須磨老人も撮っていた

京王帝都電鉄の、半鋼製のくせにダブルルーフのださい電車は、この電車あんまり好きでない老人もなぜか撮っていた。場所は新宿甲州街道併用軌道。扉はプレスドアになっているが、トルペードベンチレーターがしっかり残っている。先頭車の番号は2153である。こうしてみると、ダブルルーフの方が格段に格好いいですな。

元京王電車2110

本日工場入りして検査終了。米手作市様より迷図作家関三平様のシリーズで京王電車2110型がとりあげられた。私が関東に住むようになった時には京王線は既に1500Vに昇圧しており、昇圧前の戦前製の車両はサハ化された車両と元2400型の221型くらいであった。今回とりあげられた2110型の特に後の「たこ坊主」と言われた戦災復旧車は庄内交通鶴岡で撮っている。雨宮製作所製京王電軌119→東急・京王デハ2119→庄内交通モハ7で、ご覧のとおりパンタを降ろした粗悪写真で恐縮であるが、どなたも写真投稿がなかったので敢えて掲載してみた。米手様ご期待の「たこ坊主」にしては平凡な復旧車に見える。京王には他にもっと凄いと言おうか屋根の深い不細工な復旧車が居た。

                 1972.03.21鶴岡 2枚とも

 

 

ユースで巡った鉄道旅 -15-

前回紹介の奥中山ユース、こんな不便極まりないユースに泊まったのは、特派員以外には絶対にいないと確信していたところへ、米手作市さんが泊まったとコメントを寄せられたのには驚きました。同じような体験をされ、しかも数回に渡って宿泊されたとは、恐れ入った次第です。さて、蛾が乱舞する汚いバンガローで泥のように眠った翌日は、絶好の天気。体力、気力とも十分に回復して、高原頂上のユースを出発します。途中、止まってくれた耕運機の荷台に便乗して駅近くまで行き、本日の狂化合宿地、龍ケ森へと向かいました。

奥中山から146レに乗り、好摩へ。途中、御堂で下り臨時急行「第2おいらせ」と交換する。東北本線はほとんどが複線化されていたが、沼宮内~御堂間のように単線のまま残っている区間もあり、このような上下列車の交換がまだ残っていた。電化開業を前にしたこの時期、優等列車はほぼEL・DL牽引だったが、「第2おいらせ」だけは蒸機牽引で残っていた。牽引はD511113〔尻〕+C6013〔盛〕と、盛岡以北の客車牽引の標準的な組合せであった。続く客車は臨時ながらも10系客車で編成されていた。本務の機関助士がキャブから乗り出すようにして、誇らしげに通過して行った。左は乗車の146レ

狂化合宿は龍ケ森を舞台に2日間に渡って行われ、その後、再びDRFCのメンバー4人とともに、奥中山へ戻ってきた。最後を見届けたかったのと、本日は特別な列車が走るためであった。三重連は今日も何本か見られた。あいにく天気は下り坂で、もう吉谷地カーブへ行く意欲はなく、駅の周辺を行ったり来たりしている。ナメクジD51を先頭にした上り三重連貨物は、下り勾配を軽快に下ってきた。ドラフトも煙もないが、ドレンをわずかに吐きながら、安堵の表情を見せて駅構内に入ってくる蒸機の姿もまたいいものだ。

本日の特別な列車とは、お召編成9109レだ。と言っても本番ではなく、回送で1号御料車編成が通過するのだ。この時、北海道で開道百周年に伴う行幸があり、お召し列車が北海道で運転される。もちろん天皇は空路北海道入りのため、お召編成は、遠路はるばる北海道まで運ばれるという次第。DRFCの面々と駅北側の踏切で待つことしばし、やって来た9109レ、牽引はDD51あたりかとの予測が外れ、現れたのはC6128〔青〕、蒸機であることは貴重なのだが、肝心のお召編成はドレーンに包まれてしまい、ほとんど見えない。1号御料車には、すっぽりと白布が覆われていたのには驚いた。

奥中山駅の駅舎は、二重となった仕切り、勾配屋根、雪止めと、すっかり雪国の仕様になっている。これ以降、昼間に奥中山を通ることはなくなったが、付近は「奥中山高原」の名でリゾート開発が進められ、自然休養村、スパ、キャンプ場、天文台、スキー場などが散在しているという。かつての鄙びた高原は、すっかり姿を変えているようだ。駅も、IGRいわて銀河鉄道の奥中山高原駅と名を改めている。あの強烈な思い出を残したユースはネットによると昭和56年には閉鎖されている。

薄暗くなりかけた頃、45レに乗って奥中山を去った。朝は一緒だったDRFCメンバーも次の目的地へ向かい、自分ひとりだけが残って、しつこく撮っていた。45レは、C6020+D51という通常とは逆パターンの牽引、尻内(現:八戸)でホームの先頭へ行ってみると、さらに前にD51が付いている。一戸で増結したらしいが、夜間ながら旅客列車の三重連が実現している。途中からさらに雨は激しくなってきた。窓ガラスに水滴をまとわり着かせながら、列車は北上を続ける。旅はまだ始まったばかり、これから、青函連絡船に乗り、初めての北海道に向かう、大学一年生の夏であった。

京王電車デハ2110型

東京にいた頃、縁もゆかりもなく見たこともなかった電車だが、今見るとなかなかの物ですね。オハ31にパンタとモーターをつけたような標準型より、関先生が言うところの「タコ坊主」の方に興味がわきます。どなたか写真をお持ちではないでしょうか?

