江若鉄道三井寺下再現(その9) クイズ編

江若鉄道運転会まであと約3ケ月となり、レイアウト工事も車両製作にも熱が入ってきたところです。ここのところ車両製作の方がおもしろく、初代キハ14(旧善光寺白馬)、キニ1、キニ9、キニ13、キハ51、キハ5123がほぼ形になり 塗装待ちのクルマが10両以上となっています。そんな中で 当時の写真をあれこれと見てゆくうちに なつかしい写真がありましたので 「私は誰でしょう」というクイズとして ご披露致します。昭和43年9月28日 三井寺下見学会を終えて 浜大津へ戻る途中のスナップです。しゃがみこんでいるご仁は誰でしょう? 答は明日 前から写したコマをご紹介することにします。

やったぁー!なでしこ日本!

世は節電ムード。これをネタに銭儲けに専念する輩も多い。老人は深夜なら後ろ指差されまいと、今朝も午前3時起床、テレビの前にかじりついた。沈滞ムードを一掃する快挙に4時間もかじりついてしまった。さて、7月13日、関西電力はJR西日本に節電を鉄道各社に要請しない旨、申し入れたと朝日夕刊トップ記事で報じられた。その2日後の夕刊16面2段見出しで阪急神戸線車両減で節電、と報じられた。「お〃やるか、阪急は!」の気持ちになった。その昔、電鉄各社は電力費低減のため工夫をこらしたものだ。1951年4月、京阪特急が1700系4連で登場した時、三条発車は4連、折り返し天満橋発は2連であった。1957年3月、急行が5連で運用されるようになった時、1000・1500・1200+1200・1000の組成で三条出発、折り返し天満橋発は3連と2連に分割され急行発車後1分遅れで、2連となった普通が発車する運用ががあった。共に終端駅で増解結を繰り返しながら列車運用をして、乗客の増減に応じ効率良い電力消費をしていたのである。

ところがATS設置の頃から状況に変化が見られるようになった。長編成組成も一因だが、固定編成が常識となり、運転台付き電動車が車両費節減につながるとして新造が抑えられてきた。それが空気を運ぶ列車増加につながっている。今回の阪急の処置は当然である。京都線も大市交乗り入れ列車を含め6連とすれば良いと思う。嵐山線も6300系は昼寝して7200系増結用2蓮で十二分だ。こうした動きの中で大飯原発故障運転中止が報じられた。阪急の選択は正しかったのである。このところ本線、副本線上での増解結は混乱を招くとして避けられる傾向にあるが、各社共々に工夫を凝らし減便ではなく先ず減車にに取り組んでみてはどうだろう。欧米では15分毎なら頻発運転なのだそうだ。関西は10分毎に慣らされてきた。東京は何でも3分毎だそうだ。行儀よく座れば快適な車内保持は確実に出来る。つぎはどこだろうか。

松本電鉄浅間線 その3

先回最後の俯瞰写真に関し、急カーブとの関連がよく分らんとのご指摘があり、改めてもう1コマ俯瞰写真を入れておく。またこのカーブ半径を5鎖と記したのは大間違いで、28mmレンズのため大きく、広く見えるはするが、1鎖(20m強)程度であろう。

左下が松本駅。 この地図では浅間線がまだ駅に突っ込んだまま終点になっているが、市街を真っ直ぐ右(東)に向かい、直角に曲がって上(北)へ。このカーブのすぐ下にある「文」マークが教頭先生にお付き添いを頂いた女子高校(もしや彼は我々が女子生徒に何か悪さをしないかと心配したのではあるまいか。杞憂以外の何者でもないのに)。松本駅からカーブして左上に向かうのは上高地線である。

併用軌道は横田までで、以遠は新設軌道になる。横田には車庫があり、2回目の離合が行われ、乗務員も交代。松本に向かう乗客は結構あって、温泉行きだけでない、地域の交通手段であることが分る。


