写真展 ちょっといい話 写真が被災地へ里帰り

烏丸御池駅ギャラリーでクローバー会写真展「東北の鉄道」を行ったのは、震災1年後の2012年2月のことだった。tsurukameさんのお蔭で展示写真も本ホームページで閲覧できるようになったが、そのうちの3点が、撮影された町に里帰りし、被災地の復興のお役に立つこととなった。

いまも被災地への思いやり・支援を欠かさない“山科の人間国宝”から電話があったのは9月末だった。奥さまが支援活動を通じた知人を訪ねて岩手県大槌町へ行かれると言う。その際に、前記の写真展に人間国宝が出展された、大槌川を渡るC58貨物の写真を持参されると言う。

その電話で、ハッと思い付いたのが、私も大槌駅の写真を出展していること、またI原さんも同様に大槌の写真を出品しており、“もう要らん”と言うことで私が預かっていたことだった。“この2枚も加えてください”と即答となった。

奥さまは夜行バスで大槌入りをされた。写真3枚を持っての夜行は、少々辛い旅だったかもしれないが、大歓迎が待ち受けていた。最初の考えでは、ごく内輪2013大船渡 027syに写真を渡すだけだったが、知り合いの方の機転で、受け取り場所が町役場になった。わざわざ京都から人間国宝の鉄道写真を携えて来訪される、の報は街じゅうに広がった。町役場には、町の広報担当、地元の岩手日報の記者、災害FMなどの取材陣が待ち構えた。

写真の贈呈は町長も出席して行われ、参加者は鉄道が走っていた時代の大槌に思いを寄せていた。左から、碇川豊大槌町長、人間国宝の奥さま、妹さま(許可を得て掲載)

そして、町議会の直前のあわただしいなか、大槌町長までが参加のもと、贈呈式が行われた。3点の写真が、どよめきのなかで披露され、町長から感謝の言葉が述べられたと言う。その後、3点の写真は、大槌町のホームページにも紹介された。

↓  山田線を走るSLの雄姿、鉄道マニアが大槌町に寄贈

http://www.town.otsuchi.iwate.jp/docs/2013101600053/

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“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈4〉

山本覚馬邸

少し時代を遡るが、大河ドラマでも重要な舞台となっていた山本覚馬の邸宅について、市電がらみで探見してみたい。

覚馬は、言うまでもなく、同志社の創立時、襄の最大の協力者であり、同志社の名も彼の命名とされている(ただこれは、確かな史実はなく、伝聞に過ぎないようだ)。

明治3年、覚馬は京都府顧問となる。翌、明治4年、八重は京都へ来て、兄である覚馬の家に身を寄せる。京都府大参事であった槇村正直(のちの京都府知事)の邸宅近くに、覚馬は居を構えていた。

八重は、覚馬の家で暮らし、新島襄と結婚後も、寺町丸太町上ルの新居ができるまでは居候していた。ドラマでは、史実かどうか疑わしいが、覚馬の家に西郷隆盛も来訪している。

さて覚馬の邸宅だが、現在の河原町御池付近にあったと言われている。現在、東北角には京都ホテルオークラがあり、幕末にはここに長州藩の屋敷があった。当時の御池通の細い道を挟んで、南側には、加賀藩の前田屋敷があった。明治維新後は上地され官用地になっていた。京都府の重職に就こうとしていた覚馬に、府知事が与えた居宅と想像できる。

大河ドラマの後の“歴史紀行”でも、河原町御池付近にあったと紹介されていた。ただ、現在の河原町御池は、広い交差点であり、その場所を特定することは難しい。

河原町通は明治末期の市電敷設時、御池通は戦争中の強制疎開で、それぞれ拡幅されており、その前は、ごく狭い道幅だった。資料を調べると、河原町通は、通りの西側、御池通は、通りの南側を拡幅していることが分かった。そこからすると、現在の河原町御池交差点の南西角付近と類推される。

IMG_0001sy山本覚馬の居宅があった河原町御池を行く河原町線の市電。覚馬の居宅は画面右、交通指令塔の当たりになる。河原町線は昭和52年廃止、36年も前のことになる。

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“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈3〉

