「研究論文」カテゴリーアーカイブ
昭和の電車 改訂版(131)ー鶴見臨港鉄道モハ220型・クハ260型ー
昭和の電車 改訂版(130)ー札幌市電A830型ー
昭和の電車 改訂版(129)ー西鉄北方線323ー
“箱河豚”か“馬面”か?
乙訓の長老が決定を下しました。
元祖馬面電車より物申す
昭和の電車 改訂版(128)ー鹿児島市電500型・600型ー
昭和の電車 改訂版(127)ー阪堺電車モ501型ー
昭和の電車 改訂版(126)ー加越能鉄道デ7050型ー
いいかげんな電車の現役時代 | DRFC-OB デジタル青信号 (drfc-ob.com)
いい加減な電車の原型 | DRFC-OB デジタル青信号 (drfc-ob.com)
「いい加減な電車」の写真があったやちゃ。よかったら越ノ潟へ行ってこられ。 | DRFC-OB デジタル青信号 (drfc-ob.com)
加越能鉄道に関しては反応薄、とばかり考えていましたが、前回時には乙訓の長老様はじめどですかでんさん、西村雅幸さんから貴重な写真と寄稿文を頂きました。
《特別寄稿》スカ形国電の時代(最終回)・・・河 昭一郎
横須賀線の電車運転は30系に始まり、32系へとバトンタッチされたが、不幸な戦争前後の混乱期を経て1951(昭和26)年3月には70系のスカ形電車が登場した。
しかし、在来車両の有効利用を命題としていたと考えられ、此の時期良く対比される湘南電車が新車のみで構成されていたのに対して横須賀線については新系列車両としてはモハ70、クハ76、サロ46(後のサロ75)のみで、当初はその製造両数も最小数であった。それに不足する車両は在来車を充当する事とし、関西から供給されたモハ42、モハ43、サハ48の他にそれまでの32系時代に活躍したクハ47、サロ45、サロ15が混結運用された。
昭和の電車 改訂版(125)ー都電7000型8000型ー
昭和の電車 改訂版(124)ー神戸市営地下鉄1000系・3000系ー
《特別寄稿》スカ形国電の時代(その2)・・・河 昭一郎
前回より
これらの70系横須賀線電車については、程無く『スカ形』と呼ばれるようになったが、その外部塗装は窓まわりをクリーム色とし、窓の上下は紺色とも言われるブルーが採用され、それは沿線の鎌倉や逗子の砂浜と海を表しているとも言われ、落ち着いた雰囲気をたたえていた。
この塗色は先輩格の80系湘南電車が沿線の『みかん』をイメージして窓まわりにオレンジ色を使用し、窓の上下をグリーンとした派手な印象とは対照的であった。
先頭車前面のデザインについては大形2枚窓の湘南電車とは相似形であったが、実は湘南電車の前面については2枚窓に落ち着く迄に次のような変遷があった。
クハ86の第1次車(20両)は丸妻3枚窓で、2次車以降は2枚窓となったが、3枚窓(1次車)⇒2枚窓(2次車)の設計変更時に丸妻台枠のままで窓のみを2枚窓化した2両(21、22)が1次車と2次車の折衷デザインとなっていて面持ちに独特感があった。
昭和の電車 改訂版(123)ー大阪市営地下鉄60系ー
《特別寄稿》スカ形国電の時代(その1)・・・河 昭一郎
《この特別寄稿「スカ形国電の時代」は、国電研究家・河 昭一郎様が鉄道誌へ掲載する予定で書かれた原稿をデジタル青信号にご寄稿下されたものです。3回にわたって掲載致します。》
元来、横須賀線は軍港のある横須賀と東海道線とを繋ぐ目的で敷設された軍事路線であったが、第二次世界大戦で日本が大敗した後は、海上自衛隊と在日米軍による貨物利用が続いた。
その歴史は1889(明治22)年6月16日に大船-横須賀間(15.9 Km)の単線開業まで遡る事が出来、その際のエピソードとして有名なのは実際の工事に際しては軍の介入が有って、北鎌倉駅では円覚寺の境内を横切り、鎌倉駅近くでは鶴岡八幡宮の参道である段蔓をも切り取る強引さを伴った工事であったとされている。
その一方で横須賀線は沿線に古都の鎌倉が有って、古くから高級住宅地としても知られており、更には逗子を代表とするその海岸線は『湘南』と言われ、夏の海水浴場や避暑地としても発展していて、現在ではそれ等地域の足としての役割が大きい。
横須賀から先、久里浜迄の8.0Kmについては1944 (昭和19)年4月1日の単線による開業となっている。
そのレールについては時節柄新規の調達が難しく、当時未だ東海道本線だった頃の名残りで本線仕様のままだった御殿場線を単線化して必要レールを捻出したと言われている。
以上の通り横須賀線は正式には大船―久里浜間(23.9Km)を言うが、その運行上は東京を起点としており、東京―久里浜間 (70.4Km)を直通する運行形態であった。従って横須賀線は東京―大船間については東海道本線上を湘南電車と交互に走行し、それは1980(昭和55)年10月1日の分離運転(MS分離)まで続いた。
昭和の電車 改訂版(122)ー営団地下鉄6000系ー
2つの鉄道事故の痕跡を訪ねて(後編)
前編として昭和6(1931)年1月12日深夜に山陽本線河内駅で発生した下関発東京行き2・3等急行第10列車の脱線転覆事故についての調査結果をご報告しました。その調査をするなかで、大正15(1926)年9月23日深夜3:30頃に山陽本線安芸中野・海田市間で東京発下関行き特別急行第1列車が脱線・転覆し、死者34名を出すという大事故があったことを知りました。そこで河内の事故に続いて、安芸中野にも出向き、その痕跡をたどってきましたので後編としてご報告します。河内の事故が速度超過という人災であったのに対し、安芸中野の事故は自然災害に伴う事故でした。まずは事故現場の現在の様子から。
2つの鉄道事故の痕跡を訪ねて(前編)
手元に昭和6年1月13日の中国新聞朝刊のコピーがあります。実は戦前の中国新聞の紙面は殆ど残っていません。広島本社に保管されていたであろう紙面は原爆で焼き尽くされ、福山支社のものも福山空襲で消滅したからです。戦災を受けなかった三原市図書館に辛うじて昭和5年11月から昭和24年11月の間の古い紙面(主に備後版)が残されていて、デジタル化されています。地元の戦前の出来事を調べるのに重宝しています。そんななかで、とりわけ目をひいたのが、昭和6年1月13日の紙面でした。前日1月12日3:57に発生した山陽本線河内(こうち)駅での上り急行列車転覆事故の生々しい記事と写真が紙面を埋めています。まずはその紙面を分割してご紹介します。約90年前の新聞ですので、写真の不鮮明さ、見づらさはご容赦のうえ つなぎあわせてご覧下さい。