横田の駅と車庫 車両は6両中昼間4両が稼動しづめで2両が予備


乗務員も横田で交代


スタフを扱うのは本来運転手の業務のはずだが

横田以遠は新設軌道になる

横田の次に運動場前で3回目の離合。ここは運動イベントがない限りほぼ乗降はなく、単なる離合所である。


運動場前での離合


終点浅間温泉に着く


のんびりした風情

右の若者は誰でしょう

この線は一段高い温泉旅館街に突き当たっておしまい

プラットホームを歩く一見山行きのような若者は誰でしょう

電車の番号について記しておくと、ホデハ2、4、6、8、10、12の6両で、当初4~8、10だったが、5を2、7を10、10を12に改番し、全部偶数ばかりとしたのである。鉄道線たる上高地線は反対に全部奇数に揃えた。かように奇数、偶数で所属を示すのは、古くは官設鉄道の機関車でで行われ、九州の北筑軌道(→博多電気軌道→九州水力電気と所有者は変わったが、蒸気動力3フィート線は終始北筑線と通称)では、客車が奇数、貨車が偶数だったらしい。

メーカーは改番後で示すと2、4が東洋車両1924年、6、8、10が汽車東京1927年、12が日車1929年製。いずれもガラス風防がある開放デッキだったと思われるが、密閉式に改造。それでもデッキと客室に段差があるのは前に記した通り。

こののどかな浅間線は1964年4月1日廃止されたが、リポート等はなぜか極端に少ない。なおご覧頂いた写真は複数回にわたっており、小生1人/ダンナとワッチ(若かりし日の乙訓老人)と小生/ダンナと新兵(これは誰か当ててください)と小生/という撮影であった。小海線撮影の前後に訪れたケースでは、信州会館なる、やったら滅多ら大きな山男用宿泊施設に宿泊し、夜半にいささか怪ぬ見世物を覗いた記憶もある。入り口で呉れた紙切れには、新宿行夜行列車の時間と、駅までの略図があり、大方の客筋が分るが、「親切を絵に描く」とはまさしくこれだと、痛くその商才に感じ入ったことであった。

浅間温泉では場慣れしたダンナの誘導で、地元民専用の安い回数券をタバコ屋で求めて住民用浴場に。素朴な湯殿では、むき出しの鉄パイプから温泉が掛け流しされ、木札に墨痕淋漓「湯口で頭髪や入歯を洗わないで下さい」。これは小生が記してこそジョークになる。

ドレミ電車って?

今日のネットニュースに「ドレミ電車がなくなる」との記事が出ていました。何のことやらと読んでみると次のような話でした。

関東の方たちには当たり前の話題でしょうが関西では知りませんでした。

>ドレミファ…と音階を奏でながら走る京浜急行電鉄(京急、東京~神奈川)の通称「歌う電車」が、車両の改造工事が終わり次第、姿を消すことになった。登場からわずか10年余り。人気ユニット「くるり」の曲「赤い電車」のモデルにもなった人気車両で、京急社内でも惜しむ声が上がっている。(大竹直樹)

 「ファ~ソラシ、ドレミファ~」。車体の下から不思議な音階を奏でながら電車が動き出す。音階の正体は、モーターを制御するインバーターから聞こえる“騒音”だ。平成10年に登場した2100形電車と、14年に登場した新1000形電車に搭載されている独シーメンス社製の装置で、鉄道ファンからは「ドレミファインバーター」と呼ばれ、親しまれている。

 女性客からも「音がかわいい」といった反響も寄せられているといい、「歌う電車の宣伝はしていないが、喜んでもらえるのはうれしい」と京急。登場当時、車掌をしていた京急広報課の飯島学主任(35)は「音にも愛着をもっていただき、お客さまが目を輝かせて眺めてくれるのがうれしい」と目を細める。

 音階のように聞こえるのは、偶然の産物ではない。「実は開発したドイツ人技術者の遊び心」と語るのは、シーメンス日本法人モビリティ事業部の庄司不二雄さん(60)。ソフトのプログラムを工夫することで音を出すことができ、ドイツの高速鉄道「ICE」の車両が米国内で試験走行した際は「アメリカ国歌も奏でた」という。

