあった。 (昭和34年 撮影/沖中忠順)
▲現在の同所、同志社中学跡地に巨大な良心館が建ち、風景は一変した。ホームカミングデー、EVE展示も良心館で行われた。ダットサンタクシー、プリンススカイラインの後ろにある建物は中学のものであることは明らかだが、EVE展示で同志社中学出身者が4人協議しても、何の建物かは結論が出なかった。1000形の21系統は、当時、四条烏丸-烏丸車庫-四条大宮-銀閣寺という複雑な経路だった。阪急河原町延長に伴う四条線の整理により、昭和38年から、九条大宮終点に変更された。
クローバー会EVE写真展 終わる
同志社大学今出川キャンパスで行われていた第138回EVEも、昨日28日(木)で3日間の日程を終えました。良心館105号教室を会場とした鉄道同好会の展示も、多くの入場者を迎えました。クローバー会で協力した写真展「京都市電で偲ぶ 昭和の同志社」も、現役学生にとっては生まれる以前の話だけに、果たして興味を持ってくれるかと思いながら展示に掛かりましたが、その心配は杞憂でした。作業を始めた途端、“これは500形じゃないですか。大好きなんです”と現役会員から、鋭い質問が飛んで来ます。展示中、会場を訪れた一般の学生も、現在の場所と対比しながら、その変貌ぶりには興味津々の様子でした。“写真のチカラ”を感じた一瞬でした。
この展示も、限られた日程のため実際に見ることができたメンバーも少数でした。展示写真をみんなで共有できないかと、約1名の方からリクエストがありました。そこで、本掲示板で、次回から連載することにしました。お楽しみにお待ちください。
準備完了! クローバー会EVE写真展
明日26日(火)に迫った第138回EVE、クローバー会から参加する写真展の準備を、今晩行いました。米手作市会長とともに、会員から寄せられた、同志社をめぐる京都市電の貴重な写真を、手際よく貼り付け、準備万端整い、明日の開場を待つばかりとなりました。なんとなく、数十年前に体験した、EVE前日の緊張感・高揚感を覚えた感じでした。
現役会員にとっては、生まれる前の写真ですが、興味津々で見つめる現役会員が印象的でした。会場は、良心館105教室。真新しい、きれいな教室です。現役の模型運転会、写真展、各種展示も、見逃したら一生の損、これは必見の内容です。会期は11月26日(火)~28日(木)の3日間、明日26日午後には、“みんなでEVEを見学する会 ”も開かれます。
▲大学構内には、巨大なクリスマスツリーが飾られ、出店のテント準備も終わったEVE前夜のムードを盛り上げてくれる。
▲会場では、クローバー会の準備の向こうでは、現役の準媚が続く。我々の時代なら、徹夜の準備が当然だったが、最近は諸般の情勢により、午後10時以降は構内に立ち入りが出来ないため必死の作業だった。米手会長は、めっきり老化の始まった身体に鞭打って両面テープを貼り付け、“弘風館カーテン火災事件”など、EVEの秘められた歴史を語り明かしていた。
今年のクローバー会EVE展示は “京都市電と同志社”
同志社最大の学生イベント、EVEが明後日26日(火)から3日間開かれます。今年も現役の鉄道同好会では、多彩な展示・発表を行いますが、クローバー会でも、さまざまな形で協力しています。今年のEVEでは、「市電で偲ぶ 昭和の同志社」と題して、同志社をめぐる京都市電の写真を展示します。
同志社の前を走っていた京都市電が消えてから、もう37年が経ちました。現役の会員諸君にとっては、生まれるずっと前の昭和の時代です。背後に同志社や付近の街並みの入った写真を、多くの会員協力で展示することが出来ました。すっかり新しくなったキャンパス・校舎で、昭和の時代には、こんな風景が展開されていたことを偲ぶのも、また意義のあることでしょう。
第138回同志社EVE
11月26日(火)~28日(木)10:30~20:30
鉄道同好会会場/良心館105号教室