※しばらく前から記事がタテ組みからヨコ組みになったため、いちいち切って貼り合わせていましたが、今回からは新聞を切らず画像処理で組み合わせました。

青蛙と赤蛙(その2)

6月20日「【13758】東急のアバンギャルドな5000型」に対し、乙訓の長老より23日「【13805】青蛙と赤蛙」で、熊本電鉄と岳南鉄道に転出した車両の解説があった。
東急5000形は、上記2社の他、長野電鉄、上田交通(現上田電鉄)、松本電鉄、福島交通に転出している。
今回は長野電鉄と上田交通に転出した車両について解説する。

(1)   長野電鉄
長野~善光寺下間の地下化(昭和56年3月1日開通)に伴い、不燃化基準の関係から半鋼製の在来車が使用できなくなるため、昭和52年1月から55年10月にかけて26両入線した。Mc+Tcの2両編成10本とMc+T+Mcの3両編成2本を組み、在来車に代わり普通列車の主力として運行されたが、平成10年の長野オリンピックに向け、平成5年から10年にかけて営団地下鉄日比谷線の3000形との置換えが行われ、平成10年までに廃車となった。
モハ2510+クハ2560が須坂市の「トレインギャラリーNAGANO」の駐車場に保存されている。

 


モハ2611(元東急デハ5036)+クハ2551(同クハ5155)/昭和52年5月5日 須坂 (最初に入線した車両で、モハ2611はサハ2651+モハ2601と3両編成、クハ2552はモハ2501と2両編成を組んだ)

 


モハ2501(元東急デハ5035)+クハ2551/平成8年8月24日 屋代

(2)上田交通
昭和61年10月1日別所線1500V昇圧に際し、東急5000形8両(Mc+Tc4編成)と5200形2両(Mc+Tc)の10両が入線し、在来車を置換えた。
平成5年5月28日に元東急7200形のモハ7251+クハ7551~モハ7255+クハ7555の5編成と置換えで廃車となり、僅か6年半の活躍であった。
モハ5001は元東急デハ5001で、廃車後東急に返還され、登場時の姿に復元され保存されていたが、平成18年車体をカットされ、無残な姿で渋谷ハチ公前広場に置かれている。歴史的にも重要な車両が、何故このような結果になってしまったのか、残念を通り越し憤りを感じる。

 
クハ5053(元東急クハ5163)+モハ5003(同デハ5017)/昭和61年8月24日 上田 (昇圧前で待機中)

 
モハ5002(元東急デハ5005)+クハ5052(同クハ5162)/昭和62年1月15日 上田 (扉の窓ガラスが原形)

 
モハ5004(元東急デハ5030)+クハ5054(同クハ5164)/昭和62年1
月15日 上田

日本初のセミステンレスカーであるモハ5201(元東急デハ5201)+クハ5251(同デハ5202)は何度が撮影に行ったが振られっぱなしであった。こちらも廃車後モハ5201が東急に返還され現在は東急車両で保存、クハ5251は自社下之郷電車区で保存され、イベント時に一般公開されている。

(3)岳南鉄道補足
昭和56年5月から6月にかけて在来車置換えのため、東急5000形8両(Mc+Tc4編成)入線した。平成8年元京王電鉄3000系改造の7000形に置換えられ廃車されたが、岳南富士岡駅や貨物ヤードに留置され、平成20年夏頃解体された。

 
モハ5004(元東急デハ5049)/昭和61年8月15日 吉原

 
クハ5104(元東急サハ5364)/昭和61年8月15日 吉原

 
クハ5102(元東急サハ5363)+モハ5002(元東急デハ5028)/昭和61年8月15日 岳南富士岡

(4)その他
福島交通に昭和55年12月と57年10月各2両(Mc+Mc)入線しているが撮影していないまま廃車になった。
松本電鉄は昭和61年12月24日1500V昇圧に際し、東急5000形8両(Mc+Tc3編成、Mc+Mc1編成)が入線し、在来車を置換えた。こちらは登山で上高地から入下山の時、何度も乗っているがまともな写真がない。登山と鉄道撮影の両立は極めて難しい。

[番外]東急時代

 
デハ5030/昭和47年12月17日 多摩川園(上田交通モハ5004で再起)

 
デハ5042/昭和52年2月12日 田園調布(長野電鉄モハ2613で再起)

 
クハ5153/昭和52年2月12日 旗の台(長野電鉄クハ2552で再起)

 
デハ5201/昭和52年2月12日 旗の台(上田交通モハ5201で再起)

中国版新幹線 追突転落事故発生!

7月23日現地時間20時34分(日本時間;21時34分)に浙江省温州付近にて中国版新幹線の追突衝突事故が発生し、多数の死傷者がでました。中国鉄路をこよなく愛する私としては真に残念な事故発生に深い悲しみを持って受けとめております。
不幸にして事故に遭遇され亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りするとともに、負傷されました方々のご回復を願っております。

事故の様子につきましては、昨日「鉄道展 東北を旅して」のイベントに参加帰宅してすぐに知りました。昨夜は現地サイトのニュースをインターネットで見ながら、釘付けでした。日本で報道された内容には誤報もありますので改めて整理させていただきます。

現地の最新情報についてはこちらへ。

【事故発生の状況】
事故発生時現場(杭深線永嘉と温州南)は豪雨で雷が響き、落雷停電となって約1300人満員の乗客を乗せたD3115次(杭州→福州南、CRH1Bの16両編成)が緊急停車中でした。そこに、約700人を乗せたD301次(北京南→福州、CRH2Eの16両編成)が追突しました。衝突後、D301次の先頭車16号車から13号車が高架線の側壁を飛び越えて地上に転落、13号車は地面に直角に激突しました。
事故現場はこちらです。

【安全設備】
高速専用線にはATP自動列車制御装置が採用されていますので、 先行列車が停車した場合は、停止させる機能を持っていますが、なぜか機能は発揮されず後続列車がそのまま激突しています。これからの調査により事故原因は解明されると思いますが、これまで言われてきた中国版新幹線の安全性への問題点が現実となった起こるべきして起こった人災事故ではないかとの推測がインターネット上には掲載されています。

【事故車両】

▲ D3115次に使用されているCRH1B(16両編成)、写真はCRH1(8両編成)。ボンバルディアから技術供与を受けた200km/h対応車で、全鋼製。寝台電車仕様のCRH1Eもあり、現在増産されています。今回046B編成が追突されました。


▲ D301次に使用されているCRH2E(16両編成)。「はやて」を寝台電車に設計変更して、京滬高速が開業する前は、北京南~上海虹橋の夜行として使用されていましたが、現在は、昼間運行となり軟座寝台は、6人コンパートメント普通車として運行されています。今回139編成が追突した側の加害車両です。

追突後、加害車両は空を舞って地面にたたきつけられたとの目撃者証言があります。尼崎の事故のように先頭車はぐしゃぐしゃに破壊されていて、事故の大きさが甚大だったことが分かります。
起こってはならない事故が発生し多くの人命が失われた事は、安全への軽視以外に考えられようがなく、これからどのような原因究明と対応策を講じられるかが問題です。

