駅を旅する 〈19〉

吉松

人吉から山線を越えると、吉松。ここも運転上の要衝駅である。人吉と違うのは、町の規模はうんと小さいが、その分、機関区は広々していて、背後は一面の田んぼが広がっていた。矢岳越えを控えて、重装備のD51が出入りしたかと思うと、吉都線C55・C57や山野線C56も姿を見せる、出入りの機関車は変化に富んでいた。

IMG_0001夏の終わりの午後、C55の熱気も加わり、ホームは暑そうに見えるが、ベンチの女性はいたって楽しそう。吉松まで来ると、さすがにローカル線ムードあふれる雰囲気だった(昭和45年)。

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駅を旅する 〈18〉

人吉

人吉は、肥薩線の川線・山線の中継地点であり、要衝の駅として賑わっており、駅裏には機関区もあった。鉄道写真の立場から言えば、矢岳越えの写真を撮るための前線基地でもあった。朝早くから、とくにいい時間帯に通過する夜行1121列車を大畑で撮ろうとすると、どうしても人吉に泊まり、一番列車で向かわなければならない。しかし、人吉にユースはないため、奮発して国民宿舎に泊まった(と言っても一回だけ)。朝早く、国民宿舎で作ってもらった握り飯を抱えながら、まだ暗いなかを駅に向かったものだ。

人よしIMG_0017syIMG_0002sy人吉駅の代表的なシーンは、矢岳越えに挑む列車。上は昭和42年の873レ、D51170〔人〕+オハフ61433+貨車+D51、下は昭和45年の4589レ、D51545〔人〕+スハフ3244+貨車+D511058〔人〕、どちらも客車1両に貨車多数の混合列車で、3年経過しても何ら変わっていなかった。下のスハフ32は、この頃珍しいダブルルーフ、トンネル区間に備えてベンチレータが撤去してある。

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駅を旅する 〈17〉

宮崎

昭和40年代の宮崎は、他の地域とは違う響きを持った、憧れの地だった。当時の新婚旅行のメッカだったかもしれないが、人それぞれの思い入れも宮崎にあるだろう。しかし撮影対象として見ると、機関区が駅ホームの真横あり、とにかく狭いところに機関区があったという印象が強い。正規の入り口から入って機関区で撮影していたところ、ホームから直接、機関区へ侵入したと勘違いしたホーム上の駅員から、思いっ切り怒られたことがある。なにしろホームの真横にあるから、駅員がすぐ見つけてしまう。国鉄時代の職員は、怒るとたいへん怖かった。

宮崎IMG_0073syホームで出発待ちのC57187〔宮〕の客車列車の横を、入換中のD5112〔延〕が通り過ぎる。宮崎以北では、旅客がC57、貨物がD51牽引だった(昭和44年)。

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駅を旅する 〈16〉

大分

大分は行くたびに工事をしている印象がある。初めて行った昭和42年は、新田原までだった日豊本線の電化が、幸崎に向けての延伸工事中で、構内は工事で錯綜していた。最近行った時も、今度は駅の高架工事中だった。

大分IMG_0007sy架線の張られた大分駅を発車する、大分発西鹿児島行き2523レ、C57196〔大〕+客車9両、以前の“デジ青”にも紹介されていたC57四次型の1両で、大分区には5両の四次型がいた。右は入換の8620(昭和42年)。

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駅を旅する 〈15〉

豊後森

かつて鉄道の町として賑わった駅も、今はすっかり寂れてしまった例は各地に多い。久大本線のほぼ中間にある豊後森もそんな駅だった。ここには機関区があり、宮原線を分岐していた。久大本線は140キロ余りあって、給水炭なしで全線は走破はできず、中間地点付近に機関区設備を設けたようだ。

訪れた昭和42年時点で、豊後森機関区の配置蒸機は、8620が7両、C11が1両で、8620は、久大本線の西部の客貨牽引に用いられていた。久大本線の客貨を通しで牽引する大分区のD60も、豊後森で一息入れた。

今は、残骸が残るものの、機関区としての機能はなくなり、宮原線もなくなり、すっかり省みられない駅となってしまった。

豊後森IMG_0044sy豊後森へ行かせた理由は、D60が架線のない、いい光線状態で形式写真が撮れること、そして当時は、全国でも豊後森だけとなってしまった機械式キハ07が配置されていたことだった(昭和42年)。

