工房便り D50の制作(1)

バラ��ットの外箱。値��は3950円!下の写真集はいつも参考にする小寺康��さんの「蒸気機関車の角度」

今朝も工房は稼働を始めました。このところ、工事中のSLが幅を利かせている工房ですが、今回から数回に分けてD50をご紹介します。
以前、この掲示板に「天然色写真で巡る40年前の九州」と題する総本家 青信号特派員さんの書込みに関連して、未着手のD50バラキットを組み立てるためのモデルとなる門鉄デフの参考写真をお願いしたところ、いくつかの機番の写真を見つけていただきました。そのうち129号機が門鉄デフの標準的な姿で、変わった改造もなく最も好ましいスタイルでした。偶然にもキットに入っていた3種類のナンバープレートの中に129があり、この写真の姿を参考にしながらD50129として制作を進めることとしたわけです。
宮沢模型のバラキット
この製品は1970年代初頭に宮沢模型がC54、D50を発売し、組立済みキットの他に私が入手したバラキット(上回りのみ、足回り無し)が発売されたと記憶しています。同時に別売パーツとして主台枠(ダイカスト製)、動輪、サイドロッドが入手出来、箱に入れていました。以来約40年を経過することになりましたが、形の気に入らなかった煙突をはじめとする細々としたパーツ類は良いものを店頭で見つけるたびに購入していたようで、今回それらを全て生かすことが出来ました。
サンドドーム
D50と言えばサンドドームの形状が、汽車会社製は角ばっているというのがD50を語る上で欠かせない話ですね。129号機は旧形式9900型の19928号機として竣功、川崎製です。ところがキットに入っているのは明らかに汽車会社製をモデルにしているようです。悩んだ末、木型を製作してタタキ戻すという改造を施したのですが、当初これで良いと思ったものの、写真を見ているうちに高さが高すぎることが分かり、約1mmスライスして高さを下げる手戻り工事を2度も行う前例のない難工事となりました。かなり組立が進行してからでしたが、何とか雰囲気を出せたかなと思っています。(その写真は後日) 

 

どう見ても汽車会社製?

どう見ても汽車会社製?

木型

 

タタ��戻しました

タタキ戻しましたが後日スライスして高さを低くする難工事となりました

上回りの組立と下回り
ボイラー、キャブは曲げ済みで各パーツとも寸法精度が比較的良く、特に難しいところはありません。煙突は引き物をボイラーに沿わせてプレスした製品が附属していましたが、形が綺麗でないため、見つけて購入しておいたロストワックス製を取り付けました。ボイラーサイドのハンドレールノブもこの時点で取り付けておきます。このあと、ボイラーとキャブ、ランボード・・・と大体の形になって行く過程ではそれぞれ傾きや高さ寸法を確定させる必要があります。そのため、この段階で一旦下回りの工作に移ることにしました。(つづく)

  

 

��ャブ

キャブ

 

煙突は別売の��ストワックス製

煙突は別売のロストワックス製

 

写真でつづる京阪電車開業100年展

南国土佐から桜のたよりが届いた3月10日は箕面有馬電気軌道の開業100年記念日。その年1910年は引き続き15日に兵庫電気軌道、25日は嵐山電車軌道、月が変わって4月5日は神戸電気鉄道、そして15日は京阪電気鉄道が開業した。この100年前は”撮り鉄”はまだ存在していなかったようで、”乗り鉄”の動勢を当時の新聞は伝えていた。

DRFCクローバー会は、鉄道ピクトリアルを通じ因縁浅からぬ京阪電車開業100年を記念して、会員及び会友撮影と会社提供の写真25枚で100年の歴史を紹介する。会場は京阪電車七条駅下車東へ2分、コンビニ・ファミリーマート2階、”集酉楽”。会期は2010年4月1日~30日、10時~18時の間。ただし、月曜日は休み。入場無料。飲食物は有料。