いよいよ開催 「鉄道展-東北を旅して」

クローバー会会員にはすでにご案内していますが、佐竹保雄さん写真展・津田雅司さん模型運転会「鉄道展-東北を旅して」が、いよいよ明日から、下記の日程・場所で開催されます。

7月22日(金)~28日(木) 11:00~16:00 (24日(日)休館)

からしだね館 地下ホール (京都市営地下鉄東西線「小野」下車、1番出口から南へ1分 小野交差点の西南角)

設営日に当たる本日は朝から多くのクローバー会会員が訪れ、設備の搬入、レイアウトの調整、写真の展示などに汗を流し、夕方には準備完了、あとは来場者を迎えるまでになりました。ぜひ期間中にご来場いただき、写真・模型を通じて、美しかった東北を偲び、東北の一日も早い復興にお手伝いをしていただくよう、お願いいたします。

▲朝から準備に当たる会員達

▲N・HOのレイアウトには、東北ゆかりの列車が走る

さて、このイベントでは、クローバー会は後援団体として、鉄道グッズのチャリティコーナーの運営を任されました。会員の皆さんに理解を求めましたところ、多くの会員から、貴重品・ガラクタの中から選りすぐりの逸品を惜しげもなく放出していただきました。なんとその数約800アイテム! ほとんどが1点100円という超特価、売上は全額、東北復興に寄付いたします。

特派員も開催前に黙って買ってしまおうかと思ったほどの、お値打ち品の数々。早いもん勝ち、もちろんクローバー会会員でも買っていただけます。ぜひご来場ください。

▲会員の協力で実現した鉄道グッズコーナー

▲思わぬ貴重品も、ワンコインでOK

今年も炎天下の気まぐれ撮影

 大震災と放射線問題が続く中、今年は梅雨明けが早く、熱中症で倒れる人が昨年より多いとか。この先が思いやられます。老人が増えていることも原因があるのでしょう。私も65歳以上の高齢者でありますが家にじっとしていることができないので「さあー今年も夏が来た!」と言うことで散歩がてらどこか夏らしい風景でも撮りに行こうと考えた。「そうや写真展もあるしなー」と考えて超ローカルな小湊鉄道に出かけた。熱中症対策として水筒(今水筒と言う言葉使ってますかな?)に塩分と砂糖を用意。血圧が高めなので塩分は複雑な気持ちで持参。もう一つ注意すべきことは炎天下にあまり歩かないですむということで桜の時期に行った上総大久保駅に最初から決めておいた。この駅自身格好がいい。桜の時期は大勢の同業者さんで一杯になるが、さすがこの蒸し暑い時期は少ない。同業者さんは土曜日なのでこの先のいすみ鉄道に大糸線から来たキハ52を撮りに行っているのかもしれない。駅の先にある踏み切りの近くで休んでいると船橋から来たと言うご婦人(と言っても私より歳が上)から声をかけられた。三脚に一眼レフデジカメの本格派であるが、鉄道を撮っているのではないようだ。いろいろ最近の地震や洪水の話などをしたら、「自然がもうええ加減にせいと言っているのやないか」と言われた。同感である。

    2011.07.16 上総大久保 養老渓谷行き 206+201

 

次の養老渓谷行きで一人降りてきたが、その人の後をついていくと挨拶してくれた。言葉が関西系なので訊いてみると枚方の人で新幹線で今着いたということであった。立命館のOBであり同じ京都の学校ということで親近感を感じたが年代差が大きそうなのでそれ以上は会話を進めなかった。

    2011.07.16 上総大久保~月崎 五井行き201+206

 

 小湊鉄道は車両がキハ20タイプに統一されて面白みに欠けるが沿線風景は抜群である。この先紅葉の頃や冬枯れの頃にも行ってみたい所である。車内には沿線を走る列車写真が多数展示されており、小湊鉄道会社も作品を募集しているようである。中には非常に参考になる作品も多く見られ刺激を受けた。なお、上総大久保駅にはジュース等飲み物の自販機は一切なく、踏切から下って養老川の橋の手前にあるよろずやに行かないとない。

参考に今年の桜の時期に行った時に撮影したものも加えた。

      2011.04.10 上総大久保 養老渓谷行き210

 

     2011.4.10 上総大久保 上総中野行き203

江若鉄道三井寺下再現 その10 クイズ解答編

特派員殿のコメントどおりですが、しゃがんでいたご仁は六角通りのY氏でした。その他にT氏の姿も。通りの向こう側の白い上着の人は浄福寺殿でしょう。関東の重鎮お二人の間で 欄干にカメラを乗せてのぞいているのが誰かがわかりません。      うしろの旅館の看板に「休憩所」と書かれています。私が小学生時代を過ごした東山界隈の裏通りには「ご休憩」と小さな看板を出した仕舞屋がたくさんありましたが 子供ごころに「疲れた人が休憩するための家」だろうと思っていたものです。その隣には「桑野造船」の看板が見えます。内陸の大津に造船所?と一瞬思うのですが 琵琶湖に浮かぶ大小の船は湖岸にあった造船所で作られたのでしょうから ここに造船所があっても不思議ではありません。造船と言っても和船だったのかもしれません。 

琵琶湖第一疏水をまたぐこの橋は 43年も経った今もそのままの姿で残っており、橋の上からの石坂線の眺めは ポールがパンタには変わっていてもタイムスリップできる風景でした。手前は江若鉄道の鉄橋を遊歩道にした「大津絵橋」です。

(追伸)上の写真の縦横比がおかしいのはご容赦を。拡大すると正常だと思います。

JR東日本のドレミ電車(E501系)

7月16日【14285】で米手作市氏より「京浜急行のドレミ電車」の話題が紹介されたが、JR東日本の「ドレミ電車」を紹介したい。こちらも京浜急行同様、改造により遠からず無くなる運命にあり、8編成中5編成まで改造が進み、残りは3編成である。

E501系とは
交直両用の通勤型車両で平成7年に15両(基本10両編成、付属5両編成各1本)平成9年に45両(基本10両編成、付属5両編成各3本)作られた。

常磐線の上野口は、昭和60年以降取手以北でも住宅の増加、竜ヶ崎に大規模団地の出現等により通勤時間帯を中心に混雑が激しくなってきたため、沿線自治体から取手止まりの快速電車の牛久、土浦までの延伸の要望が出された。直流電車の延伸は、柿岡(石岡市)にある気象庁地磁気観測所の観測障害となるため不可能であるため、交直両用の4扉通勤型車が投入されることになった。当初昼間は基本編成のみの10両、ラッシュ時は付属編成を増結して15両で運転されていたが、程なく終日15両となった。また、トイレがなく、長距離運用には不向きなため、上野~土浦間に限られ、勝田電車区への入出庫は回送であった。