新島旧邸とその周辺

前回紹介の鴨沂高校から、寺町通を200メートルほど南へ行くと新島旧邸がある。現在の建物は、新島襄と八重が住んだ私邸であるが、同時に同志社創設の地でもある。

明治8年11月29日、「同志社英学校」の標札を掲げ、開校の祈祷が、新島と8名の生徒によって行われた。校舎は、華族である高松保美の自邸の半分を借り受けた。もともと、ここには、御所の消防を担当した淀藩の中井主水という人物の屋敷があり、そのため火の見櫓があったと言う。その後、高松保美が住むが、遷都で東京へ移り、屋敷には誰も住んでいなかった。大河ドラマでは、蜘蛛の巣の張った荒れ放題の屋敷を新島襄が下見する場面も描かれていた。屋敷は903坪もあり、現在で言うと、隣の同志社新島会館、さらにその南隣の洛陽教会も含む区域で、のちに全域が同志社の所有となった。

しかし、翌明治9年9月に、校舎は、現在の今出川キャンパスのある薩摩藩屋敷跡へ移転してしまう。したがって、この地で、授業が行われたのは、わずか10ヵ月に過ぎない。明治11年に、コロニアルスタイルの擬洋風建築の現在の建物ができ、襄と八重の住む私邸となった。

明治22年に新島襄は永眠するが、八重は、昭和6年に永眠するまで、一人で住んでいた。大河ドラマの主人公が、私の実家から、数百メートル先で、昭和の時代まで生き続けていたとは、不思議な思いにとらわれる。

IMGsysyさて京都市電との関わり、と言うことで、いろいろ資料を漁っていると、またまた、自分にとっては、初めての写真を見つけた。

「京都市町名変遷史」第一巻に載っていた写真で、出典は不明である。電車の背後の森が、現在の新島旧邸、中央は、同じ敷地にあった洛陽協会である。電車は、前回にも記した京都電鉄出町線であり、撮影時期は、明治34年の開業から、大正13年の廃止までとなる。

が、写真をよく見ると、複線になっている。私は、出町線は単線とばかり思っていただけに、全く意外であった。 乙訓老人にも聞いてみたが、寺町通の拡幅と同時期ではないかとの示唆をいただいた。前述の撮影期間のなかで、大正に入ってからの撮影と思われる。なお、手前の洛陽教会は、同志社の敷地だったが、襄の死後に土地が売却され、明治26年に写真の教会が建てられた。

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“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈2〉

その後の女紅場

女性への教育・教養の場として、明治5年、京都・河原町丸太町東入るに設けられ女紅場で、八重は女子教育に携わるが、キリスト教徒の新島襄と婚約したことにより、明治8年に女紅場を解雇されてしまう(次回の大河でこのシーンが紹介されるようだ)。

女紅場は何回かの改称ののち、明治28年に、京都府立第一高等女学校となり、明治33年には、寺町通荒神口下ルの新学舎に移転する。新島旧邸からは200メートルほど北になる。学舎は新築されたが、門は女紅場のから移築された。戦後の学制改革により、昭和23年には京都府立鴨沂高校となる。

121119_080のコピー現在の鴨沂高校。九条家屋敷の門が、女紅場でも使われ、現在も同高校の正門として寺町通に面して建つ。門は、三代に渡る百数十年の歴史がある。背後は、最近、取り壊しで話題になっている、昭和初期建築の校舎。和風の千鳥破風の屋根が特徴。

京都市電とのこじつけ、となると、鴨沂高校の前の寺町通には、京都電気鉄道の出町線が走っていた。寺町丸太町~出町間が、明治34年に開業するが、平行して市営河原町線が敷設されることになり、大正13年に廃止される。

営業期間が、23年間だっただけに、残された写真は少ない。知られているのは寺町今出川下ルで撮影と言われている、右書きで「でまちばしゆき」と行き先が掲げられた写真、それに、京his2_20_01極小学校の門前を行く写真、これぐらいしかなかったと思っていた。ところが、ネットで検索していると、上京区役所のホームページで右のような写真を見つけた。たいへん粗い画像で、出典も不明だが、「寺町通荒神口付近を行く電車」とあり、左側の土手は、ちょうど現在の鴨沂高校前付近と同じだ。

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“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈1〉

