駅を旅する 〈5〉

直方

筑豊地方には、拠点となる都市がいくつかあった。人口規模においては、当時では飯塚が第一位だったが、鉄道での中心は、何と言っても直方だった。

直方駅へ行けば、それが実感できる。駅には、四六時中、列車が出入りして、もうもうたる煙に包まれていた。“筑豊のスズメは腹の中まで黒い”と言われる。事実、直方で数時間ほど写して、駅の洗面所で顔を洗うと、シンダーで喉や髪の毛が真っ黒になっていた。公害や煤塵と言った認識に乏しかった時代だ。

初めて訪れた昭和40年代前半、石炭輸送のピークは過ぎていたが、それでも、多数の石炭列車が運転されていた。大きく分けて、伊田線沿線からの運炭列車、上山田線沿線から筑豊本線経由の運炭列車に分けられ、直方で組成され、または牽引機を換えて折尾・若松方面へ向かって行った。 直方IMG_0020sy▲直方駅。明治43年建築と言われるが、一昨年に解体され、新しい橋上駅となった。駅舎は、初代の博多駅を移築したものではないかと言われていたが、解体時の調査では、その事実はなかったと発表された。(平成2年)直方IMG_0058sy▲直方駅4番ホームに停車中の原田発門司港行き1732レ、C5519〔若〕、すぐ隣は直方機関区で、煙の競演がホームからでも見られた。(昭和44年)

続きを読む

加太紀行 〈下〉

南海加太線は、明治45年開業、北島~加太間の加太軽便鉄道をルーツとする。北島とは、現・和歌山市駅の裏を流れる紀ノ川の対岸(右岸)にあった始発駅(その後、廃止)で、翌年には紀ノ川を渡って、和歌山市に隣接する地点に始発駅を設けた。開業時は、コッペル製のB型機が3両用意されたと言う。

IMG_0001sy

「鉄道ピクトリアル」より転載

昭和5年に電化し、加太電気鉄道に社名を変更、昭和17年に南海に合併された。

その後、本線紀ノ川から東松江まで伸びていた、住友金属工業和歌山製鉄所に出入りする貨物線を電化して旅客線に転用することになり、昭和25年に営業を開始した。これが現在見られる線形となるわけだが、東松江~北島~和歌山市のルートも北島支線として存続していた。しかし、台風で紀ノ川橋梁が被害を受けたことなどにより、休止を経て、昭和41年に廃止となった。現在でも廃線跡が感じられる箇所が残っている。

なお、住友金属工業から出荷される鉄鋼製品は、加太線・国鉄経由で各地へ輸送していた。一日2往復の貨物列車は、昭和59年の国鉄貨物合理化まで続き、これが南海最期の貨物扱い駅となった。

2013_07_09_032sy▲二里ヶ浜。カーブ上に設置された対向式ホーム。2013_07_09_034sy▲二里ヶ浜駅は有人駅で、乗降人員は少ないながらも、駅舎はなかなかの規模。

続きを読む

加太紀行 〈上〉

加太、と言っても関西本線の加太ではない。南海支線の終点にある加太である。

過日、回りまわってきた南海の優待乗車券を使って、南海和歌山市から加太線の乗車を行なった。

加太線は、南海本線和歌山市のひとつ手前の紀ノ川より分岐し、紀淡海峡に突き出た突端に位置する加太へと至る9.6キロの支線だ。電車はすべて、和歌山市の発着で運転されている。日中は30分ヘッドで2両編成がワンマン運転されている。

もとは明治末期に蒸気鉄道として開業した古い鉄道で、昨年、開業百周年を迎えた。単独で紀ノ川を渡った先に駅を設置した時代もあった。のちに南海本線の紀ノ川駅へ接続する形に変更するなど、歴史的に興味深い線である。

沿線の社寺などへの観光・信仰客輸送や、夏季は海水浴客輸送もあった。終点付近に、砲兵連隊の兵営もあり物資輸送もあった。のちに述べる、製鉄所からの貨物輸送で賑わった時期もあったが、すべてが無くなってしまった今、加太線には、静かな時間だけが流れている。

以下、電車の先頭から見た、加太線の車窓だ。

2013_07_09_007sy▲南海和歌山市駅に停車する、加太線の列車。当日は7195+7969の編成。3番線が加太線の専用ホームで、加太線百周年などの説明版がホーム支柱に貼ってある。

2013_07_09_009sy▲和歌山市を出る。右一線はJR和歌山方面に向かう紀勢本線、左二線は南海本線。右下にチラッと見える渡りは、JR線と南海線を接続している。かつて、南海から南紀方面への直通するDC・客車は、ここを通って国鉄に乗り入れた。現在でも、車両工場からの南海新造車の搬入は、このポイントが使われる。

