こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑫

 “散歩鉄”で  電機を撮る (1)

5087レが近所を通過するのは14時前後、ちょうど昼食後の腹ごなしに格好の列車だ。しかも貴重なEF65が牽くとあって、昼前の天気予報と“貨物ちゃんねる”の牽引機チェックが日課となった。山崎~長岡京

少し前までの外出自粛の期間、日課となったひとつが“散歩”でした。最初は家の周囲を黙々と歩くだけでしたが、同じ歩くなら、趣味活動も兼ねた散歩にしたいと、近所の東海道本線まで行って、撮影もすることにしました。ターゲットは電気機関車です。この時期ですからイベント列車こそ走りませんが、通常の混載コンテナを牽く貨物は運休もなく走っており、専用コンテナ列車や、レール運搬、新車の輸送など、電機の牽く列車は多彩です。
さすがは天下の東海道本線、時間帯によっては、1時間もいれば、お腹いっぱいになるほど多くの電機を撮ることができて、散歩途中の撮影としては最適な対象です。基本的に歩いて写すか、入場券を買ってホームで撮るか、乗車しても最低運賃の範囲内で撮影するかのいずれかで、この一ヵ月前後の東海道線の電機の現況を綴っていきます。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区 (2)  C57

人吉には、もうひとつ注目すべきC57がいました。前記のように、肥薩線の人吉~八代、球磨川に沿った“川線”と通称される線区で、旅客、一部の貨物も牽いていました。“美しき南九州のパシフィック”などと賞賛されるC57です。その両数においても宮崎区のC57を指す言葉でしょうが、その影に隠れて、黙々と客貨を牽いていた人吉区のC57のほうに、愛着を感じていました。昭和45年時点で、7両いたC57ですが、砲金製の区名板、手入れの行き届いた機体、そして、番号ごとに個体差があって、“何番”と言うとすぐに姿が思い浮かぶのもC57の良さでした。八代~人吉は昭和48年3月改正でDL化が完了し、C57は撤退しています。

夜行鈍行1121レをC57 9が牽いて一勝地で交換列車を待つ。ひと桁ナンバーのC57は貴重で、特に憧れを持った。門司港区の時代は「かもめ」も牽いた。昭和44年3月

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私が撮った阪急今津線の車両(5)

オートカー(人工頭脳電車)と言われた当時の神戸線2000、宝塚線2100、京都線2300(2800)系は当時のエース的車両であったが、今津線ではいずれの車両も撮ったことがない。また、これらの車両は今日に至る新鋭車両まで基本的に同じようなスタイルが継承されおりそれだけ完成された車両であると思うが、画一的で面白みに欠ける。ファンというのは勝手なもので変化を好み多種多様な車両を好む傾向がある。そういう意味で2000系あたりからの車両は興味が薄れる。

さて、2000、2100を撮っていないとなると次は3000系である。最近まで現役であったことはかなり長生きした車両と思う。昇圧即応車として1964年から114両製造された。電動車の出力は170Kw×4。

 

2010.03.27 仁川駅は駅の横が川である。表示幕と尾灯、標識灯改造前で当時、行先板を付けた車両が残っていて話題になった頃である。仁川始発の西宮北口行き3058▼

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑲

人吉機関区 (1)

《区名板》シリーズの象徴のような機関区です。「人」の文字から、「蒸機は、もっとも人間に近い機械」の常套句を思い出し、何とも暗示的です。しかも実際に区名板を見ると、通常は鉄板にペンキ書きに対して、人吉区のものは、大部分が砲金製の特注で、しかも、書体は、隅丸ゴシックの国鉄書体ではなく、楷書体であり、その品格が、より強く感じられます。この砲金製は、鹿児島工場へ入場の際に取付けられたもので、近隣の鹿児島、吉松、宮崎でも見られますが、「人」だけに、そのインパクトは他区の比ではありません。金文字の「人」を付けた蒸機の顔ぶれも、肥薩線という特徴ある線形に適した、手入れの行き届いた、独自の蒸機ばかりでした。

人吉駅で発車を待つ589レ 牽くのは「人」のD51 545 人吉のD51は、重装備の蒸機の代表でもあった。昭和45年9月 

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昭和の電車 改訂版(87)ー淡路交通モハニ2007ー

参考資料

昭和の電車 改訂版(61)ー土佐電鉄クハニ2000型ー

土佐電鉄クハ2000、モハ1000

乙訓の長老様が撮られた写真の中に、モハニ2007と2008がありましたので掲載致します。ただし、関先生の記事にもあるように、三扉→二扉、2008は貫通扉を付けた最後の形に改造後です。撮影は昭和35年11月4日となっています。

