この地図は鉄鉱石および石炭輸送の貨物鉄道を示します。赤が鉄鉱石、緑が石炭です。石炭輸送は主に東部、鉄鉱石が北部、西部となっています。
古いホッパー車が保存されていたのがPerenjori駅前ですが、ここから港町のGeraldton(ジェラルトン)まで現在も鉄鉱石輸送が行われていました。ただそのPerenjori駅は鉱山駅という雰囲気ではありません。
この地図は鉄鉱石および石炭輸送の貨物鉄道を示します。赤が鉄鉱石、緑が石炭です。石炭輸送は主に東部、鉄鉱石が北部、西部となっています。
古いホッパー車が保存されていたのがPerenjori駅前ですが、ここから港町のGeraldton(ジェラルトン)まで現在も鉄鉱石輸送が行われていました。ただそのPerenjori駅は鉱山駅という雰囲気ではありません。
先日レポートしました銚子電鉄訪問のあと、成田を飛び立って向かった先は西オーストラリアのパースです。パースを起点とした、鉄分とは縁の無い「花を見て回るツアー」につきあいました。オーストラリアへの観光客は東のシドニーやメルボルンを目指すのが通例のようで、西オーストラリアへの訪問者は少ないようです。オーストラリアは7つの州から成り立っていますが、西オーストラリア州は全土の1/3を占める広大な州で、その州都がパースです。西オーストラリア州の人口は250万人ですが、その90%はパースを中心とした南西部に集中していて、州の大半は広大な無人地帯です。
少し前ですが、ヨーロッパへ行って来ました。もちろんツアー旅行でしたが、時間を見つけては、各国で路面電車も撮りました。どうも私は、海外の鉄道になかなか興味が持てないのですが、いざ現地を訪れると、街並みに溶け込んだ優れたデザインのトラムがあり、限られた時間のなかでも、その魅力に触れることができました。乙訓老人からも、彼の地の魅力について何度も刷り込まれていましたが、その気持ちがやっと分かった次第です。では、チラリと見た、ヨーロッパのトラムの魅力を。
▲早朝、ストラスブール(Strasbourg)中央駅前を発車した、ストラスブール交通会社(CTS)のトラム(右)、左のイラストが描かれたドームが中央駅、パリとはTGVで2時間20分で結ばれる。
成田から久しぶりの海外旅行に旅立つ前に、初めて銚子電鉄を訪ねました。現役時代から半世紀、どうも千葉県とは縁がなく、未だに房総半島は未踏のままです。銚子電鉄も同様で、ようやく訪問がかないました。とは言え時間的制約もあり駆け足の乗り鉄旅ではありましたが、しっかり楽しむことができました。
JRで銚子駅に着いて、銚子電鉄に乗り換えるには一旦改札を出て、銚子電鉄の切符を買ってから再入場するものと思っていましたが、さにあらず。そのまま跨線橋を渡って銚子電鉄乗り場に行くようです。そして切符売り場があるのだろうと思いましたが、これもハズレ。いきなり無札で電車に乗り込むのです。
第2日目 8月28日(火) その5
▲ 14:45 一旦駅前のホテルに戻って小休止、約1時間4半ほどのお昼寝してからの撮影再開です。カメラは夕刻に備えてコンデジからデジタル一眼レフのNikonD500に替えました。レンズはAPSサイズの18~200㎜とフルサイズの24~70㎜F2.8を持って出かけることにしました。フルサイズの24~70㎜サイズはAPSサイズのカメラですと36~105㎜と路面電車を撮るにはピッタリでいつも愛用しています。カメラもISO51200までの感度も持っていますので夕闇でも高速シャッターをきれます。
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第2日目 8月28日(火) その4
▲ 11:45 浦上車庫で見たい全車両は見る事はできませんでしたので次回のリベンジに回してまて路線図左側の繁華街方向に行くことにしました。下車したのはJRとの乗換駅の浦上駅前です。到着したのは1966年(昭和41年)アルナ車両製の500形503号です。
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コンデジ1台を持っての気軽なロケハン移動ですが、暑さが厳しくなってきました。熱中症にならないようにできるだけ木陰を探しながら撮り鉄ですが我慢できなくなったら空調の効いた市電に乗って移動することにしました。今回は千歳町から浦上車庫へのレポートです。
