写真展「鉄路輝く」 公開中!

クローバー会が過去に行いました第1回から第4回までの写真展の全作品が、ホームページ上にアップされています。

トップページ「クローバー会」「リンク」「クローバー会写真展鉄路輝く」で見ることが出来ます。Tsurukameさんの寝食を忘れた作業のお蔭で、このたび、すべての写真をアップできました。ぜひご覧になって、写真展の感動に浸っていただければと思います。

こうしてみますと“壮観”の一語です。よくぞ、これだけ撮ったものと感心します。

われわれが“しまかぜ”で楽しんでいる間にも、作業を進めていただいたTsurukameさんには、改めて御礼を申し上げる次第です。

103_0492P1020156写真展の感動をぜひホームページで。 2006年第1回(上)と2009年第2回写真展

マルーンさん乗車の「伊勢志摩ライナー」

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大阪難波行き「伊勢志摩ライナー」、6編成すべてが、18年ぶりのリニーアルを行い、うち3編成は、写真の“赤”塗装になった。

“しまかぜ”関連の話題をもうひとつ。

私のところに来たメールによると、かのマルーンさんは、伊勢神宮に参られたあと、宇治山田15時41分の「伊勢志摩ライナー」に乗って帰還されたと言います。列車が宮川鉄橋を渡るとき、撮影する鉄道同好会の一群を発見、手を振って、エールを送ったとのコメントがありました。

これがその、マルーンさんの乗られた「伊勢志摩ライナー」です。残念ながら、仔細に見ても、手を振るお顔は認めることができませんが、撮影の一群は、現役、OBともども、鉄道写真の話題で盛り上がりながら、楽しく撮影を終えました。

なお、宮川鉄橋は、小俣駅下車、徒歩5分で到着できます。午後は、バリ順となり、手すりが多少目障りですが、背景もよい撮影好適地です。

 

駅を旅する 〈11〉

長崎

長崎本線の終点、長崎である。

最初に訪れたとき、三角屋根に時計台を備えていた駅舎は三代目で、原爆被災から4年後の昭和24年にできたと言う。現在では、完全な終端式の駅となっているが、当初は、通過式の配線だった。その先に長崎港駅があり、もっと以前は旅客営業も行っていたが、訪れた当時は、貨物のみ扱っていた。

駅に隣接して長崎機関区、客貨車区があったが、当時は配置機関車がなく、鳥栖、早岐の機関車が出入りしていた。ターンテーブルの周りに扇形庫はなく、たいへん広々した機関区だった。

長崎港への貨物線は、昭和62年、国鉄民営化時に廃止され、平成12年には、現在の四代目駅舎が建設され、終端式の構造に改められた。

以前は、長崎始発の東京・大阪方面の優等列車が運転され、駅の格を高めていたが、平成20年に特急「あかつき」が廃止以後、すべて九州内のみの運転となっている。

また2022年開業予定の九州新幹線の長崎乗り入れに向けて、駅の立体化工事と周辺の整理事業が進行中で、もと長崎機関区・客貨車区、現在の長崎運輸センターの移転が焦点だったが、早岐駅と構内への移転が決定したと言う。

長崎IMG_0031sy▲鳥栖のところでも触れたように、昭和42年の訪問時、長崎本線の優等列車はDD51化されていたが、臨時列車はまだ鳥栖区のC60が牽いていた。長崎駅でも、C6026[鳥]の牽く大阪行き急行「第二玄海」の発車をとらえた。これを、鉄道ピクトリアルのトピックフォトに投稿したところ、初採用となった。高校2年生だった。嬉しくなって、学校へ持って行って、みんなに見せた。この号だけがボロボロになって、いまもその時の感動を伝えている。(昭和42年)長崎IMG_0033sy▲長崎駅前の風景。路面電車はバスに隠れてしまったが、その分、自動車が時代を語っている。その後に、付近にペディストリアンデッキが設置され、見通しが悪くなった。(昭和42年)

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駅を旅する 〈10〉

佐賀 

九州7県の県庁所在市なかで、佐賀は、格段に目立たない都市だ。人口規模も少なく、確たる観光資源もない。

駅も同様だ。佐賀線(昭和62年廃止)、唐津線が分岐するものの、それほど目玉の列車や車輌が撮れる訳でもない。私も、熊本以上に撮影点数は少なく、これと言った印象はないままに終わっている。佐賀には佐賀青年会館というユースホステルがあって、そこに一泊した際に撮った程度だった。佐賀IMG_0034sysy▲地上の佐賀駅2番ホームに到着した、佐世保発鳥栖行き426レ。C57124[早]牽引。現在、駅は高架化されている。この列車に乗って、前記の鳥栖機関区へ向かった。どこでも撮れる、特徴のない写真だが、美しく整備された早岐区のC57に朝陽が当たり、打ち水されたホーム、売店、佐賀らしい「サロンパス」の看板、背後の跨線橋、と当時の幹線の主要駅の風情が随所に出ていると私は思っている。(昭和42年)