それにしてもこんな地方の小私鉄が“気動車→電車”にしたり“貫通扉を付けたり、三扉→二扉”にしたりする大工事を自力でしていた事の方が驚きです。

モハニ2007

モハニ2008

私が撮った阪急今津線の車両(4)

前回の1000形の発展型量産タイプで1956(昭和31)年より神戸線1010系35両、宝塚線1100系51両が製造された。両型式とも今津線での撮影が少なく1984.04.01小林駅の1112くらいしか記録がない。2扉車や3扉車が混在したが最終的には前照灯が2灯化され、全車3扉に統一され、1010系と1100系の違いはほとんど同じで見分けがつかなかった。▼

 

 

京都線の1600系と同じ考え方で神宝線の1010・1100形式と同じ車体に旧型車の台車、部品を流用。最終的には台車は900・920形、電気品は600形を流用したとあるが、この時代の阪急のタライまわしは難しくて理解しがたい。1200系は1956(昭和31年)から20両製造されたがその一生はほとんど宝塚線で過ごしたと言っても過言ではない。1978年3月18日門戸厄神-西宮北口間の撮影で行先板には仁川-西宮北口とあり、これも競馬開催時の臨時電車と思われる。▼

 

アロハ特急385へのご質問にお答えする・関三平先生より

先日の「アロハ特急」に関して、皆様からご質問が来ておりましたので、関先生へ回答をお願いしていましたところ、お手紙にてご連絡頂きました。

前回投稿文

昭和の電車 改訂版(80)ー阪急電鉄802号+852号ー

全文書き写してご覧頂きます。

『阪急のアロハ塗装につきまして。
阪急は、昭和23年に京都線用(実質支線専用)の700型+750型MTc編成5本、701+751~705+755を新造。続く24年に神戸線用として同じく700型+750型MTc編成5本700+750~704+754を製造。当時はまだ(現・京阪電鉄を含む)阪急の時代でしたが、近鉄などと違って車番のダブりなどは気にしていなかったようです。(京阪本線にも700型が存在したわけだし・・)

さて、阪急が京阪電鉄との合併を解消する際、新京阪線は阪急に残留(乗っ取られたとの説も・・)、新京阪線と京阪線はライバルの関係になります。「元新京阪線は(今や)阪急の物である」とアピールするために、解消直前に京都・神戸直通の特急運転が始まり、これに当てられたのが神戸線の702+752、703+753の二編成でした。
完全複電圧、二個モーターのMM編成に改造され、1500Vの京都線では神戸線の750/600倍のパワーに上がるわけで、120㎞/hを越える高速運転となり、時間が余りすぎて困った、とも言われています。

そして昭和25年に西宮北口で「アメリカ博覧会」が催され、その宣伝のためにアロハ塗装をされたもので、京都線の700系と紛らわしいと言うわけで、この機に800+850~804+854と改番されました。(この時期、京都線系の500→1500、550→1550、300→1300等の改番も実施されています。それでも、まだダブり番号は残りました)
かくて、802+852、803+853の二編成は「アロハ特急」として語り伝えられる存在となりましたが、実は他にも「アメリカ博」塗装をされた車が四両ありました。その一両が今回写真を載せられた宝塚線の385号です。そして京都線用には、戦後阪急唯一のクロスシート車となっていた、元フキ(貴賓車)の1500号が選ばれ、この二両は全く同じ黄色と茶色塗り分けで、端部塗り分けデザインも同じでした。
そして、あと二両が神戸線用の801+851の編成。使う色は802号などと同じですが、全くの逆配色になっていました。即ち、薄いブルー基調で、帯などが黄色というもので、802等に比べるとおとなしいというか、淋しい感じを与えるものでした。
この二両は「アメリカ博」の会場横を通り抜ける今津線に専ら使われたようで、梅田や神戸にはあまり顔を見せなかったようです。こちらは従来通りの600V専用車のままでした。梅田などに姿を見せなかったせいか、あまり存在を知られておらず、現在阪急の語り部の第一人者とも言うべき篠原丞さんも存在を半信半疑で、私に証言を求められたぐらいです。