みんなでEVEを見学する会/EVE初日の26日(火)午後1時ごろから夕方まで、良心館105号教室で、クローバー会有志による見学会を行います。平日ですが、暇を持て余している皆さん、ぜひ良心館へお越しください。
▲提供された写真の中で、最古参は、やはり乙訓老人のものだった。昭和34年の烏丸今出川を曲がる15系統の1000形だが、右に見える、オート三輪、ボンネット市バス、左の信号塔、電話ボックス、パチンコ屋などが続く家並みなど、市電を取り巻く風景が、その時代を雄弁に語りかけている。
オロナイン軟膏3個! 今年のホームカミングデー
乙訓の老人から、先ごろ行われたホームカミングデーの参加記が寄せられましたので、写真とともにご紹介します。なお、タイトルの「オロナイン軟膏」ですが、50年前に新語・流行語大賞があったら、まちがいなく選ばれている古典ギャグです。老いてもなおクローバー会への深い愛情を絶やさない老人ならではのタイトルとしてご理解ください。では。
このところ恒例行事となったホームカミングデー、今年も多彩な内容で、鉄道趣味者として興味惹かれるものであった。第一部は今出川校地の西北に新築された良心館で「教室での会合」が開催された。
▲今年のホームカミングデーの会場は、新築の良心館
(1)まず湯口会員の「軌陸車の話」であった。デジ青【40044】2013年9月24日で紹介された「日本の内燃動車」の延長線とも言うべきもので、内燃車の陸上走行から鉄軌道での走行を可能にするため、種々の考案が生み出され試行錯誤を辿った姿が、日本を始め海外の事例をふくめ、スクリーン上で映写しながら紹介された。本件について、このところJR北海道が開発に着手、実用化に向け地域外での試行も報じられているが、通学(通勤は対象外)時の輸送力不足から実用化には問題が生じているとかで目下、頓挫しているようである。
▲レールも道路も走る“軌陸車”について、湯口さんらしい考察と写真が披瀝された
写真展 ちょっといい話 写真が被災地へ里帰り
烏丸御池駅ギャラリーでクローバー会写真展「東北の鉄道」を行ったのは、震災1年後の2012年2月のことだった。tsurukameさんのお蔭で展示写真も本ホームページで閲覧できるようになったが、そのうちの3点が、撮影された町に里帰りし、被災地の復興のお役に立つこととなった。
いまも被災地への思いやり・支援を欠かさない“山科の人間国宝”から電話があったのは9月末だった。奥さまが支援活動を通じた知人を訪ねて岩手県大槌町へ行かれると言う。その際に、前記の写真展に人間国宝が出展された、大槌川を渡るC58貨物の写真を持参されると言う。
その電話で、ハッと思い付いたのが、私も大槌駅の写真を出展していること、またI原さんも同様に大槌の写真を出品しており、“もう要らん”と言うことで私が預かっていたことだった。“この2枚も加えてください”と即答となった。
奥さまは夜行バスで大槌入りをされた。写真3枚を持っての夜行は、少々辛い旅だったかもしれないが、大歓迎が待ち受けていた。最初の考えでは、ごく内輪に写真を渡すだけだったが、知り合いの方の機転で、受け取り場所が町役場になった。わざわざ京都から人間国宝の鉄道写真を携えて来訪される、の報は街じゅうに広がった。町役場には、町の広報担当、地元の岩手日報の記者、災害FMなどの取材陣が待ち構えた。
写真の贈呈は町長も出席して行われ、参加者は鉄道が走っていた時代の大槌に思いを寄せていた。左から、碇川豊大槌町長、人間国宝の奥さま、妹さま(許可を得て掲載)
そして、町議会の直前のあわただしいなか、大槌町長までが参加のもと、贈呈式が行われた。3点の写真が、どよめきのなかで披露され、町長から感謝の言葉が述べられたと言う。その後、3点の写真は、大槌町のホームページにも紹介された。
↓ 山田線を走るSLの雄姿、鉄道マニアが大槌町に寄贈
“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈4〉
山本覚馬邸