4月24日(土)18時から例会を”集酉楽”で行う。今回のテーマは【レイル掲載のC6120(奥山会員)、京阪特急物語(澤村会員)の祝賀会】、間に合えば【鉄道図書刊行会:日本の客車の再販(佐竹会員)】と大盛りです。会費は3000円、申し込み受け付けは先着24人まで。FAXは075(315)7801(4月22日まで)、電話は090(3654)8224:沖中まで。入学年度と氏名を正確に告げてください。席上、今夏発売予定の鉄道ピクトリアル特集”阪急電鉄”・グラフコーナーへ参加希望者を募集します。そしてテーマについて提案行います。また、11月7日(日)ホームカミングディの内容について幹事会+加太会から提案を行います。以上、今年も多彩な行事がてんこ盛りのクローバー会となりますが、ご協力お願いします。

またまた米手氏の誘いに乗る

米手作市氏ご幼年のみぎりのご撮影になるDF411の写真が出た。まだ反応がないので、致し方なく?その実ニコニコと老人が誘いに乗ることにした。こんな大型ディーゼル機関車は全く老人の趣味の対象外だが、まあ試運転だと聞いて、DRFCメンバーに付き合って京都駅まで出かけた。最後までさしたる興味も湧かなかった。撮影は1959年5月30日である。

いずれ詳しい方からの解説があるだろうから、アウトラインだけを。汽車会社1958年の作品で、国鉄では当初DF411、のち試作車は90台ということでDF921に改番した。機関はバーマイスタB&WDE1222VL形2サイクル、1,320PS電気式で、当時国鉄ではDF50、DD13を導入していたから、借り入れて(義理で?)使用したものの、1962年には返却してしまった。こんな大きな機関車は国鉄以外に買手がある訳ないから、結局は解体されたんじゃないか。

妻面窓下中央に小さな扉があり、乗務員が次位の客車に貫通?できるのが珍しかった。SGも積んでおり、福知山区に配属され、山陰本線で客貨に使われたが、大体国鉄は自前設計以外の車両には毛嫌いというか、極めて冷たい傾向が顕著である。

2010年 早春の中国一人旅 Part2 武广高鐡線初乗車

第2日目 2010年3月3日

① ホテル8:10-(地鉄・バス)→9:25広州南駅
② 広州南駅10:20-(G1036)→14:15武漢駅
③ 武漢駅-(Taxi)→ホテル

昨日、武广高鐡广州北駅、南駅とも、在来線の遠方駅で乗車する切符を売っていませんでした。中国鉄路主要駅では、全国の乗車切符を購入する事ができますが、できない駅もあります。武广高鐡新駅では、まだ対応できていないようです。仕方がないので、窓口に長蛇の列が続く昼間は避けて、夜に在来線の広州東駅へ行きました。

空いているかと思いきや、学生集団が列をなしていました。しかし、グループが多く、切符を買うのは、その内の数名で、約15分で、窓口に着けました。
武漢駅から先の予定は、今年2月6日開業した、第3の中国版新幹線、鄭西高速鉄道の初乗車です。武漢駅から始発終点駅の郑州駅へは、約4時間で向かう在来線CRHが走っています。

武漢には、他に武昌駅、武口駅と、3つの大きな乗車駅がありますので、CRH列車の空席を聞きましたが、全部満席です。時間帯があう他の列車も満席です。やはり、春節時の切符確保は、難しいです。
急遽、予定を変更。芭石鉄道へ先に行く事にして、インターネットで残席を確認できていた成都までの特快夜行寝台を購入しました。その後の予定は、後で考える事にしました。


▲ 多分、中国鉄路駅では、一番広大な駅です。ホームも多ければコンコースも広い!空港と変わらないスケールです。その代り、市内からは、遠い、遠い!

広州の朝は、飲茶で始まります。ホテル近くの食堂で、飲茶を堪能した後、昨日の逆コースで広州南駅に向かいました。地下鉄は編成車両が少ない事もあって、乗車率250%以上です。1号線から3号線と乗り換えて、漢渓長隆駅に着きました。ここで、地上に上がって、バスで広州南駅に向かいます。直ぐにバスは来ましたが、スムーズに行っても、ホテルからは、約1時間半は、かかります。

既に改札が始まっていましたので、急いで乗り込みました。期待した『はやて』のCRH2C型8両×2本の16両編成です。時速350km/h連続走行は、どんな具合かと期待しました。
ところが、発車時間を過ぎても一向に動きません。約20分後、ようやく車内アナウスがありましたが、全く分かりません。周りの乗客が立ち始めたので、おかしいなと思ったら、隣の席の中国人が、『換乗=乗り換え』と教えてくれました。