続きを読む

駅を旅する 〈4〉

折尾

若松から筑豊本線で洞海湾沿いに走って20分ほどで折尾に到着する。筑豊本線は地上、鹿児島本線は築堤上にあり、十字に交差する。

明治24年、筑豊本線の前身である筑豊興業鉄道が開業、半年遅れで、鹿児島本線の前身である九州鉄道が開業した。当時は、現在地と違うところに、それぞれの折尾駅が設置されたが、明治28年に現在地に共同駅が設けられた。日本で最初の立体交差駅だと言われている。さきごろ解体された洋風駅舎は、大正5年建築の二代目だが、随所に煉瓦造りの連絡通路が残され、開業当時の面影が残されていた。

初めて九州に上陸した昭和42年、鹿児島本線の折尾駅に降りて、地上の筑豊本線ホームへ向かった。そこで眼に飛び込んだのが、先端の低いホームに待機するC55が朝陽に浮かぶ姿だった。C55は初めて見る形式だ。朝の柔らかな日差しのなか、ドレーンに包まれたスポーク動輪を通して向かいのホームが透けて見えるではないか-。その後、何度も筑豊へ向かわせた、原動力となった。

先述のように、いま折尾駅は、大規模な連続立体化の工事に入っている。現在駅の北側の高架上に、一体化した鹿児島本線、筑豊本線の同一ホームができる。乗り換えの利便性はウンと向上するが、私の九州への原体験でもある折尾駅は、まもなく姿を消そうとしている。

折尾IMG_0003sy

◀駅前道路から折尾駅を見通す。「荷物預所」「大衆食堂」と駅前の必須アイテムが連なる。人々の服装や道路から、なにやら終戦直後のように見えなくもないが、レッキとした昭和40年代後半の撮影。(昭和47年11月)折尾IMG_0002sy▲筑豊本線の下りホームに到着する、C5519〔若〕の牽く733レ。なお、鹿児島本線黒崎方から筑豊本線中間方へ向かう短絡線には駅がなく、同線を通る直通列車は、折尾は通過扱いだったが、昭和63年に、短絡線上にホームが設けられ、鷹見口と呼ばれている。(昭和45年9月)

続きを読む

駅を旅する 〈3〉

若松

栄枯盛衰のある北九州の駅のなかでも、若松は劇的ですらあった。石炭とともに栄え、石炭とともに凋落していった。

明治期の鉄道建設期、筑豊興業鉄道の計画では、始発駅は、当時の地域の中心だった芦屋に置く計画だったとか。それが、地元の反対で若松に変更になり、明治24年に若松駅が開業した。

以来、石炭の需要の高まりとともに、若松駅は発展し、石炭の積出港として、日本一の貨物量を誇るまでになる。昭和30年代前半に石炭の最盛期を迎えるが、スクラップ・アンド・ビルド政策の推進で、以降は、斜陽化の一途となる。しかも、港への積み出しも、油須原新線を経由する、苅田港ルートもできて、私が訪れた昭和40年代の初頭、若松駅の石炭扱い量は激減していた。しかし、石炭の最盛期など知る由もない私にとっては、広いヤード、おびただしい石炭車の群れには、石炭がまだこの国の重要なエネルギー源だと強く思ったものだ。

現在でも、若松は、筑豊本線の始発駅に変わりはないが、現実は、黒崎~折尾~直方~桂川~博多が電化され、愛称「福北ゆたか線」に一体化されて直通列車が数多く運転されている。取り残された、若松~折尾と、桂川~原田は、それぞれ非電化のまま、若松線、原田線の愛称となり、完全な別線扱いのローカル線になっている。現在ではDC2連が若松~折尾を折り返している。

昭和59年に行われた再開発で、、機関区は廃止、駅設備もウンと縮小され、一面二線の頭端式の旅客駅になった。石炭で賑わった時代を偲ぶものは、駅前広場に保存展示されている、蒸機キューロクと石炭車だけである。若松IMG_0001sy▲高搭山をバックに若松駅を発車した香月行き425レ、逆行の58694〔若〕牽引。(昭和42年3月)

若松IMG_0008sy▲石炭の繁栄を語り継いできた、大正8年建築の旧駅舎。(昭和50年6月)

続きを読む

駅を旅する 〈2〉

門司

“九州の玄関口”、と言えば門司港を指すかも知れないが、在来線での乗車なら、九州に第一歩を印すのは門司となる。

明治24年に九州鉄道の大里駅として設置、のち明治40年に国有化される。昭和17年には関門トンネルが開通、その際、門司が門司港に改称され、大里が「門司」となった。

初めて九州に踏み入れた昭和42年の高校2年生以来、幾度となく、関門トンネルを抜けて門司に到着した。心なしか、見渡す車窓の風景も違う、空の青さも違うようにも思えた。やはり、ここは九州なんだと感じたものだ。門司駅は乗り換えで利用するだけでなく、交直接続のため、牽引機の付け替えも撮影の対象となった。当時は、旅客列車だけでなく、貨物列車も門司で付け替えを行っていた。

そして、門司機関区の下車駅としてもよく利用した。門司区は、昭和42年の蒸機の配置両数が53両、青森、岩見沢に次ぐ配置両数で、電機81両、DL6両を加えれば、ダントツ日本一の動力車配置区だった。蒸機・電機の配置は、通常、一区・二区に区分されていたが、門司だけは区分がなかった。

