私は阪和線にはトンと縁がなかったので知識はありません。
このタイトルにある「国鉄阪和線モタ303号」には「?」が付きます。国鉄時代にモタと称していたのか疑問です。また、「アイスキャンデー塗装」とは何か?疑問がわいてきます。
河さん、教えて下さい!
【岡山市東区沼 グリルアルプス跡】 34.703305, 134.033356 1997年10月25日撮影
オハ46 2043
スハフ42 2255
↑オハ46 2043 奥にスハフ42 2255の後位寄り妻面が少し見える。
現在の岡山市東区で、かつての国道2号(現250号)のドライブインだったが、訪問時には店は閉鎖、客車の両端と国道側(南側)は背の高いフェンスが張られて殆ど見えなくなっていた。北の田圃側からオハ46 2043と、スハフ42 2255の妻面が見えただけである。2010年に撤去されたそうで、現在は跡形もないと思う。
ここは在来線からは見えたが、新幹線からは沼城跡とトンネルの間の一瞬しか見えなかった。
◆オハ46 43(1955年新製 日立)→オハ46 2043→1986年廃車
◆スハフ42 255(1954年新製 日車)→(1961年電暖追設)スハフ42 2255→1986年廃車
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西村さんから福塩線下川辺駅のご報告がありましたので、それに関連して福塩線の昭和29年4月9日までと昭和29年4月10日からの時刻表をお目に掛けます。日本交通公社の『時刻表』昭和29年4月号と5月号です。
↑昭和29年4月号p.62
内容は4月10日の時刻改正前の時刻です。昔は、4月の時刻改正が4月号に掲載されないことがありました。
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JR福塩線は福山から府中までの23.6Kmは両備軽便鉄道によって建設され、府中から塩町までの54.4Kmは国鉄によって建設されたという歴史はご存知の通りです。福山・府中間は電化されていて列車本数も多いのですが、府中・塩町間は非電化で6往復しか設定されておらず、主な利用客は高校生であり、三江線と同様に廃止が取り沙汰されている線区です。さてその非電化区間、府中の次の駅が下川辺駅です。
【柵原ふれあい鉱山公園】 34.943476, 134.081371 2018年4月19日撮影
オハ35 1227(片上鉄道ホハフ3002)
↑オハ35 1227(茶色の客車)
改札を入って、誰もいないと思って客車のあるホームへ行くと、ベンチでオッサンが寝ていたのて一瞬驚いた(わかりにくいが、上の写真の青いホハフ2004の前のベンチ)。ホームレスでもなさそうな様子であったが、一通り撮影を終えて帰る時もまだ寝ていた。
◆オハ35 1227(1947年新製 日車)→1955年更新修繕-Ⅰ 幡生工→1980年廃車→(1981年)片上鉄道ホハフ3002→1991年廃車
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趣味誌の中では私は鉄道ピクトリアルを懐メロ的に捉えておりこの歳になっても購読を続けている。要するに自分と関係のある時代の古い写真が好きなのである。同誌の2019年10月号は「阪急電鉄京都線特急」の特集であり、掲載写真をみるとDRFC-OBからも5人の方、そして会友である河昭一郎さんのお名前も見られる。その中で圧巻は40~41頁桂川橋梁上の132の超特急である。
さて、本題のP-6であるが、同誌10月号本文の最初に掲載された鉄道友の会会員であり京都大学鉄道研究会OBの山口益生さんの「”P-6”にまつわる話」という記事に非常に興味を持った。改めてその部分を取り出してみて一部をそのまま引用させていただき私の久しぶりの投稿とした。
まず、我々はP-6、P-5(P-4)はよく知っているが、P-1は新京阪が買収した北大阪の車両ということで私はよく知らない。さらにP-2は電動車60両、P-3は付随車16両計76両の3扉16m級クロスシート木造車とのことであるが、いろいろと事情があって幻となったようである。このあたりは古い資料をよく発表されたと思うが見たことがない人間にはピンと来ない。
P-6の最大の特徴である幌は画竜点睛と称されている。これがないとP-6の顏でないと思っている人は私を含め多いと思う。この幌も雨天時に油を含んだ汚水が乗務員の制服を汚すということを聞いたことがあるが、幌が出っ張り過ぎて夜間作業員の姿が見え難く人身事故を起こしてしまい廃止されたということは始めて知った。