 だが、京急の車両に搭載されている装置は経年劣化のため、日本製インバーターへの置き換えが進み、「歌う電車」は年々減少。2100形は10編成のうち6編成がすでに改造された。残り4編成もあと1年程度で改造を終える見込みという。

 一方、新1000形も改造工事が進んでいる。残り8編成の改造時期は定まっていないが、数年以内に全車両の改造を終える見通しで、京急社内にも“歌わない電車”への改造を惜しむ声が上がっている。

 「歌う電車」に乗るにはどうしたらいいのか。京急によると、外観で判別するのは難しく「運次第」。ただ、片側に2カ所扉がある2100形の快特電車では1時間あたり1本の確率で「歌う電車」にめぐり会える可能性があるという。

 「歌う電車」を生み出したシーメンスの庄司さんは、「なくなってしまうのは寂しいが、新しい装置に置き換わるのは時代の趨勢(すうせい)なので仕方ない」と見守っている。

 京急は「すべての『歌う電車』がなくなる時期は未定だが、残すことは考えていないので、なくなるまでに楽しんでほしい」と話している。<

(以上:産経イザより転載)

松本電鉄浅間線 その2


学校前の離合所 電車左の蒲鉾型コンクリート工作物は恐らく戦時中の公共防空壕であろう

紙芝居めいた「次回予告」をしてしまったが、松本を出て最初の離合場所が学校前である。その名に違わずいくつかの高校などがかたまっていたように記憶し、旧制松本高等学校も確かこの一帯だったんじゃないか。


運転台をピッタリ合わせ 通票(スタフ)を交換する

停車位置がズレると 片方の乗務員が下車せねばならない

ここの急カーブを何とか立体的に撮れないものかと思案し、道路に沿った恐ろしく古い木造の校舎に目をつけた。記憶が薄れているが、確か女子高校だったような気がする。職員室に乗り込み、「若干の言語」を弄して報道機関カメラマンであるかの如き印象を教頭に与え(嘘はついていないから念の為。彼が勝手にそう誤解しただけ)、学校内立ち入り=足場確保の承認を得た。それでも教頭はかなりの猜疑心にかられたようで、撮影中ずっと付き添っていた。これも確たる記憶がないが、重澤旦那、吉田、小生の3人=リュックサックに登山靴かキャラバンシューズ、山行きともつかず、カメラマンとも思えない風体はともかく、人品骨柄卑しからぬ気品を感じたことは間違いなかろう。幸い10分毎に離合写真が撮れる。


停留場名が「学校前」だけあってこの周辺は学校だらけ

で、2階と3階から、この急カーブを曲がる電車が目出度く撮影できた。恐らく半径は10鎖=20mか、フランジがこすれるキィーキィーキィーという音が、終日絶えないわけである。上から見下ろすと、台車がグイと振られ、あたかも車体からはみ出しているかの如し。

またまた蛇足だが、欧州の旧市街ではこの程度のカーブは珍しくも何ともないのに、ついぞキィーキィーは聞いたことがない。鹿島雅美氏に伺うと、未明―初発より早く、人力でレールのフランジ接触部分に油を塗っているからに過ぎず、作業員は殆どが北アフリカ系だそうな。そういえば、パリ街中のプチホテルに泊まった際、同行のとんでもない早起き「偉いさん」に未明の散歩を付き合わされたことがある。無人の街路の皿溝に満々と水が流れ、やはり北アフリカ系の作業員が道路のゴミをその流れに掃きこんでいた。

現在この箇所をグーグルで検索・拡大すると、どうやらピッカピカの松本秀峰中等教育学校が、足場を借りた学校の後裔らしい。何でも中高一貫6年制の私立学校で、それもつい昨年ぐらいに開校したとか。バス停の名称は城南高校前て、この時の面影はない。