車体の基本設計は当時の京浜東北線の209系とほぼ同じであるが、外板厚を1.5mmに強化された。(209系は1.2mm) また特急通過待ち等による長時間停車時の車内温度確保のため片側4扉の内1カ所を残して締切可能な「3/4扉閉スイッチ」が装備された。

ドイツ・シーメンス社のGTOサイリスタ素子による主変換装置の採用により、発車と停車時に「ソラシドレミファソ~」と音階が聞かれたが、平成18年に付属編成全編成、今年1月基本編成1本(K704)が東芝製のもの取替えられてしまい聞かれなくなってしまった。

現 況
平成19年3月18日のダイヤ改正により、上野発着の中距離電車がE531系に置き換えられ、全列車にグリーン車が連結されるようになったため、運用区間を土浦以北に変更した。それに先立ち平成18年10月~19年2月にかけて基本編成両端のクハ、付属編成下り向きのクハにトイレが設置された。常時連結されていた基本編成と付属編成はそれぞれ単独での使用となった。

走行区間は基本編成が土浦~いわき・草野間、付属編成は土浦~いわき間と水戸線の小山~友部間である。基本、付属共に予備車無しのフルで使用され、検査時等は、415系、E531系が代走する。

以下、無いよりマシ程度の画像であるがご覧いただきたい。

[上野~土浦間で使用の頃]

 
クハE501-1003/
付属編成の先頭車(15号車)で常に土浦寄り先頭に立っていた。(H18-4-8 松戸)

 
サハE501-9/
付属編成の14号車

 
モハE501-7/
付属編成の13号車でパンタ付きのモハ

 
モハE500-7/
付属編成の12号車でパンタ無しのモハ

[現 況]

 
クハE501-1004/
(H21-12-30 水戸)

 
クハE501-4/
上野~土浦間で使用されていた時は先頭に出ることはなかった。密連の下に電気連結器が設置されているが、今後使用されることはないだろう。車端にバリアフリー対応のトイレが設置され、その部分の窓が塞がれた。(H21-12-30 勝田)

ユースで巡った鉄道旅 -13-

続きも東北のユースの話を。
蒸機時代の東北の名所と言えば、龍ケ森と奥中山が双璧でしょう。その2ヵ所をハシゴしたのが、昭和43年、大学1年の夏休みでした。龍ケ森で当会伝統の狂化合宿が厳かに且つ賑々しく行われ、その参加の前後に奥中山にも寄ったのでした。
龍ケ森はまだハチロクが全盛、奥中山も同年のヨンサントウ改正を前に、大型蒸機が最後の活躍を見せていました。今回紹介するのは奥中山ユース、奥中山の名は知られていても、ユースの名はほとんど認知されていませんでした。
なにせ奥中山駅から交通機関のない山道を1時間以上歩かないことには到着できない、未踏のユースなのです。この時は、別のユースに宿泊予約を入れていながら、止むを得ず泊まるハメになったのです。その経緯は後述するとして、奥中山の一日から綴ってみました。

前日、磐越東線でD60を撮ったあと、急行「八甲田」で深夜の盛岡入り。駅のベンチで合宿用に買った寝袋で仮眠をして、夜明けとともに駅裏の盛岡機関区へ向かう。真っ先に目に飛び込んできたのが、C60のトップナンバー機だった。「1」のナンバーを見ると、とくに蒸機の場合は感慨深いものがある。東北のカマらしく煙突回りに小デフを付けている。盛岡区は最後の大型蒸機で賑わっており、前にも紹介したが、区に置かれている「ゆうづる」「はくつる」のヘッドマークをC60、C61に付けては楽しんだ。C601は、この年の10月の東北本線完全電化で廃車となり、翌年には仙台市の西公園に保存された。以前、Fさんと仙台市電を撮りに行った時に、同公園で保存されているC601に再会している。

盛岡7時50分発の539レで、いよいよ奥中山へ向かう。D51868〔尻〕+C6018〔盛〕の重連。盛岡を出ると車窓に見える岩手山の山容、そして、厨川、滝沢、渋民、好摩、と続く駅名の響きが、「みちのくへ来た」という感慨になる。御堂~奥中山の中間にある、有名な吉谷地の大カーブに列車は差し掛かる。東北本線は、腹付け線増された区間が多く、このように上下線が離れている区間が多い。広々とした雄大な東北らしさを演出してくれている。

沼宮内で若干の停車時間がある。ホームのすぐ横の側線には、これから始まる十三本木峠の難所に備えて、多くの補機が休んでいる。ホームから飛び降りて、ひと通り写し回った中で、今度はD51のトップナンバー機と初めて出会った。同機は、トップナンバー故か、用途を終えると、その後、各地へ転属を繰り返す。私も各地で出会ったが、特別扱いされることなく、多くの本務・補機の一員として黙々と働いている、この時期の姿が、いちばん似合っていた気がする。

待望の奥中山到着、頬をなでる風もさすがに涼しさを感じる。駅でダイヤを聞こうとすると、ちょうどD51三重連が通過してしまい、臍をかむ。トンネルを越えて吉谷地の大カーブへ向かうが、来る列車、DD51かED75ばかりで、蒸機が全く来ない。トンネルを越えた水路橋の下で捕らえたED75132の荷43レも、これが蒸機だったらと悔やんだものだが、今となっては、かえって貴重な記録かもしれない。

一緒になったファンから、奥中山で撮っても、煙の期待できる下りの蒸機列車はほとんど来ないので、峠の反対側の小繋へ行かないかと誘われる。奥中山以上に雄大な区間があるし、煙を期待できる上り蒸機列車も多いと言う。思い留まればよかったものの、疲労と空腹で思考能力も著しく低下していた。ノコノコ着いて行ったのが、悲劇の始まりだった。小繋まで行き、炎天下の中を4キロほど歩いて、小繋~小鳥谷間の中間地点まで来た。確かに雄大な光景ではあるが、架線に阻まれてロングは難しい。ふと今晩予約していた、花輪線大更駅前のユースが気になって時刻表を見ると、まだ16時前後というのに、本日中に大更までの到着が不可能なことが分かった。東北本線と接続する好摩の下り花輪線の最終はなんと18時47分、夏ならガンガン照りの時間帯にもう終列車が出てしまうのだった。

