北海道は遠かった、広かった(その4)

今回は初めて渡道した昭和44年3月に訪ねた名寄本線です。この時はKAWANAKA先輩と別れたあと、1900生先輩と2人連れの旅でした。札幌から「大雪6号」で早朝に遠軽に着き、名寄本線の一番列車で中湧別、紋別、興部、名寄と138Km全線を乗り通し、すぐに一ノ橋まで折り返しました。一ノ橋・上興部間は11.0Kmあり、その中間地点のサミットまで歩こうという計画です。丁度北見と天塩の境で、天北峠と言われる場所です。並走する国道239号線をひたすら歩き、腰までの深い雪をラッセルしてようやく線路まで登り、2本の貨物列車を待ちました。まずやってきたのが名寄側から登ってきた49699牽く貨物列車です。

昭和44年3月7日 一ノ橋・上興部間

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北海道は遠かった、広かった(その3)

昭和50年2月に標津線を訪ねています。札幌発21:30の狩勝4号のハザで6:15に釧路に着き、多分駅弁でも買って、6:34発釧網線622Dで標茶に着いたのが7:36でした。標津線根室標津行き323Dの発車8:31までの小1時間をどうして過ごしたか、まったく覚えがありません。323Dで次の駅泉川で下車しています。丁度泉川で標茶行き324Dとの交換風景を撮ったのがこの写真です。それぞれキハ22の単行。民家もまばらな根釧原野の小駅にも国鉄職員が勤務されていた時代でした。

昭和50年2月13日 標津線泉川駅での交換風景

この泉川駅から次の光進乗降場へ向かって線路を歩きました。幸い好天に恵まれたのは良いのですが、サングラスなどしゃれたものは持ち合わせておらず、まぶしい雪中行軍でした。

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北海道は遠かった、広かった(その2)

学生時代の最後、昭和50年2月に修了式を済ませ、3月末には京都を離れて広島県三原市に居を移すことが決まっていましたので、北海道が更に遠くなることもあって3度目の渡道をすることにしました。精力的に道内各地を回ろうというより、今にして思えば北海道に行くことが目的のような旅だったように思えます。とは言え、観光地に行くことはなく、かろうじて蒸機が活躍していた線区の落穂ひろいのような、効率の悪い旅でした。出発前の地図での調査やダイヤの調査もそこそこに、またどこをどのように回ったかのメモもほとんど残していない旅でもありました。

ではまず池北線日ノ出駅から。2月8日に京都を発ち、上野から「ゆうづる4号」の寝台、青函、「ニセコ2号」、「大雪5号」と乗り続け、10日朝5:42に北見に降り立ちました。池北線に「日ノ出」という駅があり、この駅で日の出を見ようと思ったからです。池北線の一番列車で6:08に日ノ出駅に着きました。北海道の夜明けは早く、6:08ではかなり陽はのぼっていましたが、7:28朝日に輝く北見行き一番列車541Dを撮ったのが次の写真です。

昭和50年2月10日 池北線日ノ出駅の541D北見行き

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北海道は遠かった、広かった

私は学生時代に3回、その後3回の計6回津軽海峡を渡りました。学生時代の3回はすべて春休みで、厳冬期から雪解け期でした。残りの3回は雪の季節ではなく鉄道メインでもない旅でしたが、やはり冬の北海道の印象は強烈で、もう一度流氷を見てみたいナアなどと半世紀前のことをなつかしく思い出しています。特派員殿のすばらしい連載投稿を見るにつけ、当時 ある日は仲間とともに、ある日は単独行動で思い思いに均周を手に道内を巡った中で、あまり皆さんが訪ねておられないであろう鉄道も紹介しておこうと思い立ちました。とは言え、いざネガやスライドを出してみるとカビや変色もあって見苦しい写真が多く、お恥ずかしいのですが、それは気にせず投稿させて頂くことにします。多分3回から4回の連載になるのではと予想しています。

京都から北海道へは東京まで新幹線で行くとしても、上野から随分長い時間をかけて青森へ、そして青函連絡船と1日がかりでした。それだけに乗船名簿を記入し、荒れる津軽海峡を渡ると「はるばる来たぜ函館へ」という実感がありました。連絡船の売店でも売っていたように記憶していますが、まず「道内時刻表」を買うのがお決まりでした。仮駅、乗降場も漏れなく書かれており、バス路線図やバス時刻表は大変重宝しました。3回目に渡道したときの、昭和50年2月号の道内時刻表が手元にありますので、その巻頭地図を載せておきます。

