【11434】ユースで巡った鉄道旅 -3-

厳寒の北湯沢ユース

厳しい寒さが続いています。Tsurukameさんに習って寒さに関する一件を。

冬の北海道へも、学生時代、ユースを利用して何回か訪れたことがあります。ただ、冬と言っても、授業・試験はちゃんと済ませてからになりますから、すべて3月の訪問でした。1・2月と比べると、多少はマシになっていますが、内地から来た人間には、まだ寒さがこたえます。

昭和46年3月、本掲示板でも活動されている西村さんや、津田さんと一緒に渡道し、その日は北湯沢ユースホステルに泊まりました。北湯沢と言っても、ピンと来る人は少なくなったかも知れません。昭和61年に廃止になった胆振線にあった駅です。伊達紋別から乗車時間約50分、倶知安から約1時間40分程度の距離にあり、駅のすぐ近くに北湯沢ユースホステルがありました。胆振線が廃止されてからは、ほとんど顧られることもなくなりました。

内陸部にあって、とにかく寒かったことを覚えています。朝、ユースの寒暖計を見ると、-15℃を指していました。厳冬期に-30℃以下まで下がる北海道としては、屁のような気温でしょうが、私が実際に寒暖計で確認できた気温としては最低気温でした。

寒かったことだけは覚えていても、ユースの印象は全く残っていません。ネットで調べてみると、ごく最近まで営業を続けていたことが分かりましたが、今は休業となっていました。

ここでの目的は、倶知安区の二つ目玉の9600を撮ることだった。朝飯前にちょうど貨物列車がやって来るので、起床後すぐに、みんなで駅へ向かった。新雪も多く、遠方へ歩く気力もなく、駅近くで日和るしかなかった。寒気を震わせるようにして、二つ目玉を輝かせた9600が通り過ぎて行った。

北湯沢駅の外観。当時運転されていた急行の停車駅でもあり、交換設備もあって、ローカル線の駅としては、そこそこ賑わいのあった駅である。上記の9600貨物を撮ったあと、ユースへ戻って朝食をとり、キハ22単行で、C62重連を撮るべく倶知安へ向かった。

倶知安へ向かう途中、御園駅でのカット。乗った列車の前に、キハ22が増結されるシーンだ。当時、北海道のDCは、途中駅での増結・解結が頻繁に行われていた。極端な例になると、始発を単行で発車したのに、交換駅ごとに、1両ずつ増結し、終点に着いた時には、4~5両になっていることもあった。少ない気動車をやり繰りし、両運のキハ22ならではの運用だが、よく要員も確保できたとの思いが強い。しかも、交換列車から解結して、反対列車に増結するという離れ技で、そのため、増・解結に費やす停車時間のロスも多かった。

 


【11377】雪景色(1)奥羽本線矢立峠・秋田県側

  今冬は各地で積雪が多いようです。ところが大阪湾に面した地域、兵庫県南西部、大阪府では滅多に降らないし積もらない。わが街でも今冬まだ雪を見ていません。この現象は昔も同じで、雪見たさによく雪国へ出掛けたものです。
 
拙著HP(ホームページ)にも、初期の作である奥羽本線を始めとする雪景色のページがあるのですが、これらはページを改良する必要があります。スタイルが現在の標準と異なり写真の数も少ないのです。時刻表やダイアグラム、古い地図の掲載もありません。改良の準備で、新たに写真やダイアも用意しました。先にデジ青でもご覧ください。
 
暖かい部屋でネットを楽しんでいる皆さん。眠気を少しは覚ませるように、寒くて冷たい画像をお届けします。筆者の暖かい配慮に感謝しながらご覧いただければ幸いです。 

(画像をクリックして、大きな画面でご覧ください。)

 奥羽本線の難所のひとつが矢立峠です。大館から弘前までの44.2kmの内、大館から順に10‰、14.7‰と上りこう配が続き、陣場矢立峠間は25‰です。この難所も1970(昭和45)年11月に矢立トンネルが完成し陣場、津軽湯ノ沢駅も場所を移動して一直線の新線に付け替えられました。さらに翌年には電化と一部複線化もでき、難所が消え去りました。
 (なお余談ながら、この地図からは、大鰐・碇ヶ関・陣場・白沢各駅から沢山の林用軌道が施設されていたのが解ります)