新幹線開通後は、小倉を中心とした列車体系に改められ、門司の凋落は著しい。JR九州のデータによれば、乗車数は一日6千人程度で、九州管内で29位となっている。平成16年に駅は橋上駅化されたが、駅設備はごくささやかなものになった。門司IMG_0012sy▲初めて訪れた門司駅は、まだ蒸機の天下だった。1番ホームに停車する門司港発柳ヶ浦行き1523レ、C57178〔大〕牽引。当時、日豊本線の電化は新田原までで、電化区間が短いため、客車列車は門司港から架線の下を蒸機が牽いていた。右に駅舎の裏側が見える。(昭和42年3月)門司IMG_0007sy▲当時の無骨な駅舎は、昭和27年の建築。これでも、九州初の民衆駅だったと言う。この駅舎を出て、路面電車沿いに西へ向かい、何度も門司機関区へ行ったものだ。(昭和42年3月)

続きを読む

駅を旅する 〈1〉 

サラリーマン時代、世話になった出版社の方から久しぶりに電話があった。北九州市に在住されていた高名な鉄道趣味人が、昨年、亡くなられ、その一周忌に合わせて、故人を偲ぶ平成筑豊鉄道の貸切列車が運転され、それに乗車したと言う。

筑豊地方の現状も聞かせてもらったところ、初耳だったのは、直方駅が新しく建て替えられたことだった。古風な駅舎は、水戸岡ナイズされた瓦屋根を持つシックな駅舎に変わったとのことだ。調べると、一昨年にリニューアルされたようだ。

久しく筑豊地方へも訪れていないが、その間に、駅もどんどん新しくなっていく。車両のようにニュースになりにくいから、駅は“いつの間にか”消え去ることが多い。改めて時代の移り変わりを感じたものだ。

近くの門司港や折尾も駅舎の工事に入っている。重文指定の門司港は、大掛かりな補修工事のため、しばらくその姿を見ることができない。折尾では、鹿児島本線、筑豊本線の共同駅を造る大規模な工事が始まり、さくら色に塗られた、下見板張りの駅舎もついに解体されてしまった。

駅は、鉄道旅行の出発点であり、終着点でもある。そして、格好の写真撮影の場でもあった。私も、数知れないほどの駅に乗り降りして、写真を撮ってきた。

ところが、昨今、“駅を利用しない、鉄道に乗らない、鉄道写真愛好家”が増殖している。鉄道写真の原点たる駅の存在が忘れられている。

直方IMG_0020sy▲かつての直方駅舎。正面ペディメントを支える柱にエンタシス風の膨らみがある。初代の博多駅舎を移築したものとの説が一部であったが、解体の際の現地調査で、木材の転用の痕跡がないことから、その説は否定されてしまった。

前置きが長くなったが、直方駅改築のニュースを聞いて、九州の駅の思い出を写真とともに語ってみたくなった。よく本にあるような、特徴のある名物駅の紹介ではなく、あくまで、駅で写した当時の車両写真である。

ごく最近、北九州育ちのKH生さんからも、当地の懐かしい話を聞かせてもらい、なおのこと、その思いが強くなった。

いま痛切に感じているのは、一日一本のため、何時間も歩いて写した、大自然の中の写真より、駅での待ち時間にチョイと写した写真が、はるかに、時代を雄弁に語り、記録的価値が高いと思っている。

IMG_999_13▲日本最初の立体交差駅として誕生した折尾駅。いま付近の地形までも変えてしまうほどの大規模な工事が始まっている。大正5年建築の洋風駅舎も、保存運動もむなしく、解体されてしまった。

 

阪急京都地下線 開通50周年

いつも乗っている阪急京都線の車両に見慣れぬヘッドマークが付いている。なにやら2300系が描かれたものだ。細かい文字をよく見れば「京都地下延長線開通50周年」と書かれている。P1090564sy

そうか、大宮から河原町へ地下線が延長されてから、もう50年が経ったのか。開業日の昭和38年6月17日のことはよく覚えている。中学校2年生の時だった。ヘッドマークを見て、半世紀前の感慨を新たにしたものだった。

「京都地下延長線開通50周年」ヘッドマークは、9300系車両の3編成に取り付け。絵柄は、当時の主力2300系、描かれた幔幕は、確かに初発の記念列車に取り付けられていた。

P1090565sy

それまでの京都線の始発駅、大宮(地下延長線開通までは「京都」)へ行くのには、住んでいた河原町丸太町からは、ずいぶん不便だった。それほどの距離はないものの、市電では一本で行けない。唯一、一本で行けるのは、市バス3号系統のみだったが、バスに乗るとすぐ酔ってしまう子供時代、できれば避けたかった。そんな訳で、歩いて行ける京阪に比べ、阪急に乗ることは、ほとんどなかった。

