鉄道展〈東北を旅して〉その6 開催中

佐竹保雄さんの鉄道展〈東北を旅して〉その6「3・11東北を忘れない」が、いま開かれています。会場は前回と同じ「ひと・まち交流館 京都」、1階展示室には、テーマ別の関連する写真・資料・グッズがところ狭しと展示されています。

クローバー会では、「個人のイベントにも、協力を行う」ルールのもと、会員応募の写真展を行ったほか、設営、受付、撤収時には、有志が協力して会場に詰めています。syP1020456

震災当日の3月11日には、“祈念の集い”も開かれ、多くの参加者が黙祷のあと、ギター演奏、そして、参加者が、3年を迎えた東北への思いを語り合いました。終盤を迎えた展示は、つぎの16日(日)まで。皆さんのご来場、お待ちしています。

 

今年の展示は、圧倒的な写真展示が見もの。週末はぜひ「ひと・まち交流館 京都」へ。

syP1020479クローバー会では、個人イベントへの協力の一環として、「東北の鉄道いま・むかし」と題した写真展を開催し20点を出品。また、故・天野克正さんの遺作、珠玉のモノクロ写真約50点を一挙に掲載している。

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窓から写した駅・列車 -3- 

中国地方の交換駅

昭和40年代初頭の中国地方、山陽本線は昭和39年に全線電化したものの、電気機関車の不足から、一部では蒸機列車がまだ残っていましたが、この時期、C62などの大型蒸機の働き場所は、呉線へ移って行きます。初めて呉線を訪れたのは、昭和41年3月、高校2年の時でした。

 

syIMG_0016夜行鈍行に乗って、早朝の広島に着き、駅で出入りする列車を撮ったあと、広島8時24分発の呉線の客車列車で糸崎へ向かった。途中の忠海で停車、通過列車を待つ。やって来たのは東京発広島行き急行「安芸」、そして牽引機は待望のC59だった。C62はその前の広島でも撮ったが、C59は初めてだ。C62は、まだ電化後の山陽本線でも見られたし、北海道や常磐線でも見られた。しかし、このC59こそ、呉線でしか見られない、最後の3両だった。一瞬の通過だったが、C62とは対照的な優美な、日本の蒸気機関車の完成形を見るような優美なスタイルが、一瞬で見て取れた。

当会でも、準特急さんをはじめ、乙訓老人さん、米手作市さんと言った錚々たる方がたが、本欄で蒸機の中ではC59がいちばん好きと仰っている。とくに戦後型の船底テンダーがお気に入りのようだ。しかし、私がそれを理解するには、少しだけ年齢が若かった。写真ではよく分からないが、次位には三軸ボギーのカニ38を連結している。「安芸」に通常連結されていた、側面が総シャッターになった試作車だった(昭和41年3月)。

syIMG_0027呉線へはその後も年に一回は必ず行っていた。その多くは、九州旅行の行き掛けに寄った。この時も、尾道のユースに泊まったあと、呉線の安登で走行中を撮ってから九州へ向かう計画だった。風早、という風雅な名前の駅で、C62の牽く624列車と交換した。何気ない写真だが、ホームに立つ赤ん坊を背負った母親の着た“ねんねこ”も、もうすっかり見かけなくなった。背後の民家と柵も何もないような構造も、以前はよく見られたが、さすがに今は見られない(昭和43年3月)

 

窓から写した駅・列車 -2-

 中国地方の駅交換

「窓から写した」シリーズ、はじめます。まずは、中国地方の駅交換シーンから。時代は、昭和40年代初頭、高校生の頃で、家族旅行でも撮影旅行でも、行き易い中国地方へはよく行ったものでした。まずは宇野線から。今でこそ宇野線は盲腸線に成り下がってしまいましたが、当時は、四国連絡のすべて担っていた一大幹線でした。syIMG_0013終点、宇野駅。跨線橋の向こうには瀬戸内海が広がっていた。宇野発のゲタ電の窓から見ていると、宇野線のピカイチ、下り特急「うずしお」が入線してきた。「うずしお」は、大阪を始終発とする四国連絡特急で、昭和36年10月改正で登場した。当時、関西~宇野は準急(のち急行)の「鷲羽」が主力で、いきなりの151系特急の誕生だった。特急は500キロ以上運転が相場のなか、200キロ余りは異例の特急設定だった。