一瞬、顔が青ざめた。もう撮影どころではない。同行のファンから離れ、もと来た線路上を必死になって戻った。途中でD51三重連が通過、本日初めての三重連だが気もそぞろ。奥中山にユースがあることを思い出し、何とかここまでは到達したい、しかし奥中山は次の駅なのに、運悪く列車は数時間も先、もうここは、初めて経験するヒッチハイクしかない。恥ずかしそうに手を挙げるが、クルマは止まる気配もない。やっと止まってくれた大型トラックの運転手に懇願し、奥中山駅まで送ってもらう。
ところが駅で聞くと、ユースは駅からはるかに離れた高原の頂上に所在し、駅からは歩くしかないと言う。1ヵ月分に近い重い荷物を背負い、夜行連続でほとんど寝られず、しかも前日から何も口にしていない。水も尽きた。靴ずれの足も痛む。夢遊病者のようにフラフラになりながら、山道を歩き、ようやくユースに到着した。ところが悲劇はまだ待っていた。まさか宿泊客など居るはずがないと思っていたところ、近隣の林間学校生が大量に宿泊し、これ以上は泊められないと言う返事、思わず床に倒れそうになったが、拝み倒して、薄汚いバンガローの片隅にようやく泊めてもらえることができた。もうとにかく、体力の極限まで使い果たした、奥中山ユースだった

江若鉄道三井寺下再現(その9) クイズ編

江若鉄道運転会まであと約3ケ月となり、レイアウト工事も車両製作にも熱が入ってきたところです。ここのところ車両製作の方がおもしろく、初代キハ14(旧善光寺白馬)、キニ1、キニ9、キニ13、キハ51、キハ5123がほぼ形になり 塗装待ちのクルマが10両以上となっています。そんな中で 当時の写真をあれこれと見てゆくうちに なつかしい写真がありましたので 「私は誰でしょう」というクイズとして ご披露致します。昭和43年9月28日 三井寺下見学会を終えて 浜大津へ戻る途中のスナップです。しゃがみこんでいるご仁は誰でしょう? 答は明日 前から写したコマをご紹介することにします。

やったぁー!なでしこ日本!

世は節電ムード。これをネタに銭儲けに専念する輩も多い。老人は深夜なら後ろ指差されまいと、今朝も午前3時起床、テレビの前にかじりついた。沈滞ムードを一掃する快挙に4時間もかじりついてしまった。さて、7月13日、関西電力はJR西日本に節電を鉄道各社に要請しない旨、申し入れたと朝日夕刊トップ記事で報じられた。その2日後の夕刊16面2段見出しで阪急神戸線車両減で節電、と報じられた。「お〃やるか、阪急は!」の気持ちになった。その昔、電鉄各社は電力費低減のため工夫をこらしたものだ。1951年4月、京阪特急が1700系4連で登場した時、三条発車は4連、折り返し天満橋発は2連であった。1957年3月、急行が5連で運用されるようになった時、1000・1500・1200+1200・1000の組成で三条出発、折り返し天満橋発は3連と2連に分割され急行発車後1分遅れで、2連となった普通が発車する運用ががあった。共に終端駅で増解結を繰り返しながら列車運用をして、乗客の増減に応じ効率良い電力消費をしていたのである。

ところがATS設置の頃から状況に変化が見られるようになった。長編成組成も一因だが、固定編成が常識となり、運転台付き電動車が車両費節減につながるとして新造が抑えられてきた。それが空気を運ぶ列車増加につながっている。今回の阪急の処置は当然である。京都線も大市交乗り入れ列車を含め6連とすれば良いと思う。嵐山線も6300系は昼寝して7200系増結用2蓮で十二分だ。こうした動きの中で大飯原発故障運転中止が報じられた。阪急の選択は正しかったのである。このところ本線、副本線上での増解結は混乱を招くとして避けられる傾向にあるが、各社共々に工夫を凝らし減便ではなく先ず減車にに取り組んでみてはどうだろう。欧米では15分毎なら頻発運転なのだそうだ。関西は10分毎に慣らされてきた。東京は何でも3分毎だそうだ。行儀よく座れば快適な車内保持は確実に出来る。つぎはどこだろうか。

松本電鉄浅間線 その3

先回最後の俯瞰写真に関し、急カーブとの関連がよく分らんとのご指摘があり、改めてもう1コマ俯瞰写真を入れておく。またこのカーブ半径を5鎖と記したのは大間違いで、28mmレンズのため大きく、広く見えるはするが、1鎖(20m強)程度であろう。

左下が松本駅。 この地図では浅間線がまだ駅に突っ込んだまま終点になっているが、市街を真っ直ぐ右(東)に向かい、直角に曲がって上(北)へ。このカーブのすぐ下にある「文」マークが教頭先生にお付き添いを頂いた女子高校(もしや彼は我々が女子生徒に何か悪さをしないかと心配したのではあるまいか。杞憂以外の何者でもないのに)。松本駅からカーブして左上に向かうのは上高地線である。

併用軌道は横田までで、以遠は新設軌道になる。横田には車庫があり、2回目の離合が行われ、乗務員も交代。松本に向かう乗客は結構あって、温泉行きだけでない、地域の交通手段であることが分る。


横田の駅と車庫 車両は6両中昼間4両が稼動しづめで2両が予備


乗務員も横田で交代


スタフを扱うのは本来運転手の業務のはずだが

横田以遠は新設軌道になる

横田の次に運動場前で3回目の離合。ここは運動イベントがない限りほぼ乗降はなく、単なる離合所である。


運動場前での離合


終点浅間温泉に着く


のんびりした風情

右の若者は誰でしょう

この線は一段高い温泉旅館街に突き当たっておしまい

プラットホームを歩く一見山行きのような若者は誰でしょう

電車の番号について記しておくと、ホデハ2、4、6、8、10、12の6両で、当初4~8、10だったが、5を2、7を10、10を12に改番し、全部偶数ばかりとしたのである。鉄道線たる上高地線は反対に全部奇数に揃えた。かように奇数、偶数で所属を示すのは、古くは官設鉄道の機関車でで行われ、九州の北筑軌道(→博多電気軌道→九州水力電気と所有者は変わったが、蒸気動力3フィート線は終始北筑線と通称)では、客車が奇数、貨車が偶数だったらしい。