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駅を旅する 〈9〉

熊本

鹿児島本線のちょうど中間に位置する熊本である。写し始めた昭和42年当時は、電化はここまで、以南は未電化だった。機関車の付け替えも行われ、賑わってはいたが、ここではあまり写してはいない。

今でこそ、駅舎や駅前は立派になったが、当時は、中心部からもはずれ、裏寂れた印象だった。宿泊するにしても、駅に降りると滞在することなく、市電に乗って中心部へ向かった。そして、なぜか、熊本へ行くと、雨ばかりに降られた。

いつも当掲示板で健筆を振るっておられる準特急さんのルーツは、熊本の郊外にあると言う。鳥栖といい、熊本といい、つくづく九州は、鉄道趣味界の偉人を輩出する地だと思う。

熊本IMG_0013sy▲小雨の熊本駅を発車する熊本発鹿児島行き。C6131[鹿]+客車6両。熊本以南の未電化区間は、優等列車こそDD51化されていたが、普通列車は全列車C60、C61が牽いていた。(昭和42年)熊本IMG_0015sy▲頭端式ホームからは、豊肥本線の列車も発着していた。旅客はDC化されていたが、朝夕のラッシュ時のみ、キューロクの牽く客車列車が残っていた。33‰の勾配を越えるため、重連となっていた。熊本発宮地行き729レ。39688[熊]+69616[熊]+オハニ61188ほか客車8両。 

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駅を旅する 〈8〉

鳥栖

博多から特急に乗れば、今なら20分で鳥栖に着く。現在でも、鳥栖は長崎本線への乗換駅には変わりないものの、その後の列車体系の変化、新幹線の開業で、駅としての比重はうんと軽くなり、鉄道の街として、その名を馳せていた時代の面影は、もう見られない。

鳥栖は、鹿児島本線、長崎本線の分岐点に位置し、九州の鉄道網の中心的な位置にあった。駅に隣接して、鳥栖機関区、鳥栖操車場があり、四六時中、列車が出入りしていた。鹿児島本線、長崎本線が非電化の時代には、扇形庫が二つもあって、旅客用蒸機C59、C60、C61の基地として賑わった。九州の機関区の中でも、いちばん華やな機関区だったに違いない。

駅の東側にあった機関区、操車場は跡形もなくなり、いまはサッカーJ1のサガン鳥栖の本拠地・鳥栖スタジアムになっているのが、ホームからも分かる。それとは対照的に、西側の駅舎は、九州鉄道時代の駅舎を、改修を加えながらも大事に使い続けている。

さて、当会の人間国宝のお一人は、この鳥栖市で生を受けられたと聞く。毎日、水薬ばかり服用され、このたび、後期高齢者の仲間入りを果たされた。いずれ、出生の頃の思い出も、本欄で聞けるだろうと思っている。鳥栖IMG_0039sy▲鹿児島本線と長崎本線が別れる付近に、工事現場の詰所があって、勝手に2階まで上がって、俯瞰気味に大阪発長崎行き「第二玄海」、C6038[鳥]をとらえた。当時、長崎本線では、臨時列車牽引でC60の最後の活躍が見られた。翌年には、長崎本線の優等列車は、すべてDD51化される。(昭和42年)鳥栖IMG_0018sy▲東京発熊本行き「みずほ」、ED764[門]。「みずほ」は鳥栖を通過していた。九州ブルトレのなかで、その経緯もあって地味な印象があり、。ヘッドマークも地味で、モノクロで撮ると、肝心の愛称名がよく分からない。右側は鳥栖操車場が広がる。(昭和42年)

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駅を旅する 〈7〉

博多

鉄道雑誌を読み始めた昭和30年代の後半の話題のひとつが、博多駅の移転だった。旧来の駅を廃棄して、新線上に高架の新駅を造るという工事だった。地方ならまだしも、福岡のような都会で、よくぞ大胆なことをすると子供心に思ったものだ。そして、新駅でもしばらく見られた、ブルトレを牽くC59が、ヘッドマークを掲げて頭を揃えるシーンは、強く印象に残った。