準特急さんからバトンを受けて、“八重の桜”京都編に入ります。大河ドラマ“八重の桜”も京都編が始まり、同志社人として、京都人として、目が離せません。

いまも関連する史跡が残っているのが、京都らしいところです。と言っても、単なる史跡訪問では、デジ青のテーマから外れてしまいます。

そこで、関連史跡が、かつての京都市電沿いにあることに着目し、無理やり京都市電とこじつけて、“八重の桜”ゆかりの史跡めぐりとしました。

女紅場跡

準特急さんも書かれているが、八重が京都で初めて仕事をしたのが「女紅場」だ。

その跡地は、現住所で言うと、京都市上京区河原町丸太町東入る駒之町にあり、この駒之町は、まさに私の生まれ育った町であり、小さい時から、それを示した石碑は日常風景の中にあった。

img_987044_30650573_3会津戦争を生き抜いた山本八重は、明治4年、兄・山本覚馬を頼って京都へ来て、女紅場で教官として働き始める。

女紅場とは、女子に英語や手芸を教える場であり、日本最初の高等女学校である。現在の鴨川に架かる丸太町橋の西畔に「女紅場址 本邦高等女学校之濫觴」の石碑が建っている。

もともと、この付近、御所に近いところから、幕末には、鴨川に沿って、九条、鷹司、近衛、有栖川と、公家の屋敷が連なっていた。女紅場は、東京遷都で空き家になった九条家の屋敷を利用して開設され、女紅場の門も、九条家の門がそのまま流用されたと言う。

丸太町橋のたもとに建つ「女紅場址」碑

IMG_0007sy女紅場跡の前を行く京都市電丸太町線、電車の右の架線柱の下に石碑があ。背後の建物は、もとの京都上電話局で、大正13年の建築。登録有形文化財に指定されている。電話事業を昭和30年代に終えてからは、通信技術資料館、電々公社の厚生施設となり、NTTになってからは、シーフードレストラン、スポーツクラブとなり、現在は地場のスーパーマーケットとなっている。時折、“文化財のスーパーマーケット”として、テレビでも紹介されている。

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写真展「鉄路輝く」 公開中!

クローバー会が過去に行いました第1回から第4回までの写真展の全作品が、ホームページ上にアップされています。

トップページ「クローバー会」「リンク」「クローバー会写真展鉄路輝く」で見ることが出来ます。Tsurukameさんの寝食を忘れた作業のお蔭で、このたび、すべての写真をアップできました。ぜひご覧になって、写真展の感動に浸っていただければと思います。

こうしてみますと“壮観”の一語です。よくぞ、これだけ撮ったものと感心します。

われわれが“しまかぜ”で楽しんでいる間にも、作業を進めていただいたTsurukameさんには、改めて御礼を申し上げる次第です。

103_0492P1020156写真展の感動をぜひホームページで。 2006年第1回(上)と2009年第2回写真展

マルーンさん乗車の「伊勢志摩ライナー」

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大阪難波行き「伊勢志摩ライナー」、6編成すべてが、18年ぶりのリニーアルを行い、うち3編成は、写真の“赤”塗装になった。

“しまかぜ”関連の話題をもうひとつ。

私のところに来たメールによると、かのマルーンさんは、伊勢神宮に参られたあと、宇治山田15時41分の「伊勢志摩ライナー」に乗って帰還されたと言います。列車が宮川鉄橋を渡るとき、撮影する鉄道同好会の一群を発見、手を振って、エールを送ったとのコメントがありました。

これがその、マルーンさんの乗られた「伊勢志摩ライナー」です。残念ながら、仔細に見ても、手を振るお顔は認めることができませんが、撮影の一群は、現役、OBともども、鉄道写真の話題で盛り上がりながら、楽しく撮影を終えました。

なお、宮川鉄橋は、小俣駅下車、徒歩5分で到着できます。午後は、バリ順となり、手すりが多少目障りですが、背景もよい撮影好適地です。

 

駅を旅する 〈11〉

長崎

長崎本線の終点、長崎である。

最初に訪れたとき、三角屋根に時計台を備えていた駅舎は三代目で、原爆被災から4年後の昭和24年にできたと言う。現在では、完全な終端式の駅となっているが、当初は、通過式の配線だった。その先に長崎港駅があり、もっと以前は旅客営業も行っていたが、訪れた当時は、貨物のみ扱っていた。

駅に隣接して長崎機関区、客貨車区があったが、当時は配置機関車がなく、鳥栖、早岐の機関車が出入りしていた。ターンテーブルの周りに扇形庫はなく、たいへん広々した機関区だった。

長崎港への貨物線は、昭和62年、国鉄民営化時に廃止され、平成12年には、現在の四代目駅舎が建設され、終端式の構造に改められた。

以前は、長崎始発の東京・大阪方面の優等列車が運転され、駅の格を高めていたが、平成20年に特急「あかつき」が廃止以後、すべて九州内のみの運転となっている。

また2022年開業予定の九州新幹線の長崎乗り入れに向けて、駅の立体化工事と周辺の整理事業が進行中で、もと長崎機関区・客貨車区、現在の長崎運輸センターの移転が焦点だったが、早岐駅と構内への移転が決定したと言う。