メーカーは改番後で示すと2、4が東洋車両1924年、6、8、10が汽車東京1927年、12が日車1929年製。いずれもガラス風防がある開放デッキだったと思われるが、密閉式に改造。それでもデッキと客室に段差があるのは前に記した通り。

こののどかな浅間線は1964年4月1日廃止されたが、リポート等はなぜか極端に少ない。なおご覧頂いた写真は複数回にわたっており、小生1人/ダンナとワッチ(若かりし日の乙訓老人)と小生/ダンナと新兵(これは誰か当ててください)と小生/という撮影であった。小海線撮影の前後に訪れたケースでは、信州会館なる、やったら滅多ら大きな山男用宿泊施設に宿泊し、夜半にいささか怪ぬ見世物を覗いた記憶もある。入り口で呉れた紙切れには、新宿行夜行列車の時間と、駅までの略図があり、大方の客筋が分るが、「親切を絵に描く」とはまさしくこれだと、痛くその商才に感じ入ったことであった。

浅間温泉では場慣れしたダンナの誘導で、地元民専用の安い回数券をタバコ屋で求めて住民用浴場に。素朴な湯殿では、むき出しの鉄パイプから温泉が掛け流しされ、木札に墨痕淋漓「湯口で頭髪や入歯を洗わないで下さい」。これは小生が記してこそジョークになる。

ドレミ電車って?

今日のネットニュースに「ドレミ電車がなくなる」との記事が出ていました。何のことやらと読んでみると次のような話でした。

関東の方たちには当たり前の話題でしょうが関西では知りませんでした。

>ドレミファ…と音階を奏でながら走る京浜急行電鉄(京急、東京~神奈川)の通称「歌う電車」が、車両の改造工事が終わり次第、姿を消すことになった。登場からわずか10年余り。人気ユニット「くるり」の曲「赤い電車」のモデルにもなった人気車両で、京急社内でも惜しむ声が上がっている。(大竹直樹)

 「ファ~ソラシ、ドレミファ~」。車体の下から不思議な音階を奏でながら電車が動き出す。音階の正体は、モーターを制御するインバーターから聞こえる“騒音”だ。平成10年に登場した2100形電車と、14年に登場した新1000形電車に搭載されている独シーメンス社製の装置で、鉄道ファンからは「ドレミファインバーター」と呼ばれ、親しまれている。

 女性客からも「音がかわいい」といった反響も寄せられているといい、「歌う電車の宣伝はしていないが、喜んでもらえるのはうれしい」と京急。登場当時、車掌をしていた京急広報課の飯島学主任(35)は「音にも愛着をもっていただき、お客さまが目を輝かせて眺めてくれるのがうれしい」と目を細める。

 音階のように聞こえるのは、偶然の産物ではない。「実は開発したドイツ人技術者の遊び心」と語るのは、シーメンス日本法人モビリティ事業部の庄司不二雄さん(60)。ソフトのプログラムを工夫することで音を出すことができ、ドイツの高速鉄道「ICE」の車両が米国内で試験走行した際は「アメリカ国歌も奏でた」という。

 だが、京急の車両に搭載されている装置は経年劣化のため、日本製インバーターへの置き換えが進み、「歌う電車」は年々減少。2100形は10編成のうち6編成がすでに改造された。残り4編成もあと1年程度で改造を終える見込みという。

 一方、新1000形も改造工事が進んでいる。残り8編成の改造時期は定まっていないが、数年以内に全車両の改造を終える見通しで、京急社内にも“歌わない電車”への改造を惜しむ声が上がっている。

 「歌う電車」に乗るにはどうしたらいいのか。京急によると、外観で判別するのは難しく「運次第」。ただ、片側に2カ所扉がある2100形の快特電車では1時間あたり1本の確率で「歌う電車」にめぐり会える可能性があるという。

 「歌う電車」を生み出したシーメンスの庄司さんは、「なくなってしまうのは寂しいが、新しい装置に置き換わるのは時代の趨勢(すうせい)なので仕方ない」と見守っている。

 京急は「すべての『歌う電車』がなくなる時期は未定だが、残すことは考えていないので、なくなるまでに楽しんでほしい」と話している。<

(以上:産経イザより転載)

松本電鉄浅間線 その2


学校前の離合所 電車左の蒲鉾型コンクリート工作物は恐らく戦時中の公共防空壕であろう

紙芝居めいた「次回予告」をしてしまったが、松本を出て最初の離合場所が学校前である。その名に違わずいくつかの高校などがかたまっていたように記憶し、旧制松本高等学校も確かこの一帯だったんじゃないか。


運転台をピッタリ合わせ 通票(スタフ)を交換する

停車位置がズレると 片方の乗務員が下車せねばならない

ここの急カーブを何とか立体的に撮れないものかと思案し、道路に沿った恐ろしく古い木造の校舎に目をつけた。記憶が薄れているが、確か女子高校だったような気がする。職員室に乗り込み、「若干の言語」を弄して報道機関カメラマンであるかの如き印象を教頭に与え(嘘はついていないから念の為。彼が勝手にそう誤解しただけ)、学校内立ち入り=足場確保の承認を得た。それでも教頭はかなりの猜疑心にかられたようで、撮影中ずっと付き添っていた。これも確たる記憶がないが、重澤旦那、吉田、小生の3人=リュックサックに登山靴かキャラバンシューズ、山行きともつかず、カメラマンとも思えない風体はともかく、人品骨柄卑しからぬ気品を感じたことは間違いなかろう。幸い10分毎に離合写真が撮れる。


停留場名が「学校前」だけあってこの周辺は学校だらけ

で、2階と3階から、この急カーブを曲がる電車が目出度く撮影できた。恐らく半径は10鎖=20mか、フランジがこすれるキィーキィーキィーという音が、終日絶えないわけである。上から見下ろすと、台車がグイと振られ、あたかも車体からはみ出しているかの如し。