話を戻して、ここで直角に曲がった線路は無舗装の地道中央を北に向かう。こんな俯瞰は足場がないと撮れない。大きな木造建築はみんな学校である。


無舗装の道幅は約7m=4間道路なのであろう

福井鉄道・琴電の元京浜急行

7月7日の「京浜急行140型」に対し、翌日には両長老から書込みがあり、DRFCクローバー会の実力を改めて感じた。 

福井鉄道は昭和23年福井地震で焼失車両が発生したのに加え、同じ年に南越線が電化したため電車の絶対数が足りず、相当無理をして入線させたものと思われる。使用できたのは車体のみで台車、電装品は別のところから調達する必要があった。
昭和42年3月時点では、電装解除されたハ102が南越線のラッシュ時増結用として辛うじて生き残っていた。尚、福井鉄道モハ101、モハ103の実物の写真を見たのは初めてである。

 
ハ102 昭和42年3月20日  社武生

琴電に関しては乙訓の長老の詳細な解説がすべてであり、簡易鋼体化された64、車体を新製した62、72を新製車体に載せ換え電装した65の画像を貼り付ける。

 


64  昭和44年3月20日 長尾/台車は原形のテーラー台車である。

 
62  昭和44年3月20日 瓦町/昭和28年に自社で車体を新製した。

 
65  昭和44年3月20日 瓦町/昭和35年に72を鋼体化(車体新製)の上電装した。

昭和34年11月京浜急行120形を6両譲受け、昭和36年に自社工場で鋼体化の上、10形(11、12)/電動車、90形(91~94)/制御車となった。長老が撮影された、上から2番目の仏生山での京浜急行128の画像は鋼体化改造前である。
改造により正面5枚窓は失われたが、屋根のカーブはそのままで原形の面影が多分に残っていた。

 
11 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ127、乗務員扉がなく乗務員室は極めて狭い。

 
93 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ124

 
94 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ123

 
94の台車

 
33(元阪神910)との並び

井笠鉄道連載 その7 番外編

中国新聞の連載は6回で終了しましたが、番外編として あまり紹介されていないであろう井笠の車両たちのその後の様子などをご紹介して この連載の最後と致します。なお横着をしてアルバムに貼ってあるプリント写真をスキャンしましたので お見苦しい点はご容赦を。

笠岡駅構内の西側に県道34号線の跨線橋があり、その跨線橋の海側の高架下にホジ9が保存されていました(現在もあるかどうか未確認)。この2枚は昭和51年撮影ですが、その後昭和52年9月も同じ状態でした。高架下で雨がかかる心配はないので車体は比較的痛みは少なく 塗色もまずまずでしたが 窓ガラスや連結器もなく みすぼらしい姿でした。ちなみにこのホジ9は昭和6年梅鉢製。

昭和46年4月1日に全線廃止後長らく くじ場車庫には多くの車両が保管されていました。駅の敷地は板囲いで立ち入り禁止になってはいましたが 入るのは容易で 荒れ果てた車庫内で撮影しました。廃止後5年の昭和51年の状況です。カラー写真は昭和60年12月30日撮影、 下津井電鉄下津井駅に留置されていたi井笠ホジ3。平成3年1月1日に全線廃止された下津井鉄道で レール撤去工事などで最後のご奉公をしたホジ3でした。

上の写真が旧くじ場駅本屋で 井笠観光開発㈱旅行案内所の看板は上がっていますが この日は無人でした。バスの待合所でもあります。塀の中に入ると荒れた車両が多く残っていたのですが、残念ながら車番を記録していません。一番奥がホジ8、ホワフ、ホハ、ホワフでしょう。

山陽本線備後赤坂駅北側の丘陵地帯に赤坂遊園という 田舎版「ひらかたパーク」があって 子供を連れてよく遊びに行ったものでした。この遊園地のなかに なぜか井笠鉄道の車両が多く保存されていました。上の写真の左側に写っているのがコッペル3号機です。実機にはなぜか「2」の表記があるのですが 実際の2号機は岡山の池田動物園に行っているのに、製番6535の3号機がなぜか2号機になっていたようです。コッペルのほかにホハ11、ホハ12、ホワフ5、ホト2が保存されていました。

これらの井笠保存車の外側にゲージ600mm?のこども列車があり 加藤の3Ton ? 機関車がSLらしく改造されて 周回していました。製造年や前歴など詳しいことは不明です。芦田川などの河川工事にでも使われていたものかと想像します。この遊園地はいつのまにか閉園されて この機関車もどこへ行ったのか不明です(一説には太陽保育園?に行った)。また井笠の車両たちの行く末も調べていません。