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駅を旅する 〈14〉

平戸口

前回の佐々から、さらに松浦線に40分ほど乗ると、平戸口に到着する。現在では、松浦鉄道の「たびら平戸口」である。と言っても、機関区も何もない中間駅だが、ここは、「日本最西端の駅」である。

現在の最西端駅は、沖縄のゆいレールの那覇空港駅が、最西端、最南端であるが、「日本最西端の駅」石碑は現在でもそのまま建っている。

平戸口IMG_0010sy平戸口駅は、平戸島への定期航路の最寄の駅であり、当時は、それなりに賑わっていた。現在、島へは平戸大橋ができている。駅舎は、現在の松浦鉄道になってからも、そのままのようだ(昭和42年)。

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阪急「西山天王山」まもなく開業

ちょっと目先を変えて、地元ネタを。

来たる12月21日(土)、阪急京都線長岡天神~大山崎間に、新駅「西山天王山」が開業する。同時に京都線ではダイヤ改正、阪急4駅の駅名改称も行われる。新駅は長岡京市内にあり、市にとっては80年ぶりの駅新設だそうな。

長岡天神~大山崎間は、阪急のなかで駅間距離の長いところで、だいぶ以前から駅設置が要望されていた。昭和40年代前半に、新駅よりも少し南に多くの団地ができて、当初の構想では、この団地付近の大山崎町内となっていた。団地名を採って、仮称「円明寺駅」と呼ばれていた。その後、京都縦貫自動車道の具体化にともない、高速道路直下に駅を設置することになり、仮称「南長岡駅」として進展することになった。京都縦貫自動車道はかなり以前から計画されており、用地も取得済みで、駅も含めた建設工事は比較的、短期間で出来上がっていった。駅名も、昨年春に、最近流行の合成駅名の「西山天王山」とアナウンスされた。新駅は、準急・普通のみの停車で、日中10分ヘッド、一日の乗降客数7800人の予想とか。

131217_11sy昨日、運動がてら歩いて現地へ行ってみた。京都縦貫自動車道の直下にできた「西山天王山駅」。開業まであと4日、まだ仕上げの工事が続いていた。この場所には、かつて遊休地の活用策としてプールが営業していた。もう20数年前になくなってしまったが、私も子どもを連れて何回か行ったことがある。すべり台の上からは、すぐ横を行く阪急電車がよく見えたものだ。 

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駅を旅する 〈13〉

佐々

佐世保から松浦線(現・松浦鉄道)に乗ると、約40分で佐々に到着する。今まで紹介の駅に比べると、規模も小さなものだが、ここには、佐々機関区があり、松浦線の旅客列車などを牽くC11と、最後のレールバスであるキハ02が配置されていた。そして、超閑散線の臼ノ浦線が分岐する駅でもあった。

佐々IMG_0078sy夜行列車で佐世保に着き、一番列車で早朝の佐々に着いた。ところが、雨のうえ、薄ら寒い、寝不足と空腹も加わって、いっぺんに、やる気が失せてしまった。構内の外れで写すと、すぐに待合室へ駆け込んだ。有田発佐世保行き625レ、C11285〔佐〕+客車5両(昭和44年)。

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駅を旅する 〈12〉

他の記事掲載や自分の怠慢によって、ずいぶん間隔が空いてしまいましたが、再開します。九州の駅めぐり、まだ続けます。

佐世保

現在は、高架化された近代的な駅になっているそうな。佐世保へはもう40年以上も行っていない。私のなかの佐世保は、蒸機の煙で満ち溢れていた、狭い地上駅へとさかのぼる。

佐世保での興味は、早岐~佐世保間で運転される、蒸機の運用の多様さにあった。鳥栖・肥前山口方面から、佐世保へ向かう列車は、早岐で逆行となる。牽引機の機回しとなるところだが、早岐~佐世保間はわずか8.9キロ、また佐世保駅は狭くて、機回しの余裕もない。そのため、早岐に着いた列車は、後部に別の機関車を付け、佐世保へ向かう。佐世保発は逆の編成となった。