昭和38年、周囲にほとんど何もないところに新しい博多駅は開業したが、50年が経過した今は、天神エリアと並んで、福岡の二大中心街を形成するまでになった。平成19年には新々駅ビル、JR博多シティができて、さらに駅周辺は賑やかさを増した。

博多IMG_0015sy 博多IMG_0016sy▲初めて博多駅を訪れたのは、小雨の降る夕刻だった。17時12分、ホームに大勢の乗客や見送り客が並ぶなか、ゆっくりとED75303の牽く東京行きの「はやぶさ」が入線して来た(上)。博多で7両が増結され、堂々の15両編成となり、牽引機もED7319に替わった(下)。博多駅では、この前後にも「あさかぜ」「みずほ」「さくら」が東京へ向けて発車して行く。一晩寝ると、翌朝には1000キロ離れた東京に着ける。ブルトレ華やかなりし頃の博多駅風景だった。(昭和42年)

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駅を旅する 〈6〉

飯塚

筑豊本線には、飯塚、新飯塚と二つの駅がある。

新飯塚のほうが、飯塚の官庁街、繁華街に近く、乗降客数はずっと多い。また西鉄の飯塚バスセンターの最寄りでもあり、筑豊訪問の常宿としていた八木山ユースへ行くのは、新飯塚で降りて、遠賀川を越えてバスセンターへ行ったものだ。ただ、歴史的にも、運輸上においても、飯塚が鉄道としての要衝であった。事実、特急「みどり」(のちに「いそかぜ」「かもめ」と名称は変化していく)は、飯塚のみの停車だった。

飯塚のシンボルは、駅の跨線橋から見えるボタ山だ。筑豊富士とも呼ばれる形の良い旧住友鉱業忠隈炭鉱の4つのボタ山だったが、列車と絡めて撮ることは叶わなかった。いまは自然に還り、草木が茂って、ふつうの山と違いはない。

飯塚IMG_0048sy▲本屋側の1番ホームに到着する、原田発若松行き744レ、C5511〔若〕。客車列車のほとんどは原田発で冷水峠越えをして飯塚に到着した。左は若松発上穂波行き739レ、D5145〔直〕牽引。筑豊のナメクジは、あとは42号機で、2両だけという比較的珍しい存在だった。(昭和43年)

飯塚IMG_0088sysy▲詰襟学生服の高校生が待つ2番ホームに到着する、門司港発原田行き1735レ、C5519〔若〕。背後にD51の牽く貨物列車が待機する。(昭和44年)

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駅を旅する 〈5〉

直方

筑豊地方には、拠点となる都市がいくつかあった。人口規模においては、当時では飯塚が第一位だったが、鉄道での中心は、何と言っても直方だった。

直方駅へ行けば、それが実感できる。駅には、四六時中、列車が出入りして、もうもうたる煙に包まれていた。“筑豊のスズメは腹の中まで黒い”と言われる。事実、直方で数時間ほど写して、駅の洗面所で顔を洗うと、シンダーで喉や髪の毛が真っ黒になっていた。公害や煤塵と言った認識に乏しかった時代だ。

初めて訪れた昭和40年代前半、石炭輸送のピークは過ぎていたが、それでも、多数の石炭列車が運転されていた。大きく分けて、伊田線沿線からの運炭列車、上山田線沿線から筑豊本線経由の運炭列車に分けられ、直方で組成され、または牽引機を換えて折尾・若松方面へ向かって行った。 直方IMG_0020sy▲直方駅。明治43年建築と言われるが、一昨年に解体され、新しい橋上駅となった。駅舎は、初代の博多駅を移築したものではないかと言われていたが、解体時の調査では、その事実はなかったと発表された。(平成2年)直方IMG_0058sy▲直方駅4番ホームに停車中の原田発門司港行き1732レ、C5519〔若〕、すぐ隣は直方機関区で、煙の競演がホームからでも見られた。(昭和44年)

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加太紀行 〈下〉

南海加太線は、明治45年開業、北島~加太間の加太軽便鉄道をルーツとする。北島とは、現・和歌山市駅の裏を流れる紀ノ川の対岸(右岸)にあった始発駅(その後、廃止)で、翌年には紀ノ川を渡って、和歌山市に隣接する地点に始発駅を設けた。開業時は、コッペル製のB型機が3両用意されたと言う。