少し時代を遡るが、大河ドラマでも重要な舞台となっていた山本覚馬の邸宅について、市電がらみで探見してみたい。
覚馬は、言うまでもなく、同志社の創立時、襄の最大の協力者であり、同志社の名も彼の命名とされている(ただこれは、確かな史実はなく、伝聞に過ぎないようだ)。
明治3年、覚馬は京都府顧問となる。翌、明治4年、八重は京都へ来て、兄である覚馬の家に身を寄せる。京都府大参事であった槇村正直(のちの京都府知事)の邸宅近くに、覚馬は居を構えていた。
八重は、覚馬の家で暮らし、新島襄と結婚後も、寺町丸太町上ルの新居ができるまでは居候していた。ドラマでは、史実かどうか疑わしいが、覚馬の家に西郷隆盛も来訪している。
さて覚馬の邸宅だが、現在の河原町御池付近にあったと言われている。現在、東北角には京都ホテルオークラがあり、幕末にはここに長州藩の屋敷があった。当時の御池通の細い道を挟んで、南側には、加賀藩の前田屋敷があった。明治維新後は上地され官用地になっていた。京都府の重職に就こうとしていた覚馬に、府知事が与えた居宅と想像できる。
大河ドラマの後の“歴史紀行”でも、河原町御池付近にあったと紹介されていた。ただ、現在の河原町御池は、広い交差点であり、その場所を特定することは難しい。
河原町通は明治末期の市電敷設時、御池通は戦争中の強制疎開で、それぞれ拡幅されており、その前は、ごく狭い道幅だった。資料を調べると、河原町通は、通りの西側、御池通は、通りの南側を拡幅していることが分かった。そこからすると、現在の河原町御池交差点の南西角付近と類推される。
▲山本覚馬の居宅があった河原町御池を行く河原町線の市電。覚馬の居宅は画面右、交通指令塔の当たりになる。河原町線は昭和52年廃止、36年も前のことになる。
“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈3〉
新島旧邸とその周辺
前回紹介の鴨沂高校から、寺町通を200メートルほど南へ行くと新島旧邸がある。現在の建物は、新島襄と八重が住んだ私邸であるが、同時に同志社創設の地でもある。
明治8年11月29日、「同志社英学校」の標札を掲げ、開校の祈祷が、新島と8名の生徒によって行われた。校舎は、華族である高松保美の自邸の半分を借り受けた。もともと、ここには、御所の消防を担当した淀藩の中井主水という人物の屋敷があり、そのため火の見櫓があったと言う。その後、高松保美が住むが、遷都で東京へ移り、屋敷には誰も住んでいなかった。大河ドラマでは、蜘蛛の巣の張った荒れ放題の屋敷を新島襄が下見する場面も描かれていた。屋敷は903坪もあり、現在で言うと、隣の同志社新島会館、さらにその南隣の洛陽教会も含む区域で、のちに全域が同志社の所有となった。
しかし、翌明治9年9月に、校舎は、現在の今出川キャンパスのある薩摩藩屋敷跡へ移転してしまう。したがって、この地で、授業が行われたのは、わずか10ヵ月に過ぎない。明治11年に、コロニアルスタイルの擬洋風建築の現在の建物ができ、襄と八重の住む私邸となった。
明治22年に新島襄は永眠するが、八重は、昭和6年に永眠するまで、一人で住んでいた。大河ドラマの主人公が、私の実家から、数百メートル先で、昭和の時代まで生き続けていたとは、不思議な思いにとらわれる。
さて京都市電との関わり、と言うことで、いろいろ資料を漁っていると、またまた、自分にとっては、初めての写真を見つけた。
「京都市町名変遷史」第一巻に載っていた写真で、出典は不明である。電車の背後の森が、現在の新島旧邸、中央は、同じ敷地にあった洛陽協会である。電車は、前回にも記した京都電鉄出町線であり、撮影時期は、明治34年の開業から、大正13年の廃止までとなる。
が、写真をよく見ると、複線になっている。私は、出町線は単線とばかり思っていただけに、全く意外であった。 乙訓老人にも聞いてみたが、寺町通の拡幅と同時期ではないかとの示唆をいただいた。前述の撮影期間のなかで、大正に入ってからの撮影と思われる。なお、手前の洛陽教会は、同志社の敷地だったが、襄の死後に土地が売却され、明治26年に写真の教会が建てられた。