それが四条河原町まで阪急電車が延びて来る。なにせ、四条河原町の一角は、当時通っていた中学校の校区に当たる。すぐ近くに、阪急の始発駅ができるとは、何とも嬉しく誇らしくもあった。

延長線の構想は戦前からあった。昭和6年、新京阪鉄道が現・大宮まで延長した際に、河原町までの路線免許を取得していたが、その後の社会の変化で、着工は延び延びになっていた。昭和30年代に入って、その必要性がますます高まり、ようやく昭和36年10月に着工され、市電が走っていた四条通をオープンカット工法で進めた。

工事の進捗に当たっては、京都特有の事情もあった。なかでも、京都を南北に横断する地下の水脈が、地下線で分断され、まだ地下水に頼る時代、生活や商売に支障が出ると大きな問題にもなった。また、烏丸~河原町間では地下街の構想もあったが、地上の商店街、四条繁栄会の反対にあって、あえなく頓挫、単なる地下通路となって今もそのまま存在している。当時、地下街というものは、東京、大阪、名古屋にしかなかった。人口規模では日本第4位だった京都には、都市の象徴として、当然、造られるべきだとの思いがあったが、商店街の反対には勝てなかった。

つい先ごろも、新聞報道によると、今秋の「阪急三宮」などの阪急駅名改称時に、河原町も「京都河原町」改称される予定だった。しかし、またも商店街が「四条河原町」を提示、阪急は商店街との摩擦を避け、改称を撤回したと聞く。

IMG_0001syある方から、いただいた、開業当日の河原町駅、真新しいホームに停車するのは、特急2枚看板の2301F5両編成、2800系の登場はその翌年で、2300系は名実ともに京都線の花形だった。そして、50年後の今年、京都線の新形車両1000系の就役で、いよいよ2300系の歴史にも終止符が打たれようとしている。

続きを読む

梅雨の晴れ間は 近場で撮る 〈3〉

嵐電で夕景を

ようやく梅雨らしい天気になったが、“晴れ間”シリーズ、まだ続けよう。

夏至を中心にした、この時期、太陽はもっとも北寄りの軌道を通る。太陽の角度を生かして、ほかの季節では得られない写真も撮ってみたいと思う。

少し前、京都の鉄道写真家の重鎮、Kさんと神戸で話をする機会があった。“ワシは、いつも太陽の角度が最適になる季節・時間帯を選んで撮影に行った”と力説されていた。最近のデジカメでは、逆光も苦にならないが、フィルムカメラの時代では、順光で光がキレイに回り込む状態を探したものだ。

この思いを持って、最近よく通っているのが、嵐電(京福電鉄嵐山線)だ。ほぼ、京都の東西を結ぶ嵐電は、通常は南側から陽が射すが、この時期の朝夕に限っては、北側から陽が射し込み、区間によっては、日没直前のギラリや、北側の車体側面の輝きを狙うことがてきる。

おまけに、10分ヘッドで運転しているから、限られた時間帯の微妙な光線下で何度も撮ることができる。

ただ、1990年以降に更新製造された正面二枚窓、額縁スタイルのモボ611系・モボ2001形や、レトロ調電車のモボ21形はどうも好きになれない。しかも、“京紫”の一色化が進行している。やはり、嵐電のオリジナルスタイルの面影をとどめる、モボ101・301形が、ここでは好ましい。しかし、嵐電総数28両のうち、当該車は7両だけで、これらの形式にこだわると遭遇チャンスは意外と巡ってこない。130505_106syこの時期の好適例は、車折神社駅だ。真横に車折神社があり、いい雰囲気の駅だ。線路はほぼ東西だから、この時期のみ、写真のように、南側にある嵐山方面行きホームが斜光線に包まれ、ホームで待つ乗客たちを優しく照らし出す。130522_172sysy車折神社駅から見て、背後の愛宕山の右に陽が沈むのも、この時期だけ。日没後の駅、わずかに空の明るさが残るトワイライトタイム。このような状態は、よく晴れた日の日没の20分後から30分後の約10分間に限定される。それだけに、本数の多い線区でないと、なかなか出会わない。130505_068sy有栖川駅、すぐ東側に神社があり、大木が茂っている。嵐電の線路は、それを切り裂くようにして、北西方面に伸びている。北西方面、ということは、この時期のみ、夕陽ギラリの狙える場所となる。西側の踏切のすき間から、真正面に向かってくる“パト電”の105号を待った。

続きを読む

梅雨の晴れ間は 近場で撮る 〈2〉  

早起きしてSRC

夜の明けるのが早くなった。日の出時刻は4時台だ。だからこそ、この時期でしか撮れないものもある。私の近場では、東海道本線の夜行貨物電車「スーパーレールカーゴ(SRC)」(SUPER RAIL CARGO)が、その例だろう。長岡京・山崎付近では、4時55分の通過で、夏至を中心とした約1ヵ月間のみ走行中の撮影が可能だ。