どうやら故障で、発車できなかったようです。川重さん、技術供与が上手くできていないようですよ。
他の乗客の後をついて、隣のホームに移動です。降りるのは、長いエスカレーターを乗車する時とは違って逆に下へ動かしてくれましたが、隣のホームへ行こうとすると、列車乗務員が下方向に荷物を降ろしていて、上りエスカは使えません。
たくさんの乗客が迷惑をしているのに、気を使おうとは一切しません。こんなところが、まだまだ、当然の事が出来ない発展途上国と言えます。重い荷物を持って、途中休憩しながら、長い階段を、上がりました。

乗車変更するのは、後に発車する定期列車、CRH3の8両×2の16両編成です。先ほどと同じ後方の、1等車に乗車しましたら、当然この列車の切符を持っている乗客が座っています。これは、困ったと乗務員に聞きますと、前の編成に行けと言います。中国鉄路では、切符を購入する際に、車両番号や席を指定できません。単純に、1両目の1番から順に売っていきます。

どうやら、アクセスも悪く、飛行機よりも料金が高く、故障が多いとの不評は本当だったようです。おかげで、半分も売れていなかったのですね。春節のこの時期で、ガラガラなら、普通の日は、もっとすごいでしょうね。多分、早々に、料金を下げたり、在来線を走る列車を間引きしたりして、乗せる作戦に出るでしょう。
▲ 始発駅からの1等車の乗客は、半分以下でした。そして、ご覧のように、2等車同様に窓とシートは、合っていませんので、丁度良い席に変わりました

発車して、しばらくすると、もう350km/h走行になりました。乗り心地は、どうかと言うと、気のせいかもしれませんが、京津城際鉄路の方が、揺れが少なく感じました。微妙にガタガタします。


沿線は、菜の花が満開で、殆ど山間を走行しますので、とても綺麗です。全線が、在来線とは違って、街中を走っていません。また、トンネルは、山陽新幹線並みに多くありますが、以外は、高架橋の連続で、日本のように高い防音壁がありませんので、車窓は抜群です。堪能できます。

途中で、マンゴウやお菓子の入った箱が配られました。トラブルがあった今日だけかもしれませんが、ジュース、コーヒー類も無料で、何度も注文できました。列車乗務員の服装やサービスは、よく教育できていて、好感が持てました。
▲ 食堂車で購入した昼ご飯です。お粥が5元、焼きそばが、15元で20元(約280円)。電子レンジで、チンでは美味しくありません。
▲ 14:15 G1036列車は、運休なったG1034列車が停車する駅に臨時停車したために、8分遅れで、武漢駅に到着しました。武漢まで乗車した1等車客は、私一人でした。

▲ CRH2Cも頑張っています。途中駅や武漢駅では、無事走行している姿が見えました。

武漢駅も新しく建造された立派な駅で、島式ホーム8本、片面ホーム2本、並行に18線が発着できるようになっていましたが、今は、中央部分のみの使用です。この鉄路は、郑州を通り北京までの延伸工事中です。
▲ 広州南駅と同様に、建設途上の武漢駅ですが、完成度は、こちらが早いようです。  

あと数年で、北京から香港までが、一直線に結ばれます。 Part3 へ続く

おしえて!なんでも探偵団5

これまた怪しげなDLです。

子供の頃の遊び場は京都駅山陰線ホームと梅小路機関区でした。学校から帰ると捨てられた不良フィルムをカメラに詰めていそいそと出かけていったものです。そこで来たもの、見たものを手当たり次第に撮るだけのことですがたまにはこんな珍品もかかることがありました。

DF411で、色は焦げ茶とオレンジという派手な、というか奇妙な色遣いだと感じたことを覚えています。さてこのDLはなんでしょうか?だれか教えて!