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「鉄道ピクトリアル」より転載

昭和5年に電化し、加太電気鉄道に社名を変更、昭和17年に南海に合併された。

その後、本線紀ノ川から東松江まで伸びていた、住友金属工業和歌山製鉄所に出入りする貨物線を電化して旅客線に転用することになり、昭和25年に営業を開始した。これが現在見られる線形となるわけだが、東松江~北島~和歌山市のルートも北島支線として存続していた。しかし、台風で紀ノ川橋梁が被害を受けたことなどにより、休止を経て、昭和41年に廃止となった。現在でも廃線跡が感じられる箇所が残っている。

なお、住友金属工業から出荷される鉄鋼製品は、加太線・国鉄経由で各地へ輸送していた。一日2往復の貨物列車は、昭和59年の国鉄貨物合理化まで続き、これが南海最期の貨物扱い駅となった。

2013_07_09_032sy▲二里ヶ浜。カーブ上に設置された対向式ホーム。2013_07_09_034sy▲二里ヶ浜駅は有人駅で、乗降人員は少ないながらも、駅舎はなかなかの規模。

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加太紀行 〈上〉

加太、と言っても関西本線の加太ではない。南海支線の終点にある加太である。

過日、回りまわってきた南海の優待乗車券を使って、南海和歌山市から加太線の乗車を行なった。

加太線は、南海本線和歌山市のひとつ手前の紀ノ川より分岐し、紀淡海峡に突き出た突端に位置する加太へと至る9.6キロの支線だ。電車はすべて、和歌山市の発着で運転されている。日中は30分ヘッドで2両編成がワンマン運転されている。

もとは明治末期に蒸気鉄道として開業した古い鉄道で、昨年、開業百周年を迎えた。単独で紀ノ川を渡った先に駅を設置した時代もあった。のちに南海本線の紀ノ川駅へ接続する形に変更するなど、歴史的に興味深い線である。

沿線の社寺などへの観光・信仰客輸送や、夏季は海水浴客輸送もあった。終点付近に、砲兵連隊の兵営もあり物資輸送もあった。のちに述べる、製鉄所からの貨物輸送で賑わった時期もあったが、すべてが無くなってしまった今、加太線には、静かな時間だけが流れている。

以下、電車の先頭から見た、加太線の車窓だ。

2013_07_09_007sy▲南海和歌山市駅に停車する、加太線の列車。当日は7195+7969の編成。3番線が加太線の専用ホームで、加太線百周年などの説明版がホーム支柱に貼ってある。

2013_07_09_009sy▲和歌山市を出る。右一線はJR和歌山方面に向かう紀勢本線、左二線は南海本線。右下にチラッと見える渡りは、JR線と南海線を接続している。かつて、南海から南紀方面への直通するDC・客車は、ここを通って国鉄に乗り入れた。現在でも、車両工場からの南海新造車の搬入は、このポイントが使われる。

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駅を旅する 〈4〉

折尾

若松から筑豊本線で洞海湾沿いに走って20分ほどで折尾に到着する。筑豊本線は地上、鹿児島本線は築堤上にあり、十字に交差する。

明治24年、筑豊本線の前身である筑豊興業鉄道が開業、半年遅れで、鹿児島本線の前身である九州鉄道が開業した。当時は、現在地と違うところに、それぞれの折尾駅が設置されたが、明治28年に現在地に共同駅が設けられた。日本で最初の立体交差駅だと言われている。さきごろ解体された洋風駅舎は、大正5年建築の二代目だが、随所に煉瓦造りの連絡通路が残され、開業当時の面影が残されていた。

初めて九州に上陸した昭和42年、鹿児島本線の折尾駅に降りて、地上の筑豊本線ホームへ向かった。そこで眼に飛び込んだのが、先端の低いホームに待機するC55が朝陽に浮かぶ姿だった。C55は初めて見る形式だ。朝の柔らかな日差しのなか、ドレーンに包まれたスポーク動輪を通して向かいのホームが透けて見えるではないか-。その後、何度も筑豊へ向かわせた、原動力となった。

先述のように、いま折尾駅は、大規模な連続立体化の工事に入っている。現在駅の北側の高架上に、一体化した鹿児島本線、筑豊本線の同一ホームができる。乗り換えの利便性はウンと向上するが、私の九州への原体験でもある折尾駅は、まもなく姿を消そうとしている。