この遊園列車の駅舎として使われていたのが、井笠鉄道薬師駅で わざわざここへ移設したようです。駅名標は「ふくやま」となっていますが 多分山陽線福山駅の高架化で不要になった地上ホームにあったものを持ってきたのでしょう。

ホワ2

ホワフ5

井笠の9号機は珍しい経歴の機関車で 1910年ベルギーのCockerill製。 釜石製鉄所から移ってきて井笠9号となり、昭和36年に廃車。その後昭和43年に上記の笠岡跨線橋下に保存、昭和48年にはなんと京都 桃山城に展示され、今度は井原鉄道井原駅建設予定地に移されたという 現役引退後もあちこち引っ張りまわされたSLでした。ベルギー製の機関車は珍しいのですが、あちこち改造されて結局シリンダ回りだけが製造当初のものと言われているようです。次の写真は平成5年8月14日撮影ですが、井原鉄道開業に伴い また場所を移されて 駅の東の七日市公園に屋根なしの状態で保存されました。

 井原駅予定地にて

 七日市公園にて(H11,1,30)

コッペル製のSLは1,2,3,6,7号機の5両がありましたが 7号機は昭和45年にスクラップとして売られ、姫路市網干区北在家のパチンコ店「百万ドル」の駐車場に放置されていました。撮影は平成9年7月24日です。 サイドタンクとキャブに「ホリデー号」と書かれていますので何らかの使い方をされたあと お役ご免でこの駐車場の隅に放置されたのでしょう。由緒正しきコッペル機がこのような姿をさらしているのは つらいものがありました。サイドタンクには井笠の社紋や7の文字がリベット止めされて残っていました。

最後に 笠岡駅にあった1067mmと762mmの平面クロスをご紹介します。笠岡駅の線路配置が北から国鉄の貨物引き込み線、次いで井笠鉄道、そして国鉄本線となっていましたので 井笠の列車は必ず国鉄の貨物引き込み線を横切っていたわけです。そのため異ゲージの平面クロスがあったのです。撮影したのは昭和51年ですから 井笠の廃止後です。このクロッシング前後の井笠のレールは撤去されていましたが、国鉄の貨物線は生きていたので、この部分だけが元の姿で残っていたものと思います。このような場合の保安方式がどうなっていたのか 今頃になって興味が湧いてきますが どなたかご存じなら教えてください。市電などは別として 平面クロスを見る機会はほとんどなくなりましたが 余談ながら糸崎駅構内にも珍しい平面クロスがあったのですが写真に残しておらず 悔やんでいます。それは三菱三原から糸崎港に向かう1067と1435のデユアルゲージと日本セメントへの引込線(1067)とのクロッシングです。

とりとめのない番外編となりましたが、何かの参考になれば幸いです。以上

 

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part15  阜新煤礦鉄路 その5

第11日目 5月28日
平安14:08(114次)→14:35王營(Bus)→15:32阜新
② 阜新19:00(2106次)→10:17北京北

モーニングコールよりも早くに起き上がれました。ロビーに下りると既にF先生とO氏のお二人さんともお待ちでした。
今日お二人は、阜新から瀋陽に向かわれ、乗換えてハルピンへ。一泊されて翌朝のCZ便で帰国されます。一方の私は、夜の夜行列車で北京に戻り、いつもの一人旅となります。