   1965年当時の牽引機はC60(客車用)、稀にC61(客車用)、DF50(急行「日本海」、急行「第12津軽」、客車)、D51(貨物用)、補機はD51(弘前、大館機関区)でした。

 列車には下り及び上りの旅客、貨物ともに陣場-碇ヶ関間でD51の補機が付きます。長大貨物には大館から、さらに陣場からも付きますのでダブル補機です。碇ヶ関からの上り列車にはダブル補機が偶に見られました。急行「日本海」の牽引はDF50ですが、下りは大館から、上りは大鰐からD51補機が付きました。急行「第12津軽」に補機は付きません。

珍しいC61【仙】牽引の客車です。激しい吹雪の中でした。

 補機の方向転換は行われず、常に大館向きですから、矢立峠の下り列車は逆向きで後押しして峠を上ります。ダブル補機も同様です。C605の牽引とD51の補機で、客車列車が通過しました。

貨物は牽引・補機共にD51でした。これは短い編成です。

長大貨物には、大館から、陣場からさらにD51補機が加わります。トップと合わせればD51三重連です。

 

陣場駅舎の屋根は内も外も立派なツララでした。

 峠に矢立温泉があり、奥羽線鉄橋下の雪深い谷間にひっそりと眠っているようなたたずまいでした。画面上部と左端に見えるのが、それぞれ鉄橋と橋脚の一部です。1965年の大晦日の泊まりはここでした。真っ赤な鉄泉の為、手拭は旅館のものを使い、重くて長細い板でできた湯船の蓋を一枚ずつ捲って入浴した記憶があります。
 部屋の窓から鉄橋を行く列車が良く見えました。撮影したのですが窓枠が邪魔でうまく撮れませんでした。
 翌日
1966年の元日は、矢立峠の青森県側で撮影です。


【11395】ユースで巡った鉄道旅 -2-

宿泊第一号ユース

下関にある火の山ユースホステル、これが記念すべき第一号ユースでした。時は昭和42年3月、ウラ若き高校2年生にとってドキドキの一泊でした。

2週間に及ぶ九州一周旅行の最初の宿泊地で、当日は新大阪から急行「つくし」に乗り、糸崎区でC59・C62を写し、広島から夜行で初めての九州入り、若松・門司区で写したあと下関に戻り、まだ走っていた山陽電軌で御裳川(みもすそがわ)まで行き、山手にある火の山ユースホステルへ向かいました。

公営のユースで、設備・食事は申し分なし。さすがに高校生の一人旅にとっては、ユース名物のミーティングに参加する勇気もなく、ベッドの中で小さくなっていました。屋上から見ると、関門海峡を行き来する船舶の光跡が美しく、三脚で夜間撮影したことは覚えていますが、この頃は、国鉄型にしか興味がなく、乗車した山陽電軌の写真は全く写していないのが悔やまれます。検索すると、火の山ユースホステルはまだ営業を続けていることが分かりました。

 

直流電化の西端駅、下関はさまざまな列車が交錯する結節点として賑わっていた。午前7時、クハ181のトップナンバー車を先頭にした「第一しおじ」が、多数の見送りを受け、新大阪へ向けて発車するところ。東海道新幹線の開業で、151系が大挙して山陽本線に移り、一時はその181系がED73に牽かれて交流区間の博多まで乗入れしていたが、その後、交直両用の481系ができて181系乗入れは中止されている。下関を始終点とする特急は「しおじ」2往復だけにはなっていたが、客車列車は、必ず機関車の交代があり、下関の比重はまだ重いものがあった。

 

当時の下関には、こんな旧型国電も発着していた。下関発宇部線経由の小郡行き2958M、クモハ12024+クモハ41083+クハ16418という、宇部新川電車区の17mロングシート車・20mクロスシート車の混成編成だ。山陽本線を直通せず、宇部地域の中心駅である宇部新川を経由する列車で、現在でこそ、このような設定はないが、最近まで、同様の経由の列車は九州内から発着する421系電車などで残っていた。

 

山陽本線からC59・C62などの大形蒸機は消えてから久しいが、下関ではまだ蒸機が見られた。それは、山陰本線の客車列車を牽く長門区のD51で、とくにラッシュ時はまだD51の牽く客車列車が幅を利かせていた。下関発長門市行き842レ、D51692〔長〕。左は久留米発下関行き236M、クハ421-77ほか。