※霧が深い冬の日でかすんでいますがお許し下さい。

2010年 早春の中国一人旅 Part1 武广高鐡線へ

第1日目 2010年3月2日

①長岡京6:40(JR快速)→大阪・梅田(地下鉄)→なんば7:30(ラピート)→8:11関空
②関空
9:55(JAL)→13:35広州空港
③広州空港(Taxi)→14:35広州北駅16:12(武广高鐡)→16:35広州南駅

冬季オリンピックも終盤になり、ロミオ君のお送りも済みますと、そろそろ『旅へ行きたろう虫』が、騒ぎ出します。2月中に有効な、北京行きの無料航空券があったのですが、日頃の行いが悪いのか、当日朝まで待っても席が取れずあえなく、くず箱行きとなりました。
JAL便が満席で、当日もキャンセルがないなんて、こんな事は、初めてです。これが、始終続いていたら、破綻もなかったでしょうが・・・。

今年の春節は、2月14日でした。どうやら、春節休暇で帰国した駐在員や家族、訪日中国人団体客の帰国ラッシュと、ぶつかってしまったようです。
めげずに、直ぐに新たなマイレージ航空券を手配して、出発できる日を待ちました。3月2日のキャンセル待ちは、直ぐにOKの電話連絡がきました。
目指すは、芭石鉄道の撮影リベンジと、春節に向けて立て続けに開業した、中国版新幹線の武广高鐡鄭西高速鉄道の初乗車です。このため、着陸地は、最も近い広州としました。 続きを読む

お譲りします。

娘の友人からなにか怪しげなモノが届きました。

開けてみたら、コレ。電流計のようです。彼は鉄道ファンなのです。どこかで買ったのでしょう。でも飽きたのか持ち込んできたのだと思います。

でも私はコレクターではありませんので不要です。かといって捨てるのは失礼ですし鉄道機器を捨てるのには気が引けます。

そこでこれを見て「ほしい」と思われる方がいれば差し上げます。大事にしてください。

でもこれはなにに使っていたのでしょうね?教えてください。

鷹取工場のBタンク機

米手作市氏の誘いにすぐ乗って(こんな世捨て人暮らしでも結構忙しいのに、急ぎの仕事をほったらかして)、ネガを探し、スキャンし、「縮小専科」でファイルを小さくしている間に、「ほへほへ」氏のレスポンスがあって先を越されてしまった。二番煎じになるが、小生の1955年7月15日鷹取工場での写真をご笑覧に供する。

将来電化する積りでの社名で、1916年7月1日撫養(むや)-古川間を阿波電気軌道が開業。1923年池谷-加冶屋原、1928年ゑびす前-撫養と開業を続け、1926年5月10日には阿波鉄道と改称していた。1933年7月1日買収され阿波線に。その後撫養線、鳴門線と名称を変え、国鉄自体の建設線が加わるなど、この地区の時代による変遷は結構ややこしいが、その阿波鉄道7号機(コッペル1921年9月、製番9752)が前身である。

私鉄買収機には軸配置、重量・寸法等で数字の形式が与えられるのだが、頭に「ア」を付した不思議な形式番号が付された。この阿波7号機はア4となったが、元来12トン弱と軽便並みの小型機で、国鉄としてはこんな半端な小型機など眼中になく、線路がC12入線に耐えられるよう改修されるまでは仕方なく(嫌々)使った。

今村 潔「買収せる阿南鉄道」(鉄道趣味35号)には、阿波鉄道買収機には当初通常の形式番号を与える予定で、この機関車は80を予定していたことが記されている。数字が小さいことは即小型であることを示す。要はすぐ廃棄するつもりだったのであろう。

その後岡山機関庫で6検入換(6か月検査のため火を落とした機関車の移動)用に。我々の時代でも、奈良機関区には同じ役目でB20がおり、その以前は60型だった。

1936年5月廃車され、解体もされず鷹取工場構内で忘れ去られていた?が、同工場技能者養成所が教材として養成員の手で整備。新たにキャブやサイドタンクを新製して「若鷹号」と命名したものである。米手氏が不思議に思った、小さいが一人前、鳥の羽根型プレートには「鷹養」と鋳込んであり、サイドタンクには「鷹養実習機」のレタリングがある。

戦時中には復活してどこかで使う話もあったそうだが、結局は安治川口用品庫での入換ぐらいしか用途がなく、また鷹取に戻って放置を続けていたものである。

おしえて!なんでも探偵団4

謎の機関車は右端

謎の機関車は右端

 