▲ Taxiを待って昨日同様の平安駅踏切に着きましたがご覧のとおりの夜明け前です。写真は3:56、ISO3200、F5.6・1/40の手持ちで撮っています。


▲ 4:20、ようやく入替作業の開始、昨日と違ってスモッグが濃いようです。まだ薄暗いのに機関車の前照灯は消していました。入替機は1319号機


▲ 5:131319号機が入替作業を終えて一息つく頃に朝日が雲間から顔を覗かせました。

▲ 5:20、ヤード横からの1460号機が後ろ牽引でズリ捨て線を上がっていきました。


▲ 7:06、朝日が差し込む平安站に到着した988号機牽引の職工通勤列車。

お2人が帰途につかれた後、平安站からまだ行っていない王營站までを乗車してみることにしました。




▲  平安~王營間は工場、住宅街の中を通って14:25に王營站に到着しました。所要時間27分間の短い乗車時間でした。乗客の殆どは終点一つ手前の民主站で降りて、王營站では私一人の下車でした。王營站は採炭場があるのみで見渡す限りのとうもろこし畑が広がっています。折り返し列車は17:28。蒸気もいなく時間があり過ぎるので職工さんに近くのバス停を教えてもらい阜新站に戻りました。 王營站はこちらです。

阜新站からはバイクTaxiに乗って新邱からの帰りに見た上遊型が放置されていた高徳站方面に向かいました。

▲ 16:30高徳站に到着。O氏が運行しているかどうかを確認したがっておられた海州露天鉱方面からのズリ満載の5両編成が入線していました。牽引するのは、この炭鉱線で最も綺麗と思われる1320号機。しばらくすると新邱方面へと走行して行きましたが、この方向にはズリ捨て場はなかったはずで、一体どこへ向かったのか疑問が残りました。本線上をヤード方面に向かうのは、1460号機牽引の空車のズリ6両編成。と言う事は、新邱方面に見過ごしたズリ捨て路線があるようです。


▲ 探していた上遊型の廃車は、ヤード方面に約10分歩いた所にありました。911、989号機と番号不明のもう1台の計3台が放置されていました。本線上との塀のかさ上げ工事をしていた職工のお兄さんには写真を撮って欲しいと頼まれました。ついでに入っておいでよと誘ってくださいます。上遊型の他にもかなりの車両が放置されていて見てみたかったのですが、見るとかなり時間がかかりそうなので、丁重にお断りして先を急ぎました。

【海州露天鉱国家鉱山公園】
さらに線路沿いをヤードに向けて約20分を歩くと海州露天鉱国家鉱山公園に着きました。海州露天鉱はかつてアジア最大の露天鉱と言われ、阜新は石炭によって立ち、石炭によって栄えました。2005年、資源枯渇のために一応閉鎖されましたが、その歴史を保存する記念館が開設されていました。地図はこちらへ。

▲ 幅4×2キロ、深さ250mもの広大な露天掘を一望できる展望台があり、かつての路線跡も見ることが出来ました。そして公園内にはかつて露天鉱で活躍した車両の展示もされていました。

▲ 露天鉱で使用された連接式のZG150-1500型電気機関車、韶峰028号機。1972年製造、でかい!

【ZG150-1500型】
直流1500V、 全長;20.26m、幅;3.20m、高さ4.77m、
自重150㌧、軸配置;B0-B0-B0、1時間定格出力;350kw×6=2100kw、1時間定格引張力;256KN、軌間;1435mm、最小走行半径;80m、最高速度;65km/h、撫順露天鉱等主要炭鉱で使用された。


【推土犁 Bulldozes the plow】
全長;14.41m、幅;3.604m、高さ;4.456m、自重95㌧、ズリ線のラッセル用。自走は出来ず機関車に牽引してもらいます。


▲ 巨大なパワーショベル、ラッセル車、1974年製の上遊型1395号機。

もう少しゆっくりと見たかったのですが、夜行列車の乗車時間が近づいてきました。阜新站へと急ぎました。

阜新煤礦鉄路の訪問記のバックナンバーは下記をクリックしてください。
その1その2その3その4

福井鉄道の旧京浜


福井鉄道南越線モハ103 

乙訓ご老人の投稿があって、待てよ、確か須磨老人も福井で撮ってる筈と、限りなく薄れた記憶を搾り出すと、1958年7月30日南越線でモハ103を、翌年4月3日鯖浦線でモハ101を撮っていた。高松琴平同様、京浜電気鉄道の新車導入に対する代償=「供出」で、当然ながら最も古い車両を手放したのである。詳細は乙訓老人か、藤本哲男氏にお願いしたい。元来この老人がなんでこんな電車を撮っているんだといわれそうだが、話は簡単―木製車だからでありますよ。中央扉が真ん中にないのが福井での特徴みたいですね。


