東西会員交流旅行ご案内 Part4 天浜線 天竜二俣⇒掛川

翌日の10月28日は朝食後は解散、自由行動となります。藤本様が大井川鉄道訪問の行程表をPart2のコメントでご紹介していただいております。折角ここまで来ていますので関西方面からは中々行く機会が少ない大井川鉄道へ行かれるのもお勧めですが、天浜線の天竜二俣⇒掛川を撮影されるのも選択肢の一つです。紹介をさせていただきます。
▲ どちらにしても天竜二俣から掛川への移動の出発駅は気賀です。
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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【20】 秋編

草津線の蒸機列車

前回掲載の加太とセットで、草津線へもよく行ったものです。牽引するのは、亀山区のC58、D51と、加太で見るカマと同じで、見せ場となる勾配区間もないものの、草津線の魅力のひとつは、長編成の客車列車が朝夕にあったことで、貨物も日中に結構走っていました。京都からだと、まず草津線で2、3本を撮ってから、午後、加太へ向かう、と言ったセット撮影も可能でした。しかし、加太がある関西本線亀山~奈良の蒸機の廃止より、一年早い昭和47年9月限りで蒸機は姿を消しました。DL化直前の草津線には、朝夕を中心に4往復の客車列車があって、線内は亀山区のD51が牽いていた。うち3往復は京都発着で、通勤時間帯は、写真のように客車10両編成だった。この時代、ほかの線区でも蒸機の牽く旅客列車は残っていたが、これほどの長編成は、なかなか見ることができなかった(726レ、石部~三雲 昭和47年9月)。

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東西会員交流旅行ご案内 Part3 天浜線 天竜二俣⇒新所原

天竜二俣駅で機関区・車庫を見学した後は豊橋側の東海道本線と接続します新所原へ始発列車に乗車して向かいます。乗車距離は41.5㌔、乗車時間は1時間20分です。
天竜二俣 14:42⇒16:02 新所原

▲ 14:42 再び列車に乗ります。乗車率はご覧の通りガラガラ状態です。
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わらくろやツアーin鹿児島

マルーン会長を鉄道界の“漢(おとこ)”にしようと始まった旅もついに九州は鹿児島まで来ました。

今回は初めての二泊三日の豪華旅。わらくろや社長の渾身の企画です。
10月9日
新大阪発9:17さくら549から始まりました。四人一組のセットですから一ヶ月前に指定席をそれぞれが一斉に買わねばなりません。10時に窓口に並ぶようにするのですがこれが難しい!私は京都駅みどりの窓口で並び、ちょうど10時に窓口にたどり着きましたが社長から指定された5号車は全席売り切れ(というより修学旅行用で)。あわてて社長に電話したら「4号車で同じ座席をとれ」とのことで無事購入完了。後の三人にも社長から電話で指示。なぜかわらくろや旅行社はキップをとらず、各自でとる方式です。リベートをくれないところには冷たいらしい。
鹿児島へ13:31着後、なぜかソフトクリーム店へ強引に連れ込まれ、知覧茶の抹茶ソフトを全員で購入します。どうやら社長はサイダーをやめてソフトクリームに乗り換えたようです。そういえば前回の津山でも津山城でソフトクリームを我々に買わせて、自分は「岡山名物の桃ソフト!」と言って食べたうえ、さらに売店のお姉ちゃんにヒソヒソ話したと思ったらバニラソフトを舐めていました。

その日は南薩鉄道の特急バスで枕崎へ。
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東西会員交流旅行ご案内 Part2 天浜線 天竜二俣駅

下見は青春18きっぷが使用できる7月末とぶんしゅう8号に乗っての9月初旬の2回にわたって行いました。天浜線は2回を総合してご案内させていただきます。▲ 天浜線(天竜浜名湖鉄道)の路線図です。元々は掛川~恵奈の遠美線として計画されましたが、浜名湖を横断しないという軍事上の理由から東海道本線掛川~豊橋のバイパスとして建設されました。
1935年(昭和10年)4月17日 、二俣線 掛川~遠江森{現;遠州森  12.9㌔) が開業、徐々に西へと延伸されて 1940年(昭和15年)6月1日 に掛川~- 新所原(67.7㌔)が全通しましたが運行間隔はDC単行での2時間ヘッドでした。
赤字が続き1987年(昭和62年)3月15日 には国鉄二俣線としては廃止されて以降は第三セクターとなりました。