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◀駅前道路から折尾駅を見通す。「荷物預所」「大衆食堂」と駅前の必須アイテムが連なる。人々の服装や道路から、なにやら終戦直後のように見えなくもないが、レッキとした昭和40年代後半の撮影。(昭和47年11月)折尾IMG_0002sy▲筑豊本線の下りホームに到着する、C5519〔若〕の牽く733レ。なお、鹿児島本線黒崎方から筑豊本線中間方へ向かう短絡線には駅がなく、同線を通る直通列車は、折尾は通過扱いだったが、昭和63年に、短絡線上にホームが設けられ、鷹見口と呼ばれている。(昭和45年9月)

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駅を旅する 〈3〉

若松

栄枯盛衰のある北九州の駅のなかでも、若松は劇的ですらあった。石炭とともに栄え、石炭とともに凋落していった。

明治期の鉄道建設期、筑豊興業鉄道の計画では、始発駅は、当時の地域の中心だった芦屋に置く計画だったとか。それが、地元の反対で若松に変更になり、明治24年に若松駅が開業した。

以来、石炭の需要の高まりとともに、若松駅は発展し、石炭の積出港として、日本一の貨物量を誇るまでになる。昭和30年代前半に石炭の最盛期を迎えるが、スクラップ・アンド・ビルド政策の推進で、以降は、斜陽化の一途となる。しかも、港への積み出しも、油須原新線を経由する、苅田港ルートもできて、私が訪れた昭和40年代の初頭、若松駅の石炭扱い量は激減していた。しかし、石炭の最盛期など知る由もない私にとっては、広いヤード、おびただしい石炭車の群れには、石炭がまだこの国の重要なエネルギー源だと強く思ったものだ。

現在でも、若松は、筑豊本線の始発駅に変わりはないが、現実は、黒崎~折尾~直方~桂川~博多が電化され、愛称「福北ゆたか線」に一体化されて直通列車が数多く運転されている。取り残された、若松~折尾と、桂川~原田は、それぞれ非電化のまま、若松線、原田線の愛称となり、完全な別線扱いのローカル線になっている。現在ではDC2連が若松~折尾を折り返している。

昭和59年に行われた再開発で、、機関区は廃止、駅設備もウンと縮小され、一面二線の頭端式の旅客駅になった。石炭で賑わった時代を偲ぶものは、駅前広場に保存展示されている、蒸機キューロクと石炭車だけである。若松IMG_0001sy▲高搭山をバックに若松駅を発車した香月行き425レ、逆行の58694〔若〕牽引。(昭和42年3月)

若松IMG_0008sy▲石炭の繁栄を語り継いできた、大正8年建築の旧駅舎。(昭和50年6月)

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駅を旅する 〈2〉

門司

“九州の玄関口”、と言えば門司港を指すかも知れないが、在来線での乗車なら、九州に第一歩を印すのは門司となる。

明治24年に九州鉄道の大里駅として設置、のち明治40年に国有化される。昭和17年には関門トンネルが開通、その際、門司が門司港に改称され、大里が「門司」となった。

初めて九州に踏み入れた昭和42年の高校2年生以来、幾度となく、関門トンネルを抜けて門司に到着した。心なしか、見渡す車窓の風景も違う、空の青さも違うようにも思えた。やはり、ここは九州なんだと感じたものだ。門司駅は乗り換えで利用するだけでなく、交直接続のため、牽引機の付け替えも撮影の対象となった。当時は、旅客列車だけでなく、貨物列車も門司で付け替えを行っていた。

そして、門司機関区の下車駅としてもよく利用した。門司区は、昭和42年の蒸機の配置両数が53両、青森、岩見沢に次ぐ配置両数で、電機81両、DL6両を加えれば、ダントツ日本一の動力車配置区だった。蒸機・電機の配置は、通常、一区・二区に区分されていたが、門司だけは区分がなかった。

新幹線開通後は、小倉を中心とした列車体系に改められ、門司の凋落は著しい。JR九州のデータによれば、乗車数は一日6千人程度で、九州管内で29位となっている。平成16年に駅は橋上駅化されたが、駅設備はごくささやかなものになった。門司IMG_0012sy▲初めて訪れた門司駅は、まだ蒸機の天下だった。1番ホームに停車する門司港発柳ヶ浦行き1523レ、C57178〔大〕牽引。当時、日豊本線の電化は新田原までで、電化区間が短いため、客車列車は門司港から架線の下を蒸機が牽いていた。右に駅舎の裏側が見える。(昭和42年3月)門司IMG_0007sy▲当時の無骨な駅舎は、昭和27年の建築。これでも、九州初の民衆駅だったと言う。この駅舎を出て、路面電車沿いに西へ向かい、何度も門司機関区へ行ったものだ。(昭和42年3月)