第2日目 8月28日(火) その3
▲ 10:58 千歳町に向かう3系統の蛍茶屋行きの1953年(昭和28年)日立製の300形304号です。
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安倍総理から関空の第2ターミナルからの国内線再開が6日中に確定されると発表なりましたが7日朝ではまだ1部のフライトだけです。石垣島から帰るジュニア夫婦もピーチのフライトが休止のためにJTA(日本トランスオーシャン航空)の那覇経由名古屋便に変更したそうです。
私の次回の旅の台湾行きのフライトも再開されるのかどうかまだピーチからの発表がありません。ぬか喜びだったのかと不安がつのります。
と、投稿原稿を書いていましたら8日夕刻ピーチのHPが更新されて9日から関空~高雄フライトが確定されました。本当に飛ぶのか疑心暗鬼でしたが今日9日確かに発着が行われました。これで安心と思っていますが明日の関空へのルートはJR関空快速でりんくうタウンまで行ってリムジンバスで第2ターミナルへ向かいます。十分に余裕を持って出た方が良いよと、石垣島からの帰途途中で飛行機が遅れ名古屋泊まりを余儀なくされたジュニアーからの忠告が入りました。
【長崎市電】
1915年(大正4年)11月16日、病院下(現;大学病院前)~ 築町(現;新地中華街)3.667㎞が開業、以降第2期、第3期と延伸されて1921年大正10年4月30日までに主要路線が出来上がっています。
1933年(昭和8年)大橋まで延伸、1934年(昭和9年)蛍茶屋まで延伸、1950年(昭和25年)大橋~住吉まで延伸、1960年(昭和35年)住吉~赤迫、1968年(昭和43年)には思案橋~正覚寺(現;崇福寺)で延伸が完成して現在の路線網11.5㎞となっています。
1984年(昭和59年)6月1日から続いた均一運賃100円は日本一安い路面電車と話題になり賞賛されていましたが相次ぐ消費税アップ、またバリアフリー化等の利用者へのサービス向上のために2009年(平成21年)10月1日より120円に改定されました。
台風一過の翌日を迎えました。テレビで被害状況を見ながら情報収集をしていますが関空の被害は想像を絶しています。取り残された利用客は5日朝から連絡橋の片側路線を使ってリムジンバスでりんくうタウン側に運ばれています。また神戸空港へ輸送する高速船「神戸-関空ベイ・シャトル」の臨時便で神戸空港島に順次運ばれているそうですが未だに全員を輸送できず終日続く様子です。
心配するのは5日後の9月10日にクモハ73106さん、不銹鋼號さん、大津の86さんたちと台湾への撮影旅行を予定しているからです。東京からは飛行機は飛ぶでしょうが関空からのフライトの大津の86さんと私は関空が機能しない限り動けません。予約していますホテルもキャンセル不可の期間に入っていますので行けないとなると被害甚大です。復旧への目途がいつ分かるのか出発日まで不安な日々が続きます。
第1日目 8月27日(月)
① 長岡京 14:35(快速) ⇒15:01 新大阪 15:08(さくら561号) ⇒17:41 博多
② 博多 17:55(かもめ35号)⇒19:25 長崎
14:10 眼科での診察治療を終えて最寄りの長岡京駅に向かいます。様々の時間帯での接続列車を調べておきましたので、19:25には長崎に到着出来ます。窓口でジパング倶楽部会員証を出して3割引きできっぷの購入です。運賃・料金合わせて12,290円です。ただ、恥ずかしながら山陽新幹線からJR九州特急に乗り継ぐ場合は乗り継ぎ割引が効かないのは分っていませんでした。当初の予定だと阪九フェリー(5,180円)利用だったので余分な出費が出ました。
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今年は台風の多い年です。今日も台風21号襲来でJR西日本は京阪神地区の列車は8時以降順次運行を取り止めるとの発表がありました。各私鉄もほぼ同様な対応になるようです。今は青空も見えていつもと同じ状況ですが、今年最大で25年ぶりの最強台風だそうでどうなるかとても心配です。