古い写真の整理を続けているが不思議なものが写っていることに気づいた。

 時は1961年11月20日、場所は鷹取工場。母方の郷里へ往復するときにいつも車窓から眺めていた鷹取工場は不思議の国だった。いつも違った機関車や電車が並んでいたがどれも見たことがないものばかりだった。しかし列車は早く通過するためいつか見に行きたいとの思いが募るばかり。でも、その頃大阪より西は降りたことのない未開の土地で、言葉すら通じるのか不安であった。中学に入ってそこが神戸市の一角とわかり、もはや人食い土人の餌食になったり子捕りにさらわれることはないと確信したので出かけることにしたのだ。今なら大事になって夕方の6チャンネルで放送されるだろうが当時は鷹揚なもの、ホームから線路を横切って列車から見ていた金網に近づいた。早速おそるおそるカメラで撮った写真がこれからご覧に入れる数枚。

ED38とつながっている廃車蒸機がそれだ。233または238と読めるB6の後ろ、須磨の大老お得意の機関車ではないかと思われるがどうも鉄連の徽章がついているように見える。ぜひともご解説をお願いいたします。

お礼の印にそのとき撮った写真を添付します。

橋本工房便り(B6の完成)

冬の間も当工房では細々と作業が続けられ、長くかかったB6(2120型)がようやく完成しました。この模型は昔、鉄道模型社が発売していたエッチング板を利用したもので、ボイラー・車体はエッチング板、動輪・ロッド類・スチームドームはSANGOの製品を使用、台枠他を自作したものです。B6との付き合いは学生時代、宮沢模型製の2900型を手に入れたのが最初で、2両目として今回と同じ手法で2700型を作っていましたが、いずれも改造形式なので、オリジナルのB6が欲しくなり「3両目の正直」と思って作り始めたものです。しかし仕事についてからは思うように作業が進まず、長い眠りに就いていました。例によって未塗装ですが奮闘の跡をご覧下さい。

駆動方法は縦型モーター(DV18A)をキャブ内に入れ、第3動輪に入れたウオームギヤーを駆動する、この種の機関車としては一般的な方式です。狭軌車両を16番で作るとき、特に蒸機はシリンダの内側に動輪が入るため、シリンダ中心間隔を広げて作る必要があります。このために車体幅にまでその影響が及び、フロントビューの印象が実物とずいぶん違ってしまうのが残念なところです。

機番の2312号機ですが、学生時代にマツモト模型で貰った形式入りナンバーが綺麗に出来ていたので使用しただけで、当該機に拘りがあるわけではありません。須磨の大老のお言葉を借りればそれこそ「掃いて捨てるほど」あった機関車なので、滅多に写真集なんかに載ってはいないだろうとタカをくくっていたら、見事、NEKOのRM LIBRARY 「B6回顧録」の表紙に写っていました。

工房便り、次回はいよいよD50の登場です。

カラフルDC-加太編(3)

l       鉄道車両の塗装  
 明治4年の鉄道開通時から、鉄道車両の塗装は施されていたようです。よく目にするのが、黒の蒸気機関車に赤のラインなど、焦げ茶か黒の木製客車に赤い帯や模様塗りなどです。カラー写真を目にしたことが少ないのですが、その後も鉄道車両、殊に官設鉄道車両の塗装は、黒系が多く、機関車や貨車は黒に限られ、客車はぶどう色塗装で赤・青・白帯が目立ちました。黒以外なら、戦前では特急つばめの客車に淡緑色塗装、阪神間のモハ52系に茶とクリームのツートンカラー塗装があったくらいでしょうか。(官設以外なら、明治時代から鮮やかな塗装の東京馬車鉄道などはありましたが)本格的な車両のカラー化は、戦後しばらく経った頃、湘南電車、気動車で始まったようです。
 

 車体の塗装目的は、当然のことながら、防錆、耐水、耐油性等の耐性付与です。乗客の便宜上や、美観目的などは、殊に戦前ではほとんど考えられていなかったようです。また、非「車社会」ですから、接近する列車を時間的に早い段階から認識する必要性も少なく、目立ちやすい色を車体に塗装するいわゆる安全性に配慮の必要性もなかったようです。
 