佐世保IMG_0027sy▲その代表がC11の牽くブルトレとして有名になった特急「さくら」だ。本務はもちろんDD51で、早岐~佐世保間のみC11がアタマに付く。以前にも記したが、通常はヘッドマークは付かなかった。次位は電源車マヤ20。右手に停車中は、呉発佐世保行き急行「出島」で、かつての軍港同士を結ぶ列車だった(昭和42年)。

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EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -6-

今出川通に沿って

今出川線の市電は、烏丸線に遅れること2年、昭和51年3月に廃止された。南に京都御苑、北に同志社と、緑豊かで絵になるところだった。京都市電がよく似合っていた。37年後の今も、市電がいないだけで、その風景は変わっていない。

▲EVE 中林0022【19】西行きの「同志社前」電停に停車する15系統500形。「急行通過」の表示が見えるが、平日の朝、乗降数の少ない停留所をすべての市電が通過するもので、若干の速度向上に寄与した。(昭和40年 撮影/中林英信)

500形の元気な姿や、人々の服装や様子がよく伝わって来る、50年近く前の「同志社前」。それにも増して、カラーの保存状態もよく、当時がよく再現されている。

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EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -5-

烏丸上立売

烏丸上立売にも電停があったことを現役会員に言うと、驚いていた。確かに、市電廃止後の代替バスにも烏丸上立売バス停はあったものの、地下鉄開業後はそれもなくなり、もう30年以上も「烏丸上立売」は存在しない。現在、烏丸今出川~烏丸車庫前(現・北大路駅前)は、市電外郭線内の廃止路線で唯一市バスの走らない区間である。京都バスは走っているものの、烏丸今出川のつぎは、烏丸中学前である。

・EVE 福田IMG0038sy【17】烏丸線には「烏丸上立売」の電停もあった。右の建物は、当時の学生会館(大学側は大学会館と呼んでいた)で、現在の寒梅館の建つ位置である。 (昭和49年 撮影/福田静二)

131130_019sy当時の学生会館は学生のための厚生施設で、食堂や書店があったが、学友会本部もあり、大学闘争の拠点ともなっていた。学友会本部は、落書きだらけ、ゴミ屋敷同然の鬼気迫るところで、近づき難かった。現在は寒梅館が建って、すっかりしゃれた雰囲気に変わったが、手前の店2軒が、外観もほぼそのままで今も健在なのが面白い。

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EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -4-

烏丸今出川電停付近

西門を出ると、そこは烏丸線の南行き、北行きの停留所があった。今回はその周辺を。

・EVE 小西149041sy【13】烏丸今出川の北行き停留所の15系統900形。安全地帯は北行き・南行きともに交差点の北側にあり、そのまま路上横断してキャンパスへ行く学生が多かった。この時代でも、学生服の姿が見えた。(昭和45年 撮影/小西啓文)

131130_024sy今出川キャンパスの再整備に合わせて西門も新しくなり、周囲は開放的な雰囲気にはなったが、やはり以前の門構えのほうが大学らしくて好きだった。「薩摩藩邸跡」の石碑も少し移転した。

 

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EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -3-

烏丸今出川をめぐる(2)

・EVE 西村0021【9】昭和48年に開館した図書館を背後に見て、烏丸今出川の交差点を左折し、今出川通に入る15系統。車輌は600形を連結市電用に改造した2600形だが、この頃は、単行ワンマンカーで使用されていた。(昭和49年 撮影/西村雅幸)

131130_030sysy交差点西南角から撮られた写真で、前回の写真【7】と同じ角度から撮られている。現況と比べても、背後の図書館には全く変化がなく、この角度だけ切り取ると、40年も経過しているとは思えないほどである。

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EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -2-

(投稿がなぜか消えてしまいましたので復元して再掲載しました。ただし、コメントは復元していませんので、ご了解お願いいたします。)

烏丸今出川をめぐる

烏丸今出川交差点の四隅からは、さすがに多くの写真が撮られている。さまざまな角度から見ていこう。(黒字は展示キャプション、青字は補足)

EVE 小西001131sy【3】雪の烏丸今出川を曲がる臨系統の500形。右側に見える小さな瓦屋根の建物は、もと交番。大学紛争時代には何度も焼き討ちにあった。現在の地下鉄への出入り口に当たる。(昭和44年 撮影/小西啓文)