列車は、折り返し新大阪行き「ゆうなぎ」となるため、ホームにはヘッドマークが用意されていた。左の客車編成は、「うずしお」より一足先に到着した東京発の急行「さぬき」(昭和40年3月)。 

syIMG_0014宇野から乗ったゲタ電が、岡山到着を前にした妹尾で10分余りの停車、なにせ宇野線は単線のところ、すべての四国連絡列車が通るから、列車交換が頻繁にある。やがて通過したのは東京発の急行「瀬戸」、この前の「さぬき」は寝台夜行列車だが、「瀬戸」は2等車(当時)が主体の夜行列車。その先頭に立つのは、新製まもない宮原区のEF61だった。パノラマウインドゥ、1個ライトの顔もなかなか魅力的だが、よく似たEF60と比べると、SGを積んでいるぶん1.6メートル車体が長い。側面の鎧戸・小窓が横長にまとめられているため、さらに長く見える。その特徴ある側面を見せながら旅客列車の先頭に立つ姿は、たいへん魅力的だった。妹尾駅は、地上駅のまま残り、駅舎は橋上化されている。

窓から写した駅・列車 -1-

まだ車両の窓が開く時代、クロスシート車に乗ると、私は決まって、進行右側窓側の席を確保しました。交換列車を写すためです。皆さんも同じような経験があると思います。単線の交換駅に着くと、交換する列車や、通過する列車を今か今かと待ったものです。窓から首を出して撮った写真も、長い間にずいぶんのカット数になりました。

車内から一歩も歩くことなく、窓から首を出すだけの、究極のズボラ撮影ですが、列車だけでなく、ホームや駅舎の様子、乗客の様子が、時代、社会を鋭敏に映し出しています。今年のシリーズは、列車交換時の写真を集めてみました。

IMG列車の窓からの撮影に魅かれた契機となった、今から50年前の山陰本線の鎧駅での交換シーン、家族旅行で、京都からずっと普通列車に乗り続けて、玉造温泉へ行く途中だった。真夏の太陽がガンガン照りつける。窓からは、ムッとした熱気のなかに、潮の香も混じってくる海辺の駅で、急行「白兎」の交換待ちだった。連続するトンネルのため、ライトを点灯したまま、タイフォン一声、通過する上り「白兎」をオリンパスPEN EESで写した。

「白兎」は、昭和31年、山陰本線京都口に初めて設定された準急で、C57の牽く松江行き客車列車だった。昭和36年10月改正で、キハ58系の急行になり、大阪始終着の編成も併結した。C57時代からヘッドマークに描かれた白うさぎが描かれた小粋なヘッドマークは、キハ58になってからもヘッドマークに引き継がれた。この時代、京都口の「丹後」「きのさき」などはまだ準急で、キハ58で統一された「白兎」は、際立った存在だった。(昭和39年)

 

三井芦別C58-2のプレート色

引き続き、以前の問い合わせに対しての回答です。

かつて三井芦別鉄道で走っていたC58-2は、現在、旭川近郊の旅館に保存されているそうですが、保存先の親戚の方からの問い合わせコメントが本掲示板にあり、C58-2のナンバープレートの色について、昔から気になって問い合わされていました。同機を購入・保存された方は、すでに他界されており、保存当時のことが分からず、真相は謎のままと記されていました。