長崎IMG_0031sy▲鳥栖のところでも触れたように、昭和42年の訪問時、長崎本線の優等列車はDD51化されていたが、臨時列車はまだ鳥栖区のC60が牽いていた。長崎駅でも、C6026[鳥]の牽く大阪行き急行「第二玄海」の発車をとらえた。これを、鉄道ピクトリアルのトピックフォトに投稿したところ、初採用となった。高校2年生だった。嬉しくなって、学校へ持って行って、みんなに見せた。この号だけがボロボロになって、いまもその時の感動を伝えている。(昭和42年)長崎IMG_0033sy▲長崎駅前の風景。路面電車はバスに隠れてしまったが、その分、自動車が時代を語っている。その後に、付近にペディストリアンデッキが設置され、見通しが悪くなった。(昭和42年)

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駅を旅する 〈10〉

佐賀 

九州7県の県庁所在市なかで、佐賀は、格段に目立たない都市だ。人口規模も少なく、確たる観光資源もない。

駅も同様だ。佐賀線(昭和62年廃止)、唐津線が分岐するものの、それほど目玉の列車や車輌が撮れる訳でもない。私も、熊本以上に撮影点数は少なく、これと言った印象はないままに終わっている。佐賀には佐賀青年会館というユースホステルがあって、そこに一泊した際に撮った程度だった。佐賀IMG_0034sysy▲地上の佐賀駅2番ホームに到着した、佐世保発鳥栖行き426レ。C57124[早]牽引。現在、駅は高架化されている。この列車に乗って、前記の鳥栖機関区へ向かった。どこでも撮れる、特徴のない写真だが、美しく整備された早岐区のC57に朝陽が当たり、打ち水されたホーム、売店、佐賀らしい「サロンパス」の看板、背後の跨線橋、と当時の幹線の主要駅の風情が随所に出ていると私は思っている。(昭和42年)

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駅を旅する 〈9〉

熊本

鹿児島本線のちょうど中間に位置する熊本である。写し始めた昭和42年当時は、電化はここまで、以南は未電化だった。機関車の付け替えも行われ、賑わってはいたが、ここではあまり写してはいない。

今でこそ、駅舎や駅前は立派になったが、当時は、中心部からもはずれ、裏寂れた印象だった。宿泊するにしても、駅に降りると滞在することなく、市電に乗って中心部へ向かった。そして、なぜか、熊本へ行くと、雨ばかりに降られた。

いつも当掲示板で健筆を振るっておられる準特急さんのルーツは、熊本の郊外にあると言う。鳥栖といい、熊本といい、つくづく九州は、鉄道趣味界の偉人を輩出する地だと思う。

熊本IMG_0013sy▲小雨の熊本駅を発車する熊本発鹿児島行き。C6131[鹿]+客車6両。熊本以南の未電化区間は、優等列車こそDD51化されていたが、普通列車は全列車C60、C61が牽いていた。(昭和42年)熊本IMG_0015sy▲頭端式ホームからは、豊肥本線の列車も発着していた。旅客はDC化されていたが、朝夕のラッシュ時のみ、キューロクの牽く客車列車が残っていた。33‰の勾配を越えるため、重連となっていた。熊本発宮地行き729レ。39688[熊]+69616[熊]+オハニ61188ほか客車8両。 

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駅を旅する 〈8〉

鳥栖

博多から特急に乗れば、今なら20分で鳥栖に着く。現在でも、鳥栖は長崎本線への乗換駅には変わりないものの、その後の列車体系の変化、新幹線の開業で、駅としての比重はうんと軽くなり、鉄道の街として、その名を馳せていた時代の面影は、もう見られない。

鳥栖は、鹿児島本線、長崎本線の分岐点に位置し、九州の鉄道網の中心的な位置にあった。駅に隣接して、鳥栖機関区、鳥栖操車場があり、四六時中、列車が出入りしていた。鹿児島本線、長崎本線が非電化の時代には、扇形庫が二つもあって、旅客用蒸機C59、C60、C61の基地として賑わった。九州の機関区の中でも、いちばん華やな機関区だったに違いない。