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東西会員交流旅行ご案内 Part1 遠州鉄道

ようやく秋らしい日々が訪れました。今年の東西会員交流会旅行があと2週間となりました。参加される会員の皆様方はそれぞれ往路・復路のご予定を検討中かと思っておりますのでご参考になればと下見をしてきました現地状況をご報告させていただきます。

▲ 今回訪問します遠州鉄道天浜線(天竜浜名湖線)は、私にとっては恥ずかしながら初めての訪問です。写真など撮ってはいないと思っていましたが先日昔の写真をスキャンしていましたら一枚、昭和45年の遠州鉄道新浜松駅のカットが見つかりました。現在の新浜松駅は1985年(昭和60年)12月1日 に南西のJR駅構内跡に移転高架化されていますので地上駅時代の貴重なカットです。車両も2018年(平成30年)4月に廃車となった30形です。
2017年度の一日平均の乗降客数は16,099人、ちなみにJR浜松駅は74,516人(新幹線含む)です。 続きを読む

 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【18】 秋編

山陰本線を行きつ戻りつ

前記の山陰本線の三見~飯井での撮影に続いて、何ヵ所か海岸沿いで撮影をしたり、三江北線、木次線に寄ったり、均一周遊券ならではの旅を続けました。昭和も46年になると、“SLブーム”は頂点を迎え、それを狙った出版物も多く出るようになります。撮影地でよく見掛けたのは、鉄道ファン臨時増刊の「撮影地ガイド」で、撮影地と列車ダイヤも載っている、まさに撮影向けの本でした。昭和44年、46年に発行され、ボロボロになった本を抱えた高校生・大学生をよく見掛けました。いまと比べると、情報源も限られていた時代で、コピーをするにも一枚が何十円もして、本をまるごと持参したものでした。三見から石見益田へ、乗り換えて岡見で下車した。ここは、三見のような穏やかな海岸ではなく、険しい岩礁が続いている。まずは、DF50537の牽く829レを撮影。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【17】 秋編

ウワサの伯備線へ

標記のシリーズ“秋編”をしばらく続けます。われわれの現役時代は、9月中旬からやっと後期の授業が始まりましたから、じゅうぶんに“秋”を感じながら、夏休みの撮影旅行を終えたものでした。当時、席巻していた“SLブーム”の象徴が、D51の三重連が見られた伯備線の布原信号場でした。信号場から鉄橋までのわずか数百mの区間に、全国が集まった“マニア”が集結しました。正統派を自認(?)していた私は、“にわかの聖地”には、絶対に行かないと決めて、近づかないようにはしていましたが、「話のネタ」にと、やっと腰を上げたのが、昭和46年9月でした。岡山から入った伯備線は初乗車だった、高梁川に沿う区間では、何度も対岸へ渡る鉄橋が続き、ガーダー橋が多く、撮りやすい区間だ。井倉~石蟹に掛かるガーダーは、渡らずの鉄橋で、対岸から編成をうまく入れられる。D51の牽く客車列車もあったが、まずはカラー映えのするDC列車にカメラを向けた。20系よりも10系が多く、岡山近辺のため、長編成も多かった。

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福塩線下川辺駅について

JR福塩線は福山から府中までの23.6Kmは両備軽便鉄道によって建設され、府中から塩町までの54.4Kmは国鉄によって建設されたという歴史はご存知の通りです。福山・府中間は電化されていて列車本数も多いのですが、府中・塩町間は非電化で6往復しか設定されておらず、主な利用客は高校生であり、三江線と同様に廃止が取り沙汰されている線区です。さてその非電化区間、府中の次の駅が下川辺駅です。

2019-10-5 下川辺駅

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 ふた旅 めぐる旅 東北編 ⑦

奥津軽いまべつ

このテーマの最終回として、北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅のことを採り上げました。3年前の新幹線開業時にできた駅であり、“ふた旅”ではなく、初見参の駅でしたが、その複雑な歴史や駅構造、隣接する津軽二股駅のことにも触れてみることにします。