私も三井芦別鉄道へ一度だけ行っており、確かカラーも撮っていたはずと、探しますと、確かにカラーが2枚だけありました。C58-2のナンバープレートは赤でした。

58-2-3_1[1]ネット先から拝借した現在のC58-2は、ご覧のようなもので、確かにナンバープレートの地色は、剥げ落ちて元の色が判然としない状態ですが、ハイフン入りのナンバープレートは貴重です。保存されているのは、温泉旅館の大広間という、異色の場所です。最近、元プロ野球選手が日本の全保存蒸機を写した本を出版していますが、それによると蒸機の保存総数は600両余りとか。旅館の大広間に鎮座する例は、おそらくここだけでしょう。C58-2を酒の肴に宴会もオツなものかもしれません。

syIMG_0013赤ナンバーの三井芦別C58-2、自社発注機のC58で、1、2の2両が在籍した。給水温め器がないのが最大の特徴。(頼城にて、昭和44年9月)

syIMG_0012DC列車もカラーで紹介。根室本線と平行しながら芦別を発車した頼城行きのキハ103+キハ101、キハ100形キハ101~103の3両あり、昭和33年製造の湘南タイプの気動車。鉄道廃止後、3両とも関東鉄道鉾田線に転じた。塗装は、かつて阪和線のスカ形に塗られた、国鉄色名で言う緑1号に酷似している。一般に言う青緑色で、この色はありそうで、なかなか無い色だった。

 

DD401、ありました

ことし初めての投稿です。正月以来、雑事に振り回されていましたが、ようやく冬眠から覚めて、掲示板に向かいます。

まずは、掲示板に寄せられた問い合わせについて、私なりの回答から。

以前、西村雅幸さんから、「DD40の目撃者、おられませんか」として、新三菱重工で製造された試作ディーゼル機関車、DD91について、配置された梅小路区・吹田区での現役の姿の問い合わせがありました。

同機は製造後、昭和31年5月、梅小路区へ入換用に配置、昭和35年5月から吹田一区で、吹田操車場、尼崎港線で使用され、昭和37年3月に新三菱重工へ返却されています。

昭和37年返却とあれば中学一年生の時、残念ながら私も写していませんが、“何かあったはず”と探しますと、ありました。以前にTさんからいただいた写真でした。ただ、モノクロのため、お望みの塗装は判然としませんが、古いピク誌を見ますと、“ブドウ色”と記されていましたので、茶に白線のような気がします。ただ、鉄道図書刊行会「日本の内燃車両」に掲載されている同機の写真と比べると、白線の太さ・回り方が違い、ある時期に塗装が変更されているようです。模型作りの参考になれば幸いです。

余談ですが、その後に、新三菱重工で試作されたDD91も、福知山区に配属され、山陰本線の京都~福知山で使用されました。返却は昭和40年ですので、私も京都駅で何回か撮っています。返却後、山陽本線すぐ横、三菱三原の工場側線にしばらく置かれていました。呉線へ行った時、電車から見るのが、楽しみのひとつでした。

EPSON scanner image

 梅小路機関区のDD401。昭和30年代、外国の技術と提携した試作ディーゼル機関車が国内の車両メーカーで製造された。その多くは、国鉄が借り入れて、旅客列車の牽引、入換に供され、ディーゼル機関車の有用性の検討と、無煙化の一助とした。1形式1両ばかりで、当初は40台の追番、のちに90台の形式が付けられた。

駅を旅する 〈20〉

西大山

最後は“日本最南端の駅”西大山。以前にも書いたが、正確には日本最南端は、沖縄ゆいレールだが、普通鉄道では、いまも最南端であることに変わりない。ただ碑の「日本最南端駅」はツッコミから逃れるため、今は「JR日本最南端駅」に変えられているらしい。

西大山IMG_0020sy西大山IMG_0018sy昭和42年、高校2年生の春、指宿のユースを朝に出発して西大山へ向かった。開聞岳のふもと、菜の花が咲き乱れる、南国ムードいっぱいのなかに駅はあった。乗降客は自分一人だけ、最南端駅訪問の感激の余り、三脚にカメラを載せて何枚も自分撮りをした。約40分の滞在のあと、枕崎発西鹿児島行き726D、キハ2050ほか3両編成の列車で、鹿児島機関区へと向かった。その後、指宿枕崎線に乗ったことはあるものの、西大山は二度と降りることはなかった。