駅の東側にあった機関区、操車場は跡形もなくなり、いまはサッカーJ1のサガン鳥栖の本拠地・鳥栖スタジアムになっているのが、ホームからも分かる。それとは対照的に、西側の駅舎は、九州鉄道時代の駅舎を、改修を加えながらも大事に使い続けている。

さて、当会の人間国宝のお一人は、この鳥栖市で生を受けられたと聞く。毎日、水薬ばかり服用され、このたび、後期高齢者の仲間入りを果たされた。いずれ、出生の頃の思い出も、本欄で聞けるだろうと思っている。鳥栖IMG_0039sy▲鹿児島本線と長崎本線が別れる付近に、工事現場の詰所があって、勝手に2階まで上がって、俯瞰気味に大阪発長崎行き「第二玄海」、C6038[鳥]をとらえた。当時、長崎本線では、臨時列車牽引でC60の最後の活躍が見られた。翌年には、長崎本線の優等列車は、すべてDD51化される。(昭和42年)鳥栖IMG_0018sy▲東京発熊本行き「みずほ」、ED764[門]。「みずほ」は鳥栖を通過していた。九州ブルトレのなかで、その経緯もあって地味な印象があり、。ヘッドマークも地味で、モノクロで撮ると、肝心の愛称名がよく分からない。右側は鳥栖操車場が広がる。(昭和42年)

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駅を旅する 〈7〉

博多

鉄道雑誌を読み始めた昭和30年代の後半の話題のひとつが、博多駅の移転だった。旧来の駅を廃棄して、新線上に高架の新駅を造るという工事だった。地方ならまだしも、福岡のような都会で、よくぞ大胆なことをすると子供心に思ったものだ。そして、新駅でもしばらく見られた、ブルトレを牽くC59が、ヘッドマークを掲げて頭を揃えるシーンは、強く印象に残った。

昭和38年、周囲にほとんど何もないところに新しい博多駅は開業したが、50年が経過した今は、天神エリアと並んで、福岡の二大中心街を形成するまでになった。平成19年には新々駅ビル、JR博多シティができて、さらに駅周辺は賑やかさを増した。

博多IMG_0015sy 博多IMG_0016sy▲初めて博多駅を訪れたのは、小雨の降る夕刻だった。17時12分、ホームに大勢の乗客や見送り客が並ぶなか、ゆっくりとED75303の牽く東京行きの「はやぶさ」が入線して来た(上)。博多で7両が増結され、堂々の15両編成となり、牽引機もED7319に替わった(下)。博多駅では、この前後にも「あさかぜ」「みずほ」「さくら」が東京へ向けて発車して行く。一晩寝ると、翌朝には1000キロ離れた東京に着ける。ブルトレ華やかなりし頃の博多駅風景だった。(昭和42年)

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駅を旅する 〈6〉

飯塚

筑豊本線には、飯塚、新飯塚と二つの駅がある。

新飯塚のほうが、飯塚の官庁街、繁華街に近く、乗降客数はずっと多い。また西鉄の飯塚バスセンターの最寄りでもあり、筑豊訪問の常宿としていた八木山ユースへ行くのは、新飯塚で降りて、遠賀川を越えてバスセンターへ行ったものだ。ただ、歴史的にも、運輸上においても、飯塚が鉄道としての要衝であった。事実、特急「みどり」(のちに「いそかぜ」「かもめ」と名称は変化していく)は、飯塚のみの停車だった。

飯塚のシンボルは、駅の跨線橋から見えるボタ山だ。筑豊富士とも呼ばれる形の良い旧住友鉱業忠隈炭鉱の4つのボタ山だったが、列車と絡めて撮ることは叶わなかった。いまは自然に還り、草木が茂って、ふつうの山と違いはない。

飯塚IMG_0048sy▲本屋側の1番ホームに到着する、原田発若松行き744レ、C5511〔若〕。客車列車のほとんどは原田発で冷水峠越えをして飯塚に到着した。左は若松発上穂波行き739レ、D5145〔直〕牽引。筑豊のナメクジは、あとは42号機で、2両だけという比較的珍しい存在だった。(昭和43年)

飯塚IMG_0088sysy▲詰襟学生服の高校生が待つ2番ホームに到着する、門司港発原田行き1735レ、C5519〔若〕。背後にD51の牽く貨物列車が待機する。(昭和44年)