またまた蛇足だが、欧州の旧市街ではこの程度のカーブは珍しくも何ともないのに、ついぞキィーキィーは聞いたことがない。鹿島雅美氏に伺うと、未明―初発より早く、人力でレールのフランジ接触部分に油を塗っているからに過ぎず、作業員は殆どが北アフリカ系だそうな。そういえば、パリ街中のプチホテルに泊まった際、同行のとんでもない早起き「偉いさん」に未明の散歩を付き合わされたことがある。無人の街路の皿溝に満々と水が流れ、やはり北アフリカ系の作業員が道路のゴミをその流れに掃きこんでいた。

現在この箇所をグーグルで検索・拡大すると、どうやらピッカピカの松本秀峰中等教育学校が、足場を借りた学校の後裔らしい。何でも中高一貫6年制の私立学校で、それもつい昨年ぐらいに開校したとか。バス停の名称は城南高校前て、この時の面影はない。

話を戻して、ここで直角に曲がった線路は無舗装の地道中央を北に向かう。こんな俯瞰は足場がないと撮れない。大きな木造建築はみんな学校である。


無舗装の道幅は約7m=4間道路なのであろう

福井鉄道・琴電の元京浜急行

7月7日の「京浜急行140型」に対し、翌日には両長老から書込みがあり、DRFCクローバー会の実力を改めて感じた。 

福井鉄道は昭和23年福井地震で焼失車両が発生したのに加え、同じ年に南越線が電化したため電車の絶対数が足りず、相当無理をして入線させたものと思われる。使用できたのは車体のみで台車、電装品は別のところから調達する必要があった。
昭和42年3月時点では、電装解除されたハ102が南越線のラッシュ時増結用として辛うじて生き残っていた。尚、福井鉄道モハ101、モハ103の実物の写真を見たのは初めてである。

 
ハ102 昭和42年3月20日  社武生

琴電に関しては乙訓の長老の詳細な解説がすべてであり、簡易鋼体化された64、車体を新製した62、72を新製車体に載せ換え電装した65の画像を貼り付ける。

 


64  昭和44年3月20日 長尾/台車は原形のテーラー台車である。

 
62  昭和44年3月20日 瓦町/昭和28年に自社で車体を新製した。

 
65  昭和44年3月20日 瓦町/昭和35年に72を鋼体化(車体新製)の上電装した。

昭和34年11月京浜急行120形を6両譲受け、昭和36年に自社工場で鋼体化の上、10形(11、12)/電動車、90形(91~94)/制御車となった。長老が撮影された、上から2番目の仏生山での京浜急行128の画像は鋼体化改造前である。
改造により正面5枚窓は失われたが、屋根のカーブはそのままで原形の面影が多分に残っていた。

 
11 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ127、乗務員扉がなく乗務員室は極めて狭い。

 
93 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ124

 
94 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ123

 
94の台車

 
33(元阪神910)との並び

井笠鉄道連載 その7 番外編

中国新聞の連載は6回で終了しましたが、番外編として あまり紹介されていないであろう井笠の車両たちのその後の様子などをご紹介して この連載の最後と致します。なお横着をしてアルバムに貼ってあるプリント写真をスキャンしましたので お見苦しい点はご容赦を。

笠岡駅構内の西側に県道34号線の跨線橋があり、その跨線橋の海側の高架下にホジ9が保存されていました(現在もあるかどうか未確認)。この2枚は昭和51年撮影ですが、その後昭和52年9月も同じ状態でした。高架下で雨がかかる心配はないので車体は比較的痛みは少なく 塗色もまずまずでしたが 窓ガラスや連結器もなく みすぼらしい姿でした。ちなみにこのホジ9は昭和6年梅鉢製。

昭和46年4月1日に全線廃止後長らく くじ場車庫には多くの車両が保管されていました。駅の敷地は板囲いで立ち入り禁止になってはいましたが 入るのは容易で 荒れ果てた車庫内で撮影しました。廃止後5年の昭和51年の状況です。カラー写真は昭和60年12月30日撮影、 下津井電鉄下津井駅に留置されていたi井笠ホジ3。平成3年1月1日に全線廃止された下津井鉄道で レール撤去工事などで最後のご奉公をしたホジ3でした。

上の写真が旧くじ場駅本屋で 井笠観光開発㈱旅行案内所の看板は上がっていますが この日は無人でした。バスの待合所でもあります。塀の中に入ると荒れた車両が多く残っていたのですが、残念ながら車番を記録していません。一番奥がホジ8、ホワフ、ホハ、ホワフでしょう。

山陽本線備後赤坂駅北側の丘陵地帯に赤坂遊園という 田舎版「ひらかたパーク」があって 子供を連れてよく遊びに行ったものでした。この遊園地のなかに なぜか井笠鉄道の車両が多く保存されていました。上の写真の左側に写っているのがコッペル3号機です。実機にはなぜか「2」の表記があるのですが 実際の2号機は岡山の池田動物園に行っているのに、製番6535の3号機がなぜか2号機になっていたようです。コッペルのほかにホハ11、ホハ12、ホワフ5、ホト2が保存されていました。

これらの井笠保存車の外側にゲージ600mm?のこども列車があり 加藤の3Ton ? 機関車がSLらしく改造されて 周回していました。製造年や前歴など詳しいことは不明です。芦田川などの河川工事にでも使われていたものかと想像します。この遊園地はいつのまにか閉園されて この機関車もどこへ行ったのか不明です(一説には太陽保育園?に行った)。また井笠の車両たちの行く末も調べていません。

この遊園列車の駅舎として使われていたのが、井笠鉄道薬師駅で わざわざここへ移設したようです。駅名標は「ふくやま」となっていますが 多分山陽線福山駅の高架化で不要になった地上ホームにあったものを持ってきたのでしょう。

ホワ2

ホワフ5

井笠の9号機は珍しい経歴の機関車で 1910年ベルギーのCockerill製。 釜石製鉄所から移ってきて井笠9号となり、昭和36年に廃車。その後昭和43年に上記の笠岡跨線橋下に保存、昭和48年にはなんと京都 桃山城に展示され、今度は井原鉄道井原駅建設予定地に移されたという 現役引退後もあちこち引っ張りまわされたSLでした。ベルギー製の機関車は珍しいのですが、あちこち改造されて結局シリンダ回りだけが製造当初のものと言われているようです。次の写真は平成5年8月14日撮影ですが、井原鉄道開業に伴い また場所を移されて 駅の東の七日市公園に屋根なしの状態で保存されました。