SRCは、M250系16両編成で、東京貨物ターミナル~大阪・安治川口間に運転されるコンテナ輸送専用の貨物電車で、現在は、佐川急便専用の貸切輸送として運転されている。モーダルシフトの推進を目的として、2002年に登場した。130523_009sy朝は3時30分に起床、真っ暗ななかペダルを漕いで、山崎駅近くの高橋川踏切へ向かう。以前から著名な撮影地だが、少し前にフェンスが増設され、限定1名の撮影地となった。この時期は同じことを考える同業も多いから、一番乗りしないことには撮ることができない。

通過の1時間前に現地着、さすがに誰も来ていない。アウトカーブから正面を撮るから、シャッター速度は低くても大丈夫だが、最近のハイビームの前照灯はまともに露出を拾ってしまうので、オートで撮影はできない。何度も露出を確認し、マニュアルで撮影することにする。SAGAWAのシールを貼り付けたM250は、明けゆく山崎のカーブを高速で通り過ぎた。130603_07sysy別の日は、通称“名神クロス”へ向かった。ここは、キャパが十分にあるから直前でも大丈夫。SRCは、両端に電動車を2両ユニット、中間に付随車12両を連結、専用コンテナは、電動車に1個、付随車に2個積載できる。下りの場合、東京貨物ターミナル23時14分発、大阪・安治川口5時26分着で、所要時間は6時間余りで、かつての特急「こだま」より速い。

続きを読む

梅雨の晴れ間は 近場で撮る 〈1〉

効率的に電機を撮影

梅雨に入ったはずなのに、梅雨前線が南に下がったままで、近畿地方は晴れの日が多い。こんな時は、近場の駅でチョイ撮りに限る。

私の場合、近場と言えば、JR京都線長岡京・山崎あたり。以前と比べると、面白味はめっきり薄らいだが、そこは天下の東海道本線、時間帯によっては、興味深い列車も通る。歳を重ねると、長時間の撮影は気力・体力が持続しない。短時間で効率よく撮影したい。以下、実際に5月31日、14時前から1時間30分で撮影した列車を挙げてみた。この間、電機として、EF65・66・81・210・510を撮影、最後には思わぬサプライズもあった。130531_02sy13時58分、長岡京駅。EF510の牽く日本海縦貫線回りの下り貨物が通過。ホームに着いて、ダイヤには載っていない貨物列車が、いきなりの通過、所定10時過ぎ通過の3092レの遅れと思われる。EF510のファーストナンバーだった。130531_07sy14時01分、本命の5087レが定時通過。赤ナンバープレートのEF652063の牽引。EF65PFの原色時代と比べると、地味な塗色になってしまったが、贅沢は言えない。3月の改正で、この区間では、一本になってしまった貴重なEF65PFだ。130531_11sy14時11分、5087レのすぐあと、空車のチキで編成された1881レが通過。これも珍しくなったEF66の0番台牽引だが、飾り帯が撤去され、弁当箱を載せて、なんとも締まりのない顔つきになった。

続きを読む

雨も撮る 〈2〉

つぎは、「雨と路面電車」について写真を少々。

路面電車の場合、雨がプラスに作用するのは、道路の反射が期待できることだ。そして時として、人物も絡んだシーンとなると、よりフォトジェニックな瞬間に出会うこととなる。

IMG_0002sy_edited-1雨の札幌駅前に発着する札幌市電。連接車・連結車が投入され、輸送力の増強に躍起になっていた最盛期の時代だった。とくに、ほとんどの系統が発着する札幌駅前には、次つぎに市電がやって来る。この日は、DRFCの面々と、札幌から夜行急行「石北」に乗り合わせ、常紋へ行くことになっていた。夕方の札幌駅に着いたが、集合までにまだ時間がある。まずは、駅前の軒先で雨を避けながら、夕方のラッシュ時の光景を写し始めたのだった。(昭和44年9月)IMG_0011sy_edited-1昭和50年に廃止になった阪神国道線には、窓の大きな“金魚鉢”こと、71・201形がいたことで名高い。ただ、車体の塗色が地味なこともあって、昼間に撮って写真にしてしまうと、窓の大きさはよく伝わらない。なら、雨の夜、窓からこぼれる照明で、それを強調しよう。そう思って、雨の日を選んで、上甲子園まで訪れた。(昭和50年4月)IMG_0012syここからは、京都市電。まずは、わが同志社前。以前から、雨の日を狙っていた。なんとしても、女子学生を入れて自分好みの写真を撮りたいが、案外に同志社前は乗降が少ない。調べてみると、土曜日の昼は、女子部の中高生がいっせいに下校するため、いっときの女子学生ラッシュとなることがわかった。(昭和50年11月)

続きを読む

雨も撮る 〈1〉

近畿地方は、例年になく早い梅雨入りとなった。

この10日間ほどは、夏を思わせる晴天続きで、毎日のように撮影に出かけたものだが、しばらくは籠りの生活が続きそうだ。“晴耕雨読”が信条の生活とあらば、雨は、外出・撮影意欲を喪失させてしまう気象条件だ。近距離なら、撮影を中止することも出来るが、長期の撮影旅行で雨に降られると、お手上げだ。撮影はあきらめて、“乗り鉄”で時間をつぶすことが多かった。