以上の八両が「アメリカ博」がらみの特装車ですが、その室内について一寸書き加えますと・・・。
マスコミ等へのアピールのためか、852号(?)がベッドみたいに寝そべることの出来るデラックスなリクライニングシートや、ソファ、テーブル等を置いた豪華なインテリアとされた残されています。ただし本営業には使われなかったようで、私もみたことはありません。ただ内装壁面などにいかにも戦後派らしく、迷彩模様のようなベニヤ板張りで、阪急としては最低クラスのものでした。その点385号は戦前の阪急+川崎デザインの重厚な全鋼車内でしたし、1500号は私鉄界貴賓車の最高峰とも言われた造作の車内にクロスシートをつけたものでしたから、乗る側にとっては最高の車でした。

以上、ラフですが、取りあえずお返事まで。草々
関三平拝』

四半世紀ぶりにタイに行った(その5)

▲特急46列車パダンプザール駅入線

(再びバンコクへ戻る)

17時にパダンプザールを発車するバンコク行きの特急寝台の46列車に乗る。この列車は、別のタイ・マレーシア国境の町スンガイコーロクを14時20分に発車する38列車とハジャイ(ハートヤイジャンクション)で併合し、バンコクには10時10分に着く。いわば、かつての特急さくらが肥前山口で分割併合し、長崎行きと佐世保行きの二手に分かれていたようなものである。今なら関西空港を出た関空快速と和歌山を出た紀州路快速が日根野で併合し大阪京橋をめざすようなものだが、19時間近く走る長距離寝台特急のスケール感とは印象が異なる。 続きを読む

私が撮った阪急今津線の車両(3)

京都線710形と神宝線810形は異なる両線の車両を統一規格にしたことで有名である。再度ややこしい話をすると京都線710形のトップナンバーは711号で710号は700形である。神宝線のトップナンバーは0から始まるので810形のトップナンバーは当然810である。ナンバーを神宝線にあわせたのは5300系からである。阪急統一規格のそれ以降の車長は19mで810形はその先陣を切って今日まで続いている。製造は昭和25(1950)年で710形共々新性能電車への過度期の車両でいろいろ試行錯誤している点で興味深い。前照灯が大きく窓も900・920形、800形に比べて縦長で大きくなり私の最も好きなスタイルであった。最初の810~813(Mc)、861~863(Tc)の8両はクロスシートであり複電圧車であったが、どういう訳か運用の都合で今津線にまぎれこんできたことがある。深々としたシートにランドセル姿で乗ったことがある。当然2連であった。残念なのは台車がKS33イコライザーであったことである。814以降も細部等変更があったが台車がゲルリッツ式FS103になり乗り心地がよさそうで全体のスタイルはこちらの方が上と考えた。しかし、ロングシート車である。晩年には3扉化し前照灯のシールドビーム2個ライト化で男前を落としたのは残念である。出力は140kw×4、170Kw×4ともありよくわからないがいずれにしても大出力のMT編成であった。

 

1969.03.04 仁川 雪の日の宝塚行き後部810 ロングシート化されて年月が経つが均整の取れたスタイルはそのままである。▼

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客車廃車体訪問記 内地編70 兵庫県-3

【ブルートレインキャンプ場】 34.810668, 135.297039 2013年1月5日撮影
ナハネ20 239
ナハネフ22 25
高校2年の遠足が蓬萊峡だった。クラスの誰が発案したのか知らないが、宝塚駅から往復徒歩で文字通り「遠足」であったが、不思議と文句をいう奴や落伍した奴はいなかった。先年の福知山線廃線跡ハイクで大多田橋を通ったが、そこからの道路に歩道がないので現在はとても危険で不可能であろう。
このキャンプ場は蓬萊峡の近くで、県道51号のヘアピンカーブ付近に阪急バス「座頭谷」停留所があるが、これ以外にここにやって来る手段はなさそうである。客車以外に貨車が多数いて、車掌車なのに「ハワム583422」(書体は本格的である)と標記してあったり意図が不明なものもある。
最近キャンプ場をGoogleマップで見ると、上の画像2両のうち右のナハネフ22 25がいなくなっているように見える。
◆ナハネ20 239(1968年新製 日車)→1998年廃車
◆ナハネフ22 25(1963年新製 日車)→1998年廃車
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私が撮った阪急今津線の車両(2)

前回は車長15m級の小型車を発表したが、宝塚線用に戦後新造した運輸省規格型の半鋼製550形16両は今津線では見たことがないので割愛した。今回は車長17m級の600形、900・920形である。なお、800形(当初700形)14両も今津線での写真はないので同じく割愛した。

まず600形は1926(大正15年)川崎造船製の3扉全鋼製車で各地にこのスタイルが採用された。当初神戸線でMcが600形、Tcが800形で18両あり、一部クロスシート化されたりその後機器の変更など複雑な変遷をたどっているが、私が自覚したのは宝塚線での姿で今津線は晩年の活躍である。さらに伊丹線では大きさもスタイルも全く異なる610形と組んだ姿には驚いたものだ。