▼私は幌付きのP-6を見たことがなく、車庫で着脱式のそれを見たことがあり高橋先輩から「珍しいよ」と言われて撮るには撮ったが納得できるものではなかった。1968.05.30 桂
事務局からも案内のとおり、大津市歴史博物館で、本日10月1日から、「ミニ企画展 江若鉄道」が開催されています。同館では、過去3回に渡って、江若鉄道や大津の鉄道に関する企画展を実施、いずれも絶大な人気で、入館者数も図録販売も記録的な数字を達成しました。なおも地元では江若への熱い思いが続き、再度の展示が待望されていました。ことし3月にも、江若交通本社で趣味者グループが江若展を開催、そして廃止からちょうど50年、来年には会社設立100周年を迎えるいま、大津市歴史博物館で三たびの開催となりました。
▲開催初日の本日、午後2時から、オープニングイベントとして現地見学会「江若三井寺下駅を探検する」が行なわれた。まず館内展示の三井寺下ジオラマのまえで、学芸員のKさん、西村さんの説明を受け、50年前の姿を頭にイメージしてから、フィールドワークに出発した。背後はクローバー会制作のスライドショー、86さんの白鬚駅が上映中。
【高松市 卸センター】 34.358880, 134.065782 2018年11月8日撮影
オハフ50 180
高松市朝日新町の宮脇書店総本店のすぐ近くに「卸センター」バス停があり、その約200m北の㈱Welleg(㈱菱屋から社名変更)本社敷地にオハフ50 180がいる。テニスコートが2面あり、その更衣室・用具置場として利用されていると思われる。サボは「中村-高松」である。
宮脇書店総本店には観覧車があるが、老朽化の為営業を終了した。
◆オハフ50 180(1979年新製 新潟)→1989年廃車
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奥津軽いまべつ
このテーマの最終回として、北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅のことを採り上げました。3年前の新幹線開業時にできた駅であり、“ふた旅”ではなく、初見参の駅でしたが、その複雑な歴史や駅構造、隣接する津軽二股駅のことにも触れてみることにします。
奥津軽いまべつ駅は、今でこそ、北海道新幹線の駅ですが、この駅ができたのは、1988年に津軽海峡線が開業した時であり、当時は「津軽今別」と称していました。多くの特急列車や長大な貨物列車が通るため、対向式のホーム長のある駅でした。
▲現在の奥津軽いまべつに到着する「はやぶさ」。一日の発着本数は上下14本、一日平均の乗降人数は66人で、新幹線駅のなかでは最も少ない。3年経っても、見物目当ての客のほうがが多く、私もみどりの窓口で収集目的で観光入場券を買うと、駅員から“もうすぐ列車が来ますから、見ていったらどうですか”と勧められ、ホームに入場した。本州にある、唯一のJR北海道の駅で、すべて北海道仕様の駅だった。
【富士市 入山瀬公園】 2017年11月23日撮影 35.188772, 138.646449
・オハ35 441
入山瀬公園は身延線入山瀬駅そばにあり、「でごいち文庫」という子ども図書館として利用されている。隣にD51 943が保存されていて、身延線の電車からも見える。撮影の為樹木の葉のない時季に行ったが、見るのなら当然緑に囲まれた季節のほうが落ち着く。
◆スハ35180(1941年新製 日車)→(1941年改番)オハ35 441→1954年更新修繕-Ⅰ 長野工→1977年廃車
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秋田
五能線で18きっぷ乗車を楽しみ、東能代から乗り換えて、秋田まで来ました。あとは、夕方の伊丹便までの数時間を使って、秋田駅の今昔対比と、男鹿線の初乗車をすることにしました。新幹線開業後の秋田駅で、乗り換えたことはあるものの、駅の内外をゆっくりするのは初めてのことでした。駅舎は橋上駅になり、裏手にあった機関区もすべて無くなり、一見して大きく変貌したように見えますが、新幹線は、高架の新設駅ではなく、在来線ホームの半分を使って発着していますから、構内の配線だけは以前と変わらず、50年前に見たシーンがそのまま残っていました。
▲撮影した昭和43年9月は、まだ秋田まで電化が到達しておらず、列車もほとんどが蒸機牽引で、DLは少数だった。2番ホームから、酒田発男鹿行き1137レが発車するところ。この列車は、秋田をスルーして羽越本線から男鹿線に入る珍しい列車。秋田まではD51牽引だが、男鹿線に入線できないので、C11 144〔秋〕に交替するが、切り欠き式のホームのため、有効長が足らず、C11は半分がホームからハミ出している。