しかし、やっかいな雨も、写真の対象として見れば、雨による車体やその周辺の反射、また人物のカットなど、雨でしか表現できないこともある魅力的な気象とも言える。要は、雨にも決断する行動力だ。

過去、雨のなか、意欲的に(?)カメラを向けた、いくつかの写真を思い出とともに並べてみよう。IMG_0001sy_edited-1初めて訪れたウワサの函館本線上目名駅。昼間はまだ曇りで、撮影は順調に進んだが、下りのC62重連を撮った夕方から、空が一転掻き曇り、駅に着く頃には、土砂降りの雨になった。同業者も居ない、山間の駅で、一人心細くなってくる。ホームの軒先で雨を避けながら、乗車する列車を待った。写真からも、雨筋が分かるほどの豪雨だった。(昭和43年8月)IMG_0006sy_edited-1ところ変わって九州、愛用の夜行鈍行1121列車に乗って、早暁の肥薩線坂本駅に着いた。天気予報が当たって、しっぽり降りだ。川筋を歩いて撮影する計画も、あっさり断念、駅撮りと決め込む。やがて到着したC5748の牽く貨物列車は、通票の授受を終えると、慌ただしく発車して行った。列車全体が白煙に包まれて、雨にけぶる彼方へ向かっていった。(昭和46年12月)IMG_0004sy_edited-1こちらは、宮津線丹後山田駅(現・北近畿タンゴ鉄道野田川駅)。鉄道同好会の面々と、加悦鉄道へ行った日だった。朝、京都を出て、丹後山田に着く頃には、雨になってしまった。列車を降りて、加悦鉄道ホームへ向かうと、ちょうど乗車列車が発車しようとしていた。何気ない写真というか、気にも留めていなかった写真だが、客車のナンバーが読み取れるサイドから、人物を手前に置いた写真、何でも撮っておくべきだと思わせる写真だった。(昭和45年9月)IMG_0008sy雨の草津線貴生川駅にD51841の貨物列車が到着する。出迎えの駅員の影が、濡れたホームに映る。ローカル線の交換駅では、必ず見られた光景だが、雨がうまく演出してくれた。背後の跨線橋は今はなく、橋上駅が上を覆っている。駅全体がすっかり変わってしまった貴生川駅だった。(昭和47年6月)

 

江若鉄道ジオラマ、雄琴温泉で展示さる!

P1090428sy本日から「琵琶湖グランドホテル」で公開・展示された西村さん制作の江若鉄道ジオラマ浜大津・三井寺下ブロック。過去のスカイプラザ展示での感動が甦ってくる。車両もフルラインナップで展示、また江若鉄道関係の資料も閲覧できる。

以前に大津の86さんから報告のとおり、西村雅幸さん制作の江若鉄道ジオラマ浜大津・三井寺下ブロックが、「大津百町大博覧会」の旧大津市公会堂会場でメイン展示されました。多くの来場者が訪れ、去る4月14日に幕を閉じました。会場では、来場者が感想や思い出を書いて自由に貼り付けることができます。そのコメント数が、群を抜いて多かったのも、その人気ぶりが伺えました。

そして、この浜大津・三井寺下ブロックが、そっくりそのまま雄琴温泉「琵琶湖グランドホテル」で展示されることになり、当特派員も、さっそく本日朝の9時に同ホテルに参上し、様子を見てきました。

ことの発端は、クローバー会のtuuyanの高校時代の友人である、別の雄琴温泉の旅館業の方から、「琵琶湖グランドホテル」での展示を勧められたものです。同ホテルの社長さんは、江若鉄道沿線で生まれ育ち、江若鉄道には人一倍の思い出を持っておられ、しかも、鉄道模型にも造詣が深い方と、管理・展示していただく相手としては申し分ない方で、西村さんも、この申し入れには二つ返事で快諾。大津市公会堂での展示終了後、雄琴まで運搬、tuuyan・大津市歴史博物館の協力も得て設置完了し、本日の公開を迎えました。

期間を限定しない、“半永久”展示であり、今後多くの皆さんに江若鉄道を偲んでもらうことが出来るでしょう。ここでも、クローバー会のネットワーク・協力が発揮され、浜大津・三井寺下ブロックは最高の舞台に収まりました。

P1090423syホテルのロビー奥の土産店に展示された。土産店の営業中は自由に見学できる。閉店中でも、奥のガラス仕切りを通じてロビーから見学できる仕組み。管理としては、言うことがない。なお、ホテル内には、湖西線を走っていた「雷鳥」485系のプレートがさり気なく飾られるなど、鉄道好きの社長さんのこだわりが見える。

P1090420sy場所は雄琴温泉街の琵琶湖側、JR湖西線おごと温泉駅から歩いても15分程度、すぐ近くに江若鉄道の雄琴温泉駅もあった。展示場所としても、この上ない絶好のロケーションだ。tuuyan制作のトーマス9mmレイアウトもあり、子どもたちも大満足。