奥津軽いまべつ駅は、今でこそ、北海道新幹線の駅ですが、この駅ができたのは、1988年に津軽海峡線が開業した時であり、当時は「津軽今別」と称していました。多くの特急列車や長大な貨物列車が通るため、対向式のホーム長のある駅でした。

現在の奥津軽いまべつに到着する「はやぶさ」。一日の発着本数は上下14本、一日平均の乗降人数は66人で、新幹線駅のなかでは最も少ない。3年経っても、見物目当ての客のほうがが多く、私もみどりの窓口で収集目的で観光入場券を買うと、駅員から“もうすぐ列車が来ますから、見ていったらどうですか”と勧められ、ホームに入場した。本州にある、唯一のJR北海道の駅で、すべて北海道仕様の駅だった。

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 ふた旅 めぐる旅 東北編 ⑥

秋田

五能線で18きっぷ乗車を楽しみ、東能代から乗り換えて、秋田まで来ました。あとは、夕方の伊丹便までの数時間を使って、秋田駅の今昔対比と、男鹿線の初乗車をすることにしました。新幹線開業後の秋田駅で、乗り換えたことはあるものの、駅の内外をゆっくりするのは初めてのことでした。駅舎は橋上駅になり、裏手にあった機関区もすべて無くなり、一見して大きく変貌したように見えますが、新幹線は、高架の新設駅ではなく、在来線ホームの半分を使って発着していますから、構内の配線だけは以前と変わらず、50年前に見たシーンがそのまま残っていました。

撮影した昭和43年9月は、まだ秋田まで電化が到達しておらず、列車もほとんどが蒸機牽引で、DLは少数だった。2番ホームから、酒田発男鹿行き1137レが発車するところ。この列車は、秋田をスルーして羽越本線から男鹿線に入る珍しい列車。秋田まではD51牽引だが、男鹿線に入線できないので、C11 144〔秋〕に交替するが、切り欠き式のホームのため、有効長が足らず、C11は半分がホームからハミ出している。

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 ふた旅 めぐる旅 東北編 ⑤

五能線を旅する

五所川原を7:58発の3524Dに乗って、東能代まで約3時間の18きっぷの旅に出ました。空は快晴、岩木山も秀麗を見せ、まもなく日本海に沿って走ります。五能線は、そのものがメジャーな観光地になっていて、観光用のリゾート列車も賑わっていると聞きます。さすがに普通列車までには及ばず、車内は、地元の乗客、高校生でちょうど埋まる具合、と思っていたら、途中の千畳敷や鰺ヶ沢から、観光客がどんどん乗り込んできて、数駅だけ乗っては下車して行きます。どうやらバスツアーで、数駅だけ五能線に体験乗車し、先回りしたバスに乗車というコースのようです。
途中で首尾良く、キハ40系特有の二人掛けの座席を確保、個室感覚で、誰に気兼ねもなく、窓を全開して、ナマの風を入れて、要所では身を乗り出して、撮影を楽しみます。普通列車の一人旅の良さをしみじみ感じる時でした。 五能線は何度か乗車しているが、天候には恵まれず、今回、初めて青空のもとを走った。いまや窓を全開して、走り去る車窓を思い切り写せる車両も貴重になった(追良瀬~広戸)。

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 ふた旅 めぐる旅 東北編 ④

五所川原

野辺地からは、青森→三厩→津軽二股→津軽中里→五所川原とJR津軽線、路線バス、津軽鉄道を乗り継いで五所川原まで来ました。五能線の五所川原も思い出深いところです。最近も、津軽鉄道と絡めたり、観光旅行の途次に、何度か訪れています。数年前の冬に行った時は、保存したデジカメデータが、ハードディスクのトラブルに巻き込まれ飛んでしまい、すべて消えてしまうアクシデントもありました。やはり、思い出に残るのは、まだ8620が走っていた50年前の五所川原です。今とは違う、熱気、賑わいが感じられる時でした。
昭和47年2月、訪れた五所川原には、雪が降り続いていた。向こうの島式ホームで列車を待つ乗客の姿も、視界が定かでなくなってきた。間に置かれた植木鉢に積もる雪がアクセントになった。

