半世紀前の下関市街を駆け抜けた山陽電軌の電車たち。前回は彦島口から出発して、魚の街下関市中を通り、唐戸交差点まで来ました。今回は唐戸から車庫のあった東駅までと、長関線の終点長府駅、途中の海岸べり壇ノ浦付近を眺めます。引き続き下関市街の現在の姿をgoogle Earth て懐かしんでみました。
▼唐戸電停の200型202号。三角交差点tの北側頂点の位置です。東駅への折り返しもできました。右手後方は商店街。 06517
▼広島相互銀行(現在の山口銀行)、南部町(なべちょう)付近を行く市内線下関駅行き512号。 06519
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投稿者「tsurukame」のアーカイブ
半世紀前の山陽電軌、併せて街の新旧対比(1)
半世紀前、1962(昭和37)年3月、筆者が2回生の時、九州に渡る前の一日、下関市内で山陽電軌を眺めていました。その時の画像を整理しながら、停留所や、背景の建物、街の様子が、現在どんな風になっているか、google earth で眺めました。車両と併せて街の新旧対比をも紹介します。
先ずは山陽電軌道の位置です。
▼山陽電軌道路線概要
南から、大和町(やまとまち)線、市内線、幡生線、長関線からなっています。但し車輌の行き先表示板は市内線と長関線の二本立てでしたので、紹介はこれに従います
▼下関駅前、国鉄下関駅の正面に相対する位置でなく、駅の左手(北西方向)に偏っていました。画面左手方向は下関駅西口を経て彦島口に向かい、右方向へ進めば、市内唐戸、長府駅へ。車両は長関線長府駅行き800型802号。 以下日付はいずれも1962.3.20 06422
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読者の方々へ(4)、山陽電鉄2000型
63型車輌20両の投入(1947年)で戦後の車輌不足を凌いだ山陽電鉄はその後、820、850型18両のロマンスカーを登場させ(1948年から)戦後復興をようやく果たした(以上既説)。
その矢先、1951年9月西代車庫の火災で14両もの車輌を焼失したが、小型車の車体新造による250型を誕生(既説)させるなど、再復興と車体の大型化に対応して来ました。
曲がりなりにも安定して来た1955(昭和30)年頃、神戸高速鉄道の構想が生まれ、ほぼ同時期にWN駆動の軽量高性能車2000系が登場しました。
第一次2000型2両、MM2両編成、車体長18m、ロングシートとして誕生。1960年に中間車2508を加え3連化、2001にもパンタがついた。3両共にまだ2扉の時代です。
▼2000+2508+2001 上り特急 須磨浦公園-塩屋 1965.1.31 C0808
海岸べり(右手)の国道2号線はまだ車が少ない時代です。
▼2001+2508+2000 下り特急 大蔵谷-西舞子 1965.1.31 C0811
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読者の方々へ(3)、山陽電鉄820型
今回の山陽電鉄紹介は、820、850型です。
大戦後日本の多くの両鉄道同様、山陽電鉄でも稼動車が限られ、日々の運行さえままならぬ状況が続きました。これを補い、その後の山陽電鉄を文字通り軌道に乗せ始めたのは、広軌モハ63型20両(山陽では800型、後の700型)と、そして今回紹介の820型18両です。
大型過ぎて中小私鉄で少し持て余し気味の63型に比べ、もう少し小型で使いやすい標準車体をとの意向で生まれたのがこの820型です。車体長17m、転換クロスシート、2両固定編成のロマンスカーによる特急運転として、1949(昭和24)年に登場しました。クリームイエローとネイビーブルーのツートンカラーでした。
1951(昭和26)年頃、東須磨小学校の教室から見える車輌は、前回までに紹介した100・1000型と200型の茶褐色一色の車輌に交じって、この820型でした。近づいてくる様子はそれほどのスピードでもなく、線路事情が良くないのか、車体を左右に振りながら、大きな音と共に通過して行きました。
▼長田、神戸市電との平面交差点を通過する下り各停 822+823 1963.1.3 C0216
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読者の方々へ(2)、山陽電鉄250型