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駅を旅する 〈1〉 

サラリーマン時代、世話になった出版社の方から久しぶりに電話があった。北九州市に在住されていた高名な鉄道趣味人が、昨年、亡くなられ、その一周忌に合わせて、故人を偲ぶ平成筑豊鉄道の貸切列車が運転され、それに乗車したと言う。

筑豊地方の現状も聞かせてもらったところ、初耳だったのは、直方駅が新しく建て替えられたことだった。古風な駅舎は、水戸岡ナイズされた瓦屋根を持つシックな駅舎に変わったとのことだ。調べると、一昨年にリニューアルされたようだ。

久しく筑豊地方へも訪れていないが、その間に、駅もどんどん新しくなっていく。車両のようにニュースになりにくいから、駅は“いつの間にか”消え去ることが多い。改めて時代の移り変わりを感じたものだ。

近くの門司港や折尾も駅舎の工事に入っている。重文指定の門司港は、大掛かりな補修工事のため、しばらくその姿を見ることができない。折尾では、鹿児島本線、筑豊本線の共同駅を造る大規模な工事が始まり、さくら色に塗られた、下見板張りの駅舎もついに解体されてしまった。

駅は、鉄道旅行の出発点であり、終着点でもある。そして、格好の写真撮影の場でもあった。私も、数知れないほどの駅に乗り降りして、写真を撮ってきた。

ところが、昨今、“駅を利用しない、鉄道に乗らない、鉄道写真愛好家”が増殖している。鉄道写真の原点たる駅の存在が忘れられている。

直方IMG_0020sy▲かつての直方駅舎。正面ペディメントを支える柱にエンタシス風の膨らみがある。初代の博多駅舎を移築したものとの説が一部であったが、解体の際の現地調査で、木材の転用の痕跡がないことから、その説は否定されてしまった。

前置きが長くなったが、直方駅改築のニュースを聞いて、九州の駅の思い出を写真とともに語ってみたくなった。よく本にあるような、特徴のある名物駅の紹介ではなく、あくまで、駅で写した当時の車両写真である。

ごく最近、北九州育ちのKH生さんからも、当地の懐かしい話を聞かせてもらい、なおのこと、その思いが強くなった。

いま痛切に感じているのは、一日一本のため、何時間も歩いて写した、大自然の中の写真より、駅での待ち時間にチョイと写した写真が、はるかに、時代を雄弁に語り、記録的価値が高いと思っている。

IMG_999_13▲日本最初の立体交差駅として誕生した折尾駅。いま付近の地形までも変えてしまうほどの大規模な工事が始まっている。大正5年建築の洋風駅舎も、保存運動もむなしく、解体されてしまった。

 

阪急京都地下線 開通50周年

いつも乗っている阪急京都線の車両に見慣れぬヘッドマークが付いている。なにやら2300系が描かれたものだ。細かい文字をよく見れば「京都地下延長線開通50周年」と書かれている。P1090564sy

そうか、大宮から河原町へ地下線が延長されてから、もう50年が経ったのか。開業日の昭和38年6月17日のことはよく覚えている。中学校2年生の時だった。ヘッドマークを見て、半世紀前の感慨を新たにしたものだった。

「京都地下延長線開通50周年」ヘッドマークは、9300系車両の3編成に取り付け。絵柄は、当時の主力2300系、描かれた幔幕は、確かに初発の記念列車に取り付けられていた。

P1090565sy

それまでの京都線の始発駅、大宮(地下延長線開通までは「京都」)へ行くのには、住んでいた河原町丸太町からは、ずいぶん不便だった。それほどの距離はないものの、市電では一本で行けない。唯一、一本で行けるのは、市バス3号系統のみだったが、バスに乗るとすぐ酔ってしまう子供時代、できれば避けたかった。そんな訳で、歩いて行ける京阪に比べ、阪急に乗ることは、ほとんどなかった。

それが四条河原町まで阪急電車が延びて来る。なにせ、四条河原町の一角は、当時通っていた中学校の校区に当たる。すぐ近くに、阪急の始発駅ができるとは、何とも嬉しく誇らしくもあった。

延長線の構想は戦前からあった。昭和6年、新京阪鉄道が現・大宮まで延長した際に、河原町までの路線免許を取得していたが、その後の社会の変化で、着工は延び延びになっていた。昭和30年代に入って、その必要性がますます高まり、ようやく昭和36年10月に着工され、市電が走っていた四条通をオープンカット工法で進めた。