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駅を旅する 〈5〉

直方

筑豊地方には、拠点となる都市がいくつかあった。人口規模においては、当時では飯塚が第一位だったが、鉄道での中心は、何と言っても直方だった。

直方駅へ行けば、それが実感できる。駅には、四六時中、列車が出入りして、もうもうたる煙に包まれていた。“筑豊のスズメは腹の中まで黒い”と言われる。事実、直方で数時間ほど写して、駅の洗面所で顔を洗うと、シンダーで喉や髪の毛が真っ黒になっていた。公害や煤塵と言った認識に乏しかった時代だ。

初めて訪れた昭和40年代前半、石炭輸送のピークは過ぎていたが、それでも、多数の石炭列車が運転されていた。大きく分けて、伊田線沿線からの運炭列車、上山田線沿線から筑豊本線経由の運炭列車に分けられ、直方で組成され、または牽引機を換えて折尾・若松方面へ向かって行った。 直方IMG_0020sy▲直方駅。明治43年建築と言われるが、一昨年に解体され、新しい橋上駅となった。駅舎は、初代の博多駅を移築したものではないかと言われていたが、解体時の調査では、その事実はなかったと発表された。(平成2年)直方IMG_0058sy▲直方駅4番ホームに停車中の原田発門司港行き1732レ、C5519〔若〕、すぐ隣は直方機関区で、煙の競演がホームからでも見られた。(昭和44年)

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加太紀行 〈下〉

南海加太線は、明治45年開業、北島~加太間の加太軽便鉄道をルーツとする。北島とは、現・和歌山市駅の裏を流れる紀ノ川の対岸(右岸)にあった始発駅(その後、廃止)で、翌年には紀ノ川を渡って、和歌山市に隣接する地点に始発駅を設けた。開業時は、コッペル製のB型機が3両用意されたと言う。

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「鉄道ピクトリアル」より転載

昭和5年に電化し、加太電気鉄道に社名を変更、昭和17年に南海に合併された。

その後、本線紀ノ川から東松江まで伸びていた、住友金属工業和歌山製鉄所に出入りする貨物線を電化して旅客線に転用することになり、昭和25年に営業を開始した。これが現在見られる線形となるわけだが、東松江~北島~和歌山市のルートも北島支線として存続していた。しかし、台風で紀ノ川橋梁が被害を受けたことなどにより、休止を経て、昭和41年に廃止となった。現在でも廃線跡が感じられる箇所が残っている。

なお、住友金属工業から出荷される鉄鋼製品は、加太線・国鉄経由で各地へ輸送していた。一日2往復の貨物列車は、昭和59年の国鉄貨物合理化まで続き、これが南海最期の貨物扱い駅となった。

2013_07_09_032sy▲二里ヶ浜。カーブ上に設置された対向式ホーム。2013_07_09_034sy▲二里ヶ浜駅は有人駅で、乗降人員は少ないながらも、駅舎はなかなかの規模。

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加太紀行 〈上〉

加太、と言っても関西本線の加太ではない。南海支線の終点にある加太である。

過日、回りまわってきた南海の優待乗車券を使って、南海和歌山市から加太線の乗車を行なった。

加太線は、南海本線和歌山市のひとつ手前の紀ノ川より分岐し、紀淡海峡に突き出た突端に位置する加太へと至る9.6キロの支線だ。電車はすべて、和歌山市の発着で運転されている。日中は30分ヘッドで2両編成がワンマン運転されている。

もとは明治末期に蒸気鉄道として開業した古い鉄道で、昨年、開業百周年を迎えた。単独で紀ノ川を渡った先に駅を設置した時代もあった。のちに南海本線の紀ノ川駅へ接続する形に変更するなど、歴史的に興味深い線である。

沿線の社寺などへの観光・信仰客輸送や、夏季は海水浴客輸送もあった。終点付近に、砲兵連隊の兵営もあり物資輸送もあった。のちに述べる、製鉄所からの貨物輸送で賑わった時期もあったが、すべてが無くなってしまった今、加太線には、静かな時間だけが流れている。

以下、電車の先頭から見た、加太線の車窓だ。

2013_07_09_007sy▲南海和歌山市駅に停車する、加太線の列車。当日は7195+7969の編成。3番線が加太線の専用ホームで、加太線百周年などの説明版がホーム支柱に貼ってある。

2013_07_09_009sy▲和歌山市を出る。右一線はJR和歌山方面に向かう紀勢本線、左二線は南海本線。右下にチラッと見える渡りは、JR線と南海線を接続している。かつて、南海から南紀方面への直通するDC・客車は、ここを通って国鉄に乗り入れた。現在でも、車両工場からの南海新造車の搬入は、このポイントが使われる。