【谷汲口駅】 2014年4月9日(1-3位側)、2013年12月30日撮影(2-4位側) 35.527560, 136.642170
オハフ33 1527(樽見鉄道オハフ502)
樽見鉄道谷汲口駅構内には数多くのソメイヨシノが植わっている。ここは特段観光地でもなく、近くには西国第三十三番満願霊場 谷汲山華厳寺があるのに、桜の見頃の時季にはわざわざ立ち寄って小休止していく観光バスもある。
◆オハ35 1042(1947年3月新製 日立)→(1964年12月26日改造 高砂工)オハフ33 1527→1974年1月25日体質改善B3 高砂工→1984年廃車→樽見鉄道オハフ502→1990年廃車
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五能線を旅する
五所川原を7:58発の3524Dに乗って、東能代まで約3時間の18きっぷの旅に出ました。空は快晴、岩木山も秀麗を見せ、まもなく日本海に沿って走ります。五能線は、そのものがメジャーな観光地になっていて、観光用のリゾート列車も賑わっていると聞きます。さすがに普通列車までには及ばず、車内は、地元の乗客、高校生でちょうど埋まる具合、と思っていたら、途中の千畳敷や鰺ヶ沢から、観光客がどんどん乗り込んできて、数駅だけ乗っては下車して行きます。どうやらバスツアーで、数駅だけ五能線に体験乗車し、先回りしたバスに乗車というコースのようです。
途中で首尾良く、キハ40系特有の二人掛けの座席を確保、個室感覚で、誰に気兼ねもなく、窓を全開して、ナマの風を入れて、要所では身を乗り出して、撮影を楽しみます。普通列車の一人旅の良さをしみじみ感じる時でした。
▲五能線は何度か乗車しているが、天候には恵まれず、今回、初めて青空のもとを走った。いまや窓を全開して、走り去る車窓を思い切り写せる車両も貴重になった(追良瀬~広戸)。
【日田天領水の里 元氣の駅(鉄道公園)】 33.311566, 130.922324 2018年10月27日撮影
オロネ15 3005、スハネフ14 5
日田は大分県であるが、久大本線の福岡県寄りに位置するので、大阪から行くには新幹線の久留米経由が便利で、特急「ゆふいんの森」を利用した。日田駅のホームに日田杉の馬鹿でかい下駄が置いてあった。
三隈川(いつの間にか筑後川に変わる)が市街地の南を流れていて、日田天領水の里 元氣の駅(鉄道公園)はその中州にある食品会社の敷地内の公園である。
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河 昭一郎さんからこんなメールを頂きました。
先日、鉄道関係の写真を整理していたところ貼付のような1枚が出て来ました。 これは、この年の夏に京都へ行った時、想い出の高槻も訪問したのですが、その時高槻駅で見付けホームから撮ったものです。 この電車らしき物は高槻駅の橋上駅舎と思われる建物の中に有って、なんとなくチャチな模型に見えました。 一見ベニヤ板で出来ているような感じもあるのですが、イベント?の展示品でもなさそうで、引き戸式のドアが開いている所を見ると、物置等何かに使用している様子もあります。 何のつもりで、何のために存在していたのかがミステリーで、更に言えば塗色も国鉄やJRには有り得ない派手派手色です。 と言う事で、物知り揃いのDRFC会員の方に教えて頂きたいのですが、これを『デジ青』上で、ご教示いただく訳にはいかないでしょうか? 漫才の『地下鉄の電車は何処から入れたんでしょうネ?』では有りませんが、『夜も眠れません!』(笑)
と、いうわけで問題の写真をご覧下さい。
五所川原
野辺地からは、青森→三厩→津軽二股→津軽中里→五所川原とJR津軽線、路線バス、津軽鉄道を乗り継いで五所川原まで来ました。五能線の五所川原も思い出深いところです。最近も、津軽鉄道と絡めたり、観光旅行の途次に、何度か訪れています。数年前の冬に行った時は、保存したデジカメデータが、ハードディスクのトラブルに巻き込まれ飛んでしまい、すべて消えてしまうアクシデントもありました。やはり、思い出に残るのは、まだ8620が走っていた50年前の五所川原です。今とは違う、熱気、賑わいが感じられる時でした。
▲昭和47年2月、訪れた五所川原には、雪が降り続いていた。向こうの島式ホームで列車を待つ乗客の姿も、視界が定かでなくなってきた。間に置かれた植木鉢に積もる雪がアクセントになった。