工事の進捗に当たっては、京都特有の事情もあった。なかでも、京都を南北に横断する地下の水脈が、地下線で分断され、まだ地下水に頼る時代、生活や商売に支障が出ると大きな問題にもなった。また、烏丸~河原町間では地下街の構想もあったが、地上の商店街、四条繁栄会の反対にあって、あえなく頓挫、単なる地下通路となって今もそのまま存在している。当時、地下街というものは、東京、大阪、名古屋にしかなかった。人口規模では日本第4位だった京都には、都市の象徴として、当然、造られるべきだとの思いがあったが、商店街の反対には勝てなかった。

つい先ごろも、新聞報道によると、今秋の「阪急三宮」などの阪急駅名改称時に、河原町も「京都河原町」改称される予定だった。しかし、またも商店街が「四条河原町」を提示、阪急は商店街との摩擦を避け、改称を撤回したと聞く。

IMG_0001syある方から、いただいた、開業当日の河原町駅、真新しいホームに停車するのは、特急2枚看板の2301F5両編成、2800系の登場はその翌年で、2300系は名実ともに京都線の花形だった。そして、50年後の今年、京都線の新形車両1000系の就役で、いよいよ2300系の歴史にも終止符が打たれようとしている。

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梅雨の晴れ間は 近場で撮る 〈3〉

嵐電で夕景を

ようやく梅雨らしい天気になったが、“晴れ間”シリーズ、まだ続けよう。

夏至を中心にした、この時期、太陽はもっとも北寄りの軌道を通る。太陽の角度を生かして、ほかの季節では得られない写真も撮ってみたいと思う。

少し前、京都の鉄道写真家の重鎮、Kさんと神戸で話をする機会があった。“ワシは、いつも太陽の角度が最適になる季節・時間帯を選んで撮影に行った”と力説されていた。最近のデジカメでは、逆光も苦にならないが、フィルムカメラの時代では、順光で光がキレイに回り込む状態を探したものだ。

この思いを持って、最近よく通っているのが、嵐電(京福電鉄嵐山線)だ。ほぼ、京都の東西を結ぶ嵐電は、通常は南側から陽が射すが、この時期の朝夕に限っては、北側から陽が射し込み、区間によっては、日没直前のギラリや、北側の車体側面の輝きを狙うことがてきる。

おまけに、10分ヘッドで運転しているから、限られた時間帯の微妙な光線下で何度も撮ることができる。

ただ、1990年以降に更新製造された正面二枚窓、額縁スタイルのモボ611系・モボ2001形や、レトロ調電車のモボ21形はどうも好きになれない。しかも、“京紫”の一色化が進行している。やはり、嵐電のオリジナルスタイルの面影をとどめる、モボ101・301形が、ここでは好ましい。しかし、嵐電総数28両のうち、当該車は7両だけで、これらの形式にこだわると遭遇チャンスは意外と巡ってこない。130505_106syこの時期の好適例は、車折神社駅だ。真横に車折神社があり、いい雰囲気の駅だ。線路はほぼ東西だから、この時期のみ、写真のように、南側にある嵐山方面行きホームが斜光線に包まれ、ホームで待つ乗客たちを優しく照らし出す。130522_172sysy車折神社駅から見て、背後の愛宕山の右に陽が沈むのも、この時期だけ。日没後の駅、わずかに空の明るさが残るトワイライトタイム。このような状態は、よく晴れた日の日没の20分後から30分後の約10分間に限定される。それだけに、本数の多い線区でないと、なかなか出会わない。130505_068sy有栖川駅、すぐ東側に神社があり、大木が茂っている。嵐電の線路は、それを切り裂くようにして、北西方面に伸びている。北西方面、ということは、この時期のみ、夕陽ギラリの狙える場所となる。西側の踏切のすき間から、真正面に向かってくる“パト電”の105号を待った。

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梅雨の晴れ間は 近場で撮る 〈2〉  

早起きしてSRC

夜の明けるのが早くなった。日の出時刻は4時台だ。だからこそ、この時期でしか撮れないものもある。私の近場では、東海道本線の夜行貨物電車「スーパーレールカーゴ(SRC)」(SUPER RAIL CARGO)が、その例だろう。長岡京・山崎付近では、4時55分の通過で、夏至を中心とした約1ヵ月間のみ走行中の撮影が可能だ。