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駅を旅する 〈19〉

吉松

人吉から山線を越えると、吉松。ここも運転上の要衝駅である。人吉と違うのは、町の規模はうんと小さいが、その分、機関区は広々していて、背後は一面の田んぼが広がっていた。矢岳越えを控えて、重装備のD51が出入りしたかと思うと、吉都線C55・C57や山野線C56も姿を見せる、出入りの機関車は変化に富んでいた。

IMG_0001夏の終わりの午後、C55の熱気も加わり、ホームは暑そうに見えるが、ベンチの女性はいたって楽しそう。吉松まで来ると、さすがにローカル線ムードあふれる雰囲気だった(昭和45年)。

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駅を旅する 〈18〉

人吉

人吉は、肥薩線の川線・山線の中継地点であり、要衝の駅として賑わっており、駅裏には機関区もあった。鉄道写真の立場から言えば、矢岳越えの写真を撮るための前線基地でもあった。朝早くから、とくにいい時間帯に通過する夜行1121列車を大畑で撮ろうとすると、どうしても人吉に泊まり、一番列車で向かわなければならない。しかし、人吉にユースはないため、奮発して国民宿舎に泊まった(と言っても一回だけ)。朝早く、国民宿舎で作ってもらった握り飯を抱えながら、まだ暗いなかを駅に向かったものだ。

人よしIMG_0017syIMG_0002sy人吉駅の代表的なシーンは、矢岳越えに挑む列車。上は昭和42年の873レ、D51170〔人〕+オハフ61433+貨車+D51、下は昭和45年の4589レ、D51545〔人〕+スハフ3244+貨車+D511058〔人〕、どちらも客車1両に貨車多数の混合列車で、3年経過しても何ら変わっていなかった。下のスハフ32は、この頃珍しいダブルルーフ、トンネル区間に備えてベンチレータが撤去してある。

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駅を旅する 〈17〉

宮崎

昭和40年代の宮崎は、他の地域とは違う響きを持った、憧れの地だった。当時の新婚旅行のメッカだったかもしれないが、人それぞれの思い入れも宮崎にあるだろう。しかし撮影対象として見ると、機関区が駅ホームの真横あり、とにかく狭いところに機関区があったという印象が強い。正規の入り口から入って機関区で撮影していたところ、ホームから直接、機関区へ侵入したと勘違いしたホーム上の駅員から、思いっ切り怒られたことがある。なにしろホームの真横にあるから、駅員がすぐ見つけてしまう。国鉄時代の職員は、怒るとたいへん怖かった。

宮崎IMG_0073syホームで出発待ちのC57187〔宮〕の客車列車の横を、入換中のD5112〔延〕が通り過ぎる。宮崎以北では、旅客がC57、貨物がD51牽引だった(昭和44年)。

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駅を旅する 〈16〉

大分

大分は行くたびに工事をしている印象がある。初めて行った昭和42年は、新田原までだった日豊本線の電化が、幸崎に向けての延伸工事中で、構内は工事で錯綜していた。最近行った時も、今度は駅の高架工事中だった。

大分IMG_0007sy架線の張られた大分駅を発車する、大分発西鹿児島行き2523レ、C57196〔大〕+客車9両、以前の“デジ青”にも紹介されていたC57四次型の1両で、大分区には5両の四次型がいた。右は入換の8620(昭和42年)。

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駅を旅する 〈15〉

豊後森

かつて鉄道の町として賑わった駅も、今はすっかり寂れてしまった例は各地に多い。久大本線のほぼ中間にある豊後森もそんな駅だった。ここには機関区があり、宮原線を分岐していた。久大本線は140キロ余りあって、給水炭なしで全線は走破はできず、中間地点付近に機関区設備を設けたようだ。

訪れた昭和42年時点で、豊後森機関区の配置蒸機は、8620が7両、C11が1両で、8620は、久大本線の西部の客貨牽引に用いられていた。久大本線の客貨を通しで牽引する大分区のD60も、豊後森で一息入れた。