読者の方々に、半世紀前の山陽電鉄を、先の100型に続き250型を紹介します。
モハ63系車輌(1947年、山陽700型)をはじめとする山陽電鉄系車輌の使用開始により、兵庫電軌、神姫電鉄系の在来車輌100型は、車体幅が狭く、輸送力・保安面・経済面において著しく不具合となり、車体の乗せ換え、制動機能などの変換を順次実施した。それらが、ここに紹介する250型です。
第一次250型、250~253の4両(1951年)
▼250+251 滝の茶屋-塩屋 1962.1.1 C0114
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読者の方々へ、山陽電鉄100型
今から5年も前のデジタル青信号#12139(2011.3.9)の記事を、直近にもご覧頂いている読者の方々がいらっしゃいます。姫路市飾磨区にお住まいだった方、神戸市長田区の小・中学校ご出身の方、今は神奈川県川崎市にご在住の方、などなど。筆者とは年齢が相当違いますが、山陽電車を利用したり、懐かしく思っていらっしゃるファンです。筆者も元は神戸市の小中高出身者で山陽電車を毎日見たり、あるいは通学に利用した一人ですから、上記の方々とは共通項が沢山あります。
その記事へのコメントが2016年の最近にも届き、古い画像があればとのご要望も寄せられていました。相当古い車両写真あるいは最近の車両は専門誌に沢山掲載されていますので割愛しますが、紹介が比較的少なく、筆者が撮影できた山陽電鉄100型を、ほんのわずかですが紹介します。
▲106+1006 1960.8.21 須磨浦公園付近
106:1928年4月藤永田造船所製造、この撮影の数ヵ月後(1960年)廃車。1923年創業の神姫電鉄の51型63、宇治川電気電鉄部に継承された後、1933年山陽電鉄に。1949年の改番で106となる。次に紹介の1006と併結運用されたが、2輌の間は非貫通でした。側面には路面停留所が存在した当時に設けられた一段ステップが両端の乗降口に残っていました。塗装は濃褐色一色です。
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真夏の蒸機-半世紀前
残暑お見舞い申し上げます。真夏の炎天下、飯山線と米坂線で撮った蒸機です。
▼飯山線客214レ機C56109【飯】 越後鹿渡-越後田沢間 1965年8月16日 C1407
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鳥羽快速・運転最終日
湯口先輩の『鳥羽快速と参宮線(上・下)』を懐かしく拝読しまして、加太で迎えた鳥羽快速運転最終日の模様を伝えます。時は1965(昭和40)年2月28日(日曜日)でした。
▼曇り空のこの日、柘植を10:18出発の2442レ、C57148【亀】に曳かれ、大築堤を下ってきました。青帯車1両を交え5両編成です。客車最後尾の窓からファンが身を乗り出しています。
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熊本市電 たったの4日で運転再開
熊本、大分両県の皆様、震災を心からお見舞い申し上げますと共に、一日も早い復旧を祈念しています。
震災から1ヶ月が過ぎた今週、テレビで熊本市電が、壊れた路面などを直ちに修理し、震災からたったの4日で運転を復活させたと知りました。その上、全国から集まったボランティアを無賃で輸送したそうです。
そんな映像を見て、半世紀前のフィルムを取り出してみました。1963年当時の熊本市電と熊本市街の様子です。その後長崎電軌に移った171、172号機の在りし日の姿もありました。長崎電軌の171号機は先日INUBUSE氏から現況報告がありました。1963年、3回生の春休み3週間、九州を周遊し鉄道三昧の日々を過ごした時のフィルムです。
(系統、停留場などは当時の名前または表記のままです。)
▼熊本城前 ②系統・健軍線(熊本駅-健軍町間)(健軍町行き) 120型 1963.3.27 07202
軌道の向こう坪井川を越え、長塀と瀬戸口門が、その向こうに田子櫓など、左奥隅に天守閣が見えます。市電はこの先すぐで右折して、通町(とおりまち)筋に進みます。
【現在】Google Earth 3D で確認すると、現在もこの場所はほとんど変らずにお城が望めそうでした。