 井原駅予定地にて

 七日市公園にて(H11,1,30)

コッペル製のSLは1,2,3,6,7号機の5両がありましたが 7号機は昭和45年にスクラップとして売られ、姫路市網干区北在家のパチンコ店「百万ドル」の駐車場に放置されていました。撮影は平成9年7月24日です。 サイドタンクとキャブに「ホリデー号」と書かれていますので何らかの使い方をされたあと お役ご免でこの駐車場の隅に放置されたのでしょう。由緒正しきコッペル機がこのような姿をさらしているのは つらいものがありました。サイドタンクには井笠の社紋や7の文字がリベット止めされて残っていました。

最後に 笠岡駅にあった1067mmと762mmの平面クロスをご紹介します。笠岡駅の線路配置が北から国鉄の貨物引き込み線、次いで井笠鉄道、そして国鉄本線となっていましたので 井笠の列車は必ず国鉄の貨物引き込み線を横切っていたわけです。そのため異ゲージの平面クロスがあったのです。撮影したのは昭和51年ですから 井笠の廃止後です。このクロッシング前後の井笠のレールは撤去されていましたが、国鉄の貨物線は生きていたので、この部分だけが元の姿で残っていたものと思います。このような場合の保安方式がどうなっていたのか 今頃になって興味が湧いてきますが どなたかご存じなら教えてください。市電などは別として 平面クロスを見る機会はほとんどなくなりましたが 余談ながら糸崎駅構内にも珍しい平面クロスがあったのですが写真に残しておらず 悔やんでいます。それは三菱三原から糸崎港に向かう1067と1435のデユアルゲージと日本セメントへの引込線(1067)とのクロッシングです。

とりとめのない番外編となりましたが、何かの参考になれば幸いです。以上

 

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part15  阜新煤礦鉄路 その5

第11日目 5月28日

平安14:08(114次)→14:35王營(Bus)→15:32阜新
② 阜新19:00(2106次)→10:17北京北

モーニングコールよりも早くに起き上がれました。ロビーに下りると既にF先生とO氏のお二人さんともお待ちでした。
今日お二人は、阜新から瀋陽に向かわれ、乗換えてハルピンへ。一泊されて翌朝のCZ便で帰国されます。一方の私は、夜の夜行列車で北京に戻り、いつもの一人旅となります。

▲ Taxiを待って昨日同様の平安駅踏切に着きましたがご覧のとおりの夜明け前です。写真は3:56、ISO3200、F5.6・1/40の手持ちで撮っています。


▲ 4:20、ようやく入替作業の開始、昨日と違ってスモッグが濃いようです。まだ薄暗いのに機関車の前照灯は消していました。入替機は1319号機


▲ 5:131319号機が入替作業を終えて一息つく頃に朝日が雲間から顔を覗かせました。

▲ 5:20、ヤード横からの1460号機が後ろ牽引でズリ捨て線を上がっていきました。


▲ 7:06、朝日が差し込む平安站に到着した988号機牽引の職工通勤列車。

お2人が帰途につかれた後、平安站からまだ行っていない王營站までを乗車してみることにしました。




▲  平安~王營間は工場、住宅街の中を通って14:25に王營站に到着しました。所要時間27分間の短い乗車時間でした。乗客の殆どは終点一つ手前の民主站で降りて、王營站では私一人の下車でした。王營站は採炭場があるのみで見渡す限りのとうもろこし畑が広がっています。折り返し列車は17:28。蒸気もいなく時間があり過ぎるので職工さんに近くのバス停を教えてもらい阜新站に戻りました。 王營站はこちらです。

阜新站からはバイクTaxiに乗って新邱からの帰りに見た上遊型が放置されていた高徳站方面に向かいました。

▲ 16:30高徳站に到着。O氏が運行しているかどうかを確認したがっておられた海州露天鉱方面からのズリ満載の5両編成が入線していました。牽引するのは、この炭鉱線で最も綺麗と思われる1320号機。しばらくすると新邱方面へと走行して行きましたが、この方向にはズリ捨て場はなかったはずで、一体どこへ向かったのか疑問が残りました。本線上をヤード方面に向かうのは、1460号機牽引の空車のズリ6両編成。と言う事は、新邱方面に見過ごしたズリ捨て路線があるようです。


▲ 探していた上遊型の廃車は、ヤード方面に約10分歩いた所にありました。911、989号機と番号不明のもう1台の計3台が放置されていました。本線上との塀のかさ上げ工事をしていた職工のお兄さんには写真を撮って欲しいと頼まれました。ついでに入っておいでよと誘ってくださいます。上遊型の他にもかなりの車両が放置されていて見てみたかったのですが、見るとかなり時間がかかりそうなので、丁重にお断りして先を急ぎました。

【海州露天鉱国家鉱山公園】
さらに線路沿いをヤードに向けて約20分を歩くと海州露天鉱国家鉱山公園に着きました。海州露天鉱はかつてアジア最大の露天鉱と言われ、阜新は石炭によって立ち、石炭によって栄えました。2005年、資源枯渇のために一応閉鎖されましたが、その歴史を保存する記念館が開設されていました。地図はこちらへ。

▲ 幅4×2キロ、深さ250mもの広大な露天掘を一望できる展望台があり、かつての路線跡も見ることが出来ました。そして公園内にはかつて露天鉱で活躍した車両の展示もされていました。

▲ 露天鉱で使用された連接式のZG150-1500型電気機関車、韶峰028号機。1972年製造、でかい!

【ZG150-1500型】
直流1500V、 全長;20.26m、幅;3.20m、高さ4.77m、
自重150㌧、軸配置;B0-B0-B0、1時間定格出力;350kw×6=2100kw、1時間定格引張力;256KN、軌間;1435mm、最小走行半径;80m、最高速度;65km/h、撫順露天鉱等主要炭鉱で使用された。


【推土犁 Bulldozes the plow】
全長;14.41m、幅;3.604m、高さ;4.456m、自重95㌧、ズリ線のラッセル用。自走は出来ず機関車に牽引してもらいます。


▲ 巨大なパワーショベル、ラッセル車、1974年製の上遊型1395号機。

もう少しゆっくりと見たかったのですが、夜行列車の乗車時間が近づいてきました。阜新站へと急ぎました。  Part16  へ続く

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