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駅を旅する 〈4〉

折尾

若松から筑豊本線で洞海湾沿いに走って20分ほどで折尾に到着する。筑豊本線は地上、鹿児島本線は築堤上にあり、十字に交差する。

明治24年、筑豊本線の前身である筑豊興業鉄道が開業、半年遅れで、鹿児島本線の前身である九州鉄道が開業した。当時は、現在地と違うところに、それぞれの折尾駅が設置されたが、明治28年に現在地に共同駅が設けられた。日本で最初の立体交差駅だと言われている。さきごろ解体された洋風駅舎は、大正5年建築の二代目だが、随所に煉瓦造りの連絡通路が残され、開業当時の面影が残されていた。

初めて九州に上陸した昭和42年、鹿児島本線の折尾駅に降りて、地上の筑豊本線ホームへ向かった。そこで眼に飛び込んだのが、先端の低いホームに待機するC55が朝陽に浮かぶ姿だった。C55は初めて見る形式だ。朝の柔らかな日差しのなか、ドレーンに包まれたスポーク動輪を通して向かいのホームが透けて見えるではないか-。その後、何度も筑豊へ向かわせた、原動力となった。

先述のように、いま折尾駅は、大規模な連続立体化の工事に入っている。現在駅の北側の高架上に、一体化した鹿児島本線、筑豊本線の同一ホームができる。乗り換えの利便性はウンと向上するが、私の九州への原体験でもある折尾駅は、まもなく姿を消そうとしている。

折尾IMG_0003sy

◀駅前道路から折尾駅を見通す。「荷物預所」「大衆食堂」と駅前の必須アイテムが連なる。人々の服装や道路から、なにやら終戦直後のように見えなくもないが、レッキとした昭和40年代後半の撮影。(昭和47年11月)折尾IMG_0002sy▲筑豊本線の下りホームに到着する、C5519〔若〕の牽く733レ。なお、鹿児島本線黒崎方から筑豊本線中間方へ向かう短絡線には駅がなく、同線を通る直通列車は、折尾は通過扱いだったが、昭和63年に、短絡線上にホームが設けられ、鷹見口と呼ばれている。(昭和45年9月)

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駅を旅する 〈3〉

若松

栄枯盛衰のある北九州の駅のなかでも、若松は劇的ですらあった。石炭とともに栄え、石炭とともに凋落していった。

明治期の鉄道建設期、筑豊興業鉄道の計画では、始発駅は、当時の地域の中心だった芦屋に置く計画だったとか。それが、地元の反対で若松に変更になり、明治24年に若松駅が開業した。

以来、石炭の需要の高まりとともに、若松駅は発展し、石炭の積出港として、日本一の貨物量を誇るまでになる。昭和30年代前半に石炭の最盛期を迎えるが、スクラップ・アンド・ビルド政策の推進で、以降は、斜陽化の一途となる。しかも、港への積み出しも、油須原新線を経由する、苅田港ルートもできて、私が訪れた昭和40年代の初頭、若松駅の石炭扱い量は激減していた。しかし、石炭の最盛期など知る由もない私にとっては、広いヤード、おびただしい石炭車の群れには、石炭がまだこの国の重要なエネルギー源だと強く思ったものだ。

現在でも、若松は、筑豊本線の始発駅に変わりはないが、現実は、黒崎~折尾~直方~桂川~博多が電化され、愛称「福北ゆたか線」に一体化されて直通列車が数多く運転されている。取り残された、若松~折尾と、桂川~原田は、それぞれ非電化のまま、若松線、原田線の愛称となり、完全な別線扱いのローカル線になっている。現在ではDC2連が若松~折尾を折り返している。

昭和59年に行われた再開発で、、機関区は廃止、駅設備もウンと縮小され、一面二線の頭端式の旅客駅になった。石炭で賑わった時代を偲ぶものは、駅前広場に保存展示されている、蒸機キューロクと石炭車だけである。若松IMG_0001sy▲高搭山をバックに若松駅を発車した香月行き425レ、逆行の58694〔若〕牽引。(昭和42年3月)

若松IMG_0008sy▲石炭の繁栄を語り継いできた、大正8年建築の旧駅舎。(昭和50年6月)