“なにわ”の赤バス、消える 〈4〉

C 130330_136sy夕方の南海難波駅前で、ただ一台ポツンと発車を待つ、赤バス「浪速西ループ」。「浪速東ループ」とは連続運行になっている。

駅と赤バス

“赤バス”ルートの経由地は、駅、区役所、病院が3点セットになって、複雑な運行ルートを形成していた。生活者重視、なかでも交通弱者の高齢者向けならではのルートだった。その中から、鉄道との出会いとして、駅と絡めた写真を並べて、“赤バス”の終わりとしたい。

さて、大阪市バスの今後の行く末だが、地下鉄事業とともに、交通局の民営化基本方針案が示されている。市バス132路線のうち、3月までの赤バスで26路線廃止、一般バスも2014年3月末には17路線を廃止し、89路線に集約したうえで事業を売却し、2014年4月から民間運行を開始する。地下鉄も2015年度から民営化するという、

大阪市交通局に、日本の公営交通としては、かつてない大変革が迫っている。

続きを読む

“なにわ”の赤バス、消える 〈3〉

赤バスの車両

“なにわ”の赤バスは外国製である。一般の路線バスに、多数の外国製バスが在籍するのは、たいへん珍しい例だ。

2000年の赤バス運行開始時に、国内のバスメーカーでは適当な小型ノンステップバスが製造されていなかったため、外国製のバスが導入されたと言われている。

ひとつは、ボルボ関連会社で、スウェーデンのオムニノーバ社製造の「マルチライダー」。2000年の運行開始に備え20台、2002年の路線拡充時にさらに50台が導入された。

その後、オムニノーバ社が経営破綻したため、2005年の第三次路線拡充の際には、メルセデス・ベンツ・スプリンターをベースとするコミュニティバス仕様の「トランスポーター」が13台導入された。

国産バスに比べて高価な買い物だったが、故障が多く、保守する側は泣かされたという。

2012年には、2000年製赤バスが廃車となり、その代替として日野「ポンチョ」が赤バス14路線に導入される。赤バスとしては初めての国産車となった。車体の塗装は、一般路線車と同じデザインで帯のみが赤になった。

2社の外国製、1社の国産赤バスは、廃止時、酉島、住之江、長吉、鶴町、井高野の5車庫に配置されていた。

130208 (126)sy外国製の赤バス、これは、スウェーデン・オムニノーバー社製「マルチライダー」。「大正区役所前」付近130223_048syもうひとつの外国製赤バス、メルセデス・ベンツ社製「トランスポーター」。つりあがったライトが精悍な印象を与える。「淡路二丁目」付近B 130208 (30)sy赤バス廃車の代替として導入された国産車、日野自動車の「ポンチョ」。4月以降は、大阪市バスの一般車と同じ、クリーム・グリーンに塗り替えられ、旧赤バス系統などで引き続き使用されている。「鶴橋駅前」付近

続きを読む

“なにわ”の赤バス、消える 〈2〉

A 130315_256sy塗装は正真正銘の赤、印刷用語で言う“金赤”である。外国製ともあいまって、真っ赤なバスは、ちょっと大阪離れした雰囲気を漂わせていた(加島駅前)。

赤バスのあゆみ

赤バスは、一般の路線バスではカバーしきれない、各区内の病院、駅、区役所などの公共施設をきめ細かく結んでいた。2000年に試験運行を開始。2002年に21路線で本格的な運行を開始した。

各区内で完結(一部例外あり)するルートだが、そのルートは公共施設を丹念に拾っていくため、複雑を極め、ループ、8の字、タブル8の字、なんでもありだった。運行は、交通局の外郭団体である、大阪運輸振興に委託していた。

運行時間は基本8時台から17時台、30分ヘッドが基本だが、45分ヘッドもある。その複雑なルートから、知らないものには、なかなか使いにくい乗り物でもあった。各区で完結するのも、市民の生活圏の実態からは乖離していた。運賃は100円均一、と言っても、乗客のほとんどは、敬老パスを持った高齢者だから、現金収入は知れている。

その後、中央ループ、西ループが廃止となり、廃止時には29路線が運行されていたが、乗客数の伸び悩みなどから、紆余曲折の末、3月31日で運行を終了した。

4月からは、目標乗客数を上回った天王寺、東淀川、平野区内の3路線が一般系統として存続したが、一般バスと同じ200円に値上げされている。それ以外についての廃止後の処置は各区に委ねられ、一部の区では独自にコミュニティバスを運行したり、タクシー代行を行っている区もある。

A 130322_50sy浪速区「浪速東ループ」。もっとも大阪らしい名所、通天閣を行く。外国からの観光客で賑わっている通天閣の下に乗り場がある。どの時間帯でも逆光になり、おまけに自動車に邪魔ばかりされるので、何度も通ったものだ(通天閣付近)。A 130330_115sy浪速区「浪速東ループ」。日本橋東一丁目から右折して、堺筋に入り、日本橋電気街の雑踏の中に入っていく赤バス。