131130_033sy最古参の500形が両方向の交通を遮断して、ゆっくり左折するのは、“古豪のお通り”と言う感じで堂々としていた。カラーは、烏丸今出川南東角から見た現況で、交差点を囲んでいた大学の土塀も、新しいものになっている。交番の跡に、地下鉄への出入り口が造られた。

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EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」-2-

烏丸今出川をめぐる

烏丸今出川交差点の四隅からは、さすがに多くの写真が撮られている。さまざまな角度から見ていこう。(黒字は展示キャプション、青字は補足)

EVE 小西001131sy131130_033sy【3】雪の烏丸今出川を曲がる臨系統の500形。右側に見える小さな瓦屋根の建物は、もと交番。大学紛争時代には何度も焼き討ちにあった。現在の地下鉄への出入り口に当たる。(昭和44年 撮影/小西啓文)

最古参の500形が両方向の交通を遮断して、ゆっくり左折するのは、“古豪のお通り”と言う感じで堂々としていた。カラーは、烏丸今出川南東角から見た現況で、交差点を囲んでいた大学の土塀も、新しいものになっている。交番の跡に、地下鉄への出入り口が造られた。

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EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」-1-

では予告どおり、EVE展示の「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」の展示内容を振り返って見ましょう。

考えたら、同志社前の京都市電は、クローバー会全員の共通項であり、ある意味、会活動の原点とも言えると思います。そのまま展示するのも能がないので、昨日、定点撮影した現況も添えました。

1950年代の烏丸今出川

EVE 沖中IMG0004sy【1】烏丸今出川を直進する6系統600形。元文堂書店、パチンコ屋と懐かしい建物が続く。元文堂の前の塔屋は、市電のポイント操作塔で、交差点を曲がる市電のポイントの切り替えを行っていた。交差点のど真ん中に131130_032syある、警官の乗る交通指示台とともに、昭和30年代の光景である。

(昭和34年 撮影/沖中忠順)

現在の烏丸今出川交差点。背後の建物はすべて姿を消して、新しい業態の店舗になっている。並びにあった名物の“わびすけ”も一昨年に消えた。市電が消えた交差点は、意外に広く見える。

EVE 沖中IMG0021sy【2】烏丸通を行く21系統1000形と、4系統900形。自動車にも時代が感じられる。ちょうど良心館の前あたりで、右手の建物は、中学校の校舎で、取り壊された立志館の北隣にあった。                            (昭和34年 撮影/沖中忠順)

131130_023sy現在の同所、同志社中学跡地に巨大な良心館が建ち、風景は一変した。ホームカミングデー、EVE展示も良心館で行われた。ダットサンタクシー、プリンススカイラインの後ろにある建物は中学のものであることは明らかだが、EVE展示で同志社中学出身者が4人協議しても、何の建物かは結論が出なかった。1000形の21系統は、当時、四条烏丸-烏丸車庫-四条大宮-銀閣寺という複雑な経路だった。阪急河原町延長に伴う四条線の整理により、昭和38年から、九条大宮終点に変更された。

クローバー会EVE写真展 終わる

同志社大学今出川キャンパスで行われていた第138回EVEも、昨日28日(木)で3日間の日程を終えました。良心館105号教室を会場とした鉄道同好会の展示も、多くの入場者を迎えました。クローバー会で協力した写真展「京都市電で偲ぶ 昭和の同志社」も、現役学生にとっては生まれる以前の話だけに、果たして興味を持ってくれるかと思いながら展示に掛かりましたが、その心配は杞憂でした。作業を始めた途端、“これは500形じゃないですか。大好きなんです”と現役会員から、鋭い質問が飛んで来ます。展示中、会場を訪れた一般の学生も、現在の場所と対比しながら、その変貌ぶりには興味津々の様子でした。“写真のチカラ”を感じた一瞬でした。

この展示も、限られた日程のため実際に見ることができたメンバーも少数でした。展示写真をみんなで共有できないかと、約1名の方からリクエストがありました。そこで、本掲示板で、次回から連載することにしました。お楽しみにお待ちください。