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 ふた旅 めぐる旅 東北編 ③

野辺地

三陸鉄道に乗り、久慈からは、西村さんと一緒に「リゾートうみねこ」編成、キハ48 1500代車に乗って八戸へ着き、青い森鉄道に乗り換えて、野辺地に着きました。ここで大湊線に乗り換えるのですが、野辺地にも格別の思い出があります。かつて南部縦貫鉄道が、東北本線の旧線跡を利用して、野辺地に発着していました。昭和47年2月丸っこいレールバスを写そうと来たところ、何としたことか、時刻表を読み違えて、レールバスは出発したあと、その次は数時間後の発着で、泣く泣く野辺地を離れたことが今も心に残っています。結局、南部縦貫のレールバスは、乗ることも撮ることなく終わってしまいました。ホロ苦い思い出の残る野辺地で、定点対比はできなかったものの、新旧の写真で思い出を綴ってみることにします。
朝の野辺地駅、乗換の列車を待っている間、つぎつぎに貨物列車が通過して行った。いまは、第三セクターとして、旅客列車が走っているものの、ここは、北海道への重要な貨物路線であることを改めて感じた。車窓からも、かつての東北本線の輸送時代を偲ばせる、強固で雄大なインフラが見られた。駅名標は、青い森のデザインに、JR大湊線を付加したスタイルだった。

 

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 ふた旅 めぐる旅 東北編 ②

陸中山田

今回、三陸鉄道の「トレランス」乗車では、前掲の大槌のほかにも、定点対比したい駅がありました。リアス線に乗って、大槌から5つ目の陸中山田駅であり、50年前、列車で通った際に、交換列車を撮影していました。東日本大震災の時、山田の被害は甚大で、津波だけでなく、その後、大規模な火災が発生して、街を焼き尽くしたと言います。昭和47年2月、山田線の急行「陸中」に乗車し、大槌に停車したあと、つぎの停車駅、陸中山田で636Dと交換する。陸中山田は、山田線の語源となった駅だけに、この地方の中心で乗降も多い。交換列車は、盛岡発花巻行きで、当時は、山田線・釜石線を通しで運転する列車が多かった。今なら、何本の列車にも分割されてしまうが、250kmを7時間掛けて運転されていた。先頭キハ22 292ほかの6連で、列車本数は、いまの三陸鉄道とほぼ同じだが、いかに輸送量が多かったかが分かる編成だ。北海道向けの寒冷地仕様のキハ22は、一部東北にも配置されていて、この盛岡区所属が南限のキハ22だった。

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駆け足の八戸旅

去る8月25日に佐竹大先輩主催の三陸鉄道「トレランス10号」ツアーに便乗させて頂き、大槌から久慈まで三鉄旅を楽しませて頂きました。久慈で一行と別れて、JR八戸線を北上し、私は本八戸で下車、青信号特派員氏はさらに八戸から大湊へ向かわれました。私は八戸で1泊し、翌26日に三沢空港から帰路につく予定で、約半日余りをレンタカーで八戸近辺を回るプランを立てていました。そのメインは八戸臨海鉄道の撮影でした。

まずラッキーなことに、八戸で泊まった八戸プラザホテルの6階の部屋からは、丁度本八戸駅と八戸線を見下ろせて、何の苦労もなく行き交う八戸線列車を撮ることができました。

本八戸駅で426Dと交換し 鮫に向かう1427D E131-506

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 ふた旅 めぐる旅 東北編 ①

佐竹さん「トレランス」乗車をメインに、東北地方を巡ってきました。久しぶりの長期の旅行となりましたが、“古稀”を迎えた今、鉄道旅行のスタイルも変えざるを得ません。身体の続く限り、“生涯現役”の心意気ですが、昔のように、歩き回ってガンガン写しまくる撮影中心の強行軍は、さすがに無理になったと言うか、そこまでして撮りたい車両・列車も見当たらなくなりました。そこで、「今昔対比を一人でできるのが老人の特権」の格言(?)を活かし、今回も、50年前に訪れた同一地点を訪れて、変貌ぶりを確認する定点対比と、そして、この歳になって、急に目覚めたJR全線乗車を“18きっぷ”で達成したい思いを持って、東北へと向かいました。