【11372】ユースで巡った鉄道旅 -1-

昨年末になりますが、地元の新聞で気になるニュースを見つけました。京都にある東山ユースホステルが廃業するという記事で、利用客の減少と建物の老朽化を理由に、40年の歴史を閉じると結んでいます。記事によると、現在、ユースホステルは258軒、会員数6万人、利用客は年間47万人ですが、ピークの昭和47年には585軒、会員63万人、利用客は340万人にも達していたと言います。

昭和47年といえば、ちょうど特派員の大学生時代と重なります。確かに、その当時、大学生の旅行と言えば、ユースホステルしか選択肢はありませんでした。休みともなれば、猫も杓子もユースを使った観光旅行、ユースはすぐ予約で満員になり、ハガキで申し込んでも断られることが多く、スケジュール作りに難渋したものです。

ユースが満員だったり、近くになかった場合、止むを得ず駅前旅館に泊まったこともありますが、高い、汚い、まずいで、いい印象は全くありません。片やユースは、一泊二食で公営450円、民営550円という、考えられないような破格の宿泊料ながら、一部を除いては、設備・食事とも十分に満足がいくものでした。

学生時代といえば、全泊夜行という猛者もいましたが、特派員は体力的な自信がなく、夜行は最大でも連続3泊までとし、その間は必ずユースに泊まるようにしていました。

思い返せば、高校生から始まって社会人に至るまで、実に多くのユースホステルを利用したものと改めて思います。北から南まで、夏も冬も、ユースを基地にして写しまくった若き日々を、写真とともに少し思い返してみましょう。

ユースに一泊するたびに会員証にスタンプが押される。今も大事に残している会員証を見ると115泊していることが分かった。100泊記念にもらえるバッジも大事に残している。カメラは、その当時の愛機、アサヒペンタックスSV


【11368】阪急202の初期写真、また発見

御大が発表されてからの後出しで恐縮ですが、こちらにも阪急202号の初期の写真がありました。こちらは、大阪の古老ファンのアルバムから複写させてもらった中にありました。
やぐらを組んだ上に宙に浮いた運転台、側扉もなく、どうやって乗務員は出入りしていたのでしょうか。
出自は、初代202の機器を利用しての昭和2年川崎兵庫製、昭和17年に、関さんの絵に見られるスタイルに改造されたようです。その後、昭和36年に作業員室を増設(関さん言うところの避難室)され、昭和43年の昇圧時には、作業員室が車体の半分近くまで拡張されました。その間に、3202、4202と改番されています。
末期は、昭和49年京都線に転属、昭和52年廃車とピク阪急特集には記載されており、関さんの記述とは異なります。


【11360】阪急202号

関さんのシリーズは、ますますマニアックになってきました。

こんなのを見たことがあるようなないような、でも前週の南海のデト11の兄弟とか。二回の改造後の姿だそうですから最初の形は、デトと同じだったのでしょうか?写真を持っている人は見せてください。でも持っているとすれば長老様か藤本さんぐらいかも。


【11354】半世紀前の淡路交通(4)

1965年4月28日~29日にDRFC恒例の新入会員歓迎旅行が四国・淡路方面で開催された。入会して始めての行事参加であり、緊張しながら京都21時35分発645レ宇野行き夜行に乗った。当時は国鉄大型蒸機に夢中になっており、何でC58と気動車王国の四国や田舎電車の淡路に行くのか多少不満であった。しかし、今になってみるとよくここを選んでくれたと感謝したい。前回の淡路交通(3)でカラー写真を掲載されている大阪通信員さんと同じ写真があるので、おそらく通信員さんが選び、新入会員を引っ張っていってくれたものと思う。宇野から宇高連絡船で高松に渡り、高松5時25分発125レで阿波池田に向った。DRFCは日頃から行いのいい人ばかりで終日雨。池田の駅前大衆食堂で朝食後、8時47分発324レで徳島に向う。徳島で8620を撮ったりしているが、それから先は鳴門に出て船で福良に着いたはずだが、記憶が無い。淡路交通ではFさんが列車交換する毎に対向する車両を撮っていたが、雨の中を周囲を気にせず「窓を開けてくれ」と言うのを軽蔑の眼差しで見ていたことを覚えている。宇山車庫では数枚撮影したのみであるが、一部掲載させていただく。宇山の後も21時頃に神戸に着いたがその間全く記憶にない。その後、島の電車は再訪してでも記録しておけばと悔やんでいるが、あれもこれもできないのでせめて見た、撮ったでもいいとしよう。