1968.11.19小林-仁川間 今津行き600▼

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四半世紀ぶりにタイに行った(その4)

(ペナン島からタイ国境の町パダンプザールへ)

▲コタバルの街並み

 

2月5日、タイからマレーシアに入り、東海岸近くのコタバルに着く。コタバルは、1941年の開戦時、真珠湾攻撃とほぼ同時に日本陸軍が上陸し、侵攻を開始した地点である。24年前の1996年、ペナン島からバターワースに渡り、夜行バスに乗ってコタバルに着いたが、今回はその逆である。コタバルは、イスラム教色の強いマレーシアの中でもとりわけ目立つところであり、カラフルなヒジャブを被った女性が行きかい、モスクの尖塔も目立つ。 続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑱

吉松機関区 (2)

吉松には、前回のC55以外にも、C56、D51が配置されていました。C56は、栗野から分岐する山野線の貨物を牽引、D51は吉都線の客貨の牽引でした。付近では、矢岳越えの重装備のD51が有名でしたが、これは人吉区のD51が担当しており、吉松のD51が矢岳越えをすることはありませんでした。

蒸機の時代が終わってから、何度か吉松を経由することがありましたが、列車の接続が良すぎて、ホームで1分接続で乗り換えるため、途中下車すらできずに、50年近くが経過しました。しかし、2年ほど前に、待望の乗り換え時間が発生し、やっと下車して、機関区跡や駅前をゆっくり歩くことができました。機関区の跡は、広大な空き地となり、煙と人が渦巻いていた駅前は、静かな山里に還っていました。駅前に保存展示してあったC55 52は、国鉄OBの手でキレイに整備されて展示されているのが、慰めになりました。

機関区は駅の横にあって、広くて、ゆったりした構内だった。ホームからも蒸機の動きがよく見えた。 続きを読む

私が撮った阪急今津線の車両(1)

小学校1年の時から阪急今津線を通学利用していたので私なりに車両や若干の風景を発表したい。神戸線に比べて今津線は車両が小さくスピードがなく面白みに欠けていて趣味的に記録することはなかった。もっともカメラも持っていなかった。今津線は神戸線(梅田-神戸上筒井間)開通の翌1921(大正10)年9月に西宮北口ー宝塚間が西宝線として開通、有名なダイヤモンドクロシングは1926(大正15)年12月にでき、線名も今津線と改称されている。1型、40型、51型などが様々な姿で走っていたであろうが私が確実に覚えているのは500+300+500の3連あたりからである。その後、車両編成増に伴い今津寄りに320や380を連結した4~5連の時代が長く続いたように思う。

384を今津寄りにつけた宝塚行きの後部。380は320に続いて作られた両運車で丁度神戸線の900を小型にしたような感じで320にはリベットがあったが380は溶接技術の進歩によりリベットも少なくややすっきり見えた。385はアメリカ博塗装になったことがあるのは最近のデジ青で宮崎さんが発表されたとおりである。連合軍専用車になった車両もあるが私には知るすべもない。阪急最晩年は今津寄りに連結されていた。

1965.03.19 仁川-小林間 宝塚行き最後部384▼

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四半世紀ぶりにタイに行った(その3)

▲メコン川を列車で渡る

(ラオス)
1995年の夏、今回と同じようにノーンカーイまで寝台特急に乗り、ラオスの首都ビエンチャンをめざしていた。「いた」というのは結果としてビエンチャン入りが果たせなかったのである。当時はノーンカーイの旅行代理店というよりブローカー?を通して、ラオス入りのビザを取得し、タクシーかトゥクトゥクに乗ってメコン川に架かる友好橋を通ってラオス入りを果たす計画だったのだが、ノーンカーイでいつまで経ってもビザを取る目途が立たず、泣く泣く諦め、バスで長駆、タイ南東、カンボジアに近いウボンラチャターニーまで行き、緑濃い中をトヨペットコロナのタクシーで回ったのだが、これはこれで思い出深い旅行となった。恐らく1960年代製と思われるかみそりのコロナは窓が破れ、シートも底つきを起こしていて何とか前へ走るという状態だった。あれから四半世紀経ち、ぱっと見でも20年も前の古い車は走っていない。最近の日本製だけでなく韓国のヒュンダイやデーウも結構走っている。経済成長の証左とも言えるだろう。 続きを読む