鉄道弘済会 昭和50年2月発行「道内時刻表」より

運炭を役目とする国鉄支線や私鉄の多くがすでに消滅していたとは言え、昭和50年にはまだ多くの路線が健在だったことがわかります。

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米手作市氏 中国新聞に登場

総本家青信号特派員殿から、米手氏が奥出雲の方にお忍びで出かけられたことが中国新聞の知るところとなり、同紙に載ったらしいので至急調査願うとの連絡が入りました。早速ここ1週間ほどの紙面を探しましたが、備後地方と出雲地方では紙面が異なるためか見つかりません。そこで中国新聞デジタル版で探しましたところ、9月6日の地域ニュースに米手氏の名前を発見しました。画面コピーを添付し、ご報告に代えます。

中国新聞デジタル9月6日

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木次からの便りが届きました

クローバー会の木次線ツアーは平成29年4月でしたが、あれからもう4年が経過しました。その際に大変お世話になった「C56108保存会」の堀江会長殿から会報が毎号送られて来ています。この度 第8号が届きました。A3判 両面刷りの会報です。すべてをご紹介します。

C56108保存会会報「ちどり」

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三江線のその後

平成30年の廃止からもう3年が経ちました。ぶんしゅう氏やワラクロ氏が現地に足繁く通われ、最後の姿をしっかりと記録されたと思います。地方線区が廃線になると、駅舎の撤去はそれほど難しくはないものの、レールを剥がしたり、鉄橋の桁を外したりするのは大きな費用もかかるため放置される例が数多くあります。トンネルや鉄橋はそれなりに安全対策はされるでしょうが、わびしい光景を晒すケースが多いようです。三江線沿線では地元住民が駅周辺を公園にして、地域振興を図っている例もあります。

令和3年4月2日 中国新聞朝刊

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芸備線の行く末は?

平成30年4月に三江線が廃止されてからもう3年が過ぎました。三江線の次は、誰が考えても芸備線新見口、木次線、福塩北線という流れでしょう。ナリを潜めていたJR西が動き出しました。廃止ありきではないと予防線を張りながら、備後庄原・新見間の沿線自治体や住民と芸備線のあり方について協議する体制を作りたいとの提案です。それはそれで進めるべきだと思いますが、芸備線、三江線に限らず北海道、四国はじめ全国各地に共通する重い課題を、「地方創生」と言いながら地元任せにして見て見ぬふりをする江戸幕府は一体どこを向いているのでしょうか。

掲載から少し時間が経ってしまいましたが、6月9日の中国新聞の記事をご紹介します。かなりの紙面を割いての報道でしたので、いくつもに分けてスキャンしたので見にくい点はご容赦を。

令和3年6月10日 中国新聞

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広島短信

広島市は一時 準非常事態宣言対象地域になりかけましたが取りやめとなり、その後少し落ち着いてきています。とは言え油断大敵と私は巣ごもりを続けております。今朝の中国新聞朝刊に芸備線西三次駅に関する記事が載っていましたので、ご紹介します。

令和3年1月26日 中国新聞朝刊

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「エトセトラ」と「銀河」

コロナは収束どころか拡大一方で、GoToトラベルの是非に注目が集まるなか、JR西の観光特急「WEST EXPRESS銀河」が走り始めました。11月下旬から何度か試運転を目にしていましたが、12月12日から営業運転に入りました。

下りの「銀河」は福山に13:16に到着し、14:02の発車まで46分間停車します。その停車時間に地元の特産品をPRしようと、福山市は力を入れているようです。 続きを読む

「ひろでんの日2020」

11月23日 広島電鉄千田町車庫でイベントが開催されました。100名の事前申し込みだったため、当たらないだろうと申込みせずにいたのですが、156号や101号が走るとは想定していなかったので、尾道へエトセトラを撮りに行ってしまいました。特に156号は江波車庫の一番奥に保存されており、以前は一言声をかければ入れてくれた車庫も、最近はシャットアウトです。江波から千田町を往復するとわかっていたら、広島に行ったのにと悔やまれます。11月24日の中国新聞記事です。

令和2年11月24日 中国新聞朝刊

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飽きもせずに「エトセトラ」

馬鹿のひとつ覚えのように「エトセトラ」でお邪魔します。GoToトラベルの後押しもあってか、運転日は団体ツアー客で予約が埋まり、なかなか個人客が指定券をゲットしにくいという話も聞いています。まだ広島・呉方面への遠出はせずに、三原近辺だけで、新たなアングルを探しながら、撮影を続けています。下手な近作をご紹介します。

令和2年11月9日 呉線安芸幸崎・須波間にて 上りエトセトラ

国道185号線との並走区間で、特に大型トラックやバスに並走されると台無しになるのですが、この日は幸いにも邪魔が入りませんでした。遠くに見える造船所は、安芸幸崎にある今治造船広島工場です。

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