と、朝に投稿原稿を作成しながら思っていましたら午後2時を過ぎた頃から突然に風雨が強くなりました。今まで経験したことがない激しさです。外を見ると木々は折れていきトタン屋根が木の葉のように舞って飛んでいます。約3時間近く続き、後は嘘のように静かになりました。テレビを見ているとあちこちで車が飛ばされてぶつかっています。また関空の連絡橋にタンカーが激突して橋がずれて、関空は孤島となって利用客3,000人と従業員2,000人の合わせて5,000人の方々が取り残されています。明日以降に無事な連絡橋の片側路線を使って脱出させるようですが停電で空調も止まっているターミナル内で一晩過ごすのは地獄でしょうね。体調を崩されないように、お見舞い申し上げます。
米 原稿は9月4日に作成しております、
台風で迷惑を受けたのは私も一緒で21号前の20号で大変でした。ご報告をさせていただきます。
【 台風20号に翻弄させられた旅立ち 】
8月7日に青春18きっぷを購入して候補にしていた訪問地の選択に入りました。結果、混み合うお盆が終わった頃に出かけようと決めました。目的地は今まで3回は参りましたが鉄ちゃん活動はしていなかった長崎市電と筑豊電鉄の撮影です。
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◆最終日の北海道は、3度目の上目名へ 昭和43(1968)年9月14日
北海道へ入って14日目の最終日、事前のプランではフリーにしていましたが、やはり足は上目名に向かいました。いつもより遅い目の時刻に上目名に着くと、澄んだ青空に秋の深まりを感じます。最初に上目名に来た時に比べると、駅に集まる人数もぐっと少なくなっています。撮影地を探して、一人でトボトボ線路上を歩いていると、突然、自分の名前を叫ぶ声が、頭の上のほうから聞こえてきます。
▶次いで“ここや!ここや!”の声、声の聞こえる方向を、よ~く見定めると、なんと数日前に別れたはずの鉄鈍爺さんが、90度近い絶壁の上に立っているではないか。たしかに、その付近だけ岩場になっていて、熊笹もなく、何とか上がれそうだ。上からの声に励まされて、何度も滑りそうになりながら、人一人がやっと立てそうな岩場の頂きに到達することができて、偶然の出会いに喜び合った。鉄鈍爺さんは、倶知安YHから私より早い目に着いて、撮影地を確保し、偶然、あとから歩いて来た私を見つけたそうだ。まもなく、例のジェット機音が聞こえてきた。
乙訓の老人は、大学卒業後に富山の企業で働いておられました。
この時期に会社が火災に遭い、それまで撮りためたネガや資料を全てなくされたのです。ここにご覧に入れる写真は全てその後に撮られたものなので、時期的に一時期の車種に集中しております。また、台数などの資料も当時のデータに準拠しており、その後変動したものもあります。
なお、一部に介護士が撮ったものも了解を得て挿入しております。
京福電鉄越前本線という。福井県へ電力を供給していた京都電灯が余剰電力の活用のため、大正3年4月10日に福井ー大野口間を開通させたのに始まる。因みに、「京福電鉄」という名前は、京都と福井を繋ぐ鉄道計画があったという意味ではなく、京都電灯の「京福送電線」から来た名前である。
国鉄との貨物車輌の乗り入れは昭和55年7月まで続いた。
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◆大沼で単機「ていね」を撮る 昭和43(1968)年9月13日
初めての北のC62訪問も終盤を迎えます。釧路発函館行き422レに、札幌から乗車し、大沼まで向かいます。この列車は函館本線経由の夜行鈍行で、さすがに観光シーズンも外れたこの時期、車内は閑散としており、乗車したオハフ6036は、車内設備が嫌われたのか、とくに超ガラガラで、深夜の倶知安で二人が下車すると、残ったのは自分一人だけでした。連日の夜行続きでぐっすり眠り、気がつくと、「おおぬま」の駅名標が。あわてて荷物をかき集め、発車直前に飛び降りました。
◀列車の大沼到着は4時16分、さすがに暗く、涼しさを通り越して寒い。待合室で、寝袋にくるまって仮眠し、明るくなってから撮影地へ向かう。目的地は、国道と函館本線が並行する当たりに高台があり、そこから見下ろした線路の正面に駒ヶ岳がきれいに収まる。当時のキネマ旬報社の雑誌「蒸気機関車」に載った写真が忘れられず、同じ列車、同じ写真を撮ろうと魂胆していた。ちょうど日の出前後、季節によっても光線が微妙に変化する写真的には絶好の時間帯に、C62 44の牽く「たるまえ」が通過した。