 やっぱり蒸機が好き!  《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑰

吉松機関区

九州の機関区巡り、鹿児島本線を南下してきましたが、これまで「鳥」「熊」「鹿」と意味ありげな札が続きました。これから鹿児島・宮崎を北上し、「吉」「人」「宮」と、また由緒正しき機関区を回っていくことになります。肥薩線にある吉松、吉都線も分岐する吉松は、街そのものは小さな街ですが、海岸周りの現在の鹿児島本線よりも先に肥薩線が開通し、九州の鉄道の要衝としての歴史を歩んできました。
“蒸機”という乗り物を意識した昭和30年代の後半に、いちばん憧れたのはC51でした。昭和39年の車両配置表を見ると、14両が残っていて、配置されていたのは、吉松をはじめ、新津、亀山、梅小路、米子、鳥栖と、蒸機とともに歩んできた、名だたる機関区ばかりでした。以後、吉松は憧れの地となりました。初めて訪れた昭和42年に、もうC51はいませんでしたが、C55、C56、D51が配置されていて、矢岳越えを終えた、人吉区の重装備のD51も休む区として有名でした。明治時代に建設された、山越えルートの鹿児島本線(のちの肥薩線)をトレースして走る伝統の夜行鈍行1121レは、吉松で向きを変え、都城へ向けて最後のコースを走る。先頭に立ったのは、流線型改造のC55 26だった。 続きを読む

四半世紀ぶりにタイに行った(その2)

(ホワランポーンから寝台車に乗る)
ホワランポーンからは2月1日の夜、寝台列車の乗るので、いったん出てもう一つのバンコクのターミナルであるウォンウィエンヤイ駅まで行き、メークロン線に乗ることにする。また地下鉄からBTSウォンウィエンヤイまで行き、国鉄駅まで歩くのだが、何しろ暑い。タイは冬時期乾季にあたり、雨にあまり当たらないのはいいのだが、真夏そのもの、しかも都心の渋滞の横を排気ガスを吸いながら歩くので結構こたえる。しかもBTS駅の出口を間違ってしまったので、これでかなりのロスタイムとなってしまった。始発駅をゆっくり楽しむことも出来ず、駆け込み乗車で汗だくになったが何とか間にあった。▲今回は乗らなかった非冷房の2等座席車

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四半世紀ぶりにタイに行った(その1)

▲バンコクホワランポーン駅

 

昔ながらの客車の旅が好きだ。ここ暫く、日本では失われた客車列車を追って台湾に通ってきた。台湾の急行「莒光号」は、機関車けん引の客車列車の魅力を大いに味わえる存在だが、台湾には無いものが2つあった。寝台車と食堂車である。日本から比較的近いところで寝台車と食堂車が日常的に運行されているのは、中国かタイであろう。冬なら中国は寒く、かつては軟臥車(1等寝台)の指定券は入手し難かった。かといって硬臥車(2等寝台)は体を横たえることは出来るが、シーツなしのビニールレザー、カーテン無しの3段ベッドで、快適な寝台列車の旅を堪能できるかとは言い難い。筆者の主観かもしれない。中国の寝台車にはもう20年ほど乗っていないが、新幹線網が発達した今どうなっているのか。判らないので中国行きは今回、見送ることにしたのだが、これが奏功した。 続きを読む

 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑪

京福嵐山線、夕方の「車折神社」、駅の赤い柵、神社の木々、背後の愛宕山、そんなシーナリーが好きで何度が定点撮影しているが、当たり前の風景のなかに、人が戻ってくると、鉄道はさらに活き活きとしてくる。
前稿でも記しましたが、この時期は、日没の方位が300度ほどあって、太陽が北側から射し込みます。と言うことは、通常は逆光の場合も、半逆光で陰影のある写真も期待できます。形式写真で高名な鉄道写真家は、各部に光が回るためには、時間帯だけでなく、季節も熟慮して、機関区で撮影を行なったと聞きます。ほぼ東西に走っている嵐電は、この時期にしか撮れない写真もあるはずと、以前の撮影地に“復習”に出掛けました。

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津のD51499

D51499の話題が沸騰していました、米手さま、準特急様が、まだあるのか?と心配されており、三重県の住人としては早速調査すべきでしたが今となってしまいました。お二人様ご安心ください、D51499は津の偕楽園に鎮座されております。津へは何度か行ったことがあるのですが、D51が保存されているとはつゆ知らず、この前の記事で初めて知りました、恥を忍んで本日確認してきました。屋外に拘わらず非常に綺麗な状態で保存されています、常日頃の手入れが行き届いていると思われます。

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