福井鉄道鯖浦線モハ101

他に例を見ないオデコ・京浜140型

DRFCが結成される前の1958年春休み、3度目の東京電車見物に出かけている。当時のメモによれば4月4日東武西新井工場、5日雨につき京成全線乗りまわし、6日交通博物館、7日小田急経堂工場、そして相模鉄道5000形乗車、8日京浜川崎車庫と金沢文庫車庫となっていた。140型は最初の東京電車見物、1952年の時に見ており、230型の中間車として使用されていた。今回、他に例を見ないオデコ(関西ではデボチン)と紹介され、このオデコ「高松で見たぞ」となり探してみた。①高琴電鉄モハ21号である。吉川さんの記述によれば、開業期の1号型を大正期1926年に車体更新したものだと紹介されている。デ14形14~17号のうち16号のようだ。東急合併時には5110形5113号、京浜分離後は113号となり、四国に渡ることになった。

このスタイルなら「もう1丁あったぞ!」と探し出したのが1959年夏、京都駅で貨物列車の最後尾に繋がれ高松へ回送される姿を見た②128号。この120形は1921年藤永田造船製造のデ40形がスタートで、デボチン拡大初代となる。しかもタマゴ型5窓、関西スタイルがプロトタイプとなった。他に例を見ないオデコになったのは、正面に行き先方向幕を移したことが拡大理由だそうだ。京浜電車は窓高が大きいことで評判を呼んだが、そのはしりが後に120型となったデ40形と言えよう。その発展型が140形で、制御車として先頭に出るようになったのは120形引退が引き金になった様だ。120形は1958年に5両、翌年6両の廃車、その6両のうち2両が回送されている姿を、老人は図らずも目撃したのであった。高松では後に鋼体化、10形2両、60形4両となった。

1958年4月車両基本編成表では川崎車庫に140形は153~160号の8両が配属されており、そのうち2両が293+159(+261)、296+160(+271)-()内は朝夕ラッシュ時の増結車-の2編成となり、閑散時に140形の運転台が風を切ることになった。残る6両は230形に挟まれ本線用となっていた。川崎車庫所属車に120形11両中6両が大師線用として残り、そのうち123、124、126、128が3扉車290形とカップルとなり、先の140形組み込み編成と共に3扉車6本、ラッシュ時は2扉車230形の増結を得て威力を発揮したのであった。131号は266と編成を組み大師線用、127号も262と組み予備車となっていた。これがDRFC発足当時のデボチン電車の実態と言えるであろう。

ついでに京浜電車から終戦直後、63供出車として高松へ送られた電車は21号以外に7両あった。老人が瓦町駅待合室での仮眠から目覚めた時、始めて撮影した元京浜電車2両を紹介しよう。③70形71号は大正初期に製造されたデハ29型に始まる正面が丸い3ツ窓木造車の後身である。中央窓の上部が丸く左右の窓もカーブがきつく印象深い。72号と2両あった。④60形61号は70形の電動車で、4両の内3両は原型の木造車体を簡易鋼体化の結果、正面の特長あるスタイルは失われた。残る1両は鋼体を新造した正面2ツ窓d2D6D2dの近代的なスタイル、2電圧対応型の今後の琴電の標準車になる筈であった62号であった。更に1両、琴平線用に61号と同スタイルの制御車15000形1510号があった。いつのまにか600V用になり73号になっていた。これで7両となる。

先の記述の中で141形は140形、仕事と孫の付き合いは7/1~3であったこと、訂正します。

①デボチンの広さもさることながら、台枠もおもしろそうだ

①デボチンの広さもさることながら、台枠もおもしろそうだ

②仏生山到着後8ケ月後、ボ繝・?繝・?姿となった。
②仏生山到着後8ケ月後、ボロボロの姿となった。
③譽・?荳・?窓はイケメン(長身男前)運転士用に採用

③正面中央窓はイケメン(長身男前)運転士用に採用

④原型の姿が失われた簡易鋼体化
④原型の姿が失われた簡易鋼体化