 それが、戦災日本の復興と共に、カラー塗装化が一気に始まりました。物の本(『国鉄電車のあゆみ』、『電車のアルバム』など)では、1949(昭和24)年に復活した京阪神間の流電が最初とか。ブルーの濃淡塗り分けだそうですが、カラー写真を見たことはありません(その前年、モハ52系が高速試運転の時、グリーンに塗られた車両をどこかで見た記憶がありますが)。関東地区では同年、モハ32系の塗り見本電車が現れたようです。先頭車両が二系統色に塗り分けられました。前面と側面が一対で片方に湘南色、片方がスカ線色でした。塗り分けの塗り分けですから、一車両に合計4色が塗られていたことになります。暗い戦後の払拭を望む人々に通じたのだろう、これが本格的な車両カラー化の先駆となり、翌1950(昭和25)年1月横須賀線にスカ線色、3月東海道線に湘南色電車が走り始めました。

 
 一方、気動車(ガソリンカー、ディーゼルカー)はどのようだったでしょうか。川上幸義著『新日本鉄道史』によると、1935(昭和10)年、キハ42000の鮮紅色、のちの青色と灰青色の塗り分けが最初だそうです。戦後1950DCの運用が再開され、1952年湘南型の正面を持つキハ44000系が誕生し、DC化時代の幕開けとなりました。この時の塗装は上記青色と灰青色の塗り分けだったようです。DCはその後も『旧一般色』と呼ばれた青色と黄褐色の塗り分けに、屋根は青灰色でした。そして1959年、我々に馴染みの『新一般色』が誕生。クリーム色4号と朱色4号のキハ11系。クリーム色2号の地に赤2号の準急用キハ55系や51系などです。(この項、星 晃「国鉄車両の色」、鉄道ジャーナル461号、 20053月 を参照)

 
 このあたりからは説明不要でしょう。その後のカラフル時代は電車、客車、機関車、DCを問わずすさまじいばかりです。車体塗装の色分けには、ご存知もう一つの目的、乗客向け用の利用路線の見分けがありました。最初の頃はその目的も達成されたでしょうが、最近は複雑で戸惑うばかりです。

 
 近年、不景気も手伝い、さすがにある程度統一をとか、JR別に色分けしようとかの動きが新聞発表や当デジタル青信号にも掲載されていました。それも結構ですが、ある程度は適度な色彩感覚も持っていただきたいですね。レンガ色の一色塗装など、けばけばしい色使いで周囲の風景とマッチもせず、飛びぬけたような色使いはあまり感心しません。
 
  

 加太を通過したDC群は、カラー化時代の初期の頃でした。そして穏やかでのんびりとした周囲の山々や、人々の大切な田圃や畑ともよくマッチしていました。蒸気機関車の牽く列車と共に、DC列車の通過を見ているだけで我々には生命の洗濯となったものでした。

16.714D急行『平安1、志摩2、くまの』、なんと11連。空も山々も初夏の様子です。

17.338D、初夏の田畑はまもなく夕方です。

 
18.712D、田んぼに水が引かれ、幼苗も育っていて田植えが近いようです。


19.
加太トンネルの上から、眺めた中在家信号所。左が332D、信号所をノンストップで下ります。右は333Dで待避中、この後一旦、山すその引込み線に後進、再び前進して本線に戻り加太トンネルに向け坂を上ります。柘植では草津行きと湊町行きに分かれます。


20.213D急行「かすが2号」キハ55、キロハ25、キハ58など。山々はすっかり緑です。

江若鉄道白鬚駅復元工事の近況

白鬚駅復元1

白鬚駅復元1

高島町に続いて白鬚駅復元工事に着工しておりますが、3ブロックの基板は出来上がり、レールのスパイクが始められるところまできました。不安だった湖岸の擁壁も何とか格好になり、案ずるより生むが易しといったところです。いつもラジオを聴きながら作業しているのですが、今日は朝から津波警報のニュースばかりで、湖岸の作業をしていると 早く避難しなければならないような錯覚に陥りました。先は長いのですが、ぼちぼち進めてゆきます。それにしても松の木をどのように作ろうかと名案がありません。ゆっくり悩むことにします。では1カットだけ写真を添付します。白鬚駅の北側、湯口先輩著「丹波の煙 伊勢の径 上巻」の表紙を飾る写真の場所がこのブロックです。