続きを読む

“半世紀前の電車特急”によせて

IMG_0002sytsurukame先輩の151系特急「第2富士」、たいへん興味深く拝見しました。新幹線開業前のこだま型のいちばん華やかな時代ですね。50年前とは思えない、あざやかなカラー発色には驚きました。

よく似た構図だと思って、ネガを探してみると、私も姫路駅で写した、こだま型がありました。ただし、私のはモノクロ、撮影年も、その翌年、東海道新幹線開業後の昭和40年で、新大阪発下関行き「しおじ」です。手前は、狭軌記録163km/hのチャンピオンマーク付きのクハ151-3です。「第2富士」は上りで、「しおじ」は下りですので、ホームは違いますが、上のテルハが同じで、姫路駅と分かります。

姫路駅も完全に高架化されてしまい、半世紀前の面影も全くなくなりましたね。

“なにわ”の赤バス、消える 〈1〉

「なんでバスやねん」の声が聞こえてそうだが、いま載せないと意味がない。

大阪市交通局のコミュニティバス、通称“赤バス”が、本日をもって廃止となった。大阪24区のすべて(一部は先行して廃止)に張り巡らされた膨大な路線網で、各区内の病院、区役所、駅などを結ぶ地域密着型のバス。それを一挙に廃止するとは、いかにも大阪市らしい荒療治だ。

3月31日廃止となれば、桜との組合せは微妙と思っていたが、急に暖かくなって例年より早い開花となった。そこで、最後の姿を収めに、昨日、一昨日と大阪市内を駆け巡った。御託は次回に回して、取り急ぎ桜のシーンをどうぞ。

130330_024sy昨日は、自宅から行きやすい阪急京都線の相川・上新庄をテリトリーとする、東淀川区の赤バスを狙ってみた。地下鉄井高野駅近くの神崎川沿いの桜は三分咲きと言ったところだが、車に邪魔もされず、まずは一発で収めることができた。130330_046sy今度は、神崎川南側の集合住宅に上ってみると、桜、川、バス、街並みと、きれいに収めることができた。真っ赤な車体が恰好のアクセントになっている。130330_049sy大阪には小さな公園が各所にあり、ほとんど桜がある。地下鉄だいどう豊里駅近くの公園も同様だった。フロントグリルのエンブレムをよく見て欲しい。なんと、スリーポインテッドスターのベンツ製バスである。130329_24sy同じ東淀川区でも、阪急淡路・崇禅寺、新大阪駅を経由するルートにも、ベンツ製の赤バスが使用されている。桜の名所、柴島浄水場の横を通り、淡路方面へ向かう。130329_15sy阪急崇禅寺駅横の踏切を渡り、淀川キリスト教病院へ向かう赤バス。同病院の新築移転に伴い、赤バスのルートも変更された。

 

京阪(旧)3000系を思う (5)

IMG_0004_edited-1IMG_0003▲▲ ▲五条~七条間、鴨川の対岸から眺めた3000系特急。その塗色が、鴨川沿いの景観によくマッチしていた。

鴨川沿いを走る七条~三条間も、昭和62年5月24日に地下化され、その景観が消えてしまう。

地上から地下への切替工事は、昨今の東急渋谷駅では、終電から始発までの数時間だったが、さすが20数年前では、このような離れ業はできず、地下線開業は24日午前8時となった。始発から午前8時まで伏見稲荷~三条間は運休となり、同区間は、京阪バス28台による代行運転に拠った。日曜日の早朝のため、代行予測は3300人で、バスで十分に運び切れる量だった。バスは師団街道、河原町通を経由した。

三条駅では7時55分発の祝賀列車で開業式・テープカットが行われた。使用されたのは、もちろん3000系で、しかも滅多に先頭に出ることのないファーストナンバー3001号車がデコレーション付きの先頭車となった。しかも、3001を含むユニットは3連だが、わざわざ別のユニットから1両を編入した4連に組み替えられた。

この編成は、早朝から東福寺駅で待機、地下線への切替完了後、上り一番の回送電車として、三条に7時48分着、折り返し7時55分発の下り一番の祝賀電車となった。

平成元年には出町柳まで延伸されるが、この時に8000系が登場することになり、3000系が特急を独占するのも、あと2年半だった。

3000系のいちばん晴れやかなシーンだったに違いない。

IMG_0001地下線への切替工事の完了まで、東福寺駅に待機する3000系4連の祝賀電車。大阪方の3001に、記念のデコレーションが取り付けられた。開業前後のダイヤ・運用を故・澤村さんから電話で教えてもらったのも思い出だ。IMG_0002三条駅2番ホームで行われた、京都地下線のテープカット。関係者のみが乗車できる祝賀電車で、七条で全員が下車後、回送となった。なお、営業一番電車は三条8時発の淀屋橋行き普通の6000系で、私はこれに乗って初の地下線乗車を行った。