1965.4.29 宇山 台車に群がるDRFC参加メンバー

今は第一線から引退されている方もおられるが、今尚毎回飲み会に顔を出される方も見える。

 

1965.4.29 宇山 2007

ご説明によるとキハニ6→モハニ2007(1948.9)ということですか。台車が電車タイプではないので元キハニは何となくわかりますが。

 

1965.4.29 宇山 元阪神609+610

乙訓の老人さんが2度撮られた阪神電車。同じ車両を譲渡先等他の場所で再び撮るのは感激ものですね。ところでこの車両が阪神で活躍していた頃のダイナマイト打線は別当、藤村、土井垣で真っ黒なユニホームを着た時代もあったと思います。古い話で恐縮です。


【11323】「堺まつり」のデト11

昭和50年10月19日のこと、何を思ったのか、朝から阪堺線の撮影に出かけた。新今宮→南霞町から阪堺線に乗り住吉で下車。交差点で何枚か撮影後、我孫子道まで来たところ、反対側のホームにデト11の花電車が停車しており急遽下車して撮影。次の電車で大和川を渡って堺市内に入り宿院で下車して撮影した。
この日が「堺まつり」であったことは全く知らずラッキーであった。当日は東湊~住吉間の臨時を含めて増発され終日賑わっていた。

【デト11】
関さんが書かれておられる通り、昭和27年足回りや機器類は旧車の余剰品を流用して帝国車輛で新製されている。この手の車両は実用一点張りのものが多いが、丸味を帯びたフロント等しゃれたスタイルで、さすが南海と言ったところである。関さんが描かれた当時と比較すると、テールライトがトンガリ帽子形から普通のガイコツ形に取り換えられる等多少の変化がみられる。平成12年に廃車となったが解体はされておらず、車庫の一般公開時に見ることができる。

 

【東湊~住吉間の臨時電車他】
東湊~住吉間の臨時電車は「堺まつり」の他正月にも運行されていた。当時は乗客が多く、全車ツーマン運行で広告電車も存在しなかった。ワンマン化は上町線(我孫子道入出庫系統を含む)が昭和51年7月1日、阪堺線は昭和54年10月1日であった。

 

 

350形と500形は系統幕があり、阪堺線は「い」、上町線は「ろ」、平野線は「は」を表示していたが、他形式にはないため、あまり意味はなかった。

【たまにはバス】
泉2あ5525(42年式RB10)
エンジンは日野、車体は川崎のレアな組み合わせの元中1扉(引戸)ツーマン車のワンマン改造車。中扉を廃止して、扉と戸袋部分を窓にして前後に扉を設置したため、このようなスタイルになった。同様の改造車は大阪市バスにも存在した。中1扉ツーマン車の前後扉ワンマン改造車は阪急バス、京都バス、京都交通等にも存在したが、中扉を締切りその部分に座席を設置しただけで、ここまでは手を加えていない。

 

泉2あ5225(43年式BT100)
エンジンが床下にあるため、後部のデットスペースがなく後扉が車端に設置されている。ホイルベースが短く、非常口が後部中央にあるタイプ(BT51、BT71)はローカルバスを中心に相当数存在したが、写真のタイプになってからのものは少なく、関東では東武バス、群馬中央バス、上信電鉄、関西では南海電鉄以外では大阪市バス位かと思われる。大阪市バスはこのタイプが好きで昭和50年まで導入されていた。また、近鉄バスには特注のジャンボタイプが存在した。全くの余談であるが上信電鉄の車両は元大阪万博会場内で使用されていた。廃車後自動車愛好家に引取られ京都府下の某所で保存されている。


【11293】JR西日本の柿の木

 JR西日本神戸線、立花駅西方500m付近。
一本の柿の木があり、実をいっぱいつけていました。2m程離れた別の木は、
フェンスの内側ですが、この木は、フェンスに接して外側でした。
でも、間違いなく敷地内で、JR西日本の柿の木です。
昨年末12月19日でした。

1月20日再訪しました。実はすっかり無くなっていました。
スズメや小鳥が頂戴したようです。