SRCは、M250系16両編成で、東京貨物ターミナル~大阪・安治川口間に運転されるコンテナ輸送専用の貨物電車で、現在は、佐川急便専用の貸切輸送として運転されている。モーダルシフトの推進を目的として、2002年に登場した。130523_009sy朝は3時30分に起床、真っ暗ななかペダルを漕いで、山崎駅近くの高橋川踏切へ向かう。以前から著名な撮影地だが、少し前にフェンスが増設され、限定1名の撮影地となった。この時期は同じことを考える同業も多いから、一番乗りしないことには撮ることができない。

通過の1時間前に現地着、さすがに誰も来ていない。アウトカーブから正面を撮るから、シャッター速度は低くても大丈夫だが、最近のハイビームの前照灯はまともに露出を拾ってしまうので、オートで撮影はできない。何度も露出を確認し、マニュアルで撮影することにする。SAGAWAのシールを貼り付けたM250は、明けゆく山崎のカーブを高速で通り過ぎた。130603_07sysy別の日は、通称“名神クロス”へ向かった。ここは、キャパが十分にあるから直前でも大丈夫。SRCは、両端に電動車を2両ユニット、中間に付随車12両を連結、専用コンテナは、電動車に1個、付随車に2個積載できる。下りの場合、東京貨物ターミナル23時14分発、大阪・安治川口5時26分着で、所要時間は6時間余りで、かつての特急「こだま」より速い。

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梅雨の晴れ間は 近場で撮る 〈1〉

効率的に電機を撮影

梅雨に入ったはずなのに、梅雨前線が南に下がったままで、近畿地方は晴れの日が多い。こんな時は、近場の駅でチョイ撮りに限る。

私の場合、近場と言えば、JR京都線長岡京・山崎あたり。以前と比べると、面白味はめっきり薄らいだが、そこは天下の東海道本線、時間帯によっては、興味深い列車も通る。歳を重ねると、長時間の撮影は気力・体力が持続しない。短時間で効率よく撮影したい。以下、実際に5月31日、14時前から1時間30分で撮影した列車を挙げてみた。この間、電機として、EF65・66・81・210・510を撮影、最後には思わぬサプライズもあった。130531_02sy13時58分、長岡京駅。EF510の牽く日本海縦貫線回りの下り貨物が通過。ホームに着いて、ダイヤには載っていない貨物列車が、いきなりの通過、所定10時過ぎ通過の3092レの遅れと思われる。EF510のファーストナンバーだった。130531_07sy14時01分、本命の5087レが定時通過。赤ナンバープレートのEF652063の牽引。EF65PFの原色時代と比べると、地味な塗色になってしまったが、贅沢は言えない。3月の改正で、この区間では、一本になってしまった貴重なEF65PFだ。130531_11sy14時11分、5087レのすぐあと、空車のチキで編成された1881レが通過。これも珍しくなったEF66の0番台牽引だが、飾り帯が撤去され、弁当箱を載せて、なんとも締まりのない顔つきになった。

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雨も撮る 〈2〉

つぎは、「雨と路面電車」について写真を少々。

路面電車の場合、雨がプラスに作用するのは、道路の反射が期待できることだ。そして時として、人物も絡んだシーンとなると、よりフォトジェニックな瞬間に出会うこととなる。

IMG_0002sy_edited-1雨の札幌駅前に発着する札幌市電。連接車・連結車が投入され、輸送力の増強に躍起になっていた最盛期の時代だった。とくに、ほとんどの系統が発着する札幌駅前には、次つぎに市電がやって来る。この日は、DRFCの面々と、札幌から夜行急行「石北」に乗り合わせ、常紋へ行くことになっていた。夕方の札幌駅に着いたが、集合までにまだ時間がある。まずは、駅前の軒先で雨を避けながら、夕方のラッシュ時の光景を写し始めたのだった。(昭和44年9月)IMG_0011sy_edited-1昭和50年に廃止になった阪神国道線には、窓の大きな“金魚鉢”こと、71・201形がいたことで名高い。ただ、車体の塗色が地味なこともあって、昼間に撮って写真にしてしまうと、窓の大きさはよく伝わらない。なら、雨の夜、窓からこぼれる照明で、それを強調しよう。そう思って、雨の日を選んで、上甲子園まで訪れた。(昭和50年4月)IMG_0012syここからは、京都市電。まずは、わが同志社前。以前から、雨の日を狙っていた。なんとしても、女子学生を入れて自分好みの写真を撮りたいが、案外に同志社前は乗降が少ない。調べてみると、土曜日の昼は、女子部の中高生がいっせいに下校するため、いっときの女子学生ラッシュとなることがわかった。(昭和50年11月)

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