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駅を旅する 〈2〉

門司

“九州の玄関口”、と言えば門司港を指すかも知れないが、在来線での乗車なら、九州に第一歩を印すのは門司となる。

明治24年に九州鉄道の大里駅として設置、のち明治40年に国有化される。昭和17年には関門トンネルが開通、その際、門司が門司港に改称され、大里が「門司」となった。

初めて九州に踏み入れた昭和42年の高校2年生以来、幾度となく、関門トンネルを抜けて門司に到着した。心なしか、見渡す車窓の風景も違う、空の青さも違うようにも思えた。やはり、ここは九州なんだと感じたものだ。門司駅は乗り換えで利用するだけでなく、交直接続のため、牽引機の付け替えも撮影の対象となった。当時は、旅客列車だけでなく、貨物列車も門司で付け替えを行っていた。

そして、門司機関区の下車駅としてもよく利用した。門司区は、昭和42年の蒸機の配置両数が53両、青森、岩見沢に次ぐ配置両数で、電機81両、DL6両を加えれば、ダントツ日本一の動力車配置区だった。蒸機・電機の配置は、通常、一区・二区に区分されていたが、門司だけは区分がなかった。

新幹線開通後は、小倉を中心とした列車体系に改められ、門司の凋落は著しい。JR九州のデータによれば、乗車数は一日6千人程度で、九州管内で29位となっている。平成16年に駅は橋上駅化されたが、駅設備はごくささやかなものになった。門司IMG_0012sy▲初めて訪れた門司駅は、まだ蒸機の天下だった。1番ホームに停車する門司港発柳ヶ浦行き1523レ、C57178〔大〕牽引。当時、日豊本線の電化は新田原までで、電化区間が短いため、客車列車は門司港から架線の下を蒸機が牽いていた。右に駅舎の裏側が見える。(昭和42年3月)門司IMG_0007sy▲当時の無骨な駅舎は、昭和27年の建築。これでも、九州初の民衆駅だったと言う。この駅舎を出て、路面電車沿いに西へ向かい、何度も門司機関区へ行ったものだ。(昭和42年3月)

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駅を旅する 〈1〉 

サラリーマン時代、世話になった出版社の方から久しぶりに電話があった。北九州市に在住されていた高名な鉄道趣味人が、昨年、亡くなられ、その一周忌に合わせて、故人を偲ぶ平成筑豊鉄道の貸切列車が運転され、それに乗車したと言う。

筑豊地方の現状も聞かせてもらったところ、初耳だったのは、直方駅が新しく建て替えられたことだった。古風な駅舎は、水戸岡ナイズされた瓦屋根を持つシックな駅舎に変わったとのことだ。調べると、一昨年にリニューアルされたようだ。

久しく筑豊地方へも訪れていないが、その間に、駅もどんどん新しくなっていく。車両のようにニュースになりにくいから、駅は“いつの間にか”消え去ることが多い。改めて時代の移り変わりを感じたものだ。

近くの門司港や折尾も駅舎の工事に入っている。重文指定の門司港は、大掛かりな補修工事のため、しばらくその姿を見ることができない。折尾では、鹿児島本線、筑豊本線の共同駅を造る大規模な工事が始まり、さくら色に塗られた、下見板張りの駅舎もついに解体されてしまった。

駅は、鉄道旅行の出発点であり、終着点でもある。そして、格好の写真撮影の場でもあった。私も、数知れないほどの駅に乗り降りして、写真を撮ってきた。

ところが、昨今、“駅を利用しない、鉄道に乗らない、鉄道写真愛好家”が増殖している。鉄道写真の原点たる駅の存在が忘れられている。

直方IMG_0020sy▲かつての直方駅舎。正面ペディメントを支える柱にエンタシス風の膨らみがある。初代の博多駅舎を移築したものとの説が一部であったが、解体の際の現地調査で、木材の転用の痕跡がないことから、その説は否定されてしまった。

前置きが長くなったが、直方駅改築のニュースを聞いて、九州の駅の思い出を写真とともに語ってみたくなった。よく本にあるような、特徴のある名物駅の紹介ではなく、あくまで、駅で写した当時の車両写真である。

ごく最近、北九州育ちのKH生さんからも、当地の懐かしい話を聞かせてもらい、なおのこと、その思いが強くなった。

いま痛切に感じているのは、一日一本のため、何時間も歩いて写した、大自然の中の写真より、駅での待ち時間にチョイと写した写真が、はるかに、時代を雄弁に語り、記録的価値が高いと思っている。

IMG_999_13▲日本最初の立体交差駅として誕生した折尾駅。いま付近の地形までも変えてしまうほどの大規模な工事が始まっている。大正5年建築の洋風駅舎も、保存運動もむなしく、解体されてしまった。