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大井川の新緑
2年振りに大井川を訪れました。実は昨年も同志社の高分子化学ゼミの仲間と行ったのですが、SL牽引列車に乗り寸又峡に泊まり、接阻峡など観光中心 でしたので、鉄道沿線の大井川をゆっくり眺めることは出来ませんでした。今年は大井川水系の中でも、筆者が最も好きな塩郷から下泉間3.1km をゆっくり見て歩きました。五月晴れに山々は新緑に萌え、大井川も真っ青でした。
先ず、塩郷にある清流公園に立ち寄りました。
立 ち寄るのは三度目ですが、上の板張りモニュメントと下の歌碑を改めて撮影したかったのです。大井川の今昔や『水を返せ運動』などを読み、知るにつけ大井川 の風景をもっと撮影しておきたくなりました。この公園は線路沿いの狭い土地を利用して作られており、良いカーブ位置に建っているのですが、公園とSL列車 を一枚に収めることは不可能です。なお、想像ですがひょっとしたら昔の塩郷駅がこの場所だったのではと思いました。昭和53年製作の寅さんシリーズ第22 作『噂の寅次郎』に出てくる塩郷駅は、島式ホームで線路が2本あったのですから。その痕跡をさがしてもそれらしき場所が他に見当たりませんので。
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出雲坂根の一宿は駅長官舎、半世紀前
デジ青は木次線で大賑わいです。今更筆者の同じような画像は二番煎じと思い、皆さんの画像を閲覧する読者を決めていましたが、その内ムズムズし始め、西村さんの『出雲坂根今昔』を見て、三段画像なら比較してみようと、油に更に火を付けたく、投稿におよびました。学生時代最後の冬休み、名古屋の住職見習い(当時3回生)と二人の撮影紀行の話です。
★昭和38年12月30日
前々日、伯備線布原信号場付近で撮影後、住職見習いの友人(その後著名な毎日新聞記者となる)が住む湯の郷温泉に泊めて貰い、翌日の午後、出雲坂根駅に降りたったのです。
▼客427レ(松江発備後落合行き) 機C56104【木】 出雲坂根駅に進入直前。
スイッチバック二段目にあたる坂から登ってくる列車を見下ろしました。
第6回写真展『鉄路輝く』 web版をアップしました
第6回鉄道写真展『鉄路輝く』が、担当の青信号特派員さんを始め、DRFC・OB会役員、現役の同志社生並びに多くの会員諸氏のご協力により開催され、盛況裏に終了しました、昨年10月30日~11月15日までの17日間、場所は同志社大学寒梅館の地下ギャラリーでした。
OB会クローバー会メンバーによる、『フリーテーマ』および『わが現役時代』の90数点と、現役生『鉄道同好会』メンバーの作品30点。合わせて120点近くの作品展示は壮観でした。
完成が遅くなりましたが、それらを再現すべくweb版が完成しました。ご覧ください。
【閲覧の方法】
このページの上部、ブルーグリーンの帯上、『写真展』をクリックしてください。写真展のTOPページに移動します。第6回写真展ボタンを、さらに表示画面の Start をクリックすれば、『フリーテーマ』にジャンプできます。画面のサブテーマ『わが現役時代』でサブテーマに、『鉄道同好会』で現役生作品頁に移動します。TOPボタンでトップ頁に、HOMEボタンでこの掲示板に戻ります。また、各ボタンで第1~5回並びにEVE展等、過去の写真展もご覧いただけます。
なお、第3回以降は自動スライドショーです。お手を止めてご覧下さい。
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忽川の工臨に寄せて
福知山線道場界隈の記録に寄せて
福知山線廃線跡記事の続々編、道場近くの今昔です。準特急さんの写真のお陰で随分はっきりしました。
【昔】右写真:撮影準特急さん、第五武庫川橋梁を行く723列車。直ぐ奥の道路橋は当時の地図になく不詳です。
【今】下写真:岩はそのまま、橋台跡と思われるコンクリート部分が残っています。川中に橋台は残っていません。
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撮影地今昔-旧・福知山線・生瀬-道場間(6)
7.武田尾-道場間(2)
武田尾から廃線跡を辿り、大茂山トンネルの対岸×印のところで道が途絶えました。そこで道場側から回り込み、旧線の対岸を○の地点まで引き戻りました。×~○間、距離にして凡そ1kmほどは通過できずとなりました。尤も道場までのこの区間は、廃線の対岸で道路のあるところだけを通りましたので、廃線軌道敷き跡を歩いていません。