P1010853sy            写真を前に当時を回顧する会員たち

準備完了! クローバー会EVE写真展

明日26日(火)に迫った第138回EVE、クローバー会から参加する写真展の準備を、今晩行いました。米手作市会長とともに、会員から寄せられた、同志社をめぐる京都市電の貴重な写真を、手際よく貼り付け、準備万端整い、明日の開場を待つばかりとなりました。なんとなく、数十年前に体験した、EVE前日の緊張感・高揚感を覚えた感じでした。P1100249

現役会員にとっては、生まれる前の写真ですが、興味津々で見つめる現役会員が印象的でした。会場は、良心館105教室。真新しい、きれいな教室です。現役の模型運転会、写真展、各種展示も、見逃したら一生の損、これは必見の内容です。会期は11月26日(火)~28日(木)の3日間、明日26日午後には、“みんなでEVEを見学する会 ”も開かれます。

大学構内には、巨大なクリスマスツリーが飾られ、出店のテント準備も終わったEVE前夜のムードを盛り上げてくれる。

P1100252sy会場では、クローバー会の準備の向こうでは、現役の準媚が続く。我々の時代なら、徹夜の準備が当然だったが、最近は諸般の情勢により、午後10時以降は構内に立ち入りが出来ないため必死の作業だった。米手会長は、めっきり老化の始まった身体に鞭打って両面テープを貼り付け、“弘風館カーテン火災事件”など、EVEの秘められた歴史を語り明かしていた。

 

今年のクローバー会EVE展示は “京都市電と同志社”

同志社最大の学生イベント、EVEが明後日26日(火)から3日間開かれます。今年も現役の鉄道同好会では、多彩な展示・発表を行いますが、クローバー会でも、さまざまな形で協力しています。今年のEVEでは、「市電で偲ぶ 昭和の同志社」と題して、同志社をめぐる京都市電の写真を展示します。

同志社の前を走っていた京都市電が消えてから、もう37年が経ちました。現役の会員諸君にとっては、生まれるずっと前の昭和の時代です。背後に同志社や付近の街並みの入った写真を、多くの会員協力で展示することが出来ました。すっかり新しくなったキャンパス・校舎で、昭和の時代には、こんな風景が展開されていたことを偲ぶのも、また意義のあることでしょう。

    第138回同志社EVE 

    11月26日(火)~28日(木)10:30~20:30

    鉄道同好会会場/良心館105号教室

みんなでEVEを見学する会/EVE初日の26日(火)午後1時ごろから夕方まで、良心館105号教室で、クローバー会有志による見学会を行います。平日ですが、暇を持て余している皆さん、ぜひ良心館へお越しください。

IMG_0003 (2)提供された写真の中で、最古参は、やはり乙訓老人のものだった。昭和34年の烏丸今出川を曲がる15系統の1000形だが、右に見える、オート三輪、ボンネット市バス、左の信号塔、電話ボックス、パチンコ屋などが続く家並みなど、市電を取り巻く風景が、その時代を雄弁に語りかけている。

オロナイン軟膏3個! 今年のホームカミングデー 

乙訓の老人から、先ごろ行われたホームカミングデーの参加記が寄せられましたので、写真とともにご紹介します。なお、タイトルの「オロナイン軟膏」ですが、50年前に新語・流行語大賞があったら、まちがいなく選ばれている古典ギャグです。老いてもなおクローバー会への深い愛情を絶やさない老人ならではのタイトルとしてご理解ください。では。

このところ恒例行事となったホームカミングデー、今年も多彩な内容で、鉄道趣味者として興ryoshinkan味惹かれるものであった。第一部は今出川校地の西北に新築された良心館で「教室での会合」が開催された。

今年のホームカミングデーの会場は、新築の良心館

(1)まず湯口会員の「軌陸車の話」であった。デジ青【40044】2013年9月24日で紹介された「日本の内燃動車」の延長線とも言うべきもので、内燃車の陸上走行から鉄軌道での走行を可能にするため、種々の考案が生み出され試行錯誤を辿った姿が、日本を始め海外の事例をふくめ、スクリーン上で映写しながら紹介された。本件について、このところJR北海道が開発に着手、実用化に向け地域外での試行も報じられているが、通学(通勤は対象外)時の輸送力不足から実用化には問題が生じているとかで目下、頓挫しているようである。

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レールも道路も走る“軌陸車”について、湯口さんらしい考察と写真が披瀝された

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