釜石
昭和47(1972)年の国鉄釜石駅、駅前に出ると、当時の新日本製鐵釜石製鉄所の巨大な煙突が聳えていた。駅の真ん前に、こんな煙突・工場があるのも、“鉄の街”釜石ならではの光景で、思わずカメラを向けたことを覚えている。釜石製鐵所は、日本最古の製鉄所で、最初は官営で1880年に創業を開始した。

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 「TOLERANCE 10」 大槌を行く!

今回、「TOLERANCE」に乗車の目的は、参加者とともに被災地や鉄道の復興に思いを馳せることでしたが、私にとっては、もうひとつ大事な目的がありました。「大槌で新旧の定点対比をする」ことでした。大槌は、佐竹さんが大槌川を渡るC58の列車を撮られた場所であり、私も乗った急行列車の窓から交換する列車を写した駅でした。さらに、客車廃車体研究家の井原さんにとっても、高台からC58貨物を撮られた場所と、クローバー会会員には思い出の地であり、この3点の写真は、第三回クローバー会写真展「忘れない。東北-思い出の鉄路を巡る-」でも展示されました。
今まで大槌の訪問は、山田線の不通で、バスに頼らざるを得ず、「TOLERANCE 8」で大槌を訪問した際も、貸切バスの窓から、橋脚だけの大槌川橋梁や被災した大槌町庁舎を眺めるだけでした。今回のツアーでは、8年ぶりに鉄道が再開され、鉄道に乗って、自分の足で歩いて、大槌の現在を確かめることができました。高台から見た大槌の街、中央が新しくなった三陸鉄道の大槌駅、背後ではまだ防潮堤の工事が続いている。街は、全体がかさ上げされたが、かつての山田線の大槌駅もこの場所にあった。50年前にこの場所で見たものは‥‥。

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 「TOLERANCE 10」 三陸鉄道を走る!

お馴染み、「TOLERANCE」の青いヘッドマークを掲げた貸切列車が、三陸鉄道の真新しい軌道を走り抜けました。東北への思いを寄せられている山科の人間国宝こと佐竹保雄さん、ことし3月、JRから移管されて新しく開業した釜石~宮古を含む三陸鉄道の全区間を、貸切列車「TOLERANCE 10」で走り、参加者約30名は、車窓から沿線の復興ぶりも確認しながら乗車を果たしました。
大槌駅で参加者が待ち構えるなかで、ホームに進入する「TOLERANCE 10」、車両は“レトロ車両”の36-R1号、茶色の塗装に青いヘッドマークがよく似合った。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【16】

ボンネットバスの本場を行く

前記で触れたバス撮影とは、熊本県下に路線網を広げている九州産業交通のボンネットバスの撮影でした。昭和50年代前期は、少数ながらも、全国の路線バスでボンネットバスがまだ走っていました。なかでも“産交”の略称で呼ばれる同社には、天草などの島や山間部に、全部で30台前後のボンネットバスがあって、当時は、日本一のボンネットバスの保有会社でした。一部は熊本市内にも堂々と営業車として出入りしていて、前々記の北熊本駅付近でも、市電を撮っていても、突然、姿を見せて走り去ることが往々にしてありました。当時は、ボンネットバスに熱を上げていて、市電を撮影していて、ボンネットを逃したことを大いに悔やんだものでした。
前記で述べた宮原線の終点、肥後小国の駅前に、九州産業交通の小国営業所があり、ここにもボンネットバスが2、3台いた。そのなかで、注目すべきは、トヨタのボンネットがいたことで、特徴ある前部を見せて車庫の中で休んでいるのを見つけて大喜びした。トヨタのボンネットバスは、移動電源車や電電公社の業務用のバスの製造例はあるが、営業用としては極めて珍しく、あのトヨタ博物館でも1台だけが保存されている。

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