奥山さんのC6120が掲載されました

 月刊誌『とれいん』423号(20103月)に奥山さんのC6120が大きく掲載されました。一ノ関を出発する上り列車です。

 奥山さんのフィルムと写真を預かり、早速にC6120を捜しましたら、3枚ありました。内2枚が一ノ関、他の1枚がここに掲載の青森駅到着の写真です。なんと3枚とも機関区以外の写真でした。いずれも完璧な写真です。また、同誌には当会3会員の写真も掲載されており、OB会が
大活躍です。

 
 
OB会第1回の写真展と今回の掲載とで、当会会員は勿論全国のファンも、「奥山さんの写真を見たことがある」となった筈です。

 
 そして近日中に、『奥山さんの機関区めぐり』が
web に登場予定です。フィルムもL版も完璧な姿で保存されています。どうかご期待ください。

阪急 HM満載

既に、総本家 青信号特派員さんよりご紹介があったように、6300系にHMが付いて、最後の雄姿を見せています。家に近いこともあって、連日、愛用の電チャリで撮影に励みました。HMは、6300系以外にも付けて走行していますので、あらためてご紹介させていただきます。

阪急電鉄 100周年記念号   桂→西京極
摂津市駅 2010年3月14日開業記念号  西院→西京極

本命の6350ありがとう号  大山崎→長岡天神

長岡天神→西向日

上牧→高槻市

長岡天神→大山崎

ちなみに、3月14日時刻改正で、京都線の最高速度が、110km/h→115km/hにスピードアップされて、若干ですが、時間短縮が図られます。この運行表も、相川~東向日は、最高速度『115』に、代わります。
http://holdings.hankyu.co.jp/ir/data/ER200912092N1.pdf

通過列車への運行変更指示

1956年10月15日の参宮線大事故に関し、急行や準急など、通過する列車の乗務員に対して離合駅変更等の運行変更の指示はどうするのか、に関してメールを頂戴した。時間の余裕があれば通過駅で交換するタブレットのキャリアに変更指示書をつけて乗務員に知らせることもあろうが、間に合わなければ=大概は地上の信号機のみのこと。成程なるほど。

無線があろうとなかろうと、機関士、助手とも、信号機を必ず確認するのが建前なのだが、六軒駅は本来離合する松阪駅の隣りである。11分遅れてはいたが、まさか離合駅が一つ前の六軒駅に変更されていたとは思っていなかった―離合駅変更を乗務員は知らなかったわけで、信号機以外の手段がなく、それを無視した結果だったのである。無線のある現在なら、少なくとも事前に運行指令の変更指示が届くから、かような事故の発生率は希少になる。

亀山の参宮線事故機

米手作市氏が亀山で参宮線事故機を撮られたのが1963年3月とのことで、小生は1957年3月だから、6年前になる。早けりゃいいというもんじゃないが、折角の機会だから小生の分も諸賢の御目を汚すことにする。なお事故のあらましは、以下鉄道ピクトリアル65号(1956年12月)から引用する。

参宮線で不祥事故
10月15日18時22分、国鉄参宮線六軒駅において、準客243列車(本務C51203亀山、補機C51101亀山)が11分延で同駅進入に際し、下り安全側線に突入本線機及び次位補機は築堤したの田甫内に転落脱線傾斜、つづく1・2両目客車は全軸脱線横転本線を支障中、折柄松阪を定発した準客246列車(本務C57110山田、補機C51172亀山)がこれに接触し本務機及び次位補機とも全軸脱線し、これがために死者40重傷56死傷者計107名を出すという不祥事故が発生して世人の耳目を聳動(湯口注しょうどう=恐れ驚かす)した。

(中略)いままで判明した点は、243列車が遅延のため対向246列車と行きちがいを変更して六軒駅(所定は松阪駅)とし臨時停車の扱いをしたところ、243列車の機関士が出発信号機を見誤(場内信号機は上下共「進行」現示)ったのではないかと推定されている。243列車が脱線してから246列車の進入までにわずか45秒であるために列車防護の時間はなかったもので、246列車としてはやむを得ないとしても、243列車の4人の乗務員が大切な信号を見落としたという結果になると、事柄はきわめて重大である。(後略)