“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈2〉
その後の女紅場
女性への教育・教養の場として、明治5年、京都・河原町丸太町東入るに設けられ女紅場で、八重は女子教育に携わるが、キリスト教徒の新島襄と婚約したことにより、明治8年に女紅場を解雇されてしまう(次回の大河でこのシーンが紹介されるようだ)。
女紅場は何回かの改称ののち、明治28年に、京都府立第一高等女学校となり、明治33年には、寺町通荒神口下ルの新学舎に移転する。新島旧邸からは200メートルほど北になる。学舎は新築されたが、門は女紅場のから移築された。戦後の学制改革により、昭和23年には京都府立鴨沂高校となる。
▲現在の鴨沂高校。九条家屋敷の門が、女紅場でも使われ、現在も同高校の正門として寺町通に面して建つ。門は、三代に渡る百数十年の歴史がある。背後は、最近、取り壊しで話題になっている、昭和初期建築の校舎。和風の千鳥破風の屋根が特徴。
京都市電とのこじつけ、となると、鴨沂高校の前の寺町通には、京都電気鉄道の出町線が走っていた。寺町丸太町~出町間が、明治34年に開業するが、平行して市営河原町線が敷設されることになり、大正13年に廃止される。
営業期間が、23年間だっただけに、残された写真は少ない。知られているのは寺町今出川下ルで撮影と言われている、右書きで「でまちばしゆき」と行き先が掲げられた写真、それに、京極小学校の門前を行く写真、これぐらいしかなかったと思っていた。ところが、ネットで検索していると、上京区役所のホームページで右のような写真を見つけた。たいへん粗い画像で、出典も不明だが、「寺町通荒神口付近を行く電車」とあり、左側の土手は、ちょうど現在の鴨沂高校前付近と同じだ。
“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈1〉
準特急さんからバトンを受けて、“八重の桜”京都編に入ります。大河ドラマ“八重の桜”も京都編が始まり、同志社人として、京都人として、目が離せません。
いまも関連する史跡が残っているのが、京都らしいところです。と言っても、単なる史跡訪問では、デジ青のテーマから外れてしまいます。
そこで、関連史跡が、かつての京都市電沿いにあることに着目し、無理やり京都市電とこじつけて、“八重の桜”ゆかりの史跡めぐりとしました。
女紅場跡
準特急さんも書かれているが、八重が京都で初めて仕事をしたのが「女紅場」だ。
その跡地は、現住所で言うと、京都市上京区河原町丸太町東入る駒之町にあり、この駒之町は、まさに私の生まれ育った町であり、小さい時から、それを示した石碑は日常風景の中にあった。
会津戦争を生き抜いた山本八重は、明治4年、兄・山本覚馬を頼って京都へ来て、女紅場で教官として働き始める。
女紅場とは、女子に英語や手芸を教える場であり、日本最初の高等女学校である。現在の鴨川に架かる丸太町橋の西畔に「女紅場址 本邦高等女学校之濫觴」の石碑が建っている。
もともと、この付近、御所に近いところから、幕末には、鴨川に沿って、九条、鷹司、近衛、有栖川と、公家の屋敷が連なっていた。女紅場は、東京遷都で空き家になった九条家の屋敷を利用して開設され、女紅場の門も、九条家の門がそのまま流用されたと言う。
▲丸太町橋のたもとに建つ「女紅場址」碑
▲女紅場跡の前を行く京都市電丸太町線、電車の右の架線柱の下に石碑があ。背後の建物は、もとの京都上電話局で、大正13年の建築。登録有形文化財に指定されている。電話事業を昭和30年代に終えてからは、通信技術資料館、電々公社の厚生施設となり、NTTになってからは、シーフードレストラン、スポーツクラブとなり、現在は地場のスーパーマーケットとなっている。時折、“文化財のスーパーマーケット”として、テレビでも紹介されている。