今は、残骸が残るものの、機関区としての機能はなくなり、宮原線もなくなり、すっかり省みられない駅となってしまった。

豊後森IMG_0044sy豊後森へ行かせた理由は、D60が架線のない、いい光線状態で形式写真が撮れること、そして当時は、全国でも豊後森だけとなってしまった機械式キハ07が配置されていたことだった(昭和42年)。

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駅を旅する 〈14〉

平戸口

前回の佐々から、さらに松浦線に40分ほど乗ると、平戸口に到着する。現在では、松浦鉄道の「たびら平戸口」である。と言っても、機関区も何もない中間駅だが、ここは、「日本最西端の駅」である。

現在の最西端駅は、沖縄のゆいレールの那覇空港駅が、最西端、最南端であるが、「日本最西端の駅」石碑は現在でもそのまま建っている。

平戸口IMG_0010sy平戸口駅は、平戸島への定期航路の最寄の駅であり、当時は、それなりに賑わっていた。現在、島へは平戸大橋ができている。駅舎は、現在の松浦鉄道になってからも、そのままのようだ(昭和42年)。

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阪急「西山天王山」まもなく開業

ちょっと目先を変えて、地元ネタを。

来たる12月21日(土)、阪急京都線長岡天神~大山崎間に、新駅「西山天王山」が開業する。同時に京都線ではダイヤ改正、阪急4駅の駅名改称も行われる。新駅は長岡京市内にあり、市にとっては80年ぶりの駅新設だそうな。

長岡天神~大山崎間は、阪急のなかで駅間距離の長いところで、だいぶ以前から駅設置が要望されていた。昭和40年代前半に、新駅よりも少し南に多くの団地ができて、当初の構想では、この団地付近の大山崎町内となっていた。団地名を採って、仮称「円明寺駅」と呼ばれていた。その後、京都縦貫自動車道の具体化にともない、高速道路直下に駅を設置することになり、仮称「南長岡駅」として進展することになった。京都縦貫自動車道はかなり以前から計画されており、用地も取得済みで、駅も含めた建設工事は比較的、短期間で出来上がっていった。駅名も、昨年春に、最近流行の合成駅名の「西山天王山」とアナウンスされた。新駅は、準急・普通のみの停車で、日中10分ヘッド、一日の乗降客数7800人の予想とか。

131217_11sy昨日、運動がてら歩いて現地へ行ってみた。京都縦貫自動車道の直下にできた「西山天王山駅」。開業まであと4日、まだ仕上げの工事が続いていた。この場所には、かつて遊休地の活用策としてプールが営業していた。もう20数年前になくなってしまったが、私も子どもを連れて何回か行ったことがある。すべり台の上からは、すぐ横を行く阪急電車がよく見えたものだ。 

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駅を旅する 〈13〉

佐々

佐世保から松浦線(現・松浦鉄道)に乗ると、約40分で佐々に到着する。今まで紹介の駅に比べると、規模も小さなものだが、ここには、佐々機関区があり、松浦線の旅客列車などを牽くC11と、最後のレールバスであるキハ02が配置されていた。そして、超閑散線の臼ノ浦線が分岐する駅でもあった。

佐々IMG_0078sy夜行列車で佐世保に着き、一番列車で早朝の佐々に着いた。ところが、雨のうえ、薄ら寒い、寝不足と空腹も加わって、いっぺんに、やる気が失せてしまった。構内の外れで写すと、すぐに待合室へ駆け込んだ。有田発佐世保行き625レ、C11285〔佐〕+客車5両(昭和44年)。

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駅を旅する 〈12〉

他の記事掲載や自分の怠慢によって、ずいぶん間隔が空いてしまいましたが、再開します。九州の駅めぐり、まだ続けます。

佐世保

現在は、高架化された近代的な駅になっているそうな。佐世保へはもう40年以上も行っていない。私のなかの佐世保は、蒸機の煙で満ち溢れていた、狭い地上駅へとさかのぼる。