◆再び上目名へ。151km地点で撮る 昭和43(1968)9月11日
倶知安のニセコYHに3泊目のあと、普通列車に乗って、再び上目名を目指しました。想定外のブッシュの多さで撮影に難渋した前回の経験を生かして、前回よりさらに目名寄りの151キロ地点まで歩いて行きました。
▲上目名駅から約1時間歩いたところが151km地点、ここは周囲が急に開けて来て、右手にはちょっとした高台があって、ここだけブッシュもなく、難なく高台の上まで到達でき、目名方面へは高原が広がっているのが見える。開けているぶん、目名を通過するC62の汽笛あたりから聞こえてきて、それから数分間、ドラフト音がどんどん近づいてくるのが堪能できる。後志の山々を背景にして、カーブの向こうから、編成が顔を出した。
◆札幌、小樽築港、倶知安でC62を駅撮り 昭和43(1968)年9月10日
小樽築港機関区で撮ったあと、その日の午後は、千歳線で運転されたお召列車を鉄鈍爺さんと写し、その後も、開道百周年記念で道内各地で運転されたお召列車を写しながら、DRFCメンバーとともに、道北、道東を転戦、約10日後に再び夜行列車に乗って札幌に戻ってきました。
▲釧路発の夜行鈍行424レで札幌に到着し、約3時間ほど、発着する列車を写したことは、以前の「駅撮り一時間」で報告したとおりだが、その中に、急行「石北」を牽くC62 32の姿もあった。43・10以前のC62の運用は後述するが、夜間に札幌から旭川へ一往復「石北」を牽く運用があった(札幌22:00→旭川0:56 旭川3:36→札幌6:25)。北海道のC62の活躍ぶりは、函館や小樽といったところでは、現地へ行って理解できるようになったが、中央部の旭川までC62が足を伸ばしていたとは、それを実見した時にも、どうしても信じられなかった。
◆最初で最後のC62 30を小樽築港区で撮る 昭和43年(1968)9月1日
上目名で撮って、倶知安YHでもう一泊した9月1日には、C62のネグラである小樽築港機関区へ撮影に行きました。小樽築港は、C62だけでなく、当時、非電化の札幌周辺の客貨を受け持ち、9600、C57、D51など全部で55両が配置され、昭和43年車両配置表では、青森区に次ぐ、日本第二の蒸機配置区でした。さすがに訪問者が多いようで、事務所でノートに記帳すると、黄色のヘルメットが渡されるという用意周到ぶりでした。
▶ラウンドハウスの中は、煙が渦巻いていた。通常、扇形庫で、カマは顔を見せるが、東北・北海道の機関区では、防寒のためか、尻を向けるところが多く、小樽築港も同様で、庫に入ってしまうと撮りにくい。C62 30は、一ヵ月後のヨンサントオ改正による、C62運用の削減で、廃車されてしまう。配置のC62のなかでは、調子が良くなかったせいか、結局、同機を写せたのは、これが最初で最後となった。
◆上目名で上下の「ていね」を撮影 昭和43(1968)年8月31日
連投で失礼します。北海道へ渡って、真っ先に訪れたのが上目名でした。駅前には一件の民家すら見当たらない北海道の寒駅が、一躍“C62重連の聖地”として有名な撮影地になりますが、訪れた当時は、まだ撮影者も数人で、駅を降りると、駅員からお茶を出してもらい、一服してから撮影地に向かったものでした。上目名を有名にしたのは、「鉄道ファン」昭和41年7月号の北海道特集号のなかの黒岩保美さんのエッセイ「北の旅の魅力」でした。その文をノートに書き写して、イメージトレーニングを重ねて、上目名に降り立ちました。
▲前日、「ていね」に乗って倶知安に着き、YHで久しぶりにまともな食事・風呂が得られた。なにせ京都を出てから、夜行3泊&キャンプ2泊で、身体はヘロヘロだった。ゆっくりして、9時58分発の列車に乗って、上目名へ向かう。目指すは150キロ地点、黒岩さんも紹介された、上目名から1時間近く歩いたところ。たしかに連続20‰勾配で、右に左にカーブして、好適地に思えるが、一歩、線路から離れると、背丈以上の熊笹がびっしり繁茂し、完全にお手上げ状態、結局、犬走りからしか撮る余地がない。13時前、向こうのほうから、“ザワザワ”とした音が聞こえてくる。これが、あのC62重連のブラストなのだった。上り「ていね」C62 3+C62 44