▼大茂山トンネル-道場間地図
それで、大茂山トンネルの道場方坑口と、野田尾トンネル武田尾方坑口は見れずじまいでした。せめて野田尾トンネルの道場方坑口をと探しましたが、草木が覆い茂り、なかなか容易に見つかりませんでしたが、石積み箇所をようやく見つけ、坑口も判りました。
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撮影地今昔-旧・福知山線・生瀬-道場間(5)
6.武田尾-道場間(1)
▼ ❶現武田尾駅の下を潜り、❷右にカーブし、道場方面に向かいます。この道路も廃線跡。❸少し幅が狭くなりました。❹草山トンネルが見えました。 続きを読む
撮影地今昔-旧・福知山線・生瀬-道場間(4)
6.廃線跡・武田尾駅今昔
廃線跡を歩き、武田尾駅跡に到着しました。2014、2013両年の台風と大雨でこの付近の武庫川と僧川(ぼうさんがわ)が大きな被害に遭いました。今その大改修が行われていて、4、5年前まで元の駅舎付近にあった店屋、建物がすべて無くなり、面影が一変しました。
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撮影地今昔-旧・福知山線・生瀬-道場間(3)
5.生瀬-武田尾間(3)
もうすぐ武田尾です。
▼長尾山第二トンネル 1899年1月竣工、全長149mの直線。延長工事はない。
生瀬方杭門周辺は野石乱積み、内部の側壁部、アーチ部は共にレンガ積み。トンネル前に付近の土砂が流込み、道床が高さ10cmほど埋まった。
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撮影地今昔-旧・福知山線・生瀬-道場間(2)
4.廃線跡・生瀬-武田尾間(2)
廃線跡を武田尾目指して北上します。
▼溝滝尾トンネル 1899年1月竣工、1961年落石防護のため生瀬方8mと武田尾方3.4m延長、全長150m、1986年廃止。
生瀬方杭門、北山第二トンネル杭門同様コンクリート製の味気ない姿。
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撮影地今昔-旧・福知山線・生瀬-道場間(1)
1.はじめに
健康第一、並びに足腰の弱りを先延ばしにするべく、歩くことに力をいれ始めて5年が経ちました。この間の歩行距離は稚内から鹿児島まで日本列島の背骨を通る距離に達したようですが、もう少し続けねばならないようです。
なんとなく歩くには、面白くないし長続きしませんので、カメラ片手に風景やら何やらを撮りながらです。山手幹線を尼崎から三宮までとか、国道2号線を梅新から下関(計画のみ、実際は西宮えびす迄)とかですが、都会の風景は兎角面白味がない。そこで近所の庄下川や神埼川を河口から源流まで遡上することにし、写真ブログに掲載を続けました。
次は武庫川です。2013年11月河口から西宮市生瀬まで10回くらいに分けて遡上しました。で行き止まりました。生瀬から先は道路が川から遠く離れ、通るとなれば福知山線廃線跡しかありません。その内に行こうが1年経ち、漸く2015年12月に通過、現在は三田市相野まで遡上しています。
2.福知山線廃線跡通過
1986年に廃止されて、現存する廃線跡を通過するなら、少量ですが半世紀前の画像と今昔対比です。これらの画像は、準特急さんが企画し発刊された、レイルNo.82『武庫川を巡る鉄道風景』に掲載されており、重複するものもありますがその他の画像をも含めて対比します。
『対比』、『今昔』ですが、廃線になってしまい線路そのものがありませんので、【昔】の列車走行風景と【今】に残る建造物などを6回に分けて紹介します。また第3回、武田尾近くで、筆者登場の現地からの映像報告もあります。
3..廃線跡・生瀬-武田尾間(1)
▼❶現・生瀬駅 ❷現在線の高架下から、その北側に旧線の橋台跡が見られ、その先国道176号線・西宝橋南詰め角を曲がると、❸すぐに、水路を跨ぐ橋。手前・整層切石積みが旧線、奥・コンクリート製が現在線 ❹城山トンネル、62.7m、1899年建設。封鎖されて通行できない。次の当田トンネルも封鎖されていて通行できない。
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