離合個所変更の通知を機関士にどう伝えたのかが分からないが、無線などありえない時代だから、例えば通過駅で駅長から錘にくるんだ通信文を機関室に投げ込む、といった原始的な連絡方法だったのかもしれない。これは列車に急病人が出た際などに、車掌が通過駅に投げ下ろす方法で、車掌のカバンにはこの為の錘が入っていたのである。

C57110のぶっ潰れぶりが酷いが、それにしても車輪は4両とも、ちゃんとレールに乗っている。すなわち台枠はさして損傷がないことになる。




で、以下は全然事故と関係がないが、上記鉄道ピクトリアルの記事の最初のフレーズは、約270字がマルなしで延々と続いている。野坂昭如の文なら独特の芸術だが、こんな「へったら長い」文が雑誌に掲載されていたことにいささか驚く。なお小生はサラリーマン最初、かつ8年勤めた職場―広報課で、先輩から新聞記事(15字詰)では10行=150字がマルなし文の限度だと叩き込まれた。

最後の阪急6300特急 HM付きに

いよいよ終幕が近づいた阪急6300特急、乙訓の老人の予告どおり、本日の午後出庫運用から記念のヘッドマーク付きで登場しました。
いちばん近くを走るイベント電車とあれば、好きにはなれない葬式鉄にあっさり宗旨替え、さっそく撮ってきました。
このご時世、電鉄側の異例の撮影のお願いが奏功したか、みんな安全に平和裏に撮影していました。

「ありがとう6350」のHMで本日夕方から走った特急編成

「通勤特急」の初運用 夕陽を受けて端正な前面が浮き上がった

長老と大老の挑発に乗るの巻

長老と大老が永年秘匿してきた機密書類の保存期間が解けたのか公開されたようだ。そのなかに鳥羽快速に関する供述があり、そこで小生の写真に関する箇所が出ている。それは昭和38年3月に亀山機関区で撮った、六軒事故の証拠物件機関車の写真である。いまなら考えもつかないことだが証拠品が雨ざらし日ざらしで駅の構内に留置されていたのである。恐ろしい事故の被害者たちの声が聞こえるようで身をすくめながら撮ったのを覚えている。

当時のことを知らないが長老や大老におかれてはどちらの機関車が突っ込んだのか、当時の状況をご解説いただければありがたく存じます。

(上)左側がC51172、右側がC51101 

(上)C51101のキャブ

(上)C51101(先輪はない)

(上)C51172キャブが(浮き上がっている)

長老あこがれのc51100のおいど。この日C51100は頭を機関庫に入れていたのでお尻を撮った。ナンバープレートとクロームメッキされたテンダー周りの上部縁がピカピカに光っていた。

山科電化当時の記憶(その4)


暖房車5輌を加えた牽引試験列車 もうD51やD52の姿はない 機関車の次位は試験車

先回の最後の写真はEF15が単機で走行しているが、やっと試験や試運転列車から蒸機が抜け、電機単独での試験走行が開始されたことを示す。暖房車を含む客車牽引での試験列車は1956年10月10日―電化開業が11月19日だから、約1か月前である。暖房車は前にも記したとおり、冬場以外用がなく失業中の上、適当に重量もあるというところから、電化の直前の試験列車には必ず登場した。

電車の試運転も始まった。モハ80系300台=窓枠がアルミサッシュになり、窓の四隅もRが付き、一段と斬新さがまばゆかった。


山科の大カーブに初めて姿を現した80系300台 

そして11月19日。二浪中で(表向き)撮影を自粛していた小生も、流石に京都駅に出かけた。生憎と薄く霧が立ち込め、その中に現れた電化最初の上り特急「つばめ」は、何と何と、EF58、客車とも草緑、屋根は銀色に塗られているではないか。現在と違い事前に情報も流れず、当然報道もなかったから、この色彩作戦には並みいる者すべてド肝を抜かれたといっていい。EF58には大阪と東京のマークをあしらった、記念のヘッドマークがついており、このマークはその後長らく神田の交通博物館に展示してあった。

霧の中にやたら明るい色の列車だから、現像したネガは真っ黒で、粒子がやたら荒れている。参集したファンはそれでも15人ぐらいはいたか。大方は顔見知りだったが。今なら考えられないのんびりムードではあった。

この後間もなく、この草緑色列車には「青大将」なるあだ名が付いた。


電化完成の記念乗車券と準急行券