佐世保での興味は、早岐~佐世保間で運転される、蒸機の運用の多様さにあった。鳥栖・肥前山口方面から、佐世保へ向かう列車は、早岐で逆行となる。牽引機の機回しとなるところだが、早岐~佐世保間はわずか8.9キロ、また佐世保駅は狭くて、機回しの余裕もない。そのため、早岐に着いた列車は、後部に別の機関車を付け、佐世保へ向かう。佐世保発は逆の編成となった。

佐世保IMG_0027sy▲その代表がC11の牽くブルトレとして有名になった特急「さくら」だ。本務はもちろんDD51で、早岐~佐世保間のみC11がアタマに付く。以前にも記したが、通常はヘッドマークは付かなかった。次位は電源車マヤ20。右手に停車中は、呉発佐世保行き急行「出島」で、かつての軍港同士を結ぶ列車だった(昭和42年)。

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EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -6-

今出川通に沿って

今出川線の市電は、烏丸線に遅れること2年、昭和51年3月に廃止された。南に京都御苑、北に同志社と、緑豊かで絵になるところだった。京都市電がよく似合っていた。37年後の今も、市電がいないだけで、その風景は変わっていない。

▲EVE 中林0022【19】西行きの「同志社前」電停に停車する15系統500形。「急行通過」の表示が見えるが、平日の朝、乗降数の少ない停留所をすべての市電が通過するもので、若干の速度向上に寄与した。(昭和40年 撮影/中林英信)

500形の元気な姿や、人々の服装や様子がよく伝わって来る、50年近く前の「同志社前」。それにも増して、カラーの保存状態もよく、当時がよく再現されている。

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EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -5-

烏丸上立売

烏丸上立売にも電停があったことを現役会員に言うと、驚いていた。確かに、市電廃止後の代替バスにも烏丸上立売バス停はあったものの、地下鉄開業後はそれもなくなり、もう30年以上も「烏丸上立売」は存在しない。現在、烏丸今出川~烏丸車庫前(現・北大路駅前)は、市電外郭線内の廃止路線で唯一市バスの走らない区間である。京都バスは走っているものの、烏丸今出川のつぎは、烏丸中学前である。

・EVE 福田IMG0038sy【17】烏丸線には「烏丸上立売」の電停もあった。右の建物は、当時の学生会館(大学側は大学会館と呼んでいた)で、現在の寒梅館の建つ位置である。 (昭和49年 撮影/福田静二)

131130_019sy当時の学生会館は学生のための厚生施設で、食堂や書店があったが、学友会本部もあり、大学闘争の拠点ともなっていた。学友会本部は、落書きだらけ、ゴミ屋敷同然の鬼気迫るところで、近づき難かった。現在は寒梅館が建って、すっかりしゃれた雰囲気に変わったが、手前の店2軒が、外観もほぼそのままで今も健在なのが面白い。

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EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -4-

烏丸今出川電停付近

西門を出ると、そこは烏丸線の南行き、北行きの停留所があった。今回はその周辺を。

・EVE 小西149041sy【13】烏丸今出川の北行き停留所の15系統900形。安全地帯は北行き・南行きともに交差点の北側にあり、そのまま路上横断してキャンパスへ行く学生が多かった。この時代でも、学生服の姿が見えた。(昭和45年 撮影/小西啓文)

131130_024sy今出川キャンパスの再整備に合わせて西門も新しくなり、周囲は開放的な雰囲気にはなったが、やはり以前の門構えのほうが大学らしくて好きだった。「薩摩藩邸跡」の石碑も少し移転した。

 

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EVE展示から「京都市電で偲ぶ昭和の同志社」 -3-

烏丸今出川をめぐる(2)

・EVE 西村0021【9】昭和48年に開館した図書館を背後に見て、烏丸今出川の交差点を左折し、今出川通に入る15系統。車輌は600形を連結市電用に改造した2600形だが、この頃は、単行ワンマンカーで使用されていた。(昭和49年 撮影/西村雅幸)

131130_030sysy交差点西南角から撮られた写真で、前回の写真【7】と同じ角度から撮られている。現況と比べても、背後の図書館には全く変化がなく、この角度だけ切り取ると、40年も経過しているとは思えないほどである。

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